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 誰かが持ち込んだ体育館のバレーボールを、教室の後方でリフティングしている音。時々リズムを崩しながら鳴るその音は、何かが爆ぜるような音に似ている。清香は椅子にまたがり、咲の机に頬杖をつきながら、それをぼんやりと眺めていた。圭司はリフティングを絶対にしくじる事がなく、ベルトが垂れ下がったズボンのポケットに両手を突っ込んだまま「ユウ」と声を振って、対面の優斗にボールが渡る。だらしなく腰まで下げたズボンの裾が邪魔をして、爆ぜる音がくぐもった音に変わった。優斗が三回リフトさせたボールは、四回目には窓の外に放り出される。教室の一角、それは清香も含まれた窓際の一角から、どっと笑いが起こる。
 窓の下を覗き込んだ秀雄が「誰にもぶつかってないっぽいけど、池ポチャでーす」と振り向いて言うと、また笑いが起こる。

 高校二年に入り、クラスが替わった。部活動に所属している清香は、クラス内に特定の友達がいなくても、朝も夕方も土曜も日曜も、部活動にいそしむ訳で、これといって不都合はなかった。しかし、時間が経つに連れて、少しずつクラス内がいくつかのグループに割れ、いつの間にか清香は、咲、留美、幸恵と過ごす事が増えた。
 そして学年でも目立つ不良生徒と認識されている雅樹、優斗の二人と圭司、秀雄ともつるむようになっていた。八人の大所帯だ。
 清香にとってそれは楽しい毎日を送るためのエッセンスでもあり、時に戸惑う原因にもなり得た。

 中学時代、圭司とは何度か話した事があった。清香が転校してきてすぐ、部室棟の前で顔を合わせた時に「バレー部に入ったんだね」と話し掛けられたのが初めてだったと記憶している。まだ同級生の顔なんて見分けがつかなかった頃だったため、清香にとって深く印象に刻まれた出来事だった。そこからだろうか、清香はグラウンドの隅にあるバレーボールコートからいつも、サッカー部の動きを見ていた。白いTシャツが真っ白な日はなく、薄汚れたTシャツを着た圭司はいつも走っていて、声を出していて、指を指していて、汗をかいていた。休憩時間でも目は常に、圭司を探し、追っていた。清香の家と圭司の家は同じ区画に建っているから、道端で時々見かける事もあった。その度に、どう反応したら良いのか迷った挙げ句、路地に入り込んで遣り過ごしていた。
 ずっと気になっていた。もっと話したい。もっと知りたい。そう思っていた。高校二年の今、一緒につるんでいる癖に、話し掛ける切欠が掴めずにいる清香は、歯痒くて仕方がない。
「さすが圭司だね。リフティングうまいねー。それに引き換え優斗はださいねー。腰パンだし。バカだし。金髪だし」
 咲が容赦ない言葉を浴びせると、優斗はそれを聞きつけ、長い脚で咲の机を蹴りにきた。
 咲はキャッキャと笑いながら優斗を手の平で追い払い、ひと呼吸置くと「でもさ」と口を開く。
「優斗と清水先輩、仲がいいから、優斗がこの前口利きしてくれてね、清水先輩と二人っきりでちょっと喋っちゃったんだよねー」
 嬉しそうに顔を緩ませる咲は、一緒に過ごすようになってから毎日のように「清水先輩」の話をする。今の所は絶賛片思い中。清水先輩は清香から見て、見た目はイケメンと言われる部類だし、背も高いし、スポーツもできて優しそうで。そんな先輩と咲が、うまくいけばいいなぁとは思っている。しかし一方で、部活や委員会等で親しくない限り、恋愛はそう簡単にうまくいくものではない、と清香は少し引いた目で様子を伺っている。
「先輩、何だって? 何の話したの?」
「初めは優斗の話をちょっとして、それから先輩の好きな食べ物の話とかサッカーの話とか? 何か中学生みたいだよね。でもすっごい嬉しかったぁ」
 両頬を挟み込みながら顔を傾げる咲を見て「よかったねぇ」と声を掛け清香は、咲の机にあったシャーペンをせわしなくカチカチ鳴らす。
「今度の球技大会が楽しみだなー。清水先輩、バスケに出るんだって!」
 自分にとっては何の得にもならない話に清香は申し訳程度にぼんやりと耳を傾けながら、そういえば圭司もバスケだったっけな、と球技大会のチーム編成が書かれた紙に目を遣る。
 この高校にはサッカー部がない。優斗と清水先輩は、同じ中学で同じサッカー部だった縁で今も仲が良い。圭司と優斗は学校は違えど、よく合同練習で顔を合わせていたらしく、今はつるむ仲だ。三人とも現在は部活動に所属していない。さらに言うと、つるんでいる八人組のうちで部活動に所属しているのは、清香だけだ。
「おい川辺、お前日直だよな」
 咲の机に近づいてきたのは圭司で、清香はわざとらしく映らないようにチーム編成表に目を落とす。
「そうだけど」
「俺ボール拾いに行ってくるから、授業始まったら先生に言っといて」
 そう咲に言うと、リノリウムを捻るような足音を残して教室から走り出て行った。
「優斗がしくじったんだから優斗に取りに行かせればいいのに。ねぇ」
 そう言う咲に「ねぇ」と返し、清香は優斗を手招きした。それに応じて近づいてきた優斗の頭を、手招きのまま一発、叩いた。イデッと声が上がる。
「お前が行け。何で圭司に取りに行かせるの」
 清香の言葉に優斗は金色の髪を撫でながら「圭司ってば俺には優しいからー」と仰々しく清香の顔を覗き込む。
 圭司に対する清香の気持ちを優斗は知っている。どうして発覚したのかは定かではない。だが不意に優斗が「お前、圭司の事好きだろ」と言い当てた。酷く動揺した清香は隠し通せる自信はなかったし、周囲には他に誰もいなかったから、肯定しながらも強く口止めをした。今の所は優斗と、女子三人しか知らない事なのだが、優斗は何かにつけて圭司をネタに清香をからかう。
 教師が入室してくると、優斗はへらへらしながら自席へ戻って行った。それから五分ほどして、びっしょり濡れたバレーボールをリフティングしながら圭司が教室に戻ってきた。教師は二言三言注意していたが、言葉は清香の脳に響く事なく通り抜ける。
 圭司がリフティングする度に、周りに飛び散る水しぶきが太陽光を反射する様に、清香は見とれていた。

 授業中、咲が背中をペンの先でつんつんと突いて、右の脇あたりからスッと手紙を渡される。メモ用紙が折り畳まれたその手紙を開くと、咲の丸っこい字が並んでいる。
「けーじとは、いつになったら話せるようになるの? 結構、気つかうんだけど!」
 シャーペンの背に顎を押しあて暫し考え、清香はその丸い字の下に「アイサツぐらいならいつでもできますけど」と書き、後ろに回した。実際に挨拶はしている。しかしそれは机に向けてだったり、手の甲に向けてだったりする訳で、圭司を直視して挨拶をする事はまだ出来ない。
 背後に何か気配を感じたと思った瞬間、咲に頭を軽く叩かれ、それを見た教師が「川辺、何やってんだ」と咲を名指しして注意する。咲も、雅樹程ではないにしろ、教師たちに目をつけられている生徒の一人だ。
「アイサツだってろくにできてないくせに! アホ!」
 丸い文字で返される。
 毎日を淡々と過ごす清香と、学内でも悪名を馳せるような人間が、良好な友人関係を築いている事に、清香は時々違和感を感じる。決して流されやすい性格なのではない。しかし自分が望んで築いた友人関係という訳でもない。清香にとって毎日を一緒に過ごすクラスメイトは、誰でも良かったのかも知れない。

「じゃ、部活行くから」
 鞄を肩に掛けた清香は、掃除用具箱の辺りに集まっている七人に右手をひらりとあげると「頑張ってねー」「頑張れー」「お疲れー」と次々に声があがる。これからこの七人は、なんやかんや話をして、飽きると帰って行くんだろうと清香は想像する。そこに参加をした事がない清香には想像の域を出ない。
 自分も部活動に加入していなかったら、この輪の中に入っていたかも知れない。そうすれば圭司と話をする機会が自ずと増えたかも知れない。しかし部活動は好きで、やめるつもりはない。賑やかな七人の笑い声を背に、教室を出る。賑やかな声は少しずつ、遠ざかり、隣の教室の喧噪と入れ替わる。


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