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 黒谷君の長い指がパソコンのキーを叩くのに見惚れてしまって、何の説明をして貰っていたのかすっかり頭から欠落する。
「という感じで、これが全所に送られる仕組み。オッケー?」
 はっ、として、ごめん、と零す。
「もう一回、いい?」
 あくまで自然に、まるで耳に届いていなかった風を装って。まさか見惚れていたなんて気づかれたら手に負えない。彼はふっと短く笑って「男の事でも考えてんだろ」なんて漏らす。
 強ち間違っていないので否定できないでいると、また溜息みたいにふっと笑う。黒谷君の長い指先に見惚れていたなんて、口に出せる訳がない。
「じゃぁもう一回、さっきの画面に戻るよ。そんで」
 今度こそきちんと聞き洩らさないよう彼の声に耳を傾け、低くてよく響く声に聞き惚れながら、彼の動きをメモに取る。
「大丈夫、メモしといた。次は?」

 十月付の異動で、経理部から総務部に異動になった。異動を希望した訳ではないが、後々本社で働きたい事を部長に相談すると、こんな処遇となった。総務部は組織が大きく、同期社員が私を含めて五人も在籍している。働きやすい環境であはるだろう。
 総務部長からの指令で、私の教育担当をする事になった黒谷岳(がく)君も同期の一人だ。全身から魅力的なオーラと色気が流れ出ている男。そんな色男を周囲の女が放置しておく筈も無く、数多の争奪戦が繰り広げられた後に彼を手中に収めたのは、同じ総務部で働く添島奈々美だった。
 添島奈々美はこれまた全身から魅惑的なオーラを垂れ流している女で、ただし女受けの悪い女というべきか、中身は褒められたものではない。争奪戦に参加しなかった私の耳にさえ、彼女の悪評は流布された。一言で言えば「性格が悪い美人」という事だ。黒谷君はその事を承知した上で交際をしているのかどうか、私は知らない。

「あとは、倉庫だな。ちょっと鍵とってくるから待ってて」
 黒谷君にそう言われ、私はまだ見慣れない部屋をぐるりと一回り見渡した。カチリ、とパズルのピースが嵌まるように、私の視線と合致したのは、添島さんの鋭く射るような視線だった。覚悟はしていた。黒谷君が教育担当になった時点で、添島さんには疎まれる存在となる事を。それにしたって獰猛な猛獣のような目つきでこちらを見据えるので、ほんの数秒、私は目を離せなかった。目を離した瞬間になぜか息切れをしていた。息を止めていたらしい。
「お待たせ。あぁ、鍵の場所も教えておくんだった。こっち」
 彼の後ろをついて行く私の背中に、視線が刺さったままである事は振り向かずとも分かる。やむを得ないではないか、彼を教育担当に指名したのは部長なのだから。私は何も悪くない。

 入社してしばらくしてから開催された同期会の席で、偶然黒谷君と話す機会があった。私は同期会開始から席を動いた覚えがないし、意識して彼の隣に座った記憶もないので、恐らく彼が自ら私の隣に移動してきたのだと推測する。その時には既に、添島さんと黒谷君が交際している事を知っていた。隣に座った黒谷君とは他愛もない話をした訳だが、途中でスルスルとストッキングを滑らせるように近づいて来た添島さんが「がくぅ」と甘えた声を漏らし彼の腕を引っ張って去って行った。その時の視線も私の記憶に刻み込まれている。甘い声とは対照的な、先程私に向けられたあの獰猛な視線だった。
 黒谷君に対して特別な感情を抱いている訳ではない。それでもこうして近くで仕事をしていると、彼の一挙手一投足が気になってしまう。彼は女性をそんな風にしてしまう魔力を有しているのではないか、そんなフシがある。
「在庫管理はこのパソコンでやってるから、持ち出す度にこのパソコンに入力してね」
 狭い倉庫に声が響く。低くてよく通る声が、更に響いて耳に届く。この空間に、黒谷君と二人きりだと意識すると妙に緊張し、メモを持つ手が揺すれる。
「楓ちゃんならすぐ覚えちゃうと思うけどね。経理ほど入り組んだ仕事じゃないから」
 楓ちゃん、と呼ばれる事も、添島さんの機嫌を損ねる原因になっている。黒谷君には「かえでちゃん」という姪がいるらしく、私の名前を聞いて即座に私を「楓ちゃん」と呼ぶようになった。
「こうやって並ぶと、楓ちゃんも奈々美と同じぐらいの身長なんだね」
 隣に接近して寄り添われ私は赤面した。「そうだね、アハハ」とかわして身体を離す。不自然だっただろうか。
「まぁ奈々美もいるし、俺がいない時に分からない事があったら同期が助けてくれるから。気楽にやってよ」
 そう言ってにっこりと笑みを投げられても、私はひしゃげた笑顔しか返せなかった。一緒にいると魅了される。女性達が争奪戦を繰り広げた理由が明快だ。



 昼休みのチャイムが鳴るとともに、ほうぼうで社員が伸びをする声が耳に届く。私も釣られるように大きく背を反らせて伸びをすると、隣に座る黒谷君の好奇に満ちた目が「疲れた?」と覗き込んできた。
「んまぁ、慣れないからね。まだ」
 そう言うと「食堂行くでしょ?」と廊下を指差すので私は頷き、椅子に掛けてあったカーディガンを着て立ち上がると、期せずして彼の横に並んだ。
 ドン、と音がしたように思う。それは私のすぐ隣で起こり、一瞬頭が麻痺状態に陥った。さっきまで隣にいた筈の黒谷君との間に、添島さんが割り込んでいる。肩にかすかな痛みがあった。
「あ、ごめん」
 添島さんが私に一瞥を寄越した。私にぶつかった肩を、汚い物にでも触れたように、手の平で払った。あからさま過ぎる彼女の行動に寒気を覚える。
 カーディガンのポケットに小銭を突っ込んで、そのまま手も突っ込んで、彼らの後ろを歩く。先輩が二人、私を挟むように並んだので、私は彼女らと雑談をしながら食堂に向かった。

「楓ちゃんはどの辺に住んでるんだっけ?」
 昼休みもあと五分ほどで終わる頃、隣に座る黒谷君はコーヒーを飲みながら私に問いかけた。コーヒーの香ばしい香りが漂う。
「長居駅から歩いて、五分ぐらいの所。黒谷君は寮だっけ?」
「うん、会社に近いって理由だけで。俺もそろそろ一人暮らししたいなぁと思ってんだけど」
 そうなんだ、とぼんやり返事をしながら、給湯器の傍に立っている添島さんを一瞥した。やはり、こちらを見ている。痛いほどの視線とはこういう事を言うのだと一人理解する。
「ほら、あの、添島さんと同棲するとか、そういう予定はないの?」
 彼は乾いた笑いを伴って「それはないよ」と言い切った。気を遣って投げた質問が、ハレーションを起こし、添島さんは鋭い眼差しを私に向けたまま、自席に戻って行った。
「今、後ろに添島さん、いたんだよ」
 私はごくごく小声で彼に言うと、彼は「あ、そういうの気にしなくていいから」と言い切った。
「彼女、嫉妬深いんだ。気にしてると頭おかしくなるよ。こっから異動していった片倉さん、彼女も奈々美の嫉妬でおかしくなって異動してったからね」
 まるで日常茶飯事のようにさらりと言う黒谷君を、珍しい物でも観るような目つきで凝視してしまった。
「何?」
「二人、付き合ってるんだよね?」
「そうだけど」
 私はそれ以上訊かなかった。彼らの関係に疑問符がつき始めたのはこの頃からだった。

「楓ちゃんの歓迎会、俺が幹事になったから」
 私は顔が引きつった。「え、そうなの」
「あれ、俺じゃ不満?」
 困惑した顔つきで私を見るので、手をブンブン振って否定した。
「そうじゃなくって。うん。全然。歓迎会なんてやらなくても、いいのになぁって」と口ごもる。
 そういう訳にもいかないよ、と言いながら検索サイトで居酒屋を検索している。
 きっと添島さんがまた、嫉妬するんだろう。とん、と両肩に手が置かれた。
「松下さん、どんな食べ物が好きなの? 何系? 和食?」
 その手の主は、添島さんだった。既に黒谷君が幹事になった事は承知しているようだ。彼女の手はブラウスを通してもとても冷たく、指先にはクラックネイルが施されているのが爬虫類を思わせ、ぞっとした。彼女と同じ空間にいると、息苦しさを感じる。
「別に何でも。皆さんにお任せって感じで。うん」
 だってさ、と黒谷君の肩に手を移し、彼の真横に顔を寄せて一緒にパソコンの画面を見ている。露骨過ぎる。社内恋愛だとしても、露骨過ぎる。先輩達は何も思わないのだろうか。片倉さんは私の一年先輩だ。彼女はきっと、彼らの露骨過ぎる社内恋愛に嫌悪感を抱いていたに違いない。だからこそ、おかしな横槍でも入れて、添島さんの反感を買ったのであろう。
 店が決定したのか、彼女のヒールの音が離れて行く。部署内でヒールのパンプスを履いているのは彼女のみだ。皆、ナースサンダルに似たローヒールの靴を履いている。だからこそ彼女が移動すると音ですぐ判別できる。それが同じ空間に存在する息苦しさを助長する。



 店内は騒がしかったが、良く通る低い声で黒谷君が「部長!」と手を挙げた。
 出張で不在がちな部長は歓迎会に遅れて到着した。
「ごめんねぇ、松下さん」
 私はビールジョッキから口を離し「いえ、お疲れ様です」と一礼する。今日の主賓は私なのだけれど、どういう訳かいつもの習慣で下座に座ってしまい、後々後悔した。幹事である黒谷君の隣になったからだ。向かいに空いていた席に、部長が座った。最悪なトライアングルだ。
「経理から総務じゃ、勝手が違って疲れるでしょ」
「いえ、まぁ。慣れれば大丈夫だと思います」
 そう言って強ばった笑顔を向けた。部長は満足げに頷いている。
「まぁね、黒谷君がついてれば大丈夫だ。何か君たちはアレだね、隣に座ってると美男美女のカップルみたいだなぁ。ねぇ、中野さん」
 部長は隣に座る中野さんに話を振ったが、その場にいた全員が凍り付いていた事に部長は気づいていない。唯一沸点に達していたのが添島さんだった。私はちらりと彼女を見遣ったが、端正な顔をひくつかせ、顔を真っ赤にしている。
 中野さんは小さな声で部長に何かを呟き、部長は驚いた顔で「そうなの?」と黒谷君の顔を見た。恐らく中野さんは、黒谷君と添島さんの仲について部長に話したに違いない。不在がちな部長は、何も知らなかったのだ。
 重い空気に居たたまれない気分になり、下を向いたまま小皿に乗った鶏軟骨をつついた。
「どうした? 具合悪い?」
 黒谷君に顔を覗きこまれ、動揺した私は声が出せず、手を振った。
「今日は楓ちゃんの歓迎会なんだから、どんどん呑んで、ほら」
 肩をトンと叩かれ、身体がびくんと跳ねる。思わず私は添島さんに視線を向けてしまった。ばっちりと合う視線。彼女の視線は痛い程に私を射抜いていた。私は何もしていないのだ。それなのに彼女の怒りを買う出来事が立て続けに続いている事が非常に不愉快だった。

 お手洗いに立った添島さんの後を追った。彼女が手洗いから出てきたところで声を掛ける。
「あの、さ、席、変わろうか? 黒谷君の」
「岳には『今日は楓ちゃんの隣に座るから』って言われてるの。変な同情しないでくれる? 気持ち悪い」
 口ごもる私の言葉を遮るように言う彼女は、汚い物でも避けるように私との間を十分にとって、席に戻って行った。
 黒谷君が私の隣に座ると決めていた理由に心当たりはなかった。教育担当だから、日頃から話す機会も多いし、雑談もしている。だからあえて飲み会の席で話す必要も無いような気がするのだが。
「楓ちゃん、お手洗い?」
 黒谷君はビール片手に少し頬を赤らめている。
「うん、あのさ、今日黒谷君、私の隣に座るからって、添島さんに言ったの?」
 彼は心底驚いたような顔をして口を開いた。
「何それ。そんなこと言ったら俺、あいつに殺されちゃうよ」
 その顔を緩めて笑う。まぁ呑んで呑んで、と瓶ビールをジョッキに注がれる。
 どちらが本当のことを言っているのかも分からず、私は眉根を寄せながら不格好な笑い顔をした。

「プレゼンの資料は、報告会の担当者のオンラインドライブに入れておいて、それを会議室に持って行くって感じだから。今月は奈々、じゃなかった添島さんのフォルダに入れておいて」
 添島さんの事を普段通り「奈々美」と呼びそうになるのを寸でのところで耐えたのが何だか可笑しくて、破顔してしまい、彼も困ったような顔で笑ってみせた。
「共通のドライブってここでいいの?」
 彼の方にディスプレイを向けると、彼は私の横に顔を寄せた。
「そうそう、そこのsoejimaってフォルダね」
 彼の顔が近づくと彼の暖かさが頬に伝わり、私は身体が固まった。絶対に添島さんに見られている、そう思ったが、あえて彼女の方を振り向かなかった。振り向かずとも彼女の顔はありありと頭に浮かんでいる。
「一応確認のために担当者に、送りましたって声、掛けといてね」
 そう言って彼は親指で添島さんを指差したので、うん、と頷いて添島さんの席に顔を出した。
「添島さん、プレゼンの資料、ドライブに入れておいたので、お願いします」
 強ばった顔で言うと、彼女は極めて事務的に「はい」と返事をしながらカタカタとキーボードを鳴らしていた。

「じゃ、次は松下さん」
 名前を呼ばれ、私はプロジェクタに連結したパソコンに向かうと、共通フォルダを開いた。自分の名前の入ったファイルを探す。ファイル名はローマ字だったか。じわり、マウスを握る手に汗がにじむのがわかる。確かにこのフォルダに入れた筈なのに、ファイルが存在しない。
「松下さん、時間ないけど、大丈夫?」
 何かと忙しい部長は腕時計をとんとんとたたき私を急かすので「あの、ファイルが無くなっちゃって」と言いよどむと、周囲が俄かに騒がしくなった。
「ちょっと見せて」
 すぐに駆け寄ってきたのは黒谷君で、座ってパソコンを操作する私の後ろから被さるように立ち、マウスを握っている。
「あれ、確かにあのフォルダに入れたよね?」
 私は不安が隠しきれず、無言で頷いた顔は硬直している。共通フォルダに入れ、添島さんにも声を掛けた。間違いない。しかしファイルが消失している。他の社員のファイルはそこに存在するのに、私の物だけが消えている。
「とりあえず、松下さんは居室に戻ってデータ持ってきて。次の人、先にプレゼンやって」
 部長がそう言うと、添島さんのヒールの音が耳障りにカツカツと鳴った。
「おかしいなぁ」そう呟いたのは黒谷君で、私が「ごめんね」と一言声を掛けると彼は首を横に振った。
「俺のフォローミスだよ。とりあえず、USBにでもデータ入れてきて」
 私は会議室を出て居室に向かって走った。
 おかしい。確かにデータはフォルダに入れた。それは黒谷君も見ていたはずだ。消された? 誰に? 何故? のどの奥に何かが詰まっているような不愉快な感覚を覚える。



「大型コピー用紙、大きさはいくつだっけ?」
 メモを見つつ、ひとりでぶつぶつ呟きながら倉庫内を徘徊していた。紙類が多くて参る。しかも大きさが全て微妙に違うのだ。
 耳慣れたが聞きたくないカツカツ音が近づいてきて、倉庫のドアが開いた。重たく冷たい扉が開く音にヒールの音が重なる。彼女は私の存在に気づいたらしくこちらに一瞥をくれ、それから倉庫内から何か箱のような物を抱えると、パソコンに入力し、出て行った。ドアが閉まる大仰な「ガッチャン」という音の後のカツカツという音が聞こえなくなると同時に、昼休みのチャイムが鳴った。
 私は自分が探していた大型用紙を大急ぎで手に取ると、縦にくるくると丸めて扉に歩いて行き、パソコンに入力後、片手で冷たいノブに触れる。
 回らない。びくともしない。もう一度力を込める。ノブは固着してしまったように、回らない。
 暫くその場に立って扉を見つめる。この扉は、外からはカギが開けられるが、中からは開けられないようになっている事に、今更ながらに気づかされる。
 閉じ込められた。ドアをドンドンと、拳で叩いてみる。冷たい金属の扉にそっと耳を近づけるが、人の気配はない代わりに、金属から放たれる冷気が耳に届く。昼休みのチャイムと同時に、皆が食堂へ行ってしまったのだ。仕方がない。
 私は倉庫の奥に丸椅子を見つけ、それに座って人が来るのを待つ事にした。それにしても......私がいる事を知っていながらなぜあの女は、鍵をかけて去っていったのだ。嫌がらせにしても、露骨過ぎる。金属製の棚とコンクリートの壁から放出される冷気に背中を震わせながら、「カーディガン着てくるんだったな」と一人ごちて身体を縮めていると、扉の向こうからガシャン、と誰かが居室に入ってくる音がした。私は慌てて立ち上がると、こちら側から金属の扉を叩いた。
「ちょ、誰か、ここ開けてください!」
 大声を張り上げて何度も扉を叩くと、誰かが扉の前まで来る足音がして、止まった。「楓ちゃん?」
 黒谷君の声にほっとして「何か閉じ込められちゃったみたい」と扉のこちらから言うと、鍵を取りに行くらしい足音がした。
「災難だね、誰が閉めたの」
 彼は重たい扉を開けたまま手で押さえていてくれた。「ありがとう」と言って彼の前を横切る。
「誰がカギを閉めたのかは分かんないけど......うん、分かんないけど私がもたもたしてたから」
 そう言うと「でもこの居室の誰かなんだろ? わざとだったら怖いな」と顔を顰める。添島さんであろう事は想像に難くないのだが、言わない方がいいような気がして、口にはしなかった。
 黒谷君は正直だ。私が「添島さんに閉じ込められた」なんて言ったらそのまま彼女に苦言を呈しそうなのだ。そうしたらまた私は彼女に恨まれ、同じような事をされる可能性もある。更に陰湿なやり口で。
「昼、行くでしょ。俺、財布忘れて取りに来たんだ」
 目の前に黒い革の財布を取り出した。
「助かったよ、ご飯逃すところだった」
 私は彼に笑いかけると彼も「そうだね」と言って笑った顔が何だかとても穏やかで、この笑顔の元で愛されている添島さんが羨ましいな、と嫉妬混じりに思う。

 昼食後のミーティングで、私が倉庫に閉じ込められた件が話題になった。
「最後に倉庫を出たのは?」
 課長が言うと「私です」と添島さんがすっと長い腕を上にあげた。
「でも鍵を掛けた覚えはありませんから」
 ぞっとするほど冷たい声で言うので、私は耳を塞ぎたかった。他に誰がいるというんだ。この状況で、言い逃れができると思っているのだろうか。おかしな人だ。
「まぁとにかく」
 課長の大きな声が響く。
「あの倉庫は中から鍵の開閉ができない事は皆分かってるだろうから、今後気を付けるように。じゃぁ次」
 次の事項に移った。

「俺さ、さっき実は見てたんだよね」
 課長が誰かと大きな声で話している最中に、黒谷君が小声で私に話し掛けた。
「やったの、奈々美でしょ」
 私は目を見開いて絶句し、彼は「やっぱり」と何かを確信するような目つきで口にする。
「楓ちゃんが倉庫に入った後、奈々美が倉庫に入って行って、出てきたところまで見たんだ。まぁ鍵を掛けた瞬間を見た訳じゃないけど、その後昼のチャイムが鳴ったからね。間違いないよ」
 私は無言で顔を傾げた。絞り出すように言葉を紡ぐ。
「でもさ、やっぱりきちんとした目撃者がいないから、何とも、ねぇ......」
 机に置いた手の上に、黒谷君の手のひらが唐突に重ねられた。私はビクっとしてその手を引っ込める。
「楓ちゃんって優しいんだね。奈々美の事、庇ってくれるんだね」
 そう言うと、薄い笑みを横顔に残してパソコンに向き直った。彼に触れられた手を、もう片方の手でゆっくりと擦る。まるで女性の手のように、冷たい指先で、驚いた。触れてきた手の意味するところが、私には分からなかった。



「添島さん」
 めずらしく在室している部長が彼女を呼びつけて何か頼み事をしている。彼女は上司から書類を手渡されると、カツカツとこちらへ歩いて来た。出口に近い黒谷君と私の後ろを通り、ドアを開ける。廊下からびゅっと冷たい風が流入する。もう十一月だ。彼女は薄いブラウス一枚にスカートで、目に見えて寒そうに思えた。
「添島さん」
 私は彼女を呼び止め、背凭れにかけておいたカーディガンを、振り向いた彼女にずいと差し出した。
「寒いからどうぞ」
 そう言うと彼女は化け物でも観るような目つきで私をじっと見た後、「ありがと。ちょっと借りる」と言ってそれをひっかけて出て行った。

「松下さん、ありがと」
 添島さんはその場でカーディガンを脱ぎ、私に手渡した。その顔には、珍しく温度のある笑みが浮かんでいて驚く。 「あ、うん」と受け取り、そのまま背凭れに掛けた。
「あんな事されたかもしれないのに、楓ちゃん、優しいんだね」
 また横から、黒谷君が話し掛けてきた。
「添島さんが犯人って決まった訳じゃないし、寒そうだったから」
 黒谷君は「ふーん」と言いながらディスプレイに向かう。彼の大きな瞳に、ディスプレイの光りは黄緑色を反射していた。

 翌日は曇天で気温が一段と低くなり、冬に近づいている事を肌で感じられる日だった。昼休み、食堂へ向かうので私はカーディガンを羽織る。ふんわりと香る、添島さんの香水。彼女が素直にカーディガンを借りた事にも喫驚したけれど、笑顔で返却した事にも虚をつかれた事を思い出し、いくらか笑みが零れた。
 私はポケットに小銭と食券を入れ、黒谷君の後ろを追って居室を出た。
 廊下に片足を踏み出したせつな、軽い金属が散らばる音が響く。それは自分の足元からで、私はふと足と止めて振り返る。
「うそ......」
 小銭が数枚、散らばっている。
「何?」
 黒谷君がこちらへ戻ってきた。「お金、落としたの?」
 私は自分のカーディガンのポケットに手を突っ込んだ。どこかに引っかかったままだったのか、最後の一枚の百円玉が床に落ち、カランと音を鳴らしたあと、独楽のように周回し、その動きを止める。食券はニットの網目に入り込んでポケットにとどまっていた。
 呆然と立ち尽くす私の横で、小銭を拾い始めようとする黒谷君に気付き「あぁ、いいよ、やるから」と言って拾った。拾いながら脂汗が浮いて来た。
「どうしたの、手から落ちたの?」
 私はポケットに手を入れ、本来何も出てこないはずの部分から、指先を出して見せた。黒谷君はそこに視線を移し、唖然としている。
「切れちゃったの?」
 もう片方のポケットをまじまじと見た。切り口が一直線だ。逆さになった頭に血が上って行く。
「切られた、っぽいよね、この切り口」
 黒谷君が頭を付き合わせるようにして覗き込む。「ほんとだ」
 私は小銭を持つ手にぎゅっと力を込めて「誰だろう、こんな事するの」と震える声で彼の顔を見上げた。
「ねぇ、昨日その上着、あいつに......」
 私だってそれを考えていた。昨日彼女に、添島さんに貸したカーディガンだ。そのまま私は着る事なく、背凭れにかけておいた。だから今までポケットに穴が開けられている事に気が付かなかった。
 背中に冷たい氷を入れられたように、ぞくり、と鳥肌が立つ。
「どうしてこんな事、されるんだろう」
「俺からあいつに言っておこうか?」
 私は彼の目を見て懸命に手を振った。「だめだめ」
「そんな事したらもっと悪化するに決まってる。添島さん、が犯人だとしたら、私と黒谷君が仲良くするのが気に入らないんだと思うんだ。だから、黒谷君が私を庇ったら逆効果、でしょ。それに、まだ添島さんがやったって、決まった訳じゃないから、その......」
 まくしたてる勢いで離し始めたくせに尻窄みになる私の言葉を聞いて、彼は小さく数回頷いて「分かった」と低い声で言って頷く。黒谷君を責めているわけではないのに、彼は自分がしでかした事のように小さくなっている。
「とりあえず、そのカーディガン、見た目的には変じゃないと思うから、そのまま着て昼飯、行こうか」
 うん、と声に出して頷き、居室を出た。
 黒谷君と連れ立って食堂の席に着いた私を待っていたのは、添島さんの冷徹な視線だった。

「でもさ、誰にだってできたと思わない? この、カーディガンの切断」
 食堂からの帰り道、黒谷君は私の顔を覗き込み、「どういう事?」と訊く。
「昨日彼女からカーディガンを返して貰ってから、私がカーディガンを着るまでの間に、誰か一人しか居室にいない時って、あるでしょ。残業最後の人とか、朝一で来る人とか」
 あぁ、と彼は斜め上を見上げ、頭を巡らせている。
「朝一で来るのはいつも奈々美だよ。昨日の残業は俺だったけどね。となると、俺も容疑者だね」
 困ったように笑う彼を見て、やっぱり添島さんの仕業なのだと確信した。
「やっぱり彼女なのかな。こうして黒谷君と話してる事さえも、きっと彼女は気に入らないんだろうな」
 食堂からの帰り、彼女は売店に寄ってから戻るので、この場は見られていないだろう。
 ふーっと、黒谷君は長い溜息を吐いた。
「俺、もう疲れてきたよ、奈々美と付き合っていくの。あぁいう性格だからさ。俺には何の害も無いけど、俺の周りに迷惑かけちゃうからさ」
 困ったようにさらさらの髪を掻く。憂いを持った瞳もまた素敵だな、なんて場違いな事を考えてしまう。
「あのさ、私は別に迷惑とかそういうの大丈夫だから。負けてらんないっつーかなんつーか、ね」
 私も自信なさげな顔で、しかし笑って彼を見る。彼はちらりと後ろを向き、私の肩にふんわりと手を置いた。
「何か困った事があったら俺に相談してよ。奈々美の事だったら何とかできるから」
 彼が後を振り向いた事が気になり、私も後ろを振り返ると、離れた所にビニール袋を提げた添島さんがこちらに視線を向けながら歩いていた。



「おはようございます」
「在室中」のマグネットを貼りつけて席につく。
 ふと目にとまったその小さな箱は、ホッチキスの針の箱だった。私の私物ではない筈だが、私の机の真ん中に置いてあるという事は、私に宛てられて置かれたのだろうと想像がつく。
 箱の片側を開けて、小さな暗闇を片目で覗き込むと、ホッチキスの針は入っておらず、代わりに細かい紙切れが入っている。
「おはよう」
 出勤してきた黒谷君に「何してるの?」と怪訝気な目を向けられた。
「これが机に置いてあって。中に何か入ってるんだよね」
 小首を傾げながら彼にその箱を見せ、開いた部分を下に向けて中身を机に出した。思いの外、勢いよく滑るように落ちてきた紙切れの数々。それを見て私は短く悲鳴を上げた。
 見た事のある顔の、欠片。毎日鏡で見ているこの目。見覚えのあるピアス。新入社員紹介に使われた写真だ。
「え、もしかしてこれって楓ちゃんの写真?」
 黒谷君は、口に手を当てたまま何も言えないでいる私に小声で言う。周囲に聞こえないようにしてくれているのだろう。私は無言のまま頷く。首以外は動かせない。それぐらいに身体が言う事をきかない。
「これ、酷いな......」
 彼はごくりと喉を鳴らし、その紙切れを少しずつ、元あったように箱に入れると、足元のゴミ箱にぽいっと投げた。私はその行動を横目で見ながら、体中の血液がどこかに蒸発していってしまうような強烈な寒気を催した。
「顔、真っ青だよ、大丈夫?」
 私の顔を覗き込む彼の目が優しく、鼻の奥がツンとするが、私は涙を必死で堪えた。
「大丈夫、だから」
 震える声でそれだけ言うと、パソコンを立ち上げた。視線は感じていた。じっとこちらを見ている視線。添島さんの無機質な視線。証拠なんてなくても、それだけで十分な気がしてくる。
 こうして黒谷君が心配の目を向けてくれることさえ、彼女は気に入らないのだ。きっとまた何か仕掛けてくる。だからといって私には彼女を糾弾する手立てがない。証拠が無いのだ。

 同期の中野さんと一緒に、消火器の設置場所点検をする事になった。私は穴の開いたカーディガンを燃えるごみとして処分し、自宅から別のカーディガンを持ってたので、それを羽織って廊下に出る。
「ねぇ、松下さんさ」
 出し抜けに中野さんは口を開く。構内図に赤丸を書きながら私の声を待っている。「なに?」
「黒谷君と、あんまり仲良くしない方がいいよ」
 図面から目を上げて私を見た。同情も、哀れみも、優しさも、何も宿っていない瞳をしている。
「私、特別仲良くしてるつもりはないんだけど、中野さんから見て、どう見える?」
 再び図面に目を落とした彼女は少し首を傾げて「そうだね」と間を空けた。どこかの部署の電話の音か短く鳴って途切れた。
「私から見たら特別仲良くしてるように見えなくても、奈々美から見たら......って事だから」
 分かるでしょ?と付け加える。私は首肯するしかなかった。まさか証拠も無しに「嫌がらせされてる」なんて言えない。それに中野さんは添島さんと仲が良い。添島さんを糾弾するような話には抵抗感がある可能性がある。
「黒谷君、私の教育担当だから、色々と教えてもらう事が多くって、そういうのとか、どうしようもないよなって思うんだよね」
 言い訳のような事だと理解しながら彼女に視線を向けると、中野さんはフン、と鼻で笑った。
「まぁせいぜい奈々美の怒りを買わないように気を付けなよ。ま、もう買ってるかもしれないけどね」
 図面からずらした目線をこちらに寄こす。その目は添島さんの無機質な目にそっくりで、私はぞっとした。
 中野さんは真実を知っているのかもしれない。もしかすると共犯......考え過ぎか。しかしその可能性は否定できない。

 居室に戻ると一通のメールが届いていた。部長からだった。
「メール見た?」
 黒谷君に言われて、首を横に振りながらすぐにメールを開いた。
「新棟のレイアウト? 二人で?」
「うん、机とか、給湯とか、倉庫とか? 場所を考えろって事だよね」
 黒谷君は腕組みをしている。私はもう一度訊いてしまった。「二人で?」
「そういう事だよね、だって俺ら二人にしか送信されてないし」
 受信者の欄には黒谷岳様、松下楓様、と二人の名前が仲良く並んでいる。CCの欄にはこの居室全員の名前が勢揃いしていた。軽く頭痛がした。こんな大きな仕事、二人で仕上げるなんて。厄介な事になるなぁとため息が漏れた。
「え、もしかして俺と二人じゃ、いや?」
 私はぶんぶんと首を振った。「そうじゃないよ、そうじゃない」
 よかった、と口端に笑みを浮かべて彼はディスプレイに向かった。



「例の、レイアウトの件、工務部から図面が届いたから、後で隣の部屋で相談しない?」
 添島さんの視線を背後に感じながら「了解」と短く言い、手元の仕事を片付けた。
 大きな図面と、メールで送られてきたA4の図面を持って居室を出て、隣の小さな会議室に入った。
「はぁ、やっと逃れられる」
 溜め息まじりに言うと、黒谷君は口元を引き上げて「何が、何から」と少しからかうように顔を覗き込む。
 テーブルの上に図面を広げ、向い合せに立って話を進めた。机やコピー機、細かい物の配置は簡単なようでいて意外と難しい。業務効率の良し悪しがかかっているのだ。二人で難しい顔をしながら考え込む。
「ちょっと休憩しよっか。待ってて」
 それだけ言って彼は会議室を出て行った。私は図面を見ながら配置を考えていた。それでいながら、今この瞬間にも添島さんは私に嫉妬しているのかと思うと、強烈な恐怖感に襲われる。次は何をされるのだろう。出社するのが恐ろしくなってくる。
 幼い頃から、誰とでも仲良くできる人間だったと自認している。誰かに恨まれたり、妬まれたりするような特別な特技も無かったし、目立つ事もない。ごくごく普通に生活してきた。それゆえに、「いじめ」などとは程遠い生活をしていた。ふと、中学の頃に嫌がらせをされていた嵯峨さんという女性の事を思い出した。多くの生徒と同じように、私は嫌がらせに無言で加担していたので、彼女と話をした事はないけれど、今なら彼女の気持ちが少し、分かるような気がした。私はいじめに遭っている。嫌がらせを受けている。彼女もこんな風に、翌日自分を待ち構えている嫌がらせに、恐怖を覚えていたに違いない。
「お待たせー」
 会議室のドアを開けて入ってきた彼は、両手に缶コーヒーを持っていた。手渡されたそれは暖かくて、冷え切った指先には熱いぐらいだった。
「ありがと、あとでお金払うから」
「いいよ、そんぐらい」  ハハッと短く笑い、コーヒーのプルタブを引きあげた。

 レイアウトは一日で仕上がる様な物ではなく、計測などもしながらゆっくりやっていく事になった。
 会議室から居室に戻り、私は缶コーヒーの缶を水ですすごうと思い黒谷君に「缶、洗うから」と言って手を伸ばした。
「あぁ、ありがと」と彼はこちらに缶を寄こす。給湯場に近い添島さんは缶の動きをじっと目で追っている。会議室にいるうちに缶を回収しておくんだったと後悔した。

 翌朝出社すると、嫌な予感は当たった。机の真ん中に、封筒が置かれている。女性ものらしい薄いピンクの封筒だった。
 すぐに開けようとしたが、口がぴっちり糊付けされていて、封を千切るかどうか迷い、結局ははさみで封を切る事にした。封筒の、厚みが無いのに妙な重さがある事が気になった。
「おはよう」
 いつものタイミングで黒谷君が隣の席についたので私も「おはよう」と返しながら、ペン立てに置いたハサミに手を伸ばした。
 その瞬間、封筒から何かが飛び出し封筒が破ける感覚が手に伝わってきた。パッとそちらに目線をやると、鈍色に光る何かが指を突き刺し、赤い液体が出ていた。痛みは遅れてやってきた。
「え?」
 私は起こっている事が飲み込めず、うろたえていると、それを見た黒谷君が足早に救急箱から絆創膏を持ってきてくれた。剥離紙をめくって「手、寄こして」と言われたけれど、また背後に冷たい視線を感じていた私は「自分でやるから」と言って絆創膏だけを受け取った。受け取る指先が、震える。
「それも、机に置かれてたの?」
 指に肌色の絆創膏を巻きながら頷いた。ピンクの封筒には真っ赤な血液が少し、付着した。穏やかな桜の花の中から現れた攻撃的な薔薇の花弁のように見える。彼はその封筒を手に取ると、丁寧に封を切った。
 中から出てきたのは五本ものカッターの刃だった。
「普通、ここまでやるか?」
 彼の顔には怒りの色が見え、私は目を伏せた。それでも添島さんがやった事であるという証拠は何もない。どうみても女性用の封筒だけれども。
「このままにしておいていいの? もっと危ない目にあうかもしれないよ?」
 拳を握りしめ、黒谷君はまるで自分の事のように心配してくれている。私はどうしていいか分からず、歪んだ顔でこめかみを押さえた。
「誰がやったのか証拠が見つかるまでは、何もできないよ。責められないよ」
 クソッと黒谷君は足元にあるゴミ箱を蹴とばした。壁にぶつかったゴミ箱はコトンと音を立てて倒れた。
 斜め後ろを振り返ると、添島さんがこちらを見ていた。全く感情のこもらない目線は中野さんの目線と同じだった。中野さんと添島さん......。まさか。



「楓ちゃんさ、今日の夜、暇?」
 大きな図面を前にして、やにわにそんな事を言うので「え、何で?」と訊き返す。
「もし良かったら、飯、行かない?」
 咄嗟に思い浮かぶ無機質な目線が私の首を横に振らせた。
「行けないよ。ばれたら何されるか分かんないし」
 彼は手に持っていたシャーペンで顎を突きながら何か考えている。その様を見ながら私は、誘いを瞬時に断ってしまった事が申し訳ないなと思い、他に言い訳を考えた。しかし私が何か言うより早く、彼が口を開く。
「心配なんだ。こんなに短期間にさ。こういう事があると。奈々美がやった事だとしたら俺、やっぱり奈々美に話さなきゃなんないと思うし。相談しようよ。どうかな」
 暫く小さな会議室には秒針の音だけが響き、結局私は「うん」と首を縦に振った。
「でも、夕方からまた消火器の点検があるから、定時であがれそうもないんだ。だから待ち合わせって事でもいい?」
 彼は、もちろん、と言って、行きつけのお店だという「藤の木」という居酒屋の場所を教えてくれた。

 中野さんは「今日は急いでやろう」と消火器点検の図面を見ながら言う。
「何か用事あるの?」
 私は後ろを追いかけるような格好になりながらそう話し掛けると彼女は頷いた。
「奈々美がね、黒谷君に夕飯ドタキャンされて、機嫌悪いんだ。一緒にご飯食べに行く羽目になったからさ。急がないと」
 彼女の言葉に目が点になった。
「早くしようって、言ったんだけど聞いてます?」
 嫌味たらしい顔で覗き込まれた事にも暫く気づかず、中野さんの言葉を反芻していた。黒谷君がドタキャン?
 点検作業は上の空で、そこまでして心配してくれている黒谷君の事を想うと、胸の奥がズキズキと痛んだ。

 指定されたお店は、木彫りの看板が掲げられている渋い居酒屋だった。
 店内に入ると、恰幅の良い男性が「いらっしゃい」と笑顔を向けてくるので会釈をする。
「お一人で?」と訊かれ、私はきょろきょろすると、奥まったテーブル席に黒谷君の姿を見つけた。
「えっと、連れです。奥の」
 私は手の先を奥に向けると「あぁ、岳君のね。どうぞ」と笑顔を向けられる。その会話が聞こえたのか黒谷君が後を振り返って左手をひらりと挙げた。
「お待たせしてごめんね」
 椅子を引きながらそう言うと「いやいや、お疲れ様。ビールでいい?」と確認し、さっきの男性に向けて「生ひとつ」と注文してくれる。
 こうして顔を付き合わせて食事をする事なんて初めてで、入社してから男性と二人で食事をすること自体なかった事で、緊張してなかなか目線が合わせられないままビールを待った。着物を着た女性がつきだしとビールを運んできてくれた。
 とりあえずジョッキを合わせ、酒を呑んだ。
「消火器点検は無事終わった?」
 つきだしのたこわさを食べながら黒谷君が問いかける。
「三階の分がまだ残ってるけどね。殆ど終わったも同然かな」
 瞬時に中野さんの言葉が蘇った。黒谷君がドタキャン。
「ねぇ黒谷君、中野さんに聞いたんだけどさ、今日って添島さんと食事する約束してたって本当?」
 黒谷君は少し片眉をあげただけで殆ど表情を変えず「うん、そうだよ」と頷くので、私はこめかみをぐりぐりと押さえた。
「添島さん、ご立腹だったらしいけど、大丈夫?」
「奈々美は俺の彼女だけど、奥さんじゃないからね。俺の事を拘束する力はないんだよ。俺が誰と食事をしようと関係ない」
 淡々と答えながら、メニューを眺めている。その中から「適当に選ぶね」と言って何品か注文をしてくれる。
「ここだけの話だけど」
 彼は浅く腰掛けていた身体をぐっと深くし、頬杖をついていたずらそうな顔を私に向ける。
「楓ちゃんと二人でご飯、食べたかったんだ」
 大きな手の平に乗った端正な顔から、子供みたいな笑みが零れ落ちる。私の顔が赤くなる事を予期していたのか、赤くなった瞬間にまた彼の顔には笑みが広がる。
「添島さんに殺されるかも、私」
 黒谷君はクスっと笑って「殺されそうになったら、殺しちゃえばいいよ、奈々美なんて」とあっさり残酷な言葉を吐いたのに驚愕しつつ、いつか訊いた事があったよなと思いながら同じフレーズを口にした。
「付き合ってるんだよね、二人?」
「まぁね」
 その「いつか」とは違った返答の仕方だったので私は、あれ、と気が抜けたように呻いてしまった。
「いやぁ、まぁその話はあとにして。とりあえず食べよう。キムチ焼うどんがすげぇ美味いんだよ」
 そう言って小皿に焼うどんを移し、キムチを乗せた。麺にはりつく唐辛子の赤さがいつかの封筒についた小さな血の跡を思い起こさせて、私はなるべく唐辛子がついていない麺の部分を中心に盛り付けた。
「それにしても、例の嫌がらせ、困ったもんだよな」
 狭いテーブルの下で脚を組みながら彼はそう言う。私はひと呼吸あって「そうだね」と言って頷いた。
「でもさ、誰がやったかっていう決定的な証拠が無いから、どうにもできないんだよ」
 彼はお皿に割り箸をとんとん、と打ち付けて「奈々美でしょ」さらりと言うので私は不意打ちを食らったみたいに身体をのけ反らせてしまった。
「え、だって、あ、証拠ないし。まぁ動機は......あるのかもしれないけど」
 俯き気味に口ごもると「だろ」と割り箸でこちらを指すのが視野に入った。
「小さいとはいえ、怪我させてるんだよ? 傷害だよ? やっぱり言った方がいいと思うな。楓ちゃんからは言いづらいだろうから、俺から」
 いや、と私は言葉を遮った。
「黒谷君から言うのは絶対、逆効果だから。うん。言うなら私が言った方が良いと思うんだ」
 そうかな、と小首を傾げながらうどんを啜っている。私もビールに口を付ける。
「私は別に、黒谷君と添島さんの仲を裂こうとしてるとかじゃないのにな。どうして嫉妬されるんだろう」
 疑問に思っている事をそのまま口にすると「ねぇ楓ちゃん」と改まったように呼び掛けられ、顔を上げる。
「仲を裂こうとは、思わない? 俺の事ってどう思ってる?」
 お酒が入って頬が少し赤らんだ黒谷君の瞳は少し潤んでいて、それに倣うように私の頬も上気してしまう。「どうって......」私は視線を逸らした。
「黒谷君はカッコイイし、優しいし、いい人だと思ってるけど、添島さんと付き合ってるって知ってるし。ねぇ」
「じゃぁ俺が奈々美と付き合ってなかったら?」
 間髪入れずになされる質問に、私はついていくのがやっとで、ビールを多めに呑んで気を落ち着かせた。
「うーん、どうだろうね。他の人が黒谷君と付き合うんじゃない? 何かやってたじゃん、入社してすぐから黒谷君の取り合い」
「他の人がいなかったら? 俺が楓ちゃんと付き合いたいって言ったら?」
 ジョッキが手から滑り、テーブルにゴトっと叩きつけられた。天然木のテーブルが衝撃を吸収してくれて、割れずに済んだ。
「そんな、たられば話はさぁ、しても」
「たらればじゃないよ、俺は楓ちゃんと付き合いたいんだよ。好きだから、奈々美の嫌がらせから守りたいんだよ」
 遮られた言葉はコクリと飲み下して、改めて頭を整理した瞬間に、ドクンと心臓が大きく揺れた。酷く落ち着いた声で、もの凄く破壊力のある言葉を、黒谷君は吐いたんじゃないか。私はすぐに返答できず、彼の肩のあたりをただ茫然と見ていた。
 黒谷君は空っぽに近かった私の分と、呑み干した自分の分のビールを注文すると、改めて私に視線を移した。
「だから今日、食事に誘ったんだ。まぁ、居酒屋なんかで申し訳ないけど」
 私は彼の目を見る事がどうしてもできなくて、自分の手元に視線を移した。着物を着た女性が、ビールを運んできた。「でも」と私はぽつり、口を開く。
「添島さんは別れないんじゃない? 黒谷君の事、凄く好きそうだし」
 ジョッキを手に彼は無言で数回頷いたのが視野に入った。何か言おうとしているのが分かり、私は口を噤んでいた。
「何度か別れたいって言ったんだけど、ダメだったんだよ。だから、今回の嫌がらせが奈々美の仕業だって事が分かったら、それを理由に......ってこんな理由じゃ楓ちゃん、俺と付き合ってくれないよね」
 自嘲気味に笑う彼の姿を見て「そんな事無いよ!」と早口で捲し立てた。
「心配してくれるのはありがたいし、こんな私を好きになってくれることも嬉しいし、うん」
 自分で何が言いたいのかよく分からなくなってきて、両頬に手を当てて目を瞑り、首を振る。
「嫌がらせの件は、誰がやってるのか分かったら何とかするし、もっと危険な事が起きたら課長にでも相談するし、できるなら自分で何とかするから、あの、黒谷君は今のままで、えっとありがたいっていうか......」
 歯切れの悪さに苦笑した。彼もテーブルのあちらでカラカラと笑っている。ジョッキに手を伸ばすと、その手の上に、黒谷君の大きな手が添えられ、力が加わった。そこにもう片方の手が覆いかぶさった。相変わらず彼の指先は冷たくて、一瞬ドキっとする。
「課長じゃなくて俺に相談して。俺が楓ちゃんを守ってあげるから」
 潤んだ瞳でじっとこちらを見つめる彼は、ね、と言って私に同意を求める。
「あ、りがとう」
 呟くようにように礼を言った。その後は他愛もない話をしたが、私は彼の目を数度しか見る事ができなかった。好きだと言われた。守りたいと言われた。しかし立ちはだかっているのが添島さんだと思うと、妙な焦燥感に駆られる。

「そろそろ出るか」と言われて私は伝票を持って立ち上がったけれど、すっと伝票を取り上げられて「ここは俺が。二次会は楓ちゃんね」とスタスタ歩いていってしまった。私は首筋辺りを撫でながら苦笑し、彼についていった。



 二次会は呑み屋ではなくカフェにしようと言ったのは黒谷君で、駅前にあるカフェに向かって歩いた。真冬と言うのにはまだ足りない寒さだけれど、薄手のコートを羽織っていた私は身震いした。そろそろ厚手のコートをクロゼットから出してくる頃合いだな、と点滅するネオンを浴びながらぼんやり考える。
 唐突に彼が私の肩を抱いて引き寄せた。「ふへっ?」と素っ頓狂な声を出すと、私の横を自転車が三台、通り過ぎて行った。その間ずっと、肩を抱かれていた。
「赤くなってるよ、顔」
 指摘されるまでも無く自分で分かっているのに、指摘されるとさらに赤くなる人間の仕組みがよく分からないなぁと思う。
「岳」
 後から黒谷君の名前を呼ぶ女性の声がして、それが誰の声なのか分かった瞬間に私は泣きたくなった。
 添島さんと中野さんだった。
 添島さんはハイヒールをカツカツ言わせながら近づいてきて、黒谷君に寄って行くのかと思ったら私の目の前に立った。それから斜め上にある黒谷君の顔に視線を遣る。
「何で松下さんと一緒にいるの。今日食事に行けないって言ったでしょ、岳」
 私はばつが悪くて彼女の顔を見る事ができず、奥にいる中野さんに目をやった。目が合った瞬間に彼女は、私なんて存在していないかのように目を逸らす。
 私ははっと顔を上げて「あのね」と添島さんに縋るように声をかける。
「そこで偶然会ったの。私、残業してて、これから帰るところで」
 黒谷君は私の顔を見て、口端を少し上げたかと思うと「俺も買い物してて偶然」と話を合わせてくれた。
 添島さんは訝しげな表情で、私とは目を合わさず、黒谷君に「ふーん」と言うと、「じゃぁこれから家まで送ってってよ、ね」と彼の腕に巻き付いた。
 中野さんは目を逸らしたまま「じゃあ私はこれで」と会社の寮の方角に向かって歩き始めた。私と添島さんの最寄駅は同じ駅だがこのまま三人で移動する事なんて息苦しくてできそうにない。私は逃げるように「じゃぁ私もこれで!」と言いながら逃げるように歩き出していた。黒谷君と添島さんの二人に追いつかれないように、急いで駅に向かった。

 自宅まで大急ぎで帰宅した。心臓が鼓動を強めているのは、何も急いで歩いてきた事だけが原因ではないだろう。黒谷君にあのような事を言われて私は、どうしたらいいのだろうか。
 クロゼットに薄手の上着をしまい、手前に厚手の上着を移した。それから倒れ込むようにベッド横になった。
 黒谷君の気持ちは分かったけれど、一体彼はなにがしたいのか、私には理解できない。添島さんと別れたいと思っているのならば、私がいるあの場で、別れたいと言えば済む事ではないのか。添島さんに腕をとられたまま顔色一つ変えない彼の心の中が解らない。私への嫌がらせの犯人が添島さんだと分かった時点で、それを理由に別れようと考えているのだろうか。別れたら私と交際をするつもりでいるのだろうか。
 添島さんは、本当に嫌がらせの犯人なのだろうか。彼女なら、不愉快に思った事を即座に口に出しそうにも思えるのだが。冷たい視線を向けられる事は幾度もあるが、本当に我慢ならない状況に陥ったら彼女は「岳に近づかないで」とでも言いそうなものだ。
「あー、わけ分かんない」
 自分しかいない部屋の中で呟いて頭をくしゃっとつかみ、全てを流してしまおうと浴室に向かった。

10

 休日を挟んだ今日も、出社する足取りは重かった。今日も何かあるかもしれない。中学の同級生、嵯峨さんの気持ちが痛い程よく分かる。片倉さんも、もしかしたら同じ状況だったのかもしれないと思うと、彼女にコンタクトをとってみようかとも考える。
「おはようございます」
 恐る恐る足を踏み入れ、真っ先に自分の机に目をやる。何も置いていない。ひとまず安心し、「在室中」のマグネットを貼る。ホワイトボードの下には他部署から個人に宛てた書類が入れられる、腰高の棚がある。そこの自分の引き出しに、A4サイズの封筒が入れられていた。差出人は不明だったが、宛先は「総務部 松下楓殿」と表記されていた。
 誰からだろうかと不思議に思いながら封を開けた。中にはA4サイズの白い紙が一枚、入っているのが見える。そっと取り出す。その瞬間後ろから「おはよう」と黒谷君に声をかけられ、私は紙から視線を外し「おはよう」と応える。
 再び紙に目を戻すと、最上段に「松下楓」と印字されている。これだけで十分、不快だ。他部署からの書類で、呼び捨て記載の筈がないのだ。つつ、と紙を引き出すと、ぐっと喉が詰まったような感覚に襲われ、うまく唾液が飲み込めない。
 そこに書かれているのは、思いつくままにタイピングしたと思われる罵詈雑言の数々。泥棒猫、牝狐、死ね、消えろ、黒谷から手を引け、殺す、いい気になるな、自殺しろ。読むのも憚られる程の言葉の数々が、A4用紙をびっちり埋めている。勿論、パソコンで打ったものだから、筆跡などの手がかりは皆無だ。
「何それ」  紙を埋め尽くす真っ黒な文字を見た黒谷君が顔を寄せる。思わず紙を隠す。
「また何かされたの?」
 楓ちゃんを守ってあげるから。そう、彼は言っていた。私は握りしめて端が折れてしまったA4用紙を、おずおずと彼に差し出した。
「え......」
 彼は目を見開いて絶句した。一字一句逃さず、読んでいるらしかった。私はだんだんと血の気が引いていく感覚を覚え、机を支えにして立ち上がると、お手洗いに向かった。胸を締め付けるような苦しさは私から酸素を奪い、目の前が真っ青に染まる。一瞬、膝がカクリと折れたような気がして、そこから意識がなくなった。

 目が覚めると医務室のベッドの上にいた。半身を起こすと、産業医が机に向かっていた身体をこちらへ向けた。
「気がつきましたか。廊下で倒れてるのを添島さんという方が見つけてくれてね」
 その名前を聞くと再び喉元に不愉快な固まりが詰まった。
「あの、もう大丈夫なので。仕事に戻ります」
 そう言ってベッドの下に足を下ろす。歩く事はできそうだ。
「調子悪いなと思ったら医務室に来るんでも、早退するんでもいいから、無理しないでくださいね」
 背中に掛けられた声に、私は「はい」と消え入るような返事をした。恐らく産業医の耳には届かなかっただろう。

 居室に戻るとすぐ、黒谷君が「大丈夫?」と心配そうな声を掛けてくれたが、それより先に目が合ったのは添島さんだった。彼女の席まで歩いていく。
「大丈夫?」
 心配そうというよりは、怪訝気な顔で私の顔色を伺う彼女に、軽く吐き気がした。
「倒れてるの見つけてくれたみたいで、ありがとう」
 全く感情が乗らないその声に自分でも驚きつつ、踵を返した。
「これ」
 戸惑ったように手に封筒を持つ黒谷君に、引きつった笑顔で「うん」と言って封筒を受け取った。封筒ごとシュレッダーにかけると、席に戻った。
「いつまで我慢するつもり?」
 黒谷君は小声で訊ねるので、私は暫く無言で考え込んだ。
「何が、したいのかな」  ぽつり、と零すと黒谷君が「ちょっと」と私の手を引いた。そのまま廊下に出て、隣の会議室に入った。
 唐突に、抱きしめられた。背の高い黒谷君に包まれるようにして、私は彼に体を預けた。
「私、悪い事してるのかな」
 彼の胸の中でくぐもった自分の声を耳にする。
「俺は楓ちゃんの味方だから。こんな子供みたいな嫌がらせ、気にするな」
 そう言って私の背中を擦ってくれるのだが、不快感が拭えない。「黒谷から手を引け」「泥棒猫」「いい気になるな」言われても仕方がない言葉も書かれているのだ。全てを「子供のような嫌がらせ」で片付け、無視しておく事が、私にはできなかった。
「やっぱり黒谷君とは一緒にいない方が」
「楓ちゃん! 俺は楓ちゃんを守りたいんだ。だからそんな風に考えないで」
 私の言葉を遮った黒谷君は、抱きしめる腕を更に強くした。私は身体に力が入らず、まるで人形のように身体をしならせていた。

11

 翌日も同じ形の封筒に、同じA4用紙が入れられていた。昨日とは少しずつ内容が異なっていて、私はまた喉元に不快な固まりを感じた。
「弱いフリをして黒谷に近づくな」「会議室に黒谷を連れ込むな」
 黒谷君はそれを読んで眉をひそめた。 「見られてたのかな、まずい事したな」 「うん、でもいいよ。こうやって色々言葉を寄越す間に、何か尻尾がつかめるかも知れないし。会議室に行った事を知ってるのなんて、確実に近い部署の人しかいない訳だし」
 私の顔を覗き込むようにして見た黒谷君は「すっごい顔色悪いけど、医務室行く?」と勧めてくれたが「大丈夫」と言って業務を開始した。本当は大丈夫なはずなかった。A4用紙を埋め尽くす言葉の数々が、頭の中を無限にループし、私の思考は停止状態。仕事にならなかった。
 翌日もまた、少し内容の異なる紙が送られてきた。その翌日も。
 木曜、私と黒谷君は新棟居室のレイアウトを相談するために、会議室へと移った。
「今週だけでだいぶやつれたな。ご飯、食べれてる?」
 心配させまいと首を縦に振りたいのは山々だったが、この四日間は食堂にも行かず、夕飯もろくに食べられず、自分でも憔悴した顔を鏡で見ているため、嘘は言えなかった。
 対面に立っていた黒谷君は、手に持っていたペンを机に置き、私の傍に立った。両の手で、私の頬を撫で、「心配だ」一言漏らし、唇を重ねた。私はすぐに顔を離した。こうしている間にもどこからから見られているかも知れないのだ。
「ごめん、なんか心配で、つい」
 項垂れている黒谷君に「そんな、謝らないでいいよ」と尻窄みな言葉をかけると、「残り、片付けちゃおっか」と彼は酷く明るい声で対面に戻っていく。
 心配だからキスをする。それはどう考えても居心地の悪い言葉で、ずっと頭から離れなかった。

「黒谷を返せ」「唇を返せ」「一人で死ね」「首くくれ」
 そんな内容が並んでいたと思う。最後まで目を通す事なく、シュレッダーにかける。茶色い封筒が乾いた悲鳴を上げると共に、自分の手もシュレッダーに吸い寄せられていき、寸でのところでぱっと手を離す。
 お前が死ね。首をくくれ。この五日で思考は暗転し、文面から考えて、犯人は添島さんに間違いないと確信していた。自分の心の中に芽生えた、どす黒く醜い感情を、そろそろ認めてやらなければと思う。犯人は添島奈々美。そいつが縋っている黒谷君の心は、もう私に向いているのだ。いい加減認めたらいい。認めないなら、認めさせてやるまでだ。
「松下さん」
 そいつの声がする方向に首を向けると、まるで見下すような視線を向ける添島奈々美が腕を組んで立っている。片側の口角がひくついているのが不気味だった。
「ちょっと、二人で話したい事があるんだけど、今日の夜、空いてる」
 無機質な声に乗って、ありがたい言葉が飛んできた。
「ちょうど良かった。私も話したい事があったから。帰りにうちに寄って。場所は分かるでしょ」
 添島奈々美の家は、駅から私の住むアパートの横を通ってその先にある事を知っている。出社する際に鉢合わせになった事が何度かある。
 出社してきた黒谷君に、今日の手紙はもう破棄した事を告げた。
「もう限界だから。直接彼女と話そうと思って。彼女も私に話があるって言うから、今日うちに来てもらう事になったんだ」
 喉元に何かが詰まったような感覚はもう消えなくなっていて、うまく声が張れない。黒谷君は私に近づいて話を聞くと「そうか」と頷いて、意味有りげに私の方をぽんと叩く。
「一人で大丈夫?」
 大げさな程心配そうな顔をして私の顔を覗き込むので、私は精一杯の笑みで返す。
「心配しないで。何とかするから。うん」
 仕事は上の空で、添島奈々美を残して私は帰宅した。
 帰宅する頃にはもう、私の心は決まっていたように思う。黒谷君が言っていた言葉が去来する。

 インターフォンが鳴ったのは十九時頃だったと思う。部屋着に着替えた直後だった。脱いだ服はその辺に転がっているけれど、訪問者が誰なのか分かっているので服は脱ぎ散らかしたまま私はゆっくりとした足取りで玄関に向かった。ドアノブに手をかけた瞬間に、自分の中に渦巻くどす黒い感情が湧いてくるようで、私は醜く笑みを浮かべた。
「いらっしゃい。どうぞ」
 そう言うと添島奈々美は何も言わずにヒールの高いパンプスを脱いで部屋にあがった。私は彼女の後ろから、部屋に入った。
 添島はぐるりと部屋を見渡した後、「散らかってるね」と冷たく零す。
「話は」
 そう問うと、彼女は振り返り、口を開く。 「岳の事。あんた岳に手だしてるでしょ」と凄んだ口調で言う。凄みを利かせた醜い顔。私は馬鹿らしくて鼻で笑った。
「手だされたから私に嫌がらせしてんの? あんた、中学生?」
 私の言葉に怪訝気な顔をしてみせたのには辟易した。
「嫌がらせ? そんなの知らないし。どっちかっていうと嫌がらせしてんのはあんたでしょ。岳と仕事帰りに会ったり、私の目の前で岳といちゃついたり。随分と岳の事を誘惑してるらしいじゃん。あんた如きが私に勝てると思ってんの?」
 心の底から笑いが込み上げてきて我慢できなかった。堰を切ったようにクツクツと笑い声をあげた。
「あのさ、今、黒谷君が誰に惚れてるか、知ってんの?もうあんたの事なんか好いてないんだよ。愛想つかれたんだよ、あんたみたいな性悪女は」
 そう言うとぐしゃっと顔を歪めた添島が私の髪を両手で掴んだ。攣れるような痛みが頭皮に走ったけれど、私は笑っていた。髪を掴まれたまま頭を揺すられたけれど、私の口からは笑い声しか出なかった。
「何笑ってんの、気持ち悪い」
 悲鳴に近い声をあげながら手を離した添島は、整っている筈の顔を思い切りしかめている。そこには美しさの欠片もない。私の顔だって大概だろうと思うとまた可笑しくて、笑いが漏れる。
「岳から手を引きなさい。岳に聞いたんだから。あんたがしつこく詰め寄ってくるって」
 一瞬私は目を見開いて「次は作り話?」と言うとまたクツクツと笑いが込み上げる。すると添島は、これまで見た事もない醜悪さで顔を歪め、私の首に冷たい両手を巻き付けてきた。
「あんたなんて死んじゃいな!」
 顔が鬱血するのを感じ、私は玄関からこっそり持ってきていた護身用の角材を手探りで持つと、添島を横殴りに殴った。彼女は短く悲鳴を上げて、その場に倒れ込んだ。スカートから下着が覗き、その様子が酷く無様でまた笑う。
「何すんの! 痛い」
 人の首を絞めておいてこいつは何を抜かしているんだと、冷静に考える。口の端に笑みを浮かべ、「先にやったのはあんたでしょ」と言うと、また掴み掛かろうとしてきたので、更に一度、殴る。血が出ない程度に。

「殺されそうになったら、殺しちゃえばいいよ、奈々美なんて」いつだったか、黒谷君が言っていた。そう、簡単な事。

 テーブルの横にうずくまった添島を見て、私は思った事をぽろりと言った。「あんた、要らないよ」
 脱ぎ散らかしていた服の中からベルトと掴むと、添島の後ろからベルトをかけ、力任せに引っ張った。どこにそんな力があるのかと思うぐらい酷く暴れるので、階下に住人がいない一階で良かったと、ふと思う。
 顔は絶対に見たくなかった。とにかくこいつの力が抜けるまで、必死でベルトで締め付ける。絶対に為損じてはいけないと思うと、添島の力が抜けたと思ってもなかなか手が離せず、一体どれくらいの時間ベルトを握っていただろうかと、手の平に平行に走るベルトの跡を見て思う。

12

 横たわる添島の抜け殻の後ろから、タオルを巻き付けて顔が見えないようにした。排出された体液の臭いが不快で、それでも我慢して彼女の洋服を脱がせた。下着姿だけになった添島は、首を紫色に染め、SMプレイの娼婦のように見える。
 黒いスカートは少し濡れていたけれど、少しタオルを当てて水分を吸い取ると、彼女の洋服を着て外に出た。彼女の家の方角に向けて歩く。履きなれないハイヒールで途中、つまづいて転びそうになったところを何とか耐える。
 近くのコンビニに寄った。添島の鞄から添島の財布を取り出し、適当なお茶を買った。店員は私の顔を覚えるだろうか。少し不安になり、なるべく目線をあわせないように前髪の下から覗くようにして支払いを済ませた。
 自宅に戻ると、当たり前のように出て行ったときと同じ、無様な格好でそいつは転がっていた。
 突如、携帯電話の呼び出し音が響き、現実に引き戻される。黒谷君からだった。先程まではなかった指先の震えに戦きながら通話ボタンを押す。
『あ、黒谷ですけど』
「うん、松下です」
 途端に、目の前に転がる抜け殻と現実世界の乖離に動揺し、その場に立っていられなくなった。抜け殻からなるべく離れたく、玄関まで尻を引きずって移動した。
『あ、今奈々美と一緒?』  ひゅっと吸い込んでしまった息の音に、黒谷君が気づかなければ良いのだがと不安になる。
「もう、帰ったよ。嫌がらせしたの、自分だって白状して帰ったよ」
 一瞬、電話の向こうが無音になったが『そうなのか、それはよかった』と明るい声が響く。いつもは心地よい筈の彼の抑揚が、今は不愉快に思う。
「ちょっと今、忙しいから切るね」
 そう言って返事を待たずに私は電話を切った。現実に引き戻される。この抜け殻を、どうしたらしいんだろう。
 玄関からは、タオルを巻いた添島奈々美がこちらを向いているのが見える。一番遠い距離なのに、こちらを向かれているのは気味が悪い。全速力で抜け殻の横を通り後ろに回ると、大げさな程に肩が上下した。
 無論、そこに転がる抜け殻の背は上下する事がなく、その場のみ時間が凍結してしまったように思える。これからしなければいけない事を考え、とりあえずはこの忌々しい服をあいつに返却する事から始めようと、服を脱いだ。

 人の抜け殻というのはこんなに重たいものなのかと驚く。家のすぐ前に停めてある自分の車の後部座席に抜け殻を乗せた。シートに横たえようとしたのだが、ごろりと落ちてしまった。大家さんが裏の畑で使っているらしい、大きめのシャベルが置いてあるゴミ置き場に足を運び、三本あるうちの一本を借りた。
 実家に近い山中に、車が入る事ができる雑木林がある。子供の頃、兄のカブトムシ狩りに付き合って、父の車で山の中に入った事がある。そこまで車で行ってみる事にした。本当は早いところこの抜け殻とおさらばしたいのだが、その辺に転がしておく訳にもいかない。

 大きな木の横に車を停める。車のライトを消すと、生い茂る木々の影響で月明かりも届かない純然たる暗闇が広がる。それでも足下ぐらいは視認できるので、持ってきたシャベルで人が一人入れる位の穴を掘った。獣に掘り返されたってかまわない。とりあえず暫くここに置いておきたい。柔らかな土はスルっとスコップを吸い込むようで、穴掘りはあっという間に終了した。一つ大きな息を吐いた。もう少し明るい場所でなら、この息は白く見えただろう。自分もこの世から存在を消し去られたのではないかと錯覚する。
 後部座席から抜け殻を引っ張りだした。一瞬、血の気が引いた。抜け殻は、靴を履いていない。鞄は持って来たのに。妙な存在感をひけらかすあの忌々しいハイヒールがありありと思い浮かぶ。それでも抜け殻だけ遺棄できれば、靴なんて燃えるゴミに出したらいい。掘った穴の中にゴロンと横たえると、足下に鞄を投げた。上から丁寧に土を被せる。湿り気を帯びた土の臭いが鼻を突く。
 車に載せてあった懐中電灯で、周囲を確認した。ふと、少し離れたところに変わった形の石を見つけた。近づいて良く見てみると、自然にできたとは思えない程きれいな三角錐の形をしていた。吸い寄せられるようにその石を手に取る。
「きれい」
 私は顔を綻ばせ、その石を片手に木の元に戻ると、土を被せた上に、墓標のように置く。柔らかな土に沈み込むような感触だった。何か意味があってした事ではない。餞のつもりもない。無意識のうちに、その石を置いていた。

 玄関を開けると目に飛び込んできたのは添島のハイヒールだった。一目でブランド物だと分かる中敷のアルファベットを口に出して言ってから、手近にあったビニール袋に入れようとすると、ヒールが引っかかってなかなかビニールに入らない。忌々しい添島の体液に吐き気を催し、幾度も手洗いに駆け込んだ。それでもどうにかして、部屋を元の状態まで戻す。
 殺害した直後に比べるとかなり落ち着いて来た。週明けには警察に捜査願いが出されるかも知れない。万が一、取り調べをされた時にどう対応するか、脳細胞を酷使した。夕飯を食べていなかった事に気づいたのは、腹の虫が鳴ったからだった。これまで一週間近く、まともに食事ができなかった割には、この音を聞いていなかった。
「食べるか」
 独りごちて、キッチンへ向かう。

13

 月曜日、出勤すると居室のドアの前に総務部の面々が集まっていた。
「おはようございます」
 いつもと違う状況に、じわっと汗がにじみ出る。先輩の一人が状況を説明してくれた。
「いつもなら添島さんが鍵を開けてくれるんだけどね、今日は休みなのか鍵が開いてなくて。今、中野さんが鍵をとりに向かってるの」
 はぁ、と私は惚けたような顔をした。当然だ、あいつはこの世から抹殺されたのだから。中野さんが戻ってくるのと黒谷君が出勤するのは同時だった。私は同じように黒谷君に説明し「添島さんが休みなんて珍しいなぁ」と寄越された視線に狼狽する。
 当たり前の事だが、私に対する嫌がらせはぱたりと止んだ。添島は会社に連絡を寄越さないまま欠勤が続き、携帯にも連絡がつかないと課長が焦り始めた。
「一人暮らしだよな、家で、倒れたりしてるんじゃないか?」
 中野さんと課長は何か話し合っている様子で、どうやら彼女の家に行ってみる事になったらしい。その会話をおぼろげに聞いていた。
「楓ちゃん」
 咄嗟に掛けられた言葉に仰天し、へ? と返事にならないような返答を戻すと彼は憂いているような顔で言う。
「楓ちゃんの家を出た後、奈々美、どこかに行くとか言ってなかった?」
 そう問われ、私は押し黙った。暫く考えた末に「言ってなかったけど」と大袈裟に不安げな顔をして返す。
「どうしちゃったんだろうな、あいつ。何か犯罪にでも巻き込まれたのかもな」
 腕組みをして、熟考しているらしい黒谷君の横顔を見つめた。
「ご家族は、遠方なの?」
「あいつ、家族いないらしいんだよな。だから行方不明になったら会社が捜索願いだすのかなぁ」
 私の顔を覗き込みながらそう言うので、「さぁ」と私は視線を中空に漂わせる。

 添島の住むマンションの管理会社に鍵を開けてもらったところ、部屋に添島はおらず、結局会社が警察に届け出た。となると、捜査の手が自分に向かうのは時間の問題だった。

「松下さんの家に寄って帰ったという事で間違いないですね」
 スーツを着た刑事にそう問われ、私はなるべく歯切れよく「そうです」と答える。
「近くのコンビニの防犯カメラに、彼女らしい人物が映ってたんだけど、その後どこかに行くとか、そんな話は聞いてなかったですか?」
「ないですね。家に帰るようでしたけど」  玄関の壁に凭れて刑事の質問に答える。もう一人の小柄な刑事が私を値踏みするように視線を動かしているのが不愉快だった。添島と私の髪型は殆ど同じだった。顔さえ誤摩化せればコンビニの防犯カメラなんて敵じゃない。
「松下さんのところには恋愛の相談、みたいなもので行ったようだ、と同僚の方が仰ってましたが、それは間違いないですか?」
 無言で頷く私に、彼らも同じようにして頷いてみせた。

 添島は、入社してすぐに総務部に配属された。仕事はかなりできる人間で、部署にとってはなくてはならない存在だった。穴を埋めるために、本社の総務部から、越智さかえさんという女性が異動してきた。私は不本意ながら添島が座っていたデスクに移り、越智さんは教育担当となる黒谷君の隣に座る事になった。それでも新棟の居室レイアウトの件で黒谷君に関わる時間が多く、小さな会議室で彼は毎回のように私にキスを求めるようになった。
 勿論私だって悪い気はしない訳で、あんな奴の空いた穴に収まるのは心外だったが、なし崩し的に彼と身体の関係をもつようになった。

「越智さん、二人になると俺に色目使ってくるんだよな。あれ、どうにかなんねぇかな」
 ベッドで彼の腕に抱かれながら、「越智さんが?」と彼の顔を見る。
「あのハキハキした感じが、奈々美に似ててさぁ、苦手なんだよね。って俺、奈々美がいなくなって清々してるみたいな事言ってるな」
 自重気味に笑った彼に、私は笑い返す事ができずに、ただふっと小さく声が漏れるだけだった。
「今の俺には楓しか見えてないのにな。なぁ、楓」
 そう言って私の髪をかきあげ、唇を重ねる。あいつが抜け殻になったこの家で、こうして二人抱き合っている事が妙に滑稽で、口端に笑みが溢れてしまう。生き残った私の勝ちだ。死んだあんたの負けなんだ。

 残っていた消火器点検をするために、点検表を持ち中野さんと廊下に出た。彼女は無言で三階への階段を上り始めた。私は後ろからついていく。
 ふと、彼女が足を止め、こちらを振り返る。
「ねぇ、黒谷君と付き合ってるの?」
 私は暫く彼女の目をじっと見据えた後、「そうだよ」と答える。その声は自分でも驚く程、冷たい物だった。しかし彼女も負けず劣らず無機質な声を出す。
「奈々美のおこぼれに預かれて良かったね」
 すっと踵を返し、点検作業に入った。おこぼれという言葉は気に食わなかったが、下手に話してぼろを出さない方が良いと判断し、その言葉を無言で受け入れた。
「まさか、奈々美の失踪に松下さん、関わってないよね?」
「まさか。中野さんこそどうなの?」
「関わってる筈ないでしょ」
 中野さんが視線をこちらに寄越さなかった事に救われた。声は隠せても、瞳に現れる動揺は隠しきれるか自信がなかったからだ。

14

 異変が訪れたのは、あいつがいなくなって一ヶ月が過ぎた頃だった。
 相変わらず添島奈々美は行方不明で、時折刑事が話を聞きにくるが、こちらが慌てふためくような状況にはならなかった。捜査は進展せずといった様子だ。
「ちょっと松下さん」
 私のデスクに歩いて近づいて来たのは越智さんだった。「何ですか?」
「黒谷君と私は仕事で一緒にいるの。それを僻んで嫌がらせするの、やめてくれる」
 それだけ吐き捨てるように言って、自分のデスクへ戻って行く。あまりの出し抜け振りに声が出なかった。嫌がらせ? そもそも越智さんとは殆ど喋った事もないような間柄だ。嫌がらせだってした覚えはない。
 隣に座る中野さんが「何やったの、松下さん」と問うが、全く心当たりがないのだ。
「何やったんだろ、私......」  中野さんは明らかに怪訝な表情で私を見遣り「何そのすっとぼけ感」と少し身体を引く。

「嫌がらせはやめろって、言うんだよね。越智さんが」
 黒谷君はちらっと私に視線を向け、「でも何もしてないんだろ」というとまた図面に目を落とす。
「してないけど。どんな嫌がらせなのかも分からないまま席に戻っちゃうからさ。今度言われたら私が何をしたの、って聞いてみるか」
 再び図面から顔をあげた黒谷君は「それはちょっと」と言ってひと呼吸置いた。
「やめた方がいいんじゃない? 徹底的に無視すればいいよ、楓は何もしてないんだから」
 この世の中で私の味方は彼だけでもいいとさえ思った。楓は何もしてないんだから。そう言い切ってくれる言葉が嬉しくて、私は笑みを浮かべた。
「そうだよね、どんと構えてたらいいんだよね」

 しかしその後も何度か、同じようにして越智さんが私に苦言を呈しにくる事があった。
「証拠でもあるの?」
 そう問うと彼女は口ごもる。証拠はないらしい。どういう訳か、状況が私と添島の関係に酷似している事に気付き、胸に何かがつかえるような感覚に見舞われた。彼女は課長に嫌がらせについて話したらしく、私は課長に呼び出され、事実関係を問いただされた。
「私は何もしていません。一体嫌がらせって何なんですか?」
 課長に聞く分には害はないだろうと思い、そう問う。
「まぁいくつかあるみたいだけど、酷いのはカッターの刃が入った封筒が置かれてたっていういたずらだな」
 課長の言葉を最後まで聞く事なく私は目眩に襲われ、その場にへたり込んだ。
「どうした?」
 息も絶え絶えに私は声を絞り出した。「私も、されたんです、それ」
「誰に?」
「多分、添島さん......」
 あの時確実に息の根を止め、あの柔らかな土の下に埋めた。確実にやった筈だ。それがなぜ今になって、添島の嫌がらせが甦っているのか。しかも今度は、越智さんに。私はデスクに手をつきながらやっとの思いで自席に辿り着くと、暫く額に手を当てて目を瞑っていた。確認しなきゃ。あそこから、添島が這い出ていない事を。

 週末、黒谷君からの誘いを翌日に回してもらい、土曜の夜にあの地を訪れた。あの日と同じような暗闇で、あの日よりも格段に冷たくなった空気を吸い込みながら、あの三角錐を探した。
「あった」  ほっと胸を撫で下ろした。そこはあの時のまま、周囲より少し膨らんでいて、その真ん中に三角錐の石が置いてある。掘り返された形跡はない。試しに足元の方を少し掘ってみると、忌々しいピンク色の鞄が見えた。すぐに土で覆い隠す。

 翌日の夜、黒谷君は私の家に来た。簡単に作った夕飯を、テーブルに並べて食べる。
「この前の越智さんの嫌がらせの件ね、私と同じような事されてるみたいなの。カッターの刃」
 煮物を口に運びながら彼に視線をやると、一瞬、彼の顔が強ばった。
「同じって、何、じゃぁいなくなった奈々美が嫌がらせしてるとか?」
「分からないけど、誰がやったかって証拠がないっていうのも、その辺も似てるなって思ってね」
 むつりと黙り込んだまま、ご飯を口に運ぶ。味覚が欠落したように、何も感じない。突然、黒谷君は大きな声で「大丈夫だよ」と言ってカラっと笑った。その笑顔が、酷く場違いな気がしてならない。
「とにかく楓は何もしてない。それでいいじゃん」
 その、場違いな笑顔が強引に私の苦悩を一掃しようとするのがどうにも不愉快で、私は眉根を寄せたままご飯を突いた。まだ何か起きる気がする。私は不安なまま、彼に抱かれ、月曜日を迎えた。

15

「松下さん、これ、どういう事」
 凄んだ口調でスタスタとこちらへ歩きながら、越智さんの手には何かが印刷された書類が握られている。既視感があった。
「松下さんでしょ、これ書いたの」
 幾度か目にした事のある、標準的なゴシック体で埋め尽くされたA4用紙の左上には「越智さかえ」と書かれている以外、殆ど同じと言って間違いなかった。泥棒猫、黒谷を返せ、黒谷から離れろ、死ね、自殺しろ。
「こんな程度の低い嫌がらせするぐらいなら、直接私に言ったらどう?」
 まじまじと見据えられ「私じゃないんだけど」と口ごもるも彼女は態度を変えず、その紙を私に突き出している。ふと視線を横にずらすと、奥に座る黒谷君と目線があった。しかし彼はすっと、ごく自然な呈で視線を逸らせた。その代わりに、課長をはじめとする面々からは痛い位の強い視線で凝視される。
「私じゃないの、私も同じ事されたの、前に。だって私の名前なんて書いてないでしょ? 私が犯人だって、どうして決めつけるの?」
 する必要もない言い訳を必死で探した。犯人は私ではないのだ。それなのになぜこんなに必死になって。間抜けにも程がある。
「黒谷君から離れろとか、誰の特になるの。松下さんしかいないでしょ」
 課長が立ち上がるのが分かった。制止しに来ようとしているのだと思い、私は課長に目をやり手でその動きを逆に制した。
「あの、さ、後でちょっと二人で話しよう。そうしよう。課長、それでいいですか?」
 中途半端に腰を上げた姿勢で静止していた課長は「あぁそうすると良いと、うん」と何とも歯切れ悪い言葉を残し、業務に戻った。

 いつも、新棟のレイアウト構想に使う会議室に、越智さんと向かい合わせに座った。彼女はむすっとした表情で、口を尖らせている。
「あの、私も全く同じような手紙が送りつけられた事があって。課長にも言ったんだけど、カッターの刃が送られて来たんでしょ?それも私、された事あるの」
 目の前の彼女は不審気な顔を崩さぬまま一つ頷く。
「私もやられたの。あとは私の写真を切り刻まれた物が机に置かれてたり、服を破られたり。全てが同じ人の仕業かは分からないけど、多分、行方不明になってる彼女、のせいだったと、私は思ってたんだ」
 そこまで言うと、彼女の目には多少の安堵の色が見えた。信じてくれるらしい。
「でも、だとしたら、私に嫌がらせしてるのは誰なのかなあ、松下さん、思い当たる?」
 腕組みをして唸るようにして思考を巡らせる。黒谷君に女が近づく事を嫌う人物。それもごく近くにいて、私達の行動を把握できるような人物。
「中野さんかなぁ......」  ほんの思い付きをぽろりと口走ってしまい、後悔する。「呼んでくる」そう言って彼女は居室に戻っていった。

「何なの」
 中野さんは気怠げな態度で会議室に入って来た。
「単刀直入に訊くけど、私と松下さんに嫌がらせをして黒谷君から引き離そうとしてるのは、中野さん?」
 思いっきり顔を顰めた中野さんは「何の得があってそんな面倒な事やるの」と口を尖らせ、脚を組んだ。
「あのねぇ、私、彼氏いるから黒谷君には興味ない。それに、自分に振り向いてもらいたいなら、片っ端から嫌がらせなんてしないで、他の方法をとるんじゃない?」
 確かにそうだ。いくら嫌がらせをしたところで、黒谷君が振り向いてくれる訳ではない。会議室が静寂に支配され、時計の秒針がいたずらに軽妙な音を立て、正確に時間を進めていく。
「とりあえず、私でも中野さんでもないって事で、納得してくれる?」
 向かいに座る越智さんを見ると「うん」と首を縦に振り「疑ってごめん、被害に遭ってるなんて今日初めて知ったから。ほんと、ごめん」と謝罪された。

 それでもまだ、越智さんへの手紙は送りつけられ続け、金曜日で五通目を数えた。その度に彼女は私に手紙を見せに来た。内容は毎日少しずつ違うけれど、罵詈雑言の羅列である事には変わりなく、それでも気丈に振る舞っている越智さんは強いなと思わずにいられなかった。
 私への嫌がらせはきっと、あいつの仕業に違いない。そう思い込まずにはいられない。そうでなければ、私があの女を消し去った意味がなくなるのだ。しかし越智さんへの嫌がらせはどう考えても別の人間の仕業だ。私が添島から受けた嫌がらせを全て知っている人物。それでも中野さんではない。職場の誰か。昼休み、中庭のベンチに腰掛けて考える。二月の寒空は思考回路を冷却してくれると期待して。

「何してんの」
 さわやかな笑みをたたえて近づいて来たのは黒谷君で、私の隣に腰掛けた。
「嫌がらせの犯人が全然分からなくって。その事を考えてた」
 そう言って少し浅く腰掛けて背を反らせる。空はただ一様に淡い青だけを塗り籠めたようで、白い雲が見当たらない。場違いな太陽が、光を放って眩しい。その眩しさが、今は鬱陶しかった。私は上を向いたまま長く溜め息を吐いた。
 横から、クツクツと笑い声が聞こえた。それは確かに隣から聞こえる音で、私は身体を起こして笑い声の主を確認する。間違いなくその声は黒谷君の身体から発せられ、笑っているのに奇妙にひしゃげた顔に妙な違和感を感じる。
「まだ分からないの。男が絡むと女は皆必死になるんだよな、醜いよな」
 唖然として彼の歪な笑顔から視線が外せない。口はぱくぱくと動くのに、声が出ない。
「女が醜い争いをしてるを見るの、俺、大好きなのね」  そうして口元を押さえてまた笑う。 「お前の事なんてこれっぽっちも好きじゃないから、俺」
 そう言い残して彼は立ち上がり、まるでスキップをするように歩いていく。開いた口を塞ぐ事ができないまま、彼の広い背中をじっと見ていた。
 ふと、脚を止めて彼は小走りにこちらへ戻って来ると、動けないでいる私の耳元にキスをするように唇を当てた。そして囁く。
「奈々美の事、殺してくれてありがと。楓が一番面白かったよ」
 今度こそ踵を返し、跳ねるように歩いていく彼の後ろ姿は、徐々に歪んでいき、気づいた時には頬に落ちた涙が冷気で冷えていた。
 立ち上がると膝が言う事をきかない。暫くその場で膝を押さえ、脚を引きずるように居室へ戻った。早退する、と課長に告げた事は覚えている。自宅までどうやって戻って来たのか、記憶が定かではない。

16

 男が絡むと女は必死になる。
 醜い。
 見るの、俺、大好き。
 お前の事なんてこれっぽっちも。

 奈々美の事、殺してくれてありがとう。

 楓が一番面白かった。

 思考は混乱し、黒谷君が言った言葉は脳内を所狭しと行き交う。そのうちに内蔵から迫り上がってくる不愉快な固まりが、呼吸を邪魔しだす。全てに合点がいった時、錯乱状態に陥り、私は目につくもの全てを壁に投げつけていた。ここで不愉快な臭いを放ちながら命の炎を消した、いや、私が消したあの女は、結局何も手を下していなかったのだ。ただただ黒谷君の事が好きで、奪われたくなかっただけなのだ。なぜあの女を殺した。殺されそうになったから? 彼女は本気で私を殺そうとしたのか? あの時少しでも冷静になれたら。冷静に話し合いをしていたら。

 黒谷岳が、手を下していた事に気づいていれば。

 倫理的思考は限界に達し、その場で多分私は、悲鳴のような音を発したのだけれど、自分の耳には届かないまま、壁から生えていたテーブルタップを引っこ抜き、向かいの壁に投げつける。
 ふと、頭の中に緩く暖かい粘液が流入して来たような気がして私は、投げつけた長いテーブルタップを手に持つと、自然と口元に笑みが零れた。車のキーを手に外へ出ると、つんざくような冷気が薄着の身体を射抜く。

 吸い寄せられるように夜の道を車で進む。暗闇に包まれた雑木林の入り口を車でくぐった時に、周囲には車が一台もいなかった。いたって良かった。見られても困らなかった。
 車のヘッドライトはいつまでも雑木林の闇にはとけ込まないまま、奥へ奥へと誘うように光を遠くへ届ける。
 その光が、大きな木を照らすとともに、小さな突起物が目に入った。三角錐だ。
 車のエンジンを切り、スペアタイヤを取り出す。ちょうど良い高さだった。木の幹に立てかけるとタイヤは自重で少し土にめり込んだ。私はタイヤに乗ると、幹から生える太い枝に、雑木林にはちぐはぐに見えるテーブルタップの長いコードを掛けた。酷く冷静な頭の片隅が、しくじらないようにコードの掛け方を考える。

 少し歪んだ円を描いたコードから覗き込んだ、底に視線をやる。あの時、少し奥まった林の中で見つけた、このコードのように場違いな程人工的な三角を張り合わせたような石が、こちらにその先端を向けている。

「ごめんね」

 誰に言う訳でもなく、その言葉が口から溢れ出た。私は多分、笑っていたと思う。
 その石に手を伸ばすように、円の中に顔を挿し入れ、タイヤから足を離した。

 届かない。私の身体はただ振り子のように揺れて、そして視界は、閉ざされた。

FIN.(あとがきあり)



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