inserted by FC2 system


16

 その日の夜だった。
『これからも、何かあったら絶対メールしろよ』
 優斗からメールが来た。

 それ以降、優斗はクラスに顔を出さなくなった。廊下で会えば、挨拶はするけれど、積極的に話す訳でもなく、そのまま通り過ぎて行く。
 優斗の脅しのお陰か、二年の不良達に絡まれる事もなかったし、咲のいけ好かない態度も大して気にならなくなった。

「最近、金髪君が教室に来なくなったね」
 富山の言葉に、清香は小首を傾げて「そだね」とぼんやり出入り口の方へ目をやった。
 タイミングよくそこから顔を出したのは、圭司だった。清香を手招きし、清香は富山に「ちょっと待ってて」と言うと圭司の方へと歩いて行く。
「何か?」
「ユウと、何かあった?」
 清香は口元に手を持って行き暫く黙って、それから「何で」と疑問を疑問で返す。
「いや、何となく。ユウが清香の話をしなくなったから」
 あぁ、と耳に手をやり、「話さなくなったから。暫く前から」と言うと、作ったような笑みを浮かべる。
「そっか。まぁいいや。今日、電話するかも。じゃね」
 清香の返事も聞かないまま圭司は踵を返して自分の教室に戻って行った。

 結局、圭司には電話で呼び出され、清香はいつかのように家の前に出た。昼間降った雨は夕方には止み、地面に落ちた水分は再び天に昇ろうと必死で蒸発をしているらしい。車止めに寄りかかるようにして立つ圭司が、やや霞んで見える程だった。清香は雲のような空気を押し開くように圭司の元へ歩いて行く。
「優斗の事?」
 顔を上げた圭司は溜め息みたいに笑って、それから頷く。「清香とユウ、何があった?」
 清香は暫くサンダルのつま先を見つめたまま、黙っていた。何があったのか説明するには労力を要する事だった。逡巡した結果、口から出た言葉は、結局いつもの言葉。
「あのさ、優斗って優しいよね」
「出し抜けに何だそれは」
 清香はカラリと笑い、「優しいよね」と重ねる。
「ユウは優しいよ。誰にでも。だけど清香には特別だな」
 そうだよね、と深慮を避けた物言いで交わす。遠のいて行く背中がフラッシュバックし、事実から目を背けられない事を思い知らされる。
「特別だって事に気付かなかったから、みんなに優しいんだと思ってたから、多分優斗の事を傷つけた」
 俯く清香に圭司は「特別だ、って気付いたなら良かったじゃん」と言って、車止めを支える重石から飛び降りる。
「当たり前みたいに優しくされてた。圭司と付き合ってからだって優しかったし、咲たちにハブられてる時だって優しかったし、クラスが変わってもわざわざ教室まで来て優しくしてくれてた。何かあまりにも当たり前にそこにあると、大事な事って気付かないんだね」
「そして大事な事に、今は気付いた?」
 清香は遠慮気味に頷き「多分、気付いてたんだと思う」と視線を圭司に向ける。
「好き? 優斗の事」
「好き、だね」
 圭司は満足げに笑みを浮かべると、「じゃぁ本人に言ってやってよ」と言い、携帯を指差す。しかし清香は首を横に振った。
「もう、失うのはいやだ。圭司の時みたいに、優斗の優しさが急に途切れたらきっと、立ち直れないし。今のままでいい。今のまま、優斗も私もお互いに縛られないでいる方がいい」
 足元のアスファルトを踵で蹴りながら、圭司は「そう」と短く吐く。
 雨上がりのアスファルトは住宅街を光の道のように走っている。去年の今頃、自分は圭司と付き合い始めた。その日の事を、鮮明に思い起こす。その日と同じ匂いがする。雨の、匂い。それからほんの四ヶ月足らずで、圭司との間に亀裂が生じ、清香は残酷な日々を送る事になった。
「俺のせいで、恋愛に臆病になっちゃったんだな、清香は。ごめん」
 清香は首を振って「別に圭司のせいじゃない」と笑ってみせる。うまく笑えていない事に気付いていても清香は、笑うほかなかった。恋愛に臆病になったのは圭司のせいだ、そんな風に怒りをぶつける気分ではなかった。笑い顔で心を隠す。
「そのうちまた、前みたいに毎日顔を合わせて、笑えるようになるといいな」
 それじゃ、清香はそう言って玄関に向かって歩き出そうとする。と、圭司が「あのさ」と引き止めた。
「卒業までずっと、優斗にとって清香が特別な人だったら、清香も優斗の事を特別だと思ってたら、優斗の気持ちを受け取ってやってくんないかな」
「優斗は優しいから、他に困ってる女の子を見つけて手を差し伸べてあげるんだよ、きっと。私は優斗から離れてた方がいい」
 そろそろ時間だから、と言って圭司に手を上げ、清香は家に入った。
 優斗の「特別」枠から解除された事が、優斗を傷つけた事への制裁なら、甘んじてそれを受け入れる。優斗の特別でいられた時間を「日常」などという言葉で片付けていた自分にはあって然るべき制裁だ。次に優斗が選ぶ特別な誰かが、優斗の優しさに気づいて、享受して、抱きしめてあげればいい。それが自分ではない事に幾ばくかの不安や不満もあれど、口に出す権利は些かもないのだ。
「素直じゃないよな」
 電気を消した青い天井に向かって言葉を吐く。本当は特別だって感じていたくせに。本当は特別が嬉しいくせに。本当は今すぐにでも電話したいくせに。
 本当は、好きなくせに。


web拍手 by FC2