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―三― 太田塁

 大学に進学したら、何か変わるなんて、そんな事を期待していた訳ではない。
 少なくとも、真っ黒な学ランの立ち上がった襟を鬱陶しく思ったり、第二ボタンの奪い合いに巻き込まれたり、「美術」という名の不可解な授業を受けなくて済むだけでも、俺にとっては幸せな事かもしれない。
 高校の美術の授業は最悪だった。俺は進んで美術を選択したが、他の奴らはそうとは限らない。「音楽と書道が嫌だから美術」と言っている奴が殆どで、奴らが作り出す作品は駄作ばかり。
 俺が抜きに出て優秀だとは思わない。だからこそ、俺より優秀な奴がいる場で俺は、勝負したかった。こんな理由で芸術学部に進学したのだ。
 だからと言って、勉学にばかり励もうとは思わない。中等部からの腐れ縁である至や智樹と「思い出作り」の為にサークルを立ち上げる事になったからには、サークル活動を楽しもうと思っている。奴等には絶対に言ってやらないが、俺は奴等が大好きなのだ。
 それにしても、一昨日加入した矢部君枝は地味だ。俺はベッドに横たわり、脚あげ腹筋をしながら考える。何故、彼女を勧誘したのだろう。
 地味を絵に描いたような地味な女だ。眼鏡を外してやったらそれなりの顔になるから、俺は眼鏡が無い方が可愛いと言ってやったのに、聞き入れなかった。「可愛い」とまで言ってやったのに、コンタクトにする気はないらしい。俺の美的センスはあまり信頼されていないようだ。
 野球をやっていた頃に比べると、筋力が明らかに落ちた。脚の上げ下ろしをしていると、腹筋が笑う。俺の腹筋はこんなものだったか。何気なく、日課として筋トレをするようになったのは、中学の頃からだ。体格に恵まれて、尚且つ寡黙でクールな智樹に追いついて、追い越したかった。奴は見た目も中身もクールで野球のセンスも抜群。俺はそれが悔しくて、毎日筋トレを欠かさなかった。
それに、美大専門塾に通っていたような、ひ弱な美大生とは一緒にされたくないから、野球をやめてからも継続している。

 矢部君の他にも、もう少しマシな女の子が入ってくればいいと思う。まぁ、俺はサークルでの出会いなんて物は期待していないし、女には然程興味が無い。しかし、サークルで思い出を作っていくなら、男女比は一対一に近いに越した事はない。
 しかし何故だろう。女に別段興味のない俺が、あの粗末なテーブルにおずおずと近づいて来た、地味な矢部君の瞳の中を覗いた時の、何かひやりとした感覚に目も心も奪われた。俺はそれを凝視し、彼女はすぐに俯いてしまった。あの瞳が、忘れられない。だからこそ、彼女を勧誘したのだろう。もっと良く見えるように、眼鏡を外して欲しいのだ。
 天井まで伸びる本棚から、立てかけてあったスケッチブックを手に取ると、机から鉛筆を持ってきてベッドの縁に腰掛けた。削りたての鉛筆は絵を描くにはしっくりこないから、スケッチブックの左端に少し、芯に角度をつけるようにこすり付ける。
 あの瞳を思い浮かべる。彼女の顔を思い浮かべる。少しずつ線を描き足し、顔の輪郭が出来上がる。丸い輪郭。目と鼻はこの辺りだっただろうか。
 髪は肩程の黒髪だった。智樹の髪の様にさらさらしていた。名簿に名前を書く時に、甘い香りが香ったのは、シャンプーだろうか。香水をつけるような女には見えない。
 口と鼻を描き、耳は半分髪に隠した。眼鏡は描かない。
 最後に、目を、瞳を描いた。少しずつ、少しずつ瞳を描いていくが、あの冷りとした感覚がする瞳が、どうしても描けない。本人を目の前にしたら、或いは描けるのか。何度も何度も、瞳だけを消し、描き直すが、思い描いている彼女の瞳に近づく事ができず、苛立つ。
 結局、全部を消しゴムで消す事も無く、中途半端に描き上げた一枚の紙をスケッチブックから剥がし、丸めてゴミ箱に投げた。
 腕は鈍ったものだ。コントロールミスにより、紙で出来たボールはゴミ箱の縁に当たって飛び落ちた。
 あいつなら、確実にゴミ箱へインしていただろう。何でも完璧なところが気に入らない。何でも完璧なところに心惹かれる。