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―ニ― 久野智樹

「じゃぁあれだ、自己紹介だな」
 既に仕切り役になっている至(いたる)が手の平を鳴らす。さっき塁(るい)が持っていた白い名簿をクリアファイルごと奪うと、そこに書かれた名前を確認し「じゃぁ君枝ちゃんからどうぞ」と促す。彼女はさっと頬を赤らめ、おかっぱの髪を両手で撫でつけた。
「えっと、あの、矢部君枝です。君達のきみに枝のえ」
「じゃぁ、あだ名は、やべくん、だな」
 平坦な声で塁が横槍を入れると、「やめてください」咄嗟に彼女は拒絶した。
 初対面の女の子に向かってあだ名が「矢部君」はないだろう。俺はそう思う。だが塁の事だ、咎めても無駄。女の子と俺をからかう事は奴の得意技。心は中二の夏休みのような奴だ。
「文学部。趣味は読書と映画鑑賞、出身はこの辺りです」
 彼女はそれだけ言うと、俯いて黙り込んでしまった。一時的な沈黙にエアコンの稼働音だけが時間を進行させる。
「ねぇ、これって俺達も自己紹介すんの?」
 塁は至から奪い返した名簿用紙の裏に、いたずら描きをしながら誰ともなしに質問をした。クリアファイルを下敷き代わりに、何か描いている。ちら、その紙を覗いてみると、フレームが細い眼鏡の絵だった。
「俺は寿至。理学部で、高等部では野球やってましたー」
 腹の底から出る声が、この男の特徴だ。笑うと迷惑なほどの大きさに膨れ上がる。親分肌で、厚かましさの欠片もなくその場を取り仕切る事ができる人間。俺は至の事を尊敬している。欠点といえば、優し過ぎる事と、鈍過ぎる事だろうか。要は、名前の通り、おめでたい奴なのだ。
「じゃぁ次は俺ね。太田塁。芸術学部。高等部の時は野球やりながら絵を描いてました。はい次ー」
 彼女は上半身ごと何度も頷いて、おかっぱの髪を揺らしている。こんな形ばかりの自己紹介でも、真剣に聞いてくれる態度に好感を持つ。
 いたずら描きに使っている鉛筆で「次」を任された俺は、居住まいを正し、一度空咳をする。
「久野智樹、理学部。趣味は君枝ちゃんと同じ、映画鑑賞。高等部では二人と同じく野球を」
 知っている奴が二人もいる中でする自己紹介とは、恐ろしく恥ずかしい事だと実感する。そもそも、これでは彼女に名前も何も覚えてもらえないのではないかと心配になる。三人とも高等部を出ていて、三人とも野球をやっていて、二人は同じ理学部。共通点が多過ぎる。
 それでも物覚えの良いと見えた君枝ちゃんは「下の名前でいいの?」と確認しながら「至君、塁君、智樹君だね」と完璧に呑みこんでいた。これには恐れいった。

「おい、塁、なにやってんだ?」
 至が塁の手元を覗き込むと「矢部君の眼鏡描いてる」と君枝ちゃんを早速「矢部君」呼ばわりした。君枝ちゃんは立ち上がって塁の背後に回り込むと、紙に視線を落とす。
「凄い――」
 別段特徴の無い眼鏡なのに、君枝ちゃんが今装着している眼鏡と分かる、モノクロの絵を見て、君枝ちゃんは思わず感嘆を漏らした。
 塁の芸術的センスは素人目でも優れていると判る。本当は芸大に入りたかったらしいが、親を亡くして親戚に引き取られた塁は「奨学金で通える範囲」と言われ、仕方が無く高等部からそのまま進学した。
「塁君、芸術学部だっけ?」
「塁、でいいよ。呼び捨てで。芸術学部の美術学科」
 描き終えた傍から消しゴムで消している。こうやってよく、高等部の授業中にも、教師の顔をデフォルメして描いたり、俺の顔にボールをぶつける絵を描いたりしていたのを思い出す。
「至君と智樹君は理学部だね」
 笑顔で大口を開ける至の横で、俺は至って無表情で頷く。が、俺の無表情の裏で、心臓が口から飛び出そうになっていた事に気づいた者は居ないのであろう。
 俺は眼鏡を掛けた女性が無条件に好きだ。高等部から付き合っている理恵にも、伊達眼鏡を買わせた程だ。眼鏡を掛けている、それだけで俺の評価は跳ね上がる。

 突如、脚を下ろした塁が立ち上がる。先程の椅子に腰掛けている君枝ちゃんの目の前に跪くようにしゃがみ込んだ。と、あっという間に彼女の眼鏡の弦に手を伸ばし、それを外す。
 君枝ちゃんは逃げる様に身体を後ろに反らせ、呆気にとられているが、事を起こした張本人である塁は、呆気にとられている彼女をじっと見つめている。穴が開く程。数ミリ位は穴が開いたかも知れない。
「矢部君、眼鏡外した方が可愛いよ」
 眼鏡を掛けている女性が大好きだ。そうカミングアウトが出来たらどんなに楽か、今まで何度もそう考えていた。しかし俺は、いつの間にかクールなキャラで通っていた。まさか眼鏡の女性に萌えるなど、死んでも口に出来ない。
「ちょ、返して、見えないから」
 相当目が悪いのであろう。眼鏡を掴もうとする手が、なかなか眼鏡に届かず、中空を掻く。やっと届くと塁から分捕って、再び眼鏡を掛けた。
 似合う、似合わないは別にして、やはり眼鏡を掛けた女性は素敵に見える。俺は眼鏡の女性が大好きだ。そう思いながら満足気に、眼鏡を再び掛けた君枝ちゃんを見ていた。
「私、運動してこなかったし、コンタクトにする必要性も無いからずっと眼鏡なんだ」
「地味に見えるよ、眼鏡」
 塁に一発拳を入れたい衝動に駆られる。地味でも何でもない。実際、彼女が眼鏡を外したら、それこそ地味になってしまうような気がする。それは失礼だから言わないでおいた。
「まぁまぁ、ここは眼鏡研究会じゃないんだから」
 諫めるように言う至に、塁が「だったら何すんの、具体的に」と放る。至は腕組みをすると低く唸り、特に着地点も無いといった態であっけらかんと言う。
「何をするかはこれから追々決めるとして、とりあえず講義が終わったらここに集まろう」
 その場で頷く面子のうちで、君枝ちゃんだけが困ったような顔をして頷き損ねている。
「あの、もう一人か二人、女の子、誘わない?」
 チェックのスカートの裾を握りしめながら、各人の顔を覗き込んでいる。
「それもそうだな、じゃぁ矢部君、適当に誰か誘ってきてよ。言い出しっぺだし」
 塁の無茶ぶりに君枝ちゃんは更に困った顔をしている。サークル勧誘の時にだって一人で真っ直ぐ校門に向かっていた子だ。友達なんている筈もない。何か手伝える事は無いかと考える。
 しかし、俺がもし高等部上がりの女の子を誘って、それが理恵にバレたりしたら――。
「君枝ちゃん、頑張って」
 俺は申し訳ないと思いつつ、彼女に目線を遣らずにそう言った。
「矢部君、期待してるよー」
 塁の後頭部を一発殴った。