23 すべりだい



 「小島さん、今メール送りました」
 私の所属する研開1の上司にそう言い、業務に戻る。数秒後、期待通りのリアクションが来た。
 「えぇぇぇぇっ?」
 小島さんの絶叫が響いた。私の「結婚・婚姻届」(勿論社内用)を読んだからだ。
 「な、中野さん、結婚するの?」
 ざわっと室内がどよめいた。
 「あ、はい」
 周囲で「いくつだっけ?」「まだ20幾つでしょ」「彼氏いるんだっけ?」ひそひそと会話が進んでいくのが聞こえる。
 既に伝えてあったさいちゃんは、涼しい顔で仕事を続けている。
 「全く、結婚ひとつでガタガタうるせぇなぁ」
 不機嫌全開でパソコンに向かって呟く私にさいちゃんが言った。
 「まだノッチは若いから、そりゃ驚くだろ」

 なかのっち、略してノッチ。そう、ノッチはこの部屋の中で最年少なのだ。わはは。
 「午後には色んな人に知れ渡って、その度に相手は?とか訊かれて、いちいち答えないといけないんだよな。めんどくさっ。さいちゃん、影武者にならない?時給払うから」
 女性が多いからなのか、噂が伝わる速度が光の速さ並みなのだ。今日の話が今日中に広範囲に伝わってしまう。
 予想通りだった。午後、私のもとに訪れる人が数人。メールを送ってきた人が数人。通りすがりに話しかけてきた人が数人。その度に同じ事を訊かれ、答える。

 「ノッチが結婚するだなんて、俺は生きていけないよ。」
 研開2の小野さんがそう言いに来た。嬉しいような、嬉しくないような。
 「結婚しても苗字が変わるだけですから。また飲みに行きましょうよ。小野さんのピンサロ紀行もまた聞かせてください。」
 小野さん、さいちゃん、研基の浅田さんと私は飲み仲間であり、昼仲間だ。毎週水曜日は「定例会」と称して昼休みに下ネタつきの恋愛談義に没頭する。


 親への報告も、一般的な「嫁にはやらんぞぉぉー」なんていうドラマティックな展開にはならなかった。将太と2人、親の前で正座をして沙汰を待った。しかし「2人がいいならいいんじゃない?」という、まぁ良く言えば子供を信用しきっている、悪く言えば無責任という感じで終わった。
 当面は職場の近くにアパートを借りて2人で住む事になった。私は職場が近くなったので、朝少し寝坊が出来る事、そして苗字が「小岩井」に変わった事を除いて、他にはあまり変わりがなかった。

将太は相変わらず仕事が忙しく、夕飯の時間にはまず帰ってこないので、夕飯を作る必要もなく、朝はコンビニでご飯を買って会社で食べる。平日は全く顔を合わせない。
 何のために結婚したのか、いまいち自分でも分からない。土日に仕事が無ければ(私は無いのだが)、買い物に行くぐらい。あれ、これって結婚前と何も変わってない。先日はやっと、結婚指輪を買いに行った。結婚式は気が向いた時にする事にした。
 「家庭を持てば仕事も楽になるかも」なんていう夢は、夢でしかなかったわけだ。残念だな、将太。



次:24 シンクロ

ホームへ 小説TOPへ

inserted by FC2 system