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 誰かが持ち込んだ体育館のバレーボールを、教室の後方でリフティングしている音。時々リズムを崩しながら鳴るその音は、何かが爆ぜるような音に似ている。清香は椅子にまたがり、咲の机に頬杖をつきながら、それをぼんやりと眺めていた。圭司はリフティングを絶対にしくじる事がなく、ベルトが垂れ下がったズボンのポケットに両手を突っ込んだまま「ユウ」と声を振って、対面の優斗にボールが渡る。だらしなく腰まで下げたズボンの裾が邪魔をして、爆ぜる音がくぐもった音に変わった。優斗が三回リフトさせたボールは、四回目には窓の外に放り出される。教室の一角、それは清香も含まれた窓際の一角から、どっと笑いが起こる。
 窓の下を覗き込んだ秀雄が「誰にもぶつかってないっぽいけど、池ポチャでーす」と振り向いて言うと、また笑いが起こる。

 高校二年に入り、クラスが替わった。部活動に所属している清香は、クラス内に特定の友達がいなくても、朝も夕方も土曜も日曜も、部活動にいそしむ訳で、これといって不都合はなかった。しかし、時間が経つに連れて、少しずつクラス内がいくつかのグループに割れ、いつの間にか清香は、咲、留美、幸恵と過ごす事が増えた。
 そして学年でも目立つ不良生徒と認識されている雅樹、優斗の二人と圭司、秀雄ともつるむようになっていた。八人の大所帯だ。
 清香にとってそれは楽しい毎日を送るためのエッセンスでもあり、時に戸惑う原因にもなり得た。

 中学時代、圭司とは何度か話した事があった。清香が転校してきてすぐ、部室棟の前で顔を合わせた時に「バレー部に入ったんだね」と話し掛けられたのが初めてだったと記憶している。まだ同級生の顔なんて見分けがつかなかった頃だったため、清香にとって深く印象に刻まれた出来事だった。そこからだろうか、清香はグラウンドの隅にあるバレーボールコートからいつも、サッカー部の動きを見ていた。白いTシャツが真っ白な日はなく、薄汚れたTシャツを着た圭司はいつも走っていて、声を出していて、指を指していて、汗をかいていた。休憩時間でも目は常に、圭司を探し、追っていた。清香の家と圭司の家は同じ区画に建っているから、道端で時々見かける事もあった。その度に、どう反応したら良いのか迷った挙げ句、路地に入り込んで遣り過ごしていた。
 ずっと気になっていた。もっと話したい。もっと知りたい。そう思っていた。高校二年の今、一緒につるんでいる癖に、話し掛ける切欠が掴めずにいる清香は、歯痒くて仕方がない。
「さすが圭司だね。リフティングうまいねー。それに引き換え優斗はださいねー。腰パンだし。バカだし。金髪だし」
 咲が容赦ない言葉を浴びせると、優斗はそれを聞きつけ、長い脚で咲の机を蹴りにきた。
 咲はキャッキャと笑いながら優斗を手の平で追い払い、ひと呼吸置くと「でもさ」と口を開く。
「優斗と清水先輩、仲がいいから、優斗がこの前口利きしてくれてね、清水先輩と二人っきりでちょっと喋っちゃったんだよねー」
 嬉しそうに顔を緩ませる咲は、一緒に過ごすようになってから毎日のように「清水先輩」の話をする。今の所は絶賛片思い中。清水先輩は清香から見て、見た目はイケメンと言われる部類だし、背も高いし、スポーツもできて優しそうで。そんな先輩と咲が、うまくいけばいいなぁとは思っている。しかし一方で、部活や委員会等で親しくない限り、恋愛はそう簡単にうまくいくものではない、と清香は少し引いた目で様子を伺っている。
「先輩、何だって? 何の話したの?」
「初めは優斗の話をちょっとして、それから先輩の好きな食べ物の話とかサッカーの話とか? 何か中学生みたいだよね。でもすっごい嬉しかったぁ」
 両頬を挟み込みながら顔を傾げる咲を見て「よかったねぇ」と声を掛け清香は、咲の机にあったシャーペンをせわしなくカチカチ鳴らす。
「今度の球技大会が楽しみだなー。清水先輩、バスケに出るんだって!」
 自分にとっては何の得にもならない話に清香は申し訳程度にぼんやりと耳を傾けながら、そういえば圭司もバスケだったっけな、と球技大会のチーム編成が書かれた紙に目を遣る。
 この高校にはサッカー部がない。優斗と清水先輩は、同じ中学で同じサッカー部だった縁で今も仲が良い。圭司と優斗は学校は違えど、よく合同練習で顔を合わせていたらしく、今はつるむ仲だ。三人とも現在は部活動に所属していない。さらに言うと、つるんでいる八人組のうちで部活動に所属しているのは、清香だけだ。
「おい川辺、お前日直だよな」
 咲の机に近づいてきたのは圭司で、清香はわざとらしく映らないようにチーム編成表に目を落とす。
「そうだけど」
「俺ボール拾いに行ってくるから、授業始まったら先生に言っといて」
 そう咲に言うと、リノリウムを捻るような足音を残して教室から走り出て行った。
「優斗がしくじったんだから優斗に取りに行かせればいいのに。ねぇ」
 そう言う咲に「ねぇ」と返し、清香は優斗を手招きした。それに応じて近づいてきた優斗の頭を、手招きのまま一発、叩いた。イデッと声が上がる。
「お前が行け。何で圭司に取りに行かせるの」
 清香の言葉に優斗は金色の髪を撫でながら「圭司ってば俺には優しいからー」と仰々しく清香の顔を覗き込む。
 圭司に対する清香の気持ちを優斗は知っている。どうして発覚したのかは定かではない。だが不意に優斗が「お前、圭司の事好きだろ」と言い当てた。酷く動揺した清香は隠し通せる自信はなかったし、周囲には他に誰もいなかったから、肯定しながらも強く口止めをした。今の所は優斗と、女子三人しか知らない事なのだが、優斗は何かにつけて圭司をネタに清香をからかう。
 教師が入室してくると、優斗はへらへらしながら自席へ戻って行った。それから五分ほどして、びっしょり濡れたバレーボールをリフティングしながら圭司が教室に戻ってきた。教師は二言三言注意していたが、言葉は清香の脳に響く事なく通り抜ける。
 圭司がリフティングする度に、周りに飛び散る水しぶきが太陽光を反射する様に、清香は見とれていた。

 授業中、咲が背中をペンの先でつんつんと突いて、右の脇あたりからスッと手紙を渡される。メモ用紙が折り畳まれたその手紙を開くと、咲の丸っこい字が並んでいる。
「けーじとは、いつになったら話せるようになるの? 結構、気つかうんだけど!」
 シャーペンの背に顎を押しあて暫し考え、清香はその丸い字の下に「アイサツぐらいならいつでもできますけど」と書き、後ろに回した。実際に挨拶はしている。しかしそれは机に向けてだったり、手の甲に向けてだったりする訳で、圭司を直視して挨拶をする事はまだ出来ない。
 背後に何か気配を感じたと思った瞬間、咲に頭を軽く叩かれ、それを見た教師が「川辺、何やってんだ」と咲を名指しして注意する。咲も、雅樹程ではないにしろ、教師たちに目をつけられている生徒の一人だ。
「アイサツだってろくにできてないくせに! アホ!」
 丸い文字で返される。
 毎日を淡々と過ごす清香と、学内でも悪名を馳せるような人間が、良好な友人関係を築いている事に、清香は時々違和感を感じる。決して流されやすい性格なのではない。しかし自分が望んで築いた友人関係という訳でもない。清香にとって毎日を一緒に過ごすクラスメイトは、誰でも良かったのかも知れない。

「じゃ、部活行くから」
 鞄を肩に掛けた清香は、掃除用具箱の辺りに集まっている七人に右手をひらりとあげると「頑張ってねー」「頑張れー」「お疲れー」と次々に声があがる。これからこの七人は、なんやかんや話をして、飽きると帰って行くんだろうと清香は想像する。そこに参加をした事がない清香には想像の域を出ない。
 自分も部活動に加入していなかったら、この輪の中に入っていたかも知れない。そうすれば圭司と話をする機会が自ずと増えたかも知れない。しかし部活動は好きで、やめるつもりはない。賑やかな七人の笑い声を背に、教室を出る。賑やかな声は少しずつ、遠ざかり、隣の教室の喧噪と入れ替わる。



 球技大会は、自分が所属する部活動の種目には出場する事ができない。咲、留美、幸恵の三人は人気種目であるバレーボールに出場するが、清香はバスケだ。男子四人もバスケに出場するという。
「今日は話せるんじゃないの、圭司と」
 留美は大きな目を殊更大きく輝かせながら清香の顔を覗き見る。長いまつげは扇状に広がり彼女の顔に華やかさを添える。
「え、別に急いでないし。つーか試合は男女別だし。うん」
「でも試合の合間とか、体育館で待機したりするんでしょ、チャンスあるかもよ」
 背の小さな幸恵は清香のTシャツを掴んで見上げるようにして言うので、清香は困ったような顔で笑う。
「別にいいよ、そんなの期待してないし」
 しかし本人のやる気とは裏腹に、清香以外の三人の方が何故か、清香と圭司が会話をする事を心待ちにしていると言う状況に、清香はほとほと困り果てていた。
 期待されると、プレッシャーがかかる。
 それぐらいの事は分かって欲しい。たかが会話だ。たかがクラスメイトだ。お互いが敢えて避けたりしていなければ、自然と会話をする機会は生じる筈。だから清香は別段急いでいないのだ。急いでいるのは、どういう訳か清香以外の三人。挙げるとすれば、優斗も、だ。
「じゃぁ私、一試合目だから」
 清香はタオルをひらりと振って見せると「時間があったら応援行くから!」と張り切った咲の声が聞こえた。咲の目当ては、体育館にいる清水先輩だという事が清香には分かっているが、形式的に手を振っておく。

 球技は得意な方だ。しかし清香はなるべくボールに触らないように、コートの端をほっつき歩いていた。だがバレー部のレギュラーである事は級友に知れている訳で、バスケだってそれなりにこなせるだろうと思われているフシがあり、清香めがけてオレンジ色のボールが容赦なく飛んでくる。
 仕方がなくドリブルで切り込んで行き、適当に放る。それがゴールネットを揺らそうが揺らすまいが、関係ない。部活以外の「チームプレー」に興味がなかったし、疲労する事も避けたかった。一回戦で敗退し、あとは審判や得点係をやって終わりになると踏んでいたのが間違いだった。無欲の勝利か、得点源になってしまった清香はクラスメイトから賞賛され、戸惑いの顔を見せる。

「おう、清香お疲れー」
 休憩をしようと体育館の二階席にあがると、そこに男子四人集が座っていた。もちろん、その仲に圭司の姿もある。
「何かすげー活躍してたじゃん。燃えてたな」
 茶化すような優斗の言葉に「あれが燃えてたように見えるのか?」と打ち返し、溜め息を吐きながら優斗の隣に腰掛けた。汗ひとつかかない涼しい顔で、コートに視線を向ける。
「男子は試合、いつなの? つーか優斗、ちゃんと試合出るんだよねぇ?」
 優斗と雅樹はずらかってもおかしくないと思い、清香はひとまず訊ねてみた。優斗は隣で腕のストレッチを始めた。
「出るよ、バスケおもしれーじゃん。次の試合、俺ら四人プラスひ弱な鈴木君のチームだから見に来てよ」
 鈴木君は何の変哲もないクラスメイトだ。確かに四人に比べるとひ弱に見えるけれど、確かバドミントン部に加入しているはずで、体育館で隣り合わせる事がある。二階席をぐるりと見回すと、少し離れた所にいるクラスメイトの中に鈴木君の姿を発見する。
「あぁ何か緊張して俺、小便したくなってきた。ちょっとトイレ」
 そう言って秀雄が立ち上がると雅樹がダルそうに立ち上がり「俺も連れション」と階段席を降りていく。
「俺はウンコ」
 優斗は清香の肩をポンと叩き、雅樹の後ろをついて行く。雅樹も優斗もジャージの裾を引きずって歩いている。あの格好でバスケをやるのかと、清香は絶望的な気持ちで彼らの後ろ姿を見ていた。
 背後に残る人の気配に気付かないはずがない。周りに人がいない空間に二人きりで取り残されてしまった清香は、わざとらしくその場を立ち去るのもおかしいような気がして、幾らか白々しく視線をコートに向け、試合を観戦しているフリをする。
 後ろにあった気配は移動し、清香の隣にふんわりと落ちてきた。顔を向けた隣に、圭司の顔があった。真隣で目が合ってしまった清香は、瞬時に顔を背け、こめかみから下がる後れ髪を無意味に耳に掛ける。
「さっき、試合見てたよ。清香、活躍してたな」
 清香、と呼ばれる事自体が初めての事で、驚きつつ「そんなでもないよ」と目も合わさず答える。動揺して、頬杖をついていた肘が膝からすぽんと落ちてしまった。咲の事は「川辺」と苗字で呼んでいたはず。自分は名前なのか、と少し優越を覚える。
「何かさ、高校に入ってから清香と喋るの、初めてだよな?」
 コートを見つめたまま無言で二三回頷くと、圭司は「んー」と悩まし気な声を上げる。
「俺の事避けてんの?」
 突として訊かれ、清香は思わず圭司の顔を見つめてしまう。何かを思い出したように途端に頭をぶんぶん振り、思いつくまま早口で言い訳がましく連ねた。
「何となくだよ、何となく喋る切欠が掴めなくて今に至る? みたいな。話す用事もなかったし? だって圭司だって私に話し掛けようとしなかったじゃん」
「何となく清香に避けられてる気がしてたから」
 対照的に圭司はゆったりとした調子で笑みを浮かべながら返すので、清香も今度はゆっくり、首を横に振ってみせた。圭司は「あ、そう」と目を見開き、何かがほどけるように笑う。
「これで誤解は解けたと言う事で」
 すっと差し出された手の意味が伺い知れず、清香は再び圭司に目をやると、圭司は「ん」と言ってもう一度、色の白い手をぐいと差し出す。やっと意味を理解してその手を握った。見た目よりずっとごつごつしていて、男の手なんて握った事がなかった清香は朱の射す頬を見られまいと、再びコートに目を移した。
「連れション、遅いね。あ、優斗はウンコだっけ」
「優斗はウンコだったな、確か」
 清香と圭司を二人きりにする絶好のチャンスだと思って、優斗は気を遣ってくれたのだという事が清香には何となく分かる。肩に置かれた優斗の手が物語っている。トイレの個室に入って何もせずにタバコでも吸っているのかも知れない。優斗は咲の言う通り、馬鹿だけど、ヤンキーだけど、心の奥底から優しい、と清香は感得している。
 そのうちぞろぞろと気怠げに、三人揃って席に戻ってくると同時に、一階のコートでホイッスルが鳴り、次の試合の準備が始められた。
 隣にいるのが優斗だったら、背中でもドンと叩く所なのだが、圭司だから、圭司の向こうに座ろうとした優斗の顔にめがけて「はい、いってらっしゃい」と声を飛ばす。優斗はちらりと清香に目線をくれると、にやりと笑う。その笑顔の意味を清香は当然、理解している。

「お疲れー」
 咲は汗まみれだった。今日は五月晴れを絵に描いたような日で、屋外の競技はまるで夏の様相だ。咲以外の二人も、頬が上気しているのが分かる。
「バレーボール、超暑い。つーか外、超暑いんだけどー」
 ジャージの上着をぶんぶん振り回しながら風を起こしす咲に、他の三人はぶつからないように離れて歩く。
「あれ、清水先輩の試合は見に行かないの?」
 咲に向かって清香が声を張ると「午後からー」と間延びした返答がくる。
「さっき先輩に会って、頑張ってください、ミャハってやってたよ」
 苦笑気味に留美が言うので清香は「そうか」と思いっきり苦笑してみせる。あれだけあからさまに自分の感情を表に出せるのが、咲の魅力なのかも知れない。清水先輩がそれに気付いてくれるといい。そう思いながら、すっと咲に目をやると、「そうそうさっきねー」と清水先輩に話し掛けたと言う話をそっくりそのまま聞かされ、清香以外の二人は声を殺して笑っていた。

 弁当を広げながらやにわに口を開いたのは清香だった。
「あのさ、さっき圭司と会話したから。って事を報告しとく」
「えー!!」
 素っ頓狂な声は奇麗なユニゾンで教室内に響き、清香は「うるさいっ」とピシャリ言う。
「何でそんな事になったの?」
 幸恵は何だか座り心地が悪そうにもぞもぞしながら清香の方へ顔を寄せるので、清香は「顔近いよ」と苦笑しながらと手で遠ざける。それでも幸恵は物欲しそうな子犬のように目をキラキラさせている。
「体育館でね、圭司以外が連れションに行っちゃて二人きりになったから、そういう雰囲気になって喋ったってだけ。と言うわけで、以降は気を遣わなくていいから」
 パチン、と手を一度叩いた咲は、はち切れんばかりの笑顔で「あとは告白だけだね!」と言って白米を頬張った。随分飛躍した思考に、清香は目眩を覚える。
「それはずっと後の話だし、ずっとしないかも知れないし、今話す事じゃないでしょ。どっちかってと咲が清水先輩に告白する方が先でしょ」
 清香の言葉に頷き、少し頬を赤らめながら咲は一口お茶を飲むと、意を決したように言い放った。
「私、決めた。今日清水先輩を呼び出して告白する!」
 あんぐりと口を開けた三人の口から「マジで言ってんの」と足並みを揃えたように声が出た。
「マジです。大マジです。優斗にお願いして呼び出してもらおーっと」
 今からかよ、と留美が突っ込むが、咲の頭の中はもう告白の事だけで占められているようでその後の会話は上の空。食堂から戻った優斗が教室に入ってくるなり「優斗!」と席に呼び、約束を取り付けている。咲曰く、清香が勇気を出して圭司と話した事が、告白への勇気に繋がった、との事で、勿論清香は勇気を出して圭司に話かけた訳でもなく、咲を勇気づけたつもりも更々なく、この告白が失敗に終わったときの事を考えると酷く憂鬱になった。
 清水先輩を呼び出すと約束した優斗は咲に向かって「頑張れよ」とだけ言い、視線を清香に移す。
「清香、お前やっと喋ったみたいだな、あいつと」
 口の中身を嚥下すると「誰かさんのウンコのお陰でね」と清香がわざとらしい笑顔と共に付け足す。優斗は意味深長に笑いながら掃除用具箱の前にある自席に歩いて行った。
「え、連れションじゃなかったの? 優斗はウンコだったの?」
 留美が清香の対面から声を上げ、「多分連れションだと思うけどね」と清香が留美を見遣ると、彼女は腑に落ちない表情を見せた。

 午後は決勝トーナメントが行われた。清香が参加している女子バスケチームは決勝に進出し、清香としてはこれほど面倒な事はないと頭を抱える事態だった。決勝となればギャラリーが増える。目立つ事は嫌いだ。なるべくならボールに触れたくないと思ってしまう。
 準決勝が行われている空き時間に、隣のコートの試合を見る為に二階席に上がると、咲達三人に出くわした。
「何やってんの?」
「あ、清香。決勝出るんでしょ? 応援行くからね、清水先輩が負けたら」
 咲にとって清香の応援は、清水先輩の応援の「ついで」でしかないという事は明白で、「はいはい」と軽口叩いて苦笑する外ない。咲の視線の先にはパス回しをする清水先輩が動いている。そのまま周囲に目をやると、見知った顔が揃っている。清水先輩のクラスと、清香のクラスの準決勝だ。
「咲、どっち応援すんの」
 清香は大凡分かりきった質問を咲にぶつけてみると、当たり前のように「清水先輩」と返ってくる。
 ひんやりとした鉄柵に掴まってコートを見る。圭司は肌の色が白い。浅黒い優斗と並ぶと対照的だ。優斗の視線が清香達を捉えたようで、こちらに手が振られる。清香が「ちゃんとやれー」と優斗に声を掛けると、留美と幸恵もそれに追随する。何と無しに視線を圭司にやると、偶然にも目線がかち合ってしまい心臓がドキンと一度だけ跳ねる。自分の身体の事ながらその瞬発力に驚愕する。
 試合中「清水先輩ー!!」と大声で叫んでいるのは咲だけで、先輩のクラスの女子生徒から、視線が痛いほど飛んできた。きっと清水先輩はクラスでも人気があるのだろう。必ずしも好奇の視線だけではない事が分かる。清香も留美も幸恵も、咲から一歩ずつ離れた。
 試合は一進一退の攻防戦となり、なかなかの見応えだった。圭司と優斗はやはり運動神経が良いのだろう、得点源となってネットを揺らしていた。鈴木君は殆どボールに触れる事なく、残る四人でパスを回している。清香としてはバドミントン以外のスポーツをしている鈴木君も見てみたかった。しかし結局男子は準決勝で負け、清水先輩のクラスがそのまま決勝戦で勝ち、優勝した。決勝戦を行っている清香の耳に、咲のつんざくような黄色い声が届いた。
 清香は決勝に出場するも、やる気満々の相手チームとは違って得点源の清香がやる気を見せないので、点は入るものの相手に追いつく事はできず、準優勝で幕を閉じた。

 試合を終え、教室に戻る途中、背後からぞろぞろと男子四人が歩いてきた。本来なら男子決勝の審判をしなければならなかったのに、鈴木君に押し付けて、清香が出場していた試合を見ていたらしい。
「お前、本気でやんないのな、ほんと」
「だってこの後部活もあるし、疲れるじゃん」
 優斗にちらりと目をやると、頭を軽く叩かれ、思わず目を瞑る。「思考が黒過ぎ」と優斗は笑う。
「清香って真面目なのか不真面目なのか分かんないよなー何か」
 自分に向けられた声なのに、「清香」と呼ばれた名前を今一度咀嚼してからでないと飲み込めないその声の主は、圭司だった。また心臓が反応し、その事自体に狼狽える。
「至って真面目だよ、部活では、うん」
 清香のたどたどしい言葉を聞いてケタケタと笑う圭司の声に、清香も控えめに追従する。
「授業とかもさ、そんなに真面目に聞いてる感じじゃないのに勉強できるし、不思議だよな」
 自分の授業態度について圭司が把握しているとは思っていなかった清香は、少し驚いた顔で圭司を見た。
「何? ちゃんと授業聞いてるよ、失礼な」
「嘘つけ、しょっちゅう川辺と手紙まわしてんじゃん」
 言い逃れが出来ない事実を突きつけられ、ヘラリと笑ってみせる。そういう圭司なんて殆ど寝てるか、明後日の方を見ている事を、清香は知っている。そんな日常的な圭司の姿を、無意識で周辺視野に捉えてしまうからだ。



 朝練を終え、教室へ向かう途中で、後ろから背中を押された。何となく誰なのかは想像がついた。昨日、清水先輩に告白をした咲は、その結果を連絡して来なかった。
 振り向いたそこにあった咲の顔は、満面の笑み、だった事に安堵する。
「おはよ」
 多少の呆れを含んだ笑みで朝の挨拶をした清香に、咲はいきなり強く抱きついてきた。
「清水先輩が付き合ってくれるってー」
 ぎゅーっと身体を絞られるように抱きしめられ「ちょ、待て、離れろ」と肩をぐいっと押す。咲が話した言葉を一度頭の中で反芻して、それから喜びの感情が心の底から湧き出てくるのを感じる。
「凄いじゃん、良かったじゃん。つーかメール来ないからどうなったか気になってたんだよ」
 珍しく興奮気味に話す清香の言葉に、頬を赤く染めた咲は「びっくりさせたくて」と言って肩を竦めて見せた。
 なかなか意外で嬉しい展開だった。ただの先輩、後輩の関係でしかない二人。誰の働きかけもなければ話す事さえなかったかも知れない二人が、付き合う事になるとは思わなかった。咲自身も「玉砕覚悟」で臨む告白だとは言っていた。きっと優しい優斗が色々と働きかけてくれていたのだろう事は明らかで、優しいくせにどうして金髪で、荒くれ者なんだろうかと清香は忍び笑いをする。普通にしていれば、背が高くて脚が長い、なかなかイケメンの好青年なのに、と。
 到着した教室を見回すが、下敷きで顔を扇ぐ秀雄以外のメンツは登校しておらず、咲は「早く言いたいのにー」とうずうずしている。
 自席について鞄の中身を机に入れながら考える。咲は凄い。日頃から会話をする仲ならまだしも、そうではない、一目惚れをした先輩に近づき、話し、告白して、モノにしてしまった。それにひきかえ自分はどうだ、こんなに近くにいて、好きなのに、目の前にいるのに話す事すらままならず、やっと話せるようになったけれど、やはり自分からは話し掛けにくく、一歩引いてしまう。話す度、心臓が悲鳴を上げる。いい加減慣れないと身が持たないとさえ思う。
「おはよー」
 顔を上げたそこにあったのは頭に思い浮かんでいた圭司そのものの顔で、はじかれたように「おはよっ」と返す。
 いつもは教室の後ろのドアから入ってきてそのまま一番後ろの席につくのに、今朝は前のドアから入ってきて、わざわざ清香がいる窓側の席まで回り込んできて挨拶し、それから自分の席についた。そこには何ら意味などないのかも知れないけれど、清香にはそれが妙に嬉しくて、どことなく視線を投げながら頬杖をつき、ぼーっとしてしまう。
「おい」
 清香の額を手の平で叩いたのは雅樹で「朝から目線がヤバいぞ、やめろ」と言い残して後ろへ歩いて行く。そこで初めて清香は自分が呆けていた事を思い知らされた。叩かれた額にかかる前髪を、手櫛で整えて咳払いをし、気を落ち着かせる。
 優斗の席の辺りで咲が皆に報告をしているようで、歓声が沸いている。人間が七人も集まると結構騒がしい。教室内の視線が一気に掃除用具箱の前の集団に集まる。
「何見てんだよ」
 雅樹の凄みのある声のせいで一気に視線は散って行く。雅樹は、優斗とは質の違う不良生徒。優斗よりもたちが悪い。可愛げがないのだ。四人の中で最もまともなのは秀雄で、勉強もできるし顔も広く、世渡り上手なポジション。圭司は不良ではないけれど、授業態度は悪いし、お世辞にも良い子ではないので教師からも目をつけられている。けれど、出来ないのではなくて「やらない」なのは明らかで、時々驚くほどの頭の回転を見せる事がある。そんなギャップも、清香が惚れている理由の一つだ。

 背中を突かれる。手紙だ。
「告白はしないの?」
 自分がうまくいったからと言って、こちらもうまく行く訳ではないのだ、と清香はむしゃくしゃして、赤ペンを取り出した。
「何のタイミングもなく告白できる咲さんとは一緒にしないでください」
 殴り書いたその手紙を後ろの席に渡そうと顔を横に向けた刹那、圭司の目線とかち合った。見られた。いや、見られていた? いつから?
 すぐに前を向き、馬鹿みたいに拍動を高める心臓に気を取られる。手紙を受け渡ししている間に進んでしまった板書分をノートに書こうと黒板に目を遣りシャーペンを握るが、手が震えている。
 と、また後ろから突かれる。
「タイミングがあれば告白する、という事でいいんですか?」
 清香は額に手をあて、すぐ上に赤ペンで書いた自分の文字を恨めしく思った。「タイミング」云々なんて書くんじゃなかったと、後悔が走る。
「そうですね、あれば、の話ね」
 シャーペンで走り書きをし、横を向くと、また目が合う。今度は手を振られ、清香は咲の机に手紙を静かに置くと、教師が黒板に向かった隙にシャーペンを持つ右手をひらりと上げてみせた。
 つんつん。
「アイシテルのサインですか?」
 咲に聞こえるようにわざと大仰な音を立てて、清香はその手紙を握りつぶした。背後から、咲がケタケタ笑う声が聞こえ、教師の注意が飛ぶ。



 雨が教室の窓ガラスをうるさく叩いている。教師の話し声が自然と大きくなる。窓の外の景色は窓ガラスを伝う雨水で歪み、室内は鬱陶しい湿気を帯びている。
 前日から圭司は風邪をひいて学校を欠席していた。仮病ではないかと優斗が電話を掛けたそうだが、「酷い声だったよ」と話していた。明日からは定期テストが控えている。昨日今日と、教師が「ここはテストに出すからなー」と明言する授業が多く、圭司はそれを聞き逃している。まぁ、出席していた所で授業を真面目に聞いていたかどうかは定かではないな、と清香は一人納得する。
「ねぇ、これってタイミングじゃないの?」
 咲は休み時間に入るなり、清香のワイシャツの背中を掴んだ。咲の方に身体を向け「何の」と面倒くさそうに清香は問う。
「告白だよ。テストに出る所をノートに書いてあげてさ、『好きです』のひと言と一緒に、届ければいいじゃん! 家すぐ近くでしょ」
「えー、そんなの断られたら何か凄い気まずいじゃん」
 手で払う仕草をすると、咲はその手をがしっと掴み、「大丈夫」と清香の瞳を見つめ、言う。その目が真剣そのもので、拠り所はないと思われる自信に溢れていて戸惑う。
「ダメだった時のフォローはするから、ダメって決めつけないでやってみようよ、ね?」
 自分の事のように必死になって説得する咲に、初めは「いやーでもねー」とうやむやに返事をしていた清香だったが、何故か強い調子で「嫌だ」とも言えなかった。そのうち成り行き任せに「うーん」と頷いた事になってしまった。清香は言ってから手の平に嫌な汗をかき「フォロー、してね、ちゃんと」と口を尖らせ言葉を落とす。
「任せとけって。つーか自身持て!」
 咲は両の手に拳を握ってニカッと笑っている。いつでも真っ直ぐに突き進む優しい咲と、それを見守っている留美、幸恵なら、うまくフォローしてくれるのだろうと信じる事にした。
 英語のノートを机から出し、手帳のメモページをミシン目で切り落とすと、「英語だけでいいか」と独りごちて、ポイントだけ分かりやすく書き出した。
 通りがかった優斗に何をしているのかと問われ、告白する事を小声で告げると、目をまん丸にした優斗が「マジでか!」ととんでもない声で叫ぶので、みぞおちに一発コブシを入れた。
「協力して。圭司のメールアドレス知らないの。教えて」
 優斗は鼻歌混じりにポケットから緑色の携帯を取り出すと少しボタンを操作して「ほい」と画面を見せる。清香は自分の携帯にそれを入力し、「ありがと」と言って携帯をパタンと閉じた。優斗は清香の机にあるメモに目を落としている。
「俺にもそのまとめメモ、ちょうだいよ」
 清香は「え」と言ってから、断る理由もないと思い「コピーしてくるならいいよ」と言ってメモを渡した。優斗は図書室にあるコピー機でメモをコピーし、戻ってきた。

 テスト期間中で部活もなく、いつも教室の後ろで話をしている中に清香も混ざり、他愛もない話をしてから帰宅をした。しとしととしつこく降る雨のせいで、ローファーには雨水が浸みてしまい、玄関を入ると真っ先にローファーに新聞紙を突っ込んだ。それから一度部屋に荷物を置いて、圭司に渡すメモを鞄から取り出すと、清香は引き出しにしまってあったレータセットを机に並べる。その中で最もシンプルな封筒を引き抜き、そこにメモを入れる。差出人は書かない。
 新しい靴下に履き替えると、まだ濡れていないスニーカーを履く。また出掛けるからと玄関先に置いたままにしておいた水玉の傘を手にし、圭司の家へ歩く。目と鼻の先だ。家の前につくと、外から二階を見上げてみる。どこに圭司の部屋があるのか知らないけれど、圭司ではない家族の誰かに上から見られているかも知れない。そう思うと急激に心拍数が増してきて、急いでポストにメモを入れ、早足で家に戻った。
 すぐに携帯を取り出し、震える指で優斗に教えてもらったメールアドレスを呼び出す。
『玄関のポスト 清香』
 日頃からメールを好んでやりとりしない清香だが、これほどあっさりしたメールをするのは久々だと思いながら、送信ボタンを押した。
 明日からはテストだ、勉強をしなければ、と頭の中では分かっているのだが、メールの返事が来るかも知れないと思うと気もそぞろで、結局机には向かわず、ベッドにうつ伏せに寝転んだ。風邪で寝込んでいてメールに気付かないかも知れない。先に家の人がポストを開けてしまうかも知れない。
 不意に「好きって書き忘れた」頭の隅に湧いた大事な忘れ物を拾う。英語のまとめメモを封筒に入れただけで、告白になってないと言う事に今更気付き、「しまったぁー」と枕に向かって呻き声を上げる。
 枕元に置いた携帯が震え、LEDが光ったのが視界に入った。震える手で携帯を持ち上げると、反対側の手で手首を押さえて震えを止めようとする。目を瞑りながらメールの開封ボタンを押し、そして目を開ける。
『見たよ、ありがとう。今、外に出られる?』
 思いがけないメールの内容に驚き、震える指で何度も押し間違えながら『出られる』と返信をした。はじかれたように部屋を出て階段を下り、靴を履きながら、圭司は外に出る事ができるぐらいに風邪が回復したのだろうかとふと考える。乾かすために玄関内で広げておいた傘を、広げたまま玄関ドアからむりやり出して、歩き出した。
 目の前から、Tシャツにスエット、それに見慣れない眼鏡を掛けた圭司が歩いてきた。雨が降っているのに傘をさしておらず、顔をしかめている。それを見た清香は少し小走りに近づき、自分でも驚くほどスムーズに相合傘をした。
「風邪は? つーか傘は?」
 近過ぎる圭司との距離に、顔を合わせられない清香は、少し目線を落とし彼のTシャツに書いてあるロゴをじっと見つめた。
「風邪はもうだいぶ良くなった。明日は学校行く。傘は、近いからいいやと思って」
 頭の上から少し掠れた圭司の声と、雨が傘を叩く音が同時に降ってくる。とても不思議な感覚だった。ロゴを見つめた清香はわざとそのまま視線を動かさず、自分の表情の変化を読み取られないように努める。
「で、用件は何?」
「あれ、英語の、ありがとう。すげー分かりやすくまとめてあんね」
 無意識に耳の辺りに触れながら「お役に立てれば光栄です」と頷く。清香は照れると耳を触る癖がある。自分でそれに気付いたのはごく最近の事だが、顔が赤くなるよりは相手に悟られにくくて良いと感じている。
「で、何かメールじゃダメな用件でもあった?」
 ごそごそとスエットのポケットを探った圭司は「これ」と手の平に、袋に入ったあめ玉を乗せている。
「これ、何、お礼?」
 袋の端を掴み、Tシャツのロゴに向かって清香は訊ねる。圭司は「ねぇ、何に向かって喋ってんの?」と怪訝気に言うので「ロゴ」と馬鹿正直に答えると、圭司はケラケラ笑う。
「お礼に飴を渡したかったってのが三割、あとの七割は、会って話したかった事があってさ」
 その言葉に思わず顔を上げて「なに」と急かすように問うと、あまりに目線が近すぎる事に恐れをなした清香は、速やかに目線をロゴに落とした。
「あのさ、急なんだけど、大抵こういう事って急なんだよ。清香の事好きなんだ。俺と付き合ってくんないかなって思って」
 清香の手から飴が落ち、乾いた音を立てる。すぐに雨水が天から落下し、袋を濡らす。清香の胸の中のざわつきが、雨音さえも消し去る程大きくなって行く。「へ?」
「ほら、俺らあんまり喋らないけどさ、もっと喋りたいし、中学の時から結構気になってたんだよね、清香の事」
 中学の部室棟の前。お互いを認識しはじめたあの瞬間を思い出す。清香は暫くロゴを見つめた後「あのさ」と思い切って顔を上げると、声がうわずっている事に気付き、咳払いをする。
「メモに書き忘れた事があったんだ。好きですって一言、書こうと思ってたのに忘れた」
「うそ、マジで」
 目線はかちあったまま、お互い顔を赤らめていた。清香よりも色が白い圭司は赤くなると顕著に分かる。自分でも分かったのだろう、両手を頬に当てて冷ますような仕草をしている。
「この事って、あいつらに言っても、いいよな?」
 清香は再び目線をロゴに落とし、「すぐバレるだろうからね。別にいいんじゃない?」と耳を触った。
 やにわに「じゃね」と言って圭司は走って傘の下から出て、家の玄関に消えて行った。彼の足跡は空から落下してくる雨粒で瞬時に消え去る。清香は地面に落ちた飴を拾い、少し水気を振るい落としてからポケットに突っ込むと、改めて二人のやり取りを思い出し赤面した。



 翌日はテスト開始日で、登校すると殆どの生徒が教科書や参考書にじっと目を落としていた。清香が咲と縦に並ぶ秀雄に「おはよ」と声を掛け、席に着こうとすると、咲に首根っこを掴まれる形になり「昨日はどうなったの」と問いつめられた。後から登校してくる留美と幸恵に同じ事を説明するのが面倒だと思った清香は、彼女達が登校してくるのを待ち、昨日の一部始終を話した。
「ひゃー!!じゃぁ両思いだったって事じゃん。何だ、もっと早く告白しとけばよかったのにー!」
 大盛り上がりする咲と幸恵に「ちょっと声でかいですよ」と後ろから落ち着き払った秀雄の声が掛かった。まだ圭司は登校していないから、秀雄は清香と圭司の間に起きた事については何も知らないのだろうと思っていた。しかし秀雄が「昨日圭司からメールがきたぞ」と清香に声を飛ばしてきた。相合い傘をしたあの後すぐに、男三人にメールが回ったらしい。
 少しして圭司と優斗が一緒に教室の前扉から入ってきた。そしてわざわざ窓際を歩いて行く。ぎこちなくなされる朝の挨拶が妙にくすぐったく感じる。優斗は清香の席の横にしゃがむと「良かったな」と言って清香の頭を軽く叩いて去って行った。その声が妙に大人っぽく瞳は優しく、心を揺すった。

 その日は午前中でテストが終了し、帰り支度をしていると、後ろから肩を叩かれた。咲だと思い腑抜けた顔で振り向くと、圭司だったので、すかさずまともな顔で取り繕う。
「今日一緒に、つーかテスト期間中なら一緒に帰れる?」
 清香が何か言う前に咲が後ろから「ちょっとーやめてよこんな所で見せつけないでくれるー?」と騒ぐ。清香は自分が耳から真っ赤に染まるのが分かる。
「テスト期間中と、部活が休みの日ならミーティングだけだからちょっと遅くなるけど、帰れるよ」
 言葉を聞いた圭司は自分の机に取って返し、鞄を持つと「じゃあ帰ろう」と再び清香の席までやってきた。
「咲は清水先輩と帰るんでしょ?」
「今日は先輩の家で一緒に勉強するんだー」
 清水先輩は、親の都合で一人暮らしを許可されている。清水先輩と咲が男女の関係になるのは時間の問題かも知れない。思ったが胸に止めておく。三階の清水先輩の教室に行くという咲とは階段で別れた。昇降口までの間、圭司と清香のどちらも口を開かず、こういう時に限って階段を降りる生徒は一人も居らず、足音だけが響くこの沈黙をどうにか破れないかと清香は頭を絞ったが、先に口を開いたのは圭司だった。
「俺、明日の英語は結構自信あんだ」
 昇降口のコンクリート製の床に革靴を乱雑に放り、それを足で寄せながら靴を履いている。清香はそれを見ながら「横着」と言うと、圭司はそれまで固くしていた頬を緩め「サッカーじゃハンドは禁止だから」と笑う。
「清香がくれたあのメモ、あれをずっと読んでたら、何か殆ど暗記しちゃったっぽくて。あの辺がテストに出れば確実に点が取れる」
 そう言って歩き出した圭司の後を追うように清香も歩き出した。
 夏の青葉を照らす太陽が、地面に短く二人の影を作る。もう間もなく、蝉も鳴き出す頃合いだろうかと清香は思う。じりっと射すようにも感じる日光が、昨日できた水たまりに反射していて、清香は一瞬目を閉じる。
「あのメモ、優斗もコピーして持って行ったけど、優斗も点とれるかな」
「ユウは無理だろ、あいつ相当バカだぞ」
 酷い言い様だね、と呆れた顔をすると、圭司は少し口を尖らせる。
「俺だけにメモくれたのかと思ってたのに、ユウにもあげたんだな」
 駄々をこねるような物言いに清香は少し困ったように首を傾げる。
「くれ、って言われて嫌だ、なんて言えないじゃん」
「それもそうだな」
 眩しそうに目を細めた笑顔を向けられ、清香はドキリとする。中学の頃にグラウンドで時々見かけた、この笑顔。ずっと憧れていた彼が自分に振り向いてくれた事を今更実感する。
「俺はてっきり、清香はユウの事が好きなんだと思ってたんだよな」
 自分に向けられた言葉に驚き「へ?!」とあらぬ声をあげてしまう。完全なる誤解に頭が混乱する。
「別になんとも思ってないよ、何で?」
 圭司は空っぽの鞄をさぞ重たそうに反対の肩に持ち替えて「うーん」と唸る。
「何かすげー仲いいじゃん。小突き合ったりしてるし、よく喋ってるし」
 確かに、圭司とは全く喋らなかった時期から、優斗とは毎日じゃれ合っている。優斗は率先して清香にちょっかいを出すし、挑発に釣られた清香もまんざらではない。そう思われても仕方がないのかも知れないと思い清香は「なるほどね」と頷いた。
「恋愛感情は抱いた事ないよ。いい奴だし凄く優しいけど、弟っぽいっていうのかな。まぁ、時々お兄さんぽくなる事もあるけど」
 今朝、頭に触れられた事を思い出していた。優斗が少し大人びて見えた瞬間。胸に去来したものは何だったのか、その瞬間には思い出せなかった。
「清香が引っ越してきて、同級生だって知って、高校も同じ所受験してて、俺は勝手に運命感じてたんだわ」
「運命?」と言って清香はケタケタ笑う。「運命とかあんまり使わないよ、いい若者が」
 また鞄を持ち替えて「俺はおっさんだからな」と皮肉っぽく笑う。そんな笑い方もあったのかと新たな一面を発見し、清香は密かに微笑んだ。
「しっかし暑くなってきたな。ジュースかなんか飲んで帰んない?」
 南中時刻に向けて太陽はぐんぐんと動いて行く。これから更に暑くなる。清香と圭司の家は、学校から歩いて五十分ほどかかる場所にあり、バスも電車もない。さすがにこの時期になると、へばってくる。夏休みのありがたみという物が分かる。しかし清香は夏休みの殆どを部活動に費やすので、五十分の登下校地獄からは解放されない。それを考え一瞬メランコリックになるが、振り払って圭司に声をかける。
「じゃぁさ、今日は私が払うから、明日は圭司が払って。何飲む?」
「俺コーラ」
 清香はコンビニに入って行き、冷房で一時的に身体を冷やし、コーラとアイスミルクティを手に、レジに並んだ。
 コンビニの外で圭司が眩しそうな顔をして立っている。自分を待っている。明日の支払いは圭司。それは明日も一緒に帰ると言う事を暗に示している。どれをとっても嬉しくて、口端に笑みが溢れてしまう。
「はい、コーラ」
 サンキュ、と言って受け取り、キャップを捻ると喉を鳴らして飲み始める。清香は紙パックを少しだけ開けて、そこにストローを差し込み、圭司がコーラを飲む姿を見ながらミルクティを吸った。
「あ、長居公園なら日陰にベンチがあるな。行こう」
 帰り道に通る公園に向かって歩きはじめた。紙パックからミルクティが飛び出さないように慎重に歩く清香に対し、ずんずん歩いて行ってしまう圭司との間に距離が出来ている事に、圭司は暫く気付かなかった。
「あ、悪い」
 そう言って清香の隣に戻ってきて、今度は並んで歩きはじめる。

 少し汗をかいている圭司は、ベンチに座ると怠そうに両膝を広げ、そこに肘をついた。眩しそうに空を見上げ、おもむろに口を開く。
「清香は文系に進むんだろ?」
 ストローから口を離した清香は首を横に振り「理系だよ」と答え、またストローに食いつく。
「え、英語とか世界史とかすげー得意じゃん、文系じゃないの?」
「得意なのはそうだけど、進みたいのは理系だから」
 清香の声に圭司は頷きながら「そっかそっか、同じで良かった」と微笑み、コーラをあおる。清香も少しほっとする。後期は選択科目が増える。文系と理系では授業の半分が違ってくる。それだけ顔を合わせる時間が減るという事なのだ。
「圭司は進学するの?」
「俺は進学は無理だな、就職するつもり」
 ストローに口をやったまま「ふーん」と頷き、「三年のコースは変わっちゃうね」と横目で圭司の顔を見た。
「残念?」
「別に、そういうんじゃないけど」
 清香は耳をいじりながら半分以上残っているミルクティを飲む。圭司のコーラはもう既に空になっている。
「あ、ごめん。飲むの遅いね、私」
「俺、何気にミルクティって飲んだ事ないや、ちょっとちょうだいよ」
 暫く紙パックの表面に印刷されている、水が跳ねる絵を見つめた清香は、真顔のまま、紙パックを圭司の手に渡すと、圭司はストローに口をつけ喉を鳴らす。
「結構甘いんだな。逆に喉乾きそう」
 そう言って戻された紙パックを受け取ると、「うん」とひと言頷き、それからそのストローに口をつけていい物かどうか考え、暫く紙パックを振って気を紛らわせた。
「あ、こういうのNGだった? もしかして」
 清香は「んーん」と首を横に振ると、勢いに任せてストローに吸い付いた。首を振っただけポニーテールが揺れるのが何だかおかしくて、首を何度も振っていると「何やってんの」と怪訝気に訊かれる。
「こうやって頭を振るとね、ポニーテールが反対側に動く」
「理系だな」
 顔を合わせ、目を合わせ、笑う。眩しそうに目を細めるその笑顔は、清香のすぐ傍にある。



 テストが終わり、夏休みに入る前の束の間の授業は、テスト返しに終始する。英語の授業、自分の点数よりも自分のメモを見てテストに臨んだ二人の点数が気になった。
 教師に手渡された答案を手に持った優斗が、教卓からふらりと清香の席まで歩いてきた。
「清香、俺英語で三十点以上とったの生まれて初めて」
 そう言って見せた点数は五十点で、清香が知っている優斗は大抵百点満点の三割取れたら良い方だから、この点数はかなり良い方なのだ。
「やったじゃん、凄い凄い」
 立っている優斗の顔を笑顔で見上げると、目を細めた優斗が「清香のお陰じゃん」と清香の頭を数回撫でた。そう言ってもらえる事は嬉しい事なのだけど、圭司がこの様子を見ていたらどう思うのだろうかと不安に感じ、わざとらしくならない程度にすっと視線を圭司に投げた。圭司は、自分の答案が返されるのをじっと待っているようで、腕組みをして教卓の方をじっと見ている。
 圭司は答案を返されても清香の席へはこなかった。そのまま自席に座って答案をじっと見ている。何点だったかなんて聞きに行くのもおかしな事だと思い、清香は自分の答案に目を落とした。

 放課後、部活に行く前に圭司の席に歩み寄る。「圭司」
「何?」
「英語、どうだった?」
 圭司は口の端から笑みを零しながら、鞄から二つに畳んだ白い紙を取り出し「俺史上最高点」と言って七十五点の答案を開いてみせた。
「あぁ、良かった。何も言って来ないから点数悪かったのかと思った」
 紙を元通りに折りながらぽつりと言う。「ユウがいたから」
「何?」
「ユウが清香の頭撫でてたから、何となく俺は入れる空気じゃなかった」
 自分が招いた事態ではないにしても、何となく何か言わなければと思い「ごめん」と零す。
「別に清香が悪い訳じゃないし、ユウだって悪気はないだろうし。あいつバカだから」
 ヘラリと笑ってみせるも、やはりどこか引き攣っているように見える圭司の笑顔に向かってもう一度「ごめんね」と清香は目を伏せた。
 教室内の騒がしさが妙に引き立って耳に入る。二人の間にある沈黙を悪い意味で引き立てている。
 清香は言葉を探すが、先に口を拾いたいのは圭司だった。
「今日さ、帰り、待っててもいい? 一緒に帰ろうよ」
 清香は時計を見ると、白と黒のシンプルな壁掛け時計は三時半をさしている。これから部活動に出なければならない。
「六時半ぐらいまでかかるよ?」
「いいよ、ユウの家で時間つぶして、また学校に戻ってくるから」
 ユウの家は学校のすぐ傍にある。時間潰しにはもってこいのスポットで、日頃からたまり場になっている事は知っていた。そこで過ごす三時間が、果たしてあっという間なのか、それとも長い時間なのか、清香には分かりかねた。
「うん。もし待ってるの面倒になったら帰っちゃっていいから。そしたらメールちょうだい」
 手に持っていた携帯をちらりと見せると「いや、絶対待ってるから大丈夫」と言って白い歯を見せて笑った。

 更衣室で雑談をしながら着替えをする部員を尻目に、清香は大急ぎで着替えを済ませ「今日ちょっと待ち合わせだから!」と言うと走って更衣室を出た。後ろから「見せつけんなー」「ちゃんとお家に帰りなさいよー」と声がついてくる。それに微笑しながら門に向けて走ると、門柱に背を預けて圭司が立っていた。
「お待たせ」
「全然待ってないよ、ユウんとこでゲームやってた」
 タバコの匂いがするのは、ユウのせいだろうか。雅樹もいたのかも知れない。その匂いをかき消すように、夕方の風が吹いてくる。どちらからともなく歩き始めた。
「夏休みは部活?」
 革靴のつま先に目を遣りながら「そうだね」と清香は頷く。
「大体毎日、三時間練習で、時々練習試合が入ると丸一日、あとは合宿が五日間」
「よくやんなー。それで進学とか考えてんの、すげぇ」
「進学したいのと、進学できるのとは違うからね。とりあえず今は部活」
 ワイシャツの裾をウエストから引き出し、ひらひらと風を送り込みながら圭司は「じゃぁ」とこちらを見る。
「どっか行こう、とか言ってもなかなか難しいって事か」
 清香は片耳をぎゅっと握って「日によっては大丈夫だけど。休みも何日かあるし」と尻切れとんぼのように言う。
「日程表とか、あるの?」
「うん」
 鞄の外ポケットに小さく折り畳んで入れておいた日程表を、圭司に手渡すと「うわー、何だこれ、休み数えた方が早いぞ」と言って人差し指で空欄をトントンと叩く。
「これさ、コピーさせてくれない? 帰り俺んち寄ってよ。母ちゃんいるけど」
 清香は耳を握る手に力を込めて「いや、私、外で待ってるからいいよ」と遠慮する。
「何かされると思ってる?」
 圭司はいたずら気な顔で笑いながら清香の顔を覗き込むので、我慢ならなくなった清香の頬が赤く染まる。
「そんなんじゃないです。じゃぁちょこっと寄ります」
 半分自棄になったような声になった事が更に清香の頬を朱に染めた。
 夜になりきれない空は、奇麗な淡紺色に染まり、遠くの方に光る星が一つだけ見えた。

 圭司の部屋は、二階に上がった正面の部屋で、玄関の真上に位置している。清香の家と同じ作りで、清香の部屋と同じ位置にあった。
「お邪魔します」
 清香の声に反応した圭司のお母さんがリビングから出てきて「ゆっくりしていってね」と笑みを投げてくる。ゆっくりすると言ってももう、清香の家の門限に届きそうだった。
「うち、門限が七時半なんだ」
「七時半?!」
 突拍子もない声が上がる。
「そんなの、中学生じゃあるまいし。今時あるんだな、そういう家」
「うちは門限だけは厳しいんだ。あとはゆるいんだけど」
 圭司の部屋は、ベッドと机、小さな棚とローテーブルが置いてあるシンプルな部屋で、壁にはサッカーのユニフォームが掛けてある。
 複合機の電源を入れ、先程手渡した予定表がコピーされる。ややあって真っ白い紙に予定表が印刷されて出てきた。びっしりと埋まった予定を再度見てしまい、清香はウンザリとする。
「これ、ありがと」
 原本を手渡され、そのまま四角く折り畳んで鞄の外ポケットに仕舞った。
「祭りは行きたいな。あと宿題教えて欲しいな。清香は?」
 ぼんやりと視線を漂わせ、「お金もないし、その辺の公園で喋ってるだけでも十分」と言うと「夢がないな」と圭司は苦笑する。何となくそれに倣って清香も苦笑する。
「清香」
 改めて名前を呼ばれ、無言で圭司の顔を見た時には既に眼前に圭司の顔が迫っていて、次の瞬間、唇を塞がれた。そのまま腰に腕をあてがわれ、しばし時が流れた。
 腕から放たれると清香は跳ねるように圭司から距離を取る。
「こうしておかないと、ユウに取られそうだったから。ごめん」
「謝んないでよ。取られないよ、私、優斗の事は何とも思ってないんだから」
 何故か言葉に焦りが混ざる。この期に及んでどうして優斗の事をそこまで気にするのか、清香は理解に苦しむ。腕時計を見て「時間」と言うと清香は鞄を肩に掛け「メールするから」と圭司にちらりと視線をやった。まともに顔を見てしまうと、朱に染まった自分の顔が見られそうで、清香は顔をあげられなかった。



 メールをすると言った清香だったが、やはり自分からメールをする切欠が掴めず、結局は圭司からの連絡を待った。
 蝉が鳴きはじめ、夏休みに入る。清香の気分なんてお構いなしに、あっという間の二十四時間が繰り返される。毎日部活のために学校に登校し、汗だくになり、疲労困憊して帰宅する。そして昼寝をして一日が過ぎる。彼氏がいるとは思えない夏休みの過ごし方だった。

『明日、宿題やらない?』
 そうメールが着たのは、合宿の前々日だ。
『いいよ。午後からにしよっか』
 部活がない夏休みの午前中は、目一杯眠りたい、それが清香の本音だった。毎日の練習に加えて、往復百分の登下校。灼熱の太陽。耳から離れない蝉の鳴き声。疲れない訳がない。好きな人のためなら、頑張れる。そんなのは立て前だけで、圭司から「午前中に」と指定されたとすれば清香はきっと「午前中は忙しい」と言って切り抜ける。
 好きで、好きで、手に入れた。優斗の事で妬いてくれる事がどこか嬉しい。自分に対する気持ちがそれだけ大きいのだと感じて、心地よい。しかし、それと同じぐらい自分も圭司を思っているという事を、どうやったら証明できるのか、伝達できるのか、素直になれない清香にはその術が分からない。
 清水先輩に真っ向から立ち向かって行った咲。優斗に嫉妬しそれを口にする圭司。恋愛に必要な真っ直ぐさや少しの猜疑心、そんな物は一つも持ち合わせていないのだと思い、自分は「恋愛」が出来ているのか、不安になる。

「ちょうど母ちゃん買い物行ってるんだ。あがって」
 玄関の前でメールを送信した清香を出迎えた圭司は、玄関に散らばっていた靴を揃えると清香を二階に通した。
「麦茶入れて持って行くから、部屋で待ってて」
 聞こえないぐらいの声で頷いた清香は、先日圭司と唇を合わせた部屋に入る。思い出して、二三回鼓動が強くなる。
「お待たせ」
 盆にグラスを載せて部屋に入ってきた圭司は、あの雨の日と同じように眼鏡を掛けている。日頃学校ではコンタクトを装用しているのだろう。色の白い圭司に黒縁の眼鏡はとても似合っていて、しかし清香はそれを口にできないまま、視線を落として麦茶を口にする。
「何の宿題からやります?」
 何かから気持ちを背けるみたいに、清香は持って来た宿題の束に縋る。大袈裟な音を立ててペンケースを鞄から取り出し、ローテーブルに置いた。
「じゃぁ清香の得意な英語にしよう」
 圭司の言葉に、清香は英語の問題集とノートを取り出すと、同じ問題集がテーブルの対面に並んだ。
「一緒に解いて行く? それとも後から答え合わせする?」
 清香の問いに圭司は苦々しく笑って「ほんとにやるの?」と問う。清香は首を傾げ「は?」と投げると圭司はこめかみの辺りを掻きながら困ったような顔で笑う。
「本気で宿題やるつもりはなかったんだけどな。適当にやって、あとは喋ってるだけで俺は十分なんだけど」
 問題集に目を落としたまま、シャーペンを器用に回し、「何それ」と呟き、清香は騙されたような気分に陥る。
 よっと、と声に出して立ち上がった圭司はベッドに腰掛け、手の甲で自分の隣をとんとんと叩く。清香を呼んでいる。
 自分は恋愛が出来ているのか。不安に思った自分を想起する。ショートパンツのウエストに入り込んだ、Tシャツの裾を直して立ち上がると、圭司の隣に座る。スプリングが自重をもって跳ね返る。
 出し抜けに肩を抱かれて身を固くした清香が、圭司には逆に可愛らしく思えたのか、フッと溜め息のように笑ってからゆっくりと清香を押し倒す。
「清香は本当に俺の事が好きなの?」
 自分は恋愛が出来ているのか。
「好きだよ」
 自分の気持ちを最大限に伝えるにはこの言葉しかないと思い、清香は言い放った。しかしその言葉を聞いても圭司は小首を傾げて「ほんと?」と疑う。清香の耳の横にある圭司の手の平が滑り、圭司の顔が眼前に迫る。
「だったら、してもいい、よね」
 清香の返事は待たずに唇は塞がれ、両手は拘束され、僅かな反抗は圭司の身体によって制されてしまう。そのまま身を任せるしかなかった。好きだ。それを今ここで表現できる術は、これ以外にないのかも知れない。これ以外は通用しないのかも知れない。圭司は眼鏡を外した。

 下着は剥ぎ取られ、それなりにお互いが緩んだ頃、階下で鍵の音が鳴った。
「やっべ、母ちゃんだ」
 その言葉に清香は飛び起きて、辺りに散乱している自分の下着とショートパンツを急いで身につける。乱れた前髪と、団子に止めた髪を手早く修正し、さも今まで宿題をしていたかのようにローテーブルの前に座って息を整えた。
 階下から「圭、お客さん?」と声が上がってきた。「清香ちゃんが来てます」圭司がドアを開けて階下に声を飛ばす。
 裸の上半身に水色のTシャツを被り「すげぇタイミングで帰ってきたなあのババア」と悪態をき、ローテーブルに置いた眼鏡を掛けた。
「これは宿題やれって事じゃないですかね、圭司君」
 大仰に溜め息を吐いた圭司は、怠そうに頬杖をついた格好で「まじかよー」と吐き、そのまま机に突っ伏した。



 祭りの日はいつなのか、ぐらい知っていた。いつもメールは圭司から。時には自分からメールをしてみようと決心し、メール作成画面を開くのだが、なんと誘えばいいのか分からない。文面が浮かばない。
 圭司と祭りに行くこと自体は決まっていて、圭司だってそれを知っているのだから、今更誘いのメールをするのもおかしい訳で、とは言え『何時にする?』というのも何だか素っ気なく、考えあぐねた結果が『お祭りは誰か誘うの?』だった。送信ボタンを押してから、酷い文面だと思いベッドに突っ伏した。恋人同士で行くのは当たり前の事なのに、「誰か誘うの」はないだろう。
 返信は割とすぐに返ってくる。圭司はマメなタイプだ。
『行けばユウ達と一緒になると思うけど。誰か誘いたい?』
 本当は二人で行きたいのに、そう素直に言えない自分に辟易する。結局、圭司が当日の集合時間を決め、圭司の家の前に集合する事にして、学校の近くにある神社まで圭司の自転車で行く事になった。
 祭りの日に門限七時半では厳しいので、清香は親に直談判を試みて、八時半まで伸ばしてもらう事に成功した。

「あれ、今日はこれだけ?」
 優斗の言葉に清香は「咲は清水先輩と一緒、幸恵と留美は予備校が終わったら来るって」と伝える。
 雅樹は神社には来ているが、どこにいるのか不明で、後から合流する事になった。秀雄が「腹減ったな」と口を開いたので、とりあえず出店をざっと流す事になった。
「清香、何かやりたい物は?」
 圭司の声に腕組みをして考えるも「何もない」としか返答できず、男性陣も「なら飯食うか」と手分けして食料調達をする事になった。
 焼きそばやたこ焼きなど、考えつく食べ物は片っ端から買ってきて、神社の片隅に座った。奥の方で、浴衣を着た二人組の女性が、無言で携帯をいじっている。
「雅樹はどこ行ったんだ?」
 優斗は何度も電話を掛け直している様子だが、雅樹は電話に気付いていないらしい。
「そのうち気付いて掛け直してくるんじゃないの?」
 冷静な清香の声に「そっか」ぽつりと言い、携帯をポケットに仕舞った。
「幸恵と留美は八時に予備校が終わるって言ってたから、私は入れ替えで帰るから」
 清香の声に優斗が「え、何で!」と大きな声を上げる。清香は圭司の目が気にならないでもなかった。
「今日の門限八時半だから。八時にはここ出ないと。歩きだし」
 その声に思いがけず反応したのは圭司で「何で歩きなんだよ、俺送って行くよ」と少し口を尖らせている。
「いいよ、折角のお祭りだから、楽しんで帰りなよ。私なら歩いて帰れるから」
「そう言う訳にはいかねぇ。チャリで送ってからまたここに戻るからいい」
 鈴カステラをぽいと空に投げ、口でキャッチすると、清香に顔を向けて「な」と首を傾げてみせる。
 清香は無下に断るのも悪いと思い「じゃぁお願いします」と言って焼きそばを口にした。
 境内の隅に転がっているボールを発見し「ボールだ!」と走ったのは優斗で、その動きは幼稚園児さながらだ。しかしボールに反応しているもう一人もすぐに箸を置き、「勝負」と言って立ち上がる。
 清香と秀雄を残して、圭司と優斗は少し開けた場所でリフティングの勝負を始めてしまった。
「好きだね、二人とも」「だね」
 秀雄は中学まで野球をやっていたけれど、肘を痛めて高校では部活に入らなかった。
「秀雄はリフティングできるの?」
「あいつらみたいにはできないな」
 目の前で跳ねるボールは、一度も地につかないまま、手に触れられないまま、二人の間を行き来する。夕闇の中、二人の顔は生き生きと輝いていて、ボールにというよりは、二人の雰囲気に清香は心を引き寄せられる。
「清香さぁ、圭司で良かったの?」
「は?」
 清香はおかしな物でも見るような目つきで秀雄を見遣る。
「いや、ユウじゃなくてよかったのかな、って」
 圭司と同じような事を言うんだなと思うと、周りからはそう思われてたのだと改めて感じる。完全なる勘違いなのに。
「優斗の事は何とも思ってないよ。何か勘違いされてるみたいだけど」
 秀雄はフハハと笑って清香を見ると、ひと呼吸置いて大袈裟な程の笑みを浮かべて「俺じゃダメだった?」と問うので清香は驚いて目を見開く。
「何それ、何の冗談?」
「圭司じゃなくて俺って選択はなかったのかなって。俺ポニーテールが似合う女の子が好きなんだ」
 自分の後頭部から流れる一筋の髪の流れをぎゅっと握って「何それ」と再び零す。早くリフティングを切り上げて、圭司にここへ来て欲しい。切に願うが、ボールはなかなか地に触れない。
「圭司と別れたら、俺と付き合うって事も考えといてよ」
「バカ言うな」
 たちの悪い冗談、そう言って清香はペットボトルの水をぐいっとあおる。友達の彼女に掛ける言葉か、と怒りすら覚えた自分の顔が、酷く歪んでいるような気がして、暫く下を向いたまま顔を起こせずにいた。
 ポン、と頭を触られ顔を上げると、圭司の顔があった。
「どうした」
 うまく笑えないまま「なんでもない」と言うけれど、きっとうまく笑えていない事が伝わっているのであろう。清香は笑う事を断念し、額に拳を当てた。「後で話す」
 優斗はボールを元あった場所に戻すと「清香の水ちょーだい」と無邪気にペットボトルをかっさらって行く。「あ」と声を出すが「いいよ」と呟くような圭司の声に遮られ、その声があまりにも優しかったので清香は口を噤んだ。

「じゃ、悪いけど先帰るね」
「送ったら戻ってくるから」
 圭司の自転車の後ろに乗り、後から合流した雅樹を含めた三人に手を振って神社を出た。祭りの灯りが遠ざかり、喧噪からも離れる。
「で、さっきはどうしたの、何の話してたの、秀雄と」
 圭司の腰に回した手をぎゅっと強めて「大した事じゃない」と言ってみるけれど「あの顔で大した事ないとか、嘘としか思えない」と言われ、清香は圭司の背中で苦笑する。
「秀雄も、私は優斗の事が好きだと思ってたんだって」
「知ってる。秀雄が俺にそう言ってきた事、あったもん。清香ってユウの事好きなのかなって訊かれて、知らねぇって答えたけど」
 圭司の背中に耳を当てると、心地よい振動として耳に声が届く。それが分かると清香はずっと背中に耳を当てていた。さっき聞いた嫌な事も、何となく浄化されてくような気がしてくる。
「圭司と別れたら、俺の事も考えてって、秀雄が」
 少し身体を捻って「マジでか」と清香に言葉を浴びせる。「マジで」
 暫く無言のまま、自転車は走った。夏の夜空には、見えないぐらいの小さな星しか出ていないし、空気は湿気を帯びていて髪が頬に張り付き、不快だった。心地よいのは、圭司の背中だけ。そう思い、ぎゅっと耳を押し付ける。
「秀雄って頭いいから、何考えてるか分からない事が結構あるんだよな」
 片手でハンドル握って「もしもし」と携帯の着信に応えている。話からすると留美か、幸恵か。
「うん、すぐ引き返すつもりだけど、おう。分かった。じゃ後で」
 携帯を短パンのポケットに仕舞うと「留美だった」と短く言う。「清香によろしくってさ」
 背中に耳を押し付けたまま「うん」と頷く。きっと声は聞こえていない。押し付けた頭の動きで分かってくれるだろう。
 住宅街が見えてくる。もう少し、このままでいたい。もう少しそばにいたいと思うが、それが口に出来ずに清香は「着くね」とひと言を吐く。
「到着ですよ」
 見慣れた玄関の前に自転車は止まる。
「みんなにごめんねって謝っといて。付き合い悪くて」
 圭司の手の平が清香の肩に掛かる。
「気にすんなって。どうせみんなすぐに帰るんだから。また連絡するから」
 じっと圭司の目が清香を見つめる。その視線の意味はおぼろげながら理解できるのに、行動に移せず、口から出たのは「何」という言葉。嫌になる。
「何、って酷いな。ま、いいや。じゃね」
 自転車は無灯火のまま目の前を走り出し住宅街を真っ直ぐ進み、途中から右折して見えなくなった。
 キスをすればよかった。するべきだった。それぐらいはあの視線から汲み取れた。何故行動に移せないのか。清香は自分にうんざりする。



 新学期に入り、席替えが行われた。くじ引きでランダムに並ぶ筈の席替えで、掃除用具箱の前に優斗と雅樹が並んで座っているのは、誰かに何らかの圧力がかかったが故だろう。清香は窓際の一番前になってしまい、優斗達と同じように級友に声を掛けて席を替わってもらった咲達とは離れた。一方圭司は廊下側の前の方になって、これまた一団から外れた。休み時間はいつもの面々にわざわざ加わりに行くのが面倒に思った清香は、声がかかるまでは席を動かなかった。
 集団で群れているのは楽しいけれど、そこにしか居られなくなる寂しさという物も感じ始めている。級友はもっと沢山いるのに、彼ら、彼女らとの交流が殆どない。だれも八人組の中に割って声を掛けてくる者はいない。目立たない級友の中に、もしかしたらとても気が合う人間がいるかもしれないし、清香が知らない事を沢山知っている人間がいるかもしれない。同じメンツで群れているのは気楽である一方、誰かと群れたり、誰とも群れず一人でいる事よりももっと難しいのは、多くの人と話す事だと清香は感じる。
「清香!」
 突然自分を呼ぶ声が聞こえた方に目を遣ると、白いボールが清香めがけて飛んできていた。寸での所で顔の前に手を出し、手の平に勢い良く当たったボールは、跳ね返って天井の蛍光灯を直撃した。幸い休み時間で、偶然にもその直下には誰も座っていなかったけれど、破片は歪な雨みたいに降ってきて、床に散らばった。通りかかった教師が「何の音だ」と教室に入ってきて絶句する。
「誰だ、これやったの」
 教師の声に清香が応えようとすると「俺」と二人の声が重なる。声の主は圭司と優斗だ。
「違う違う、俺だよ。リフティングが飛んでったんだよ」
 優斗が圭司を制してそう言うと、教師は「町田かぁ。ったく。ほら、ふざけてないで掃除しとけ。怪我すんなよ」と言って去って行った。優斗はへらへらしたまま掃除用具箱を開けて、ほうきとちりとりを持って割れた蛍光灯を集めはじめた。清香は黙っていられずに優斗のそばへ寄る。
「ごめん、つーか何で自分がやったなんて言ったの」
 優斗はへらへらと笑う顔をそのままに顔を上げた。
「だって俺らがいきなりお前にパスしたんだもん。俺らが悪い」
 それでもパスを飛ばしてきた方向にいたのは圭司だった。優斗は圭司の分も罪を被っている事に、清香は気付いている。
「手伝うよ。ちりとり持つから」
 そう言ってしゃがみ、優斗と共に蛍光灯を片付けた。ふと目をやると、圭司は自分の席に着いて頬杖をつきながら面白くなさそうにこちらを見ていた。

「あの、き、清香ちゃん、明日日直でしょ」
 目の前におずおずと差し出されたのは学級日誌で、立っていたのは三上さんという目立たない大人しい級友だった。
「あぁ、ありがとう」
 ぱらぱらと日誌を見ると、今日の分は三上さんが書いていて、清香はその字の美しさに目を奪われた。
「三上さん、すっごい字、奇麗だねー」
 日誌から目を上げて三上さんを見ると「そんな事ないよ」と言って真っ赤に頬を染め、目の前でぶんぶんと手を振っている。
「隣のページに書くの嫌だなぁ、三上さんの字、トレースしたいぐらいだよ。すっごい奇麗」
 困ったような顔で笑うと「じゃぁ」と言って逃げるように自席に戻って行く。
 目立たない子。というよりは、日頃気にした事がなかっただけで、目立たない訳ではないのかも知れない。清香に対して少し話し掛けづらそうにしていたのが気になった。周囲から見ると自分は浮く存在なのだろうか。清香だけではない。あの集団が皆、浮いているのかも知れない。自分達が基準になってモノを見ていると分からない。実は自分達が浮いている、という事実。
「清香、お弁当食べるよー」
 咲の声が飛んでくる。毎日の事だ。浮いている場所から抜け出すのはそうそう容易ではないという事実もまた然り。

 帰り支度をすると、圭司の席へ歩いて行く。
「圭司、今日ミーティングの日だけど、帰りどうする?」
 圭司はうーん、と暫く考えて「門の辺りで待ってる。もし居なかったら電話して」と言って携帯を指差した。
「了解」
 清香は鞄を持って部室へ移動した。
 ミーティングの日は三十分程で部活動が終わるため、圭司は清香を待っている事が通例になってきている。それでも毎回、圭司に確認してからミーティングに行くのは、圭司の予定を自分の予定で潰したくないからだった。
 ミーティング中に、今日の授業で使ったジャージを教室に置いてきてしまった事に気付く。誰よりも先に部室を出て、誰にも見られないうちに圭司と落ち合って帰りたかったのになぁと、シャーペンを回しながら考える。市の予選会を通過した清香達バレー部は、県大会に出場する事になった。ミーティングにも力が入る。しかし清香の頭の中は空っぽだ。ミーティングをしたところで、対戦相手のデータが何もないんじゃ話にならない。結局は「気合い論」になってくる。ペン回しを続けていたら、とんでもない所へペンが飛んで行ってしまった。
 ミーティングはいつもより三十分も長く続き、終わるとすぐに席を立ち教室へ急いだ。各教室には数人ずつしか人が残っておらず、主に聞こえるのは運動部が外を走るかけ声ばかりとなっていた。夕方になり薄暗くなった二年六組の教室に小走りで入ると、目の前に意外な二人が並んでいた。
 圭司と留美だった。圭司の顔は驚いたまま引き攣り、留美はなぜか口を塞いでいた。
「あれ、二人?」
 軽く息を切らせながら清香が声を掛けると「うん」と二人が別々のタイミングで返事をする。
「ジャージ忘れちゃってさぁ、取りにきたんだ。何か、大事な話してた?」
 留美が「いやいや」と腰掛けていた机から立ち上がり「もう私は帰るから。それじゃ」と言って教室を走り出て行った。清香は怪訝気な顔で「何なの? 何の話してたの?」と訊ねると、圭司は「特別な話をしてた訳じゃないよ。雑談」と言う。
「にしては変な感じだったね、留美」
 ジャージを袋に詰め込み鞄を持つと、圭司も立ち上がり「さーて、帰るか」とわざとらしいぐらいに声を張る。何だか話をはぐらかされたようだと清香は不審に思う。

「土日はもう休みなしなの?」
 そう問う圭司の声に頷く外なかった。大会が近い。それも県大会だ。
「どっか行ったりとか、全然してないね。お祭り以来」
「だよな。だって清香が忙しいんだもんな、部活で」
 そこを言われると弱かった。好きで始めた部活。いくら相手が彼氏でも、譲れない。部活を引退すれば今度は受験勉強に入るだろう。だから「引退したら暇になる」なんて無責任な事も言えない。
「うちの学校にサッカー部があったら良かったのにね」
「そしたらもっと遊べないだろ」
 そっか、と清香はこめかみを掻く。現状を打開する案は今の所皆無で、県大会で負けて一段落つくまでは、土日はびっしり部活が入っているので、圭司の声に応えられない清香は「ごめんね」と呟くほかない。
「なあ、裏ボタンの話、知ってる?」
 急に話題が変わり、「へ? 何それ?」と訝しんだ声を出した。圭司は前を開けた学ランをヒラヒラと振って見せる。夕日が、学ランに並ぶ金色のボタンに鈍く跳ね返る。
「学ランの第二ボタンは好きな人にあげるっていうじゃん。あれな、うちの学校じゃ、卒業前は裏ボタンをあげるんだって」
 へぇ、と清香が相槌を打つと、圭司はポケットに手を突っ込み、黒い小さなボタンを取り出した。
「これ、俺の裏ボタン。第二ボタンの裏に付けてた奴ね。卒業する時に第二ボタンと交換な」
 差し出され、清香は圭司の手の平から小さなボタンを拾い上げると「ありがとう」と言ってじっと見つめる。卒業する時に。卒業するまで、圭司の隣にいられる権利。校章が掘られた何の変哲もないその黒いボタンが、何か特別な意味を持つと思うと煌めいて見える。ボタンをぎゅっと強く握る。
「お守りみたいなもんだな。多分。なくすなよ」
 笑いながら肘で突かれ、清香も「うん」と微笑むと、そのボタンを財布の小銭入れに仕舞った。
「試合にも持って行くよ」
 鞄に財布を仕舞い、腕を下ろす。清香の手と何となく触れた圭司の手に、再度触れたとき、清香は意を決してその固い手を掴み、握った。圭司は少し驚いたような顔で清香を見たけれど、その顔を少しはにかんだような笑顔に変えて歩を進めた。

10

 県大会の初日は祝日で、遠征という事もあり、朝早くに家を出た。駅に着く頃『頑張れよ』とひと言、圭司からメールが届いた。
 清香は『ありがとう』と返信し、財布の中にある裏ボタンを確認してから電車に乗った。
 しかし、県大会は一回戦で敗退した。相手チームはデータこそないけれど強豪校で、ベンチのメンバーを当ててきたらしい事が後から分かった。それを知った部員達は涙を流した。しかし、ベンチメンバーを相手にしても、殆ど点が奪えないような、一方的な試合展開で、歯が立たなかったのは事実だ。
 悔しさとは裏腹に、これから少しは圭司と過ごす時間が出来るかも知れないという期待も生まれたが、勿論清香はその事を、チームメイトには言わずにいた。ふざけてでも言える雰囲気ではなかった。

 翌朝、いつも通りに教室に入り、自然に目がいった咲に「おはよう」と声を掛けた。返答がなく、聞こえなかったのかと思い、咲の席に近づくともう一度「おはよ」とはっきりした声で言うと「あぁ」と言う声と、怪訝な表情が寄越された。それから咲は隣に座る秀雄の方を向き、お互い苦笑するのだった。清香は暫く唖然としたが、朝早くに、咲達の機嫌を損ねるような事件でも起きていたのかも知れないと考え、自席に座った。
 しかし、咲は後から教室に入ってきた留美と幸恵には「おはよー」と明るく声を掛けている。しかも、清香が「おはよう」と声を掛けた事に対して、二人とも返事をしない。誰も清香の声に反応しようとはしない。

 何、なにがあったの。何が起きているの。
 胸の中に渦巻く何かが、身体を冷やして行く。全身から血の気が引いて行くような感覚があって、息苦しいような気がして、清香は大袈裟なぐらい数回、深呼吸をしてみる。

 いつもは窓際まで歩いてくる圭司が、今日はすぐに自分の席に着いた。朝の挨拶もない。雅樹は後ろのドアから入室したようで、いつの間にか席についていた。唯一、優斗だけが「おっはよ」と言っていつも通りに横を通り過ぎて行ったけれど、他があまりにもショックすぎて、反応が出来なかった。

 私が何か、したのか? 清香は自分の胸に手を当てて考えてみるも、思い当たるフシはなかった。

「昨日は超面白かったねー! また集まってやろうよ」
 咲の大袈裟なまでの「超」という言葉が耳につく。声の大きさも手伝って、清香には不快だった。まるで「昨日」「そこに」居なかった自分に対して投げつけるような物言いだった。
「つーか、あいついなくて良かったね。何か、あいつがいると白けるし」
 ずん、と胸の底に冷たい重りでも降ってきたような感覚があった。息が浅くなる。同調する秀雄の声が耳に大きく響く。
「しらっとしてんもんなー、あいつ。いなくて正解」
 幸恵も、留美も加わって、「そこにいなかった人」についての話題で持ち切りだ。
 どうひいき目に捉えても、それが清香の事を指して展開されている話なのだろうという事は、清香が一番分かっている。全ての会話の音声が、わざとらしく清香の方に向けて発せられているから、それ以外に考えられない。
 急に襲われた吐き気で、目の前が真っ青に染まる。口元を軽く押さえたまま席を立ち、その日日直だった鈴木君に「保健室行ってくる」と言って教室を出た。途中、トイレに寄って少し嘔吐し、それでも収まらない軽い吐き気を抱えたまま、保健室に向かった。

 二時間目の終わりまで保健室で休ませてもらうと吐き気は大分落ち着いた。日直の鈴木君が様子を見にきてくれたので「もう大丈夫です」と保健医に伝え、清香は鈴木君と教室に戻る事にした。礼を言った清香に鈴木君は軽く頷いて返事をした。
 教室に戻るにも気力がいる。また何か言われるのだろうと思うと、足が鉛のように重くなる。早く、部活に行きたい。教室には戻りたくない。淀んだ空気を想像すると、また胸焼けのように気分が悪くなる。
 渡り廊下を歩いていると、向かいから留美が歩いてきた。知らぬ振りをして通り過ぎるのだろうと思って清香は目を合わさず鈴木君の後ろを歩いていると、何故か留美はこちらへ掛け寄ってきた。
「清香、大丈夫? 風邪?」
 留美は肩を抱くような仕草をする。清香は不審な顔をしながらも「大丈夫」とだけ答え肩に乗った腕を解き、異様な雰囲気に戸惑う鈴木君に「行こう」と声を掛けて教室に向かった。
 ドアを入った時の視線が、とても冷たく、痛い。清香にとって初めての経験だった。いじめ、シカト、無視。無意識にいじめる側に加担している事はあっても、いじめられる側になった経験はなかった。教室という日常空間にいるだけなのに、こんなにも気力を使うのかと、目眩を覚え、縋り付くように席に着く。
 今日は一度も圭司と話していない。誰も話し掛けて来ない所を見ると、「昨日」いたメンツは清香を抜かした七人だったのだろう。昨日何かがあった。だからこうなっている。圭司は何かを知っている。だから清香に話し掛けて来ない。曲がりなりにも「彼氏・彼女」の関係なのに、こういう仕打ちを受ける事に清香は惨めな気持ちになり、項垂れる。
 後から教室に戻ってきた留美は、先程とは一転して、清香に対しあからさまに嘲笑を含んだ一瞥をくれると、自席に戻って行く。そしてまた「昨日」の話をし、そこにいなかった清香を槍玉に上げ、笑う。
 醜い、笑い声。蔑みの視線と嘲笑。
 その日、清香は自分の席で一人で弁当を食べた。さっさと食べ終えて、部活の仲間の所にでも行こうと考えていると、学食から戻ってきた優斗が、ふらりと清香の席に近づいた。清香の後ろの方で「ちょっと優斗!」と咎める声がするものの、優斗は清香を見つめている。
「何」
 そっけない清香の言葉に、優斗はしゃがんで机に頬杖をつくと「大丈夫?」と瞳の色を伺うようにじっと視線を寄越す。
「優斗こそ大丈夫なの? 私の所なんかにいるとあの人達に何か言われるんじゃない? つーか実際呼ばれてましたよ、優斗君」
 ちらっと清香の後ろに視線をやり「別にいいんでない?」と軽く笑う。清香の視線の端に圭司が映った。彼が席に着くと、そこへ留美が歩いて行って、何やら話をしている。
「大丈夫?」
 再び同じ事を訊かれ、清香は頭を抱えた。「私、あんた達に何かした?」
 自分では抑えていた筈なのに、心は声に出てしまう。震える声を優斗は優しい瞳で受け止める。
「清香が何もしてないと思ったらそれでいいと思うよ。あいつらは」
「優斗! ちょっと!」
 後ろから声がかかり優斗は話の腰を折られ「ごめん」と言うと去って行った。優斗はあの人達と共謀するつもりはないようだが、それはそれで優斗の立場を危うくしてしまうのではないかと、清香は混乱する。
「なんかー、秀雄に告られたとか言ってたんでしょ、あの女」
 咲の甲高い声が、頭の後ろに突き刺さる。鉄球でもぶつけられたような衝撃を受ける。夏祭り、隣に座った秀雄の挑戦的な笑顔が浮かぶ。咲にその話をした覚えはない。誰が話をしたんだ。
「まずあんな女、俺の趣味じゃねーし。自分がモテるとか思ってんじゃね? 超勘違い女。自意識過剰って机に貼っとこーぜ。背中にするか」
「触るのー? マジ勘弁」
 話題の中心にいるのは咲と秀雄。そこに同調する留美と幸恵。雅樹は話にはのっていないけれど、共謀しているのだろうか? 圭司は相変わらず、何も言わないまま、自分の席について脚を組んでいる。

 翌朝も同じだった。教室に入るなり、秀雄と咲の冷たい視線と嘲笑。清香は一応おはようと声を掛けたけれど、返事が来る筈もなく、勿論期待もせず。昨日と同じ流れだった。全員揃った所で清香への中傷が始まる。
 一対一だったら、何か言い返せたかも知れない。二対一でも平気だっただろう。しかし現状、六対一。これでは清香が白を白と言っても向こうが黒と言えば黒になってしまう。
 背後から浴びせられる罵詈雑言をなるべく耳に入れないようにして、教科書に目を落とす。視線の片隅に、線の細い女子生徒が映ったので顔を上げる。三上さんだった。
「どうしたの?」
 清香がパタンと教科書を閉じて彼女を見ると、三上さんはとても言い難そうに口を少し動かした後に、やっとの事で口を開いた。
「何か、川辺さん達が清香ちゃんに、色々言ってるみたいだから、大丈夫かなって。清香ちゃん。昨日、保健室行ってたし」
 緊張した面持ちのまま自分を心配してくれる三上さんに、清香は無理矢理作った笑顔で「大丈夫だよ。相手にするつもりないし」と笑いかける。三上さんも、危うく泣き顔のようにみえる笑顔で返す。
「清香ちゃんって、強いんだね。私だったら泣いちゃうよ、あんな風に皆の前で言われたら」
 三上さんのふんわりとした優しい声を聞いていたら余計に辛くなってきて、「あんまり私と関わらない方がいいよ」と言い、彼女を席の方に押し帰した。すると入れ替わりに背が高い学ラン姿が視界を遮る。見上げると、登校してきた優斗だった。
「優斗!」
 また後ろから声がかかるのだが、彼は気にせず清香の目の前にしゃがみ込み、話を始める。
「一昨日、清香以外の七人で集まってさ、学校の裏にあるちっさい公園で酒飲んだんだ」
 清香は訊ねてもいない「あの日」の話が始まって拒絶したい気持ちだったが、きっと優斗は何かを伝えたいのだろうと思い、「それで」と先を促す。肩にかかった鞄がずり下がってきたのが鬱陶しかったのか、どさっと床に置く。その時丁度、圭司が教室に入ってきた。
「でな、酒が入って酔ってたんだ。留美と圭司が、うん、キスしてさ。付き合うって言いだした」
 顔面を両手で覆った。それに意味があったとは言いがたい。目一杯手をひろげて、惨めさに歪んだ顔を押し潰す。唇が小刻みに震える。自分の力ではどうする事もできない不随意運動を受け入れる。泣いていたのかも知れない。しかし泣いている事を優斗に悟られると、優斗は自分に優しくすると思い、清香は必死に涙を堪えた。優斗は何も言わず、その場にしゃがんでいる。静かな息づかいだけが、頭の上から降ってくる。
 背後から乱暴な足音が近づいてきて「優斗、何でこんな奴の所にいるの」と咲が優斗を連れて行った。

 留美と圭司がキスをした。付き合う事になった。二人がそう言う選択をしたのなら、それは仕方のない事。酒が入っていようとも、翌日その事実を翻さなかったのだから、清香に勝算はない。留美と圭司が教室で二人きりで話をしていた日の事が思い浮かんだ。留美はずっと、圭司を思っていたのかも知れない。
 それと自分がいじめられる事と、何の関係があるのか、清香にはさっぱり分からなかった。

11

 移動教室があると気が休まるのだが、次の授業は必修科目の英語で、移動がない。とにかくあの集団の言葉を聞いていたくなくて、清香は教科書とノートを机に用意すると、トイレに立った。
 鏡に映った自分の顔は、酷くやつれていた。あの集団に関わらないようにしようと思っても、同じ室内にいるかぎり、声は聞こえてくる。聞かないようにしても聞こえてしまう耳の機構は不便だとさえ思う。頬を二度叩いて、教室に戻った。

 席に着き、異変に気付いた。机に置いてあった筈の教科書が消えている。首を傾げ、机の中に入っている教科書類を全て出してみるも、そこに英語の教科書はない。手の平に嫌な汗をかく。後ろから、クスクスと笑う声が聞こえてくる。窓が開いているのか、すーっと風が吹き込んでくる。
「浮いてる?」「浮いてる。秀雄コントロールいいね」
 池に何かが浮いているのは、彼らの会話から想像できる。何が浮いているか、も。
 震える手を握り、俯く。思いがけず瞳を覆う涙は、瞬きをすると落下すると思い、瞬きを堪える。
 すっと横を通った優斗が、清香の机に薄汚れた英語の教科書を置き、教室を出て行った。教科書には白い紙が挟まっていて、教科書の裏を見ると、「町田優斗」と名前が書かれている。紙には「分かりやすように線とかひいといて」と優斗の乱暴な文字で書いてある。
 すぐに英語の教師が入室してきて、日直が号令をかけると、出席を取りはじめた。
「なんだ、町田はさぼりか」
 優斗が出て行ったドアの方に目をやると、圭司と目が合ってしまい、どちらからともなく視線を外す。
 授業が始まって十分程して、教室の後方のドアが開き、優斗が入ってきた。教師に咎められると「教科書借りに行ってた」と言って席に着く。何となく、今起こっている出来事が飲み込めてくる。清香は授業のポイントポイントを教科書に丁寧にメモ書きし、少しでも優斗に恩返しが出来るようにした。優斗の教科書は、外見こそ薄汚れているけれど、授業ではろくに開いていないのだろう、中は奇麗なままで、そこにペンを滑らせる。

 放課後、優斗が清香の席まで英語の教科書を持って歩いてきた。「ん」と手渡された教科書は、水に濡れて重くなっている。清香は机の中から優斗の教科書を取り出し「ありがとう」と言って引き換えた。ありがとう、の一言で済ませたくなかったが、それ以上の言葉が思いつかず、下唇を噛んで言葉を探す。
「今日、圭司に電話させるから。まぁ、あんまりいい知らせじゃないけど、もう分かってるから、いいっしょ」
 歪んだ優斗の笑顔に、清香も必死に笑顔を刻もうとするけれど、目尻に滲んでくる涙が抑えられなくて俯く。
 視界の端を、圭司と留美が鞄を持って下校して行く姿が掠めるが、もう、どうでも良くなった。そんな事はどうでも良い。
 いつでも優しく笑い掛けてくれるはずの優斗が、必死に作ったような歪んだ笑顔をみせる事の方が、今の清香にはよっぽど苦しく、痛く、堪えた。

 携帯の着信に、一つ大きな溜め息を吐いて、通話ボタンを押した。そのままベッドに寝そべる。
『清香?』
「うん」
『別れて欲しい』
 清香は再び溜め息を吐き、そして口を開く。
「留美とキスしたって、本当?」
 優斗が嘘をつく訳がないから、この返事は分かっている。しかし当事者から聞いておきたかった。何事もなかったかのように清香の身体の心配し、肩に腕を回した留美が、許せないからだ。
『本当だよ』
 それで十分だった。電話の向こうで圭司が何か言うのが聞こえたけれど、清香は一方的に電話を切った。

 翌朝、登校するとすぐ圭司の机に、裏ボタンを置き、それから自席についた。
 卒業する時に第二ボタンに引き換えると言っていた裏ボタン。あっという間に返却する事になるとは思ってもみなかった。あのボタンは留美の手に渡るのだろうか。
 いつも通り、優斗は登校するなり清香の席の前にしゃがんだ。
「昨日、電話掛かってきた?」
 清香は無言で頷き「全部終わったから、もう私の事、気遣わないでいいから」と笑ってみせた。
「顔、引きつってますけど。あと、別に気なんて遣ってないから、俺」
 肩をぽんと叩かれ、優斗は自席に向かって行く。後ろの方で「またあいつと喋ってたのー?」と咲に糾弾され、それでもへらりとかわしている優斗の真意が分からない。自分と関わっていたって良い事なんて一つもないのに、と清香は首を傾げる。
 後ろから歩いてきた留美が、通り様に清香の机に紙切れを置いて行った。罵詈雑言でも書いてあるのだろうと思い、広げてみる。
「中休み、渡り廊下に来て」

 教科書類は全て机にしまって、中休み、渡り廊下へ向かう。まだ少し暖かい秋の日差しが差し込んで、窓ガラスから半透明の線が何本も走っている。
「清香」
 留美と幸恵が並んで歩いてくる。今度は何だ、と清香は身構える。二人は清香の前に立つと、体裁が悪そうな顔で目を伏せている。初めに口を開いたのは留美だった。
「あのさ、まずは圭司の事、ごめん。もう別れたから」
 清香は留美をちらりと見て、ふぅん、と声を漏らす。
「それと、無視したり、色々酷い事言って、ごめん。咲に逆らえなくて」
 それもふぅん、と返す。話にならない、と思い清香は額に手の平を押し付け、身体の中身を押し出すような気持ちで口を開く。
「あのさぁ、咲に逆らえないなら、逆らわなければいいじゃん。どうしてこうやって、自分は悪くないよって、こそこそ言い訳しにくるの? 咲より質が悪いよ、こういうの」
 二人は「ごめん」と揃ったように言い、留美に至っては整った顔を歪めて涙まで流し始める。
「泣かれても、今されてる嫌がらせの数々を許す気はないし、今後君達二人と仲良くする気もないし、圭司の事も、どうでもいいし。本当に心から悪いと思ってるなら、咲と手、切ってから謝ったら?」
 二人からの返答はなく、清香はわざとらしく溜め息を吐くと、二人をそこに残して教室へ戻った。後から、涙を流しながら留美が教室に入ってくるのを見て、清香は胸の中にどろりとした気味の悪い物が湧く感じがした。偽善者は大嫌いだ、とでも言ってやるべきだったと清香は思う。

12

 教室に、ストーブが置かれる季節になった。昔ながらの石油ストーブには、水が入った薬缶が乗せられ、時間が経つにつれ口の先から蒸気が吹き出す。ストーブの目の前の席は、冷え性の清香にとっては特等席だった。
 反応の少ない清香をいじることに飽きて来たのか、冷たい視線を浴びせる以外、悪意を言葉として浴びせられる事はなくなってきた。気を遣った三上さんが、一緒にお弁当を食べようと誘ってきたが、時々顔を出すぐらいに止め、自席で小説を読みながら弁当をつつく日が続いた。
「寒いな」
 そう言って清香とストーブの間に入り込んだのは優斗で「そこにいられると邪魔なんだけど」という清香の声に「冷たい人」と言って半歩ずれ、しゃがんだ。必ず目線を合わせようとする。学ランの襟から、パーカーのグレーのフードがだらりと垂れている。
「あれから、圭司とは話した?」
 読んでいた小説に栞を挟み、パタンと閉じると「話題もないし、切っ掛けもないし」と言いながら鞄に本を戻す。
 優斗は何か言いたげな顔で根元が少し黒くなった金色の髪を撫でている。歯痒くて「何か」と先を急かせる。
「あのさ、バレー部の富山さん、紹介して。俺タイプなんだ、あの人」
 あまりに唐突な話に清香は数度瞬きをして「どーゆー事?」と問う。
「言った通りだよ。何か二人っきりで話せる場をセッティングしてよ」
 急に言われてもなあ、と返事に窮し、暫し考える。
「話してみるよ。あんま期待しない方がいいよ。とみーはヤンキー嫌いだから」
 俺ヤンキーじゃねえし、との苦し紛れの言い草に清香は苦笑しつつも、嬉しかった。いつもは清香の事で心配を掛けたり、気を遣ってもらってばかりだったのが、少しは恩返しできそうだ、と。それに、優斗と清香の間には恋愛感情が介在していないという事も、これで周知できるだろうと思うと、少し気持ちが軽くなる。
 次の休み時間には、富山の教室に向かい、呼び出した。事情を話すと「えー、清香と仲良しのヤンキーの金髪でしょ、苦手」と、予想通りの回答が得られたので、思わず吹き出す。
「見た目はあんなんだけど、中身はほんっとにいい奴なんだ。話だけでもしてみない?」
 富山は半信半疑といった面持ちで清香の顔をマジマジと見つめ「嫌だったら嫌って、言っていいんだよね?」と釘を刺す。
「勿論、気に入らなければ、責任をもって持ち帰りますので」
「清香が言うなら無下にできないな。今日のミーティング後ならいいよ。教室で待ってるって伝えて」
 富山の手を握り「ありがと、とみー」と言い、それから教室へ向かう。なるべく教室の後方には目をやらない。入口付近にも。
 ストーブの前には暖をとっている優斗がいた。学ランの下にパーカーまで着ていて、それでも寒いのかと唖然とする。
「今日、ミーティングが終わったら時間作れるって。とみー、教室にいるってよ」
「清香、マジ神」
 嬉しそうに頬を持ち上げている。優しい人は幸せになるべきなんだ。優斗は好きな子と幸せになるべき。清香は暫く沈んでいた心が、少し持ち上がるような気がした。同時に、自分の事を心配していてくれた優斗が、自分から少し離れた場所に移動してしまうのか、とも思い、自分が優斗の優しさに依存していた事に気付かされる。

「どうだった」
 翌朝登校して来た優斗は、苦笑いで「金髪はちょっと、だって」と髪をくしゃっと掴んだ。
「ま、人格否定されるよりいいんじゃない? 優斗の良さはきちんと推しておいたから」
 へラリと笑って「サンキュ」と短く言う。それ以上二人の会話の内容について詮索はしなかった。結果は結果として受け入れるだけの事だ。富山にはその気が一切ないという事。
 いつも通りしゃがみ込み、清香に目線を合わせる。いつもより少し真面目な顔つきに、清香は何かを感じ取り、口を噤む。
「清香とは、ちゃんと話しておきたい事がある。明日の土曜、部活は?」
 しばし考えて「午前で終り」と答えると「じゃあ終わったら門のとこで待ってるから。途中まで送る。何だっけ、長居公園、あそこで話そう」
 そこまで言うと清香の返事は聞かずに立ち上がり、ぐーっと伸びをしたと思うと伸ばした両手で清香の前髪をグチャグチャにする。
「何すんの」
 清香が手櫛で直すと、「何でも」と一言残して、雅樹の名前を呼びながら後ろの席に戻って行った。圭司がストーブの向こうを通ったけれど、清香は顔を伏せた。

13

 翌日、部活を終えて正門まで歩くと、携帯に目を落とした金髪の優斗が、ひらりと手を上げた。後ろで後輩達がヒソヒソと話しているのが聞こえる。清香はクルッと振り向いて「彼氏じゃないからねー」と一言を蒔いて、優斗の元へ駆け寄った。
「あの一言は必要なのか」
 パタンと携帯を折り、デニムのポケットにしまう。
「先輩が金髪ヤンキーと付き合ってるなんていう悪い噂が立つのは嫌ですから」
 その言葉に優斗は苦虫をかみつぶしたような顔をして「俺、黒髪に戻そうかな」と自分の髪を撫でた。
 途中のコンビニで飲み物を買って、長居公園に入った。夏に、圭司と飲み物を買って話をした事を、否が応でも思い出してしまう。
「向こうのベンチにしよう」
 夏の強い日差しを避けるために圭司と座ったベンチとは、反対にあるベンチを指差し、向かった。強い風が一瞬吹き付け、清香は身震いをする。念のためにブランケットを持って来ていた事を思い出した。
「それで、話とは?」
 ベンチに腰掛ける清香の声に、うん、と一呼吸置いて額に揺れる金色の前髪を一度掻き上げると、優斗はゆっくりと話し始めた。
「一連の、清香への嫌がらせ。あれの根源は、秀雄と咲だ」
 大凡分かり切った話に「それで」と目を伏せて促す。
「圭司と留美をけしかけたのも、清香へのシカトを決めたのも、嫌がらせをしたのも、中心は二人。他の奴らは追従してただけだ」
「追従してた奴らだって、表では追従して嫌がらせに加担して、裏では私に謝りに来たんだよ。それってどーなの」
 初めて聞く事実らしく「マジでか、汚ねぇなあ」と優斗は顔を顰める。
 すーっと、初冬の風が公園の中をすり抜けると、枯れ葉が乾いた音を立てて移動する。優斗は首をすくめて寒そうにしている。清香は首に巻いていたマフラーを外し、鞄に入っていたブランケットを首に巻くと、それまで巻いていたマフラーを優斗の首に巻いた。
 珍しく頬を赤く染める優斗を見て思わず「顔色」と口に出す。優斗は「あ?!」とあらぬ声で威嚇する。
 暖かいミルクティの缶を開けて一口飲むと、「分からない事がある」と清香は切り出した。
「何? 分からない事って」
 清香はブランケットの端をクルクルと丸めながら、寒風に顔を顰め、口を開く。
「優斗はあんな状況で、何で私をフォローしたの。何度も秀雄達に呼び戻されてさあ、それでも私の所にいたのは、何で?」
 ベンチに腰掛け直すと一度深呼吸をして優斗は少し悲しそうな笑みを零す。
「同じだからだよ」
「同じ?」
「俺も中学の時、同じ目に遭った」
 掴めない程の遠い目をしながら、今度は笑いの欠片もない真面目な顔で続ける。
「俺は誰にも嫌われたくなくて、皆に優しくしてて、それがたまたまクラスの目立つ奴の気に障ったってだけで、無視されて、陰口叩かれた」
 一度コーヒーを口にして溜め息を吐くと、ちらりと清香を見遣った。
「今回の清香だってそうだよ。清香は何も悪い事してない。酒を飲んで酔っぱらった留美が、圭司に告った。酔っぱらった圭司はキスをした。それだけの事で、その場にいない清香を悪者扱いし始めて、あんな風になった。多分、秀雄は清香の事が好きだった。清香と圭司が別れる事は秀雄に都合のいい事か、どうでもいい事か、どっちかだった」
 神社の脇で、秀雄に言われた言葉を思い出すと、背筋が寒くなる。無下にした事もひとつの要因か。
「切っ掛けなんて、あいつらにとっては何でもいいんだ。ただ、誰かを自分より下に見たいが為に適当にでっち上げて、標的にする。連帯意識みたいなものが、楽しいんだろうな。仲良しごっこ? 俺はそれをされた経験があったから、あいつらには加担しなかった。理由もなくあんな事されるのが辛いってのは、分かってんから」
 鼻の奥がツンとして、清香は涙の予感がした。それでも耐えて、声が震えるのが悟られないように、口を噤んでいた。
「もっと俺が、積極的にあいつらに、やめるように言えたら良かったんだけどな。やっぱり俺も、過去の経験を繰り返したくないから、あれぐらいの事しか出来なかった」
「十分だよ」
 呟くようにしか聞こえない清香の声に「へ?」と聞き返す。
「あれで十分。優斗が傍にいてくれたから何とかなった」
 優斗は「英語のメモ、コピーさせてくれたじゃん、あのお返しだから」と言って歯を見せて笑った。それは作り物の歪んだ笑みではなく、心からの笑みだった事に清香は安堵した。
「圭司の事はもう、忘れられそう?」
 缶コーヒーを一口煽りそう言う優斗に対し、清香は少し考え首を捻る。
「正直、まだ目の前で見ちゃうとドキドキするけど、時間の問題じゃないかな。卒業する頃にはもう、ゴミ程度にしか思わなくなると」
「ゴミって酷いな! 俺もゴミか?」
 清香は暫く考え「ゴミ収集車」とやっと笑う事が出来る。首を傾げる優斗は「割と扱いが酷いんだな」と笑う。
 久し振りに笑った気がする。優斗の前できちんと笑ったのは久々だ。
 笑い声を上げながらどちらからともなく立ち上がり、公園の出口に向かう。金属製のポールを通り過ぎた所で立ち止まった。
「わざわざ、ありがとね」
 優斗は少し黙ってマフラーを外すと清香に差し出し、それから目を細めて笑い、言った。
「俺は味方するから。教室じゃ話しにくい事があったらメールでもして来いよ」
 はにかんだ笑顔で「そーする」とマフラーを受け取り、「じゃ」と言って別々の方向に歩き出した。
 ちょうど公園の敷地を出たところで圭司に出くわした。圭司は清香を見て、遠くにいる優斗を見て、短いため息を吐くと、駅の方へと歩いて行った。

 一度濡れた教科書は、シワが取れないけれど、乾くまで触らずにおいたから中身には影響がなかった。
 優斗の優しさの根源が、残酷な出来事にあったとは想像していなかった清香は、優斗だけは幸せであって欲しい、そう改めて思う。富山に考え直して欲しいと話をしてみようと考えていると、携帯が震えた。着信は、圭司からのものだった。
 携帯を手にするも、通話ボタンを押すかどうか迷い、そのうち留守番電話に切り替わった。鼓動は強く胸を打ちつけ、留守番電話のアナウンスが聞こえてくる携帯電話は、あからさまに震えている。もう片方の指で、通話ボタンを押す。
「はい」
『清香』
「うん」
『今、家の前にいるんだけど、出て来れない?』
 立ち上がり、カーテンの隙間から外を見ると、家の前に黒縁眼鏡を掛けた圭司が立っていた。
 波を描く英語の教科書をじっと見て、意を決する。
「待ってて」
 携帯を閉じてポケットにしまい、上着を羽織ると母親に「ちょっとすぐそこまで出てくるから」と声を掛ける。母親は背後で何か言っていたけれど、無視した。
 私道を遮るポールに身を預け、圭司が立っていた。
「何」
 平静を装い声を出したけれどそれは驚く程震えていて、胸の鼓動は耳にまで響いてくる。
「今日、ユウと何話してたの」
「圭司には関係ない」
 視線は足元に落としたまま、震えが伝わらないようになるべく腹から声を出す。さっと巻いてきたマフラーを、もう一度首に巻き直す。
「やっぱり、ユウの事好きなんだろ」
 清香の胸の中を怒りが去来した。優斗の気持ちを知らないくせに。
「圭司には関係ない」
「それは図星って事だよな」
 苛立ちが頂点に達した清香は、マフラーの端をぎゅっと掴んで「あのねぇ」と口を開く。口の端が痙攣する。
「優斗の事は特別に思ってない。だけど私があんな状況になっても私の事を心配してくれたし声も掛けてくれた。自分も同じ目に遭うかも知れないのにね。だから好きだよ、優斗の事は。少なくとも圭司の事よりはね」
 白い息とともに全てを吐き出した清香を、圭司は暫く無言で見つめ、それからスッと視線を外すと言った。
「謝ろうと思ってたよ、俺だって。何度か機会を伺ってた」
 さっきよりも強い調子で清香は圭司に向かって言葉を吐き飛ばす。
「思ってたって行動に移さなかったでしょ。私がいじめの標的になっても知らんぷり。留美だって表では咲に同調しておきながら裏では謝りにきた。あんた達、何なの。言ってる事とやってる事の矛盾にも気付かないなんて、人として最低だよ」
 俯いた圭司は眼鏡の位置を直し「そうだな、最低だな」と自分に言い聞かせるように呟く。そのまま口を閉ざしてしまった。苛ついた清香が感情を隠さず声を出す。
「で、何が言いたくて呼び出したの。そろそろ宿題やんないとヤバいんだけど」
 圭司を見遣ると、彼は俯いたままで地面を何度か蹴った。白い息が、ふんわりと吐き出される。
「元に戻りたいと思った。でも無理だな、この感じじゃ」
 トクン、と身体を揺らす程の鼓動が、胸を打つ。圭司の事が好きな自分は、まだ清香の中に存在している。しかしこれまで受けた仕打ちは許しがたいもので、好きだという気持ちすら覆い隠してしまうもので、清香はきっぱりと言った。
「無理」
 自分が決断した決別の判断に戸惑いながらも、玄関に向かって歩いた。視界がぼやけるのは何故なのか。
「清香」
 玄関の階段を上る足を、止める。
「悪かった。友達に戻ろう」
 真っ直ぐな視線を跳ね返すように、清香は圭司の瞳を見つめた。
「優斗に謝って」
 玄関に入り、扉を閉めると、真っ直ぐ自室へ向かった。一筋の涙は頬を伝い、それ以上出てくる事はなかった。これで、終わりだ。

14

 登校し、担任が教室に来る間、携帯でニュースを見ていると、「おーっす」と目の前に優斗がしゃがみ込んだ。
「おはよ。どうした?」
 パタンと携帯を閉じると、優斗は「英語のあれ」と言う。
「何?」
「まとめたやつ、また作ってよ。俺の分と、雅樹の分」
 意外な人物の名前が出てきて「雅樹?」と怪訝気に訊き直す。
「俺のペン入れに入ってた英語のまとめ見て、雅樹も欲しいって言ってたから」
 あぁ、そう、とおぼろげな返事をして引き受ける事にした。夏の試験で使ったメモを、捨てずにおいた優斗のズボラさが少し可愛らしかった。
「なぁ、とみーさんに俺の事、何か訊いた?」
 何も、と清香は首を振る。優斗から結果だけを聞き、詮索はしなかった。しかし、優斗の優しさに触れて、富山に改めて働きかけをしようと思っていた所だった。
「君の事は悪く言わないから。私に任せておきなさい」
 ペンケースで優斗の肩をトンと叩くと、優斗は口元を引き上げて笑い、「期待してます」と言って自席に戻って行った。

 最近になって、咲はクラスにいる事が減った。朝登校するとすぐ、学年でも目立つ女子グループの居場所である渡り廊下に屯している。クラスにいる時は留美と幸恵と一緒にいるけれど、休み時間になると大抵咲はいなくなる。ついに咲は荒れはじめた訳だ。時々後輩の不良男子生徒を従えて、学内を闊歩する姿を見かける。あれがかっこいいと思ってやっているなら、かなりおめでたいな、と清香は冷ややかな目で見ていた。

「できた?」
 今日までに作っておくと言ったまとめメモを引き取りにきた優斗は、また目の前にしゃがんで、清香の顔を覗き込む。
「できましたよ。雅樹にはコピーしてあげて」
 そう言ってメモを手渡すと「サンキュー」と言って教室を出て行った。入れ替わりで目の前に立ったのは、圭司だった。
「相変わらず仲がいいな」
 清香は返事もせず、英語の教科書に目を落としていた。所々が波打っていて、定規を当ててもまっすぐ線が引けない。上から押さえつけるようにしてアンダーラインを引く。
「その教科書」
 疎まし気な顔で見上げる清香を見て、圭司は少し怯んだように見えた。
「あいつらに、落とされたのか」
「落とされたのか、っていつの話だと思ってんの。拾ってくれたのは優斗君です」
 そう言ってまた教科書に目を落とすと、今度は別の影が目の前を遮る。目を遣ると、雅樹だった。
「メモ、サンキュ」と言って机にぽんと置くと、後ろの席に戻って行く。彼と言葉を交わすのは随分久しぶりだった。
「優斗」
 清香は後ろに声を飛ばすと、優斗が腰パンを引きずって歩いてきた。金髪の一カ所が、寝癖で跳ねている事に気付く。
「頭、下にして」
 優斗は言われる通りに頭を下げ、清香は寝癖の部分を手櫛で少しほぐし、整える。
「はい、終わった。それとメモね、原本です」
 雅樹から返ってきたメモを優斗に渡すと「雅樹、俺に返せって言ったのに」とぶつぶつ言いながら、席に戻って行った。
 清香に直接メモを渡しにきたのは雅樹なりの感謝の表し方だったのかと思うと、清香は何だか嬉しかった。
「ユウには叶わないな」
 傍で黙ってやり取りを見ていた圭司がそう言うと、清香はシャーペンをくるくると回しながら目を伏せ、少し笑った。
「本当に優しい人は、軸がぶれないんだよ」
 フッと溜め息のように笑って圭司は自席に戻って行った。

 三月にしては少し暖かい日だった。窓から入る日光と、ストーブの暖かさに茹だりそうだった清香は、ストーブの傍の窓を開け、窓の桟に身体を預けながら外を見ていた。清香の左下には池がある。そちら側の窓からは秀雄が顔を出している。できれば顔を合わせたくないから、清香は窓から顔を出さずに風に当たる。
 窓の下を、学ランを着崩した二人組が歩いている。二人とも、咲達の一団と行動をともにしている一年生の不良だ。ふとこちらに目をやると、やにわに叫びだした。
「てめぇ、川辺さんに逆らうとぶっ殺すぞ!」
 暫く清香は、自分に言われた事なのか判断がつかず、じっと彼らを見ていた。窓の横の方から、秀雄の下品な笑い声が聞こえる。不意に後ろから人の気配を感じた。
「おい。お前ら捻り潰すぞー」
 優しい兄貴のような口調で清香の横から顔を出したのは優斗で、「ま、町田さんだ」と学ランの二人は頭を下げている。隣にきた優斗を清香が見上げると「あいつら、俺の言う事なら聞くんだ」とケタケタ笑っている。
「凄いね、町田さん」
「まぁね」と言って金髪の頭を撫でている。いざという時に必ず助けてくれる、まるで正義のヒーローのようだと清香は思い、吹き出す。

15

 高校三年に上がり、クラス替えが行われた。進学組と就職組、理系と文系に別れた。過去につるんでいた七人とは全て分かれ、清香は富山と同じクラスになった。
 隣のクラスになった優斗は、時々教室に顔を出し、富山の顔を見に来ているくせに、富山の所には行かず清香の席に来る。思いの外照れ屋なのだなと思うと、優斗を応援してやらなければと使命感にかられ、富山に優斗を推す。
「ねぇ、優斗の事はどうなってんの。もうちょっと時間くれーって言ったままじゃん。優斗、毎日とみーの顔見に来てるのに」
 富山は少し吹き出すのを我慢して身体を震わせ、我慢しきれなくなった所でぶわっと笑った。
「清香って鈍いねー。町田君が本気で私に惚れてると思ってんの?」
 鈍いという言葉に頭を殴られたような気がして「何だとー」と言い返す。
「町田君は、あ、これ内緒ね。町田君は、私に告白するという名目で私に近づいて実は、清香が部活では元気にやってるか、とか、クラスではこんな風なんだけど、フォローしてやってよ、とか、そう言う話をしにきたのだよ。ほら、清香色々あったじゃん」
 もう一度ハンマーで殴られたような衝撃を受ける。今度は異質だ。優斗は本気で富山に気があるのだと思い込んでいた。全ては清香のための行動だったなんて、思いも寄らなかったのだ。
「知らなかったんだ?」
「知らなかったよ、そりゃ。だってとみーがタイプなんだって言ってたんだもん」
 あいつ後でフルボッコ、と呟くと「内緒って言ったでしょ!」と釘を刺され、仕方なく清香は頷く。
 そうなると、今でもこの教室に顔を出すのは、自分を心配しての事なのか? と疑問がわく。嬉しい反面、いつまでも守られていてはいけないという思いもあり、双方が交錯する。

 体育は男女別二クラスの合同で行われる。清香のクラスは、咲のクラスと合同で、何とも気が進まない合同体育だ。清香は毎週この時間が憂鬱で仕方がない。
 この日の種目はバスケットボールだった。積極的にボールを拾いに行く富山に対し、清香はいつも通り、コートの隅っこをほっつき歩いて、教師に「真面目にやれ」と指を指される。富山は何でも全力で立ち向かうタイプの典型で、その性格が買われて今はバレー部の主将を担っている。
 富山のチームがコートに入って行き、清香はコートサイドに座って休憩をしていた。もう汗ばむ季節になっているけれど、手に持つタオルの必要がないぐらい、清香は動いていなかった。
 隣に、人影が近づき、そこに腰を下ろす。見ると、咲だった。清香は思わず目を見開く。
「何か、超久しぶりじゃない? 清香と喋るの」
 清香は煙たそうな顔で「はぁ」と声を漏らす。相変わらず「超」の発音が耳障りで耳を塞ぎたくなる。咲は上機嫌の様子で清香の顔を覗き込むと言った。
「あのさ、色々あったけど、仲直りしようと思ってるの。仲直り、して?」
 首を傾げ、口には笑みすら浮かべている。咲の思いを滅茶苦茶にしてやりたかった。清香の胸の中にはどす黒いものが渦巻いていた。
「無理」
 きっぱりと言いきった清香は、ボールの行方を目で追いながら、咲がその場から離れるのを待った。
「え、何で?」
 至近距離からの強い視線を感じる。理由まで言わなければいけないのかと大袈裟に溜め息を吐き、「あのさ」と切り出す。
「教科書を池に落とされたり、名前を伏せて陰口を言われたりした事が、ある? どんな気持ちか分かる? 弱い子だったら登校拒否するかも知れないし、自殺するかもよ。自分がやった事がどんなに酷い事だったか、もう少し考えてみたらいいと思うよ。そしたら、こんなに軽い感じで謝れないから」
 ひんやりとした床に手をついてその場から立ち上がり、コートの反対側に退避した。同じ空間にいたくなかった。近くで呼吸をしていたくなかった。そこまで拒絶する自分に、清香自身も驚いた。コートを挟んで対面した咲は、明らかに顔を赤らめ、それは怒りによるものであろう事は容易に想像できる。自分の思い通りに行かない事には怒りで反応。まるで子供だ。

「清香さん」
 教室で肩をぽんと叩かれ、「その声は優斗」と後ろを向くと、ニヤニヤとした笑みを浮かべながら優斗が立っている。清香の前の席に腰掛けてこちらへ向くと「最近どうすか」とやにわに言いだす。
 そう言えば、と優斗に訊こうと思っていた事を思い返す。
「ねぇ、中学の時にさ、どうやって周りと仲直りしたの?」
 一瞬顔を固くした優斗だったけれど、すぐに緩み、「何となく、が多かったかもな」と言う。
「何となく、か。謝られたりはした?」
「したよ。何度か」
「許した?」
 キョトンとした目で清香を見遣り「当たり前じゃん、仕返し怖えぇもん」と数回、瞬きをする。
「さっき体育の時、咲に謝られたんだけど、無理って言っちゃった」
 優斗は金髪をぽりぽりと掻きながら「らしいっちゃらしいけどよぉ」と諦観したような顔つきをする。
「男はそうでもないけど、女はしつこいじゃん。また標的にされたら、どうすんの」
 そうだよねぇ、とぼんやり視線を宙に向けていると、優斗が口を開く。
「まぁ困った事があったら俺様に相談する事だな。一応、顔利くし。川辺達とも話せるからさ」
 視線を優斗に戻し「あんた、ほんっとに優しいんだねー」と長いため息みたいに言うと、優斗は目を伏せて少し大人びた笑い方をし、何も言わずに教室を出て行った。

 富山と並んで後輩を引き連れ、学内をランニングしていた時だった。
 昇降口の辺りに二年生の不良が数人座っているのが見えた。嫌な予感がするが、そこを通らないわけにはいかない。
「おい、お前」
 向けられた視線の先が自分だと瞬時に分かり、足を止める。他の部員もそれに釣られて足を止めた。声を掛けてきたのが二年の生徒だという事が分かると、一年生は如実に後ずさりをする。
「何」
 訝し気な顔で睨みつける清香に向かい、一人が立ち上がって虚勢を張った。
「てめぇ、川辺さんになめた口きいてんじゃねぇぞ、ボコるぞ」
 無視して走り出そうとした刹那に「清香!」と声がして、そちらに顔を向けた瞬間、何かが顔面を直撃した。大きさの割に重さがないそれは、鞄だった。
「ちょっとそれ、持ってて」
 優斗がその場にしゃがみ、靴ひもを直している。靴ひもが解けていた訳ではないのは何となく分かっている。下級生の不良どもに絡まれている清香を見つけたから、助けにきたのだという事が明白過ぎて、胸の奥が苦しくなる。
 足元から顔を上げ、二年の不良が座る所へつかつかと歩いて行った優斗は、その中の一人の胸ぐらを掴み「あの人は俺の大事なお友達なの」と子供に言い聞かせるように言う。
「川辺が何て言ったか知らねぇけど、俺と雅樹にボコられたくなかったら、あの人には手を出さない事。意地悪しない事。分かりましたか」
 うっす、と低い声が響くのを聞いて富山が「清香、行こう」と言う。清香は「一周パス」と言って隊列から抜け、優斗のワイシャツのまくり上げられた袖を掴むと、少し離れた所に引っ張って行った。
「放っておいていいのに、咲達と優斗達が一悶着あったらどうすんの」
 肩の辺りをバシッと叩くと、優斗は鞄を肩に掛けて「関係ない」と放った。
「あいつらがやってる事は嫌がらせだ。俺はヤンキーかもしんねぇけど、あいつらみたいに人にいやがらせはしない。雅樹もそうだし。あんなのは女の腐ったような奴がやる事だぞ」
 強い調子で言ったと思えば「な」と笑顔を見せる。清香は眉根を寄せ「うん」と困ったような笑みを浮かべる。
「何でそんなに優しいかなぁ。私の事なんて放っておいていいよ。もう誰の事も怖くないし、実際あの二年坊主が私の事をボコるなんて思ってないし、もう大丈夫だよ、気を遣ってくれなくても」
 それまでに見せていた笑顔を少しずつ曇らせて、清香が話し終わる頃には完全に俯いてしまった優斗は、そのまま黙ってしまった。
「優斗?」
 顔を覗き込むように声を掛けると、優斗の口からはあまり聞かないくぐもった声が聞こえる。
「優しい、優しいって、清香は鈍感なんだよ」
「へ?」
「優しいだけで、困ってる人がいるからって、休み時間の度に隣の教室に行ったりすると思うか? そんな事してたら身がモタねぇよ。便利屋じゃねぇんだから。俺が優しくしてんのは、あんた一人なんだよ。あんたに会いたくて教室まで行ってんの」
 そう言うと鞄を乱暴に背中に乗せて、門に向かって歩いて行った。

 鈍感だ。私は鈍感だった。初めから優しかった優斗は、優しいのが基本形なのだと当たり前の事のように思っていた。皆に優しい優斗なのだと信じて疑わなかった。自分にだけ特別に優しさを向けているなんて、そんなおごった気持ちは持っていなかった。
 清香の事を守るために頻繁に清香の教室に顔を出していた事は、自分に向けられた「特別」なのだと今更気付く。富山に様子を聞いていた事も「特別」だったのだと。胸の奥がずんと痛み、立っていられなくなる。
 否、目を背けていただけなのかも知れない。優斗の「特別」を認めてしまったら、彼に依存し離れられなくなる自分が怖かった。だから見て見ぬフリをした。このまま距離感を縮めなければ、関係にひびが入る事などないと、差し伸べられた手を無意識に振り払っていたのだ。押し隠していた感情が、溢れ出る。
 その場にしゃがみ込み、流れてくる涙を抑えようと必死でTシャツに押し付ける。遠ざかって行く白い背中が涙で滲み、そのうち見えなくなる。
「清香?」
 先に回ってて、と後輩に声を掛け、しゃがみ込む清香の背中を擦りながら富山は「何かされた?」と気遣いを見せる。
「優しくされた」
「へ?」
 素っ頓狂な声に、清香は泣きながら笑い、「私って鈍感だよね」と言って立ち上がり、涙を拭きながら後輩達を追って走り出した。

16

 その日の夜だった。
『これからも、何かあったら絶対メールしろよ』
 優斗からメールが来た。

 それ以降、優斗はクラスに顔を出さなくなった。廊下で会えば、挨拶はするけれど、積極的に話す訳でもなく、そのまま通り過ぎて行く。
 優斗の脅しのお陰か、二年の不良達に絡まれる事もなかったし、咲のいけ好かない態度も大して気にならなくなった。

「最近、金髪君が教室に来なくなったね」
 富山の言葉に、清香は小首を傾げて「そだね」とぼんやり出入り口の方へ目をやった。
 タイミングよくそこから顔を出したのは、圭司だった。清香を手招きし、清香は富山に「ちょっと待ってて」と言うと圭司の方へと歩いて行く。
「何か?」
「ユウと、何かあった?」
 清香は口元に手を持って行き暫く黙って、それから「何で」と疑問を疑問で返す。
「いや、何となく。ユウが清香の話をしなくなったから」
 あぁ、と耳に手をやり、「話さなくなったから。暫く前から」と言うと、作ったような笑みを浮かべる。
「そっか。まぁいいや。今日、電話するかも。じゃね」
 清香の返事も聞かないまま圭司は踵を返して自分の教室に戻って行った。

 結局、圭司には電話で呼び出され、清香はいつかのように家の前に出た。昼間降った雨は夕方には止み、地面に落ちた水分は再び天に昇ろうと必死で蒸発をしているらしい。車止めに寄りかかるようにして立つ圭司が、やや霞んで見える程だった。清香は雲のような空気を押し開くように圭司の元へ歩いて行く。
「優斗の事?」
 顔を上げた圭司は溜め息みたいに笑って、それから頷く。「清香とユウ、何があった?」
 清香は暫くサンダルのつま先を見つめたまま、黙っていた。何があったのか説明するには労力を要する事だった。逡巡した結果、口から出た言葉は、結局いつもの言葉。
「あのさ、優斗って優しいよね」
「出し抜けに何だそれは」
 清香はカラリと笑い、「優しいよね」と重ねる。
「ユウは優しいよ。誰にでも。だけど清香には特別だな」
 そうだよね、と深慮を避けた物言いで交わす。遠のいて行く背中がフラッシュバックし、事実から目を背けられない事を思い知らされる。
「特別だって事に気付かなかったから、みんなに優しいんだと思ってたから、多分優斗の事を傷つけた」
 俯く清香に圭司は「特別だ、って気付いたなら良かったじゃん」と言って、車止めを支える重石から飛び降りる。
「当たり前みたいに優しくされてた。圭司と付き合ってからだって優しかったし、咲たちにハブられてる時だって優しかったし、クラスが変わってもわざわざ教室まで来て優しくしてくれてた。何かあまりにも当たり前にそこにあると、大事な事って気付かないんだね」
「そして大事な事に、今は気付いた?」
 清香は遠慮気味に頷き「多分、気付いてたんだと思う」と視線を圭司に向ける。
「好き? 優斗の事」
「好き、だね」
 圭司は満足げに笑みを浮かべると、「じゃぁ本人に言ってやってよ」と言い、携帯を指差す。しかし清香は首を横に振った。
「もう、失うのはいやだ。圭司の時みたいに、優斗の優しさが急に途切れたらきっと、立ち直れないし。今のままでいい。今のまま、優斗も私もお互いに縛られないでいる方がいい」
 足元のアスファルトを踵で蹴りながら、圭司は「そう」と短く吐く。
 雨上がりのアスファルトは住宅街を光の道のように走っている。去年の今頃、自分は圭司と付き合い始めた。その日の事を、鮮明に思い起こす。その日と同じ匂いがする。雨の、匂い。それからほんの四ヶ月足らずで、圭司との間に亀裂が生じ、清香は残酷な日々を送る事になった。
「俺のせいで、恋愛に臆病になっちゃったんだな、清香は。ごめん」
 清香は首を振って「別に圭司のせいじゃない」と笑ってみせる。うまく笑えていない事に気付いていても清香は、笑うほかなかった。恋愛に臆病になったのは圭司のせいだ、そんな風に怒りをぶつける気分ではなかった。笑い顔で心を隠す。
「そのうちまた、前みたいに毎日顔を合わせて、笑えるようになるといいな」
 それじゃ、清香はそう言って玄関に向かって歩き出そうとする。と、圭司が「あのさ」と引き止めた。
「卒業までずっと、優斗にとって清香が特別な人だったら、清香も優斗の事を特別だと思ってたら、優斗の気持ちを受け取ってやってくんないかな」
「優斗は優しいから、他に困ってる女の子を見つけて手を差し伸べてあげるんだよ、きっと。私は優斗から離れてた方がいい」
 そろそろ時間だから、と言って圭司に手を上げ、清香は家に入った。
 優斗の「特別」枠から解除された事が、優斗を傷つけた事への制裁なら、甘んじてそれを受け入れる。優斗の特別でいられた時間を「日常」などという言葉で片付けていた自分にはあって然るべき制裁だ。次に優斗が選ぶ特別な誰かが、優斗の優しさに気づいて、享受して、抱きしめてあげればいい。それが自分ではない事に幾ばくかの不安や不満もあれど、口に出す権利は些かもないのだ。
「素直じゃないよな」
 電気を消した青い天井に向かって言葉を吐く。本当は特別だって感じていたくせに。本当は特別が嬉しいくせに。本当は今すぐにでも電話したいくせに。
 本当は、好きなくせに。

17

 時は矢継ぎ早に過ぎて行く。
 休み時間の度に、教室の出入り口に目をやる癖がついてしまった。そこに顔を出すかも知れない、金髪の長身の優しい男の影を探して。
 しかしそこに彼の姿が現れる事は終ぞなく、清香が困って彼にメールをする事も一切なかった。圭司は時折教室に姿を見せ、お互いの近況を報告しあった。一足先に圭司は、就職の内定を得ていた。

 受験シーズンになると、三年生の教室が入る第四校舎は、ひっそりと静まり返る。自由登校になり、就職が内定した者の中には運転免許の取得をしに行く生徒も多い。

 富山は大学の試験会場から電話を掛けてきた。清香は教室で自習をしている所だった。
『五組はみんな就職の内定貰ったらしくて、新しく出来た遊園地に卒業遠足に行ったんだってよ』
 ふーん、ペンを回しながらぼんやり相槌を打つ。教室に生徒は数人しかいなかった。自由登校になり、入試を控えた者は予備校に行くか、図書館へ行くか、教室で勉強をするか、という状態で、教室で勉強をするという選択をする人間は数少ない。
『清香はいつだっけ?』
「明後日。結構緊張するもんだね。もう勉強に手がつかなくなってきたし」
 幾人かしかいない生徒がちらちらと清香に視線を遣るので、その場に居づらくなって教室を出た。廊下の窓際に建て付けられている傘立てに腰掛ける。
「とみーは合格発表が終わるまで学校来ないの?」
『ううん、明日から部活に顔出すつもり。清香も試験終わったらやろうよ、バレー』
 富山は試験に手応えを感じたのだろう。清香はまだ受けてもいない試験の後の事なんて考えられず「気が向いたら」と答えを濁す。
 隣に、人の影があった。見上げないと辿り着けないそこにあったのは、金色の髪。
「あ、とみーごめん。試験終わったら電話掛けるから。明日は学校来ないから。じゃあね」
 返事も聞かず、一方的に通話を終了させ、再び優斗に視線を向ける。彼は隣にすとんと腰を掛けた。
「試験、いつ」
「明後日」
 静まり返った廊下に響くのは、二人の声だけだ。ひんやりとした空気に、制服から出た膝を擦る。
「この前、卒業遠足ってやつ、行ってきたんだ」
「さっきとみーが言ってた。五組は全員内定って。おめでとう」
 金髪を手で撫でながら「ありがとう」と顔を伏せている。そのままの体勢で、学ランの上に羽織ったミリタリージャケットのポケットに手を突っ込み、中から紙袋を取り出した。
「これ、土産」
 ありがと、と呟いて袋を開ける。中には水晶の玉が赤い紐で巻かれたストラップが入っていた。
「何か、学業運アップ、とか書いてあったから思わず。あ、清香が携帯にストラップを付けない事ぐらいは知ってるから。別に携帯に付けろとか言ってないから」
 矢継ぎ早にまくしたてるのが可笑しくて、口元を押さえて吹き出す。
「付けないなんて言った事ないけど」
 そう言ってブレザーのポケットから携帯を取り出すと、横広に空いた穴に慎重に赤い紐を通す。
「え、つけんの」
 意外そうに清香の手元を見ている優斗は、「つけるならもっと可愛げがあるやつ買ってくるんだったな」と漏らす。 「そっちの方が付けないから」
「だよな」
 通し終えたストラップは、清香の男勝りな黒い携帯のアクセントのように目立つ。
「実はさ、結構緊張してるんだ、これでも。受験票忘れないかなーとか、寝坊しないかなーとか、そんなしょうもない事から」
 優斗はクスクス笑って清香を肘で突く。
「そうやって考えてるうちは大丈夫なんだよ、大抵。とりあえずその携帯は忘れんなよ。お守りついてんだからな」
「はいはい」優しいね、と口に出しそうになり、寸での所で飲み下す。この言葉は禁句だ。
「ありがとうね」
 清香はその一言にとどめ、立ち上がった。優斗も立ち上がる。
「俺はもう、卒業式まで学校に来ないから。とりあえず明後日、頑張れ」
 それまで目を伏せていた清香は、すっと視線を上げて優斗を見上げた。数秒、瞳に映る優しい色を、目に焼き付ける。
「ありがとう。久しぶりにちゃんと話せて良かったよ」
 言葉にできない感情を、無理に押し出す事はやめた。今はその時ではない。
 優斗は長い腕を清香の頭上に伸ばし、ゆっくりと髪を触った。
「頑張れよ」
 踵を返して歩き出した優斗のポケットから、赤いストラップが顔を覗かせていた。
「学業運、関係ないんじゃないの」
 ひとりごちて、小さく笑った。

18

 卒業証書を手に、写真を撮ったり別れを惜しんだりと、昇降口の外は人だかりだった。
 清香は部活の面々とともに後輩と別れの儀式をしていた。カラフルなサインペンで寄せ書きが施されたバレーボールを、涙を流す後輩からプレゼントされる。自分達も過去二年、こうして先輩を見送ってきたと思うと、込み上げるものがある。
 後輩と今後の進路について取り留めもない話をしていると、ポケットに入れた携帯が震えた。見ると、圭司からのメールだった。三件もメールの着信が来ていた事に、それまで気付かなかった。
『裏門に来れる?』
 三通とも同じ文章で送信されている。まだ話が終わらなそうに思える一団の中央にいる富山に「ちょっと出てくるね」と告げる。「どこに?」という富山の声を背中に浴びながら、ボールを持った清香は校舎の裏へと歩いて行く。

 遠くから見た門柱に、背を預けて立っているのは圭司だった。何か違和感を覚える。よく見ると、学ランのボタンがなくなっている。ひとつも、だ。
「へい」
 手を上げたのはボールを寄越せという意味だと読み取り、遠くからボールを放る。放物線を描くボールは圭司の足の側面でキャッチされ、それから天に向けて何度も突き上げられては落ちてくるのを繰り返す。
「何ですか」
 ボールから少し遅れて清香が到着すると、リフティングしながら圭司が裏門を指差す。怪訝気な顔をしながら圭司の横を通り抜け門柱の正面に回り込むと、そこには優斗が立っていた。
 優斗の学ランも散々な事になっている。校章もとられたのだろう、襟に小さな穴が空いている。ただ一つ、春の穏やかな日差しを浴びて光っていたのは、第二ボタンだけだった。
「あれ、優斗は第二ボタン誰にも貰ってもらえなかったの?」
 冷やかす清香に対し、ポケットに手を突っ込んだ優斗は目を伏せたまま「そう、残っちゃったね」と口元だけで笑う。
 清香はわざとらしく声に出して笑い「残念だったね」と茶化すと、優斗がすっと顔を上げる。金色の髪が揺れる。
「つーか、残しといたんだよ。俺の事を優しい、優しいって言う人に、優斗ってホントに優しいねって言ってもらえるように、残しといた」
 清香は時々リズムを崩すリフティングの音を聞きながら一歩、優斗に近づく。
「えぇと、それはもしかして、凄く鈍い女の人の事を言ってますか?」
 顔を上げた優斗はほんのり頬を赤らめて「そうですね」と乱暴に言うとボタンに手をかける。ややあって金色のボタンは、優斗の手の平で転がった。縁が光を捉えた瞬間だけ金色に煌めく。
「鈍感な清香に、これあげる」
 ん、と腕を伸ばされ、清香は手の平を上に向けて広げると、ぽとん、と軽い重力が掛かったボタンが落ちてくる。
「優しい優斗の第二ボタン貰えて、嬉しい」
 これでいいの? と清香が首を傾げて見上げると、優斗は清香の下ろしたロングヘアをくしゃくしゃにして、抱き寄せる。
「ずっと好きだったんだ。清香だけを見てたんだ」
 清香はへらりと笑って優斗の腰に腕を回す。何も言えない。
 半年近くになる。自分の気持ちの素直な部分から目を背けないように、思いを拾い損ねないように、自分を、優斗を見つめてきた。この瞬間にそれが凝縮されている。
「圭司、俺の勝ちだ。俺は清香がピンチの時でもずっとついてやってたからな」
 優斗の身体越しに見える圭司はリフティングを続けながら「ずっとお似合いだと思ってたし、いいんじゃないですか」とまるで他人事のように言う。
「そろそろ離れません?」
 清香は少し身じろいでみるも「いや、離さん」と言って抱きしめる力をより強いものにされる。学ランからは少し、タバコの匂いがする。タバコを吸いながら待っていたのかも知れない。清香は「部活のとこに戻らなきゃだから」と言って優斗を押し返し、金色の髪をくしゃくしゃに仕返す。
「終わったらメールするから」と歩き出し、圭司の足から一瞬離れたボールをかっさらって正門の方向へ小走りに走って行く。

 富山と目が合うと「どこ行ってたの?」と訊かれ、手にしていた第二ボタンを見せる。手の平で暖まったそれは、日陰では鈍色に見える。
「へ、誰のボタン?」
「金髪の」
 口をあんぐり開けた富山の視線は、清香を通り越えて、後ろへ不自然に飛んで行く。きょとんとした清香は振り返ると、さっき突き放したばかりの優斗と圭司が立っていた。ギョッとする。
「はーい、清香先輩の彼氏だよー」
 優斗が手を振っているのを見て、後輩がざわつく。
「清香さん、やっぱりあの人と付き合ってたんですか?」
 後輩の一人が怯えたような顔をするのを見て清香は「付き合ってないよ? 付き合ってないし、あの」と返答に窮する。
「あの、ごめん、もう帰るから! ごめん! 明日の部活には顔出すから」と鞄を拾い上げるとその場を離れ、優斗の腕をむんずと掴むと正門に向かってずんずん歩いた。
「恥ずかしいじゃん、何あれ」
「ちゃんと、清香の返事を聞いてない」
 は? と清香は片方の眉をあげ、「何の?」と足を止めて問う。今度は優斗に手を引かれ、清香は遅れてついて行く。タバコの匂いがどことなく鼻を掠める。

 辿り着いたのは、長居公園だった。圭司は後ろを歩いていたけれど、わざとらしく少しだけ距離をとっていた。公園の入り口のポールに腰掛け、こちらを見るともなしに見ているのが分かる。
 いつか話をしたベンチの前で優斗は清香と対面し、咳払いを一度した。その時点で浅黒い顔でも十分に分かる程に赤面している事が清香には見て取れる。
「清香が大学に行っても俺、休みの日とか空けとくから、だから俺とちゃんと付き合ってください」
 右手がすっと差し出され、思わず清香は吹き出した。
「そんな本格的に言ってくれなくても、もう優斗の気持ちは分かってるから」
 そう言って優斗の金色に輝く髪を、少し背伸びしてくしゃっと触った。
「私の第二ボタンは優斗」

 鞄の脇に置いた清香のバレーボールが、風の力で圭司の足元に転がって行った。「ユウ」と声がかかる。それに応じて、優斗はボタンが空になった学ランをベンチに放る。ポケットから少しだけ顔を覗かせた優斗の緑色の携帯電話には、赤い紐にくるまれた水晶のストラップが結びつけられている。
 二人の間でバレーボールが跳ね、カラフルな文字に彩られた表面がくるくると回る。ボールは地面に触れる事がなく、それでも飽きる事なく蹴り続ける二人の様子を、飽きる事なく清香は眺めていた。

 三月の春風が凪いできて、ボールを揺すり落とすまで、二人のリフティングは続いた。

FIN.(あとがきあり)


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