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10

 県大会の初日は祝日で、遠征という事もあり、朝早くに家を出た。駅に着く頃『頑張れよ』とひと言、圭司からメールが届いた。
 清香は『ありがとう』と返信し、財布の中にある裏ボタンを確認してから電車に乗った。
 しかし、県大会は一回戦で敗退した。相手チームはデータこそないけれど強豪校で、ベンチのメンバーを当ててきたらしい事が後から分かった。それを知った部員達は涙を流した。しかし、ベンチメンバーを相手にしても、殆ど点が奪えないような、一方的な試合展開で、歯が立たなかったのは事実だ。
 悔しさとは裏腹に、これから少しは圭司と過ごす時間が出来るかも知れないという期待も生まれたが、勿論清香はその事を、チームメイトには言わずにいた。ふざけてでも言える雰囲気ではなかった。

 翌朝、いつも通りに教室に入り、自然に目がいった咲に「おはよう」と声を掛けた。返答がなく、聞こえなかったのかと思い、咲の席に近づくともう一度「おはよ」とはっきりした声で言うと「あぁ」と言う声と、怪訝な表情が寄越された。それから咲は隣に座る秀雄の方を向き、お互い苦笑するのだった。清香は暫く唖然としたが、朝早くに、咲達の機嫌を損ねるような事件でも起きていたのかも知れないと考え、自席に座った。
 しかし、咲は後から教室に入ってきた留美と幸恵には「おはよー」と明るく声を掛けている。しかも、清香が「おはよう」と声を掛けた事に対して、二人とも返事をしない。誰も清香の声に反応しようとはしない。

 何、なにがあったの。何が起きているの。
 胸の中に渦巻く何かが、身体を冷やして行く。全身から血の気が引いて行くような感覚があって、息苦しいような気がして、清香は大袈裟なぐらい数回、深呼吸をしてみる。

 いつもは窓際まで歩いてくる圭司が、今日はすぐに自分の席に着いた。朝の挨拶もない。雅樹は後ろのドアから入室したようで、いつの間にか席についていた。唯一、優斗だけが「おっはよ」と言っていつも通りに横を通り過ぎて行ったけれど、他があまりにもショックすぎて、反応が出来なかった。

 私が何か、したのか? 清香は自分の胸に手を当てて考えてみるも、思い当たるフシはなかった。

「昨日は超面白かったねー! また集まってやろうよ」
 咲の大袈裟なまでの「超」という言葉が耳につく。声の大きさも手伝って、清香には不快だった。まるで「昨日」「そこに」居なかった自分に対して投げつけるような物言いだった。
「つーか、あいついなくて良かったね。何か、あいつがいると白けるし」
 ずん、と胸の底に冷たい重りでも降ってきたような感覚があった。息が浅くなる。同調する秀雄の声が耳に大きく響く。
「しらっとしてんもんなー、あいつ。いなくて正解」
 幸恵も、留美も加わって、「そこにいなかった人」についての話題で持ち切りだ。
 どうひいき目に捉えても、それが清香の事を指して展開されている話なのだろうという事は、清香が一番分かっている。全ての会話の音声が、わざとらしく清香の方に向けて発せられているから、それ以外に考えられない。
 急に襲われた吐き気で、目の前が真っ青に染まる。口元を軽く押さえたまま席を立ち、その日日直だった鈴木君に「保健室行ってくる」と言って教室を出た。途中、トイレに寄って少し嘔吐し、それでも収まらない軽い吐き気を抱えたまま、保健室に向かった。

 二時間目の終わりまで保健室で休ませてもらうと吐き気は大分落ち着いた。日直の鈴木君が様子を見にきてくれたので「もう大丈夫です」と保健医に伝え、清香は鈴木君と教室に戻る事にした。礼を言った清香に鈴木君は軽く頷いて返事をした。
 教室に戻るにも気力がいる。また何か言われるのだろうと思うと、足が鉛のように重くなる。早く、部活に行きたい。教室には戻りたくない。淀んだ空気を想像すると、また胸焼けのように気分が悪くなる。
 渡り廊下を歩いていると、向かいから留美が歩いてきた。知らぬ振りをして通り過ぎるのだろうと思って清香は目を合わさず鈴木君の後ろを歩いていると、何故か留美はこちらへ掛け寄ってきた。
「清香、大丈夫? 風邪?」
 留美は肩を抱くような仕草をする。清香は不審な顔をしながらも「大丈夫」とだけ答え肩に乗った腕を解き、異様な雰囲気に戸惑う鈴木君に「行こう」と声を掛けて教室に向かった。
 ドアを入った時の視線が、とても冷たく、痛い。清香にとって初めての経験だった。いじめ、シカト、無視。無意識にいじめる側に加担している事はあっても、いじめられる側になった経験はなかった。教室という日常空間にいるだけなのに、こんなにも気力を使うのかと、目眩を覚え、縋り付くように席に着く。
 今日は一度も圭司と話していない。誰も話し掛けて来ない所を見ると、「昨日」いたメンツは清香を抜かした七人だったのだろう。昨日何かがあった。だからこうなっている。圭司は何かを知っている。だから清香に話し掛けて来ない。曲がりなりにも「彼氏・彼女」の関係なのに、こういう仕打ちを受ける事に清香は惨めな気持ちになり、項垂れる。
 後から教室に戻ってきた留美は、先程とは一転して、清香に対しあからさまに嘲笑を含んだ一瞥をくれると、自席に戻って行く。そしてまた「昨日」の話をし、そこにいなかった清香を槍玉に上げ、笑う。
 醜い、笑い声。蔑みの視線と嘲笑。
 その日、清香は自分の席で一人で弁当を食べた。さっさと食べ終えて、部活の仲間の所にでも行こうと考えていると、学食から戻ってきた優斗が、ふらりと清香の席に近づいた。清香の後ろの方で「ちょっと優斗!」と咎める声がするものの、優斗は清香を見つめている。
「何」
 そっけない清香の言葉に、優斗はしゃがんで机に頬杖をつくと「大丈夫?」と瞳の色を伺うようにじっと視線を寄越す。
「優斗こそ大丈夫なの? 私の所なんかにいるとあの人達に何か言われるんじゃない? つーか実際呼ばれてましたよ、優斗君」
 ちらっと清香の後ろに視線をやり「別にいいんでない?」と軽く笑う。清香の視線の端に圭司が映った。彼が席に着くと、そこへ留美が歩いて行って、何やら話をしている。
「大丈夫?」
 再び同じ事を訊かれ、清香は頭を抱えた。「私、あんた達に何かした?」
 自分では抑えていた筈なのに、心は声に出てしまう。震える声を優斗は優しい瞳で受け止める。
「清香が何もしてないと思ったらそれでいいと思うよ。あいつらは」
「優斗! ちょっと!」
 後ろから声がかかり優斗は話の腰を折られ「ごめん」と言うと去って行った。優斗はあの人達と共謀するつもりはないようだが、それはそれで優斗の立場を危うくしてしまうのではないかと、清香は混乱する。
「なんかー、秀雄に告られたとか言ってたんでしょ、あの女」
 咲の甲高い声が、頭の後ろに突き刺さる。鉄球でもぶつけられたような衝撃を受ける。夏祭り、隣に座った秀雄の挑戦的な笑顔が浮かぶ。咲にその話をした覚えはない。誰が話をしたんだ。
「まずあんな女、俺の趣味じゃねーし。自分がモテるとか思ってんじゃね? 超勘違い女。自意識過剰って机に貼っとこーぜ。背中にするか」
「触るのー? マジ勘弁」
 話題の中心にいるのは咲と秀雄。そこに同調する留美と幸恵。雅樹は話にはのっていないけれど、共謀しているのだろうか? 圭司は相変わらず、何も言わないまま、自分の席について脚を組んでいる。

 翌朝も同じだった。教室に入るなり、秀雄と咲の冷たい視線と嘲笑。清香は一応おはようと声を掛けたけれど、返事が来る筈もなく、勿論期待もせず。昨日と同じ流れだった。全員揃った所で清香への中傷が始まる。
 一対一だったら、何か言い返せたかも知れない。二対一でも平気だっただろう。しかし現状、六対一。これでは清香が白を白と言っても向こうが黒と言えば黒になってしまう。
 背後から浴びせられる罵詈雑言をなるべく耳に入れないようにして、教科書に目を落とす。視線の片隅に、線の細い女子生徒が映ったので顔を上げる。三上さんだった。
「どうしたの?」
 清香がパタンと教科書を閉じて彼女を見ると、三上さんはとても言い難そうに口を少し動かした後に、やっとの事で口を開いた。
「何か、川辺さん達が清香ちゃんに、色々言ってるみたいだから、大丈夫かなって。清香ちゃん。昨日、保健室行ってたし」
 緊張した面持ちのまま自分を心配してくれる三上さんに、清香は無理矢理作った笑顔で「大丈夫だよ。相手にするつもりないし」と笑いかける。三上さんも、危うく泣き顔のようにみえる笑顔で返す。
「清香ちゃんって、強いんだね。私だったら泣いちゃうよ、あんな風に皆の前で言われたら」
 三上さんのふんわりとした優しい声を聞いていたら余計に辛くなってきて、「あんまり私と関わらない方がいいよ」と言い、彼女を席の方に押し帰した。すると入れ替わりに背が高い学ラン姿が視界を遮る。見上げると、登校してきた優斗だった。
「優斗!」
 また後ろから声がかかるのだが、彼は気にせず清香の目の前にしゃがみ込み、話を始める。
「一昨日、清香以外の七人で集まってさ、学校の裏にあるちっさい公園で酒飲んだんだ」
 清香は訊ねてもいない「あの日」の話が始まって拒絶したい気持ちだったが、きっと優斗は何かを伝えたいのだろうと思い、「それで」と先を促す。肩にかかった鞄がずり下がってきたのが鬱陶しかったのか、どさっと床に置く。その時丁度、圭司が教室に入ってきた。
「でな、酒が入って酔ってたんだ。留美と圭司が、うん、キスしてさ。付き合うって言いだした」
 顔面を両手で覆った。それに意味があったとは言いがたい。目一杯手をひろげて、惨めさに歪んだ顔を押し潰す。唇が小刻みに震える。自分の力ではどうする事もできない不随意運動を受け入れる。泣いていたのかも知れない。しかし泣いている事を優斗に悟られると、優斗は自分に優しくすると思い、清香は必死に涙を堪えた。優斗は何も言わず、その場にしゃがんでいる。静かな息づかいだけが、頭の上から降ってくる。
 背後から乱暴な足音が近づいてきて「優斗、何でこんな奴の所にいるの」と咲が優斗を連れて行った。

 留美と圭司がキスをした。付き合う事になった。二人がそう言う選択をしたのなら、それは仕方のない事。酒が入っていようとも、翌日その事実を翻さなかったのだから、清香に勝算はない。留美と圭司が教室で二人きりで話をしていた日の事が思い浮かんだ。留美はずっと、圭司を思っていたのかも知れない。
 それと自分がいじめられる事と、何の関係があるのか、清香にはさっぱり分からなかった。


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