8 バクチ



 サトルさんからの連絡は2週間経ってもなかった。

 その代り、意外な人から連絡が来た。テツだった。
 テツは、ユウの親友で、私の家のすぐ近くに住んでいるので、時々2人して公園のベンチでお酒を飲んだりした。
 そのテツから電話がきたのは、ベッドにごろ寝しながら今までに来たサトルさんからの携帯メールを読み返している最中だった。

 「ミキちゃん?」
 「テツ君かい、久しぶりだねぇ」
 「電話出るの、早っ。今いい?」
 寂しさを紛らわすために付けていたテレビの、電源を消した。
 「どぞ」
 「ユウが、会いたいって言ってるんだけど、どう?」

 突然の話に狼狽えてしまって声が裏返った。
 「え――、何を今更。だって彼女いるでしょうが」

 会いたい理由は何だろう、返したいものでもあるんだろうか。貸してる物なんてない筈。
 「いや、その辺はユウから聞いてよ。とにかく会いたいんだって。
 今時間あったら、ユウに言っておくから、ユウの家まで行ってくれないかなぁ?」
 「話がある方から出向くってのが定石じゃんかっ」
 テツに怒っても仕方がないことなのだろうが、よく呑み込めないこの状況に対し、何となくイライラしてしまった。テツは電話の向こうでため息を吐いた。
 「お前ん家の前に車停めておくのを、ご両親に見られたくないんだとさ」
 うちの母はユウの車を何度も見たことがあり、私がユウに振られてウサギになる姿も見ているので、ユウの車を見かけたらボンネットに漬物石でも落としかねない。バイオレンス・マザー。

 「じゃぁ迎えに来いって言って。今なら両親いないから、さっさと」
 「おぉ、怖いですなぁ。その言い方でそのままに伝えるよ」
 「頼んだ。伝令ありがとう」

 何の話があるのか、皆目見当もつかなかった。ただ、電話やメールで済ませればいいものを、わざわざ呼びつけるとなると、何か重要な話なんだろうという事は想像に難くない。

 10分も経たずに、家の前に聞きなれた車のエンジン音がした。夏のわずかな風も逃さぬように開け放っていた部屋の窓を、全部締めて回り、携帯だけを手に外へ出た。

 ユウは車から出ようとしなかった。私が車の前に立っていると、助手席のドアが開いた。この車はタクシーか。
 「こんばんは」
 ユウから声を発した。いつものユウの声だった。
 「こんばんは。用件は?」
 極めて事務的な声で質問した。ひぐらしが鳴いている。
 「俺ん家行って、話したいんだけど」
 「それ、行くだけの価値がある話なんですか」
 「俺にとっては」
 「俺様だな、全く」
 そう言って助手席に乗り込んだ。居心地の悪い助手席。

 車中は沈黙が流れ、スピーカーから流れる音楽がその沈黙から救ってくれていた。私は車窓から外を眺めていた。
 冷静に対処するんだ、そう思う反面、心の中はざわざわと五月蠅い音を立てていた。


 ユウのお母さんに「こんばんは」と挨拶をして、部屋のある2階へ上った。いつもならベッドに腰掛ける所だが、今日は床に座った。
 「はい、用件どうぞ」
 「酷く冷たいねぇ」
 「夏仕様です。涼んでよ」

 ユウはコンポにCDをセットして音楽を掛けた。この部屋に何度来ただろう。もう二度と来ることはないと思っていた、ユウの部屋。ベランダで吸う煙草の匂いは、部屋にも染み込んでいる。

 ユウはベッドに腰掛けた。丁度私の真後ろだ。すると突然、後ろから頬に触れられた。大きな掌は熱を持ち、冷え切った私の皮膚に熱を与える。髪にキスをされた。咄嗟に頭を避けた。掌は離れない。
 「何してんの、アンタ。酷暑でおかしくなったのか」
 「やっぱミキのそのツンツンな感じが好きなんだよ」
 そう言って、頬にあった手のひらを、Tシャツの中に入れてきた。

 「やめて、生理だから。それに、する気もない。彼女はどうした?」
 「別れた」
 ユウの低い声が、更に低くなった。
 「なんで?」
 「わかんない」
 Tシャツから手を抜き、肩に手を置いた。肩からユウの熱が入り込む。この人の掌は、大きく、熱い。
 「お前の事が忘れられなくて、お前の話ばっかりしてたら、振られた」

――おおぉっと、意外な展開だ。
 動揺した。動揺を悟られまいと、ユウの顔は絶対に、見ない。ユウの起こした大波に揺られていきそうだ。テトラポットから手を放すんじゃないぞ、自分。
 「そ、それは残念だったね。生憎、私は好きな人がいる。時すでに遅し、ってやつだ」
 ま、好きだけど、一方的に好きなだけ。
 「田口か」
 「ちがーう、断じて違う。ユウの知らない男の人だよ」
 そう、ユウよりも数段大人で、落ち着いていて――ふわふわで、何を考えているのか読めない人。

 「付き合ってるの?その人と」
 「付き合ってないよ。一方的に好きなの」
 カーペットの毛羽立ちを撫でた。撫でた部分だけが色を濃くした。夏にカーペットって、暑くないのかな。そんな事を考える。

 一方的に好きな、連絡もくれない人と、好きだと言ってくれる、かつての人。
 横並びに並べられない。どうしたらいいんだろう。
 「俺はいろいろ考えた結果、お前の事がやっぱりこの世で1番好きだと思ったの。代わりはいないの。お前はもう、俺の事は嫌いなの?」
 「――嫌いじゃない、よ」

 嫌いじゃない。嫌いな訳ないじゃないか。何処にいても、ユウの事が頭をよぎってしまって困っていたぐらいだ。桜と共に散ってしまえと思っていたのに、散らずにドライフラワーのように固定してしまったんだ。嫌いな訳がない。忘れようとしても、忘れられずにいるんだから。振り払おうとしても、まとわりついてくるのはアンタでしょうが。
 やっぱり、ユウの事が好きなんだ。顔を見て、声を聞いて、触れられてしまうと、それまで頑なに頭から排除しようとしていた存在を、自分の手元に引き戻したくなる。肩に置かれた手の上に、私の右手を重ねた。
 「ユウの事は好きだよ。忘れられなかったよ。でも私はいまだに門限を守る堅い子だし、普通の女子みたいに小奇麗にしてないし、何より他にも好きな人がいる」

 そこが問題だった。好きな人が他にもいるのだ。それがなければ、大手広げて、股まで広げて大歓迎だったかもしれない。
 「他に好きな人がいてもいい。今迄のミキでいい。俺の事好きならそれでいい。だからまた、俺の傍にいてよ。彼女になってよ」

 返答に困った。目を瞑った。ユウを選んだら、サトルさんへの思いは消えるのだろうか。消えなかったら――いや、ユウを選ぶのなら、サトルさんへの恋心は消さなければ。二股をかけるなんて、とんでもない。もともと、叶うはずのない恋だった筈。何より、肩に置かれたユウの手から伝わる熱が、私の旺盛な欲望を刺激してしまっていた。あぁ、何たるビッチ。

握った右手に力を込めた。
 「今度裏切ったら、殺すよ」
 「裏切ったらって何?」
 「私を怒らせたらぶっ殺すって事だ」
 後ろを振り向きユウに抱き付いた。そのままベッドに倒れこんで、半年ぶりに抱かれた。

 生理だなんて、嘘だった。



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