水曜の会社の昼休み、休憩室で定例会が開かれていた。
「ちょっとお茶買ってきます。それから重大発表しますんで」
そう言って1度その場を離れ、紙パックの緑茶を買ってきた。側面に斜めに張り付いているストローを取り出し、銀色の膜を突く。
「で、重大発表とは?」
小野さんが組んだ脚の膝に肘を置き、手のひらに顔を乗せている。イケメンが引き立つ格好だな、と思う。ちなみに小野さんは既婚だ。
「私、離婚することになりました」
「えぇぇぇぇぇぇぇぇぇっ――」
その場にいた男3人は声をそろえて絶叫したので、休憩室にいた他のグループが一気にこちらへ視線を移した。
「ちょ、うるさいから、黙りやがってください、マジで」
顔が赤くなっているのが自分でも分かった。もう、リアクションがデカすぎるんだよ、この3人は。
「え、いつ?」
「相手が受け入れてくれたらすぐにでも」
「じゃぁまだ受け入れてくれないんだ」
「はい。でもこっちも引く気はないんで」
ふーん、と今度は静かに3人同時に頷いた。
「そんで、次の彼氏は?」
さいちゃんの頭をポカッと叩いた
「おらんわ、ボケ。これから男関係をきちんと清算して、ゆっくり考えます」
浅田さんが口を開いた。
「そういや斉藤から、新しい男に告白されたとか聞いたけど」
「さいとォォォォーーっ」
殴りかからん勢いで襟元をグイっと掴むとさいちゃんはヘラヘラ笑いながら「そのままチューして」と言ったので、思いきり頭突きをした。
「告白はされましたけど、その時点で私、人妻やってましたからね。受け取るだけ受け取っておきましたけど」
「偉いな。斉藤も見習って、妹1人に絞れよ」
「そうだよさいちゃん、いい歳なんだからさぁ」
さいちゃんは私より3歳年上だ。そろそろ遊んでばかりいられない年齢になってくる。
「でもねーどの妹もそれぞれいいところがあるんですよ。なかなか1人に絞るのはねぇ。難しいんですよ、浅田さん」
同じだ、と思った。さいちゃんも捨てる事が苦手なんだ。拾うだけ拾って、愛着がわいて、捨てられないんだ。
でもそれって、相手の為にも自分の為にも優しくない。今はそれが分かってきた。
職場に戻る道すがら、並んで歩くさいちゃんの肩をポンと叩いて「一緒だな」と言った。
さいちゃんんは「え、何が?」と不思議そうな顔をしていた。
知り合いが山下公園の近くにカフェを出店したから一緒に行かないか、とハルさんから誘われた。仕事を終えた夕方、最寄駅で落ち合った。
「この暑さ、いつまで続くんだろうなぁ」
タオルハンカチで汗を拭いながら、ハルさんは顔をしかめた。
「まだ8月だもん。これから残暑の9月が待っておるぞ」
暑さには強い私でも、舗装路から立ち上る熱は不愉快で、日陰を選んで飛ぶように歩いた。後ろから来た自転車にベルを鳴らされ、ハルさんに腕を引かれた。
「危ないよ、子猫ちゃん」
「危うく自転車に轢かれて死亡、なんて記事になるところだったよ」
駅から暫く歩いた静かな川沿いの道に、小さなカフェがあった。そこの店長さんらしき女性にハルさんが右手をあげて挨拶をする。店内はアンティーク雑貨が飾られていて、夜はお酒も出すんだろう、カクテルの類が置いてあった。素敵なお店だ。
「店長さんが、前からお世話になってる美容師さんだったんだ」
「え、美容師やめてカフェやってるって事?」
「うん」
終始にこやかに接客している店長さんは、暫くするとメニューを持ってこちらへやって来た。
「高田さん、彼女いたんですか?」
「はい、ミキちゃんです」
だーかーら、彼女じゃないからっ。
「お客さんいっぱい入っちゃってゆっくり話が聞けないんですけど、どうぞゆっくりして行ってくださいね」
ニコッと笑って店長さんは席を後にした。
「それにしても、カフェってのはコーヒー1杯で幾ら取るんだよ。うっかりコーラも頼めねぇよ」
確かに、個人経営のカフェだと、コーヒー1杯でも良いお値段がするのが普通だ。
「まぁ開店祝いって事で1杯頂いて、後で安い居酒屋かなんかで飲みなおそう」
「ミキちゃん、おっさんみたいだね」
「よく言われる」
その後、近くの居酒屋へ入った。地下にある、こじんまりした居酒屋だった。
「そうだ、報告しとかにゃ」
枝豆を房からぽんぽん取り出してから、ハルさんに視線を移した。今日はカウンター席なので、顔が近い。とても、恥ずかしい。1度視線を合わせて「失敗した」と思った。
今日はずっと前を向いていようと、視線を戻す。
「旦那に、離婚したいって、言ったんだ」
ハルさんはビールジョッキを暫く見つめていた。ジョッキから結露した水がコースターに吸い込まれる。
「それ、喜んでいいのかなぁ、俺」
「ん」返事に困ってしまい、声にならない声を出してしまった。
「ど、どうなんだろうか」
「ミキちゃんが離婚したからって、ミキちゃんには沢山の男友達がいて、俺はミキちゃんの恋人になれる訳ではないんだよね」
沢山って――私はどんだけビッチだと思われてるんだ。
「沢山なんていないよ。それに、きちんと面と向かって好きだって言ってくれたのは、ハルさんだけ」
枝豆をひと粒ずつ口に入れる。きちんと「好き」と口に出して言ってくれたのは、ハルさんだけだ。サトルさんは、サトルさんは身体だけで――。
「じゃぁあの日、俺にキスをしてくれたのは、どういう気持ちだったの?それこそ身体だけ?それとも俺の気持ちに応えようとしてくれたから?」
居酒屋のカウンター席で、随分とまぁ突っ込んだ話をする人だなぁと冷静な自分が頭の中で喋っていた。
「あの時も言ったと思うけど、私もハルさんに惹かれてるんだって。だけどあの時は人妻だったからどうしようもなかった。今は人妻じゃないから、自分の中でゴタゴタが落ち着いたら、ハルさんの気持ちに応える事は出来るかなぁと思うよ」
ふぅ、顔を見なくてもこんな話、恥ずかしくてダメだ。キャラじゃない。
今、絶対耳まで赤い。目の前にあるブラッディメアリーの赤を見つめる。
「ゴタゴタって何?そんなにゴタゴタしてんの?」
ブラッディメアリーを一口すする。トマトジュースをお酒にするなんて、考えた人、天才。
「まだ、旦那が離婚を了承した訳ではないし、例の、身体だけの男友達との関係を清算しようと思ってるし、前々から約束してたフェスに男友達と行く事になっているし。そういうの全部終わらせて、汚点なしの私になったら、ハルさんの所に行けるかなって」
ハルさんがつついたホッケを箸で挟んだまま私の顔を覗き込んだ。
「顔が赤いねぇ」
「お酒のせいだな」
そりゃこんな話してたら顔も赤くなるわ。
その後は、離婚したらどこに住むとか、ハルさんの就職活動状況とか、そんな話をしながらお酒を飲み、店を後にした。
山下公園まで歩いた。夜の山下公園には、夏のじっとりした潮風が海の匂いを運んでいた。遠くに見えるベイブリッジの下を通過する船が見える。実際近くで見たら、凄く大きな船なんだろうと、考える。
岸壁に並んで海を眺める。水はお世辞にも綺麗とは言えないが、夜景はそれなりに綺麗だ。特に、遠くを行きかう船の明りは、蛍の様にぼぉっと光っていて綺麗。こういう夜景は、視力が少し弱いぐらいが、綺麗に見える。
ハルさんが、手を握った。全身の血液が重力に抗って上へ上へと上がってくる。あぁ、また赤くなっている。
「新潟、今週末?」
「うん。土曜の飛行機」
「何も、無いよね?」
「何もないと思ってて」
ひまわり太一君は、私にそういう類の感情は抱いていないだろう。私は、ひまわり君の様な彼がいたらいいな、と思った事はあるけれど、彼はきっと――。うん、ないない。
「俺は、ミキちゃんと旦那さんの間にきちんと離婚が成立するまでは、絶対に身体に手を出さない。ミキちゃんに不倫はさせない」
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