大都市横浜のセントラルターミナル「横浜駅」。あらゆる箇所で老朽化が進み、継ぎ接ぎで改良工事が行われている。お世辞にも綺麗とは言えないその駅で、私はある「ヒト」を待っていた。
『坊主頭にジーパン、緑色のTシャツを着てます』
メールの遣り取りで、絵文字や顔文字を一切使わない点が、私と似ていた。
パソコンでやり取りをするメールの文章がとても長い点も。
まだ会った事のないその人を、待ち合わせ場所の周囲をぐるりと回って探した。
視界に入ったその人は、メールに書かれていた通りの格好で、エスカレーターを背にして立っていた。色が白く、線の細い、整った顔立ちの男性だった。同時に彼はこちらに気づいた。
「サトルさん、ですか?」
「ミキさん?」
「どうもどうも」
「こちらこそ、どうもどうも」
--------------------------------------------------------------------------------
「どうしてずっと電話、出なかったの?言いたい事があるならさぁ、言ってよ」
中学の同級生だったユウと付き合いだしたのは一年前。ユウは地方の高校を卒業して地元の横浜に戻りすぐに就職した。一方私は地元の高校から短大へ進学した。
ひょんなきっかけで再会し、お互い恋人も、想い人もいなかったので、「思い出作りでもしますか」というユウの一言で恋愛関係へと発展した。
そのユウが所有する黒いワゴンの助手席に座っていた。携帯電話のストラップを指に巻きつけながら私は、溢れそうになる涙を零すまいと目をすぼめていた。
「あぁ、うん。言いたい事ね。好きな人が出来たんだよね」
ドクン、心臓が鼓動を強めた。体中を冷たいものが駆け巡る。
「ふーん。いつから?何がきっかけで?」
震える声は隠しきれないだろう。しかし、何とか平静を装い、尋ねた。
「夜中にさ、テツとかと遊んでて何となく。ほら、ミキって夜中、外出できないじゃん。俺だけツレ無しで遊ぶってのも何か、退屈でさぁ」
私が気にしていた事だった。
決して過保護な家庭で育った訳ではないのだが、とかく門限に関しては厳しい家庭なのだ。中学の頃も、これがきっかけで彼氏(と言うには幼い年齢であはるが)と別れた。
だけど――。
それだけじゃないと思う。きっと、飽きられた。私は女としての魅力が欠落しているという自覚が少なからずある。私とは比較にならない、女性らしい人に惹かれたのだろう。
私は女らしさを前面に出すことを嫌う。滅多に愛の言葉を口にしたりしない。男性と対等に渡り合おうとする。何と言うか「可愛げ」がないのだ。ユウだって、私なんかより、可愛らしい「女の子」に惹かれるのは当然の事だ。
「じゃぁ、私が毎回その場に一緒にいたら、私とは別れなかった?別の人を好きにならなかった?」
ユウの顔を横目で見た。どうにかして「まだお前の事も好きなんだ」という言葉を引き出したかった。
「いや、それでも別の人を好きになってたかもね。」
絶望的だ。全く。天を仰ぎたくなった。あぁ神様。ストラップが指に巻きつき、うっ血した紫の人差し指に、初めの一粒が零れ落ちた。それを合図に、次々にこぼれる涙を、冷静に「ビー玉みたいだ」と思った。
自分の背丈に合わせて、自分が心地よいように倒されていた筈のリクライニングシートの傾きが、少し変わっている事に、初めから気づいていた。
もう、終わりだ。
「もしもし、レイちゃん?」
「ミキちゃん?どしたの?」
いつもはメールで用件を済ませる私が、急に電話をしてきた事にレイちゃんは驚いている様子だった。それでも用件が何なのか、多分察しがついていたと思う。
数日前からユウと連絡が取れない。そんな事をレイちゃんには伝えていた。
全てを受け入れてくれるような澄み渡るレイちゃんの声を聴いて、今度はビー玉の形をとどめない程、涙が溢れてしまった。
座っていた階段のコンクリートが、部分的に色を濃くしてそれが拡がっていく。
思い出作り――。
思い出って、終わりがあって初めて「思い出」になるんだよ。永遠に続く思い出なんて、ないんだよ。
人生で1番痛い失恋を経験した私は、それから3日間、レタスしか口にせず、ユウの事を思い出しては泣き、目を真っ赤にしていた。そしてまたレタスを食べる。まるでウサギだ。母もそれに付き合ってくれ、食卓の私の席には、レタスとポン酢とお味噌汁しか置かなかった。
「あんたと彼氏は最初から合わないとお母さんは思ってたんだよ」なんて言って元気づけようとしてくれたりした(逆効果)。
失恋の傷を癒すというつもりではなかった。色々な男の人が見てみたい。自分の「魅力」がどこにあるのか、探る事が出来るかも知れない。そんな軽い気持ちで「メル友」というモノを作った。
サトルさんはその「メル友」の1人で、幾度となくメールのやり取りをしてきた。
3月下旬。実際会って話そう、という運びになった。
サトルさんは緑色のTシャツの上に、グレーのパーカーを着ていた。1つ1つの着衣のセンスが良く、端正な顔立ちも相まって「あぁ、素敵な人だ――」と心惹かれた。これは、一目惚れってやつだ。
駅から出て、桜が少しずつ芽吹いている川沿いを歩いた。まだ少し肌寒く、今年は桜の開花が遅い。ドブのように濁った川は、初春の風を受けて少しだけ揺れていた。ドブ川の臭いが鼻腔を突くような気がして、なるべく深く息を吸い込まないようにした。澄んだ川なら絵になるのに。
メールでお互いの近況は報告し合っているので、定型文の様な話題(趣味は?出身は?の様な)はなく、初めから話が弾んだ。
淀んだ川を背にして、路肩の段差に座って談笑した。ここは車が通らない道。私は足を投げ出して紫色のスニーカーを左右に揺らした。サトルさんの顔が見たいが、照れ臭かった。
話が途切れたところでサトルさんが顔を覗き込んできた。
「煙草、いい?」
「どぞ」と言うとサトルさんは黒い鞄のポケットから緑のマルボロを取り出した。見慣れた煙草だった。ユウが吸っていたから。
サトルさんは大学を卒業してプログラミングの仕事をしている。年齢はサトルさんが私の三つ上だ。
「ライブは、今月も行くの?」
「うーん、しばらくないな。就活も始まるし。7月は渋谷にスカルディのライブを観に行くよていなんだけど」
「ふーん、ミキちゃんさぁ」
サトルさんは座っている私の頭から脚まで見て言った。
「そういう格好で、ライブ観に行くんでしょ。動きやすそう」
初めて会う男の人に「動きやすそうな服」と言われた。運動部かよ。「しまった」と思った。初めて会う人の前で、こんな汚れた「古着」は、着てくるべきではなかった。無意識にタイムマシンを探す。私を過去に引き摺って行ってくれー。もう少しお色気路線で攻めるべきだったか。そもそも攻めるほどの色気は持ち合わせていないのだけど。
「アハハ、そうだね。ごめんね、初めて会うのにこんな格好してて」
素敵な人を前にすると緊張する。端正な顔立ちどころじゃない、かなり整っている。恥ずかしくて顔を直視できず、チラ見する事しか出来ない私はサトルさんにとって、かなり変な奴だったに違いない。
「そういう意味じゃないよ」
とサトルさんはフォローをしてくれた。何て良い人だ。
その後、サトルさんは仕事があるとの事で、横浜駅で別れた。
「またメールするよー」
工事中の駅の改札に向かうサトルさんの声に「はーい」と返事をし、右手を振った。
古着屋にでも寄って帰ろうかと思っていたのだが、何だか胸のドキドキが抑えきれず、買い物しながら発狂してしまいそうだった。こんな時は大人しく電車に乗って家に帰るに限る。家に着くと夕刻を回っていた。
一目惚れって、こんな感じなんだ。大したこと――あるっ。
その夜、サトルさんからメールが来ていた。いつも通り、長文の、比喩が独特で面白いメールだった。胸を撫で下ろした。もうメールが来なかったらどうしよう、そう思っていたからだ。
「で、どんな人だったの?」
レイちゃんはコーラのプルタブを引いた。プシュッっと音がする。レイちゃんは毎日、昼休みにコーラを1缶飲む。炭酸が極めて苦手な私からすれば、レイちゃんがとても男前に見える。見た目も中身も私より数倍、女の子なんだけど。
「うむ、それがかなりツボな人だったのだよ。見た目は150点。話も面白いし」
「満点超えてるね、それ。ミキちゃん、坊主頭の人好きだもんね。おしゃれだった?」
「かなりオシャレ。1つ1つのアイテムにお金が掛かってそうな人っているじゃん。そんな感じ」
清潔感があって、だけどカジュアルなサトルさんの服装を思い出しながら、烏龍茶をひと口すすった。口の中を細い苦みがすり抜ける。
「ひぇー、ミキちゃん好きそう。いいなぁ、その後、連絡は?」
「夜にメールが来たよ、また遊ぼうって書いてあってホッとしたよ」
「フフフー、楽しみだねー。一目惚れって奴?今後が楽しみだねー」
レイちゃんは含み笑いをしながらゴクリと2回、喉を鳴らしてコーラを飲んだ。
「スカルディのライブに行く話とか、したよ。何かとレイちゃんの名前出しちゃったけど、ごめんねぇ」
1人暮らしをしているレイちゃんの家には、頻繁に泊りに行っている。ユウ夜遊びするために、母に「レイちゃん家に泊まる」と嘘を言った事もしばしばある。レイちゃんはその度にアリバイ工作に協力してくれる。
洋服の趣味、音楽の趣味が合うので自然と一緒にいる時間が長くなった友達だ。女子特有の「グループ」を嫌う私は、いくつかのグループから時々、自分と気が合いそうな友達を「引き抜き」する。その1人がレイちゃんだ。性格は女らしく、私とは正反対だが、相補するような関係なのだろうか、とても安心できる。もう1人はタキ。タキは私と似た性格なので、一緒にいて飽きないし、己の汚い部分をさらけ出して話ができる貴重な存在だ。
来月のスカルディのライブは、レイちゃんの高校時代の友達がチケットを余分に取ってくれたものだ。
サトルさんはスカルディ、聴くのかなぁ――。
午後の講義に使う教科書をパタパタと重ねながら、そんな事を思った。
「いい加減片づけたら?足の踏み場もないじゃない」
聞き飽きたけど言い返せない母の言葉に「はいよー」と気のない返事をし、本当に足の踏み場の無い4畳半の部屋を見渡した。少し前までは兄の部屋だったが、家出同然で兄が出て行ってからは私が使っている。
半分はベッドが占拠しているし、机にPCデスク、それだけで足の踏み場なんて殆どないのだけど、猫の額程の「床」という平面に鞄、洋服、雑誌が累々と積み上げられているのだ。
もう21歳だというのに、母に注意されて部屋を片付けるなんて――。恥ずかしい。レイちゃんの部屋はいつ行っても片付いている。
今度秘訣を聞いてみよう。とりあえず床の荷物を次々にベッドに載せて、ベッド下収納が引き出せるスペースを作る。さて、片っ端から片付けるぞ。
飼い猫が部屋を覗きに来たので、シッシと言って追い返した。猫はフローリングで目測を誤って横滑りながらキッチンへ逃げて行った。カーレースさながら。
洋服の山を整理していると、見慣れた男物のジップスェットが出てきた。
「ユウのだ――」
私が贔屓にしている店で、「これ、ユウに似合うよ」と勧めたスェット。男物だけど、背が高い私でも着る事ができるので、借りていた。手足の長いユウの姿を思い出す。ジップを首まで上げて、口元まで隠して寒そうにしている姿。
それなりのブランド物なので、さすがにこれを借りパクしておけない。どうしよう。
何気なくスェットに顔を近づけて、ユウの痕跡を探した。そこには私の部屋の匂いしかなかった。ユウの煙草の匂いはもう、消えていた。ジッパーを全部締めて、顔をうずめるとユウの匂いがするスェットだったのに。
押入れの1番手前にスェットを仮置きして、片付けを進めた。自分の洋服を手に取る度に、そこにユウの痕跡がある気がしてしまう。初詣に着て行ったっけ、このニット。このカーディガンはバレンタインの日に着てたなぁ。我ながら、よく覚えている。
この部屋に、ユウの匂いがついていないか、思い切り息を吸い込んでみたが、マルボロの匂いは無い。当たり前か。この部屋に来なくなってどれ位経ってるんだよ。私の部屋に来ると必ずベッドに横になりながら話をしていたユウ。帰るとシーツに煙草の匂いが残っていた。いつも。
「喪失」を実感し、目の前が曇った。
片付いた部屋は、1週間と経たずに元の姿に戻った。私がいない間に誰かに荒らされたんじゃ?と突拍子もない考えに至る無責任さ。
とりあえず机について勉強するために、椅子を引くスペースを作り、勉強を開始する。
程なくして、携帯電話に着信があった。液晶には「田口」の名前。
「あ、もしもし、俺」
「俺、じゃねーよ、オレオレ詐欺なら切んぞ」
田口と話す時は、私の言葉遣いが悪くなる。男友達でこれだけ砕けで話が出来るのは、田口しかいない。
椅子から降りて、足物の荷物を踏まないように気を付けながら、ベッド上へ移動する。微生物学の教科書がつま先にあたって傾れ落ちた。もうすぐ携帯のバッテリーが無くなりそうだった事を思い出し、通話をしながら電源を確保する。
「成人式以来じゃん。元気だった?」
「うん、お前は?」
「元気だけど、元気じゃなかった事もあったけど、まあ八割元気だよ、おおよそ」
酷く曖昧な表現をする。そうすれば、何か察してくれるかな?と思ったからだ。
田口は中学の同級生でユウの事も知っている。田口とユウは遊び仲間ではないが、昨年の成人式の後に飲み屋で一緒になってから、私と田口は時々連絡をとりあうようになった
。
「小田とは?うまくいってないの?」
ほらきた、田口エスパー。電話の会話だけで大抵の事を読み取ってしまう田口の力を「田口エスパー」と勝手に呼んでいる。
「少し前に別れたよ、エスパー。忘れ形見のスェットと同棲してます。」
「何それ、分かり難いんだけど」
開けっ放しになった押入れから、少し垂れ下がり気味に置いてあるスェットに目をやった。
「借りていた服をね、返し忘れているんだよ。」
「何で返さないの?」
おい、そこエスパーしないのかい、と思ったが口にはしなかった。枕に突っ伏す。
「新しい彼女と、にゃんにゃんしてる所に洋服返しに行くなんて、できませんよぉ。」
「お前さぁ、借りた物なんだから、『返します』って言って返せばいいだけじゃん。」
正論を言われているので返す言葉もない。
「はい、そうなんです。その通りです。返します。今度返してきます。」
やや沈黙があって、田口が言った。
「――一緒に――、一緒に行ってやろうか?」
それは彼の単なる優しさなのだが、喪失感をたっぷり胸に抱えている私にとっては、喪失感を多少なりとも埋めるに足る言葉だった。だけどここで男の優しさに甘えるような私ではない。と、自分のキャラクターを守ろうと必死な私。
「いえいえ、手前のケツは手前で拭きますから」
「いいよ、明日バイクでブーって行けばいいじゃん。帰り、飲みに行こうぜ」
そこには田口の有無を言わせない意志のような物があり、無下に断るのもなぁと思って快諾した。
「バイクでって、それを世間では飲酒運転っていうんです」
「バレなければただの運転だから」
壁にかかっているカレンダーを見て、明日は「両親伊豆旅行」以外、自分には予定がない事を確認した。
そういえば、私の事を「お前」って呼んてるの、ユウと田口ぐらいだな。そう思った。ユウに関してはお前と呼んで「いた」だな。過去形になってしまった。
夕方まで仕事だった田口は、定時であがったらしく、その足で家の前まで迎えに来てくれた。夕方6時前だった。少し開けた窓から、バイクのエンジン音が近づいて、止まったるのが聴こえた。
ショルダーバッグに、丁寧に折りたたんだユウのスウェットと財布、携帯を入れて、外へ出た。
「はいこれ、ヘルメット」と田口は白いヘルメットを差し出した。無言で受け取り被る。
ヘルメットのベルトがうまく止められなくて苦戦していると「お前、蝶々結びとか、苦手な類だろ」と田口がベルトを締めてくれた。顔が、近い。ドキドキする。
田口に続いてバイクの後ろに跨り、ヘルメットの位置を整えた。
「どこにつかまればいい?」
「抱き付かなけりゃどこでもいいよ」
「アホか、抱き付くわけなかろう。じゃぁ片方の肩借りるよ」
右肩をつかみ、左手はシートの下にかけた。
安心した。
田口とは「そういう」関係になってはいけないと思っている。
『抱き付かなけりゃどこでもいいよ』
彼の方から牽制してくれたおかげで、良い距離を保てそうだと思った。ドキドキも杞憂に終わる。
世間的には「ない」とされている「男女の友情」も、田口となら有り得ると思っている。
ユウの家まで10分弱、バイクで走り、電話でユウを呼び出した。電話を持つ手は震えていた。寝起きらしいボヤけた声だった。
田口は、ユウの家の少し離れたところで待っていてくれた。
髪をくしゃくしゃにしたユウが、眠そうな目を擦りながら玄関から顔を出す。
「ちわっす」
手の平をパッと開く。こうすると震えが目立たない。
「おう」
全身からダルいオーラが発せられている。
「はい、これ借りパクしてたやつね。お返しします。ありがとう」
「はぁ、わざわざどうもね」
ふと目に入った玄関の三和土には、パンプスが一足、ちょこんと置かれていた。
「――彼女と一緒?」
「うん」
あぁ、訊かなくても良い事を。何故かここで自爆。
「あ、じゃぁお邪魔しましたー」
踵を返して去ろうとすると、ユウは玄関からグイっと首を伸ばして私の右肩をつかんだ。
道路の左右を見て、田口の存在に気づいたらしく、動きが止まった。
「ふーん、田口と来たんだ」
「あ、うん。ついでって言うかなんと言うのか。彼女、部屋で待ってるでしょ。お行きなさいな」
と言って、後ろ手に手を振って逃げる様にその場を後にした。
右肩に、少しだけ、大きな手のぬくもりが残っている。
田口は私のヘルメットを空に投げては取ってを繰り返して待っていた。
「大丈夫だった?」
「何が?」
「お前が」
「この通り無傷。心以外は」
ハハっと短く田口が笑い、ヘルメットを手渡してくれた。ベルトを取る事はできても締める事がやはりできず、田口に「ヘルプミー田口様」と言って締めてもらった。
「やっぱり、飲みに行くの、やめるか」
私の顔を覗き込んで田口が言った。
「大丈夫だよ。飲んで忘れた方がいい。そうだ、飲もう」
「いや、大丈夫じゃないと思うね。家、帰りなよ」
本当は、田口エスパーの言う通り、大丈夫じゃなかった。いくらか動揺していた。いくらかではない。相当に。
ユウには新しい彼女がいる事は想像がついていたが、彼女がいる時にわざわざ訪ねて行きたくはなかった。そんな事実は知らなくて良かった。寝起きのユウと一緒にいる彼女。
したって仕方がない「嫉妬」をしている自分を、直視できなかった。
こんな時に田口の優しさが、嬉しくもあり、辛くもあった。
一人になったら泣いてしまいそうだ。田口のバカ、何でこんなに優しいんだよぉ。
「運転手さん、家までお願いします」
「はいよ」
田口の言う通り、家に戻る事にした。
両親がいない、がらんとした家で一晩過ごすことを考えると憂鬱だ。3食レタス生活の空しさを思い出す。こんな時は、本当は誰かと一緒にいたいんだ。それがなかなか言い出せない。自分のキャラクターを呪った。
家の前に到着した。花びらをはらはらと落とす桜の木の下で、バイクのエンジンがリズミカルに音を排出する。
「――今日、暇だったら、うちで飲まない?」
1人で泣いてしまうぐらいなら、田口の優しさで笑って過ごしたい。断られるのを覚悟で、渾身の力を(殆ど戦闘能力ゼロに近いんだが)振り絞って、訊いた。
「え、親はいないの?」
「旅行に行っておる」
スニーカーの踵を地面にトントンと打ち付けた。桜の花びらが降ってきて、つま先に落ちた。お、ストライク。
「何このシチュエーション。親が旅行中に男が入り込んで。俺が悪い事しそうな感じ?」
「君は何もしないでしょ、だから誘っているのだよ」
あっそ、いいよ、とそっけない返事をして再びバイクに跨った田口の後ろに私も座り、近場のコンビニへお酒を買いに行った。
我が家の小さなテーブルで、お酒を飲みながら沢山の話をした。
ユウと付き合い始めるきっかけや、成人式の日の事、学校の事、音楽の事。田口の恋愛に関しては、不思議と話題に上らなかった。本人曰く「ネタになるような恋愛経験が無い」らしい。
途中でお酒が無くなり、二人で歩いてコンビニまでお酒を買い足しに行った。
お酒に強い田口は酔っていない様子だったが、私は少し酔いが回って気分が良かった。春風が、心地よく感じた。八割が葉になってしまった桜の木は、最後のひと踏ん張りで花びらを散らしていた。もうすぐ只の「緑の木」になる。私の中の「ユウ」も、早いとこ散ってくれたらいい。
家に戻り、再びお酒を飲み始めた。私はどんどん気分が良くなり、そのうち横になりながらおつまみを食べ、しまいには横にいた田口に膝枕をしてもらった。
実際は記憶が飛ぶほど酔っていはいなかったが、ちょっと田口を試してみたくなったのだ。私の事、襲うかな。「俺、好きな人いるから」って拒絶されたり?
だけど田口はただただ、私の空っぽな頭をその膝に受け入れてくれるだけだった。頭を、撫でたり叩いたりしてくれた。
どんだけ優しいんだよ、バカ。私に魅力が全くないのか?悲しい現実だ。
「田口くん、ミキちゃんの事、絶対好きだよ。絶対」
週末に起きた事柄を話すとレイちゃんはそう主張するのだった。レイちゃんは恋愛の「綺麗な面」だけを見る傾向にある。素直なのだ。
「いやぁ、それはないよ。男女の友情ってやつだよ」
「そんなものは想像の産物だよ、ミキちゃん」
「なにそれ、天空の城?隣に越してきた男がトトロだったら萌えないなあ」
髪をハーフアップにするレイちゃんの手元を、私はじっと見ていた。爪が綺麗に整えられている。女性らしい。私がユウと別れる少し前に、レイちゃんも彼氏と別れている。
「確かに、世の中的には『天空の城』だったり『フィクションです』なんだけどさ、実際に田口とはノンフィクションなんだよ。男女の友情」
綺麗にアイロン掛けされた白衣に、レイちゃんが袖を通すと、スッと音がする。
「そうだね、はいはい、ノンフィクションだといいね。ほら、次の時限、実習だから白衣だよ」
くしゃっとして薄汚れた白衣にズブズブと袖を通し、袖先をクルクルとまくった。
レイちゃんの白衣の音と、違う。ここが女らしさの境目か。手首に通してあった黒いヘアゴムでロングヘアを一束に結って、教室を出た。
サトルさんから「家に遊びに来ないかい?」とお誘いを貰った。
1人暮らしが長く、それなりに料理が好きなサトルさんが、「得意の肉じゃがをごちそうするから」と言ってくれた。
サトルさんの家までは電車で1時間もあれば着く。私の兄が住んでいる街だ。と言っても広い街。兄に遭遇する可能性はゼロに等しい。
最寄駅までサトルさんが迎えに来てくれた。今日もまた、全身センスフルな姿だ。一緒に歩くのも躊躇ってしまう。
近くにあるスーパーで食材を買って、歩いて一五分程のサトルさんのアパートへ向かった。一緒に歩いているところを他の人に「恋人同士」なんて思われたらどうしようー等とアホな事を考えていたら、段差で躓いて転びそうになった。
こんな素敵な人が私の彼氏だったら、それこそ「思い出づくり」だけでも昇天する程に幸せな事だ。終わった時の傷は想像を絶するけれど。
サトルさんの部屋はワンルームのアパートで、適度に散らかっていた。
「これが自慢の炬燵トップPCです」
壁際に追いやられた炬燵の天板にマッキントッシュのデスクトップPCが置かれていた。
そのキーボードをどかして、「どうぞどうぞ」と席を勧めら、「どうもどうも」と座った。
「何もしなくていいから、ゆっくりしていてよ」と言われた。この状況は、男女が逆転しているではないか。私は肉じゃが、作れないけど。
炬燵トップPCの周りには、仕事関係の資料なのか、沢山の紙類が積まれていた。その中にサッカーの雑誌があった。そういえば、サッカーが好きって言ってたな。
私はサッカーよりも野球を好むので、この点では話が盛り上がらないと思い、メールではスルーした話題だったのだ。部屋を見渡すと、イギリスプレミアリーグの、私でも知っている有名チームのレプリカユニフォームが飾ってあった。
普段は料理と言っても簡単に済ますことが多いと言っていた。台所にはあらゆる缶詰が積まれていた。なるほど。缶詰で簡単料理か。メモメモ。
手持無沙汰でキョロキョロと部屋を見回していたが、それも失礼かと思い、サッカーの雑誌をペラペラめくって時間をつぶした。
「これじゃ狭いねぇ」
サトルさんは、積んであった紙類をドサっと炬燵の横に置いた。白くて細く、でも男らしい筋張った腕でお盆を持ち、テーブルにご飯と肉じゃが、お味噌汁を並べてくれた。一人分だった。
「あれ、サトルさんは食べないの?」
台所に戻り、壁に寄り掛かったサトルさんは手を左右に振った。
「俺はいつももう少し遅い時間に食べるから、今はコレで」
ポケットから煙草を出した。
「ごめんね、ご飯中に煙たいかも知れないけど、嫌だったら言ってね」
一応換気扇は回したてるんだけど、と台所で立ったまま煙草を吸い始めた。
私は両手を合わせて「いただきます」をして、目の前に出された「おふくろメニュー」を食べ始めた。
とても優しい味で、これを男の人が作ったと思うと、何というか――負けた気分。
「すんごいおいしいー。男の手料理、おいしいー。幸せー」
これは大げさではなく、本音が口に出た。周りには一人暮らしをしている男性がいないので、こんな事はとにかく新鮮なのだ。そして、招いて貰えたことがとても幸せだった。憧れの、あの憧れのサトルさんに。
私の笑顔を見て、サトルさんもまんざらではない様子だった。
出された食事を全て平らげ、旦那の実家を訪ねた嫁のように「洗い物ぐらいは」と申し出たが、サトルさんに拒否されてしまい、結局こたつに戻った。もう初夏の陽気なのに、炬燵布団をしまわないサトルさん、部屋も適度に散らかっているサトルさん。少し親近感が湧く。
「ミキ嬢(何故かメールやりとりの中盤から私を「嬢」呼ばわりするようになった)は彼氏といつ別れたんだっけ?」
「半年ぐらい前かな。サトルさんは?彼女は?」
知りたいような、知りたくないような、そんな感じでメールでは訊ねた事が無かった。
2本目の煙草を吸っているサトルさんを見上げながら訊いてみた。
「1年ぐらい、いないかなー。出会いも無いしね。職場、男ばっかりだし」
確かに、彼女がいたらこんな風に女を家に招いたりしないよね。相当な女好き以外は。
「ミキ嬢は、男女の友情ってあると思う?」
煙草の煙を吐きながら言う。あまりにもタイムリーな話で驚いた。田口を思い出す。
「私はあると思ってるんだけど」
「そういう友達、いるの?」
「うん、まぁ、いますね、一人」
PCのリンゴマークを見つめながら、田口の話をした。
「それはさぁ、友情じゃないんじゃないかな。多分その彼はミキ嬢を好いていると思うよ。ミキ嬢もまんざらでもないでしょ」
田口に恋愛感情――。
向こうの思いは分からない。私は――私は、嫌いではない。いや、きっと好きなんだ。恋愛に発展したって別にいいと思う。だけど恋愛に発展してしまったら、壊れてしまうのが怖くて仕方がない。田口の優しさが消えてしまうのが怖い。ユウと別れてから、幸せな時間が無限ではない事を知って、『恋愛』というものがとても恐怖であり泡沫な事に思えてならないのだ。
「私は、彼の事を嫌いではないんだ。好きじゃなかったら自宅に呼ばないし。だけど、お互いが好き好きオーラを出してしまった後に、片方が飽きて好きオーラを失ったとするでしょ。そうすると凄く大怪我をすると思うんだ、心に。それぐらい、凄く大切な人なんだよね。失いたくない人」
サトルさんは優しく微笑んで「凄く大切な人、いいね。言われてみたいな」と言った。
――私は何を話しに来たんだ、ここに。
こんな筈ではなかった。結局、サトルさんは男女の友情があるかどうかについては話さなかった。
「駅まで送るよ」という申し出を有難く頂戴して、サトルさんと並んで暗くなった道を歩いた。サトルさんの内面を見る事は出来なかったけど、私は自分の内面を少し知ってもらって満足だった。少し、2人の距離が近くなったような錯覚を起こした。錯覚でもいい。憧れの人とこうして肩を並べて歩いている、その現実だけでも相当お腹がいっぱいなのだ。
帰りは、このあたりに兄が住んでいる事や、このあたりの家賃相場等、割とどうでもいい話に終始した。
「またメールします。ごちそうさまでした」
今回は私がこう言って、さよならをした。
電車に揺られていると、携帯にメールが来た。サトルさんからだ。
『今日は来てくれてありがとう。誰かが家に来て、帰ってしまった後に残る寂しさが嫌いなんだ。帰ってほしくないと思うね。それじゃ』
携帯ごと抱きしめてやろうかと思った。私から見ると、とても大人な男性で、精神的にも強そうで、何でも知っていそうな完全無欠な人に見えるんだが、こういう事、ぽろっとメールに出しちゃうんだな。
可愛い人なんだなぁと思った。
車窓に映る自分のにやけた顔の真ん中、鼻がテカテカしていて「こんな顔で接していたのか――」と悔やんだ。そろそろ「お化粧をする」という知恵をつけたいところだ。
サトルさんは、私にとって「男友達」になるだろうか。今のところは「メル友」の「お兄さん」だ。
恋愛関係に発展することはまずないだろう。私にとってサトルさんは高嶺の花だ。この言葉を女である私が使う事はおかしいかも知れないが、この表現が的確だ。
見た目も、性格も、全てが私の「ストライクゾーン」のど真ん中。私自身が強烈な「ワイルドピッチ」な訳で、どうあがいても彼を自分の物には出来ない。サトルさんの彼女になる事なんてまず無理。ありえない。
彼女になれないなら、女友達ならどうだろう。
こうしてサトルさんの手料理を食べに行く私を、サトルさんはどう捉えているのだろうか?
私は、少なくとも「メル友」から「女友達」になりたい、そう思った。
アスファルトを踏むスニーカーの底が溶けてしまうのではないかと思うぐらい、暑い日が続く。本当に暑い。
教室の窓から見える木々は、申し訳程度に揺れ、風が殆ど吹かない。
短大の校内は冷房は勿論、扇風機すら無いので、窓を全開にしていてもシャーペンを握る手に汗をかいてしまい、ノートが湿り気を帯びる。
終了のチャイムと共に「あっぢー」と叫びたくなるのを我慢して、机に蹴りを入れると、逆に机に蹴り返されたように椅子ごとひっくり返った。まるで小学生だ。
「金曜日、ミキちゃんはどうする?スカルディのライブの後」
レイちゃんが本日2本目のコーラを手に、教室に戻ってきた。私は打ち付けた背中をさすりながら椅子を起こした。スカート履いてなくて良かった。
ライブには、私の知らないレイちゃんの友達、シノちゃんが来る。私は人見知りが激しく、人と1日で打ち解け合えるような人間ではないので、おそらくその友達とも二言三言会話を交わして終わりだろう。
「私はライブが終わった後、ご飯食べがてら飲み屋行って、シノちゃんのアパートに泊まろうと思ってるんだけど」
脇の下が千切れんばかりに盛大に伸びをしながら丁重にお断りした。
「うーん、私はいいや。電車があるうちに帰るよ。ご飯だけ一緒に食べようかな」
「了解。じゃぁシノちゃんにも言っておくね」
家まで終電があるかどうか――微妙な所だな。
渋谷から自宅までの間に友達の家でもあれば泊まって帰るんだけど。
自宅に帰り、渋谷から自宅に帰るには、何時の電車に乗ればいいのかを計算した。ライブが終わってからどさくさに紛れてなかなか会場から出られないというのが常なので、そこも計算に入れて、それからご飯を食べる時間も――うはぁ、時間ない。
どうしたもんかぁと考えながら、サトルさんからのメールを読み、返事を書いた。
サトルさんのメールは本当に面白い。長いのに人を飽きさせない。ライトな下ネタを挟んでくる所も、私のツボに入るのだった。
『近いうちにまた遊びに来ないかい』
そんな事が書いてあった。ふと、ライブの事を思い返す。
渋谷からサトルさんの家までなら、確実に電車で帰れる。「遊びに」ではなく「泊りに」だけど――。
こんな事書いたら、下心丸出しみたいで、嫌われるかな。ビッチ認定されたらどうしよう。
それでも勇気を振り絞って、書いてみた。ライブの日、泊めてもらえませんか、と。
『襲ったりしませんよ』の一文を添えて。これじゃどっちが男か女か分からないな。
「じゃぁ、ごめんね。荷物、頼むね。」
モッシュピットに行くシノちゃんとレイちゃんの荷物を持って、私は最後列のドアに寄り掛かりながらライブが始まるのを待った。
私は以前行った野外ライブフェスで、モッシュピットに入った際に、延髄蹴りを食らったのがトラウマになり、以降モッシュピットには近づかない事に決めている。何より、後方の方が落ち着いて観る事が出来る。ライブ好きではなく「音楽好き」には後方での鑑賞が向いている。短大の軽音楽部でベースをやっている私は、バンドを見るとベースに目が行く。
ステージにライトが射し、ライブが始まった。歓声とともに、ステージにはバンドメンバーが続々と現れ、演奏を開始する。モッシュピットはラッシュアワーの山手線と言ったところか。私は演奏を聴きながら、サトルさんの事を考えていた。
『是非、寄っていきなよ。ライブの話も、それから例の男友達の続報も、聴かせてください。おすすめの映画があるから、一緒に観よう』
そんな返信を貰っていた。今日はライブが終わって食事をしたら、すぐに電車に乗ってサトルさんの家に向かう事になっている。お酒とか、買っていくべきかなぁ。映画観ながらお酒飲んで、私はこたつで寝かせてもらおうか。寝ないで朝を迎えてもいいや。そしてお礼を言って帰ろう。うん、それがいい。
田口にとっての私の様に、サトルさんにとっての「女友達」になるんだ。
金管楽器がステージのライトを反射してきらめく。私は金管楽器の経験はない。相当な肺活量が必要だと聞く。
あんなに激しいスカパンク、音楽に合わせて楽器を振ったり、凄い体力だな。
ユウの車で聴いたスカルディのCDの事が頭をよぎった。すぐに振り落した。ユウの事は桜の花と共に散らせたんだ。もう思い出さない。
ライブが終わり、汗だくのレイちゃんとシノちゃんが戻ってきた。
「荷物、ありがとうねー。後ろからでも楽しめた?」
シノちゃんが首に巻いたタオルで汗を拭きながらたずねてきた。
「うん、私、背高いし、見やすかったよ。チケット、どうもありがとうね」
「前の方、凄かったよ。満員電車って感じ。あと、イケメンが沢山いた。なんでパンクのライブって、イケメンが多いんだろうねー」
レイちゃんは通り過ぎていく汗だくの男達を見ながら言った。確かに、中身は別として、外見は素敵な男性が多い。でも、バンドTシャツを着て、一つのバンドに熱狂的になっている彼らを、少し冷ややかな目線で見てしまう自分がいる。
音楽は「広く浅く」が丁度よい。
荷物をまとめて外に出る。腕時計は22時を指している。サトルさんの家には何時に着くだろうか。ライブハウスより幾分涼しい夏の空気を大きく吸い込み、そして吐き出した。
ライブハウスから歩いてすぐの所に小さなイタリアンのお店があったので、そこで夕食を食べた。
シノちゃんもレイちゃんも「眉毛書かなきゃ」と言って化粧ポーチを取り出し、鏡に向かって眉毛を書き始めた。女の子って大変ね。地眉で生活している私はそう思う。
シノちゃんはどこかのお国のクォーターらしく、お人形さんのように色白で、大きな瞳に高い鼻の美人さんだった。私ほどではないにしろ、背が高く、そして手足が長くて細い。
こういう人が、サトルさんの様な人と並んで歩くのに相応しい。
さ、早く夕飯を済ませて、サトルさんの家に行かないと。
「ミキちゃんは今日、家に帰るの?うちに泊まっていかない?」
眉墨を持つ手を止めてシノちゃんがたずねる。眉が半分でも全然可愛い。
「うーん、家には帰れなそうだけど、途中の駅の友達ん家に泊めてもらうんだ」
「そうなんだ、今度レイちゃんと泊りにおいでよ」
「うん、ありがとう」
シノちゃんは人見知りをしない性格の様だ。綺麗で人見知りも無し。そして優しい。うーん、敵わない。比べても仕方のない比較対象に完敗して、もう悔しくない。嫉妬も出来ない。
サトルさんの家までは渋谷から電車で一本。その終電に間に合うかどうかの瀬戸際だった。イタリアンレストランを出てタクシーを拾い、渋谷駅へ向かった。間に合わなければ、シノちゃんの家に泊まらせてもらえば良いだけの話なのに、どうしてもサトルさんの家に行きたかった。サトルさんに会いたくなった。
私がサトルさんにとって、「女友達」になれるかどうか、確認したかった。あわよくば、それ以上になれるのか。少し、欲張った考えが頭をよぎった。人間なんて、そんなモンだ。一つ叶えばもう一歩先へ、また一つ叶えばもう一歩先へ。欲深いのだ。そうして失敗をして後悔する。
終電間近の渋谷は、人もまばらだった。薄ら汗ばむ額から、すうっと汗が蒸発して、すれ違う空気が熱を奪っていく。軽く息を切らせながら東横線の改札をくぐると、まだ停車している電車が2本、あった。間に合った。
そこからサトルさんの家がある最寄駅までの車中で、携帯音楽プレイヤーから流れるパンクロックに耳を傾けていた。
駅まで、サトルさんが迎えに来てくれた。今日は着古したTシャツにマドラスチェックのショートパンツを履いていた。
「やあ。ようこそ」
「ども、遅くなりました」
ペコっとお辞儀をして、サトルさんが足を向ける方向へ、私も踏み出した。
「ライブはどうだった?」
「うーん、楽しかったよ。一緒だった2人は私より楽しんでた様子だったけどね」
「ん、それはなぜ?」
「私はさ、前の方行かないから。後ろでじーっと地蔵のように聴いてた」
「マグロだね」
「そうね、猥褻な表現をすると、私、マグロなんですぅ」
そんな会話をしながら、見覚えのあるゴミ集積場を曲がり、アパートへ向かった。もう、一人で来れるかな。
部屋に入ると、炬燵の横にグレーの布団が一組、敷いてあった。ワンルームなので、横幅一杯だった。敷布団の上に、薄手のタオルケットが、足元にくしゃっと置いてある。私が連絡を入れるまで、サトルさんは布団でごろごろしていたのだろう。枕もとにはビールが一缶、サッカーの雑誌が置いてあった。
「すんませんね、散らかってますけど」
「いえいえ、こちらこそ何か、押しかけてしまってすんません。こんな時間に」
炬燵からは炬燵布団が無くなっていた。サトルさんが以前、書類をドカンと置いたあたりに、背負っていたショルダーバッグを置いた。お尻のポケットに入っていた携帯の着信を確認した。母には「レイちゃんの家に泊まる」と言ってあった。「れいちゃんによろしく」という短いメールが、母から入っていた。
「布団の上、乗っかっちゃっていいから。ビールでいいかね?」
2段の小さな冷蔵庫から、缶ビールを出してみせてくれたので、「ハイ」と頷いて返した。そこで初めて、お酒を買ってくるのをすっかり忘れていた事に気づく。
サトルさんの手からビールを受け取ると、炬燵の横に座った。プシュっとプルタブを引き、立ち上る儚く白い二酸化炭素が目に入る。
「乾杯」
サトルさんは飲みかけのビールで、私は早くも結露をしている冷えた缶ビールで乾杯した。少し汗をかいた後だったので、苦手な炭酸も苦にならずに喉を鳴らして3口飲み込んだ。コーラを飲むレイちゃんを思い出した。
レイちゃんに「サトルさんの家に泊まる」と告げた。レイちゃんはニヤッと私を見遣って言った。
「何かあるよ、一晩男と女が一緒にいて何もない筈がない」
それでも田口との間には何もなかった事を例に出したが、引かなかった。
「田口くんは奥手なんだよ。それか、ミキちゃんに惚れすぎていて手が出せなかったんだよ」
「んな訳ないよー。私と田口は男女の友情で結ばれているのだよ、アハハ」
「出た、天空の城」
そんな風にからかわれた。サトルさんと一晩一緒にいて、何かあるだろうか。お酒は飲み過ぎないようにしよう。酒は飲んでも飲まれるな。
「そうだ、映画、観ようよ」
そう言ってサトルさんは掃出し窓の方へ行き、テレビを操作した。
「遅くまで起きてて大丈夫ですか?」
「あぁ、明日は午後から仕事だから、大丈夫。映画観たら寝るよ」
映画の内容は、主人公の日常生活をテレビで生放送される事になってしまうという内容だった。エンディングがどういう風だったのか、実は座ったままうとうとしてしまって覚えていない。情けない。ビデオを停めに立ち上がったサトルさんの動きでハッと目が覚めた。
「眠そうだったねぇ、退屈だったかな」
映画の内容が退屈なわけではなかった。ただ、疲れていた。渋谷くんだりまで出てくる事も疲れるし、初めて会ったシノちゃんと話すのも疲れた。何よりサトルさんの家に行く、という事についてあれやこれや頭を酷使する事で、とても疲れたのだった。
「退屈じゃなかったよ。最後の方、ちょっとうとうとしてしちゃった。ごめんなさい」
「正直だねぇ。首がコクンとなって、なかなか可愛いものだったよ」
ちょっと顔が赤くなった事に自分で気づいた。咄嗟に俯いた。
「あら、それはどうも。起こしてくれたら良かったのに」
「うん、でもミキ嬢をの寝顔を見てるのもなかなか面白かったよ」
私の顔を覗き込みながら微笑む。
「そんな事してないで映画観てください」
何だか恥ずかしくなって炬燵の上に置いた携帯電話に目をやった。
「だって俺、一回観てるし。結末知ってるし」
「じゃぁ結末を是非、教えてくださいな」
恥ずかしさを紛らわすために、無い事が分かっている着信とメールを確認しながらそう言った。サトルさんは煙草に火をつけ、布団にゴロンと横になった。
「あ、寝煙草、危険」
「大丈夫、寝る前に消すから」
私はこの布団で寝ていいんだろうか。見渡す限りでは他にスペースは無い。答えが分かっているけれど、一応質問をぶつける。
「私、廊下で寝ましょうか?」
ブハっと煙を口から吐きながらサトルさんは笑った。
「いえいえ、何も手出ししないから、布団で寝てくださいよ。俺インポだから大丈夫」
「インポ?え、何それ?後で詳しく聞かせてもらおうか」
手にした携帯を炬燵の上に戻し、「では失礼」と言いながら、布団の左端に横になった。右を向くとサトルさんの顔が近いし、背を向けるのも何だか失礼かと思い、真上を向いた。
煙草を吸いながら、サトルさんは映画の結末を話してくれた。
「で、インポの話をしてよ」
上を向いたままで話を振った。我ながらストレートな話の振り方だ。煙草を吸い終わったサトルさんは、同じよううに天井を見つめながら話を始めた。
「何かこう、猥褻なビデオとか雑誌とか見ても、興奮しないんだよね。勃たないんだよね。」
「猥褻なビデオとか雑誌が、この部屋にあるという事だね」
「聞くまでもなく」
健全な男子たるもの、そんなものだろう。彼女がいないと言っていたし、発散する場と言ったら自分でするか、お金を払うか。アイドルがウンコしないと思ったら大間違いだ。
「実際の女性の身体を前にしたら、勃つんじゃないの?」
「それはどうかなぁ。ビデオにしたって雑誌にしたって、今まで勃ってたのが急に勃たなくなっちゃったんだもん。期待薄ですよ」
天井からぶら下がっている蛍光灯の紐が、わずかに揺れていた。まっすぐに、私のおへその辺りに円を描くように。
「精力増強剤飲んでみるとか?」
「それいいね、今度買ってみよう」
インポに関する話は終わった。丁度話が途切れた。
「そろそろ、寝ますか。明日はゆっくり起きましょう」
時計を見ると、既に3時を回っていた。明日、というか今日、起きる事になる。
サトルさんは立ち上がって、「最後の1本」と台所で煙草を吸い、布団に戻る時に電気を消した。タオルケットを掛けてくれた。
「おやすみ」
「おやすみなさい」
私はタオルケットを引っ張らないように気を付けつつ、サトルさんに背を向けた。暫く静寂が続いた後、サトルさんの規則的な寝息が聞こえてきた。
眠ったんだ。良かった。何もなかった。
良かった、のか。本当は、何かあった方が嬉しかったんじゃないか。
得たものを失った時の悲しみはもう御免だから、友達という関係を望んだんじゃないか。
私の中にたくさんの人が住んでいるように、様々な思いが錯綜し、なかなか眠りにつけなかった。
ごみ収集車の陽気で単調な音楽が聞こえた。この辺りは土曜日でもごみ収集があるのか。
目を開けた。目の前に、サトルさんの顔があった。近い。こんな間近で見たことが無かった。ラフに整えられた眉。筋の通った綺麗な鼻。密度の濃い、短い睫毛。薄い唇。耳にはピアスの穴が開いていた。暫く見惚れていた。
目を閉じたままのサトルさんの腕がいきなり私の背中に回り、ギュッと抱き寄せられた。
驚いて、声も出なかった。
「ちょっと、こうしてて」
耳元で、サトルさんが囁く。私は返事が出来ない。心臓の鼓動がサトルさんに伝わってしまいそうなぐらい、密着していた。動けなかった。空気を吸う事さえ、躊躇われた。
「ハグ、してくんないかな」
そう言われた。ハグって言われても――。外国人が「ハロー」と言いながら抱き合って頬を寄せ合うあれ?頭の中で思い描いた。ギャグにしかならない絵面だ。
自分の左腕を、サトルさんの背中にぐっと回し、抱き付き返した。今まで気づかなかった、煙草の匂いがした。ユウと同じ煙草。でも、ユウとは少し違う。これはサトルさんの匂い。それが心地よいと感じている。
サトルさんは、私の肩の辺りにあった顔を目の前にずらし、額と額を付けた。一呼吸置き、そして唇を重ねた。優しいキスだった。
私を抱いたまま、サトルさんは私の上に膝立ちで重なり、再び抱きしめてキスをした。唇から暖かい舌が入り込み、踊る。心地よさに思わず吐息が漏れる。長い長いキス。煙草の匂い。
「歯、磨いてな――っん――」
私の、やけに冷静な呟きをキスで静止した。
そして耳へ、額へ、首筋へ、サトルさんの唇は移動し、再び私の唇に重なった。舌と舌が絡み合い、吸われ、吸いついた。下腹部に、サトルさんのモノが当たる感覚がある。
「俺、インポ治ったかも」
「世の中では『朝勃ち』って、言うんじゃなかったっけ」
「いや、これは列記とした勃起だよ」
「あら、嬉しい」
昨晩と同じ天井から電気のコードが垂れている。だけど昨日より少し大きめの円を描きながら、そのコードは揺れていた。
サトルさんは近くにあったリモコンで冷房を入れた。
暫く抱き合っていたけれど、サトルさんはそれ以上踏み込んでこなかった。私も、それ以上踏み込まれなくて良かった。人に見せられる下着を履いていなかった事が大きな理由だ。あぁこんな時、女らしく小奇麗なレイちゃんやシノちゃんだったら、綺麗な下着をさっさと脱いで、最後までしちゃうんだろうな。
思っていた以上に起床時刻が遅かったらしく、サトルさんは午後からの仕事の支度を始めた。
私はこれと言って支度する事も無く、いそいそと動き回るサトルさんを部屋の隅から正座をして眺めていた。
私は、サトルさんの何なんだろうか。何になったんだろうか。そんな事を聞いてもいいんだろうか。私はサトルさんの何になったら満足なんだろうか。
これまでの私的恋愛常識(って何だ)に照らし合わせれば、この状況はもう「お付き合いに入りました」という事になる。が、価値観なんて人それぞれ。
支度を終えたサトルさんは私が座っている目の前に、同じように正座をしたそしてまた、私を抱き寄せた。頭を撫でられた。左耳からサトルさんの囁く声が侵入する。
「本当は最後まで、したかったんだよ」
「うん」
「また、来てくれるかい?」
「呼ばれれば飛んで参ります」
そして再び、少し長い口づけをして、立ちあがった。
「んじゃ、行きますか」
敷きっぱなしの布団をそのままに、駅へ向かった。
駅までの道程で会話した内容は殆ど覚えていない。上の空もいいところだった。
「じゃ、またメールするよ」
いつもの別れ方をして電車に乗った。
まだ、夢の中にいるような気分だった。ついさっきまで、サトルさんの唇が重ねられていた部分に、指を這わせる。あのキスに、どういう意図があったんだろう。
意図なんてあったんだろうか。単純に「男はオオカミ」理論なんだろうか。私の様な女に、サトルさんが惹かれる訳がない。とすると、なんぞや、セックスフレンドにでもなるつもりか。そんな悪い人なんだろうか。セックスフレンドは悪い関係なんだろうか。サトルさんのセックスフレンド、上等じゃないか。
考える事は山ほどあるのに、答えが1つも出てこない。気付いたら、「ただいま」も言わずに部屋に戻っていた。「ただいまぐらい言いなさい」と母に怒鳴られた。
それから数日、サトルさんからのメールは途絶えた。やり逃げか。いや、やってない。サトルさんのお口に合わなかったのかもな。
キスをした時点で、女友達の枠からは外れた。女友達になる計画は、失敗してしまった。男女の友情を立証する2例目とはならなかった。
講義後レイちゃんと、学校に近くにあるドーナツ屋さんに行った。朝からレイちゃんは「どーだったの?」としきり問いただしてきたので、「講義後にお茶しながら話す」と言ったのだ。
私はチョコレートドーナツとアイスコーヒーを頼み、レイちゃんはココナツが掛かったドーナツとコーラを頼んだ。
お皿に落ちたココナツを指で集めながらレイちゃんが切り出した。
「で、どうだったの。一晩一緒にいてどうだったの?」
「どうも何も、ヤッてないよ。」
これは本当の事。やってない。ガムシロップを乱暴に注ぎながら続けて言った。
「ヤッてないけど、別の事はした」
「何、トランプとか花札とか?」
するかっ、と短く突っ込んだ。
「映画を観て、お酒を飲んで、話をして、眠って、抱き合ってキスをした」
「ヤッてるじゃないの。」
「ヤッてないよ、一線は超えてないの。一戦交えてないの」
指についたチョコレートを紙ナフキンで拭いた。茶色いグラデーションになった。
「誰がうまい事を言えと。それで、お付き合いする事にはなったんですか?」
意識せずとも顔が曇った。痛いところを突かれた。
付き合ってるのか?
付き合ってない。現状、付き合ってないどころか、連絡が来ない。今までは、会った後には携帯に短いメールが着て、その後PCにいつも通りの長いメールが着ていた。今回は、それが無い。
「付き合ってないよ。でも――」
自分でも何故だか分からないけれど、涙が溢れてきてしまった。心の中に溢れてる感情が制御できない。閾値を越えた分が涙として溢れてきてしまった。
「でも、好きに、なっちゃったみたい――」
まるで、王様を好きになってしまった村人のようだ。
「どうして泣くのー。好きになる事なんて自由でしょ、泣くなー」
「――ううっ―」
返事をするのが精いっぱいだった。嗚咽が止まらない。ただ、好きになっただけなのに。それを友達に話しただけなのに。
好きになった。抱きしめてくれた。だけど、もう連絡が来なくなった。惨めだ。やり場のなかった自分の正直な気持ちを解放したら、一緒に涙まで出てしまったらしい。
いつもなら来るはずのメールが、来ない事を話した。「次は最後まで」と、次の約束までとりつけたのに、と。
「まぁ、待つしかないんじゃない?本当に好きになっちゃったなら自分から連絡するとか」
口の端についたココナツを、手入れのされた薬指の爪でポロっと落としながらレイちゃんが言った。
「自分から連絡ができなくて、待つのが辛くなったら、諦めるしかないよ。」
「でも、手が届かないと思ってた憧れの人に、あんな事されて、只々嬉しくて――」
「諦められそうにない、かな。」
レイちゃんの優しい笑顔で私の顔を覗き込む。声が、心にしみる沁みる。
「他にすっごく好きな人でも出来ない限り、諦められないし、諦めたくないよ。何か、変な欲みたいのが、湧いて来ちゃってるんだよ。」
他にすっごく好きな人。他に。そう、ユウみたいに。未だにその存在が頭を掠めて離れない、ユウみたいに。
紙ナフキンで涙を拭いて、「あ、さっきチョコ拭いた紙だった」と呟いて、二人で笑った。私の笑顔はきっと、こわばっていたに違いない。
「他にすっごく好きな人が出来たときに、考えたらいいよ」
コーラのグラスはもう、空っぽになっていた。相変わらず、コーラの飲みっぷりが半端ない。私のアイスコーヒーは、ガムシロップとポーションミルクを入れたまま、混ぜもせず手つかずだった。ストローでゆっくり混ぜると、コーヒーがマーブル模様に姿を変える。
「そうだね。まだユウの事も忘れられない状況だから、何か色んなことがごちゃっと心の中で金だわしみたいに丸まっててさぁ。ほぐさないとね。」
「分かり難い表現だね、それ。」
「金だわしの事かい?」
「そう。」
サトルさんからの連絡は2週間経ってもなかった。
その代り、意外な人から連絡が来た。テツだった。
テツは、ユウの親友で、私の家のすぐ近くに住んでいるので、時々2人して公園のベンチでお酒を飲んだりした。
そのテツから電話がきたのは、ベッドにごろ寝しながら今までに来たサトルさんからの携帯メールを読み返している最中だった。
「ミキちゃん?」
「テツ君かい、久しぶりだねぇ」
「電話出るの、早っ。今いい?」
寂しさを紛らわすために付けていたテレビの、電源を消した。
「どぞ」
「ユウが、会いたいって言ってるんだけど、どう?」
突然の話に狼狽えてしまって声が裏返った。
「え――、何を今更。だって彼女いるでしょうが」
会いたい理由は何だろう、返したいものでもあるんだろうか。貸してる物なんてない筈。
「いや、その辺はユウから聞いてよ。とにかく会いたいんだって。
今時間あったら、ユウに言っておくから、ユウの家まで行ってくれないかなぁ?」
「話がある方から出向くってのが定石じゃんかっ」
テツに怒っても仕方がないことなのだろうが、よく呑み込めないこの状況に対し、何となくイライラしてしまった。テツは電話の向こうでため息を吐いた。
「お前ん家の前に車停めておくのを、ご両親に見られたくないんだとさ」
うちの母はユウの車を何度も見たことがあり、私がユウに振られてウサギになる姿も見ているので、ユウの車を見かけたらボンネットに漬物石でも落としかねない。バイオレンス・マザー。
「じゃぁ迎えに来いって言って。今なら両親いないから、さっさと」
「おぉ、怖いですなぁ。その言い方でそのままに伝えるよ」
「頼んだ。伝令ありがとう」
何の話があるのか、皆目見当もつかなかった。ただ、電話やメールで済ませればいいものを、わざわざ呼びつけるとなると、何か重要な話なんだろうという事は想像に難くない。
10分も経たずに、家の前に聞きなれた車のエンジン音がした。夏のわずかな風も逃さぬように開け放っていた部屋の窓を、全部締めて回り、携帯だけを手に外へ出た。
ユウは車から出ようとしなかった。私が車の前に立っていると、助手席のドアが開いた。この車はタクシーか。
「こんばんは」
ユウから声を発した。いつものユウの声だった。
「こんばんは。用件は?」
極めて事務的な声で質問した。ひぐらしが鳴いている。
「俺ん家行って、話したいんだけど」
「それ、行くだけの価値がある話なんですか」
「俺にとっては」
「俺様だな、全く」
そう言って助手席に乗り込んだ。居心地の悪い助手席。
車中は沈黙が流れ、スピーカーから流れる音楽がその沈黙から救ってくれていた。私は車窓から外を眺めていた。
冷静に対処するんだ、そう思う反面、心の中はざわざわと五月蠅い音を立てていた。
ユウのお母さんに「こんばんは」と挨拶をして、部屋のある2階へ上った。いつもならベッドに腰掛ける所だが、今日は床に座った。
「はい、用件どうぞ」
「酷く冷たいねぇ」
「夏仕様です。涼んでよ」
ユウはコンポにCDをセットして音楽を掛けた。この部屋に何度来ただろう。もう二度と来ることはないと思っていた、ユウの部屋。ベランダで吸う煙草の匂いは、部屋にも染み込んでいる。
ユウはベッドに腰掛けた。丁度私の真後ろだ。すると突然、後ろから頬に触れられた。大きな掌は熱を持ち、冷え切った私の皮膚に熱を与える。髪にキスをされた。咄嗟に頭を避けた。掌は離れない。
「何してんの、アンタ。酷暑でおかしくなったのか」
「やっぱミキのそのツンツンな感じが好きなんだよ」
そう言って、頬にあった手のひらを、Tシャツの中に入れてきた。
「やめて、生理だから。それに、する気もない。彼女はどうした?」
「別れた」
ユウの低い声が、更に低くなった。
「なんで?」
「わかんない」
Tシャツから手を抜き、肩に手を置いた。肩からユウの熱が入り込む。この人の掌は、大きく、熱い。
「お前の事が忘れられなくて、お前の話ばっかりしてたら、振られた」
――おおぉっと、意外な展開だ。
動揺した。動揺を悟られまいと、ユウの顔は絶対に、見ない。ユウの起こした大波に揺られていきそうだ。テトラポットから手を放すんじゃないぞ、自分。
「そ、それは残念だったね。生憎、私は好きな人がいる。時すでに遅し、ってやつだ」
ま、好きだけど、一方的に好きなだけ。
「田口か」
「ちがーう、断じて違う。ユウの知らない男の人だよ」
そう、ユウよりも数段大人で、落ち着いていて――ふわふわで、何を考えているのか読めない人。
「付き合ってるの?その人と」
「付き合ってないよ。一方的に好きなの」
カーペットの毛羽立ちを撫でた。撫でた部分だけが色を濃くした。夏にカーペットって、暑くないのかな。そんな事を考える。
一方的に好きな、連絡もくれない人と、好きだと言ってくれる、かつての人。
横並びに並べられない。どうしたらいいんだろう。
「俺はいろいろ考えた結果、お前の事がやっぱりこの世で1番好きだと思ったの。代わりはいないの。お前はもう、俺の事は嫌いなの?」
「――嫌いじゃない、よ」
嫌いじゃない。嫌いな訳ないじゃないか。何処にいても、ユウの事が頭をよぎってしまって困っていたぐらいだ。桜と共に散ってしまえと思っていたのに、散らずにドライフラワーのように固定してしまったんだ。嫌いな訳がない。忘れようとしても、忘れられずにいるんだから。振り払おうとしても、まとわりついてくるのはアンタでしょうが。
やっぱり、ユウの事が好きなんだ。顔を見て、声を聞いて、触れられてしまうと、それまで頑なに頭から排除しようとしていた存在を、自分の手元に引き戻したくなる。肩に置かれた手の上に、私の右手を重ねた。
「ユウの事は好きだよ。忘れられなかったよ。でも私はいまだに門限を守る堅い子だし、普通の女子みたいに小奇麗にしてないし、何より他にも好きな人がいる」
そこが問題だった。好きな人が他にもいるのだ。それがなければ、大手広げて、股まで広げて大歓迎だったかもしれない。
「他に好きな人がいてもいい。今迄のミキでいい。俺の事好きならそれでいい。だからまた、俺の傍にいてよ。彼女になってよ」
返答に困った。目を瞑った。ユウを選んだら、サトルさんへの思いは消えるのだろうか。消えなかったら――いや、ユウを選ぶのなら、サトルさんへの恋心は消さなければ。二股をかけるなんて、とんでもない。もともと、叶うはずのない恋だった筈。何より、肩に置かれたユウの手から伝わる熱が、私の旺盛な欲望を刺激してしまっていた。あぁ、何たるビッチ。
握った右手に力を込めた。
「今度裏切ったら、殺すよ」
「裏切ったらって何?」
「私を怒らせたらぶっ殺すって事だ」
後ろを振り向きユウに抱き付いた。そのままベッドに倒れこんで、半年ぶりに抱かれた。
生理だなんて、嘘だった。
「と、言う訳なんでさぁ」
レイちゃんの家で壁に寄り掛かり、事の顛末を報告した。まあ、セックスをしたとか、その辺りは曖昧に。
「結局、そうなったかぁ。ま、いいんじゃない。ミキちゃんも未練たらたらだったんだし」
パスタを茹でる手も止めず、言い放つレイちゃん。半ばあきれ顔だ。
「言ってくれるじゃないか。でもそうだね、未練たらたら引きずってたよね。内臓引きずって歩いてるみたいだったからね」
パスタを食べる前に言う比喩ではなかったと、後悔した。
「サトルさんからは連絡あったの?」
「うにゃ、無い」
窓から遠くを見つめた。あれからもうすぐ1カ月だ。もう連絡を期待するまでもない。私には、ユウがいる。トマト缶を開ける、金属がすり合わさる音がする。缶詰。サトルさんの台所。手放した物をやはり欲しがる、欲張りな自分に喝。
「いいなー、私も早く彼氏が欲しいなー。ラブい事したいよー」
茹であがったパスタを手早く湯切りボウルへ移すと、ミニキッチンに湯気が充満した。レイちゃんは温めてあったソースをパスタにかけた。それをテーブルに置く。すぐまたミニキッチンへ引き返し、グラスにお茶を注ぐ。
「レイちゃんは、いいお嫁さんになりそうだよね」
「え、何それ。相手もいないのに」
フンッと鼻で笑った。凝った料理ではないにしろ、私が訪ねると必ず手料理を振舞ってくれる。「あるものでいいかな」と、あるものでパパッと作るのだ。1人暮らし。私もそろそろ母ばかりに頼らず、自分で生活していく力を身につけなければ。レイちゃんの家に来る度に、痛感するのだった。
携帯が鳴った。名前ではなく、電話番号が表示される。固定電話だ。通話ボタンを押す。
「はい?」
「中野ミキさんの携帯でよろしいでしょうか」
「はいそうですが」
「株式会社水原の人事を担当しております加藤と申します」
――あ、面接の結果だ。
学校推薦を受け、クラスメイトのタキと共に国内大手の食品会社の就職試験を受けたのは、5月頃だった。加藤さんは、第1回の面接官を務めた方だ。
「先日の面接の結果ですが、合格という事で、是非私達を一緒に働いていきましょう」
あぁ、受かっちゃった。自然に顔がほころんだ。
「ありがとうございます、がんばります」
お礼を言い、電話を切った。3月頃、必要書類を送付してくれるそうだ。
レイちゃんに報告した。
「水原、受かっちゃったよー。もう就職活動終わっちゃったよー」
「えー、凄い、大手じゃん」
「ね、大手だね。がつがつ稼げるね」
「いいな、恋愛も、就職も、絶好調じゃないのー」
表面の熱を奪われてしまったパスタを、一旦底から混ぜ返し、フォークでくるくると巻いて口に運ぶ。
「就職したら、一人暮らし、しようかなぁ」
「自宅から通えるのに?」
自宅から会社までは1時間程度だ。通えないわけではない。しかし、社会人としては万端にやっていけるとしても、1人の女性として、しっかりとやっていけるようになりたいのだ。ほら、嫁の貰い手が無くなるというか、ねぇ。
「レイちゃんみたいに、パパッとご飯作ったり、部屋もさ、小奇麗に保ったり。そういう力が欠落しているのだよ、私は。それをどうにかするには、強制的に一人になるしかないかも」
「うん、ご両親に相談してみたら?」
「年が明けたら、相談してみようかな」
小さな角切りのにんじんが、フォークからポロリと落ちた。もう一度刺すのにえらく時間が掛かった。
八月にしては、今日は風があって過ごしやすい。レイちゃんの家の窓からも、湿った風がすーっと入ってくる。
学生最後の夏休み、レイちゃんに合ったり、ユウと夜のドライブに行ったり、時には国家試験の勉強をしたり、充実の日々を過ごしていた。
携帯電話がメール着信を知らせたのは、ユウと逗子海岸で海を見て、帰ってきた23時頃だった。
サトルさんからだった。
あれから1ヶ月が経った。心臓がドクン、と1度大きく鳴った。メールを開くキーを押す親指が、小刻みに震えている。
『連絡が遅くなって申し訳ない。元気にしているかい?この1ヶ月で色々と思いが錯綜してメールが出せなかった。
結局あの日、ミキ嬢の事が好きだったから、あの様な行動を起こしたんだと思う。
好きなんて気持ちは、俺はなかなか持続しない。だけどあの日、ミキ嬢を愛おしいと思った事は本当の事だよ。
こんなに間が空いてしまって、俺の事なんて何とも思っていないと思うけれど、自分の気持ちを伝えておきたくて、今更ながらメールをしたんだ。良かったら、返信ください。』
どう捉えたらいいのか。ややこしいメールだった。ふわふわだ。
あの日、私を抱きしめたサトルさんは、私を愛おしと思っていた。キスした唇にも、嘘はなかった。
だけど、「好きなんて気持ちは持続しない」という一文が引っ掛かるのだ。今はどうなんだ、今は。
私はあの日から、ユウに連絡を貰う日まで、サトルさんの事を想っていた。好きで好きで、連絡を待ちわびていた。それでも連絡はなかった。私の気持ちは1週間持続し、そしてユウへと移った。
今はユウにある。愛情なのか、情なのか判別は難しいのだが。私は、欲深い人間だ。ユウと付き合っていながらも、サトルさんと恋仲になる事を望んでしまう自分に嫌悪を抱いてしまうが、受け入れるしかなかった。それが自分だ。手に入る物は多い方が良い。そんな欲張りなのだ。
自分の気持ちを正直に携帯に打ち込み、サトルさんへと送信した。
『メールありがとう。あの日から、私の「好き」は1週間持続し、サトルさんからの連絡を待っていました。
だけど、あまりにも近い所に、私を必要とする人がいて、私は流されてしまいました。元彼と、付き合っています。
私は、サトルさんの「女友達」になりたかった。だけどあの日以来、それ以上を期待していました。彼女になりたいと思っていました。今でもその気持ちはあります』
欲深い私は、ユウも、サトルさんも欲しい。だけど手の届かない存在だと思っていたサトルさんが急激に近づいた今、私は彼が欲しい。ユウには悪いが、これが正直な「私」という生き物だ。
喉を潤しにキッチンへ行った。リビングでは母がテレビを見ていた。私は水玉模様のグラスに麦茶を注ぎ、リビングのソファに腰を掛けた。
「人生ってのは、うまくいかないものだね、お母さん」
「え、何それ急に、気持ち悪い」
怪訝な顔をされた。
グラスが空になるまで、「飲んで痩せる」というゼリー飲料の通販番組を、空っぽの眼で見ていた。日付が変わった。
翌朝、目を覚ますと、サトルさんからの返信メールが来ていた。
『返信どうもありがとう。メールが来ないんじゃないかと心配していたよ。
どうやら俺たちは、タイミングの神様に見放されたらしいね。元彼君とはうまくいっているようだし、彼を、大切にして下さい。
それと、俺の女友達になるって、そんなに気負わずとも、もう俺の女友達だよ、ミキ嬢は。女友達として、また家に誘ってもいいかい?その頃にはもう少し、涼しくなっているといいね。また連絡します。』
新学期が始まった。医療系の3年制短大ではこの時期から、希望する研究室に入って「特別論文」を制作する。四年制大学で言う所の「卒業論文」に当たる。これ以外に講義は少ないため、特論以外の時間は各々国家試験に向けての勉強に充当したり、はたまた息抜きをしたりして過ごす。
仲のよい友達同士で同じ研究室に入る子が多い中、私は「最も厳しい」とされる微生物学の研究室を、単身で希望した。就職先では微生物の研究をする事が理由だ。
午前中に培地を作り、午後から実験をする、という毎日。
ユウは不規則勤務の仕事をしている。夜勤入りの日は、私の講義後にユウの家へ行き、イチャイチャとしてから家まで送って貰ったり、日勤の日は、夕飯を食べに行ってからユウの家に行くとか、ドライブをするか、という感じで、特に土日は頻繁に会っていた。
以前のようにユウの黒い車が私の家の前に停まるようになった事に母は気づき、「またあの男と付き合ってるの――」と目を回していた。漬物石は、とりあえず落とされなかった。
9月とはいえ、恐ろしく残暑が厳しい。微生物学の特論は、コンタミネーション(目的微生物以外の微生物が生育してきてしまう事)を防止するため、窓やドアを閉め切った中でガスバーナーを使った作業をする。汗っかきの友人は、自らの汗と格闘していたが、私は代謝が悪いので汗をあまりかかない。培地のカラフルなゼリーの様な色を見て、暫し涼む。
全ての作業を終え、教室に戻ると、レイちゃんとタキが話をしていた。「よっ」と右手をひらりとあげると二人も「お疲れ」っと手を上げる。
タキは、女子グループから私が引き抜きをした一人だ。私と同様に、あまり女らしさは感じられず、アニメやゲームなどサブカルに精通していて、頭脳明晰という面白い子だ。学籍番号が1つ違いだったので、入学当初、親しげに話しかけられた。あまりにしつこいので邪険に扱っていたが、徐々に面白さが分かり、今に至る。
レイちゃんとタキと私は、定期的にカラオケに行く仲間でもある。
「疲れたー。暑いー。誰か、私に滋養と強壮をー」
タキは目の前に伸ばした私の手をバシっと叩き、言い放つ。
「私から滋養を奪うな」
「飯食いに行こうよー、誰かー、相手してー」
「ごめん、私、今日バイトなんだ」
レイちゃんは両掌を合わせて言った。あぁ、聖母マリア。断られても全然悪い気がしない。
「しょうがないな、つきあってやろう。ココットでいいよね」
ココットは、学校にほど近い、小さな洋食屋さんで、学生には良心的な価格設定なので、時々利用する。
帰り支度が終わった2人を横目に、いそいそと湿気た白衣を折りたたみ(丸める、という表現が近いかも知れない)椅子の上に置いた。結わいていた腰までの髪を1度ほどき風を入れ、再度結わいた。窓からは、昼間の残暑とは打って変わって、少し涼しげな風が吹いてきた。カーディガンを持ってきて、正解だった。
「お待たせしました」
「ほいじゃ、行こうか」
ココットとは逆方向にあるカフェでバイトをしているレイちゃんとは学校の前で別れ、タキと2人でココットへ向かった。
アツアツのエビドリアを冷ますために、フォークでご飯とソースを混ぜ合わせる。ふんわりとホワイトソースの香りをたたえた湯気が、顔を掠めていく。
「おタキさんは、最近どうなのよ。彼とは」
タキは、高校時代からずっと付き合っている彼がいる。今は甲府と横浜の中距離恋愛をしている。1人の彼氏と2年以上付き合った事のない私からすると、タキは一途の見本だ。
「まぁ、正直な所刺激が無い生活だよね。しょっちゅう会う訳じゃないしさ」
「寂しいとか?」
「まぁね」
「可愛いとこ、あんじゃないのさぁ」
上目使いにタキを見てニヤリと笑った。ドリアを一口、口に運ぶ。「あふっ」と予期していた熱さなのに声が出てしまう。
「ミキは結局、元鞘なんだってね。レイちゃんから聞いたよ」
「はい。鞘に収まってます」
他に収まる鞘なんて持ってない。ここを失ったら私はぶらぶらと人に刃を向けながら生きる事になってしまう。
「ただね、好きな人がいる、っちゃいるんだよね」
「なんだその趣味の悪い火遊びは」
タキはグラタンをつつく手を止めて私の顔を見た。
「未遂ですよ。セックスはしていない。だけど好きなんだよね。でも相手の思ってる事がいまいち掴めないから、こっちも攻撃を仕掛けられない。結局は同じ鞘に収まってるんだけど」
サトルさんに「好きだ、付き合ってほしい」とストレートに告白されたら、私はサトルさんを選んでいた。しかし、実際はそうではなかった。目の前ににんじんをぶら下げるどころか、「にんじんは今日しか出しません」と宣言されてしまったのだ。空腹の馬。
「あんまり、色々な所で無茶しない方がいいよ。ミキは案外、人に気を遣うタイプだから、自分の気持ちに正直になるって、難しいでしょう」
テーブルの上からぶら下がる電球の熱が少し熱いな、と感じる。案外とは何だ、案外とは。
「ミキがしたいと思うように行動しな。他の人の事なんて考えなくていいから」
タキが言う事がとても正しすぎて、眩しかった。そんな風に生きる事が出来たら素敵だと思った。きっとタキとタキの彼は、双方のまっすぐな想いで固く結ばれているのだろう。 私は距離の離れた恋愛なんて、不安過ぎてできない。それは相手からの想いに自信が持てない事は勿論、自分の想いに自信が無いせいでもあろう。果たして自分のユウへの想いは、まっすぐなんだろうか。
「タキは正しいよ。はぁ――思うように行動、かぁ。」
食べかけのドリア皿に目を落とす。思うように行動するという事は、予想以上に難しい事だ。あれやこれやと難しく考えてしまう私にとっては特に。まずは嫌いなにんじんをお皿の横に除ける事から始めよう。できる事からこつこつと。
久々にユウと休みが合った。こんな日は朝から――セックスだ。冷房をガンガンにかけたユウの部屋で、布団を掛けて抱き合う。ユウと私はお互い、初めての相手だ。この歳にしては遅い方かもしれない。だからという訳ではないが、飽きもせず、会うとセックスをする。
彼の広い肩やごつごつした腕、ご立派な彼自身がとても愛おしい。衣ずれの音すら官能的に感じる。彼とのセックスは、お昼寝のように心地が良い。
ただ、別れる以前と変わった点がある。それは、私の頭の中に時々降って湧いてくる、サトルさんの存在だ。一瞬、集中力がそがれるのだ。
事を終え、車で海へと向かった。初秋の潮風が、開け放った窓から否応なしに入り込み、思わず目を閉じてしまう。遠くの方で、少し濁った群青色の海と空が溶け合っている。境界線が不明瞭で、自分の心を映しているのではないかと心がざわめく。
砂浜に横たわっている角材に二人で腰掛け、海を眺めていると、ユウが口を開いた。
「ねえ、前に言ってた、好きな人っていうのは、もう好きじゃないの?」
サトルさんの事か。ユウは田口と勘違いしたんだっけ。
「え、あぁ、好きじゃないと言ったら嘘になるけど。手の届かない人だから。何さ、突然」
急にそんな事を言われ、私は動揺した。
「その辺どうなってんのかなーって、思って。二股なのかなーとか」
ぶはっと吹き出してしまった。
「私はそんなに器用じゃないですよ。浮気、不倫、絶対出来ナイタイプネ」
ふざけて片言の日本語で答える。スニーカーのオーリーガードに、砂粒が整列している。足を踏み込むと、サーッと砂浜に溶け込んでいく、砂粒。
「そう、それなら良かった。ツンデレのミキが、他の人にデレっとしてる事を想像したら、相手を探し出して殺してしまいそうだ」
「物騒だな。おまわりさーん、このヒトでーす」
口に両手を当てて大声を出すふりをした。口の周りに、砂がついた。慌てて払う。
「口に入りそうになった。畜生、おまわりさんめ」
ユウが私の顎を長い指先で持ち上げ、反対の手の先で砂を払ってくれた。そして優しくキスをくれた。「ミキが好きだよ」と言ってもう一回。
この人を裏切ってはいけない。こんなに愛してくれる人を、裏切ってはいけない。
だけど――。
彼が私を、愛してくれるから、なのか。
私が彼を、愛しているから、ではないのか。
珍しく、朝早く登校してきたタキに「おはよっす」と声をかけ、タキの前の席に座って後ろを向く。
「タキは、彼からの愛情と、彼への愛情、ベクトルは同じぐらいなのかね?」
両人差し指をつなげて見せた。
「なんでそんな、朝っぱらからいきなりだなぁ」
「答えよ、さもなくば撃つ」
その人差し指をタキへと向けた。
「どっちかっつーと、彼からのベクトルの方が長いんじゃない。結構束縛されるし」
「へぇ、離れてても束縛って、あるの?」
遠距離恋愛では何をやってもばれない、そんなある種悪い考えを持っていた私なので、驚いた。見えないんだから、どうとでもなるじゃないか。
「あるよ、毎日決まった時間に携帯に電話が来て、誰と何をしてるのとか、電話替わってとか言われるし。家の電話にも掛かってくるしね。男が少ない学校で良かったよ」
自称ドMのタキが、Mの片鱗も見せずにスパスパと喋るのが私には愉快だ。彼の前ではきっと超ドMなのだろう。
「そんで、ミキさんの言いたいことは何だね?ベクトル関数なら高校に戻って勉強してくれ」
ペンケースを開いて、白衣のポケットにペンを差し込んでいく。そのしぐさを暫く見ていた。
「何考えてんの?」
「ベクトル」
そう言って腕を頭の後ろへ回し、天井を仰ぎ見る。今日もいつもと変わらず、無意味に整列した穴が開いている、白い天井。
「私とユウのベクトルは、長さは同じでも、形――そう、形が違うような気がするんだ。ユウは真直ぐで、私のは何というか、ジグサグ?」
「それ、火遊びの事?」
「うん、それベストアンサー」
浮気、と言われなくて良かった。
「ジグザグでもいいんじゃない?案外相手だって、真っ直ぐじゃなくて、一捻りしてるかもしれないよ。気付かないところで」
「そうやって私を不安神経症にさせるつもりかっ。」
タキの携帯ストラップについていたさるぼぼをつまみ、喋らせる。
「不安になるんだ?案外可愛いところがあるじゃないかー。」
「案外は余計だ。何せツンデレだからな。デレると可愛いんだぜ」
ブイサインをかまし、自分の席へ戻った。丁度登校してきたレイちゃんに「おはよう」と挨拶した。
風が少し淋しい匂いを運んでくる秋。ちらほらと就職決定の声が聞こえるようになってきた。
初夏、早々に就職を決めた私だが、その頃周囲はまだ就職活動を始めていない時期だった。私は、タキと2人学校推薦を貰い、「大手」というだけの理由で試験を受けた会社に採用された。
タキは不採用となったが、その後クラスのほぼ全員が受けた公務員試験を唯一突破し、隣接する市の病院へ就職を決めた。
レイちゃんは静岡にある大学病院の研究室に就職を決めたので、4月から、正しく言うと3月から、静岡に住居を移す。
特論の真っ只中、就職試験や国家試験対策の勉強、バイト。それぞれが打ち込まなければならない事は山積みだった。
自宅では集中して勉強が出来ない私は、学校にいる時間に国家試験の勉強をしている。図書室に行けば参考文献は豊富だし、教員をとっ捕まえて教えてもらう事もできる。
今日も特論の実習を終え、教室で勉強をしていた。私の他には数人が、輪になり話をしていた。
電話に着信があった。田口だ。
「もしもしぃ?」
『俺だけど』
輪になって話す声がどっと大きくなったので、廊下へ出る。
「オレオレ詐欺なら間に合ってます。それでは」
『おい待て。お前いつもそのネタだな』
ククッと笑って田口は続けた。
『お前さ、この前、小田の車、乗ってたよなぁ』
あぁ、そうか。田口にはよりを戻した事を伝えていなかったんだ。
「乗って、たねぇ。田口君、君の眼はスカウターか何か搭載しているのかい?戦闘力いくつだった?」
『搭載してねーよ。たまたま見掛けたんだよ。ユウの家の近くで』
ユウの家と田口の家はご近所だ。見られてもまぁ、仕方がない。
『そんで、どうなってんの?』
廊下のひんやりとしたリノリウムの床に座り込む。お尻から、冷たさがしみてくる。
「どうなってんのって、そういう事だよ。元鞘だよ。あちら様が女と別れたんだと」
『別れたからって元の彼女のとこにふらっと来るのかよ。小田も小田だけど、受け入れるお前もお前だよな』
田口には、ユウと別れた時に服を返すのに付き合ってもらった。そんな事に付きあわせておいて、そりゃ「おい」って、なるわ。
「悪い。あんな事に付きあわせておいて」
少し長くなってしまった前髪に、指先でくるくると巻いては逃げられる。
『お前、それでいいのかよ。情に絆されてるんじゃないの?』
田口エスパー発揮。自分でも薄々感づいていながら認めたくない部分だった。ましてや他人に指摘されたくなかった。情に絆されている、という言葉。
「刺さった、今の急所に刺さった。ゲホッゲホッ」
電話の向こうの田口には見えないが、左胸を抑える仕草をした。
『俺が言う事じゃないけどさぁ、お前、もっと自分を大事にした方がいいと思うよ。今のお前は、色んなことに翻弄されてるのを、感じない振りしてるんじゃないの』
左胸の嘘の痛みから一転、次は本当に目頭がジンジンした。なんでコイツ、こんなに痛いところを突いてくるんだろう。
「――お前は私の――と、父ちゃんかよォ」
泣きそうになるのを堪え、声に出てしまわないように腹に力を込め、それからカラっと笑った。
情でユウに寄り掛かり、一方でサトルさんを想い――何てずるい女なんだ。
『ま、何かあったら電話寄こせよ』
「ありがと、パピー」
携帯を切った後、しばらく動けなかった。背をもたせ掛けた壁からも冷たさが伝わる。 身体が冷えて行く。心も冷えていく。
――自分を大切に、か。
よっこらせっ、と声に出して立ち上がり、お尻についたゴミを払った。
今日は勉強に集中できそうもない。家に帰ろう。
自室のベッドに横になり、大きく息を吸った。頭上にある窓から外を見ると、今日は綺麗な満月が浮かんでいる。オレンジとも黄色ともとれるその球体の表面に浮かぶグレーの模様が、どうしたらウサギに見えるのか考える。
冷気が入り込む気がして、すぐにカーテンを閉めた。もう、冬はすぐそこだ。
部屋を出ようと立ち上がると、携帯の着信音が鳴り、足を止まる。今日はよく電話が来るな。ユウだろうか。
画面に表示された名前は「サトルさん」だった。
『あ、こんばんは。今電話してて大丈夫かい?』
ベッドに座り直して姿勢を正す。変な汗が出てきた。
「はい、大丈夫でーす」
タイミングの神様に見放されたというメールを貰って以来、連絡をとっていなかったので驚いたのと同時に、嬉しかった。あぁ、ずるい女。
『来月あたり、また何か料理を作ってご馳走しようと思ってるんだけど、どうかな?』
「あぁ、行きます行きますっ」
ベッドに座りながら、2回跳ねた。
『何かお酒のつまみになりそうな物を作るから』
前回と同様か、それ以上の踏み込んだ関係に発展するであろう事は察しがついた。それでも良いと思った。ユウには悪いが、私が思うとおりに行動してみようと思う。
「うん、それじゃぁビールとか何か買って行くよ。いつにしよう?」
壁掛けカレンダーと睨めっこをしながら日取りを決めた。
電話を切ってから、勝負パンツ買わなきゃ、と思った。
「一応ね、一応」
部屋に入ってきた猫に、そう告げた。
12月に入り、一気に冷え込みが厳しくなった。マフラーに顔を埋めて歩く。街の中は毎年飽きずにクリスマスのイルミネーションで着飾っている。最近は青色LEDの普及で、寒色系のイルミネーションが増えたが、どうも寒々しくて好きになれない。
サトルさんの家へ向かう前に、レイちゃんに電話をした。
サトルさんに会いに行くと言ったら、幻滅されるんじゃないかと思ってそれまで黙っていたが、宿泊のアリバイ工作の為に、レイちゃんの協力が必要だった。
「すっごく好きかどうか、相手が信用できる相手かどうか、見極めておいで」
レイちゃんは落ち着いた声でゆっくりと、そう言ってくれた。
太いストライプ柄の傘に、大粒の雨が当たる音と、クリスマスソングが交じり合って騒々しい街中を抜け、完全に覚えてしまったサトルさんの家までの道のりを歩いた。途中のコンビニエンスストアで、ビールと缶酎ハイを買った。サトルさんの家に着く頃には、コンビニのビニールからは雨が滴っていた。冷たい雨だ。
「お邪魔しまーす」
手に持っているビニール袋をクイっと持ち上げて見せた。
「雨の中大変だったね。どうぞ、あ、傘はその辺に置いて」
ビニール袋を受け取ったサトルさんは、ビニールから滴る雨水に「凄い雨だな」と呟いた。
炬燵には、春に見た炬燵布団が掛けられていた。だけどそこで暖をとっている形跡はなく、エアコンから排出される温風の下に、サトルさんが作ったと思われるおつまみ各種と缶ビールが床置きにされていた。エアコンの直下にあった筈のテレビは、反対側に移動していた。
床置きになったおつまみを挟んで対面に座り、乾杯をした。身体が温まるまで、少し時間が掛かった。
「で、彼氏とは順調なのかい?」
「うん、まぁ傍から見ればとても順調だけど、私はちょっと――無理してるみたい。『男友達』に指摘されてさ」
例のヒトね、と付け加えた。
「具体的にはどういう事なの?」
「たった二年しか付き合ってないけどね、情みたいなものが湧いてしまってるんだと思うんだ。勿論愛情もあるんだけど、その比率が、思っていた以上に「情」側に傾いているというか」
本当はそれだけではなかった。情に絆されつつ付き合っている彼氏の他に、好きな人がいるんだとは、なかなか言い出せなかった。
「なるほどね」
サトルさんはビールを一口呑み、続けた。
「いいんじゃないの、情でもさ。それでミキ嬢と彼が幸せに過ごしているなら、間違っていないと思うんだけど。どうかな?」
情であっても想いあっているならそれでいい。確かにそう言えるかもしれない。無言でコクリと頷いた。
「その男友達君は、やっぱりミキ嬢に気があるんじゃないかな。そんな指摘をしてくるなんて、よく見てるしよく考えてるよ」
「いや、それはないよ。まぁ、彼氏と別れた時に色々と事後処理に付き合わせてしまったから。『何だコイツ、調子いい奴』って思ってるんじゃないかな」
「君たちは複雑な関係だねぇ」
ぐいっとビールを飲み干してサトルさんは立ち上がり掃出し窓を少し開ける。冷気が一気に入り込む。雪でも降りそうな、痛烈な冷気。
「ここにビールを置いておくと良く冷えます」
と、窓の外からビールを取り出して見せた。
「エコだね」
「そう、俺は地球にやさしい男だから」
エアコンをガンガンにかけてる人間が言うセリフですか、と突っ込んだ。サトルさんは笑いながら、手元にあったタオルで缶ビールについた雨水をふき取って、プルタブを開けた。
本当は、サトルさんの話が聞きたかったのだが、サトルさんの話術に乗せられて私は自分の事ばかり喋ってしまった。
「煙草が無くなった。ちょっと取ってくる」
と言いながら片手をついて立ち上がり、キッチンの方へ向かって行った。私はサトルさんが作ったほうれん草のおひたしをつまんだ。上にまぶした鰹節が、箸にまとわりついた。行儀が悪いかなと思いつつも箸の先をチュッと吸った。
煙草を手にしたサトルさんが戻ってきた。
「その仕草はちょっと、エロいね」
「へ?」
サトルさんは元いた場所に戻らず、私の背後に座った。両の腕が、私の身体を抱きしめた。
「前にうちに来た時の事、覚えてる?」
「うん、覚えてる。勿論ですとも」
サトルさんの右手に、恐る恐る自分の震える右手を重ねると、左手で重ね返してきた。
「俺の事、想ってくれてたんだね。嬉しかったよ」
確かにあの日から暫く、私の心はサトルさんに奪われていた。だけど、『遠くの親戚より、近くの他人』と言うではないか。私は自分の身近で自分を思ってくれるユウを選んた。
それに、サトルさんの私への「想い」は、その場限りの物であったと、私は認識している。
「でもサトルさんの『好き』は持続しないんでしょ?シャボン玉みたいに消えるの?」
「俺はそういう男なのだよ。責任の取り方が分からない。」
抱きしめる腕に力が入る。ふわふわに話をはぐらかされているように思えるのだが、責め立てる言葉が出てこない。背中を覆うサトルさんの身体が暖かい。
耳にキスをされた。身体に電気が走るような痺れを感じた。
そのまま押し倒され、仰向けになった。頬に、額に、キスを落とされた。サトルさんは電気から垂れ下がる紐を2度引き、闇を作った。
唇を重ねる。歯列の隙間からサトルさんの唇が入り込み、私の舌と絡み合う。それだけでもとろけてしまいそうな快感に、吐息が漏れてしまう。
冷静な自分が「キスに慣れてる」と感じた。きっとたくさんの女性とのキスを経験してきているんだろう。ユウの幼げなキスとは違う、気遣いの様な物が感じられた。
片手で私の頬を撫でながら、もう片手で私の胸をまさぐり、敏感な部分に触れた。身体が跳ねる。薄闇の中浮き上がったサトルさんの目と目が合う。あぁ、きっと今、私の顔は真っ赤だ。
優しく服を脱がせ、自分の服もさっと脱ぎ取ったサトルさんは、再び私の胸を刺激し始めた。私の身体が跳ねるのを楽しんでいるのか、執拗につまみ、弾く。そしてその指は唇に、舌に変わった。
身体を撫でながら下半身に入り込んできた指先が、私の突起に触れる。
「あっ――」
思わず声が出てしまう。
「もっと、声聞かせてよ」
耳元で囁くサトルさんの声にすら反応し、身体がむず痒くなる様な感覚が全身を走る。
「はっ――あぁ、恥ずかしぃ――」
指で突起を左右に揺らされ、快感が脳内を占拠する。
すっかり濡れてしまった部分に指が入り込み、刺激される。卑猥な音が聞こえる。
「痛ぇ?」
被りを振った。痛いどころか――。
状況を俯瞰しているもう一人の自分が、「ここはアパートだ。声を出すな」と言う。
快感で溢れてしまいそうな声を押し殺すが、殺し切れずに漏れた。
「はぁっ――あぁっ――」
すっかり硬くなったサトルさん自身を手で握り、ゆっくりと扱く。びくっと身体を震わせ、先端から粘性のある液体が漏れる。私は起き上がり、今度はサトルさんを押し倒した。形勢逆転。
液体の出所をキャンディを舐めるように刺激すると、サトルさんも声を漏らした。そのまま口に含み、扱くと、口の中には液体の味が滲みてくる。液体と唾液が交じり合った卑猥な音を立てながら、扱き続けた。
「ちょっ――もう我慢できない」
そばにあったコンドームを器用に装着し(いつ準備したんだ、と冷静な私は考える)、私の脚を広げて、入り込んできた。暖かいものが出入りする。
この瞬間、サトルさんは私を愛しく思ってくれているのだろうか。友達以上の感情を抱いてくれているのだろうか。息を切らせながら出し入れするサトルさんを抱き寄せ、キスをした。どうか、今だけでも、私を愛してくれていますように。
果てる瞬間、サトルさんは足元にあったビールの缶を倒してしまい、残っていたビールが床を濡らした。
「あっちもこっちも濡れちゃったな」
コンドームを抜きながらそんな冗談を言った。
私はショーツだけを身に着け、闇にすっかり慣れた目でビールがこぼれた所を、傍にあったタオル(ビールの缶を拭ってタオルだ)で拭き取った。畳にシミが出来ているが、そう広範囲ではない。
壁掛け時計を見ると、深夜1時をまわっていた。
サトルさんはボクサーパンツを履きクローゼットへ行き「これ着てよ」と私にTシャツを貸してくれた。部屋着なのだろうか、くたっとした感触が心地よく「ありがとう」と言ってそれを着た。サトルさんの匂いがした。
サトルさんが敷いてくれた布団に入ると、すぐに抱きしめられた。
『すっごく好きかどうか、相手が信用できる相手かどうか、見極めておいで。』
レイちゃんの言葉が頭をよぎった。
身体の関係を持ったからこそ、「好き」に拍車が掛かった。サトルさんを凄く好きになった。
優しい気遣いのある愛撫は、サトルさんが歴戦の勇である事を感じさせるものの、誰にだって過去はあるんだ。私なんて過去じゃく、これは正真正銘の「浮気」である訳だし。
しかし、私がいくら相手を好いていても、相手が自分を好いているとは限らないという所が、恋愛の面倒くさい部分だ。
サトルさんは私と遂に最後までヤった訳だけど、以前のサトルさんの言葉を借りれば、今この瞬間は私を愛おしいと思ってくれているのかもしれない。だけど明日はどうだろう。サトルさんの「好き」は持続しないのだ。
『俺はそういう男』と言ったサトルさんの真意が分からない。それが分かったところで、酷く傷つくような気がして、問いただす勇気が出ない。
世に言う「ピロートーク」をしている最中、やや沈黙があり、そのままサトルさんは眠りについてしまった。
サトルさんの胸に抱かれ、サトルさんの規則的な寝息を聞いている。さっきまで激しく降っていた雨は止んだのか、雨音がやんでいた。
翌朝、私が目を覚ますと、気配を感じ取ったのか、サトルさんの瞼が幾度か瞬き、そして開いた。昨晩とは体勢は変わってはいるものの、まだサトルさんに抱かれたままだった。ふと掃出し窓に目をやると、下半分のすりガラス部分が眩しく白く、発光していた。
「なんだろう」2人して窓に近づき外を見ると、真っ白な雪が積もっていた。昨夜の雨は、雪に変わっていたのだ。
「雪だねぇ、綺麗」
「そうだね、眩しいね」
日光を浴びた雪が発する光に照らされながら、その場で抱き合って長いキスをした。
唇を話すと、じっと見つめられ、私は照れくさく俯いた。サトルさんは抱き寄せてくれた。
クリスマスイブ。ユウは夜勤で会えない。彼氏と離れているタキと、彼氏のいないレイちゃんと三人で、クリスマスパーティをする事となった。
料理はすっかりレイちゃんに任せっきりの私とタキは、二人が揃って興味のある歴史の話で盛り上がっていた。クリスマスに歴史の話をしている女二人っていうのもどうだか――。
出来上がった料理はマカロニグラタン、サラダ。そしてお店で買ったローストチキンとシャンパンで乾杯。レイちゃんらしく、グラタンのマカロニは「クリスマスに因んだ形のマカロニなんだ」と女の子らしいこだわりがあった。「私の嫁に来い」、そう言っておいた。
「レイちゃんは国家試験が終わったら、静岡に引っ越し?」
レイちゃんは静岡の大学病院の研究室に就職が決まっている。
「うん、そうなると思う。荷物まとめたりするの、面倒だなあ」
レイちゃんの部屋を見渡す。綺麗に片づけられた部屋。取捨選択するべくもなく、箱にポイポイ入れて行けば引っ越し準備が出来そうな部屋だ。本当に、いつ来ても片付いてる。
タキがチキンを骨から剥がしながら言う。
「私の部屋なんてごみ貯めだから、引っ越しなんてなったら、荷物まとめる前にゴミ捨てないと」
「同じく」
悲しくも同意してしまう。
「タキは実家から通うの?」
タキの就職先と私の就職先は近所だ。就職してもなんだかんだで関係を持ちそうな気がするなぁと、ふと思った。
「彼氏がこっちに来るような事も言ってたし、とりあえず一人暮らししようかと思ってるんだよね。だからこそ引っ越しの事を考えると憂鬱だよ。ミキは?」
「私も実家と職場の中間ぐらいで一人暮らししようかなって思ってる。まだ両親にも相談してないけどさ。引っ越すにしたってまとまったお金、必要だしね」
当面の課題である「国家試験」を通り越して、引っ越しの話になっているのは、現実逃避の為だ。合格率6割と言われる国家試験の事を、何もクリスマスのような日本中がハッピーオーラ全開の日に考えたくないのだ。
もう引っ越す事が確定しているレイちゃんは、物件を探し始めているそうだ。
「引っ越し先に誰も知り合いがいないのが結構不安なんだよね」
レイちゃんがそんな事を口にした。
「レイちゃんなら大丈夫でしょ。誰とでもうまくやっていける」
タキに同意を促すと、大きく三回も頷いて言った。
「ミキとは違うのだよ、ミキとは」
タキは頭がいいからなのか、余計なひと言が付随することが多い。
「ミキちゃんとタキちゃんは職場が近いからいいなぁ。しょっちゅう会えそうだよね」
「まぁ会いたくなるかどうかは別として、な」
先ほどのお返しにと、一発。
「ミキは、実家と職場の中間に引っ越して、彼氏ともう一人の誰かの中間からは引っ越さないの?」
タキの攻撃、もとい口撃は半端ない。
先日サトルさんの家であった事について、タキには話していなかったので、掻い摘んで説明した。説明したところで、結論としては――中間にいる訳だが。
「いいんでないの、そういうのも。どっちにも良い顔しておいて、どっちかでボロが出たらそっちは捨てればいい。ミキはどうせ『どっちかにしなきゃ』とか思ってるんでしょ?両方欲しいなら、両方に手を伸ばしておいたらいいじゃない」
もっと辛辣なお言葉を頂戴するかと思っていたので、拍子抜けした。両方に手を伸ばす。不器用な私にそんな事が出来るだろうか。結局どちらにも手が届かずに脇の下辺りが攣ってしまうとか、そんな結末を思い浮かべる。
「えー、でもそれって浮気じゃないの?」
レイちゃんがとても常識的な反論をする。そうなの、浮気なの。実際浮気しちゃったの。 そして気持ちは今でも浮気しているの。心の綺麗なレイちゃんには、浮気なんて絶対タブーなのだ。どちらか一方を選ぶための手段としての浮気は別として、継続的に二人の男性と関係を持ち続けるなんて、一般的に考えても宜しいこととは思えない。
「サトルさんは、身体の関係を持っても、未だに彼氏ではないし、彼女として私を受け入れてくれるようには思えない。これって、もしかしてセックスフレンドなのか?」
レイちゃんが顔を赤くして伏せた。いや、あなたが赤くなる事はないから。
「そうだね、セフレだ。ミキはセフレを獲得した」
「RPGみたいな言い方をするんじゃない」
すっかり泡の消えたシャンパンを一口飲み、「それでもいいんだ」と私は言った。
「私はサトルさんのセフレでもいい。時々抱いて貰えて、その時だけでも私の事を大切に思ってもらえるなら、それでもいいや。その代わり、ユウともうまくやっていく。ユウには申し訳ないけど、サトルさんとの関係を続けるにはこれしかない」
レイちゃんが「大変だね」と呟いた。
レイちゃんは私の健全な恋愛を全力で応援してくれるつもりであったらしいが、どうも事は健全な方向には進みそうにないと諦めたようだ。話題を「今年の年末の過ごし方」に変えた。
年末年始は、ユウの自宅で迎えた。初日の出を拝もうと言っていたのに二人とも夜遅くまで酒を飲み、結局朝8時ごろに目が覚めるという失態を犯した。しかも、よりにもよって年末に生理が来てしまったので、セックスが出来ない事にユウは腹を立てていた。
「まだ生理なおらないの?」
まるで生理を病気の様に言うユウのセリフが可愛い。
確か去年はタキと2人で、横浜駅の大きな時計を見ながら新年を迎えたっけ。何が悲しくてそんな事をしたのか、今は思い出せない。
特論も終盤に差し掛かり、実験よりもデータまとめが中心になってきた。教室に誰かのノートパソコンを持ち込んで作業する、という事が多くなった。それまで教室で国家試験の勉強をしていた私は、騒がしい教室よりも図書室で勉強することが多くなった。図書室は冷暖房が完備されていて過ごしやすい。ただ、飲食が出来ない事、無駄口が叩けない事が不満なんだが。
そろそろ現実から逃げていられない時期に来た。国家試験は2月だ。この1カ月半ぐらいで、正答率6割の壁を乗り越えなければ、これまでの3年間を棒に振る。
とは言え、私の就職先である株式会社水原は、国家資格が不要なので、万が一不合格だとしても、就業できなくなるという事はない。が、病院勤務が決まっているタキや、多くの友人たちは、国家資格が必ず必要なので、試験に落ちる訳にはいかないのだ。彼らのモチベーション維持のためにも、私がヘラヘラしている訳にはいかない。
ユウには「国家試験が終わるまで会えない」と言ってある。「土日ぐらいいいじゃん」と駄々をこねていたが、断った。それでも毎日必ずメールのやりとりはしている。そう、男に現を抜かしている暇はないのだ。
そんな決意も、サトルさんからのメールであっけなく砕けるのだ。
『こんにちは。今日は学校かい?
こちらは先日から珍しく風邪をひいて、昨日から発熱で寝込んでいるよ。
寝てばかりいて何だか寂しくなったのでメールしました。
それでは勉強、頑張ってください。』
ヘラヘラとサトルさん宅に向かった訳だ。こんな時期に風邪を貰っては、こちらだって窮地に陥りかねないというのに、こんなメールを読んでしまっては動かずにいられないのだ。意志薄弱だな、自分。
『おにぎりなら食べられそう』というメールだったので、コンビニでおにぎりとお茶を買って、サトルさんの家へ向かった。
「いやぁ、助かるよ。1人身では買い出しにも行けないし、料理する気にもなれないしさ。」
ありがとね、と言いケホケホと咳をする。
「友達とかに、頼めなかったの?」
コンビニの袋から自分のお茶を抜き取って、残りをサトルさんに渡した。
「まぁ周りは社会人が多いから、なかなか難しいんだ。」
ま、学生の私も暇じゃないんですけど――とは言わず、おにぎりを食べるサトルさんを見て、食べる元気はありそうで安心をした。
さすがにこの日はセックスを要求されることはなかった。その代り、別の事を要求された。
「膝枕をして欲しいな。」
横座りをした私の太腿に、サトルさんは頭をのせて横になった。確かに、太腿に伝わる熱が、普通ではない。まだ熱がありそうだ。
「手、かして。」
と言うので両手を出すと、左手をサトルさんの頭に、右手はサトルさんが両手で握った。
「頭を撫でていて。」
このヒトは頭が完全に熱に侵されてしまったのではないか。何だこのデレ感。可愛いな、と感じ、言われたとおりに頭を撫でた。
私の手を握ったサトルさんは、それを頬に寄せたり、両手で握ったり挟んだりしていた。
「手、冷たいね」
「外、すっごい寒かったし、冷え症だからね」
膝枕で甘い言葉を囁きあうのだけは絶対に避けたかったので、あえて『冷え症』という現実的な話を持ち出した。「心は温かいらしいよ」付け加えた。
セックスフレンドでも、セックス以外に需要があるのか。そんな事を思った。呼べば来てくれる、そんなお手軽な女だと思われているのだろうか。実際、呼ばれたら来るんだけど――。
風邪など病気に罹ると、誰しも寂しさを感じ、誰かに甘えたくなると聞いた事がある。人肌が恋しくなるとか?
私は風邪など滅多にひかないが、万が一ひいたとしても実家なので、父にでも母にでも甘え放題(実際甘える事はないが)だ。1人暮らしというのは、そういう点では不便だ。最低限、食べる物を食べなければ、治る物も治らない。
そういえば、年明けに、は両親に1人暮らしがしたい旨を話そうと思っていたのが先送りになっていた事を思い出し、サトルさんに話した。
「自宅から通える職場なのに、1人暮らしするの?」
「うん。自分で生活していく力をつけないと、このままじゃ嫁にも行けなそうだし」
サトルさんの、少し伸びた髪を撫でながらそう言った。洗濯ひとつ、自分でやった事が無いのだ。料理と言う料理もした事が無いし、掃除は苦手。これでは嫁の貰い手が無い。
「あはは、嫁に行けないか。そういうものかな。俺はミキ嬢が1人暮らしをすれば、たまには俺がミキ嬢の家を訪ねる事もできるし、嬉しいかな」
「だよねぇ。サトルさんの家ばっかり、お邪魔してるもんね。まぁ両親が、1人暮らしには反対すると思うんだけどね。何とか説得してみるよ」
うまくいくといいねぇ、目を閉じながらサトルさんは言った。そしてまたケホケホッと咳をする。
突然、まぁ携帯の着信は大抵突然なのだが、お尻のポケットに入れてあった携帯電話が振動した。固定電話からの着信だ。誰だろう。
「はい?」
『もしもし、俺だけど』
その声はユウだった。携帯を握る右手にじわっと汗が滲むのがはっきりとわかった。
「なっ、どうしたの、どっから電話してんの?」
『家からだよ。携帯からじゃ、出てくれないだろうと思って。勉強してんの?』
おいおいこのタイミングで何の用だよ、と突っ込みたかった。あぁ、何か答えなきゃ。答えなきゃ。座っていながら軽く眩暈がした。
「勉強、そうだよ、勉強してるんだよ、だから電話して――」
ケホケホ、「あ、ごめん」、とサトルさんが咳き込み、喋った。
あーっ、まずいっ。この状況はやばいっ。国家試験が終わるまで会う事を拒否しておいて、どこぞの男と一緒にいるなんて事が知られたら、と言うか知られた?いや、今の声は兄貴の声、いや、うちの兄貴は家出してるんだった。じゃぁお父さん――。
「電話してくるな、って?ふーん、で、誰といるの?今咳をした人は?」
さぁミキ、頭をフル回転させるんだ、ユウに納得のいく答えをさぁ、ぶつけるんだっ。
「――家庭教師のお兄さん、でーす。なんつって」
「――切るね」
プツっと音がして、続いてプーップーッという音が鳴った。暫くその音を聞いていて、
サトルさんが声を掛けている事に気づかなかった。
あっという間に2月に入った。特別論文の発表会は無事終わり、あとは国家試験に向けた勉強のラストスパートという所だ。
特論が終了した事で、放課後の教室は静けさを取り戻した。私は教室での勉強再開した。大概レイちゃんと一緒に、時々レイちゃんが仲良くしているグループの子も混じった。勿論レイちゃんの机にはコーラの缶、だ。土日は市立図書館で勉強した。これも大抵レイちゃんと一緒。図書館で勉強後、ファストフード店でお茶をした。
「彼とは会わないようにしてるんだっけ?」
電話の一件以来、ユウからメールが来なくなった。私からも敢えて連絡を取ろうとはしなかった。言い訳も思いつかないし、言い訳して済む話でもない。この処理は、試験が終わってからにしよう。
「うん、国家試験終わるまではね。気を遣わせたくないし、何しろ勉強不足だし」
それこそレイちゃんに気を遣わせないように、ユウの話は黙っていた。
珍しくコーラではなくホットコーヒーを飲んでいるレイちゃんは、深夜まで勉強をしているので眠くて仕方がないという。
過去問を解いたところで私の正答率は5割強。このままでは不合格となってしまう。県立だから安いとは言え、3年間学費を払ってくれた親の為にも、国家試験はパスしたいところなのだ。
「うちらなんて、国家試験に受かろうが落ちようが、就職には関係ないのにね。落ちるのは癪に障るよね」
「確かに。是が非でも受かってやろうぜ、レイちゃんよぅ」
互いのホットコーヒーで乾杯をした。琥珀色の液体がちゃぽんと跳ねる。
「合格発表は4月に入ってからって言ってたよね。わっけわかんないよね、この試験制度」
レイちゃんが言う。2月に受けた試験の結果は、4月に分かる。それまでは学校で仮採点を行い、6割を完全に超えていれば安心、完全に下回っていれば覚悟を、6割前後の人間は4月までドキドキ、という事だ。
「国家試験が終わって、仮採点までやったら、1人暮らしの話、親に話してみるんだ」
「そっか。そしたらミキちゃんの新居に遊びに行くのは、就職してからになりそうだね」
レイちゃんは3月の卒業式を終えたら、静岡へと引っ越すのだ。
「そうだね、ユウやらサトルさんの方が来るの先かも」
「ミキちゃんさ――国家試験の事彼らの事、同じぐらい頭の中にあるでしょう?」
片側の眉だけをあげて「どうでしょ」と曖昧に答えた。
図星だった。もうすぐバレンタインデーだ。国家試験のドサクサでクラスの誰も話題にしようとしないが、私はサトルさんにプレゼントを渡したいと思っている。まるで頭の中は中学生、青春真っ只中と言ったところか。
しかし、国家試験の直前だ。たった1日だけど、もし不合格だった時に「あの一日を勉強に充てていれば――」なんて後悔をしかねない。
がらんとした教室は冷える。一応暖房は入っているが、窓際にあり、しかし窓際に座ると隙間風に攻撃される。これだから古い学校は――。
それでも自宅にいるよりは捗るので、寒さに耐えながら過去問題集を貪るように解いていた。やっと正答率が6割に届くようになってきた。もう少し頑張れば、安全ラインに乗れる。
週末を挟んで、国家試験当日を迎える。自由登校となった学校に登校してくる級友は殆どおらず、教室にはレイちゃんと私と、離れた所に座るタキのグループを含め6人が座っていた。
過去問を解きながら、もし不合格だったらどうしようかなぁなどと、不吉な事を考えていた。次年度に再受験できるらしい。しかし、就職して本格的に仕事をしながら、試験勉強なんて絶対に出来ない。もし今年合格出来なかったら、親に土下座だな。
そんな事を考えている今この瞬間にも、まじめに問題を解けばいいものを、次はユウの事を考える。家庭教師だなんて、まず信用してないだろう。それを証拠に、連絡をしてこなくなったではないか。試験が終わったら何て詫びよう。いや、詫びて許してくれるんだろうか。何事もなかったように「試験終わったよー」ってメールしたら、返信は来るんだろうか。
そしてサトルさんの事を考える。ユウからの電話を切った後、「彼から電話?」と訊かれた。会わないと約束していたと話すと、サトルさんは難しい顔をしていた。「何か悪い事をしたなぁ」と。いや、悪い事してるの、私だから。サトルさんを振り向かせるのに必死で、少しでも脈が無いか探って、ユウをおざなりにしてるの、私だから。
あぁぁぁぁぁぁっ、もう、集中できない。
マナーモードにしてある携帯のLEDが2回点滅した。メールだ。
『どうも、家庭教師のお兄さんです。
勉強頑張ってる所かな。邪魔になったらごめんよ。その後、彼とどうしたかと心配しています。仲直りしたかな。
俺は、3月で仕事を辞めて、実家の長野に一旦戻るつもりでいます。それまでに逢えたらと思っています。では』
会いたいな、と思った。逢いたいな、と思った。メールをくれる時は大抵、仕事が休みの日だ。次の瞬間には返信をしていた。
『今から行ってもいいですか?』
「レイちゃんごめん、私、ちょっと行くわ」
シャーペンを走らせる手を止めて、ばたばたと資料をしまう私を見ながら言った。
「え、どこに?」
「ん、ちょっと。友達のとこ」
ばつが悪そうに答える。
「顔に出てるよ、ミキちゃん」
苦笑いしながらひらりと手を振って教室を後にした。「帰るの?」とタキの声も聞こえたが、きっとレイちゃんが説明してくれるだろう。次に会うのは試験会場だ。
電車が各駅に停車する時間が、とても長く感じる。早く発車しろ。1分1秒でも早く、サトルさんに逢いたいんだから。ヘッドフォンから流れるパンクミュージックがかき消されるぐらい、心臓の鼓動が大きい。どうしたんだろう、何を焦ってるんだろう。
乗換駅にある小さな雑貨屋さんで、ブリキで出来たロボットの置物を買った。勿論、プレゼント用に包装も忘れずに。丁寧に包装を施す店員さんの手元をじれったく見ていた。
最寄駅からは殆ど走っていた。2月だというのに汗ばんでしまい、途中でマフラーを外す。ヘッドフォンのコードに絡まってしまったけど、そのまま手でくしゃっと持って歩いた。長野に帰るだって?仕事を辞める?
「突然ごめんなさいっ」
玄関が開くなりこんな事を言ったのでサトルさんは笑って答えた。
「いきなり謝らなくたっていいよぉ、どうぞどうぞ入って。寒かったでしょ」
呼吸が乱れる程走って来た私は、全然寒くなかったのだけど。
「何か――何か急に、顔が見たくなって――来てしまったよ」
ブーツを脱ぎながら下を向いて顔を見られないように言った。ふふっと笑いながら頭を撫でられた。
「こういう時もあんまり、女の子っぽい喋り方しないんだね」
「うん、ボーカロイドが喋ってるよりも抑揚ないよね。ロボだと思ってよ」
部屋に入ると、いくつか段ボールが置いてあった。
「もう引っ越しの準備、してるの?」
「うん、まぁ引っ越しは来月なんだけど、使わないものは先に実家に送っちゃおうと思って」
袋に包まれたスノーボードが壁に立てかけてあった。その手前には段ボールが4箱。
「あ、これ。バレンタインには2日ほど遅くなったけど、引っ越しの時に荷物になるほどの大きさではないと思うので良かったらどーぞ」
バレンタインの装飾には間に合わなかった、プレゼント用の包装がなされたプレゼントを渡した。「わぁ、ありがとう」と言ってサトルさんは過剰包装を一つずつ丁寧に解いていった。
「おお、ロボットだねぇ。タイムリーだねぇ」
「そうだね、ロボだね。そいつは喋らないけど」
ジャケットを脱いで、鞄と共に部屋の隅に置いた。
「座ってよ」
今日もまた自称「地球にやさしい男」は、エアコンから排出される暖かい空気にあたりながら、雑誌を読んでいたらしい。その場所を指さし、座るよう促された。
一度はそこに座ったが、まだ汗が引ききらない熱のこもった身体には暑過ぎるので、エアコンの風を避けるように座りなおした。鞄から一冊ノートを取り出し、うちわ代わりにして扇ぐ。どこのオヤジだ。
台所の換気扇の下で煙草を1本吸ったサトルさんがこちらへやってきて、私の対面に座った。
「その後、彼から連絡は?」
「ないよ。ぱたりとなくなった」
汗が引いてきた。ノートを鞄にしまう。
「そうか、何か責任を感じるなあ」
そう言ってサトルさんは、二人の間に置いてあったサッカーの雑誌を除けて、私の膝に近づいて座りなおした。
「仕方ないんだ。あの日は私が出しゃばって押しかけちゃったし、彼には会えないって言っておいて、サトルさんとは会ってた訳だから、そういう選択をした私が、悪い」
サトルさんは私の頭をくしゃくしゃと撫でた。
「そうやって、全部自分が悪いって思わないで良いんだよ。色んなタイミングが組み合わさって、人生って進んでいくんだから。たまたま俺がいるタイミングで彼から電話が掛かってきた。タイミング悪く俺の声が聞こえてしまった。そうじゃなくても、もしかしたら今日このタイミングで彼から電話が来ていたかもしれないしね。そして同じように俺の声を聞かれていたかもしれない」
「――そう、だね」
それでも私は自分が悪いと思っている。当たり前だ。自分の事を想ってくれている人を放っておいて、他の人を振り向かせようと躍起になって。振り向いてくれるかどうかも分からないのに。
「それで今日は?どうしたの?」
頭を撫でられたまま項垂れていた私の顔を覗き込むように、サトルさんが訊いた。今日は、サトルさんからのメールを読んで、そして――
「実家に、仕事辞めて実家に戻るって書いてあったから。会わなきゃって思ったんだ」
「別に今日の明日引っ越すわけじゃないよ」
ハハッと笑って言った。それはそうなんだけど。
「会えない距離じゃないし、別に外国に行くわけじゃないしさ」
そうだよ。時間はかかるけど電車で会いに行く事は出来る。サトルさんにその気があれば、横浜に来て貰う事だってできるかも知れない。だけど今までだって、そう近い距離ではなかったのに、さらに遠くなるなんて、私にとっては外国に行ってしまうぐらいの気持ちなんだ。
「何か、もう会えなくなるような気がしちゃったから。こうやって、急に会いたいと思っても、そう簡単に会える距離じゃないじゃん。そう考えたら何か身体が勝手にうごっ――」
鼻の奥がツンとして、視界が揺れて、涙が落ちた。あれ、泣いてる。デニムが深い群青色の水玉を作っていく。
サトルさんは私の頭をそっと自分の胸へと抱き寄せ、私の背中をさすった。
「大丈夫だって。横浜と長野だよ。それに、一度は実家に戻るけど、仕事の都合で東京に戻るかもしれないし、まだ分からないよ。だから俺の事で泣かないで。その涙は試験に受かった時の嬉し泣きにとっておきなよ」
背中に触れるサトルさんの手が温かく、大きく、優しい。抱きしめる腕が、暖かく、大きく、優しい。煙草の匂い。ずっと感じていたい。
「私、サトルさんの事ずっと――」
好きだった。言いかけて止めた。拒否されたらこの温もりから離れなければならない。それこそもう二度と、会えなくなるかもしれない。またあの「喪失感」を味わわなければならない。あんなのはもう、後免だ。
「――ずっと、大切な人だと思ってるから」
私を抱く腕に少し力が入る。
「嬉しいよ。そう言ってくれて。俺も例の『男友達』と並ぶ事が出来たんだね」
そう言うと、私の顎を長い指で引き寄せてキスをした。
『男友達』と言った後でこれかい――と思ったけど、嬉しい。
もう一度抱き寄せられ、耳元で「つながりたいな。いい?」と言われた。
私はキスで返事をした。
今日は前よりずっとずっと長く、優しいセックスをした。このまま時が止まればいいと思った。
時が止まればと思った。
しかし試験はやってきた。
試験会場の最寄駅でレイちゃんと待ち合わせた。駅に着くと既にレイちゃんの姿があった。凛とした姿に、余裕を漂わせている。
「おはよう」
「おはようミキちゃん。ねぇあの後、サトルさんのとこに行ったの?」
ばつが悪いとはこういう事か。首の後ろを掻いた。
「はい、お察しの通りでぇす」
はぁー、とレイちゃんの長い溜息が聞こえた。
「ミキちゃんの行動力には感心するよ、ホント。試験が終わったら色々聞かせてね」
褒められているんじゃない事ぐらい分かった。呆れてるんだ。でも今は、何だかんだ言っている余裕はない。
「とりあえず、今日は頑張ろう。この土日は部屋にこもって勉強したからね」
シャドウボクシングをする私。何故この会話でこの動き。
「戦うのは会場でね。それと、この土日はきちんと家にいた事に逆に驚いたよ」
どんだけ遊んでると思われてるんだ。そんな尻軽女ではない。
今日はこれまでの集大成。できる限りの事はやった。あとは仮採点の結果を待つのみだ。
帰り道、ファストフード店でレイちゃんと自己採点をした。結果はギリギリ6割。採点ミスがあれば合格にも不合格にも転ぶ、とても微妙な採点結果となった。
「あとは学校での仮採点の結果がどうなるかだねぇ」
レイちゃんは間違いなく6割を越えている。安心だ。私の行動が彼女の心を乱すようなことにならず、安堵する。
「私、口に出しては言わなかったけど、ミキちゃんの事がほんっとに心配だったんだ」
強い目線で見つめられた。私はホットコーヒーに伸ばそうとした手を止めた。
「え、なになに、何が?」
「家で殆ど勉強しないって言ってたし、サトルさんには急に会いに行っちゃうし、試験前でも彼氏の事とかサトルさんの事考えてるし、ミキちゃんの試験結果が本当に心配だったんだよ」
苦笑いするしかなかった。コーヒーを一啜り。苦い。今はこれ位が丁度良い。
「ごめんね、心配かけて。まぁ、不合格なら自業自得、合格なら儲けもの、ぐらいに考えておくよ」
友達に心配されていただなんて。私はてっきり、呆れられていると思っていた。あぁ、何て良い友達に巡り合えたんだ。
「それで、彼とはもう連絡解禁?」
考えないようにしていた懸案事項が――。
「実は、サトルさんの家に行った事がユウにばれちゃったんだよね。それから連絡が途絶えた。音信不通」
レイちゃんは、言わんこっちゃないという感じに顔を顰めた。
「二人の男の人と、うまい事やっていくなんて、土台無理な話なんだよ。絶対ボロが出るよ。クリスマスの時にも言ったけどさ。浮気だもん」
レイちゃんのいう事は尤もだ。現に、ボロが出た。
「ユウには私から謝罪なり何なりしてみるつもりだけど、ダメならもう、別れるしかないな。振られるのを待つ」
誠意のない行動をした私には、選択権はない、という事だ。
「そうしたらサトルさんと付き合うの?」
「好きって言うチャンスはあったのに、言えなかったんだ――」
暫く沈黙が流れた。レイちゃんはコーラを飲み、私はマドラーでポーションミルクのカップをクルクル回していた。
沈黙を破ったのは私だ。
「失うのが怖くってさ。好きって言っちゃったら『ごめん、つきあえない』で終わりかもしれないでしょ?だから、『大切な人』って伝えたんだ。」
「そしたら何だって?」
「嬉しいって、言ってくれた。んで、セックスした。」
「セ・フ・レ。」
人差し指で何もない空間にキーボードでもあるかのようにノックするレイちゃん。
「何とでも言ってくれー」
「でも、好きって言って、『俺もだよ』って言われる展開は、考えなかったの?悪い方にしか考えなかったの?」
確かにそうだ。何かを考える時は、必ず対となる事を考えるのがスジだ。今日の夕飯はカレーかシチューか。魚か肉か。レイちゃんはコーラかコーヒーか。お盆か正月か。私は、悲観主義者なのかもしれない。
「考えなかったんだろうね。今になって思う。サトルさんって、何と言うか、ふわふわしていて、何を考えてるのか分からない感じがあるんだよね。掴みどころがないとか言うのかな、こういうのって。もう中学生でもないし、相手が自分を好いている確信もなく『好き』なんて言えないよ。傷づくの、怖いし」
もっと若いころはなぜあんなに大胆な行動がとれたのだろう。1度も話した事が無い先輩にいきなり告白をするとか、振られたらその後居づらくなるだろう同じクラスの男子に告白したり。あぁ、恐ろしい、若さという物は。
自宅に戻り、ユウにメールをした。言い訳をするか、謝るか、色々と逡巡した結果、ストレートに『試験が終わりました』とメールした。すぐに返信はなかった。
4日経ったところで、ユウの友人であるテツに電話をした。
「ユウと連絡がとれないんだけど」
『あぁ、ユウは今スノボ行ってるっぽいよ。何、急用?』
ベッドに寝そべって、小さなぬいぐるみを天井に向かって投げては取る。
「急用じゃないだけど、暫く連絡がとれなくて」
投げたぬいぐるみがあさっての方向へ飛んで行った。こうやって飛んで行っちゃうのかな。。
『ユウに何かしただろ、何か怒ってたけど』
「あぁ、そうなんだ。怒らせるような事をした自覚はあります」
やっぱり「家庭教師のお兄さん」事件は、ユウを怒らせるには十分すぎる出来事だったのだ。
『まぁ連絡するようには、俺から言っておくよ。何があったのか知らないけど、反省はしてんだろ?』
反省?あんな事があって、それでも後日、サトルさんの家まで行って、セックスまでしてきた私は、反省なんて――どちらも失いたくない狡猾な私は、嘘を吐く事しか思いつかなかった。
「してますしてます。頭がめり込むぐらいに土下座しちゃう。サービス」
『ハハハ、んじゃその通り伝えておくよ』
その後、1時間もしないうちにユウからメールがきた。今は北海道へスノーボード旅行中で、お土産を買って行くから、という素っ気ない内容だった。例の件には一切触れていなかった。
私はメールで謝るつもりはなかった。謝るなら、顔を見ながらすべきだと思った。
ただ、何のお咎めも無いユウのメールを読み、「ただ友達の家にいただけ」、とか、そんな風に思ってくれてたら、という全く絶望的で浅はかな、一縷の望みをかけていた。
久々に学校に登校した。この日は国家試験の仮採点日で、ギリギリ6割の自己採点よりも少し点数があがっていた。これが恐らくは正式な採点結果となるだろう。という訳で、合格はほぼ確定だ。
タキもレイちゃんも、合格確定だった。まぁ彼女らは初めから、合格して当たり前の勉強っぷりだったんだけど。
レイちゃんは私が合格(確定)したことを自分の事のように喜んでくれ。まるでお母さんだ。いや、うちの母よりも喜んでいたと思う。
それから数日して、卒業式を迎えた。3年間の短く濃い時間を過ごした仲間たちは、就職で全国に散らばる。最後の記念にと皆写真を撮るのに躍起になっていた。
合格が分かり、安心したところで、両親に1人暮らしがしたいと申し出た。母は初め、猛反対をしていたが、父が「経験しておいた方がいい」と言ってくれたおかげで、1人暮らしが許された。
早速母と2人で、職場と自宅の中間あたりにある駅の不動産屋に行き、アパートを決めてきた。2階建てアパートのワンルーム角部屋で、部屋の横には川が流れている。綺麗な川ではないが、内覧した時はちょうど鷺が餌をついばみに来ていた。
大きな家具もないので、父が軽トラを借りてきて、引っ越しをした。あっという間に1人暮らしが始まった。内覧した時は広く見えた6畳間は、テレビやテーブルを置くと何だか狭く感じる。だが1人で暮らすには十分だし、今までの4畳半生活に比べたら広過ぎるぐらいだ。
ユウとはなかなか会うタイミングが無く、引っ越しが終わってから新居で会う事になった。
「何か久々な感じだねぇ」
玄関を開けて中へ促した。うん、とだけ返事をしてユウは部屋に入っていった。
「あ、これ北海道の土産」
黄色い包みのお土産を手渡された。
「へぇ、1人暮らしって感じの部屋だね」
「まぁどこのワンルームアパートも同じような造りだよね」
サトルさんの家も同じつくりだった。とは言わなかったけど。
どうぞどうぞ座って、とテーブルの横に座布団を置いた。私は台所で麦茶を入れ、テーブルに運んだ。
「何で既に自宅にいます、みたいになってんだよ」
座っていた筈のユウは寝転んでいた。つい笑ってしまった。
その横に座って麦茶をすする。さて――何から喋ろうか。
考えていたら、ユウの手が伸びてきて、私の左手を両の手で挟み込んだ。
「何?どうしたの?」
「暫く会って無かったから、触っておこうかと」
「何のご利益もないよ。それよか、テツが言ってたよ、ユウが怒ってたって」
自分から話を振ってしまった。
「友達と勉強してたんでしょ。別にいいよ。俺も結構長く北海道に行ってたから、なかなかメール出来なかったし」
「あはぁ、そうなんだ――」
何だか気の抜けた返事をしてしまった。取り越し苦労ってやつか。てっきり今日この場で「誰と何してたんだ」とか「誰とナニしてたんだ」とか、そんな話になるんじゃないかと思ってたんだが。
それでもユウの態度や話し方が、いつもよりも大人しい事がとても気にかかった。全てお見通しなのかもしれない。知っていて知らない振りをしているんじゃないか。
「ねぇ、布団はどこにあるの?」
「クロゼットに入ってるけど」
部屋の隅を指さして言った。
「出してよ」
「何で?」
「セックスしたい」
「はぁ?」
怒っていないらしいことは分かったけど、いきなりそれはどうなんだ、家についてまだ10分も経ってないというのに。
それでも負い目を感じている私は、それに従おうと思い、敷布団だけ出した。
そしてセックスをした。
ユウは通常営業という感じでいつも通り、日向ぼっこの様に暖かく抱いてくれたが、私の脳裏をかすめるのは、サトルさんの影、体温、匂い。こんなに上の空で抱かれていては失礼だと思えば思う程、頭の中はサトルさんの事でいっぱいになる。せめて名前だけは間違えないようにしなきゃ、と真面目に考える。
通常営業だと思っていたユウも、いつもなら「好きだよ」とか、こちらが焦ってしまうような愛の言葉を発するのに、今日はそれが1度もなかった。やっぱり何か、歯車がずれてきているような気がするのだ。雨が降る前に、湿気を帯びた匂いのする風が吹いてくる、そんな感覚に似ていた。
セックスが済むとお茶を飲み、ユウはさっさと帰って行った。
もう2度と、会わないような気がした。
「もしもーし、何すかー?」
『そのやる気のない出方、やめろよ』
田口からの電話だった。エスパー田口、色々と探られそうだ。警戒せねば。
『お前、試験終わったんだろ、どうだったの?』
「多分受かってる。4月にならないと分かんないんだ」
1人暮らしを始めた事を田口に伝えていなかったので簡単に伝える。
『え、マジで?今から酒持って行っていい?』
「いいよ、その代わり私の合格祝いな。酒代は田口持ちで。」
簡単に家の場所を説明し、私は頃合いを見てアパートの前で待っていた。川沿いに植えられている桜の木のつぼみは、日々赤みを増している。そろそろ開花するんだろうか。部屋から花見ができるだろう。
あの日以来、ユウからは何の連絡もない。確実に、以前の関係が崩れている。崖崩れの前に、ほんの一欠けらの石が、サラサラと崖を伝って落下してくる。今はそんな状況だ。
聞き覚えのあるバイクの音がして、私は手を振って出迎えた。
「まずは乾杯な」
お互い目の前にあるビールの缶をプシュっと開け「乾杯―」
「マジでおめでとう」
「ありがとう。受かると思ってなかったよ。男に現を抜かしてたからなァ」
ブッとビールを吹き出して笑いながら田口が言った。
「笑わせんなよ、吹いちゃったじゃんか。でもお前らしいよ、それ」
近くにあったティッシュを田口に渡す。
「拭いて差し上げましょうか?」
「そういうのが悪いんだよ、お前は。そういうのでコロっといくバカがいるんだよ」
私の勘違いでないのなら、田口の顔は赤くなっていた。
「『俺は馬鹿ではない』、と仰りたいんですか?」
人差し指で強く指さした。
「俺はな。そんなトラップに引っかからない」
「トラップじゃねーし。親切心だし」
女友達とは違う、このゆったり感。何だろう。これだから男友達が必要なんだってば。
「それで、どんな風に現を抜かしてたんだよ。小田はどうした?」
崖崩れ寸前だよ、彼とは。
「付き合ってるよ。だけど浮気してるのがさっくりとバレたっぽい。だけど向こうはそれを言ってこない。分かってるのに分かってない振りをしてるのか、本当に気づいてないのか分からない」
お前、と目の辺りを抑える田口。
「大概にしろよ、なにそれ。浮気がバレたとか、普通の事のように言ってんの」
「そうだよね、非日常だよね、浮気なんて言葉」
田口の言葉はお父さんみたいだ。お父さんに怒られてるみたいだ。ま、私の父親は殆ど家にいない父親だから、まずこんな話はしないんだけど。
「で、小田ともう1人、どっちが本気なの」
それはビーフシチューとビーフハヤシのどちらが好きなのかという問いに似ていた。
「前にね、田口に言われて気づいたんだ。ユウに対しては愛情ではなくて情がかなりを占めているようなんだよね。もう1人の人の事は本当に好きなんだけど、その人、何考えてるのかわかんない人で。好きってうまく伝えにくい相手。どっちも好きな事には変わりないんだよ」
チーズ鱈の袋を開け、2本をぶらぶらして見せる。「どっちもね」
「お前、前に俺が、自分を大事にしろって言ったよな」
覚えている。あまりにも自分の心に浸みこんで、涙ぐんでしまった言葉だ。
「覚えてるよ。勿論」
「お前、その2人に一気にそっぽ向かれてみ?掠り傷じゃすまねーぞ」
そうだよ。だからこそ、サトルさんには好きって言えないし、ユウの事だってつなぎ留めておきたいんだ。
「そっぽ向かれない努力をする」
「お前がしたって仕方ないんだよ、バカ。相手に見限られるって事があるだろうが」
田口がグイっとビールを一気に飲み干す。何で私、怒られてるんだろう。もう1本のビールを田口に手渡した。
「でもまぁ、腹が据わってるんだったら、万が一、両方にそっぽ向かれてイテェイテェってなったら、話だったら俺が聴いてやんよ」
目を伏せたまま、私は少し顔を綻ばせた。
「お前、超いい奴」
田口の肩をバシっと叩く。「いてっ」と声を上げる田口。
「結局、てめぇの事はてめぇで決めて行くしかねぇんだよ」
フゥーっと、田口はビールの匂いがする吐息を吐く。
「そうだな。もう1人の人とは、身体だけの関係でもいいって、割り切っちゃってるんだ」
付き合えない、他に好きな人がいる、そんな風に拒絶されるぐらいなら、いっそ身体だけの関係でいい。その時だけは愛してもらえる、それでもいいと私は心に決めたのだ。欲を言えば、それ以上を望んでいる訳だが。
「何か、ユウとはうまく行かなくなるような気がするんだ。何となく、この前会った時にそう思った」
「それはそれで、整理がついていいんじゃねぇ?お前があれこれ考える事が減る訳だし。何しろ『浮気』っていう聞こえの悪い言葉におさらば出来るんだし」
「そうだよね」
それでも今回の、浮気がばれてしまった(かもしれない)一件に関しては、私が100パーセント悪い訳で、だから私は自分から別れを切り出すことはしない。ユウから別れようと言われるまでは、求められればセックスもするし、デートもする。
話していたらもう日付が変わっていた。
「泊まっていきなよ、私の大切な男友達さんよぉ」
そう言って、2組の布団の間にカラーボックスを挟み、眠りについた。勿論、田口との間には何も起こらなかった。田口は仕事の為に朝早く、帰って行った。
入社式を翌日に控えた3月最終日。家の窓からは満開の桜が見えている。近くの公園にはきっとお花見客が溢れているに違いない。明日着て行くスーツをクロゼットから出し、埃をとった。明日から、社会人か。
ユウも田口もとっくに社会人。私は3年遅れて社会人スタートだ。
何となく、ユウに電話がしたくなった。一緒に桜が見たいな、と思った。
サトルさんに電話がしたくなった。もう長野に行っちゃったかもしれないけど、会いたいなと思った。仕事をしてお金をためて、長野に行ってみたい。
まずはユウに電話をしよう。携帯の、1番に出てくる電話番号に電話を掛ける。
「もしもしユウ?」
「うん、今仕事帰り」
「運転中?」
「渋滞中」
「一緒に桜がみたいなと思って電話してみたんだ」
「もう、やめようよ」
瞬時にその言葉を飲み込む事が出来なかった。――え――今、何て?
「もうさ、俺、面倒になってきた、こういうの。全部終わりにしたい」
座っている筈なのに、猛烈な眩暈が起こる感覚。目の前の光が暗転し、マーブル模様を描く。桃色だった桜が全て、モノクロになる。全部終わりにしたい。面倒になってきた。ユウの言葉が頭の中で反芻する。凄く短い時間で思考は私の頭に理解を求め、最低限の言葉を吐かせる。
「うん、わかった。それじゃ――元気でね。」
あっけなく、幕引き。
携帯の一番に出てくるユウの情報の「削除」ボタンを押した。
あの日、ユウは何を思って私を抱いたんだろう。他の男に抱かれたかもしれない私を、何故抱いたんだろう。きっと決定的な何かを探したんだろう。サトルさんという、他の男に抱かれた痕跡を。匂いを。足跡を。お目当ての品は、発見出来たんだろう。
私は「浮気者」から、ただの「片思いする女」になった。
これでいいじゃないの。考える事が1つ、減ったんだから。
あとは考えても考えが及ばない、ふわふわしている人を追って行こう。
掴みどころのない、ふわふわの、彼を。
--------------------------------------------------------------------------------
新社会人としての生活が始まった。全く経験のない事が仕事として与えられ、毎日が勉強。それでも周囲に迷惑を掛けない様に、手を動かし、頭を動かす。あっという間に時間という物は過ぎていく。
社会人になってもまだ、女性グループへの苦手意識は薄れず、腹を割って話せる相手は、同じグループで仕事をしている、3歳上の同期の斉藤君、あだ名は「さいちゃん」だ。彼は某有名大学の大学院を卒業している超エリートなのだが、話をするとそんな片鱗も見せない。ただのエロで話し上手で中2脳、そして「超イケメン」なのであった。おまけに女癖が物凄く悪い。
ユウと別れてから暫く、大人しくサトルさんからの連絡を待っていたが、新しい仕事で忙しいのか、連絡はなかった。私は入社して間もなく、同期女性に「人数合わせにお願い」と頼まれた合コンで知り合った、3歳年上の小岩井将太という男と付き合っている。
将太は、某有名建設会社に勤務している、ごくフツーの男で、音楽の趣味が合ったのがきっかけで、合コン後も何度か会い、何となく付き合った。付き合ってくれと言われたような、言われていないような、そんな何となくな付き合いだが、もう1年以上の付き合いになる。私は入社2年目に入っていた。
「今日は4時にあがりまーす」
パソコンに目を落としていたさいちゃんがこちらへ向いた。
「え、何、デート?それとも浮気?」
声がデカい、と一瞥。
「ライブ。渋谷で待ち合わせしてんだわ。あ、相手は将太だからね」
今日はパンクロックバンドが幾つか集まるイベントが行われる。将太とは現地で待ち合わせる事になっている。
白衣の下は相変わらず、スニーカーにTシャツなんていう色気のない服装で、仕事をしに来ているのか、遊びに来ているのか。時々守衛さんが目を丸くしている事があるが、見て見ぬフリをしている。
株式会社水原。業界大手のメーカーで、福利厚生等が手厚い。フレックスタイムを採用しているため、私は朝6時半から働いて、誰よりも早く帰る。そんな事が許される会社であり、職場環境だ。そんな訳で、仕事で稼いだお金は家賃とライブのチケットに消えていく。
白衣を脱いで椅子の背に掛ける。学生時代よりは幾らか丁寧に畳むようになった(洗濯も、それなりの頻度で行っています)。
「お先に失礼しまーす」
「お疲れー」
自由になるお金が増えて、ライブに行く事が増えてから、渋谷という街が身近になった。以前は「トウキョウコワイ」とかカタコトでふざけていたものだ。
目的のライブハウスへ向かう途中で携帯が震えた。将太からだった。
『ごめん、今日、仕事抜けられなくなった。埋め合わせは今度します。ほんとごめん。』
こんな事は日常茶飯事だ。何度予定をすっぽかされた事か。まぁ、理由が仕事なら仕方がない。
将太の会社は、当たり前の様に真夜中まで仕事をさせられるような会社だ。職場から直接、私の家に来る事があるが、大抵夜中だ。たまにライブのチケットをとっても、10回中7回は『ごめん』のメールを見る羽目になっている。勿論、埋め合わせなんてものはされた事はない。求めてもいない。
携帯をウエストバッグにしまい、ライブハウスへ向かった。
1人でライブに来る事にも慣れた。何物にも縛られずにゆっくりライブが楽しめると考えると、1人っていうのも悪くない。開演まで時間があったので、人で溢れるロビーの隅にあったベンチに腰かけた。ロビーでは、友達同士、恋人同士、開演を待ちわびて「このテンションどうしたらいいのー」という感じで落ち着きなく動き回る人が沢山いた。出馬前の暴れ馬だ。落ち着け。暴れるのはライブ中にしろ。こういう時間は正直な所、寂しさもあったりする。
「あのぉ――」
声がする方に振り向くと、短髪で色白の男性が不安げな顔をして座っていた。隣にいたんだ。気配を消してやがったか?
「携帯、貸してもらえたり、しません?」
とても控えめに大胆なお願いをしてきた。
「えっ、あ、どうぞ。落としちゃったんですか?」
携帯を鞄から取り出し、手渡した。ライブ始まってもいないのに、携帯落とすって、どんなドジっ子だよ。
「俺、新潟から来たんですけど、家に携帯置いて来ちゃって。こっちの友達と連絡が取れなくて困ってたんですよ。いや、番号は手帳に書いてあるんですけど、公衆電話って今、あんまり無いでしょう」
彼は鞄から焦げ茶色の革の手帳を取り出した。ページをめくり、指先で小さな文字を追い、携帯に入力した。手帳は几帳面な文字が並んでいた。今時、携帯番号を手帳に控えている若者なんているんだな。
「あ、もしもし?太一だけど、携帯忘れて来ちゃって、親切な人に借りてるんだけど、え、そうなの?まじでか。じゃぁ終わったらお前ん家行くわ。うん、そんじゃねー」
通話が終わり、彼は携帯のディスプレイをタオルでぎゅぎゅっと拭い「ありがとう」と言って返してくれた。
「お友達さんと連絡取れました?」
携帯をしまいながら、特に興味もないが、社交辞令としてとりあえず聞いた。
「それが、仕事で来れなくなったんですよ。1人でライブ観て帰る事になっちゃいましたよ、アハハ」
何が楽しくて笑っているのか分からないけれど、この人の笑顔って爽やかで素敵だな、と思った。
「私も1人ですよ。1人って気楽でいいですよ」
「1人より2人でしょう、一緒に観ません?」
な、ナンパ?何だろうこの人、ナチュラルにナンパしてる?
「私、モッシュピット行かないで後ろから観てますけど、それで良ければ」
俺もです、と言って、さっきまでの不安げな顔なんて思い出せないぐらい、カラリとした笑顔をしている。ひまわり、そうだ、ひまわりみたいだ。
「ひまわり君って呼んでもいいですか?それと、敬語はやめません?同じ年ぐらいでしょ?」
勝手なネーミングだが、「名前は?」と訊くのは少し気恥ずかしかったのだ。
「ひまわり君?いいですけど、あ、いいけど何で?俺は22歳。同じぐらい?」
「お、ビンゴ。私も22歳。ひまわり君のあだ名の由来は教えてあげない。私はミキでいいよ」
ひまわり君は、その笑顔を崩さずに、私の話に頷いていた。
ロビーにいた人が一斉に動き始めるとともに、場内から音が響いた。
「あ、私オープニングアクト観ないから、観たかったらどうぞ。私ここにいる」
「奇遇。俺も見ない」
そう言ってまたひまわりの様な笑顔を寄越す。何かこう――惹かれる笑顔だ。
オープニングアクトが終わるまで、お互いの身の上の話をした。ひまわり君は新潟で公務員をやっているらしい。大学は東京にあったので東京で暮らしていた事もある、と。新潟は故郷だけど、1人暮らしをしているそうだ。ちなみにナンパは初めてだとの事。あ、やっぱりナンパだったのか。
大体音楽の趣味も似たり寄ったりで、その他にも好きな漫画も小説も共通する部分があり、お互い驚いた。驚いてまた、ひまわりの様に笑う。
「さて、行きますか」
私から声を掛け、席を立った。新潟から来ているにしては軽装な彼は、大きな荷物はクロークに入れてきたんだろう。ウエストバッグだけだった。仕事帰りの私ともウエストバッグひとつだ。自分がいかに軽装で仕事に行っているかを思い知る。
ライブ中は、無駄口叩かずに大人しく観ていた。五月蠅く話しかけて来たら離れてやろうと思っていたが、ひまわり君もライブに熱中していたのだろう。大人しかった。
ライブが終わり、クロークから荷物を取り出したひまわり君と、渋谷の駅まで一緒に歩いた。
「いつも1人でライブに来るの?」
「いつもじゃないよ。大抵彼氏が仕事で来れなくなるから、1人になってしまうって感じ」
忙しい人なんだわ、と付け加える。
「ひまわり君は、こっちにはよく来るの?」
「新潟じゃあんまりライブもないしね。今日みたいに金曜の夜とか土日なら東京まで来る事あるよ。まぁそんなにしょっちゅうは来れないね」
歩きながら鞄の中をごそごそと探り、手帳と同じ焦げ茶色の小さなケースから、1枚の白い紙を取り出し、私に寄こした。
「これ名刺。ひまわりの『ひま』は『暇人』の『暇』ではないよね?」
本当に公務員だ。ひまわりの「ひま」は勿論「暇」ではない。
「違うよ、笑った顔がひまわりみたいだったから言ったの。本当の名前は原田太一君というんだね」
へぇ、と言いながら名刺をひっくり返して「こっちは英語か」と呟いた。
「ひまわりみたいなんて言われた事ないよ。そうだ、後で友達の携帯で履歴調べるから、電話しても大丈夫?今日のお礼、今度したいし」
「お礼なんていいよ。電話貸しただけだし」
「電話代払ってないからさぁ」
「別にいらないし。私もいっぱしの社会人ですので」
「ミキちゃんって面白いね。気に入った。やっぱり絶対電話する」
そこだけやけに強い口調で断言し、「それじゃ俺こっちだから」と別の改札口へ向かって行った。
帰宅したのは日付が変わる頃だった。すぐにシャワーを浴び、冷蔵庫から麦茶のボトルを取り出し、コップに注いだ。
『私が男友達と会ったりライブに行ったりする事にいちいち過剰に干渉しないでね。』
将太にはそう言ってある。今日ひまわり君もとい原田太一君と知り合った事を話しても、「ふーん」で終わるのだろう。束縛というものは、されると面倒だが、されないと寂しいものだ。麦茶をごくごくと飲みながら、そんな事を考える。
明日は休みだし、ちょっとテレビでも観てから寝るかと思い、リモコンを探していると、携帯が鳴った。知らない番号からだった。
「もしもし?」
『あ、さっきの、太一です。ひまわりの』
「あぁ、ひまわり君」
リモコン探しを諦め、布団の上にでんと座った。
『ひまわり君ってやめてよ、太一でいいよ。遅くにごめんね、寝てた?』
「寝てないよ。して太一君、誰の電話を使っているんだい?」
『友達の携帯。とりあえず今日のお礼は今日のうちにしておこうと思って』
何て律儀なんだ。というかお礼なら渋谷で何度も言われたと記憶している。同じ動作を繰り返す、からくり人形を思い出す。
「わざわざどうも」
『新潟に戻ったら、携帯に電話してもいい?』
この人、結構厚かましいかも。でも憎めない感じがして、ふふっと顔がほころんでしまった。
「いいけど、電話よりはメールの方が助かる。仕事もあるし、彼氏もいるし」
「あ、そうか。じゃぁメールアドレス教えてくれる?」
私が言うアドレスを、おそらくは彼の焦げ茶色の手帳に書き込んでいるんだろう。復唱した後、彼は言った。
『じゃぁ新潟に帰ったらメールするから』
ひまわりの様な笑顔が携帯のあちら側に一瞬、見えたような気がした。厚かましく笑うひまわり。嫌いじゃない。私にはない、底抜けな明るさがそこには垣間見えた。
「いらっしゃい」
玄関のドアを開き、将太が部屋に入る。
「一昨日はごめんね。また例の上司がどっさり資料持ってきちゃって」
頭をぼりぼりと掻きながら頭を傾げた。
「別にいいよ。いつもの事だし。それに面白い人に出会ったし」
え?と頭を上げた将太は食いついてきた。
「誰、何それ?男?女?」
「男。新潟から来てるんだって。ひまわり君っていうんだけどね。以下省略」
予め淹れておいたコーヒーをカップに注ぎ、テーブルに置く。客人でもないのに、将太が家に来る時は必ず、コーヒーメーカーでコーヒーを淹れる。コーヒーの香ばしい匂いに、思わず深呼吸をしてしまう。カフェイン浴だ。
「それにしても、入社2年目でそれだけの仕事をさせられるってのも、大変だね」
他人事だ。私は2年目だが、「やる事をやって帰る」を基本としているので、仕事が大変だと思った事が殆どない。会社のスタンスも違うのだろう。私の職場は「結果こそ全て」な感じだが、将太の職場は昔ながらの「馬車馬の如く努力したものが報われる」みたいな所がある。
「まぁね。家庭が出来れば上司も、考え方を変えてくれるのかなぁとも思うけどね。嫁さんが待ってるだろ、早く帰れ、みたいな」
そんな物だろうか。「ただの社風じゃないかなぁ」と呟きながらコーヒーとずずっとすすった。
「そんな訳でさ、ミキ、結婚しよう」
そうだよね、家庭が出来れば仕事も――
「――はぁ?今何つった?」
「だから結婚しようって」
何言ってんのこの人、仕事が大変だから結婚しちゃえって事か?仕事のし過ぎで頭パーンってなったのか?おかしくないか?
「ちょ、ま、落ち着け、落ち着け、特に私。結婚したからって仕事が楽になると決まった訳じゃないんだよ?」
手に持っていたカップを落としそうだったので、とりあえずソーサーに戻す。手が震えている。
「分かってるよ。仕事の事は、言い訳っつーか――ストレートにプロポーズするのが恥ずかしかったからちょっと遠回しに言ってみたまでで」
ストレートに言えよ、と思い、少し膨れっ面になった。
大概女という生き物は、プロポーズには全く勝手な憧れを抱いているものだ。高層ビルの最上階にあるレストランの窓際で、とか、夜の公園で、とか、セックスの後で、とか。婚約指輪が入った小さな箱をどこかに隠して。
それが何だ、この状況。お茶飲みながらしっぽりプロポーズ。老後の縁側かっ。
「断る理由はないけど、それでもちょっとだけ考えさせて」
「うん」
「それと、前にも言ったけど、私が誰と遊ぼうが誰と会おうが、過度に干渉しないっていうのは結婚後も続行ね」
「うん。他には?」
「考えついたら付け加える」
どうしてこうなるかな。どうして私ペースの付き合いになるかな。将太は何も言わない。何もかも、私の言う通りに、思うとおりにやらせてくれる。私は誰かを振り回したいわけではない。逆に、誰かに翻弄されたりしたい。恋愛の駆け引きなんかがあってもいいと思っている。そう、サトルさんみたいにふわふわの人との駆け引きなんて、最高で最低だった。
「ミキらしくていいね」
そういうと私の腰を抱いてキスを落とした。そして1週間ぶりのセックスをした。
「ちょっと落ち着け。本当にそれでいいの?まだ22歳だよ?やりたい事とかないの?」
タキは顔を真っ赤にしながら熱弁をふるっている。私が余りにもストレートに「結婚する」と言ったからだ。
「やりたい事なんてこれからやるよ。結婚は何つーか、区切り?別に何が変わる訳でもないし」
よく考えてみたら、結婚したら一緒に住む以外に、何か変わる事があるんだろうか。当面何ら変わる事はないと思うのだが。
「止めやしないけどさぁ、後悔しない?別に子供が欲しいとか、できちゃったーとか、結婚しないとまずい状況じゃないんでしょ?」
「ないよ、でもいつかするなら、今でもいいじゃん。断る理由が見つからない。相手を嫌ってもいないのに、プロポーズ蹴って、別れるってのもおかしな話じゃないですか」」
タキは額に手を当てて俯いてしまった。
「あんたには感服だよ。肝が据わってるよ。何も言う事はない。嫁に行け。そして帰ってくるな」
そう言って顔を上げ、チョコレートパフェの底にあったシリアルをぼりぼり食べていた。
タキは、職場に近い所にアパートを借り、1人暮らしをしている。私の職場にも近いので、時々こうして顔を合わせてご飯を食べに行ったりする。
長年付き合っていた彼とは別れた。その代り、職場の同僚と付き合っている。そういえば、こいつも公務員だったっけ。
「そういえばね、この前ライブ行った時に、面白い人と知り合いになったんだよ。ひまわりみたいなヒト」
「男?」
「そう」
タキは目を瞑って絶句していた。「また男かいな」
「小島さん、今メール送りました」
私の所属する研開1の上司にそう言い、業務に戻る。数秒後、期待通りのリアクションが来た。
「えぇぇぇぇっ?」
小島さんの絶叫が響いた。私の「結婚・婚姻届」(勿論社内用)を読んだからだ。
「な、中野さん、結婚するの?」
ざわっと室内がどよめいた。
「あ、はい」
周囲で「いくつだっけ?」「まだ20幾つでしょ」「彼氏いるんだっけ?」ひそひそと会話が進んでいくのが聞こえる。
既に伝えてあったさいちゃんは、涼しい顔で仕事を続けている。
「全く、結婚ひとつでガタガタうるせぇなぁ」
不機嫌全開でパソコンに向かって呟く私にさいちゃんが言った。
「まだノッチは若いから、そりゃ驚くだろ」
なかのっち、略してノッチ。そう、ノッチはこの部屋の中で最年少なのだ。わはは。
「午後には色んな人に知れ渡って、その度に相手は?とか訊かれて、いちいち答えないといけないんだよな。めんどくさっ。さいちゃん、影武者にならない?時給払うから」
女性が多いからなのか、噂が伝わる速度が光の速さ並みなのだ。今日の話が今日中に広範囲に伝わってしまう。
予想通りだった。午後、私のもとに訪れる人が数人。メールを送ってきた人が数人。通りすがりに話しかけてきた人が数人。その度に同じ事を訊かれ、答える。
「ノッチが結婚するだなんて、俺は生きていけないよ。」
研開2の小野さんがそう言いに来た。嬉しいような、嬉しくないような。
「結婚しても苗字が変わるだけですから。また飲みに行きましょうよ。小野さんのピンサロ紀行もまた聞かせてください。」
小野さん、さいちゃん、研基の浅田さんと私は飲み仲間であり、昼仲間だ。毎週水曜日は「定例会」と称して昼休みに下ネタつきの恋愛談義に没頭する。
親への報告も、一般的な「嫁にはやらんぞぉぉー」なんていうドラマティックな展開にはならなかった。将太と2人、親の前で正座をして沙汰を待った。しかし「2人がいいならいいんじゃない?」という、まぁ良く言えば子供を信用しきっている、悪く言えば無責任という感じで終わった。
当面は職場の近くにアパートを借りて2人で住む事になった。私は職場が近くなったので、朝少し寝坊が出来る事、そして苗字が「小岩井」に変わった事を除いて、他にはあまり変わりがなかった。
将太は相変わらず仕事が忙しく、夕飯の時間にはまず帰ってこないので、夕飯を作る必要もなく、朝はコンビニでご飯を買って会社で食べる。平日は全く顔を合わせない。
何のために結婚したのか、いまいち自分でも分からない。土日に仕事が無ければ(私は無いのだが)、買い物に行くぐらい。あれ、これって結婚前と何も変わってない。先日はやっと、結婚指輪を買いに行った。結婚式は気が向いた時にする事にした。
「家庭を持てば仕事も楽になるかも」なんていう夢は、夢でしかなかったわけだ。残念だな、将太。
さっさと仕事を終わらせて、「小岩井」と書かれた表札の玄関を開ける。勿論誰もいない。鞄をぽいっとその辺に投げ、お尻のポケットから携帯を取り出す。メールが2件。
2件目の名前を見て驚いた。サトルさんからだった。すぐに開く。
『やあ、元気にしていますか?
俺は新しい仕事の都合で東京に越してきました。高円寺です。前に住んでいたアパートに比べると、段違いの広さですが、さすがに1人では少し淋しいです。
ミキ嬢は何か変わりはありましたか?新しい仕事はどうだい?
何だかメールもろくに送らないままで、1年も経ってしまったね。気が向いたらメールください。』
サトルさん、東京にいるんだ――。1件目の知らないアドレスからのメールは開封せず、さっさと返信メールを送った。
『こんにちは。だいぶ久方ぶりになりますね。仕事を初めて2年目になりますが、結構自由な雰囲気の仕事場で、のびのび仕事をしています。
サトルさんは東京にいるんですね。会おうと思えば会える距離ですね。新しい家に是非、お伺いしたいものです。
だんだん暑くなってきましたね。エアコンのかけ過ぎで体調を崩さないように、気を付けてくださいね。それでは。』
サトルさんが東京にいる。逢いたい。そればかりが頭を占拠していた。
広い家で1人で仕事をしてるんだろうか。彼女が出入りしているんだろうか。彼女いるんだろうか。私は逢いに行ってもいいんだろうか。
暫くして落ち着いたところで、もう1件のメールを開いた。
『原田です。電話を借りた原田です。先日のお礼にご飯でも食べに行きませんか?あと、映画の趣味が合いそうだったから、おすすめの映画、観に行かない?という訳でメールしてみました』
この人は何遍お礼をしたら気が済むんだろう、と思わず吹き出してしまった。
わざわざお礼の為にこちらに来る訳もないので、きっと友達の所に行くついでにでも、って事なんだろう。一応誘いには乗っておくことにしよう。
『メールありがとう。もうお礼はいいと言ったのに。でも映画ならいいですよ。今度こちらに来る時があれば事前に連絡ください。予定合わせますので。では』
水曜日の定例会。私は「好きだった人から連絡が来た」というネタを出した。
「好きで好きで、身体の関係もあったんだけど、好きって言えないまま付き合いもしなかったんですけどね。今東京に住んでるって連絡が来て」
浅田さんが机をバシッっと叩いて言った。
「それは浮気じゃなくて不倫になるぞ。ノッチは結婚したんだからな」
「まだ誰もヤるなんて言ってないじゃないすか」
苦笑する私を浅田さんはキッと睨んだ。ひえぇ、怖い。絶対ドS。
「まぁでも、そういう関係だったんだったら、会ったらヤるだろうな」
さいちゃんが、さらりと言った。さいちゃん自身、人妻と一晩限りの関係を持ったり、本当は男3人兄弟なのに「妹が5人いる」等と言い、平気で5股も掛ける男なのだ。社内でも浮名を流した事がある。イケメンは大変だ。
「ノッチはヤりたいの?その人と」
小野さんは興味津々な顔を隠しきれないという感じでニヤついている。
「何でヤる事前提で話しが進んでるんですかね?まぁでもヤりたいですね。大好きだし、凄い良いんですよ」
何が良いんだよっ、と笑いに包まれたが、良いと言ったら、そういう事だ。小野さんに至っては「俺、ムラムラしてきた」と暴走。
保守派の浅田さんは私を引き留めようと必死だ。アンタは私の親父か。
「旦那にバレたらどうすんの?」
「バレないようにやります」
「いや、万が一バレたらまずいでしょう」
「万が一にもバレません。私が誰に会ってようが過干渉しない約束なんで」
さすがノッチだなぁ、と小野さんと浅田さんが声をそろえて言ったので爆笑した。
「さいちゃんの方がよっぽど悪どい事やってますよ、五股ですよ?股間噛み千切られてしまえって感じですよ」
そこからはさいちゃんの話に移った。
ひまわり君から、今週末東京に来る、とメールが来た。土曜日に映画を観に行かないかとの事だった。将太は土曜も出勤らしい。
「じゃ、私その人と映画行くわ」
「何観るの?」
「知らない。お勧めがあるみたいだよ」
自分の嫁が、誰とどこで何をしようと、あまり興味が無いのか、興味が無い振りをしているのか分からないが、何も訊いてこないのだ。将太は何を考えているのか良く分からない。
「日曜はバンドだから、帰りはタキと夕飯食べてから帰るね」
タキと、あとはインターネットで知り合った女性、合計5人の女性でバンドを組んでいる。タキはベース、私はギターボーカルだ。学生の頃はベースをやっていたが、何となくギターに興味が湧いて、1本買ってしまった。初めは「歌いながら弾くなんて」と思っていたが、慣れてしまえばそう難しいものでもなかった。
土曜日、ひまわり君、もとい太一君は私の最寄駅まで来てくれた。丁度お勧め映画は近くのシネコンで観る事が出来た。
「どうだった?面白かった?」
タイ料理屋でランチをした。私の大好きなヤムウンセンを突きながら、映画の話をした。
「面白かった。ホラー映画ってさぁ、観た後にだんだん笑えてこない?」
「あぁ分かる、ここで怖がらせたかったのかーって冷静に思うと、笑える。でも俺、陰から顔が見えた瞬間、ちょっとちびりそうたっだけどねぇ」
おんなじだ、この人のツボと私のツボ。私はチビリそうにはなってないけれど。
「だけど観ちゃうんだよなー、あの手の映画。オチは分かってるのにね」
ハハハーと笑うその顔は、やっぱりひまわりみたいで、吸い込まれる。素敵な笑顔だ。
「ミキちゃんは車の運転するの?」
「私はノーライセンスだよ」
ヤムウンセンからパクチーを拾って口に入れる。鼻腔に広がる独特の匂い。おいしい。
「じゃぁさ、今度レンタカー借りてドライブ行こうよ。あ、友達に車借りようかな」
どこに行きたい?何したい?とニコニコの笑顔で問われた。特に希望は無かったけど、唯一思いついたのは「雷門に行きたい。」だった。理由は、行った事が無いから。それだけ。それなのに太一君はとびっきりの笑顔で言うのだ。
「いいねぇ、俺も行った事ないんだよ。でも近くに美味しい天丼のお店があるっていうのはテレビで観たから、そこに行こう」
田口とは性格が全然違うけれど、田口と同じ安心感がある。田口は捻くれた笑顔しか捻り出さないけど、私を前向きにさせてくれる。それと同じだ、太一君。
新潟と神奈川じゃ、次がいつになるか分からないけれど、次は雷門ね、と約束をして、別れた。彼は明日夜行バスで新潟に帰るらしい。
翌日、昼過ぎからバンドのスタジオリハがあり、ミーティング後にタキと食事をした。
「で、新婚生活はどうなのよ」
タキは大して興味もなさそうに、ピラフの上に乗ったエビにフォークをさしながら訊いた。
「何も変わっちゃいないよ。何も変わっちゃいないぜ、俺達は、みたいな」
何の映画だったかのセリフを引用した。
「あんた、変わってないな」
そりゃそうだ。仕事が変わったわけでもない。子供が出来たわけでもない。変わる要素が無い。
「変わった事は、表札が小岩井になった事と、左手の薬指のコレ。指輪をしている事。そんだけ」
左の掌を広げると、さっきまでギターを触っていた指先が真っ赤になっていた。練習不足が祟った。痛いなぁと呟く。
「タキはどうなの、同僚君とは」
「もうダメかも。顔合わす度に喧嘩だもん」
タキの彼には一度会った事がある。何と言うか――気の弱そうな彼。タキにはもう少ししっかりした彼がお似合いだよな、と僭越ながら思ってしまったのだった。
「元彼とは連絡とってるの?」
「連絡取ってるも何も、ちょっとしたストーカーだよ、あの人」
タキから別れを切り出したのだが、元彼君は「別れない」の一点張りらしい。ま、それぐらい強い人の方が、似合ってる。そう思う。
店員さんに「お冷下さい」と告げてから言った。
「サトルさんって、覚えてる?」
「あぁ、あの何考えてるか分かんないヤリチン?」
随分酷い言い方だと思いつつ、「そうそう」と相槌を打つ。
「今、東京に住んでるんだって」
タキが私を上目使いで睨む。
「あんた、善からぬ事を考えてるんじゃなかろうね?人妻だよ?」
「善いか悪いかは別にして、会うつもりでいるんだけどね、つーか会いたいんだけどね」
はぁ、とため息をつくタキ。彼女に何度ため息を吐かせた事か。
「あんたさぁ、何で結婚したかなぁ」
「惰性」
「お前なんて流されてしまえ。惰性で島に流されてしまえ。そして永遠に帰ってくるなっ」
帰宅すると、将太はソファで膝にノートPCを乗せて座っていた。
「ただいま」
「お帰り」
「何やってんの?」
「オークション」
またか、と思いつつ、彼のやる事に干渉したくないので、私は自分のマッキントッシュを立ち上げて、拙い文章でブログの更新作業に入った。映画の感想でも載せておくか。
一緒に暮らすようになっても、お互いが勝手な作業をしている事が多く、タキの言う通り「何で結婚したんだろう」と思う事は多い。結婚する前の様に、何とかして会おうという熱意が無くなるのは当然で(だって一緒に住んでるし)、寝る時間もお互いずれるので、セックスの回数も激減した。そこに不満はない。が、結婚って、こういう物なの?と疑問には思うのだった。
自分の父と母を思い浮かべる。父は泊まり勤務の仕事で、家にいる時は母と喋るでもなく、枝豆を食べながらナイター中継を見ていたり、釣り具の手入れをしたりしていた。母は母で、録り貯めしたサスペンスドラマを見たり、買い物に出たりしていた。結局、2人が会話している場面って、食事時ぐらいだ。
子供を介さない限り、夫婦ってそんなものなんだろうか。新婚って、こんなに退屈なもの?
本格的な夏に入った。梅雨明け宣言が出され、連日強烈な日差しの中、自転車を漕いで通勤している。あぁ、日焼け止めぐらい塗らないと。そう思いつつ、面倒なので日陰を選んでフラフラ走行している。
職場には科学機器が沢山置いてある。排熱が高い機械も、熱に弱い機械もあるので、夏場はガンガン冷房をかけて室温を一定に保つ。冷え症の私には少し辛い実験室。そんな時は30度の培養室で少し温まる(37度だと流石に暑い)。
今日もそんな風に暖を取っていると、白衣のポケットに入れてあった携帯が震えた。メールの着信を告げる、短いものだった。
サトルさんからだ――。
携帯を手に培養室から走り出て、そのまま女子トイレに向かい、個室に入る。そしてメールを開く。
『こんにちは。毎日暑いけど、身体壊していないかい?
大きな仕事が終わって少し落ち着いたので、良かったら遊びに来ないかい?最近は料理をしてないから何もおもてなし出来ないけど、近況を聞きたいなと思っているよ。
では、返信待っています。』
メールを読んでいる間に誰かがトイレに入り、出て、電気を消された。私、居ますけど。
「例の彼からメールが来た」
さいちゃんに伝えると、ニヤリと笑うさいちゃんの顔が怖い。
「ついに会うの?」
「うん、会う。ヤるかどうかは分からないけどね」
居室に誰もいないのを良い事に、雑談。まぁ、実験の合間だから誰も文句は言わないのだけれど。
「俺は、ノッチは出来る子だと思ってる。なのでヤるに200円」
「何その理由。褒められてないし。でも私もヤるに200円」
「それじゃ賭けにならないじゃん」
「あ、そっか。じゃ小野さんと浅田さんにも賭けてもらうか」
その後、小野さんと浅田さんの職場へ赴き、それぞれに掛けてもらったが、2人とも「ヤらないに200円」だった。
小野さんは「何だかんだ言ってもノッチは理性を保つ」だそうで、浅田さんは「俺の中のノッチはそんな奴に踊らされるような女ではない」だそうだ。
本当に愉快な人達だ。彼らと雑談するために仕事に来ているようなものだと、最近、思うのだった。
「明日、東京の友達のとこに遊びに行く」
パソコンを見ながらマウスをせわしなく動かしている将太は画面を見たままで「東京のどこ?」と訊いてきた。
「高円寺」
「ふーん。あの辺、いい雑貨屋さんが多そうだよな」
カチカチ、クリックの音が家に響く。これ以上の会話は無い。たまに日付が変わる前に将太が帰宅しても、これといって会話が無いのだ。家で笑わなくなったな――そんな事を思いながらシャワーを浴びて、雑誌を見ながら買ってあったアイスキャンディを食べ、歯を磨いて寝た。
新宿で中央線に乗り換え、高円寺に着いた。
『駅に着きました』
『迎えに行くので、北口で待っててください。メッツがある方ね』
北口のメッツの壁に寄り掛かりながらサトルさんを待った。暑い。さっきまで耳にしていたイヤフォンを鞄に仕舞うと、蝉の声が耳を支配する。日が当たるアスファルトからは陽炎が見える。きっとサトルさんの部屋はエアコンがガンガンだ。自称「地球にやさしい男」はエアコンに頼りきっていた筈だ。
見た事のある姿の男性が、こちらへ歩いてくるのが見えた。白地に何かがプリントされているTシャツ、いつか見たマドラスチェックのショートパンツ、黒い短髪。線の細い身体。そこに乗る小さな頭。
手を振ったら、振りかえしてくれた。サトルさんだ。私も走り寄った。
「暑いね。そんなに遠くないんだ、家まで。行こう」
「うん」と頷いて、歩くサトルさんの後を追った。
私、うまく笑えてるかな。
駅から徒歩数分、古びたマンションの6階。そこにサトルさんの新居があった。タイル張りの壁面はところどころタイルが落ちている。エレベーターに乗るとロープがギシギシと音を放ち、振動する度に恐ろしい。
金属音がギィと響く玄関ドアを入ると、フローリングの部屋が2間続き、右手に和室がある。和室の窓からは風がスーッと入ってくるのが分かった。確かに1人で住むには広い部屋だ。大きな家具は無く、パソコン用の大きめのデスクと、ちゃぶ台があるぐらいだ。
「エアコンないんだ。風は多分通ると思うから」
開け放った窓からは、申し訳程度に風が入ってくる。玄関を閉めてしまうと、風の通りが悪くなるようだ。周りは住宅街で、高い木も崖もないので、蝉の声は随分下から聞こえてくる。
「ずいぶんエコな部屋になったねぇ」
「そうだろ、前の俺じゃ考えられない。開けた窓に腰掛けて吸う煙草がうまいんだ」
ちゃぶ台の所に座るよう促されて、そこに座った。サトルさんは早くも1本目の煙草に火をつける。
「風上で吸うのもアレですから」
そう言って、パソコンデスクに腰掛けて煙草を吸い始めた。
「その指輪は、もしかして例の彼から?」
サトルさんの中で、私の時は止まっている。恐らく、ユウの事を言っているのだろう。
「例の彼とはもう、入社前に別れたんだ。これは今の旦那から」
煙草から口を離し、口を開けたままサトルさんの動きが止まった。
「――旦那?」
ちゃぶ台に目線を落として頷いた。
「そう。結婚したんだ」
「マジで?何でいきなり?
「惰性」
「――ミキ嬢、変わってないね」
と言って表情を緩めた。
「そうか、旦那かぁ。ショックだなぁ。俺、何か凄くショック」
「それ、職場の人にも言われたからもういいよ」
苦笑してサトルさんの顔を見ると、サトルさんは笑っていなかった。
「俺は本気で言ってるんだよ。ショックだって。ミキ嬢が結婚するなんて、俺はショックだよ」
何て返せば良いのか分からず困った。私はサトルさんの事が好きだった。いや、今も好きだ。だけどサトルさんの気持ちは最後までふわふわで分からなかった。今「ショックだ」と言われている事さえ、真意が分からない。いつまでたってもふわふわだ。
吸っていた煙草を灰皿に押し付けて火を消すと、私の座る隣へ来て、腰を下ろした。
「それで、新婚生活は順調なの?」
殆ど尋問口調だ。私はサトルさんと目を合わす事が出来ず、下を向いたままで答えた。
「結婚って、こんなに味気ないものなのかって思ってる。思っていた以上に、退屈」
「退屈?」
「うん、退屈。結婚する前と変わった事なんて、住居と苗字だけ。あとは会話は減ったしセックスも減った。結婚してもしなくても、あんまり変わらないかな。逆に――」
「ミキ嬢?」
サトルさんが私の顔を覗き込んだ。そして華奢な掌で私の頬を優しく包み込んだ。目をじっと見て言った。
「ミキ嬢が結婚して、俺はショックだよ。だけど、結婚して幸せになってくれるなら俺は諦めがつく。今のミキ嬢は、幸せな顔をしてないし、笑顔が笑ってない。そんな顔を見るのは御免だよ」
そしてその手を離し、私をぎゅっと抱きしめた。
「サトルさん、私、どうしたらいいんだろう」
サトルさんの肩に頭を乗せて、抑揚無く呟く。
「幸せになりなよ。毎日旦那の顔を見るのが楽しみだって気分にならないと結婚じゃないよ。二人で笑いあえない結婚なんて、おかしいよ」
そういってさらに抱きしめる腕が強くなる。
「――うん」
目の前が霞んで見える。下まぶたに何かが溜まる。
「ミキ嬢、泣いてる?」
「泣いて――ない――」
しゃくり上げながら答えた。好きな人に「幸せになりなよ」なんて言われたら、嬉しくて悲しい。本当は、あなたと幸せになりたいのに。あなたとなら、私は幸せになれるのに。私は。少なくとも私は。諦めがつく?何なのそれ、ふわふわ過ぎて分からない。
頭を撫でられ、暫く強く抱かれたままだったが、その力が弱まったと思うとそのまま床に背中を預け、サトルさんとセックスをした。1年のブランクなんて感じない、あの時の匂い、あの時の声、あの時の温もり。
今この瞬間が最高に幸せなのに、それを持続的に与えてくれようとしないのは、あなたではないですか。この幸せが永久に続くなら、私は毎日心から笑って過ごせるのに。
煙草に火をつけたサトルさんは、窓枠に片膝を立てて座った。煙草の煙はゆっくり、ゆっくりと私のいる所へと届くと思いきや、手前で散り散りになって消えていく。
「しちゃって、良かったのかなぁ」
サトルさんがぽつりと呟いた。
「私が『幸せだ』って言ったら、どうします?」
「また明日も来て、って言う」
煙草の煙を吐きながら、サトルさんは照れたように笑って言った。
小野さん、浅田さん、あなた達の負けです
研究棟の前で立ち話をしている小野さんと浅田さんを見つけた。この糞暑いのに、外で立ち話なんて、井戸端ババァか。
「おはよーございまーす」
2人そろって「おはよう」と返事をくれる。
「小野さん、浅田さん、負けですので、私とさいちゃんに各200円ずつ払ってください」
2人は顔を見合わせて、そして揃って私の顔を見た。
「ヤったの?」
「ヤりました。だから私達の勝ち」
小野さんは手を叩いて爆笑した。
「アッハハ、さっすがノッチだ。俺の認めたノッチだ。頭あがんねぇよもう。後で払いに行くから」
その後、頂いた200円を握りしめ、さいちゃんと自販機でサイダーを買って飲みながら、サトルさんの話をした。この糞暑いのに、外で立ち話なんて、井戸端ババァか。
日付が変わる前に将太が帰宅した。
「お帰り」
「ただいま。今日早く終わったから実家に寄ったんだけど」
実家に寄る暇があるなら早く帰って来いや、と思ったが口には出さなかった。どうやら彼はマザコン属性があるらしい。
「姉ちゃんとこ、子供が生まれたんだって。これ写真」
まだ生まれて間もない、これが人間の子供か、と思うようなくしゃくしゃな赤ん坊が写った写真と見せられた。
「へぇ、おめでたいね」
うん、と言って写真を鞄にしまう。
「何かお祝い送らないと、と思ってさ」
「そうだねぇ」
私はソファに腰掛けた。将太は鞄を床に置き、隣に腰掛けた。
「出産祝いって、何が良いんだろう。現金?」
「身内だから難しいよな。商品券とかでいいんじゃないかなぁ」
「じゃぁ商品券、近々買っておくよ」
暇な時間が多い私が、買い物をかって出た。
「もう1回写真見せてよ」
あぁ、と言って鞄から写真を取り出す。
「へぇ。言っちゃ悪いけど、赤ちゃんって可愛くないよね。自分の子供なら可愛いのかなぁ?」
将太は返事に困った様子だったが、苦笑いしながら答えた。
「まぁ自分の腹から生まれたらそりゃ可愛いんじゃないの」
「将太は子供、欲しい?」
「欲しいけど今はいらない」
そりゃそうだ、今みたいに派手に散財できなくなるもの。ネットオークションで、プレミアが付くフィギュアを買ったりしているのを私は知っている。
「ミキは?」
「私は子供好きじゃないもん」
ふーん、と答え、またいつもの様に、各々が好きな事をやり始める。あぁ、これがいつまで続くのだろう。幸せではない新婚生活。幸せではない夫婦生活。
幸せってどこかその辺に転がってないかなぁ。靴の裏にくっついてた、なんて事ないのかな。やり場のない気持ちを、ブログに吐露する。
結婚式を挙げようと言ったのは将太だった。家族も誰も呼ばず、2人で、新婚旅行も兼ねて。
急ではあったが、旅行社に問い合わせると、偶然希望する日に空きがあったので、サイパン島で挙式兼新婚旅行をする事になった。親はきっと子供の花嫁姿を見たかったんだと思うが、「海外なんてお金かかるから行かない」と端から行く気が無い素振りを見せた。
パスポートを持っていなかったので、急いで作りに行き、旅行に間に合わせた。
挙式は勿論ギャラリーなんていなかったが、神父さん、ホテルの従業員、カメラマンさん、メイクさんが総出で盛り上げてくれたお蔭で、感動的な物になった。祝福の歓声には涙腺が崩壊した。
真っ白な砂浜を、真っ白なウエディングドレスで歩く。海は空の色をそのまま写している。いつか見た、群青色の海と空を思い出したが、記憶をかき消した。
旅行の最中は、買い物や散歩、名所めぐりをし、それなりに楽しんだ。久方ぶりのセックスもした。幸せかと問われれば、幸せだと答えられる旅行になった。職場に、実家に、タキに、レイちゃんに、沢山のお土産を抱えて帰国した。
帰国して待っていたのは、またいつもの生活だった。決して幸せではない、生活。
「これ、お土産、食べてくださーい」
職場の中央にあるテーブルに、マカダミアナッツチョコレートの箱をでんと置いた。
あちこちから旅行の感想やら結婚式の感想やらを訊ねられたので、適当に答え、席に戻る。
「やっぱビキニ着たの?」
さいちゃんがにやけた顔して言うので、頭を1発叩いてやった。
イテェと呟きながら頭を擦っている。
「着たけど写真は残ってないよ」
「ノッチは背が高いから、ビキニが似合うだろうなって、小野さん達と話してたんだ」
「あんた達はヒトの留守中に何つー話をしてるのっ。年中盛りがついてる雄犬か?君らは」
まぁ、大方予想はついたが、同じ質問を小野・浅田両氏から聞かされたのは、その日の午後だった。
「日本に銃刀法がなかったら、今頃先輩方、ハチの巣ですよ」
そう言っておいた。
タキを夕飯に誘った。夏も終わりに近づいていた。久しぶりに馴染みのラーメン屋でラーメンを食べ、それからカフェでお茶をした。
「お土産、中身見てもいい?」
「いいよ、大したもんじゃないけど」
白い紙袋をがさごそと開け、「あ、チョコだ」とテーブルに置く。さらに下にある箱を取り出す。
「はぁ?何これっ、何?」
「何ってトランプ」
ありとあらゆる男性が、男性器をさらけ出してドヤ顔で写っている写真が、トランプになっている。残念なお土産だ。
「だって食べ物以外に良いもの無くてさぁ」
「だからってこのトランプかよっ。まさかレイちゃんにはこんなものあげてないだろうな?」
「こんなものとはなんだぁっ。あげてないから大丈夫。木製の食器を郵送しておいたよ」
料理をするレイちゃんが懐かしい。もう暫く会っていない。メールは頻繁にやり取りしているのだが。
「その後、夫婦仲は良くなったの?」
コーヒーにドバドバと砂糖を投入するタキ。苦いコーヒーは苦手らしい。溶けるのかなぁと心配になる。
「良くなってないよ。それと、これは言って無かったよね。サトルさんとセックスしました」
口をあんぐりあけたまま私の顔を凝視する。マーライオンみたい。
「あんた――」
言った後、諦めたような顔をしてマドラーで撹拌を始めた。
「まぁそうなるとは思ってたよ。あんたがしたいようにしたらいいよ。このまま仮面夫婦を続けるもよし、離婚してさっぱりするもよし、私はあんたの味方でいるから」
顔を上げたタキと目を合わせる。
「お前、超いい奴」
右手を差し出して「シェイクハンド」と言うと、タキは笑ってその手を握った。
「私は元鞘になったから」
「え、どこの鞘?多すぎて分からないんですけど」
「アンタと違って2つしかないよっ。」
中距離恋愛をしていた彼が、横浜に押しかけてきたらしい。丁度、前の彼との別れ話が持ち上がっていた事もあって、そのまま何となく同棲が始まった、という事だ。
「あ、でも基本的にはうちに住ませてるというよりは、寄らせてる、だから、昼間は出て行ってもらってる。だから土日は遊びに来て大丈夫だから」
夜だけの同棲。私も同じような状況だ。「夜しか会えない」という気持ちから、きっと二人はラブラブしてやがるんだろう。くっそー。
『お久です。久しぶりに東京に遊びに行く事になりました。友達が車を貸してくれるというので、雷門、行きませんか?そっちまで車で迎えに行きます。』
太一君からのメールが来た。そういえば、雷門に行きたいって、言ったの私だったっけ。
横浜に住んでいると、東京は中途半端に近すぎて、観光名所なんて殆ど行かない。雷門もその1つ。テレビで観るだけで、行った事はない。何か興味を惹く事がある訳ではないのだが、ひまわりの季節が終わる前に、ひまわり君の笑顔を観に行って来ようと思った。
土曜の朝、車で最寄駅まで迎えに来てくれた。友達から借りたというその車は紫色だった。何かひまわり君には似つかわしくない色で、ちょっと笑った。
映画を観た日に、好きな漫画の話になり、お勧めを今度貸すよ、と言ってあったので、紙袋に入った漫画を2冊、彼に渡した。
「もう何度も読んだから、返却はいつでも大丈夫だからね」
「ありがとう、じゃぁ次に会う時に持って来るから」
また「お礼に」を付けて返してくるのかなぁと思い、思わず笑ってしまい「何?」と訝しげな表情をされてしまった。
浅草界隈の駐車場に車を停めて、雷門へ向かった。あぁこれだ、テレビで何度も観ていた、雷門。何が有難いのかよく分からないけれど、とりあえずその門をくぐり、参道を歩く。今日は残暑が和らぎ、涼しい風が参道を通り抜ける。
「今年は初詣、行った?」
初詣なんてもう半年も前の事。記憶を手繰り寄せる。
「あぁ、行ったよ。行ったけど、寒いし混んでるし、詣でないで帰ってきちゃった」
「彼氏と?」
「うん、旦那と」
「へ?」
きょとんとした目で足を止め、私を見ている太一君。私も足を止めざるを得なかった。
「私、結婚したんだ。映画観に行った日はもう既に人妻でした」
太一君の、明らかに焦っている表情が読み取れる。
「あ、え、俺とこんな事してて大丈夫なの?」
「大丈夫だよ。私の行動に過剰に干渉しない約束になってるし、第一、太一君と変な事してないでしょ。浅草でデートしてるだけ」
「デートって――」
彼は頭の後ろをぽりぽりと掻きながら俯いてしまった。言い方がまずかったか。
「デート、は訂正。遊んでるっていう言い方にしておくよ。それなら困らない?」
「どっちにしたって、困るけどね」
いつものひまわりの様な笑顔に戻るには少し時間が掛かった。私はこの人のひまわりの様な笑顔が見たくて、彼に会っている。心から笑っていない、とサトルさんに指摘された私の心を、少しでも笑顔に近づけてくれる太一君の笑顔。ひまわり。
夏の終わりのひまわりは、まだここに咲いていた。
ふらりと参道を歩き、変わった物が売っていると手に取り笑い、お御籤をひいた。小吉だった。今の私にお似合いだな、なんて思った。太一君は中吉。大吉をひいてくれると思ってたんだけど。
その後、入り組んだ路地に入り、太一君がテレビで見たという天丼が美味しいお店に昼食を食べに入った。古びたお店のお座敷に座り、部屋の角に置かれたこれまた古びたテレビに目が行く。築地の市場が映っていた。
「次は築地にするかね」
「いいねぇ」
なんて話をしていたところに、携帯が震えた。メール着信。サトルさんからだ。前に会った時から2か月が経過している。「ちょっとメール、ごめんね」と太一君に声を掛けて、メールを開く。
『こんにちは。今日はお休みかな?
その後、新婚生活は順調かい?こちらは相変わらずがらんとした部屋で一人、仕事しています。
先日のミキ嬢の様子を見て、その後心配だったので、メールしました。近々会えるといいね。では』
「今日太一君、何時まで遊べる?」
携帯を持つ手が小刻みに震えている。
「え、夕方ぐらいに友達の家に戻ろうかと思ってるんだけど、何で?」
「友達からメールが来てさ、あの、この後ぶらっとドライブしたら、その人の家に行こうかと思ってるんだけど」
太一君、ごめん、と心の中で思いながら。
「友達の家ってどの辺?」
「高円寺の駅の近く」
「俺の友達、荻窪だから、ドライブがてら送っていくよ」
丁度、大きな海老が乗った天丼が運ばれてきた。
「ありがとう、助かるよ」
サトルさんがメールを寄越すのは大抵、仕事をしていない暇な時だ。今日はきっと暇なのだろう。一応メールで、この後行ってもいいかと尋ねたら、是非という返信が来た。
大きな海老と格闘しながら、太一君に訊いた。
「太一君は、彼女は?」
海老が重たすぎて箸でなかなか掴めない。テレビは築地市場から東京タワーへと舞台を移した。
「最近、学生時代の同級生と付き合いだしたんだけど、すぐに北海道に行っちゃったんだよね。転勤で」
「じゃぁ遠距離恋愛だね」
「そうだね。だから結婚して、好きな人と毎日一緒にいられる生活って羨ましいよ」
そう、だね――続く言葉がなかなか出てこなかった。皆同じ事を言うね。だけど結婚生活が必ずしも幸せであるとは限らないのだよ、ひまわり君。
「一般的には――そうなのかな」
「何、『一般的には』って?」
海老は、食べても食べても尻尾に辿り着かない。
「私達は普通の夫婦とは違うんだと思う。こうやって私が誰と遊ぼうが、旦那は一切興味を示さないし、私は干渉されたくないし、家にいてもお互い違う方向を向いてるし、平日は殆ど顔を合わせないし。結婚した意味が、最近はちょっと、分からなくなってきてるのだよ」
丼の半分を平らげた太一君は、同情たっぷりの眼差しを向けて言った。
「それは悲しいねぇ。熟年夫婦になれば、そうなるのかもしれないけど、まだ新婚なのに。まだバカップルっぷりを遺憾なく発揮してもいい時期だよ」
目を伏せて少し笑った。
「バカップルか。もともと私、糖度が低いんだよ。男と付き合う時の糖度が凄く低いから、どんなに好きな人とでも、甘い言葉を掛け合ったりする事って、殆ど無かったな、今まで。はぐらかしちゃったりして。バカップルってのは、とても羨ましい」
「なら今から糖分とってさ、今晩は旦那さんに甘い言葉を掛けてみなよっ。すみませーん、食後にあんみつ2つ追加で」
いそいそと動き回る店員さんに声を掛ける。本当に糖分補給をさせるつもりらしい。「俺のおごりだから」と、ひまわりの様な笑顔でそう言った。うーん、その笑顔、堪らんっ。
高円寺まで車で送ってくれた。車中ではサイパン島にある「バンザイクリフ」の話で盛り上がった。戦時中、米軍に圧された日本兵が、断崖から「万歳」と言いながら身投げした場所だ。
「そうだ、今度、処刑博物館に行ってみようよ」ひまわり君はその笑顔とは裏腹に、結構ヘビーな嗜好があるので気が合うなぁと思う。私よりも背が高い彼は、サトルさんに負けず劣らずいつもおしゃれをしているし、顔だって素敵だ。実は太一君、いい男だ。
高円寺で太一君と別れ、駅近くのマンションへ向かう。少し急ぎ足で歩いただけなのに、額を汗が覆っていた。今日は涼しい筈なのに。鞄の中から小振りのタオルを取り出し、抑えるように拭いながら、エレベーターで六階に上がった。部屋番号が分からなくなったのでメールで訊き、インターホンを鳴らす。隣のドアの前には、青い3輪車が置いてあった。
「どうぞ」
キィという金属音と共にドアが開き、サトルさんが顔を出す。はぁ、今日も素敵だ。
「お邪魔いたします」
あれ、今日は煙草の匂いがしない。風が強いせいか。部屋に入り、前に来た時に座ったちゃぶ台の辺りに腰をおろした。
「今日は浅草にいたんだね」
「うん、新潟から友達が来ててね。2人とも浅草に行った事が無いから行ってみよう、って」
「浅草かぁ。人力車に乗ったり?」
「いや、それはさすがに恥ずかしくて乗ってない」
机に広がった書類をとんとんと1つに纏め、「俺も行った事ないなぁ」と言いながらこちらへ歩いてきて、ちゃぶ台を挟んで対面に、足を投げ出して座った。
「あれ、今日は煙草吸わないの?」
「今、禁煙中」
へぇ、と答えた。だから煙草の匂いがしなかったんだ。ちょっとだけ、寂しい気がした。
「その後、どうしてた?旦那さんとはうまくいってるの?その顔を見るに、あまり状況は変わっていなそうだけども」
サトルさんにもエスパー能力があるのか。
「まぁ相変わらずですよ。相変わらず、お互い別の方を向いてる感じ」
そっかぁ、と手に煙草を持っていないサトルさんは手持無沙汰といった感じで天を仰いだ。
「あ、そうそう、結婚式を挙げた。サイパンで。新婚旅行的な物も一応」
天を仰いでいた顔をストンとおろし、私に目を向ける。ニヤリと笑う。
「何だ、ちゃんと新婚さんやってるじゃないか」
「形式的にはね。あの数日間は確かに、新婚さんだったけど、帰ってきたら元に戻った」
あぁ、こんな事サトルさんに話したって何の解決にもならないのに。何故全てを曝け出して話してしまうんだろう。
コーヒー飲む?と訊かれて、声に出さず頷いた。サトルさんは立ち上がり、見覚えのある二段の冷蔵庫から缶コーヒーを2本持って戻ってきた。
「ありがとう」とそれを受け取った。ニコチン中毒の後はカフェイン中毒か?冷蔵庫の中には缶コーヒーがぎっしり詰まっているのが見えた。何かのキャンペーンなのか、コーヒーの缶にはユニオンジャックのシールが貼られていた。
「あぁ、イギリスに行きたいな」
ぽつりと呟いた。「え、なんで?」とサトルさんが返す。
「小さい頃にね、ピアノの先生がロンドンに行ったお土産に、赤い2階建てバスのマグネットをくれたの。たったそれだけの事なんだけど、凄く憧れてるの。ロンドンに。
スマイソンの文具とか、あとはフリーマーケットとか、フォートナムメイソンの紅茶でアフタヌーンティもね。いっぱいあり過ぎるんだよ、魅力が」
短大の頃は殆どレッスンに通っていなかったが、4歳からピアノを習っていた。お蔭で絶対音感が身についているので、ギターやベースも独学で何とかやっていけている。ピアノの先生はしょっちゅう海外に行っては、素敵なお土産をくれた。
高校の時にはまっていたバンドのボーカルが、「ロンドンのヒースロー空港は古い絨毯の匂いがする」と言っていた。それを嗅いでみたい、という小さな夢もある。
「ミキ嬢はピアノやってたのか。意外だな。俺はサッカー好きだから、サッカーを観にロンドンに行ってみたいな」
そういえば、サトルさんが以前住んでいた家には、プレミアリーグのユニフォームが飾ってあったっけ。
一緒に行こうよ、とはさすがに言えなかった。
「行けるといいね、お互い」
そう言ってサトルさんは飲み終えたコーヒーの缶を持ってキッチンへ行き、引き返してきた。そして今度は私の隣に座って、キスをした。額同士をくっつけたまま、小さな声でこう言った。
「ロンドンの話をしてる瞬間のミキ嬢の顔は、良い顔だったよ。それと、今日は泣かないで帰ってね。ミキ嬢の泣き顔を毎回見てる気がするから」
私はキスで返した。そして言った。
「サトルさんとこうしている今この瞬間は幸せなんだ。だから幸せな顔が出来る」
今回はさいちゃん達と賭けをする暇もなかったな、と思った。
「タキ、ロンドン行かねぇ?」
オレンジジュースを飲みながら、こう切り出した。10月に入り、タキの家の窓からはハラハラと舞う落ち葉が見える。葉同士が触れ合い、囁くような音がする。手を伸ばして掴もうとしたが、逃げられた。
「ロンドン?行ってみたいけど、何で?」
「行きたいから。タキも言ってたじゃん、海外行くならロンドンって」
「言ったけど、何でこのタイミング?」
ベースの弦をチューニングする手を休めない。人の話を聞く時は顔を見なさいっ。
「正月って、向こうはクリスマス休暇だからお店も開いてなくて、旅行代金が安くなるんだよ。そこを狙ってさぁ」
ロンドンのクリスマス休暇は、年をまたぐんだそうだ。年が明けてもデパートではクリスマスセールが行われる。ただし、お店が開いたころには帰国、になってしまうかもしれない。
「ほら、元旦出発なら十万で行けちゃうんだよ」
旅行会社からもらってきたパンフレットを見せた。
「あ、ヴァージンアトランティック航空指定じゃん、あそこってアメニティが凄くカラフルで可愛いらしいよ」
「行こうよ、決めちゃおうぜ、これから予約しに行こうぜ。ベースなんて放っておこうぜぇ」
テーブルに両手をついて乗り出し、タキの顔色を伺った。タキは仕方ないなぁという顔で、ベースを置いた。
パンフレットを貰った旅行会社にパスポートを持って行き、すぐに予約をとった。飛行機の最後の二席が空いていた。あっという間にロンドン行が決まった。
それからは毎日、ロンドンの街について、店について、フリーマーケットについて、インターネットで調べ、時々タキと情報交換をして、準備を進めた。
将太にロンドン行を告げると、「あぁそうなんだ。決めるの早いね」と言われただけだった。今更反対されても困るけど、あまりの反応の薄さに落胆した。機械に弱い将太はインターネットが繋がらなくなったから直してくれと言うので、その場で直した。そしてまた、各々が別の方向を向いて作業を始めた。
「ロンドン?」
さいちゃんが、通常でもでかい声を三倍ぐらい張り上げて叫んだ。
「声デカいよ。ロンドンだよ。イギリスの」
「旦那と?」
「友達と」
「なんだ、不倫か?例の高円寺の?」
「違ぇよ、女だよ。タキ」
さいちゃんは、タキと3人で一緒に飲みに言った事があるので、タキの事を知っている。
「ロンドンのイケメン捕まえて1発?」
「やらねぇよ。言葉が通じないし」
「言葉が通じないからこそ身体を通じさせるんじゃないか」
「全然巧くねぇよ。アンタと一緒にするんじゃない。永遠にムラムラしてろ」
さいちゃんは海外出張に行く度に、現地の風俗店で女を買っている。彼は英語が堪能なので、身体だけでなく言葉も通じる訳だが。日本のイケメンは、海外でもイケメンなんだろうか。
「でも今度のプロジェクトが成功したら、ご褒美にフランスの工場に連れてって貰えるかも知れないよ?」
「それは君たちの様な上級の人達だ。私の様な下僕はひたすら研究に励むんだよ。歯車だよ。それに、ただ海外に行きたい訳じゃなくて、憧れなの、ロンドンが」
席を立ち「さぁ歯車は実験してきまーす」と言って、実験室へと向かった。
12月に入った。ロンドンに行くまであと1ヶ月となり、タキとは頻繁に連絡を取り合い、現地にいる4日間をいかに有意義に過ごすか、話し合っている。
そんな中、太一君がまた東京に来るという。今度は私がおすすめのお店に連れて行ってくれと言われたので、会社の人に教えてもらったカレー屋さんに行く事にした。前回と同様、友達に車を借りて迎えに来てくれた。
私は昼間、バンドのスタジオリハがあったので一度楽器を置きに家に戻り、夕方に待ち合わせて出かけた。将太は仕事で不在だった。
「江の島に向かってください」
「江の島ね、今ナビ設定するから」
慣れない手つきで、「俺の車のナビと違うからなぁ」と呟きながら、灯台マークがついた江の島にルート設定をして出発した。
「江の島の手前にあるんだけどね、親睦会旅行の時に寄ったんだ。私カレー嫌いなんだけど、その店のカレーは、私のカレーの概念を覆すほど美味しかったんだ」
「凄い壮大な話だけど、結局はカレー屋さんなんだよね」
「ふん、そんな風に軽く考えていては罰が当たるぜ、太一君よぅ」
江の島へ向かう海沿いの道路を右折し、住宅街へ入る。坂を上り切ったところにそのお店がある。夕飯には少し早い時間ではあるが、3組の客が外で待っていた。その後ろに並んで順番を待つ。
「寒いね、海風が上がってくる」
「俺、新潟の内陸に住んでるから、海の匂いがするのって新鮮でいいなぁ」
と言って深呼吸をする。私も寒さに腕を抱えながらスーッと深呼吸をしてみた。本当だ、海の匂いがする。
「ねぇ、お勧めのカレーは何?」
「お勧めは店員に訊いてくれ」
「あ、冷たいのね」
「待ってる間に心も体もすっかり冷えちゃったんだよ」
そう言って顔を見合わせて。勿論、太一君は冬場でもひまわりのような笑顔で笑っている。ひまわりの様に、背が高い。降り注がれるような笑顔が、今の私には眩し過ぎる。
店内に案内され、私は海老のカレーを、太一君は店員さんにお勧めを聞いて、キーマカレーを注文した。
「海の近くなんだから、海の幸のカレーを頼むべきだと思うよ」
「何だ、先にそう言ってよぉ」
太一君は口を尖らせたが、目は笑っていた。
正月にロンドンに行く話をすると、「俺も行ってみたいんだよ」と食いついてきた。
よくよく話を聞いてみると、私が高校時代にはまっていたバンドに、彼もはまっていたらしい。そのバンドが頻繁にロンドンでレコーディングしていたのを知り、ロンドンに憧れを抱いているらしい。
太一君の笑顔と私の笑顔は正反対だけど、色んな趣向が似通ってるんだな、と思って更に「いいな」と思った。
食後、江の島に向かおうと車に乗ったと同時に、雨がフロントガラスに落ちる音がした。徐々に音は増していく。
「傘、持ってる?」
「ない、ミキちゃんは?」
「なーい」
天気予報なんて当てにならないなぁとぼやきながら太一君は後部座席に顔を突っ込んで左右に目をやり「あ、1本あった」と言った。
江の島にはすぐ到着した。適当な路肩に車を停めた。雨脚は少し強まっていた。後部座席にあった傘を私に差出し、太一君は丸腰で車を降りた。私は渡された傘をさして車を降り、すぐに太一君を傘の下に招き入れようとした。しかしそそれをかわされた。
「あ、俺はほら、いいよ。一応あの、人妻だし、相合傘みたいのは、ねぇ」
暗がりでも分かるぐらいに顔を耳まで赤くし、相当しどろもどろになっていて滑稽だった。
「いいよ、風邪ひくし。相合傘なんて中高生でもやってるって。大丈夫。誰も見てないし。」
そう?と遠慮気味に傘の下に入った。「肩濡れちゃうよ」と言って、少し近づくと、身体を固くしたのが伝わった。
人妻と言われて、何だか実感が湧かなかった。左手の薬指につけた指輪は確かに結婚指輪ではあるけれど、サイパンの小さなチャペルで「2人を死が分かつまで」なんて宣誓もあったけれど、死が分かつまで2人そっぽ向いて過ごすのか。私はそんな事は望んではいない。でも、何を望んでいるんだろう。
今の、好き勝手に過ごすこの時間に何ら不満はないのだ。だから将太に文句のつけようがない。そんな事を考えているうちに、「結婚」という物の意味が益々分からなくなってくる。
ロープウェイが営業していなかったので、頂上まで登る事を諦めた。雨が降っている事もあり、人は殆どいなかったし、すっかり暗くなってしまったので、すぐに山を下りた。車に戻る頃には雨が上がった。傘は車に仕舞った。
何かを思いついたように、太一君が「そうだ」と言った。
「花火、やろうよっ。海岸で花火やろう」
「え、だって冬だよ?12月だよ?」
「いいじゃん、きっと海の近くだからその辺のコンビニには花火が売ってるよ」
いや、さすがに12月に花火は売ってないだろう。どんだけ売れ残ったんだよ。きっと湿気ちゃって火がつかないよ。
それでも何だか目を煌めかせている夜のひまわりは、やる気満々なので、とりあえず近くのコンビニに行ってみる事にした。
――あった。種類は限られるけど、花火が売ってる。
「ほらね、売ってるでしょ」
ちょっと得意げに言って、ロケット花火と線香花火を何本か買って、お店を出た。
「本当に売ってたねぇ。凄いねぇ」
「実は凄く自信なかったんだけどね、アハハ」
カラリと笑うひまわり君。そのまま歩いて海岸へ出て、まずはロケット花火をぶっ放した。
「うわ、こっち向けんなっ」
「ミキちゃん、どけーっ」
「マジで狙わないで、頼むから、300円あげるからーっ」
足場の悪い砂浜を駆けずり回った。私も負けじとロケット花火に火をつけ、太一君を狙う振りをして海に向かって花火を飛ばす。
腹を抱えて笑い、笑いすぎて苦しくなって、あぁこんなに笑ったのっていつ振りだろう、なんて思った。こんな風に笑うのって、幸せだなと思った。そんな不意を突かれてロケット花火が飛んでくる。
ロケット花火が終わると、石段に座って線香花火をした。人が殆どいない海岸で、静かな波の消えて行く音と、まるで炭酸がはじけるような線香花火の儚い音を聞いていた。2人無言だった。最後の線香花火は太一君が火をつけた。
「絶対にフゥーとか、息で消そうとするのやめろよ」
「やんないよ、子供じゃあるまいし」
そう私は言って、火が付いたとたんにフーっと息を飛ばし、「だからっ」と太一君に肩を押され、またケタケタ笑った。そして打ち上げ花火をそのまま小さくしたような、可憐な火の粉を飛ばし、最後の赤い光がぽとっと石段に落ち、すぐに消えた。
「冬に花火した事なんて初めて」
「俺も初めて。夏は皆が花火やってるから、ロケット花火も自由に打てないよね」
その命を終えた線香花火をひとつに束ねながら言った。
「私は旦那がいるけど、こうやって他の男の人とゲラゲラ笑って遊ぶのはアリだと思ってるんだ。旦那とはこんな楽しい事、しないし」
「ミキちゃんは普通の結婚生活をしてないんだね。普通なら、旦那さんは嫉妬に燃えて、俺は殺されていると思うよ」
普通ならねぇ、と俯く。
「でもさ、俺はこういうの楽しいし、旦那さんも了解してくれてるんだったら、これからも誘ってもいい?」
珍しく顔を固くして、目もあわさずに訊いた。
「勿論。でも彼女がいる北海道にも時々足を運ぶんだよ。そしてこんな変な女と遊んでる事は秘密にするんだよ」
ふ、と空気が緩んだ。
「良かったぁ。急に真面目な話になったから、もうこういうのやめようって言われるかと思ったよ」
海を見ながらそのひまわりは、冬の海で大きく花びらを開き、冷たい潮風を受けていた。
元旦の朝早く、荷物を詰め込んだ旅行鞄とパスポートを持った事を確認し、成田空港へ向かった。遅刻常習者のタキは珍しく時間通りに到着し、スムーズにチェックイン。ロンドン、ヒースロー空港へ発った。
フライト時間12時間。時には雑談、時には睡眠、映画、食事。機内で退屈する暇はあまりなかった。そしてタキはトイレがやたら近かった。
到着したヒースロー空港は、確かに絨毯の匂い。古い絨毯の匂いがした。空港からはバスでホテルへ向かい、そこからは自由行動となったが、もう現地時間では夕刻だったため、そのままホテルで休んだ。ホテルでは「土足にするか、裸足にするか」で迷った。
翌日、午前はツアーに参加し、午後は憧れのアフタヌーンティをしに行った。気ばっかり遣って、何だか居心地が悪かった。英語が堪能でないと、海外旅行は満喫できないものだ。
その翌日は2人とも単独行動をとった。私はロンドンの中心街をぶらつき、日本では買えない丈の長いパンツを買ったり、将太へのお土産にスニーカーを買ったりと、殆どショッピングに費やした。
最終日はタキと2人で大英博物館へ行ったが、何が凄いのか分からないまま「へぇー」「ふーん」を連呼し、そこを後にした。
ただただ憧れだったロンドンに行けた事が楽しくて、嬉しくて、帰国した後に年賀状の山と格闘しなければならない事なんて考えていなかった。
将太にお土産のスニーカーを渡すと、嬉しそうに履いて見せてくれた。「日本に売ってない色なんだよこれ」と、プレミア物が好きな将太らしい喜び方だった。
私はその喜んだ顔を見届け、年賀状の山をグルーピングする作業に移った。明日から仕事だというのに、今から職場の人に年賀状を返すなんて、妙な話だ。
仕事始めの日、恒例行事として職場全員で近くの神社に達磨を納めに行く。そしてお御籤をひく。大吉が出ない事で有名な神社だ。
「吉」だった。何ともコメントがし難い。さいちゃんは「大吉」だった。逆に怖いな、と周囲から笑われていた。それから新年会に突入し、家に着いたのは23時過ぎだった。
家の電話の留守電ランプが点滅していた。
『大家の竹下です。明けましておめでとうございます。先月、先々月と家賃が振り込まれていません。至急振り込みをお願いします。』
家賃が振り込まれていない?
家賃の振り込みは将太にお願いしている。私が半額を将太に渡し、将太が全額を大家さんの指定口座に振り込むという形をとっている。
それなのに2ヶ月も振り込まれていない?私は確実に、給料が支給されたその日に家賃の半額をATMで引き落とし、将太に手渡している。将太に確認しなきゃ。
シャワーを浴び終えて雑誌をぱらぱら捲っていると、日付が変わった頃に将太が帰宅した。
「ねぇ、大家さんから留守電入ってたんだけど、家賃が振り込まれてないって。どういう事?」
責める訳ではなく、単純な疑問として問い掛けた。口座を間違えているとか、何かの手違いで入金されていないのではないかと思っていたからだ。
しかし返ってきた答えは、私を酷く落胆させる物だった。
「あぁ、色々と欲しいものをオクで買ってたら、お金が足りなくなっちゃってさぁ。パチンコで取り戻そうとしたら逆にスっちゃって。今月の給料が入ったら3か月分、きちんと振り込むから。大家さんにそう電話しといてよ」
カチンと来た。ふざけんな、私はお前のかーちゃんか。
「ちょっと待ってよ、私はきちんと払う物払ってるでしょ。落ち度は将太にあるんだから、将太が電話して、きちんと謝るべきでしょ。それに、まとめて3か月分なんて、今の状態で無理なんでしょ。口座すっからかんでしょ。竹下さんは、『至急2か月分』って言ってたけど、その様子じゃ2か月だって怪しい。どーすんの」
将太はまいったなぁとばかりに頭をかきむしりながらその場をぐるぐる行き来して、何か観念したように言った。
「分かった。何とかする。竹下さんには俺が電話しておくから」
当たり前だ。プレミア付のフィギュアだかおもちゃだか知ったこっちゃない。買うのは自由だ。パチンコだって趣味の範囲で、持っているお金でやる分には構わない。
が、1人の社会人として家賃の滞納なんて恥ずかしい事だ。私が渡したお金は、彼の趣味に消えたわけだ。どうにかしてお金を工面させなければ。私の貯金から出すか――。
今年はスタートからして「吉」だ。
「レイちゃーんっ」
大きく手を振った。2年振りに会うレイちゃんは、相変らず女性らしく小奇麗な服を身に纏い、透き通る笑顔で手を振りかえしてくれた。
「随分久しぶりになっちゃったねぇ。元気にしてた?」
重そうな荷物を片方「持つよ」と言って歩き出した。以前よりも少し痩せた印象だった。
「元気だったよぉ。何かお互いメールのやり取りはしてるのに、実際会うとやっぱり久しぶりって感じがするよね」
今日は短大時代の友達の家に泊まるらしい。駅の近くにあるカフェに向かった。
「レイちゃんはコーラ?」
「もうコーラブームは去ったよ。今は紅茶。ロンドンのお土産の紅茶も美味しくいただいてるよ」
ウェイターさんにケーキセットを2つ、温かい紅茶付で頼んだ。ウェイターさんは、荷物を置くカゴを持ってきてくれた。
「例の彼氏とは同棲しないの?」
レイちゃんは職場の大学医学部で、医者の卵と付き合っている。レイちゃんの家に頻繁に出入りしているとメールに書いてあった事を思い出した。
「同棲ねぇ、向こうはそう言ってるけど、もしその先に結婚を考えてくれてるなら、同棲してもいいかな。ってか、ミキちゃんは結婚前に同棲したんだっけ?」
「してない」
してたら結婚してなかったかも知れない。何ら刺激のない夫婦生活。同棲していたら、お互いが別の方向を見るという事が分かっていたのかも知れない。
「一緒に暮らしてみないと分からない事って、結構あるかも知れないよ。と、同棲未経験の私が言ってみる。彼に、結婚する意志が固いのか訊いてみたら?」
前途ある若い2人にナイスなアドバイスだ。私たちの様な夫婦になってはいけない。
「そうだねぇ。訊いてみようかな」
ケーキセットが運ばれてくる。マーブル模様のシフォンケーキに生クリームが乗っている。行儀が悪いのを承知で、その生クリームをケーキに塗りたくる。
「ミキちゃんと将太君は相変らず?」
「はい、相変わらずどえす」
「そっかぁ。でも、束縛とかされない方が、動きやすいんじゃない?特にミキちゃんはさ、結構男友達も多いし」
「うん、ひまわり君も仲間入りしたしね」
太一君の事は、メールで伝えてあった。レイちゃんは「私も男友達が欲しい」と言っていたっけ。
「そういえば、あの人は?えっと何だっけ。国家試験の時に会いに行ってた人」
サトルさんとの不倫関係に関しては、レイちゃんには刺激が強すぎるので何も伝えていない。タキには「ヤリチン」認定されたサトルさんだ。
「あぁ、長野に引っ越してから東京に戻ってきたみたいだけど、それから連絡取ってないよ」
ごめん、レイちゃん。私はあなたの考えるような綺麗な心の女ではありません。ビッチです。
「そうなんだ、良かった。だって今彼とあんな事やそんな事になってたら、不倫だもんねぇ」
仰る通りです。不倫してるんです。
「さすがにそこまでは出来ないよ、アハハ」
笑ってる場合か。良心が痛むとはこの事か。レイちゃんにエスパー能力が無くて良かったと思った。
たまたまお店の横を通りかかったさいちゃんを捕まえて、「これが噂のイケメンさいちゃんです」と紹介した。
「どこ行くの?」
「ちょっと2番目の妹の所に」
「明後日、報告な」
「へい。そいじゃ」
そう言ってひらりと右手をあげ、彼は女の元へ。
「ほんとだ、凄いイケメンだね。一緒に仕事しててドキドキしない?」
「しない」
「即答だねぇ」
さいちゃんは、会った時から女を誑(たら)し込んでいるような雰囲気を醸し出していたので、「そういう対象」からは端っから外れていた。彼には妹が5人もいるからね。
その後はお互い仕事の愚痴やら家庭の愚痴、彼氏の愚痴を話し、レイちゃんは友達の家へと向かった。
「ミキ、携帯メールのフォルダ分けって出来るの?」
珍しく、私も将太も家にいる休日だった。
「今時どの機種だってそんぐらい出来るでしょ」
将太は本当に機械に弱い。なのに説明書を取り出すという面倒も避けている。
「色んなボタン押してみたんだけど、それらしき項目が見当たらなくてさぁ」
「後で見てあげるよ。ちょっと今いい所だから」
ソファに寝転びながら、持っていた文庫本を掲げて見せた。太一君から借りた小説で、これがまた魅了される面白さなのだ。そういえば漫画、貸したままだった。
「ちょっと俺、出てくるから」
目をやると、外を指さしていた。
「パチンコ?」
「うん。あと買い物」
「いってらー」
小説に目を戻した。
暫く小説に没頭していたが、突然テーブルの上の携帯電話が鳴った。自分の携帯ではなく将太の携帯だった。忘れて行ったのか。
表示された名前を見ると、お義母さんの名前だった。出るか迷ったが、通話ボタンを押した。
「あ、お義母さん、ミキです。ご無沙汰してます」
『あ、ミキちゃん?将太いる?』
パチンコ、とは言わない方がいいのか。
「今買い物に出てますけど、ご用件伝えましょうか?」
『何かね、お金が足りないとか言ってたから、振り込んだんだけど。40万振り込んだから、確認できたら連絡くれって伝えてくれる?』
40万?そんなにママからお小遣いを貰ったのかっ。恐ろしい。
「あ、はい。分かりました。伝えます」
家賃の件、話したんだろうか。普通、いきなり母親に相談するか?少なくとも大手企業で働いていて、それなりに収入のある嫁が1つ屋根の下にいるのだから、嫁に相談するべきだろう。これだからマザコン属性は――。
携帯を触ったついでにフォルダ作製でもするか、とメール画面を開いた。殆どが私からの事務的なメールだが、その中に「みゆき」という名前があった。
開いて驚いた。その「みゆき」と思しき女性の、自分で撮ったと思われる裸体の写真が添付されていた。悔しいけれど、私よりいいカラダだった。
本当はこんなメール、見てはいけないんだと思うんだけど、1つ見てしまうと他のメールも見てしまうのが人間ってものだ。怖いもの見たさで他のメールも開くと、待ち合わせのメール、また別の写真メール、色々と出てきた。送信メールもまた酷いもので、将太のムスコの写真が添付してあるわ、私の悪口を書き連ねてあるわ、もう――。
見なかった事にしよう。記憶からは消えないけど、見なかった事にしよう。フォルダ分けは後で教えよう。とりあえず、お義母さんからの電話の事だけを伝えよう。
あぁ、何か凄く動揺してる、私。小説が頭に入ってこなくなった。将太が不倫してる。自分の事を棚にあげちゃうけど、将太は不倫してる。
2時間程してから将太が家に戻ってきた。
「今日は駄目そうだったから諦めて帰ってきた。携帯持って行くの忘れてたよ」
頭を掻きながら部屋に入ってきた。駄目そう?パチンコか。
「お義母さんから電話が来たよ。お金、振り込んだから確認してくれって。40万」
「あ、そう」
あ、そう、だと?
「あのさぁ、お金の相談って、いの一番にお義母さんにする物なの?私の一般的な常識が外れてたらごめんね。でも一般的に考えて、一緒に住んでいる嫁に相談するのが、スジではないの?」
キっと睨みをきかせる私の目に射抜かれぬように、将太の目は左右に揺れる。
「だって男として恥ずかしいじゃん。金が無いとか」
「金が無くて家賃が払えなかったのはもう知ってる事なんだからさぁ。言えばいいじゃん。貸してとか。夫婦なんだから」
夫婦なんだよね?あれ、違ったっけ?将太は目を逸らしたままでその場を立ち去りながら言う。
「今度からそうする」
「いや、今度は無くていい」
携帯メールの事は黙っていた。だって、人の事、言える立場じゃないし。
その後、小説を読み終わったところでメールのフォルダの分け方を簡単に説明した。そして将太はインターネット、私はギターの練習に没頭した。
入社3年目に突入した。いつの間にか後輩が増えたが、殆どが大学院を卒業した年上の後輩ばかりで、扱いに困る。とりあえず、敬語だ、敬語。
毎年7月に行われる野外ロックフェスティバルに、今年も行く事にした。将太の分と2枚のチケットを確保した。
3日間行われるフェスだが、去年は1日目、将太が仕事になってしまい、私は1人新幹線で現地に向かい、同じくフェスに参加していた浅田さんとその同僚さん達、そして彼氏と来ていたタキと合流し、一緒に盛り上がった。今年はどうなる事やら。
とりあえず今年も参加する事をつらつらとブログにアップした。
その後、SNSサイト経由でメールが来た。
ハルさんというその人は、今年初めてフェスに参加するという。情報交換しましょう、という気軽なメールだった。
その後何度かメールのやりとりをしたが、その中で、私が小学生の頃に同級生だった「福島君」と、ハルさんと一緒にフェスに来る男性が同一人物だという事が判明し、一気に距離が縮まった。
「世間は狭いですね」
そんな話になった。
「浅田さんはフェス、今年も行くんですか?」
「行くよ、まぁ1日目だけ行って、べろべろに呑んだくれて、翌日温泉に入って帰るっていうおっさんプログラムだけどね」
「いいじゃないですか、おっさん上等っすよ。また乾杯しましょうよ」
浅田さんは洋楽が好きで、バンドをやっていた経験もあり、音楽の話で盛り上がる事が出来る、社内で唯一の人なのだ。勿論、エロの話でも盛り上がる訳だが。
バンドのスタジオリハが終わり、タキが家に遊びに来た。
「散らかっとるなぁ、あんたの部屋」
「まぁね、ギターいじり始めるともうダメだよね。シールドだのエフェクターだのがその辺に転がるし。まぁあんたの部屋も大概だけどな」
私もタキも、お片付けは苦手だ。
「そんで話とは何だね?」
「実はさ、将太のメールを見ちゃったんだよ」
キッチンカウンターに並べた2つのグラスに麦茶を注ぎながら言った。水が跳ねる音がする。タキは目をランランに輝かせながら「何があった?」と言う。人の不幸は何とやら。
「女の名前と女の裸、将太の局部の写真、待ち合わせのメール。以上」
「あんた達、お互いそういう事やってんのね」
麦茶をドンとテーブルに置くと、中身が跳ねて、テーブルに水玉を作った。
「私は写真なんて送ってない。サトルさんの局部の写真なんて送られてきても引くわ。50キロ後ろまで引くわ。それと私に対する不満もつらつらと書いてあったね。」
タキはグラスに口を付けたまま私の顔をじっと見た。そして言った。
「別れたら?」
んふっ、とつい破顔してしまった。
「そう簡単に言うな。戸籍にバツが付くんだぞ。因みにもう一つ付け加えておくと、ママから40万もお小遣いを貰った事も発覚した」
リビングのガラスケースに飾られた数多のフィギュアをじーっと見たタキの口から出た言葉は、先程と同じだった。
「別れたら?」
何故40万も必要になったのかと訊かれたので、家賃の事を話した。
やはり「別れたら?」と言われるだけだった。
「だって、金遣いがそれだけ荒いんじゃ、この先子供だって作れないでしょ。生活できないもん。
つーか、お互い不倫してるようじゃ、子供が出来ないどころか、別の所で子供が出来ちゃうかもしれないじゃん」
「そうだよね、一緒にいる意味が、意義が、見いだせないんだよ」
麦茶が入ったグラスに視線を落としたままそういうと、タキがソファの隣に移動してきた。そして肩をポンと叩いた。
「前に言ったよな。別れることになっても、我慢する決断をしても、私はあんたの味方だ。だから思うように行動してみなさい」
「前にも言ったよな。お前超いい奴」
そう言って目を細めた。勿論、笑える話ではない。
珍しくサトルさんが、「仕事で横浜まで行くから、横浜で会わない?」とメールをしてきた。勿論断る理由もなく、承諾した。
白いスキッパーシャツにデニムを履いていた。もう坊主はすっかりやめたのか、この日も短髪だった。丁度スタジオリハの日だったので、「悪目立ちするから」とギターをコインロッカーに預けた。
「どうする?どこ行く?」
身軽になった身体でぴょんぴょん跳ねながら訊いた。
「そうだねぇ、ゆっくり話せるところがいいね。ご休憩でもします?」
ご休憩?暫く考えて、あ、ラブホテルの事か、と合点がいった。
「あぁそれなら西口だね」
珍しくセックス無しに、純粋に会ってお茶して、というのを想像していただけに、ちょっと残念。話すだけならその辺のカフェだっていいのに。
派手派手しい看板が並ぶ、いかがわしい界隈で、ちょっと和風なラブホテルに入った。
「部屋はどこでもいいよね」
と言って、1番安い部屋のボタンをサトルさんが押した。キーを受け取りエレベーターに乗る。何だろうこの感じ。完全にセックスしに来ましたって感じだな。ラブホテルって苦手。
外観は洋式のドアなのだけれど、中に入ると部屋は畳敷きで、少し大きめの布団に、行燈のような赤い明りが灯っている。和風なエロ。浴衣まで置いてある。お代官様プレイも出来ちゃう。ソファは無く、座椅子とちゃぶ台が置いてある。そこにバッグと携帯を置いた。
「ミキ嬢、一緒にお風呂入ろうよ」
え、何この人っ。いつかの「膝枕」を思い出した。この人、時々デレるんだったか。私の返事も聞かずにばたばたと風呂場に行き、浴槽にお湯を張り始めた。恥ずかしいなぁと1人で顔を赤らめながら、座椅子の上に正座して待った。
「俺、先に入ってるから、適当に入ってきて。何か汗かいちゃって、早くさっぱりしたいし」
さっさと全裸になって、その辺に服を脱ぎ散らかして風呂場へ入っていった。
私はその服を皺にならない程度に簡単に畳んで、1ヶ所に重ねて置いた。私はアンタのかーちゃんかっ。
そして私も全裸になって、風呂場の戸をノックして入った。サトルさんは浴槽に浸かっていた。「どうぞ」と言われた。
身体をシャワーで流し、勧められた通りに浴槽に浸かる。何なんだー、この絵面は何なんだー。
「何か、恥ずかしい」
「え、何で?」
何でって、明るい所でお互いの身体を直視するなんて、そんな事は今まで無かったから。薄暗い部屋の中とか、電気を消した部屋の中とか――とにかくラブホテルでは、無かった。
「いや、サトルさんとこういうの、初めてだし」
恥ずかしがってるのは自分だけだという事を知って、更に恥ずかしくなる。恥ずかしいついでにもう一つ、訊いちゃおう。
「あのさ、サトルさんは彼女いるの?」
「いるよ」
眩暈がし、視界が一瞬歪んだ。訊かなきゃ良かった。どうして訊いたんだっ、このタイミングで。何てあっさりと認めるんだっ。認めておきながらこの状況。有り得ない。
「え、それでもこういう――セックスを――人妻とセックスするってのは、大丈夫なの?」
「うーん、まぁこういう関係もありかなぁと思うよ。何で今更そんな話?」
あれ?何で?何で私がおかしな事言ってるみたいな状況になってるの?
「あ、そうだよね、うん。別に。」
後ろから抱かれる形になった。あぁ、何と言われようが、好きな人に抱かれるのは悪くない。サトルさんが好きだ。もう、これは中毒だ。自分の中の矛盾は極力見ないようにした。
「俺は、ミキ嬢とこうして逢って話してるの楽しいし、ミキ嬢の事は凄く大切に思ってるんだ。だけどミキ嬢が迷惑に思ってるんなら自重する」
「いやそんな、迷惑だなんて思ってないよ。逆に彼女がいるのに、いいのかな、って」
それはそれ、これはこれ、と言って立ち上がったサトルさんの言草が、何だか子供が言い訳してるみたいに聞こえて可愛くて、目の前にあるサトルさん自身にしゃぶりついた。
それから身体を拭いて布団に潜りこみ、セックスをした。
「旦那さんとは未だにセックスレスなの?」
赤い照明に照らされた天井を仰ぎ見ながら、いつからしてないんだろうと考える。
「もうかなり長く、してないね。彼も不倫してるみたいだし、そっちで解消してるんじゃないかな」
サトルさんが一瞬、固まってこちらを見た。そして短い溜息を吐き、私を抱き寄せる。
「旦那さんの不倫が分かっちゃったんだ。不倫するからには、バレないようにするのが礼儀ってもんだよね。ミキ嬢、辛かったでしょう」
意外な心遣いに驚いた。サトルさんも気を付けてよ。その彼女とやらにバレないように。あぁぁぁ、嫉妬の炎がメラメラと燃える。
「まぁ、人の事言えないからね。私もこうして、ねぇ。してるし」
でもそんな風に優しく慰めてくれるサトルさんの言葉が嬉しいのです、と言って抱き付き返した。
「彼女とは、長いの?」
進んで訊きたい事ではなかったが、訊いておきたい好奇心に駆られてしまった。
「全然、まだ付き合い始めたばっかり。高円寺のカフェの店員さんだったんだ」
「へぇ」
あ、やっぱり訊かなければ良かった。別に知りたくなかった。どちらから言い寄ったんだろう。あぁ、とても悔しい。自分はさっさと結婚しておきながら、サトルさんに彼女がいる事が狂おしい程に妬けてくる。
部屋を出る前に清算するシステムだった。ここは「半分出すよ」と私が言って、サトルさんに「いいよ」と言われたら引くのが正解だな、と思い、半額を握りしめて「はい」とサトルさんに渡すと「あ、うん」と言って受け取った。
あ、受け取った。そうなんだ、割り勘なんだ。え、ホテル代って割り勘なの?そういうものなの?
その後2週間ぐらいで、またサトルさんから「会いたい」とメールが来た。待ち合わせ場所は、鶯谷駅の東口だった。
鶯谷と言えば、ラブホテル街がある事ぐらい、私も知っていた。あぁ、また身体を求められるんだ。そう思った。
案の定、鶯谷駅から歩いて数分、ラブホテル街の一角に部屋を取り、セックスをした。
何か急いている感があり、初めて抱かれたあの日とは比べものにならないぐらい、乱暴だった。珍しい事に「言葉攻め」をされたり、淫乱な言葉を要求されたりした。
私の陰部を舌で弄んでいる途中で、部屋の電話が鳴った。
「何だよ、クソッ」
怒りの感情を露わにした。彼女と――彼女と何かあったんだろうか。勿論そんな事は聞きたくなかったので、黙っていた。
とにかく、いつものサトルさんではなかった。それともこれが通常のサトルさんなのか?
会計では半額を要求された。これが当たり前なのかと思った。
「さいちゃん、質問していい?」
「なに、仕事の話?」
「違う。妹達とホテル行く時ってさぁ、ホテル代、割り勘してる?」
さいちゃんは動揺して持っていたノートを落とした。鳥が羽ばたく様な音がした。拾いながら「声でかい」と言われた。
「俺は全額俺持ちだけど、何で?」
「例の、高円寺の人ね。最近ホテル逢ってるんだけど、完全に割り勘なんだよ」
まじかよ、と目を丸くして私を凝視する。そして言った。
「ノッチ、それはおかしいって。そういう時は男が払う物だって。こんな事言うのもアレだけど、ノッチの身体だけが目当てって感じがするぞ、その男」
目の前が一瞬モノクロになった。ハンマーで頭をかち割られたような衝撃を感じた。身体だけが目当て。それは何となく、何となくだけど勘付いていた。それに、私だってそれで良いと思っていた。
だけど、それを言葉にして認めてしまったら、自分がとても惨めで仕方が無くなってしまう。だから耐えていた。
さいちゃん、君の言っている事は正しいと思う。セックスフレンド。1度はそれでも良いと腹を括った。その時だけでも自分を愛おしく思ってくれるのなら良いと。
だけど人間は欲深い。少しでも構ってもらえると、もっともっと欲しがる。追い求める。
そして状況は変わった。サトルさんに彼女が出来たのだ。常に愛おしく思う存在がいる中でサトルさんが私を愛おしく思うかどうかなんて関係ない。
ただの快楽のためのセックスに成り下がっているんだ。
「そうだよね。身体だけって感じだよね――」
「ちなみに昨日の夜、俺はノッチとセックスする夢見たよ」
「どうだった?」
「すっげぇー良かったよ。特にフェラが」
「妹に刺されて殺されてしまえ」
その週の水曜定例会の議題は、さいちゃんの見た夢とホテル代についてだった。
満場一致で「ホテル代は男持ち」となった。
久しぶりにひまわり太一君からメールが来た。
『ご無沙汰です。漫画、借りっぱなしでごめんね。
9月に新潟で、小規模だけどフェスがあります。ミキちゃんが好きそうなバンドが幾つか出るんだけど、こっちに来る予定はある?
もしあるようだったら一緒に行きたいなと思って。あ、旦那さんと一緒に行くならそうしてね。ではでは。
漫画、凄いグロテスクだね』
新潟か。飛行機でも新幹線でも行けるな。正直言って、将太と一緒に行く気にはならないけど、1人なら行こうかな。
インターネットでメンツを調べてみると、なかなか興味をそそられる面々だったので、すぐに太一君に行く旨をメールし、チケットをとった。宿は、太一君の家に泊めてくれるそうだ。
ロックフェスが7月にあり、8月はタキとさいちゃん達と山中湖に泊まりで遊びに行く。9月は新潟でフェス。なかなか忙しい夏になりそうだ。
ロックフェスには結局1人で行く事になった。将太は仕事で、行けそうなら土曜と日曜に直接車で来るそうだ。まぁ、「みゆき」さんとよろしくやるのかもしれないので、無理強いはしなかった。「チケット代が勿体ないよ」とは言っておいた。
スキー場で行われるフェス、標高が高い山の中なので天候が変わりやすい。雨が降っても傘をさす事が禁止されているので、レインウエアで凌ぐ。今年も初日から雨だった。
SNSで知り合ったハルさんと、そのお友達(かつての私の同級生)福島君とお酒でも呑みましょうと連絡を取り合ったのは、雨が上がった夜だった。1番大きなステージのトリのライブを浅田さんと観て、「そいじゃ」とフードエリアに走った。
「ハルさん?」
「ミキさん?」
「おぉ、ちゃんと連絡取れたー」
「電波悪いからねぇ。奇跡的」
「あ、福島、こっちーっ」
ハルさんが大きく手を振る先には、見覚えのある顔の男性がいた。あぁ、福島君だ。
「なつかしぃ、中野さんでしょ?」
「懐かしいね、つか福島君、背が伸びたね」
福島君は顔は良いのだが背が小さかった覚えがあった。それが今では、かなりののっぽさん。
福島君はあいさつ程度に顔を出しただけで、真夜中のイベントに顔を出すらしく去って行った。
私はハルさんとしっぽり日本酒を呑みながら話をした。
「今日旦那さんは来ないの?」
「あぁ、多分来ないね」
「多分?」
「仕事があるんだか無いんだか、良く分からない」
レインウエアの前ファスナーを開けて換気する。ばたばたと羽ばたくような音がする。
「どこに泊まるの?」
「とりあえず今日はこのまま朝まで会場にいて、朝電車が動き出したら、お祖母ちゃんちに行って寝る、かな。そんでまた、夕方ぐらいにこっちに来る。」
タフだねぇ、と言われた。日本酒なんて普段呑まないから、何だか頭がクラクラしてくる。
その後は、翌日以降のフェスのラインナップの話や、私のブログの内容がしょうもないという話などをした。初めて会ったにしては話の尽きない人だった。
横浜に帰ったらフェス反省会と称して呑みに行こうと約束をした。
結局将太はフェスには来なかった。帰ると「仕事だったんだ」と言っていた。
そろそろ潮時かな、と思い始めた。私も彼も、お互いの事を考ええずに行動している。こんなのは夫婦でも何でもない。勿論、恋人でもない。
惰性で結婚を受け入れてしまった事を悔いた。
もし次があるのなら、結婚を「確実な物」として考え、全ての過去を清算して、「この人の為なら自分の自由を多少奪われてもいい」と思える人との間に、結婚を受け入れようと思った。
フェスから帰ってすぐ、ハルさんと飲みに行った。ハルさんは気を遣って、洒落たレストランを予約してくれたが、「酒が高い」と言って結局2次会はオヤジ達が集まるような大衆酒場で、枝豆を突きながら酒を飲み、大いに喋った。
誰かとこんな風に言いたい事を言い合って騒いで笑って食べて飲んだのって、凄く久しぶりに感じた。太一君と花火をして以来?
「フェスの時、ミキちゃん、髪の毛ぐっちゃぐちゃだったよね」
女相手にこんな事を平気でヌカす人なのだ、ハルさんは。とても話しやすく、同じ年なので気を遣う事もない。
しこたま呑んで駅で別れた後、ハルさんから携帯にメールが来た。
『今日はありがとう。女の子と話してこんなに楽しかったのは久しぶりだったよ。出会いがもっと早ければ、俺が結婚してくれって言ったのにっ』
本当は笑ってしまう所なのだろうが、真剣に読んでしまう自分がいた。本当、こんな人が結婚相手だったら、毎日が楽しいんだろうな。タイミングの神様につくづく見放されている人生だ、そう思った。
それから3日と空けずにハルさんと映画を観に行った。
「ミキちゃんはトイレに入ってから出てくるのが異常に早い。どんだけの勢いで尿を出してるんだ」
と言われた。
そして3日と空けずにもう1本、映画を観に行った。
ハルさんはヒマだった。家業を手伝っていたがそれを辞め、新たに就職先を探している最中だったのだ。16時には退社する私と、渋谷や新宿で待ち合わせて映画を観た。
その日観たのは邦画で、芸人がメガホンを取ったB級映画だったが、なかなかの物だった。映画を観た後、何となく看板が目に入った焼き鳥のお店に入った。
ビールと枝豆と焼き鳥を前にして、ハルさんは言った。
「焼き鳥は、串から外して皿に乗せておかないと、喧嘩になる」
葱間を1本お皿からとると、お箸で器用に鶏肉をお皿にコロンと落としていく。
「それじゃ葱間にならないじゃん。鶏と葱じゃん」
「だが、それがいい」
そして次々に串からお肉を外していくのを見て、私も同じように串からお肉をコロンと落としていった。
「もう大人だから喧嘩しないけどね。でも、串に刺さった焼き鳥の最後の1個を食べる時に、どうやったら上品に食べられるのか、って考えなくていいから、この方法はいいね」
鶏肉が抜けた串を1ヶ所に纏めながらそう言うと、ハルさんは私の顔を覗き込みながら言った。
「上品に?上品に食べる方法なんて考えてんの?ミキちゃんが?寝言は寝て言ってくれ」
纏めた串を、ビールを持つハルさんの手の甲に付き立てた。イテッ、と言って、ビールが跳ねた。
「ところで、旦那さんとは映画に行ったりしないの?」
誰もが思う疑問なんだろう。「映画」じゃなくても、「買い物」でも「ライブ」でも、「旦那さんと行かないの?」と。何度、何人に訊かれた事か。
「うん、趣味合わないし。彼は彼のやりたい事やってるみたいだし。私は私でやりたいようにやってるのが性に合ってるというか」
「へぇ、うちの父ちゃんと母ちゃんなんて、未だにどこに行くにも一緒だし、風呂も一緒だし、物心ついた時にセックスしてるのも見掛けちゃったし、夫婦ってそんなもんだと思ってた。いつまでも初心忘れるべからず的な」
ハルさんのご両親はそうであっても、私の両親はそうではない。そして私と将太も。鶏肉とセットになっていた筈の葱を箸で挟みあげ、口に運んだ。鶏の旨みを吸った葱がとろけて口の中に拡散する。
「私はこうやって、旦那の知らない男の人と一緒に映画を観に行ったり、会ってお茶したり、呑みに行ったりしても、文句は言われない。それに、結婚1年にして既にセックスレス。」
「え、マジで?」
「マジで」
暫く私の顔を、口をあんぐり開けて見ていたハルさんだったが、急に下を向いて、それまでと少し違う、口籠る様な喋り方で言った。
「じゃぁ、旦那の知らない男の人達と会って、性欲を満たしてるって事か」
仲良しこよしのご両親の下で育ったハルさんにとっては、あってはならない事態なのだろう。
「男の人『達』ではないよ。1人しかいない。そういう関係は」
顔を上げて、またしても口をあんぐりと開けて暫く私見て、ぽつりと言った。
「そういう事、言っちゃうんだ」
「言っちゃったね」
「不倫だよね?」
「そうだね。もう色んな人に言われてるよ、その言葉」
私に対する印象ががらりと変わってしまったかも知れない、とは思ったが、嘘を言うのもおかしな話だと思ったから正直に話した。ハルさんは、その先を促すような視線をこちらへ向けたので、幸か不幸か、話しやすい雰囲気だった。
「その人とは、旦那と知り合う前からそういう関係で、その時は何というか、愛してくれてる気がしてたんだ。だけど、ここに来て、あれ?何か身体目当て?みたいに思えてきて。私も、情けないし、悲しいし、自分の気持ちのやり場に困ってしまってさ」
少し沈黙があった。私はコースターの上に乗った酎ハイをひと口呑み、ハルさんは「すみません」と店員に声を掛けてビールを頼んだ。そして言った。
「ミキちゃんと話してて思ったんだ。ふとした瞬間に、悲しそうな顔をする人だなって。心から笑えてるのかなって」
「え?」
「自分では分からないかも知れないけど、ゲラゲラ笑ってても、次の瞬間に冷たい空気が流れ込んでくるんだよ。だから今聞いた話で、その顔にも納得がいった」
自分では意識したことが無かった。誰にも指摘された事がなかった。もともと温度の低い人間だとは自覚していたが、今、根底にある将太に対するやり場のない気持ちや、サトルさんに対する侘しい気持ち、そんなものが滲み出ているんだろうか。
ハルさんはそれを感じ取ってくれている。
「俺なら自分の嫁さん、雁字搦めにして手元に置いておくけどね。ずっと笑わせておくけどね」
ハルさんなら可能ろう。そう思った。ハルさんのような人の嫁になれば、毎日幸福を感じる事が出来るかもしれない。
太一君の笑顔、ハルさんの優しさ、どうしてこうも、旦那以外にいい男が沢山いるんだろうか。私は何を間違えたのだろうか。
たった4回。ハルさんとはそれしか会っていないのに、何だか急速に惹かれて行くのが分かった。
見た目がおしゃれな訳ではない。顔だって中の中だ。性格も刺々しい所がある。でもそれらが新鮮で、話せば話すほど、惹かれた。
5回目は、ハルさんのバイクでツーリングをした。
田口は「抱き付かなければどこでもいい」と言ったけど、ハルさんは「腰に手を回しておかないと危ないから」と言って両手を自分の腰に回してくれた。
ハルさんの住まいに近い、大きな川でバイクを停め、護岸に座って缶コーヒーを飲んだ。
すると、スーツを着た中年男性が近づいてきた。満面の笑みを湛えた顔で私たちに話しかけた。
「君たちは、前世を信じていますか?」
あ、宗教勧誘、すぐに気づいた。
ハルさんはこちらを見てニヤリと笑って「はい」と答えた。適当に「興味ありません」って流せばいいのに。
「おや、では前世は何だと思いますか?」
「猫です」
「――猫、ですか」
明らかに中年、困っていた。ハルさんと私は顔を合わせてクスリと笑った。
「君たちは恋人同士ですか?」
今度は何て答えるんだろうとハルさんの横顔を見た。
「はい、そうです」
おいぃぃぃぃぃっ、そこ嘘ついてどうするんだっ。
「そうですか。君たちの前に明るい未来が待っていますように。それでは」
そう言って中年男性は去って行った。勧誘は諦めたようだ。初っ端の「猫」発言で。
缶コーヒーを飲み干すと、「ちょっと涼しい所を走ろうか」と言って、再びバイクに跨った。
渓谷沿いにある道は、夏場でもとても涼しく、空気もおいしい。そこをバイクの排気で汚していくのも気が引けるが、まぁツーリングだから仕方がない。ところどころでバーベキューやキャンプをやっている団体が目に入る。
途中でバイクを降りて崖を降り、川に近づいた。川の水は痺れる程冷たく、そこに横たわる岩は、太陽に熱せられてジリジリと熱い。少し日陰にある岩を見つけてそこに座った。
「キャンプした事ある?」
小石を見つけては川に投げ込みながらハルさんが訊く。小さいトポンという水音は、すぐに川の流れる音によってかき消される。
「小学生の頃、自治会でやったなぁ。ハルさんは?」
「俺はないねー。子供が出来たりしたらやってみたいけど」
「そうだね、家族でキャンプは楽しそうだよね。うちは父親不在的な家だったからねー」
「ミキちゃんと話してると幸せな話が出てこないのな」
顔を見合わせて苦笑した。
暫く、川の流れる音と、ハルさんが投げる小石が川面を打つ音を聞いていた。
私に背を向けて、ハルさんは1つ、大きなため息を吐き、そして言った。
「俺、ミキちゃんの事、好きになった」
鼓動が早くなった。眩暈がした。思わず口をついて「嘘だろ――」と呟いてしまった。
初めて「両想い」が叶った小学生のような、初々しい気分だった。暫く返事が出来なかった。
それは自分の今の立場ではどうしようもないからだ。私は既婚なのだ。
「私も、ここんとこ急速に惹かれてるんだ。でも、どうしたらいいのか、分からない。どう応えてあげたらいいのか、分からない」
そう言うと、何故だか涙が溢れてきた。涙は睫毛の手前で辛うじて堪えている。
こんなに好きになっちゃったのに。私には旦那がいる。何で、何で結婚なんてしちゃったんだろう。
ポロリと睫毛を揺らした一粒を皮切りに、涙が落ちてきた。
私が泣いているのを見て、ハルさんは私の手を取った。「戻ろう」そう言って私の手を引きながらバイクのある方へ歩いた。
先程よりも強い力で、ハルさんの腰を抱いてしがみついた。ハルさんは時折、私の手を握ってくれた。
さぁミキ、そろそろ腹を括る頃だよ。
自宅の横までバイクで送ってもらった。ヘルメットを返し、短いキスをした。また涙がこぼれた。
「結構泣き虫なんだな」
「うるさい。ほっとけ」
翌日、タキの家を訪れた。
昨日起きた事を順を追って話した。
「ミキはもう、心に決めたんでしょ」
「うん、別れるしかないと思う。相手がハルさんでもそうじゃなくても、今のままじゃ人生勿体ない」
既にもう勿体ない事をしているのだ。
「私もその方が良いと思うよ。ご両親には?」
「まだ話してない。あぁ、言いにくいなぁ」
結婚とは、自分と相手だけではない、家族と家族のつながりも出来るのだ。親にはなかなか言いにくい。何しろまずは将太に言いにくい。
「娘の決断なら、親は何も言わないでしょ。それより、旦那には何て言うの?」
「出ていくって言う。慰謝料はいらないから、引っ越し代と、共同で買った家電とかのお金を半分返して貰う。そしてこれまでの数々の悪行を清算して行く事をここに誓います」
唇をきゅっと締める。きっと今、私の唇はリンゴ飴の様に赤い。決めた。決めたのだ。
「今日ね、そこの川で花火大会があるんだ。見て帰る?」
「うん、見る」
それ以上、離婚の話には突っ込んでこなかったのはタキの優しさなんだと思う。
その夜、母に電話を掛けた。掛ける前から泣きそうだった。親不孝な娘を、許してください。
「お母さん?」
『ミキ、どうしたの?』
「お母さんあのね、私、離婚しようと思うんだ」
『――そう。お前がそう決めたなら、そうしなさい。理由は聞かないけど、時々見るお前の顔は、あんまり幸せそうじゃなかったもん。今お父さんに代わるから』
母は何も訊いてこなかったが、訊かれても答えられるような状況ではなかった。涙が溢れて止まらないのだ。嗚咽が止まらない。
『お父さんだけど、お母さんから今聞いたよ。好きにしなさい。お父さんはあの男、初めから好きじゃなかったから』
そういって父はカラリと笑ってくれた。私も泣きながら笑い返した。うまく笑えたかなた。あぁ、父の様に、母の様に、子供の考えを最優先にしてくれる親になりたい。そんな旦那さんが欲しい。
「ありがと。あの、お母さんにも――」
『ありがとでしょ、言っておくよ。大丈夫。あんまり泣くと目が腫れるからな。冷やせよ。じゃあね』
受話器を置く。仲が良い父と母ではないけれど、子供を想う気持ちは母も父も一緒なんだ。
目が腫れる、という父からの警告を無視して、一頻り泣いた。
その日、将太は珍しく私が起きている時間に帰ってきた。チャンスが訪れた、と思った。
「将太、話、していい?」
部屋着に着替える手を止めずに「何?」と答えた。
「家をね、出て行こうと思う」
「――はァ?」
鳩が鉄砲玉を食らったような顔とは、これを言うのか。Tシャツに片腕だけ突っ込んで、動きが止まっている。
「もう決めたの。離婚したい」
「ちょ、え、待ってよ、何それ勝手に」
Tシャツを頭からかぶりながらソファに座って「どういうこと?」と尋ねる。
「あのさぁ、お互いが別の方向を向いてるし、セックスレスでしょ。まずはそれ。」
確かに、と言うように将太は頷く。
「で、前にメールのフォルダを作りたいって言った時、みゆきさん?という人からのメールを見てしまいました。それだけなら許せるけど、送信メールには私に対する不満が書き連ねてありました。そしてお金。お義母さんに借金するほど使い込んでる。これじゃ今後子供ができたって、生活していけないでしょ」
将太はソファに座って俯いている。床に頭が付きそうな勢いだ。頭に上った血液が元に戻れず顔を赤くしている。
「みゆきとメールしてた事は、ミキにも責任がある。ロンドンに行く事、勝手に決めたでしょ。いくら好き勝手やって良いって言ったって、そんな大きな事を相談なしで決めてくるなんておかしいじゃん。それで何だか寂しくなって、みゆきと会ったりしたんだよ」
下を向いたままでそう言う将太に言い返した。
「じゃぁ前もってロンドン行を相談していたら?相談されたことで満足?それならメル友に会わなかったって事?勘弁してよ。責任転嫁も程々にしてくれ」
部屋の柱に寄り掛かって、立ったまま腕組みをして私は、将太を見下ろしていた。
「私も好き勝手やってきて迷惑かけてるから、慰謝料はいらない。新生活に必要なお金を少し負担してくれたらそれでいいから。今から気持を変える事はないから。それと、今日から私、一人で寝るから。何か言いたい事は?」
「少し考えさせてくれ」
俯いたまま顔を上げない将太は多分、泣いていた。それでもここで、伝える事は伝えないと。
「部屋探しして、決まり次第出て行くから。お義母さんには将太から言ってね。お金の事はお義母さんと相談して」
踵を返して、自分のPCを置いている和室に入り、襖を閉めた。押入れに入っていた客用布団を一組取り出し、床に敷いた。
そして横になって天井を見つめた。将太がいるリビングは静まり返っていた。
日付が変わってもなかなか寝付けなかった。ようやっと腰を上げたらしい将太は、シャワーを浴びに浴室へと向かう足音がした。
私はタキにメールした。
『おす。さっき将太に離婚を切り出した。考えさせてくれとは言われたけど、考えを変えるつもりはないと伝えた。頑張ったぞ』
時間帯を考えて、返信は来ないと思ったが、夜勤だったタキからの返信は早かった。
『良くやった。今度スタジオ帰りにケーキ奢ってやる』
いつでも味方だと言ってくれたタキの、真っ直ぐな顔を思い出す。また少し涙が滲んだ。
「じゃぁ、レモンとレアチーズのケーキと、ショコララテのセットで」
「お前奢りだからって高い飲み物頼んでんじゃねーよ、コーヒーにしろっ」
ケーキが美味しいこの店は女性客で込み合っていた。狭い席しか空いておらず、ギターとベースはレジで預かってくれた。
タキのいう事なんて聞かず「ショコララテで」と言い切って、席に着いた。
「とりあえず、良かったな」
タキはコーヒーカップをショコララテのグラスにチンと触れさせて音を立てた。
「そだね。まずは第1歩。これから色々と清算して行く」
「男のね」
「そーね」
ショコララテは思ったよりも甘さが控えめで、ガムシロップを追加した。ストローで混ぜつつ、続ける。
「全てを順調に清算すると、一体誰が残るのか、誰か残ってくれるのか分からないけど、他人に言っても恥ずかしくない恋愛に、最終的には、する」
「良く言った。まぁこれまでのごちゃごちゃした感じも、いい経験になったんじゃない?好きなようにしろって煽っておいてアレだけど、ミキは人生愉しんでるよ」
扇形に広がったチーズケーキをひと口大にフォークで切り、口に運ぶ。酸味が拡がる。
「私、恋愛依存症なのかなぁ。捨てられるのが酷く怖いんだよ。だから、身体の関係でも何でもいいから、繋がっていたいと思っちゃうんだよね」
「そりゃ誰だって捨てられるのは怖いよ。でもアンタは、捨てるのも怖いんでしょ。全部拾ってたらキリが無いんだよ。いらないものは捨てないと。清算するって事はそういう事だよ」
そっかぁ、と呆けたような返事をして、その後に言葉が続かなかった。もう一口、ケーキを放り込む。
タキは何も言えない私に代わって続けた。
「まずは旦那を捨てたでしょ。それで1歩だよ。役所に行ったり、苗字変えたり、色々大変でしょ?」
「苗字は、めんどいから小岩井のままで、自分の戸籍を作っちゃうことにした。何か将太の名残があって悔しいけど、早くいい相手見つけて、また別の苗字に変わるから」
離婚すると、旧姓を名乗るか、現姓のままで自分を戸籍筆頭者とするか選べるのだ。銀行、クレジットカード、会社、何もかも苗字を戻すことを考えると酷く労力がいるのだ。
「早く別の相手見つけるってアンタ――。1度失敗してるんだからね、お母さんそんなの許しませんからねっ」
げんこつにカァーっと息を吹きかけるタキがいた。
水曜の会社の昼休み、休憩室で定例会が開かれていた。
「ちょっとお茶買ってきます。それから重大発表しますんで」
そう言って1度その場を離れ、紙パックの緑茶を買ってきた。側面に斜めに張り付いているストローを取り出し、銀色の膜を突く。
「で、重大発表とは?」
小野さんが組んだ脚の膝に肘を置き、手のひらに顔を乗せている。イケメンが引き立つ格好だな、と思う。ちなみに小野さんは既婚だ。
「私、離婚することになりました」
「えぇぇぇぇぇぇぇぇぇっ――」
その場にいた男3人は声をそろえて絶叫したので、休憩室にいた他のグループが一気にこちらへ視線を移した。
「ちょ、うるさいから、黙りやがってください、マジで」
顔が赤くなっているのが自分でも分かった。もう、リアクションがデカすぎるんだよ、この3人は。
「え、いつ?」
「相手が受け入れてくれたらすぐにでも」
「じゃぁまだ受け入れてくれないんだ」
「はい。でもこっちも引く気はないんで」
ふーん、と今度は静かに3人同時に頷いた。
「そんで、次の彼氏は?」
さいちゃんの頭をポカッと叩いた
「おらんわ、ボケ。これから男関係をきちんと清算して、ゆっくり考えます」
浅田さんが口を開いた。
「そういや斉藤から、新しい男に告白されたとか聞いたけど」
「さいとォォォォーーっ」
殴りかからん勢いで襟元をグイっと掴むとさいちゃんはヘラヘラ笑いながら「そのままチューして」と言ったので、思いきり頭突きをした。
「告白はされましたけど、その時点で私、人妻やってましたからね。受け取るだけ受け取っておきましたけど」
「偉いな。斉藤も見習って、妹1人に絞れよ」
「そうだよさいちゃん、いい歳なんだからさぁ」
さいちゃんは私より3歳年上だ。そろそろ遊んでばかりいられない年齢になってくる。
「でもねーどの妹もそれぞれいいところがあるんですよ。なかなか1人に絞るのはねぇ。難しいんですよ、浅田さん」
同じだ、と思った。さいちゃんも捨てる事が苦手なんだ。拾うだけ拾って、愛着がわいて、捨てられないんだ。
でもそれって、相手の為にも自分の為にも優しくない。今はそれが分かってきた。
職場に戻る道すがら、並んで歩くさいちゃんの肩をポンと叩いて「一緒だな」と言った。
さいちゃんんは「え、何が?」と不思議そうな顔をしていた。
知り合いが山下公園の近くにカフェを出店したから一緒に行かないか、とハルさんから誘われた。仕事を終えた夕方、最寄駅で落ち合った。
「この暑さ、いつまで続くんだろうなぁ」
タオルハンカチで汗を拭いながら、ハルさんは顔をしかめた。
「まだ8月だもん。これから残暑の9月が待っておるぞ」
暑さには強い私でも、舗装路から立ち上る熱は不愉快で、日陰を選んで飛ぶように歩いた。後ろから来た自転車にベルを鳴らされ、ハルさんに腕を引かれた。
「危ないよ、子猫ちゃん」
「危うく自転車に轢かれて死亡、なんて記事になるところだったよ」
駅から暫く歩いた静かな川沿いの道に、小さなカフェがあった。そこの店長さんらしき女性にハルさんが右手をあげて挨拶をする。店内はアンティーク雑貨が飾られていて、夜はお酒も出すんだろう、カクテルの類が置いてあった。素敵なお店だ。
「店長さんが、前からお世話になってる美容師さんだったんだ」
「え、美容師やめてカフェやってるって事?」
「うん」
終始にこやかに接客している店長さんは、暫くするとメニューを持ってこちらへやって来た。
「高田さん、彼女いたんですか?」
「はい、ミキちゃんです」
だーかーら、彼女じゃないからっ。
「お客さんいっぱい入っちゃってゆっくり話が聞けないんですけど、どうぞゆっくりして行ってくださいね」
ニコッと笑って店長さんは席を後にした。
「それにしても、カフェってのはコーヒー1杯で幾ら取るんだよ。うっかりコーラも頼めねぇよ」
確かに、個人経営のカフェだと、コーヒー1杯でも良いお値段がするのが普通だ。
「まぁ開店祝いって事で1杯頂いて、後で安い居酒屋かなんかで飲みなおそう」
「ミキちゃん、おっさんみたいだね」
「よく言われる」
その後、近くの居酒屋へ入った。地下にある、こじんまりした居酒屋だった。
「そうだ、報告しとかにゃ」
枝豆を房からぽんぽん取り出してから、ハルさんに視線を移した。今日はカウンター席なので、顔が近い。とても、恥ずかしい。1度視線を合わせて「失敗した」と思った。
今日はずっと前を向いていようと、視線を戻す。
「旦那に、離婚したいって、言ったんだ」
ハルさんはビールジョッキを暫く見つめていた。ジョッキから結露した水がコースターに吸い込まれる。
「それ、喜んでいいのかなぁ、俺」
「ん」返事に困ってしまい、声にならない声を出してしまった。
「ど、どうなんだろうか」
「ミキちゃんが離婚したからって、ミキちゃんには沢山の男友達がいて、俺はミキちゃんの恋人になれる訳ではないんだよね」
沢山って――私はどんだけビッチだと思われてるんだ。
「沢山なんていないよ。それに、きちんと面と向かって好きだって言ってくれたのは、ハルさんだけ」
枝豆をひと粒ずつ口に入れる。きちんと「好き」と口に出して言ってくれたのは、ハルさんだけだ。サトルさんは、サトルさんは身体だけで――。
「じゃぁあの日、俺にキスをしてくれたのは、どういう気持ちだったの?それこそ身体だけ?それとも俺の気持ちに応えようとしてくれたから?」
居酒屋のカウンター席で、随分とまぁ突っ込んだ話をする人だなぁと冷静な自分が頭の中で喋っていた。
「あの時も言ったと思うけど、私もハルさんに惹かれてるんだって。だけどあの時は人妻だったからどうしようもなかった。今は人妻じゃないから、自分の中でゴタゴタが落ち着いたら、ハルさんの気持ちに応える事は出来るかなぁと思うよ」
ふぅ、顔を見なくてもこんな話、恥ずかしくてダメだ。キャラじゃない。
今、絶対耳まで赤い。目の前にあるブラッディメアリーの赤を見つめる。
「ゴタゴタって何?そんなにゴタゴタしてんの?」
ブラッディメアリーを一口すする。トマトジュースをお酒にするなんて、考えた人、天才。
「まだ、旦那が離婚を了承した訳ではないし、例の、身体だけの男友達との関係を清算しようと思ってるし、前々から約束してたフェスに男友達と行く事になっているし。そういうの全部終わらせて、汚点なしの私になったら、ハルさんの所に行けるかなって」
ハルさんがつついたホッケを箸で挟んだまま私の顔を覗き込んだ。
「顔が赤いねぇ」
「お酒のせいだな」
そりゃこんな話してたら顔も赤くなるわ。
その後は、離婚したらどこに住むとか、ハルさんの就職活動状況とか、そんな話をしながらお酒を飲み、店を後にした。
山下公園まで歩いた。夜の山下公園には、夏のじっとりした潮風が海の匂いを運んでいた。遠くに見えるベイブリッジの下を通過する船が見える。実際近くで見たら、凄く大きな船なんだろうと、考える。
岸壁に並んで海を眺める。水はお世辞にも綺麗とは言えないが、夜景はそれなりに綺麗だ。特に、遠くを行きかう船の明りは、蛍の様にぼぉっと光っていて綺麗。こういう夜景は、視力が少し弱いぐらいが、綺麗に見える。
ハルさんが、手を握った。全身の血液が重力に抗って上へ上へと上がってくる。あぁ、また赤くなっている。
「新潟、今週末?」
「うん。土曜の飛行機」
「何も、無いよね?」
「何もないと思ってて」
ひまわり太一君は、私にそういう類の感情は抱いていないだろう。私は、ひまわり君の様な彼がいたらいいな、と思った事はあるけれど、彼はきっと――。うん、ないない。
「俺は、ミキちゃんと旦那さんの間にきちんと離婚が成立するまでは、絶対に身体に手を出さない。ミキちゃんに不倫はさせない」
私の新潟行きは、さいちゃん、小野さん、浅田さんにとっては格好のネタになる。
「ノッチが新潟に行ってヤって帰ってくる」に200円賭けたのはさいちゃん、小野さん。ヤらないに賭けたのは私と浅田さん。どう考えたって私と浅田さんが有利だ。
土曜の午前中に羽田を飛び立ち、お昼前には新潟空港へ到着した。新幹線で行く事も考えたが、電車の乗り換えを考えると酷く億劫だったので、少し高くついたが飛行機をチョイスした。
空港に着き、太一君にメールをしようと携帯に目をやった瞬間に「ミキちゃん」と声を掛けられた。
目の前に太一君がいた。江の島で花火をした時より少し髪が短くなったな、と思った。「こんちは」と返した。
太一君の車に乗り、お昼を食べに出た。
「離着陸の時は音楽プレイヤーを止めるようにってアナウンス、あるでしょ?で、止めたんだけど、ヘッドフォンしたままでさぁ」
「うんうん」
「『お客様音楽、プレイヤーのご使用はー』なんて言われたから、電源切ったプレイヤーを目の前にかざしたら『申し訳ございません』って深々と。飛行機降りる時にも『申し訳ございませんでした』って謝られて、こちらこそ申し訳ない、だったよ」
「ミキちゃん、ヘッドフォンぐらい外しなよー」
知らない街並みを進む。太一君は、その穏やかな性格とは対照的に、運転が荒い。そして運転姿勢が悪い。今までは友達の車だったからか、そんな素振りは見せなかった。まぁ、そんなギャップがまた魅力的でもあるのだけれど。
お昼はお蕎麦屋さんで蕎麦を食べた。その後は、日ごろ太一君がうろうろするお店や街を案内してもらって、あっという間に夕刻になった。
「お酒とつまめるものでも買って帰ろうか」
太一君お気に入りのカフェで大きなケーキを食べた事もあり、お腹は膨れていた。
「うん、お酒とつまみで夕飯代わりになりそう」
そう言って、太一君のアパートの駐車場に車を停め、近くのコンビニで買い物をした。
玄関の前の蛍光灯が飛び立つ蝉の様なジジジという音を鳴らした。
「どうぞ、何もない部屋だけど」
「お邪魔しますー」
辺り一面ベッドだ。この部屋はベッドで出来ていると言っても過言ではない。六畳のワンルームにセミダブルのベッドがデンと鎮座ましましている。殆どがベッドだ。
「仕事帰りに飯済ませて来ると、あとは寝るだけだけだから、いかに良い睡眠が得られるかが俺の使命なんだ」
そう言ってセミダブルベッドにした理由を説明した。
「ベッドに腰掛けちゃっていいから」
クロゼットの前に少しだけ隙間があったので、そこに荷物を置いた。私はベッドと壁の隙間に出来たこの細長い所に寝るんだろうか。うーむ。
ベランダ側から、脚を折りたたんだテーブルを出してきた。「ちょっと小さいけど」とそのテーブルを組み立てた。その茶色いテーブルは、天然木から切り出したものなのか、木目が綺麗に見えていた。
少し部屋を見渡すと、ベッドの宮には漫画とスピーカーが置かれている。照明は素敵な雑貨屋さんに売っていそうなペンダントライトで、少し暗いが、寝る事を1番に考えている部屋では、これぐらいの照度で十分なんだろう。暖かなオレンジ色の灯りを落としている。
壁にはセックスピストルズのポスターが貼ってある。
「もしかして、この部屋テレビが無い?」
「ううん、クロゼットに入ってる。殆ど見ないけど」
台所や風呂場を忙しなく行き来しながら太一君が答える。青いネコ型ロボットの寝床は押入れだったかな。
「あの、何か手伝えることがあればやるから」
「いいって、お客さんは座っててよ」
誰かさんの家で肉じゃがをごちそうになった時の事を思い出してしまった。
「じゃぁ、乾杯っ」
「かんぱーいっ」
ベッドに2人腰掛けてビールで乾杯した。
「お酒は冷蔵庫に入ってるのと、台所にカルーアとか真露とかあるから適当に作っちゃって」
「とりあえず酔う前に、明日の打ち合わせでもしようか」
明日はフェスに行く。ここから1時間程の所に会場がある。
「駐車場に入るのに並ぶ事を考えると、早めがいいよね」
そう言って太一君は壁にかかっているシンプルな時計に目をやった。時計は19時を指していた。
「9時ごろ出れるようにしようか。今から目覚ましかけておこぉっと」
携帯を手にしてアラームをセットしていたので、「じゃ私も」と同じようにアラームをセットした。
「あぁそうだ、借りてた漫画」
立ち上がってクロゼットから漫画を2冊持ってきた。
「エロ、グロだね。最高に面白かった」
「でしょ」
今度は私が立ち上がって、旅行鞄にしまった。
太一君と話しながらお酒を呑んでいるうちに、2人とも良い感じに酔いが回ってきた。私は座っていたベッドから転げ落ち、太一君はトイレに入ったまま出てこなくなった。
「おーい、太一ィー、大丈夫かぁー?」
トイレからは嘔吐する声が漏れてくる。
「笑えないぞー、出てこい、もっと呑むぞ」
真っ青な顔をしてトイレから這いずって出てきた太一君に肩を貸し、ベッドへ連れて行く。それでもお酒を飲み続け、私の記憶はそこで途絶えた。久しぶりに、記憶を飛ばした。
翌朝、アラームの音で目を覚ますと、ふかふかのベッドの中にいた。もう少し遅くアラームをセットしたのであろう太一くんが、隣ですやすや眠っていた。
そして、私も太一君も、布団から出た腕が、裸だった。布団に潜りこんでみたが、太一君も私も全裸だった。
何があったんだ、思い出すんだ、自分。だが、何も思い出せない。太一君をトイレから救出してからその後、何も思い出せないのだ。
私がじたばたしていると、太一君がむにゃむにゃと何かを言いながら細く目を開け瞬きを数回。そして大きく目を開けて「ワァァァッ」と叫んだ。
「おはよう。何か大変な事が起きていると思うんだけど、覚えてる?」
「ミキちゃん、裸?」
「そうみたい」布団で胸を隠し、肩まで見せた。
太一君は横になったまま頭上や床を見渡し「あ」と呟いた。
「何、どうした?」
「使用済みの――ゴム発見」
「マジでか」
「マジで」
普通に会話しているのが恥ずかしくなって、背中を向けた。太一君はごそごそとこちらへ間合いを詰め、そして後ろから私を抱きしめた。
「しちゃったみたいだね。ごめんね」
「ごめんね、ってこんな風に抱きしめながら言う言葉か?」
「そうだね。俺はミキちゃんと出来て嬉しいけど、せめて記憶しておきたかったなぁ」
「アハハ、確かに。2人とも記憶ぶっ飛んでもサカってたんだなぁ」
その後は何事も無かったかのようにさっさと出掛ける支度をして、フェス会場に向かった。
車の中で、太一君が前を見ながら尋ねた。
「旦那さんはフェスに行く事、反対しなかったの?」
昨晩の事を考えると何となく顔を見るのが恥ずかしく、私も前を向いたままで答える。
「もう、旦那じゃなくなるから」
「は?何?」
「離婚するから」
赤信号で停車すると、ゆっくり私の方を向いた。
「マジでか」
「マジでだ」
ふーん、と言いなぜか嬉しそうに「そうかそうか」とか独り言を呟きながら太一君は車を走らせた。人の不幸は蜜の味、か?
「ミキちゃんは毎回、何かしら驚きの事実を暴露するよね」
「そうかな」
小規模なフェスではあるが、会場はかなり込み合っていて、いつも通り私は「後ろの方で見るから」と言ったが「俺も」と太一君が言うので、一緒に後ろで見た。
それでも混みあった場所を通る時には、そっと腰を抱いて私の身を庇ってくれた。優しいな、と思った。
ヘッドライナーまで見て帰ると車の出庫ラッシュにぶつかるから、と、ひとつ前のアーティストまで見る事にした。
最後に見たのは、まだ若いけれど、疾走感とメロディアスな旋律でカリスマ的な人気を誇っているバンドだった。別段好きなバンドではなかったが、聴いていて心地が良かった。
2人で並んで斜面になった芝生に座り、ステージを見ていた。さっきまではライブを観ながらあれやこれやと話をしていたのに、急に2人、静かになった。
膝を抱えて小さく座った私の肩を、太一君が抱き寄せた。芝生ががさっと音を立てた。その腕の温かさが優しかった。最後に聴いた曲が、暫く頭から離れなかった。
出庫ラッシュに見舞われずスムーズに太一君の家まで戻ってきた。
明日は午後から仕事なので、午前中の便で帰る事を伝え、「じゃぁお酒は控えめにしないとね」なんて言われた。太一君も空港まで私を送るために、半休を取ってくれているらしい。
「今日はお互いお酒に飲まれないように」
そんな交通安全の標語の様な事を言いながら、昨日と同じペースでお酒は進んだ。しかし記憶は飛ばないギリギリの線で、昂揚感だけを感じていた。
シャワーを借りて、Tシャツと短パンという色気のない格好に着替えた。
シャワーを浴びてもなお酔いは抜けず、何を話してもケタケタと笑っている自分がいた。太一君も私ほどではないにしろ、ゲラゲラ笑っていた。ベッドで腹を抱えて転がりまわっていた。
昼でも夜でも外でも部屋でも、ひまわりはひまわりだった。暗い照明の中で明るく咲き誇るひまわり。
「あぁぁ、酔っぱらってるぅー」
そう言いながらベッドに大の字になった。太一君も隣に横になり、私の方を向いたので、私もそれに倣って太一君の方を向いた。
「今日はゲロ吐かないね」
「昨日程、飲んでないからね。記憶にきちんと残しておきたいから」
「私の酔い姿をかっ、そうなのかっ」
「違うよ」
アハハと笑いながらも視線を外さない。私の手を握ると、私の方へ寄ってきた。顔が、すぐそこにある。
「俺は、ミキちゃんに電話を借りたあの日から、ミキちゃん、いいなぁって思ってたんだよ」
急にまじめな話になり、頭の回転がついて行かない。「うん」としか答えられない。
「でも、彼氏いるっぽかったし。でもずっと気になってて、俺も彼女いるけど、ミキちゃんが彼女だったらってずっと思ってて――」
あらら、この人何を言ってるんだ。糖分の取り過ぎですか?
「こらこら、彼女がいるならそれで――」
「ミキちゃんがいいんだ。昨日と今日一緒にいて、そう思ったの。ミキちゃんが俺の彼女だったら嬉しいんだ」
握りしめる手を強くする。いつもの笑顔は消えていた。私はゆっくりと口を開いた。
「私はね、太一君がひまわりみたいにキラキラ笑う顔が大好きで、それに色んな趣味も合うしね。太一君が彼氏だったらそりゃぁ、嬉しいと思うよ」
今日だって、こんなに優しい彼氏がいたら、。そう思った。「だけどね」と続ける。
「私は何でも拾いたがりで捨てられないんだ」
「どういう事?」
酔っている頭をフル回転させてもなかなか言葉が出てこない。
「んーと、好きって言われたら好きになっちゃうの。そして離れるのが怖くなるの。そうすると周りに沢山の人が集まっちゃって、収拾つかなくなる。だから、決めたの。清算するって。まずは旦那を捨てたの」
「俺も、捨てられる運命?」
「ううん、そうじゃない。友達として付き合っていきたい。
私、遠距離恋愛出来る程、器用じゃない。逢えない時間が愛を育てるなんてのは、私の中ではありえない。
そこにいて欲しいんだ。好きな人には。そんで、これから多分一緒にいてくれるであろう人が、横浜で待ってるの」
太一君を拒絶したい訳ではないのに、良い言葉が見つからなくて、もどかしくて、涙が溢れてきた。あぁ、何でこういう時に泣いちゃうんだろう。涙が女の武器だなんて思われたら困る。
太一君は私の頭の後ろに手を回し、抱き寄せた。太一君の首筋からは、シャンプーの匂いがした。
「言いたい事は良く分かった。ミキちゃんの優しさも分かった。
俺だって北海道に彼女がいるのに、ミキちゃんに惚れてる。うまく行かないなぁって思ってるよ。皆そんなに器用じゃないんだよ」
「うん」
太一君の肩に埋もれている私の声は、くぐもっていた。
「じゃぁさ、今日、今夜だけ、俺の彼女でいてくれない?ミキちゃんとの事を、きちんと記憶に残したい」
何という破壊力のある言葉だ。今夜だけ彼女で。言葉なんて曖昧な物だけど、彼から発せられたこの言葉は、私の臓腑の奥底にズンと響いた。
「私で良かったら」
恐る恐る太一君の顔を見上げると、そこにはひまわりの様な笑顔が咲いていた。
「その顔が好きなん――」
言い終わる前に、唇で唇を塞がれた。舌を絡ませあい。唇の角度を変えてはまた吸い付き合う。そのまま太一君を私の上に跨り、甘い甘いセックスをした。
「ちゃんと記憶に残った?」
タオルで汗を拭く太一君の背中に問うた。
「残ったよ。つーかまだ俺の彼女だからね」
そう言って布団に舞い戻り、私を抱いた。
「くっつかないで、暑いよぉー」
「我慢するの。これぐらい。今日しかないんだから」
タオルで拭いた筈の汗が、2人の身体を接着するように湧いてくる。
「ミキちゃんは予想通りのツンデレなんだね」
そう言って私の顔を覗き込む。そこにはいじわるな笑顔が見えた。
「ツンデレ?何それ美味しいの?」
「全力で日本語だけど」
ツンデレの自覚はあったけれど、あえてそれを、一戦交えた直後に言われると、やっぱり恥ずかしいものだ。
「太一君の事、好きだよ、私」
「俺だってミキちゃんの事、大好きだよ」
短いキスを2回、唇に落とした。
「あー、明日が来なければいいのにー」
太一君は私を抱く力を強めてそう言った。
「あー、明日1日有休にしとくんだったー」
仕事めんどくさい、とぼそっと言うと、太一君は笑いながら私の背中をパチンと叩いた。
「そうやって糖分低めの会話に持って行くのが、ミキちゃんのパターンかっ」
笑いをこらえながら太一君の顔を見る。ブッっと吹き出してしまった。
「ケーキは好きだけど、甘い雰囲気が苦手なの」
「その口塞いでやるーっ。」
それから長い長いキスをした。私にとっては十分甘い甘い夜だった。この夜、太一君の彼女でいられて幸せだった。
浅田さん、ごめんなさい。200円が400円に跳ね上がりそうです。200円分は記憶にないので、申告しないという手もあるけれど。
翌朝、空港まで車で送ってもらった。「また東京に行く時、遊んでよ」と言われ「うん」と答えた。
搭乗ゲートをくぐりながら大きく手を振った先には、大きなひまわりの花の様な笑顔があった。
見えなくなってから、それまで瞼の下で待機していた涙が、待ってましたとばかりに零れた。これでまた1つ、清算。
「もしかして、また負けた?」
水曜の休憩室では週末の賭けの勝敗がついて、小銭のやりとりをしている。
「でもでも、土曜日は記憶にないんです。残っていたのはゴムしかないんです」
「でも使用済みだろ」
「はい」
「じゃ、負け。俺と斉藤に400円ずつねー」
小野さんが慈悲も何もない声でお金を徴収する。
「何で私ばっかり賭けの対象になるんですか?さいちゃんも妹達とサカってるのに」
「俺は必ずヤるから、賭けになんねーの。生理日まで調べてあんの」
うわ、こいつ開き直ってやがる。小野さんは既婚者だから、行っても風俗。浅田さんは彼女がいないので、こちらも風俗。そしてさいちゃんは「必ずヤる」宣言。真面目な顔で「今晩だけ彼女になって」と言った太一君を思い出すと、賭けなんかにしてしまって申し訳ない気持ちになった。
「それにしても、ゴムしか残ってなかったって、意識ぶっ飛んでたんだな。何か想像したらムラムラしてきた。半勃ちだわ」
そう言って小野さんは自分の股間に手を当てる。
「小野さんは生涯中2の人生を歩んでください」
小銭が消えた財布のファスナーを閉じた。
タキと居酒屋で呑んで帰ると、既に自宅には明りが灯っていた。
「お帰り」
「あ、ただいま。帰ってたんだ」
なるべく視線を合わせないように会話をする。鞄を置き、携帯を充電器に差し込む。
「あのさ、離婚の件なんだけど」
私は顔をあげ、無言で将太を見た。将太は私から視線を外した。
「離婚するよ。親にも相談して、引っ越し代とかまぁ、新居の敷金とか、その辺も負担するから。時間がある時に、離婚届取ってきてもらえる?」
「うん、分かった。何て言えばいいのか分からないけど、あの――ありがとう」
「お礼言われるのも何か変な感じだなぁ」
将太はへへっと短く笑った。私の顔にも、安堵の笑みが零れた。
この家に住んで、こうして心からの笑みを浮かべたのは、いつ以来だろう。PCの電源を入れながら考えた。
それから数日で新居の物件探しをした。母は「少しでも実家に近い所に住め」と言い、結局父が探し出した、2DKのマンションに決めた。
駅から徒歩十五分、山を越え谷を越える物件だが、広さも収納も十分あり、1人暮らしには勿体ない物件だ。
引っ越し当日までに離婚届を書き上げ判を押し、もう私が腰掛ける事はないであろうソファに置いた。将太と一緒に選んだ赤いソファを、指で触った。テーブルにあったメモ帳に走り書きした。
『将太へ
今までありがとう。離婚届、書いたら提出してください。時間が無ければ私に送ってください。
将太の1番の理解者でありたかった。分かってあげられなくてごめんね。わがままばかりだった私を、それでも愛してくれて、ありがとう。
ミキより』
引っ越し先のマンションの前で、ハルさんが待っていた。引っ越しの手伝いをしてくれる約束だった。
「就職決まったんだ、知らせたくて」
会うなりそう言った。余程嬉しかったんだろう。
「おめでとうぅっ。タイミング良いなぁ。じゃぁ今日は引っ越し祝いと就職祝いで呑みますか?」
「ですね」
引っ越し屋さんのトラックから荷下しをする作業を、ハルさんも手伝ってくれた。引っ越し屋さんが帰ると、今度は荷解きまで手伝ってくれる。
「とりあえずお酒が呑める程度の荷解きで、いいよね」
大型家具はテーブルとベンチぐらいで、あとは後日ベッドやダイニングテーブルが届く。ソファはふかふかの物ではなく、合皮のベンチにした。軽くて、掃除もしやすそうだから。すわり心地は――良くないけれど。
新しいベンチに座って乾杯をした。缶と缶が当たる音がする。
まだ段ボールがあちこちに転がっているけれど、明日1日で片づけよう。
「仕事はどの辺で?」
「ミキちゃんの職場に結構近い方だよ。で、独身寮に入るんだけど、ミキちゃんの最寄駅から地下鉄で3駅だね」
「引っ越しはいつ?」
「来週末」
「じゃぁ今日のお礼に手伝うよ」
柿の種をぼりぼり食べながら、ビールを飲む。おっさん二人の光景。
「そうだ、何祝いか分からんけど、ウォッカ持ってきた。あと、ミキちゃんの好きなトマトジュースも」
「うわ、ブラッディメアリー作れるじゃんかっ」
テンションが上がった。私は自分でウォッカなんて買わないから、ビールとトマトジュースでレッドアイ程度しか作れないのだが、ウォッカがあれば大好きなブラッディメアリーが作れる。
「新潟はどうだった?」
「うん、知らない街だった」
何だその感想は、と突っ込まれた。
「フェスは小規模だったけど、まぁ良かったよ。静かに観れたしね」
「で、一緒に行った彼とは、あれ、そんな感じになっちゃったの?」
正直に話すべきか迷った。ハルさんは、私と太一君の間に何も無かった事を願っている。ここで私が正直に話したら――でもハルさんを選んだ、なんて調子の良いことを言ったら――。ここは言葉の曖昧さに甘えよう。ここだけは嘘を吐かせてほしい、そう思った。
「そんな感じ?なってないよ。そんな感じってなんだそりゃ」
これ以上突っ込まないでくれ、頼む。心の中の私が一生の半分ぐらいのお願いを使い果たした。さぁ、話をずらしにかかるか。
「離婚成立は、今月末ぐらいになりそうだなぁ」
「じゃぁ来月になったら、伊豆に旅行にでも行かない?」
来月はもう11月だ。少し肌寒い季節だな。
「俺、色々調べておくよ。秘宝館とか、行ってみたいんだよねぇ」
ニヤニヤと笑う横顔は、お酒のせいで少し赤らんでいた。よし、と言って私は立ち上がった。
「新しいキッチンで、ブラッディメアリー作るぞぉぉ」
段ボールから出した透明のグラスに、コンビニで買ってきた氷を入れ、ウォッカ、トマトジュースを入れ、これまた段ボールから取り出したマドラーでかき混ぜる。たちまち血の様な赤い飲み物が出来上がる。
「トマトジュースが嫌いなんて人は、この世から消え去ればいい」
「俺は嫌いだけど」
ごくり、とひと口飲んで「ごめん」と呟いた。2人視線を合わせ、顔を緩めた。少しだけ、心から笑った。
「順調に離婚が成立して、時々見せるミキちゃんの寂しそうな顔が消えるように、俺は頑張る」
嬉しくて、目が潤む。
「何を頑張るの?」
意地悪く訊き返す。
「何をって、んーと、そうだな、笑わせる。ずっと、ひっきりなしに笑ってられる様にする」
「アンタは芸人かっ」
それでもハルさんの言葉は私にとって十分な説得力を持ち、彼になら出来るんじゃないかと思わせてくれた。
その後、ブラッディメアリーを飲み続けた私は、またもや記憶を飛ばし、しかしハルさんと一戦交えた形跡はなかった。
その代り、翌朝、新居のシンクには真っ赤な吐瀉物がへばり付き、自分の髪からもその欠片が臭った。
「何だ、何があったんだ――」
「昨日ミキちゃん、飲み過ぎて吐いて、しかも寝ゲロまでしちゃって、俺タオル探したりするの大変だったんだよ」
うわー、自分に惚れている男に寝ゲロの処理させちゃったよオイ。二日酔いで、未だに胃液が重力に逆らって遡上しようとする。
「あぁホントごめん。ホントごめん。とりあえずシャワー浴びたい」
とんだわがまま娘だ。私がシャワーを浴びている間、シンクにあった吐瀉物を、ハルさんが綺麗に流してくれていた。
私は髪にこびりついた吐瀉物が排水溝に吸い込まれている様を見ながら、「酒は飲んでも飲まれるな」の教訓を思い出していた。
シャワーを浴びて、新しい部屋着に着替えてベンチに座った。「気持ち悪っ」とか言いながら、ハルさんが入れてくれた水道水を少しずつ飲んだ。
「私、こんな人だよ、いいの?」
「いいじゃん、人間らしくて。もうゲロも見ちゃったし。あとはウンコ見たら結婚だな」
アハハーと笑うハルさんを見て、私もぷっと吹き出した。
「まぁ酒は程々にって事で、これからは俺もそこそこの所で止めに入るからさ。俺以外の男の前で、そんな風にならないでね」
太一君の顔が頭を掠めた。もう、思い出。終わりがあるから思い出になる。
「はい、気を付けます」
時すでに遅し、ってやつ?こいつ記憶飛ばした挙句にムラムラしてヤっちゃってますよー。
という心の声は黙殺した。
その後、ハルさんは独身寮に入り、仕事が始まった。
仕事帰りに私の家に寄る事もあったが、宣言通り、まだ私には手を出していない。
10月の末、役所から書面で、離婚が成立した事を知らされた。直後、将太から携帯にメールが届いた。
『離婚が無事成立したという紙が届きました。引っ越しの日、手紙をありがとう。俺はミキの、自由奔放な所が凄く好きだった。だけど愛し方が難しかった。
1度でも俺を選んでくれてありがとう。笑顔あふれる毎日を送ってください。』
道の側溝には茶色や黄色の落葉が溢れ、ストールやブーツ姿での人が増えた。徐々に冬は近づいている。
吹く風は冷たく、寝ぼけ眼を一瞬で開く力を湛えている。寝ぼけ眼で玄関を出て、ハルさんの車に手を振った。よし、目が開いた。
車は伊豆に向けて出発した。ハルさんは終始ご機嫌と言った様子で、マシンガンの様にしゃべり続けた。
離婚が成立して間もない私を、少しでも元気づけようとしているのか、旅行で舞い上がっているのか――。ま、後者だろう。
観光名所はハルさんが調べ上げていた。そこを順番に周っていく。こういうプランを組み立てるのが好きだって、以前言っていたような。
ハルさんには申し訳ないが、私は時々、サトルさんの事を考えていた。どうやって清算しよう。
ハルさんはもう、私と付き合うという方向で考えている、というかもう、付き合っているんだと私も思っている。捨てるものを捨てずに苦しむのは嫌だ。
ハルさんとサトルさん、どちらかを選ばないといけないと思う。だけど人間は欲深く、どちらも欲しいと思ってしまう。
上の空で観光地を巡り、宿に着いた。
男女別の露天風呂に浸かり、上気した顔で夕食をとった。部屋食だったのでゆっくり、明日のプランを練りながらの食事だった。
その後は持ち込んだお酒を飲みながら、敷かれた2組の布団の上で、お喋りをした。
どちらかが「寝よう」と言い出すまで寝れないんじゃないかというぐらい、話が弾んだ。
遂には日付を跨いでしまった。
「そろそろ寝ないと、まずくない?」
「そうだね、明日は秘宝館に行かないとだしね」
やたらと秘宝館に行きたがっているハルさんの中2加減に笑った。
電気を消し、2人別々の布団に入った。
もぞもぞと音がして、ハルさんは私の手を握った。
「もう、不倫にならないよね」
「そうだね」
「俺、一緒に歩いてるだけでムラムラしてた」
「なにそれ、怖い」
そしてまたもぞもぞと音がして、私の布団にハルさんが入ってきた。そして背中に腕を回し、抱かれた。温かかった。私もハルさんの腰に手を回し、抱き返した。
「俺はミキちゃんのウンコなら食べれると思う」
「おい。ムード丸つぶれ」
「ミキちゃんは俺のウンコ食べれる?」
「超緊急時におしっこなら飲めるかも」
「じゃぁ俺の勝ちだ」
「日本語でどうぞ」
額と額がぶつかる距離でする会話とは思えない。それでも私は顔が真っ赤だった。ハルさんの顔が見れない。
ハルさんは顔をずらし、短くキスをした。そして私の顔を見ると、次は長く長く、濃密なキスをした。抱く腕が痛いぐらい強い。
着ていた浴衣の帯を解かれ、下着姿になった。ハルさんも自分の帯を解き、「ほら、こんなに」と自分の股間に私の手を触れさせた。
そしてセックスをした。今までの誰の物とも違う、初々しくて探り探りで、くすぐったくて初恋の匂いがするセックス。
溺れていたいとか、そういう言葉とは相容れない、誠実な、一生懸命なセックス。気温の低さなんて物ともせず、汗ばみながら2回、交わった。
我ながら「サカってんなぁ」と思った。
「俺の彼女になって。俺の物になって。俺しか見ないで」
「うん」
酷く優しい声で、私を独占する言葉を吐いたハルさんに、「言葉なんて曖昧なんだから」なんて、酷過ぎて言えなかった。
短い期間に3回も、風邪をひいてしまった。職場で流行っている風邪を全て引き当てている感じだ。この引きの強さを宝くじか何かに活かせればいいのにと思った。
休むたびに、ハルさんが夕飯を買って看病しに来てくれた。
風邪が染るから来なくていい、と本気で断っているのに、それでも玄関のインターフォンが鳴り、その度に頭を抱えた。
もう、いっそキスでもして染してしまおうか。12月に入り、白い息を吐きながらコンビニの袋を差し出すハルさんを見て、思った。
風邪が治ると、時々泊まっていくようになった。私の家から直接、仕事に行く日が、週に2回程。土日は私がスタジオリハの日以外は、一緒にいる事が増えた。
不思議と「自分の時間が欲しい」とは思わなかった。
新年は、私の家でお酒を飲みながら迎えた。途中、フェスで再会した福島君からハル(さん付はもうやめた)に電話が来て、「付き合ってるんだよ」と伝えたら、酷く驚いていたそうだ。
『中野さん、人妻じゃん、だって』
「ほぇ?いつの話だよ。原始?」
ベンチの隣に座る私の肩を抱いた。
「ミキの彼氏だ、って、俺は色んな人に自慢したい」
仕事始め恒例、達磨奉納を終えて、職場近くの居酒屋で新年会が行われた。
私は先輩女性数人に離婚について突っ込まれ、女ってこういう話題が好きなんだな、とげんなりした。
デニムのポケットに入れていた携帯が短く振動し、メールの着信を告げた。ハルからだろうかと確認すると、意外な人物からだった。
『ミキ嬢、久しぶり。寒いけど風邪などひいてないですか?
久しぶりに会いたいと思っています。今度横浜に行く用事があるんだけど、どうかな?ゆっくり近況報告でも出来たらと思います。』
動きが止まる。ゆっくり近況報告――。
「俺の彼女になって。俺の物になって。俺しか見ないで」
ハルの言葉が頭を去来する。私は捨てなければいけない。どちらかを捨てなければ、前に進めない。心から笑えない。顔から影を拭えない。
そのままトイレに行き、返信をした。
『こんばんは。実は離婚をして、引っ越しました。横浜からなら電車ですぐなので、良かったら家に来ませんか?何もお構いできませんが。』
トイレから戻り、元の場所ではなく、さいちゃんの隣に座った。
「高円寺の人からメールが来た」
「うわ、久々じゃん」
「どうしよう」
「何、どうした?」
飲み会が終わり、殆どの人間が2次会へ向かったが、私とさいちゃんは2人でカフェに入った。いつもそうだ。会社の旅行の帰りでも、研修の帰りでも、さいちゃんとは2人きりでどこへでも行けてしまう。2人、似た者同士で気が合うのだ。田口とはまた違った、男女の友情を感じる。
「何てメールが来たの?」
カフェモカが入ったカップから、白い湯気がゆらゆらと立ち上り、甘い香りが鼻をつく。
「今度会いたいって」
「んで?ヤりたいって?」
「そんなムラムラを前面に出すような人じゃありませんっ。さいちゃんと一緒にしないで」
むっとして唇を突き出すとさいちゃんは笑った。
「庇うねぇー。余程好きなんだな、その人」
ふんっ、と鼻を鳴らした。あぁ、可愛げがない。
「うちに来るように言っちゃったんだ」
「別にいいじゃん、そのままヤったら?」
カップを持ち、カフェモカに口を付けた。まだ熱い。
「もう、やめようと思ってるんだ、そういうの」
「どうして?」
さいちゃんも熱かったのか、ブラックコーヒーが入ったカップをすぐにテーブルに戻した。
「さいちゃんは妹が沢山いて、面倒にならないの?1人に絞ろうとか思わない?」
暫く考えて、口を開く。
「俺は、まぁ、面倒ではあるけどな。でも絞れないな。どれもいい」
「私もそうなんだよ。どれも良い。だけどもう、それじゃいけない気がするんだよ。俺だけを見てくれ、って言われて、嘘は付けない」
さいちゃんが私の顔をじっと見つめる。
「そう、誰かに言われたの?」
「うん」
さいちゃんの手がテーブル越しに伸び、私の髪をその指先で撫でた。
「それに従おうと思ったなら、その通りにしたらいい。他の人の事を断ち切ってでも、その人について行ったらいい。
俺の妹達は、そんな事言わないからな。俺以外にも男がいるんだろうし」
「さいちゃん、結婚遅そう」
「大きなお世話じゃ」
お互い、コーヒーをひと口飲んだ。
「さいちゃんに聞いて貰って良かったよ」
「俺でも役に立った?」
「うん。基本、似た者同士だし」
「俺はいつでもノッチの味方だ」
タキと同じような事を言うなぁと思って、小さく笑った。
そして数日後、最寄駅でサトルさんと待ち合わせた。平日の夕方だった。
前日から雪が降っていた。多少積もってはいたが、今日は積もる程降らず、空から細かい紙ふぶきが落ちてきているような雪だった。
サトルさんはカフェの紙カップを片手に、駅の改札に立っていた。右手を挙げるとこちらに気づいて、走り寄ってきた。
「どうも」
「どうも。離婚したって?びっくりしたよ。何がどうしたの?」
それから家までの道程、離婚した事について話した。
そして今、ハルという彼氏がいる事も。
「はい、ここが我が家です。どうぞ」
寒々しい金属製の玄関を開けると、サトルさんが「おじゃまー」と言って部屋に入った。
ぐるりと見渡し、奥の寝室まで進み、居間に戻ってきた。
「へぇ、結構広いんだね。駅から遠いけど、良い部屋じゃないか」
「家賃もそれ程高くないし、歩くのは嫌いじゃないからね。コーヒーでいい?」
「俺コーヒーまだ入ってるから、ここに」
持っていた紙カップを持ち上げて示す。「冷めちゃってない?」と訊いたが「いいよ」と言った。
サトルさんはベンチに腰掛け、私は隣に座るのが憚られたので、床に敷いているラグに腰掛けた。
「新しい彼氏とは、うまくいってるの?どんな人なの?」
紙カップをぐるぐるとゆすりながらサトルさんが訊いた。
「うん、今までに無い感じの、凄い優しい人。うまくいってるよ。私には勿体ないぐらいの人」
サトルさんを見上げると、笑顔を見せた。
「そうなんだ。良かったじゃない」
「んまぁね。でも風邪でも引こうものなら、毎日でも看病に来るからね。浮気でもしようものなら確実に殺される」
ハハッと短く笑ったサトルさんは紙カップをテーブルに置いた。
「優しい彼なんだね。俺もこの前、過労で入院してさ」
「へ?過労で?」
うん、と口元に寂しげな笑みを残したまま続けた。
「過労で。情けないよ。彼女にも迷惑を掛けちゃったよ。看病できる人なんて他にいないし」
頭を鈍器で殴られるって、こんな感じなのかな。
何度聞いても、サトルさんの口から出てくる「彼女」という言葉は、私の頭を締め付け、心を深く抉り取る。するだけ無駄な嫉妬をしてしまう。
「大変、だったね。うん、サトルさんも彼女さんも」
彼女さん、って何だ。何で「さん」付なんだ。
「あ、寒いね。ちょっと暖房強めよっか」
間仕切り戸を閉めて、電気ストーブを「強」にした。PCを立ち上げて、音楽を流した。その間、二人の間には沈黙が流れていた。
沈黙を破ったのはサトルさんだった。
「そうだ、俺も遂にフェスデビューしたんだ。夏に、沖縄に行ってきた」
意外だった。サトルさんはそういう祭りの類を好きこのみそうもないと思っていたからだ。何かこう、クラブイベントぐらいにしか行かなそうな、勝手な想像。妄想。
「沖縄でやってるんだ、ジャンルは?」
「テクノがメインだねー」
誰と?とは訊かなかった。答えは見えている。自分から傷口に塩を塗るのは御免だった。
「ねぇ、ミキ嬢」
改まって呼ばれ、「へ?」と腐抜けた返事をした。
「まだ、幸せそうに笑わないんだね。初めて会った時みたいに、キラキラ笑わないんだね。どうして?離婚してもまだ、何か辛い事があるの?」
アンタだよ、もう。なんて言えない。
「大好きな人が他に、いるんだ」
「そうなんだ。どんな人?」
アンタだよ、もう。だから言えないって。
「凄く大人な人。絶対に手の届かない人。彼女がいるんだ」
「好きって、伝えたの?」
「伝えてないよ。負け戦だもの」
「言わないで後悔するより、言って後悔した方がいいよ」
「うん――」
空気読もうよ、おーい。
「でもね、こういうの、もうやめようと思って。
好きな人を一杯拾い集めて、一杯関係を持って、捨てられないまま自分を追い詰めちゃうの、もうやめようと思ってるの」
「ん?具体的には?」
サトルさんに続きを促される。
「もう、好きな人には合わない事にする。関係は断ち切る。そして今の彼と、笑い合えるようにする。心からね」
うん、うん、とサトルさんは2度頷いた。
「じゃぁ俺が今、ミキ嬢の隣に行って抱こうとしたら、ミキ嬢は拒絶する?」
返事に困った。実際にそうされたら、身体を許してしまうような気がする。そうされるまえに返事だ。
「そうだね、やめろコンチクショーって言う」
フフッと短く笑ってサトルさんは言った。
「そうだよね。変な事訊いてごめんよ」
無言で頷いた。もう、この人は一体何をしに来たんだ。セックスか?セックスなのか?
さて、と言ってサトルさんは立ち上がった。
「コーヒーも飲んだことだし、ミキ嬢の近況も聴けたし、そろそろ家に帰るかな」
これで最後になるかもしれない。死ぬまで、死んでも会えないかも知れない。好きで好きで、大好きだったサトルさんに。
玄関に向かうサトルさんの背中を目に焼き付ける。
痩せた身体からは想像がつかない、しなやかに筋の張った背中。最後にこの手で触れたのはいつだったか。
「帰り道、分かる?」
「何となく分かるよ」
玄関を開けると、紙吹雪の様だった雪が、大粒の雪になっていた。マシュマロみたいだった。本降りだ。
「サトルさん、ひとつ、お願いしてもいい?」
「どうぞ」
「ハグ、して欲しい」
「うん、いいよ」
冷たい空気に包まれた身体を、サトルさんの腕が包み込む。頬と頬が触れ合う。いつか見た光る白い雪は、今は見えない。灰色がかった雪の塊が、そこらじゅうに点在している。そして目の前を雪がはらはらと落ちて行く。
あの日、あの瞬間を、私は忘れないだろう。
白く光る雪。長い口づけ。甘い空気。
短くキスをした。酷く残酷な、最後のキスを。
「ありがとう」
そう言うとサトルさんは笑いながら言う。
「大げさだなぁ、何かもう会えないみたいな感じになってるけど」
返事に窮したが、何とか静かな笑顔で返した。
「それじゃ」
サトルさんは雪が降る中、書類ケースを傘代わりに歩いて行った。傘を貸す事はしなかった。また、会う口実が出来てしまうから。
部屋に戻り、携帯を取り出した。言えなかった事。言わなければ終わらないから。
『今日は遠い所どうもありがとう。久しぶりに会えて、嬉しかったです。
私はサトルさんが好きでした。初めて会った時から好きでした。だけど手の届かない人だと思っていました。傷つくのが怖くて、なかなか好きって言えなかった。サトルさんがどういう気持ちで私を抱いているのか、ふわふわしていて掴めなかった。
いつか見た白い雪を、私は一生忘れません。もう、会う事は無いけれど、ずっとあなたを想い続けると思います』
送信ボタンを押す指が震え、何度も躊躇った。
終わらせるんだ。今日で終わりにするんだ。
送信ボタンを押した。
これで終わったんだ。私が持っていた要らない物は全て、捨てたんだ。
『新生活、楽しめているようで何よりです。
俺の事が好きだなんて、言ってもらえて嬉しいです。つくづくタイミングの神様に見放されてるね、俺たちは。
ミキ嬢は今の彼と幸せを掴んで下さい。俺は、今の彼女といつまで続くか分からないけれと、幸せだと言える毎日を送ろうと思っています。
心から楽しそうに、嬉しそうに笑うミキ嬢が俺は、大好きでした』
携帯から、サトルさんのアドレスを消去した。それまで下睫毛に支えられていた大粒の涙が、重みに耐えられず、ほろりと三粒零れた。慌ててティッシュで拭った。
その日の夜、ハルが家に来た。
「あれ、誰か来たの?」
玄関からスタスタと居間に入ってきた。いつもは散らかっている私の部屋が、綺麗に片付いているのに気付いたらしい。
「うん」
私が俯きがちに返事をしたので、何かに気づいたらしかった。
「例の、身体だけの人?」
ベンチに座る私の隣に、腰掛ける。
「うん、ごめん。前もって言っておくべきだった」
ハルは項垂れて「んだよ、くそっ」と呟いた。
「ごめん」
「謝るなよ、何かしたのかよ」
「何もしてない」
「じゃぁ謝るなよ。前もって言ったって同じだよ。何でそんな男を家に上げるんだよ。」
「ごめん」
謝る事しか出来なかった。沈黙が流れる。何か言い訳を探した。ハルが顔を上げるのが雰囲気で伝わった。
「何しに来たんだよ」
「近況報告?」
「メールでやれよ」
「はい」
「あ、メールもするな」
「はい」
俯きながら、何とか言葉を紡ごうとする。
「あのね、近況報告して、今後一切会わないって約束した。私は、今の彼と幸せにやっていくからって、約束したの――」
暫しの沈黙があり、そして張りつめていた糸がぷちんと切れる音がした。ハルの手が、私の頭にポン、と乗った。そして頭を撫でた。
「初めから、そう言ってよ。心配になるじゃん。今後は俺以外の男を、許可なく部屋に呼ばないんだよ」
「イエッサー」
見つめ合って、暫くして、2人吹き出した。そしてキスをした。
それから1年後、小野さんや浅田さん、さいちゃん、レイちゃん、タキに福島君、その他の友人に見守られて、ささやかな結婚式を挙げた。
その時既に、お腹の中には小さな命が宿っていた。
レイちゃんはママになっていたし、小野さんはパパになっていた。タキは昔からの彼氏との結婚を控えていた。
そして今、私は2人の男の子を育てる母になった。勿論父親はハルだ。子供が生まれてから暫くは、子供にばかり手が掛かり、夫婦生活も控えめだったが、今は新婚当初の様に、精力的に夜の営みに励んでいる。
3人目は出来ないように、をスローガンに。
子供が好きじゃなかった私が、母になった。
やっぱり子供は苦手だし、一般の家庭のママに比べたら、とっても手抜きでとってもガミガミなダメな母だと自覚しているが、子供はすくすく育っている。
私の腹から生まれてきたのに、私ともハルとも違う、別人格の生命体である事に少し違和感を感じる。
男の子が2人で良かった。彼らは私にべったりで、ハルと子供が私を奪い合っている姿を見ると、「母親って得」なんて思う。
私の父と母が、私の離婚に際して言ってくれたように、私は子供の思う道を歩ませてあげたい。例え途中で道を外れても、少し戻ればいい。
時に残酷な現実が待っているかも知れない。それでも思うようにやればいい。
私が歩んできたように、曲がりくねった道を、ゆっくりと進んでいけばいい。その先に、真っ白にきらめく光が、きっと待っている。
NEWVELランキングに参加しています。投票して下さるからはこちらをクリックお願いします。→
ホームへ
小説TOPへ