29 富溢れる



 『お久です。久しぶりに東京に遊びに行く事になりました。友達が車を貸してくれるというので、雷門、行きませんか?そっちまで車で迎えに行きます。』

 太一君からのメールが来た。そういえば、雷門に行きたいって、言ったの私だったっけ。
 横浜に住んでいると、東京は中途半端に近すぎて、観光名所なんて殆ど行かない。雷門もその1つ。テレビで観るだけで、行った事はない。何か興味を惹く事がある訳ではないのだが、ひまわりの季節が終わる前に、ひまわり君の笑顔を観に行って来ようと思った。

 土曜の朝、車で最寄駅まで迎えに来てくれた。友達から借りたというその車は紫色だった。何かひまわり君には似つかわしくない色で、ちょっと笑った。
 映画を観た日に、好きな漫画の話になり、お勧めを今度貸すよ、と言ってあったので、紙袋に入った漫画を2冊、彼に渡した。
 「もう何度も読んだから、返却はいつでも大丈夫だからね」
 「ありがとう、じゃぁ次に会う時に持って来るから」
 また「お礼に」を付けて返してくるのかなぁと思い、思わず笑ってしまい「何?」と訝しげな表情をされてしまった。

 浅草界隈の駐車場に車を停めて、雷門へ向かった。あぁこれだ、テレビで何度も観ていた、雷門。何が有難いのかよく分からないけれど、とりあえずその門をくぐり、参道を歩く。今日は残暑が和らぎ、涼しい風が参道を通り抜ける。

 「今年は初詣、行った?」
 初詣なんてもう半年も前の事。記憶を手繰り寄せる。
 「あぁ、行ったよ。行ったけど、寒いし混んでるし、詣でないで帰ってきちゃった」
 「彼氏と?」
 「うん、旦那と」
 「へ?」
 きょとんとした目で足を止め、私を見ている太一君。私も足を止めざるを得なかった。

 「私、結婚したんだ。映画観に行った日はもう既に人妻でした」
 太一君の、明らかに焦っている表情が読み取れる。
 「あ、え、俺とこんな事してて大丈夫なの?」
 「大丈夫だよ。私の行動に過剰に干渉しない約束になってるし、第一、太一君と変な事してないでしょ。浅草でデートしてるだけ」
 「デートって――」
 彼は頭の後ろをぽりぽりと掻きながら俯いてしまった。言い方がまずかったか。
 「デート、は訂正。遊んでるっていう言い方にしておくよ。それなら困らない?」
 「どっちにしたって、困るけどね」

 いつものひまわりの様な笑顔に戻るには少し時間が掛かった。私はこの人のひまわりの様な笑顔が見たくて、彼に会っている。心から笑っていない、とサトルさんに指摘された私の心を、少しでも笑顔に近づけてくれる太一君の笑顔。ひまわり。
 夏の終わりのひまわりは、まだここに咲いていた。
 ふらりと参道を歩き、変わった物が売っていると手に取り笑い、お御籤をひいた。小吉だった。今の私にお似合いだな、なんて思った。太一君は中吉。大吉をひいてくれると思ってたんだけど。

 その後、入り組んだ路地に入り、太一君がテレビで見たという天丼が美味しいお店に昼食を食べに入った。古びたお店のお座敷に座り、部屋の角に置かれたこれまた古びたテレビに目が行く。築地の市場が映っていた。
 「次は築地にするかね」
 「いいねぇ」
 なんて話をしていたところに、携帯が震えた。メール着信。サトルさんからだ。前に会った時から2か月が経過している。「ちょっとメール、ごめんね」と太一君に声を掛けて、メールを開く。

 『こんにちは。今日はお休みかな?
 その後、新婚生活は順調かい?こちらは相変わらずがらんとした部屋で一人、仕事しています。
 先日のミキ嬢の様子を見て、その後心配だったので、メールしました。近々会えるといいね。では』

 「今日太一君、何時まで遊べる?」
 携帯を持つ手が小刻みに震えている。
 「え、夕方ぐらいに友達の家に戻ろうかと思ってるんだけど、何で?」
 「友達からメールが来てさ、あの、この後ぶらっとドライブしたら、その人の家に行こうかと思ってるんだけど」
 太一君、ごめん、と心の中で思いながら。
 「友達の家ってどの辺?」
 「高円寺の駅の近く」
 「俺の友達、荻窪だから、ドライブがてら送っていくよ」
 丁度、大きな海老が乗った天丼が運ばれてきた。
 「ありがとう、助かるよ」

 サトルさんがメールを寄越すのは大抵、仕事をしていない暇な時だ。今日はきっと暇なのだろう。一応メールで、この後行ってもいいかと尋ねたら、是非という返信が来た。

 大きな海老と格闘しながら、太一君に訊いた。
 「太一君は、彼女は?」
 海老が重たすぎて箸でなかなか掴めない。テレビは築地市場から東京タワーへと舞台を移した。
 「最近、学生時代の同級生と付き合いだしたんだけど、すぐに北海道に行っちゃったんだよね。転勤で」
 「じゃぁ遠距離恋愛だね」
 「そうだね。だから結婚して、好きな人と毎日一緒にいられる生活って羨ましいよ」
 そう、だね――続く言葉がなかなか出てこなかった。皆同じ事を言うね。だけど結婚生活が必ずしも幸せであるとは限らないのだよ、ひまわり君。
 「一般的には――そうなのかな」
 「何、『一般的には』って?」
 海老は、食べても食べても尻尾に辿り着かない。

 「私達は普通の夫婦とは違うんだと思う。こうやって私が誰と遊ぼうが、旦那は一切興味を示さないし、私は干渉されたくないし、家にいてもお互い違う方向を向いてるし、平日は殆ど顔を合わせないし。結婚した意味が、最近はちょっと、分からなくなってきてるのだよ」
 丼の半分を平らげた太一君は、同情たっぷりの眼差しを向けて言った。
 「それは悲しいねぇ。熟年夫婦になれば、そうなるのかもしれないけど、まだ新婚なのに。まだバカップルっぷりを遺憾なく発揮してもいい時期だよ」
 目を伏せて少し笑った。
 「バカップルか。もともと私、糖度が低いんだよ。男と付き合う時の糖度が凄く低いから、どんなに好きな人とでも、甘い言葉を掛け合ったりする事って、殆ど無かったな、今まで。はぐらかしちゃったりして。バカップルってのは、とても羨ましい」
 「なら今から糖分とってさ、今晩は旦那さんに甘い言葉を掛けてみなよっ。すみませーん、食後にあんみつ2つ追加で」
 いそいそと動き回る店員さんに声を掛ける。本当に糖分補給をさせるつもりらしい。「俺のおごりだから」と、ひまわりの様な笑顔でそう言った。うーん、その笑顔、堪らんっ。

 高円寺まで車で送ってくれた。車中ではサイパン島にある「バンザイクリフ」の話で盛り上がった。戦時中、米軍に圧された日本兵が、断崖から「万歳」と言いながら身投げした場所だ。
 「そうだ、今度、処刑博物館に行ってみようよ」ひまわり君はその笑顔とは裏腹に、結構ヘビーな嗜好があるので気が合うなぁと思う。私よりも背が高い彼は、サトルさんに負けず劣らずいつもおしゃれをしているし、顔だって素敵だ。実は太一君、いい男だ。

 高円寺で太一君と別れ、駅近くのマンションへ向かう。少し急ぎ足で歩いただけなのに、額を汗が覆っていた。今日は涼しい筈なのに。鞄の中から小振りのタオルを取り出し、抑えるように拭いながら、エレベーターで六階に上がった。部屋番号が分からなくなったのでメールで訊き、インターホンを鳴らす。隣のドアの前には、青い3輪車が置いてあった。
 「どうぞ」
 キィという金属音と共にドアが開き、サトルさんが顔を出す。はぁ、今日も素敵だ。
 「お邪魔いたします」
 あれ、今日は煙草の匂いがしない。風が強いせいか。部屋に入り、前に来た時に座ったちゃぶ台の辺りに腰をおろした。

 「今日は浅草にいたんだね」
 「うん、新潟から友達が来ててね。2人とも浅草に行った事が無いから行ってみよう、って」
 「浅草かぁ。人力車に乗ったり?」
 「いや、それはさすがに恥ずかしくて乗ってない」
 机に広がった書類をとんとんと1つに纏め、「俺も行った事ないなぁ」と言いながらこちらへ歩いてきて、ちゃぶ台を挟んで対面に、足を投げ出して座った。

 「あれ、今日は煙草吸わないの?」
 「今、禁煙中」
 へぇ、と答えた。だから煙草の匂いがしなかったんだ。ちょっとだけ、寂しい気がした。
 「その後、どうしてた?旦那さんとはうまくいってるの?その顔を見るに、あまり状況は変わっていなそうだけども」
 サトルさんにもエスパー能力があるのか。
 「まぁ相変わらずですよ。相変わらず、お互い別の方を向いてる感じ」
 そっかぁ、と手に煙草を持っていないサトルさんは手持無沙汰といった感じで天を仰いだ。

 「あ、そうそう、結婚式を挙げた。サイパンで。新婚旅行的な物も一応」
 天を仰いでいた顔をストンとおろし、私に目を向ける。ニヤリと笑う。
 「何だ、ちゃんと新婚さんやってるじゃないか」
 「形式的にはね。あの数日間は確かに、新婚さんだったけど、帰ってきたら元に戻った」
 あぁ、こんな事サトルさんに話したって何の解決にもならないのに。何故全てを曝け出して話してしまうんだろう。

 コーヒー飲む?と訊かれて、声に出さず頷いた。サトルさんは立ち上がり、見覚えのある二段の冷蔵庫から缶コーヒーを2本持って戻ってきた。
 「ありがとう」とそれを受け取った。ニコチン中毒の後はカフェイン中毒か?冷蔵庫の中には缶コーヒーがぎっしり詰まっているのが見えた。何かのキャンペーンなのか、コーヒーの缶にはユニオンジャックのシールが貼られていた。

 「あぁ、イギリスに行きたいな」
 ぽつりと呟いた。「え、なんで?」とサトルさんが返す。
 「小さい頃にね、ピアノの先生がロンドンに行ったお土産に、赤い2階建てバスのマグネットをくれたの。たったそれだけの事なんだけど、凄く憧れてるの。ロンドンに。
 スマイソンの文具とか、あとはフリーマーケットとか、フォートナムメイソンの紅茶でアフタヌーンティもね。いっぱいあり過ぎるんだよ、魅力が」
 短大の頃は殆どレッスンに通っていなかったが、4歳からピアノを習っていた。お蔭で絶対音感が身についているので、ギターやベースも独学で何とかやっていけている。ピアノの先生はしょっちゅう海外に行っては、素敵なお土産をくれた。
 高校の時にはまっていたバンドのボーカルが、「ロンドンのヒースロー空港は古い絨毯の匂いがする」と言っていた。それを嗅いでみたい、という小さな夢もある。

 「ミキ嬢はピアノやってたのか。意外だな。俺はサッカー好きだから、サッカーを観にロンドンに行ってみたいな」
 そういえば、サトルさんが以前住んでいた家には、プレミアリーグのユニフォームが飾ってあったっけ。
 一緒に行こうよ、とはさすがに言えなかった。
 「行けるといいね、お互い」
 そう言ってサトルさんは飲み終えたコーヒーの缶を持ってキッチンへ行き、引き返してきた。そして今度は私の隣に座って、キスをした。額同士をくっつけたまま、小さな声でこう言った。

 「ロンドンの話をしてる瞬間のミキ嬢の顔は、良い顔だったよ。それと、今日は泣かないで帰ってね。ミキ嬢の泣き顔を毎回見てる気がするから」
 私はキスで返した。そして言った。
 「サトルさんとこうしている今この瞬間は幸せなんだ。だから幸せな顔が出来る」
 今回はさいちゃん達と賭けをする暇もなかったな、と思った。



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