15 綻(ほころ)び



 特論も終盤に差し掛かり、実験よりもデータまとめが中心になってきた。教室に誰かのノートパソコンを持ち込んで作業する、という事が多くなった。それまで教室で国家試験の勉強をしていた私は、騒がしい教室よりも図書室で勉強することが多くなった。図書室は冷暖房が完備されていて過ごしやすい。ただ、飲食が出来ない事、無駄口が叩けない事が不満なんだが。

 そろそろ現実から逃げていられない時期に来た。国家試験は2月だ。この1カ月半ぐらいで、正答率6割の壁を乗り越えなければ、これまでの3年間を棒に振る。
 とは言え、私の就職先である株式会社水原は、国家資格が不要なので、万が一不合格だとしても、就業できなくなるという事はない。が、病院勤務が決まっているタキや、多くの友人たちは、国家資格が必ず必要なので、試験に落ちる訳にはいかないのだ。彼らのモチベーション維持のためにも、私がヘラヘラしている訳にはいかない。

 ユウには「国家試験が終わるまで会えない」と言ってある。「土日ぐらいいいじゃん」と駄々をこねていたが、断った。それでも毎日必ずメールのやりとりはしている。そう、男に現を抜かしている暇はないのだ。

 そんな決意も、サトルさんからのメールであっけなく砕けるのだ。

『こんにちは。今日は学校かい?
こちらは先日から珍しく風邪をひいて、昨日から発熱で寝込んでいるよ。
寝てばかりいて何だか寂しくなったのでメールしました。
 それでは勉強、頑張ってください。』

 ヘラヘラとサトルさん宅に向かった訳だ。こんな時期に風邪を貰っては、こちらだって窮地に陥りかねないというのに、こんなメールを読んでしまっては動かずにいられないのだ。意志薄弱だな、自分。
 『おにぎりなら食べられそう』というメールだったので、コンビニでおにぎりとお茶を買って、サトルさんの家へ向かった。

 「いやぁ、助かるよ。1人身では買い出しにも行けないし、料理する気にもなれないしさ。」
 ありがとね、と言いケホケホと咳をする。
 「友達とかに、頼めなかったの?」
 コンビニの袋から自分のお茶を抜き取って、残りをサトルさんに渡した。
 「まぁ周りは社会人が多いから、なかなか難しいんだ。」
 ま、学生の私も暇じゃないんですけど――とは言わず、おにぎりを食べるサトルさんを見て、食べる元気はありそうで安心をした。

 さすがにこの日はセックスを要求されることはなかった。その代り、別の事を要求された。
 「膝枕をして欲しいな。」
 横座りをした私の太腿に、サトルさんは頭をのせて横になった。確かに、太腿に伝わる熱が、普通ではない。まだ熱がありそうだ。
 「手、かして。」
 と言うので両手を出すと、左手をサトルさんの頭に、右手はサトルさんが両手で握った。
 「頭を撫でていて。」
 このヒトは頭が完全に熱に侵されてしまったのではないか。何だこのデレ感。可愛いな、と感じ、言われたとおりに頭を撫でた。

 私の手を握ったサトルさんは、それを頬に寄せたり、両手で握ったり挟んだりしていた。
 「手、冷たいね」
 「外、すっごい寒かったし、冷え症だからね」
 膝枕で甘い言葉を囁きあうのだけは絶対に避けたかったので、あえて『冷え症』という現実的な話を持ち出した。「心は温かいらしいよ」付け加えた。

 セックスフレンドでも、セックス以外に需要があるのか。そんな事を思った。呼べば来てくれる、そんなお手軽な女だと思われているのだろうか。実際、呼ばれたら来るんだけど――。

 風邪など病気に罹ると、誰しも寂しさを感じ、誰かに甘えたくなると聞いた事がある。人肌が恋しくなるとか?
 私は風邪など滅多にひかないが、万が一ひいたとしても実家なので、父にでも母にでも甘え放題(実際甘える事はないが)だ。1人暮らしというのは、そういう点では不便だ。最低限、食べる物を食べなければ、治る物も治らない。
 そういえば、年明けに、は両親に1人暮らしがしたい旨を話そうと思っていたのが先送りになっていた事を思い出し、サトルさんに話した。

 「自宅から通える職場なのに、1人暮らしするの?」
 「うん。自分で生活していく力をつけないと、このままじゃ嫁にも行けなそうだし」
 サトルさんの、少し伸びた髪を撫でながらそう言った。洗濯ひとつ、自分でやった事が無いのだ。料理と言う料理もした事が無いし、掃除は苦手。これでは嫁の貰い手が無い。
 「あはは、嫁に行けないか。そういうものかな。俺はミキ嬢が1人暮らしをすれば、たまには俺がミキ嬢の家を訪ねる事もできるし、嬉しいかな」
 「だよねぇ。サトルさんの家ばっかり、お邪魔してるもんね。まぁ両親が、1人暮らしには反対すると思うんだけどね。何とか説得してみるよ」
 うまくいくといいねぇ、目を閉じながらサトルさんは言った。そしてまたケホケホッと咳をする。

 突然、まぁ携帯の着信は大抵突然なのだが、お尻のポケットに入れてあった携帯電話が振動した。固定電話からの着信だ。誰だろう。

 「はい?」
 『もしもし、俺だけど』
 その声はユウだった。携帯を握る右手にじわっと汗が滲むのがはっきりとわかった。
 「なっ、どうしたの、どっから電話してんの?」
 『家からだよ。携帯からじゃ、出てくれないだろうと思って。勉強してんの?』
 おいおいこのタイミングで何の用だよ、と突っ込みたかった。あぁ、何か答えなきゃ。答えなきゃ。座っていながら軽く眩暈がした。

 「勉強、そうだよ、勉強してるんだよ、だから電話して――」
 ケホケホ、「あ、ごめん」、とサトルさんが咳き込み、喋った。
 あーっ、まずいっ。この状況はやばいっ。国家試験が終わるまで会う事を拒否しておいて、どこぞの男と一緒にいるなんて事が知られたら、と言うか知られた?いや、今の声は兄貴の声、いや、うちの兄貴は家出してるんだった。じゃぁお父さん――。
 「電話してくるな、って?ふーん、で、誰といるの?今咳をした人は?」
 さぁミキ、頭をフル回転させるんだ、ユウに納得のいく答えをさぁ、ぶつけるんだっ。

 「――家庭教師のお兄さん、でーす。なんつって」
 「――切るね」
 プツっと音がして、続いてプーップーッという音が鳴った。暫くその音を聞いていて、

 サトルさんが声を掛けている事に気づかなかった。



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