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「例の、レイアウトの件、工務部から図面が届いたから、後で隣の部屋で相談しない?」
 添島さんの視線を背後に感じながら「了解」と短く言い、手元の仕事を片付けた。
 大きな図面と、メールで送られてきたA4の図面を持って居室を出て、隣の小さな会議室に入った。
「はぁ、やっと逃れられる」
 溜め息まじりに言うと、黒谷君は口元を引き上げて「何が、何から」と少しからかうように顔を覗き込む。
 テーブルの上に図面を広げ、向い合せに立って話を進めた。机やコピー機、細かい物の配置は簡単なようでいて意外と難しい。業務効率の良し悪しがかかっているのだ。二人で難しい顔をしながら考え込む。
「ちょっと休憩しよっか。待ってて」
 それだけ言って彼は会議室を出て行った。私は図面を見ながら配置を考えていた。それでいながら、今この瞬間にも添島さんは私に嫉妬しているのかと思うと、強烈な恐怖感に襲われる。次は何をされるのだろう。出社するのが恐ろしくなってくる。
 幼い頃から、誰とでも仲良くできる人間だったと自認している。誰かに恨まれたり、妬まれたりするような特別な特技も無かったし、目立つ事もない。ごくごく普通に生活してきた。それゆえに、「いじめ」などとは程遠い生活をしていた。ふと、中学の頃に嫌がらせをされていた嵯峨さんという女性の事を思い出した。多くの生徒と同じように、私は嫌がらせに無言で加担していたので、彼女と話をした事はないけれど、今なら彼女の気持ちが少し、分かるような気がした。私はいじめに遭っている。嫌がらせを受けている。彼女もこんな風に、翌日自分を待ち構えている嫌がらせに、恐怖を覚えていたに違いない。
「お待たせー」
 会議室のドアを開けて入ってきた彼は、両手に缶コーヒーを持っていた。手渡されたそれは暖かくて、冷え切った指先には熱いぐらいだった。
「ありがと、あとでお金払うから」
「いいよ、そんぐらい」  ハハッと短く笑い、コーヒーのプルタブを引きあげた。

 レイアウトは一日で仕上がる様な物ではなく、計測などもしながらゆっくりやっていく事になった。
 会議室から居室に戻り、私は缶コーヒーの缶を水ですすごうと思い黒谷君に「缶、洗うから」と言って手を伸ばした。
「あぁ、ありがと」と彼はこちらに缶を寄こす。給湯場に近い添島さんは缶の動きをじっと目で追っている。会議室にいるうちに缶を回収しておくんだったと後悔した。

 翌朝出社すると、嫌な予感は当たった。机の真ん中に、封筒が置かれている。女性ものらしい薄いピンクの封筒だった。
 すぐに開けようとしたが、口がぴっちり糊付けされていて、封を千切るかどうか迷い、結局ははさみで封を切る事にした。封筒の、厚みが無いのに妙な重さがある事が気になった。
「おはよう」
 いつものタイミングで黒谷君が隣の席についたので私も「おはよう」と返しながら、ペン立てに置いたハサミに手を伸ばした。
 その瞬間、封筒から何かが飛び出し封筒が破ける感覚が手に伝わってきた。パッとそちらに目線をやると、鈍色に光る何かが指を突き刺し、赤い液体が出ていた。痛みは遅れてやってきた。
「え?」
 私は起こっている事が飲み込めず、うろたえていると、それを見た黒谷君が足早に救急箱から絆創膏を持ってきてくれた。剥離紙をめくって「手、寄こして」と言われたけれど、また背後に冷たい視線を感じていた私は「自分でやるから」と言って絆創膏だけを受け取った。受け取る指先が、震える。
「それも、机に置かれてたの?」
 指に肌色の絆創膏を巻きながら頷いた。ピンクの封筒には真っ赤な血液が少し、付着した。穏やかな桜の花の中から現れた攻撃的な薔薇の花弁のように見える。彼はその封筒を手に取ると、丁寧に封を切った。
 中から出てきたのは五本ものカッターの刃だった。
「普通、ここまでやるか?」
 彼の顔には怒りの色が見え、私は目を伏せた。それでも添島さんがやった事であるという証拠は何もない。どうみても女性用の封筒だけれども。
「このままにしておいていいの? もっと危ない目にあうかもしれないよ?」
 拳を握りしめ、黒谷君はまるで自分の事のように心配してくれている。私はどうしていいか分からず、歪んだ顔でこめかみを押さえた。
「誰がやったのか証拠が見つかるまでは、何もできないよ。責められないよ」
 クソッと黒谷君は足元にあるゴミ箱を蹴とばした。壁にぶつかったゴミ箱はコトンと音を立てて倒れた。
 斜め後ろを振り返ると、添島さんがこちらを見ていた。全く感情のこもらない目線は中野さんの目線と同じだった。中野さんと添島さん......。まさか。