47 冷酷な熱



 そして数日後、最寄駅でサトルさんと待ち合わせた。平日の夕方だった。
 前日から雪が降っていた。多少積もってはいたが、今日は積もる程降らず、空から細かい紙ふぶきが落ちてきているような雪だった。
 サトルさんはカフェの紙カップを片手に、駅の改札に立っていた。右手を挙げるとこちらに気づいて、走り寄ってきた。
 「どうも」
 「どうも。離婚したって?びっくりしたよ。何がどうしたの?」
 それから家までの道程、離婚した事について話した。
 そして今、ハルという彼氏がいる事も。

 「はい、ここが我が家です。どうぞ」
 寒々しい金属製の玄関を開けると、サトルさんが「おじゃまー」と言って部屋に入った。
 ぐるりと見渡し、奥の寝室まで進み、居間に戻ってきた。
 「へぇ、結構広いんだね。駅から遠いけど、良い部屋じゃないか」
 「家賃もそれ程高くないし、歩くのは嫌いじゃないからね。コーヒーでいい?」
 「俺コーヒーまだ入ってるから、ここに」
 持っていた紙カップを持ち上げて示す。「冷めちゃってない?」と訊いたが「いいよ」と言った。

 サトルさんはベンチに腰掛け、私は隣に座るのが憚られたので、床に敷いているラグに腰掛けた。
 「新しい彼氏とは、うまくいってるの?どんな人なの?」
 紙カップをぐるぐるとゆすりながらサトルさんが訊いた。
 「うん、今までに無い感じの、凄い優しい人。うまくいってるよ。私には勿体ないぐらいの人」
 サトルさんを見上げると、笑顔を見せた。
 「そうなんだ。良かったじゃない」
 「んまぁね。でも風邪でも引こうものなら、毎日でも看病に来るからね。浮気でもしようものなら確実に殺される」
 ハハッと短く笑ったサトルさんは紙カップをテーブルに置いた。

 「優しい彼なんだね。俺もこの前、過労で入院してさ」
 「へ?過労で?」
 うん、と口元に寂しげな笑みを残したまま続けた。
 「過労で。情けないよ。彼女にも迷惑を掛けちゃったよ。看病できる人なんて他にいないし」
 頭を鈍器で殴られるって、こんな感じなのかな。
 何度聞いても、サトルさんの口から出てくる「彼女」という言葉は、私の頭を締め付け、心を深く抉り取る。するだけ無駄な嫉妬をしてしまう。
 「大変、だったね。うん、サトルさんも彼女さんも」
 彼女さん、って何だ。何で「さん」付なんだ。

 「あ、寒いね。ちょっと暖房強めよっか」
 間仕切り戸を閉めて、電気ストーブを「強」にした。PCを立ち上げて、音楽を流した。その間、二人の間には沈黙が流れていた。
 沈黙を破ったのはサトルさんだった。

 「そうだ、俺も遂にフェスデビューしたんだ。夏に、沖縄に行ってきた」
 意外だった。サトルさんはそういう祭りの類を好きこのみそうもないと思っていたからだ。何かこう、クラブイベントぐらいにしか行かなそうな、勝手な想像。妄想。
 「沖縄でやってるんだ、ジャンルは?」
 「テクノがメインだねー」
 誰と?とは訊かなかった。答えは見えている。自分から傷口に塩を塗るのは御免だった。

 「ねぇ、ミキ嬢」
 改まって呼ばれ、「へ?」と腐抜けた返事をした。
 「まだ、幸せそうに笑わないんだね。初めて会った時みたいに、キラキラ笑わないんだね。どうして?離婚してもまだ、何か辛い事があるの?」
 アンタだよ、もう。なんて言えない。

 「大好きな人が他に、いるんだ」
 「そうなんだ。どんな人?」
 アンタだよ、もう。だから言えないって。
 「凄く大人な人。絶対に手の届かない人。彼女がいるんだ」
 「好きって、伝えたの?」
 「伝えてないよ。負け戦だもの」
 「言わないで後悔するより、言って後悔した方がいいよ」
 「うん――」
 空気読もうよ、おーい。

 「でもね、こういうの、もうやめようと思って。
 好きな人を一杯拾い集めて、一杯関係を持って、捨てられないまま自分を追い詰めちゃうの、もうやめようと思ってるの」
 「ん?具体的には?」
 サトルさんに続きを促される。

 「もう、好きな人には合わない事にする。関係は断ち切る。そして今の彼と、笑い合えるようにする。心からね」
 うん、うん、とサトルさんは2度頷いた。

 「じゃぁ俺が今、ミキ嬢の隣に行って抱こうとしたら、ミキ嬢は拒絶する?」
 返事に困った。実際にそうされたら、身体を許してしまうような気がする。そうされるまえに返事だ。
 「そうだね、やめろコンチクショーって言う」
 フフッと短く笑ってサトルさんは言った。
 「そうだよね。変な事訊いてごめんよ」
 無言で頷いた。もう、この人は一体何をしに来たんだ。セックスか?セックスなのか?
 さて、と言ってサトルさんは立ち上がった。

 「コーヒーも飲んだことだし、ミキ嬢の近況も聴けたし、そろそろ家に帰るかな」
 これで最後になるかもしれない。死ぬまで、死んでも会えないかも知れない。好きで好きで、大好きだったサトルさんに。
 玄関に向かうサトルさんの背中を目に焼き付ける。
 痩せた身体からは想像がつかない、しなやかに筋の張った背中。最後にこの手で触れたのはいつだったか。

 「帰り道、分かる?」
 「何となく分かるよ」
 玄関を開けると、紙吹雪の様だった雪が、大粒の雪になっていた。マシュマロみたいだった。本降りだ。

 「サトルさん、ひとつ、お願いしてもいい?」
 「どうぞ」
 「ハグ、して欲しい」
 「うん、いいよ」

 冷たい空気に包まれた身体を、サトルさんの腕が包み込む。頬と頬が触れ合う。いつか見た光る白い雪は、今は見えない。灰色がかった雪の塊が、そこらじゅうに点在している。そして目の前を雪がはらはらと落ちて行く。

 あの日、あの瞬間を、私は忘れないだろう。
 白く光る雪。長い口づけ。甘い空気。

 短くキスをした。酷く残酷な、最後のキスを。

 「ありがとう」
 そう言うとサトルさんは笑いながら言う。
 「大げさだなぁ、何かもう会えないみたいな感じになってるけど」
 返事に窮したが、何とか静かな笑顔で返した。
 「それじゃ」
 サトルさんは雪が降る中、書類ケースを傘代わりに歩いて行った。傘を貸す事はしなかった。また、会う口実が出来てしまうから。


 部屋に戻り、携帯を取り出した。言えなかった事。言わなければ終わらないから。

 『今日は遠い所どうもありがとう。久しぶりに会えて、嬉しかったです。
 私はサトルさんが好きでした。初めて会った時から好きでした。だけど手の届かない人だと思っていました。傷つくのが怖くて、なかなか好きって言えなかった。サトルさんがどういう気持ちで私を抱いているのか、ふわふわしていて掴めなかった。
 いつか見た白い雪を、私は一生忘れません。もう、会う事は無いけれど、ずっとあなたを想い続けると思います』

 送信ボタンを押す指が震え、何度も躊躇った。
 終わらせるんだ。今日で終わりにするんだ。
送信ボタンを押した。

これで終わったんだ。私が持っていた要らない物は全て、捨てたんだ。

 『新生活、楽しめているようで何よりです。
 俺の事が好きだなんて、言ってもらえて嬉しいです。つくづくタイミングの神様に見放されてるね、俺たちは。
 ミキ嬢は今の彼と幸せを掴んで下さい。俺は、今の彼女といつまで続くか分からないけれと、幸せだと言える毎日を送ろうと思っています。
 心から楽しそうに、嬉しそうに笑うミキ嬢が俺は、大好きでした』

 携帯から、サトルさんのアドレスを消去した。それまで下睫毛に支えられていた大粒の涙が、重みに耐えられず、ほろりと三粒零れた。慌ててティッシュで拭った。


 その日の夜、ハルが家に来た。

 「あれ、誰か来たの?」
 玄関からスタスタと居間に入ってきた。いつもは散らかっている私の部屋が、綺麗に片付いているのに気付いたらしい。
 「うん」
 私が俯きがちに返事をしたので、何かに気づいたらしかった。
 「例の、身体だけの人?」
 ベンチに座る私の隣に、腰掛ける。
 「うん、ごめん。前もって言っておくべきだった」
 ハルは項垂れて「んだよ、くそっ」と呟いた。

 「ごめん」
 「謝るなよ、何かしたのかよ」
 「何もしてない」
 「じゃぁ謝るなよ。前もって言ったって同じだよ。何でそんな男を家に上げるんだよ。」
 「ごめん」

 謝る事しか出来なかった。沈黙が流れる。何か言い訳を探した。ハルが顔を上げるのが雰囲気で伝わった。
 「何しに来たんだよ」
 「近況報告?」
 「メールでやれよ」
 「はい」
 「あ、メールもするな」
 「はい」
 俯きながら、何とか言葉を紡ごうとする。

 「あのね、近況報告して、今後一切会わないって約束した。私は、今の彼と幸せにやっていくからって、約束したの――」
 暫しの沈黙があり、そして張りつめていた糸がぷちんと切れる音がした。ハルの手が、私の頭にポン、と乗った。そして頭を撫でた。

 「初めから、そう言ってよ。心配になるじゃん。今後は俺以外の男を、許可なく部屋に呼ばないんだよ」
 「イエッサー」
 見つめ合って、暫くして、2人吹き出した。そしてキスをした。



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