11 ぬるま湯



 新学期が始まった。医療系の3年制短大ではこの時期から、希望する研究室に入って「特別論文」を制作する。四年制大学で言う所の「卒業論文」に当たる。これ以外に講義は少ないため、特論以外の時間は各々国家試験に向けての勉強に充当したり、はたまた息抜きをしたりして過ごす。
 仲のよい友達同士で同じ研究室に入る子が多い中、私は「最も厳しい」とされる微生物学の研究室を、単身で希望した。就職先では微生物の研究をする事が理由だ。
 午前中に培地を作り、午後から実験をする、という毎日。

 ユウは不規則勤務の仕事をしている。夜勤入りの日は、私の講義後にユウの家へ行き、イチャイチャとしてから家まで送って貰ったり、日勤の日は、夕飯を食べに行ってからユウの家に行くとか、ドライブをするか、という感じで、特に土日は頻繁に会っていた。
 以前のようにユウの黒い車が私の家の前に停まるようになった事に母は気づき、「またあの男と付き合ってるの――」と目を回していた。漬物石は、とりあえず落とされなかった。

 9月とはいえ、恐ろしく残暑が厳しい。微生物学の特論は、コンタミネーション(目的微生物以外の微生物が生育してきてしまう事)を防止するため、窓やドアを閉め切った中でガスバーナーを使った作業をする。汗っかきの友人は、自らの汗と格闘していたが、私は代謝が悪いので汗をあまりかかない。培地のカラフルなゼリーの様な色を見て、暫し涼む。

 全ての作業を終え、教室に戻ると、レイちゃんとタキが話をしていた。「よっ」と右手をひらりとあげると二人も「お疲れ」っと手を上げる。
 タキは、女子グループから私が引き抜きをした一人だ。私と同様に、あまり女らしさは感じられず、アニメやゲームなどサブカルに精通していて、頭脳明晰という面白い子だ。学籍番号が1つ違いだったので、入学当初、親しげに話しかけられた。あまりにしつこいので邪険に扱っていたが、徐々に面白さが分かり、今に至る。
 レイちゃんとタキと私は、定期的にカラオケに行く仲間でもある。

 「疲れたー。暑いー。誰か、私に滋養と強壮をー」
 タキは目の前に伸ばした私の手をバシっと叩き、言い放つ。
 「私から滋養を奪うな」
 「飯食いに行こうよー、誰かー、相手してー」
 「ごめん、私、今日バイトなんだ」
 レイちゃんは両掌を合わせて言った。あぁ、聖母マリア。断られても全然悪い気がしない。
 「しょうがないな、つきあってやろう。ココットでいいよね」
 ココットは、学校にほど近い、小さな洋食屋さんで、学生には良心的な価格設定なので、時々利用する。

 帰り支度が終わった2人を横目に、いそいそと湿気た白衣を折りたたみ(丸める、という表現が近いかも知れない)椅子の上に置いた。結わいていた腰までの髪を1度ほどき風を入れ、再度結わいた。窓からは、昼間の残暑とは打って変わって、少し涼しげな風が吹いてきた。カーディガンを持ってきて、正解だった。
 「お待たせしました」
 「ほいじゃ、行こうか」
 ココットとは逆方向にあるカフェでバイトをしているレイちゃんとは学校の前で別れ、タキと2人でココットへ向かった。


 アツアツのエビドリアを冷ますために、フォークでご飯とソースを混ぜ合わせる。ふんわりとホワイトソースの香りをたたえた湯気が、顔を掠めていく。
 「おタキさんは、最近どうなのよ。彼とは」
 タキは、高校時代からずっと付き合っている彼がいる。今は甲府と横浜の中距離恋愛をしている。1人の彼氏と2年以上付き合った事のない私からすると、タキは一途の見本だ。
 「まぁ、正直な所刺激が無い生活だよね。しょっちゅう会う訳じゃないしさ」
 「寂しいとか?」
 「まぁね」
 「可愛いとこ、あんじゃないのさぁ」
 上目使いにタキを見てニヤリと笑った。ドリアを一口、口に運ぶ。「あふっ」と予期していた熱さなのに声が出てしまう。

 「ミキは結局、元鞘なんだってね。レイちゃんから聞いたよ」
 「はい。鞘に収まってます」
 他に収まる鞘なんて持ってない。ここを失ったら私はぶらぶらと人に刃を向けながら生きる事になってしまう。
 「ただね、好きな人がいる、っちゃいるんだよね」
 「なんだその趣味の悪い火遊びは」
 タキはグラタンをつつく手を止めて私の顔を見た。
 「未遂ですよ。セックスはしていない。だけど好きなんだよね。でも相手の思ってる事がいまいち掴めないから、こっちも攻撃を仕掛けられない。結局は同じ鞘に収まってるんだけど」
 サトルさんに「好きだ、付き合ってほしい」とストレートに告白されたら、私はサトルさんを選んでいた。しかし、実際はそうではなかった。目の前ににんじんをぶら下げるどころか、「にんじんは今日しか出しません」と宣言されてしまったのだ。空腹の馬。

 「あんまり、色々な所で無茶しない方がいいよ。ミキは案外、人に気を遣うタイプだから、自分の気持ちに正直になるって、難しいでしょう」
 テーブルの上からぶら下がる電球の熱が少し熱いな、と感じる。案外とは何だ、案外とは。
 「ミキがしたいと思うように行動しな。他の人の事なんて考えなくていいから」
 タキが言う事がとても正しすぎて、眩しかった。そんな風に生きる事が出来たら素敵だと思った。きっとタキとタキの彼は、双方のまっすぐな想いで固く結ばれているのだろう。 私は距離の離れた恋愛なんて、不安過ぎてできない。それは相手からの想いに自信が持てない事は勿論、自分の想いに自信が無いせいでもあろう。果たして自分のユウへの想いは、まっすぐなんだろうか。

 「タキは正しいよ。はぁ――思うように行動、かぁ。」
 食べかけのドリア皿に目を落とす。思うように行動するという事は、予想以上に難しい事だ。あれやこれやと難しく考えてしまう私にとっては特に。まずは嫌いなにんじんをお皿の横に除ける事から始めよう。できる事からこつこつと。


 久々にユウと休みが合った。こんな日は朝から――セックスだ。冷房をガンガンにかけたユウの部屋で、布団を掛けて抱き合う。ユウと私はお互い、初めての相手だ。この歳にしては遅い方かもしれない。だからという訳ではないが、飽きもせず、会うとセックスをする。
 彼の広い肩やごつごつした腕、ご立派な彼自身がとても愛おしい。衣ずれの音すら官能的に感じる。彼とのセックスは、お昼寝のように心地が良い。
 ただ、別れる以前と変わった点がある。それは、私の頭の中に時々降って湧いてくる、サトルさんの存在だ。一瞬、集中力がそがれるのだ。

 事を終え、車で海へと向かった。初秋の潮風が、開け放った窓から否応なしに入り込み、思わず目を閉じてしまう。遠くの方で、少し濁った群青色の海と空が溶け合っている。境界線が不明瞭で、自分の心を映しているのではないかと心がざわめく。
 
 砂浜に横たわっている角材に二人で腰掛け、海を眺めていると、ユウが口を開いた。
 「ねえ、前に言ってた、好きな人っていうのは、もう好きじゃないの?」
 サトルさんの事か。ユウは田口と勘違いしたんだっけ。

 「え、あぁ、好きじゃないと言ったら嘘になるけど。手の届かない人だから。何さ、突然」
 急にそんな事を言われ、私は動揺した。
 「その辺どうなってんのかなーって、思って。二股なのかなーとか」
 ぶはっと吹き出してしまった。
 「私はそんなに器用じゃないですよ。浮気、不倫、絶対出来ナイタイプネ」
 ふざけて片言の日本語で答える。スニーカーのオーリーガードに、砂粒が整列している。足を踏み込むと、サーッと砂浜に溶け込んでいく、砂粒。
 「そう、それなら良かった。ツンデレのミキが、他の人にデレっとしてる事を想像したら、相手を探し出して殺してしまいそうだ」
 「物騒だな。おまわりさーん、このヒトでーす」
 口に両手を当てて大声を出すふりをした。口の周りに、砂がついた。慌てて払う。
 「口に入りそうになった。畜生、おまわりさんめ」

 ユウが私の顎を長い指先で持ち上げ、反対の手の先で砂を払ってくれた。そして優しくキスをくれた。「ミキが好きだよ」と言ってもう一回。
 この人を裏切ってはいけない。こんなに愛してくれる人を、裏切ってはいけない。
 だけど――。

 彼が私を、愛してくれるから、なのか。
 私が彼を、愛しているから、ではないのか。



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