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「おはようございます」
「在室中」のマグネットを貼りつけて席につく。
 ふと目にとまったその小さな箱は、ホッチキスの針の箱だった。私の私物ではない筈だが、私の机の真ん中に置いてあるという事は、私に宛てられて置かれたのだろうと想像がつく。
 箱の片側を開けて、小さな暗闇を片目で覗き込むと、ホッチキスの針は入っておらず、代わりに細かい紙切れが入っている。
「おはよう」
 出勤してきた黒谷君に「何してるの?」と怪訝気な目を向けられた。
「これが机に置いてあって。中に何か入ってるんだよね」
 小首を傾げながら彼にその箱を見せ、開いた部分を下に向けて中身を机に出した。思いの外、勢いよく滑るように落ちてきた紙切れの数々。それを見て私は短く悲鳴を上げた。
 見た事のある顔の、欠片。毎日鏡で見ているこの目。見覚えのあるピアス。新入社員紹介に使われた写真だ。
「え、もしかしてこれって楓ちゃんの写真?」
 黒谷君は、口に手を当てたまま何も言えないでいる私に小声で言う。周囲に聞こえないようにしてくれているのだろう。私は無言のまま頷く。首以外は動かせない。それぐらいに身体が言う事をきかない。
「これ、酷いな......」
 彼はごくりと喉を鳴らし、その紙切れを少しずつ、元あったように箱に入れると、足元のゴミ箱にぽいっと投げた。私はその行動を横目で見ながら、体中の血液がどこかに蒸発していってしまうような強烈な寒気を催した。
「顔、真っ青だよ、大丈夫?」
 私の顔を覗き込む彼の目が優しく、鼻の奥がツンとするが、私は涙を必死で堪えた。
「大丈夫、だから」
 震える声でそれだけ言うと、パソコンを立ち上げた。視線は感じていた。じっとこちらを見ている視線。添島さんの無機質な視線。証拠なんてなくても、それだけで十分な気がしてくる。
 こうして黒谷君が心配の目を向けてくれることさえ、彼女は気に入らないのだ。きっとまた何か仕掛けてくる。だからといって私には彼女を糾弾する手立てがない。証拠が無いのだ。

 同期の中野さんと一緒に、消火器の設置場所点検をする事になった。私は穴の開いたカーディガンを燃えるごみとして処分し、自宅から別のカーディガンを持ってたので、それを羽織って廊下に出る。
「ねぇ、松下さんさ」
 出し抜けに中野さんは口を開く。構内図に赤丸を書きながら私の声を待っている。「なに?」
「黒谷君と、あんまり仲良くしない方がいいよ」
 図面から目を上げて私を見た。同情も、哀れみも、優しさも、何も宿っていない瞳をしている。
「私、特別仲良くしてるつもりはないんだけど、中野さんから見て、どう見える?」
 再び図面に目を落とした彼女は少し首を傾げて「そうだね」と間を空けた。どこかの部署の電話の音か短く鳴って途切れた。
「私から見たら特別仲良くしてるように見えなくても、奈々美から見たら......って事だから」
 分かるでしょ?と付け加える。私は首肯するしかなかった。まさか証拠も無しに「嫌がらせされてる」なんて言えない。それに中野さんは添島さんと仲が良い。添島さんを糾弾するような話には抵抗感がある可能性がある。
「黒谷君、私の教育担当だから、色々と教えてもらう事が多くって、そういうのとか、どうしようもないよなって思うんだよね」
 言い訳のような事だと理解しながら彼女に視線を向けると、中野さんはフン、と鼻で笑った。
「まぁせいぜい奈々美の怒りを買わないように気を付けなよ。ま、もう買ってるかもしれないけどね」
 図面からずらした目線をこちらに寄こす。その目は添島さんの無機質な目にそっくりで、私はぞっとした。
 中野さんは真実を知っているのかもしれない。もしかすると共犯......考え過ぎか。しかしその可能性は否定できない。

 居室に戻ると一通のメールが届いていた。部長からだった。
「メール見た?」
 黒谷君に言われて、首を横に振りながらすぐにメールを開いた。
「新棟のレイアウト? 二人で?」
「うん、机とか、給湯とか、倉庫とか? 場所を考えろって事だよね」
 黒谷君は腕組みをしている。私はもう一度訊いてしまった。「二人で?」
「そういう事だよね、だって俺ら二人にしか送信されてないし」
 受信者の欄には黒谷岳様、松下楓様、と二人の名前が仲良く並んでいる。CCの欄にはこの居室全員の名前が勢揃いしていた。軽く頭痛がした。こんな大きな仕事、二人で仕上げるなんて。厄介な事になるなぁとため息が漏れた。
「え、もしかして俺と二人じゃ、いや?」
 私はぶんぶんと首を振った。「そうじゃないよ、そうじゃない」
 よかった、と口端に笑みを浮かべて彼はディスプレイに向かった。