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1 後ろめたさからの解放

 「面倒臭い」、が口癖になっている事は自覚している。
 女としてそれはどうなのかと問われると――女とか、男とか、関係ないから、と思う。

 面倒臭いと言いつつも、仕事は全力でこなしてきた。これは、自分にとってプラスになるからだ。
 以前在籍していた会社(業界中堅)に入社してすぐ、営業部に配属さた。それはそれは、馬車馬の如く働いた。
 2年目に入り、1年目の倍は働いたと思う。上司もびっくりだ。
 2年目の年度末、今の会社ハイテクニクス(業界大手)からヘッドハンティングされた。
 上司は物凄く喜んでいた。そりゃそうだ、自分が手塩にかけて(かけられた覚えはないが)育てた社員が、大手から引っこ抜かれるんだから。ま、相手が大手取引先だから、ってのもあるだろう。

 入社1年目が終わる頃、私は夫と離婚した。
 相手は、学生時代に3年間、半同棲生活を送った男で、大学を卒業するとともに入籍をした。
 私が馬車馬の如く働いている間、その男は3回浮気をした。
 いつも、私にバレるような方法で。

 要は、「かまってちゃん」だったんだろう。仕事ばかりに傾注している私を振り向かせようと、嫉妬させようと、わざと私に分かる方法で浮気をした。
 面倒臭い。そういうの、面倒臭い。他でやって。
 離婚届の半分を書いて、私は家を出た。
 初めは離婚に応じようとはしなかったが、私の頑なな態度に根負けしたらしく、残り半分を埋めた離婚届がドアポストに届いていた。

 離婚をした事で周囲の目は変わった。若くして結婚し、すぐに離婚。だらしがない。
 入社2年目、独身に戻ってからの我武者羅な働きは、バツイチ女に対する悪評を払拭する為の物だったかもしれない。元夫に感謝しなきゃ。

 私は、ヘッドハントを受ける事で、バツイチという肩身の狭い環境から、逃れられる事が嬉しかった。
 だから二つ返事で了承した。

 旧姓「落合」に変更する手続きも面倒臭くて、新姓「沢田」で新しい戸籍を作った。
 バツイチである事は今の会社では伝えていない。説明するのも面倒臭い。
 特に女。男より、女に説明するのに時間を要する。以前の会社で経験済みだ。
 沢田美奈25歳、独身。ハイテクニクスという理化学機器メーカーの営業をしている。


 私は運転免許を持っていない。運転免許を持っておらずに外回りをする事は、非常に不便だ。
 どこの取引先も、駅から近い訳ではない。それに、売り込む理化学機器には手のひらサイズの小さなものから、両手では抱えきれない大きな物まで様々ある。
 ハイテクニクスでは、基本的に営業は2人1組で回る。
 私のパートナーとなったのは、高橋という男性だ。勿論、運転免許がある。
 ひと昔前の俳優のような凛々しい顔立ちに、低い声、真面目な勤務態度。上司にも後輩にも慕われ、絵に書いたような優秀な人物。
 常に人を小馬鹿にした様な顔と態度をしていた元夫とは偉い違いだ。


「沢田さん、今日行く取引先、行った事ないよな?」
 高橋さんは私の教育担当のような位置になる。彼の入社年度、実年齢は知らない。
 取引先の名前、主な従業員の名前、仕事内容、地図等が書かれた1枚の紙を渡された。プリンタから排出されたばかりのその紙は、僅かに熱を帯びていた。
「こういうデータって全部デジタル化して持ってるんですか?」
 高橋さんはパソコンに向けていた目をこちらへ寄こし、「もちろん」と真顔でひと言。
「あの、今後の為に、データを全部いただけませんか?」
 厚かましい事とは重々承知している。だが、業務の効率化の為には、この方がいい。面倒臭くない。
 彼がいちいちプリントアウトして私に渡す手間も省ける。紙だって節約できる。
「あぁ、勿論。その方が手間が省けるな。ちょっと待って」
 机から銀色のUSBメモリスティックを取り出し、PCに接続する。「そんなにデータ量は多くないから」そう言って、私にデータ入りのメモリスティックを手渡した。
「ありがとうございます。高橋さんの血と涙の結晶を大事に使わせていただきます」
 なんじゃそりゃ、と高橋さんはその端正な顔を少し崩して笑った。

 常日頃から高橋さんは、真面目な、一見怖いような顔をしている。真面目にデスクに向かっている時の顔は、眉間にしわがより、近寄り難い。
 パートナーは高橋さんだと聞かされ、「うわ、ハズレ引いた」と内心思ったが、喋ってみると意外と気さくで、そして笑うと案外幼い顔をするのだった。


 社用車のメータークラスター(と言う名称である事は、高橋さんから聞いた)にはカードホルダーがある。五月の太陽に照らされて、プラスチック特有の嘘っぽい光を放っている。
 そこに運転手名と社用携帯電話番号が書かれた紙カードを差し込む。
 取引先で、車を移動する必要性が出てきた際に、「ここに電話して下さい」って訳だ。
 今日もそこに「高橋臨(のぞむ)」と高橋さんの名前が書かれたカードを差し込み、取引先へ向かった。
 
「新しくこちらに周らせていただきます、沢田です」
 そう言って相手に名刺を差し出した。
 額が少し後退し始めているのが分かる相手の男性が「ちょっと取ってきます」と居室と思われる部屋に1度戻り、名刺を手に出てきた。
「いやぁ、前の営業さんは男の人だったけど、今回は何だか美男美女で。いいですね」
 あぁ、なんて面倒臭い事言うんだ、この人は。返事に困る事を言う人=面倒臭い人。
 社に帰ったら、高橋さんから渡されたデータのコイツの名前に「面倒臭い」って付け足しておこう。
 とりあえず新しく発売された分析機器を売り込んだ。検討しますとの回答だった。


「高橋さん、ゴールデンウィークは出社してたんですか?」
 車中は禁煙だ。高橋さんは煙草を吸うのを我慢する為に、ミントガムを頻繁に噛んでいる。
「半分はな。取引先が休みに入っちまうから、書類仕事ぐらいしかなかったんだけど」
 食べる?と赤信号を見計らってミントガムを手渡された。「あ、いただきます」と包みを開けて噛んだ。ブラックミントガムだったらしく、舌の痺れに涙が出そうになる。
「沢田さんがいた会社は、ゴールデンウィークは休めたのか?」
「殆ど出社してましたね。書類仕事と、後輩の尻拭いと、上司の尻拭い。トイレットペーパっすよ」
 だな、と笑われた。ホント、そんな感じ。
「沢田さんって、何か飾らない感じで、いいな」
「え、それ褒めてます?」
 高橋さんはカラカラ笑った。ほら、笑った顔は幼い。
 フロントガラスから入り込む夕焼けに、街路樹の緑がやけに映えて眩しかった。

 今年のゴールデンウィークは、がっつりと取らせて貰った。
 まぁ、まだこの会社に入社して日が浅いく、そんなに仕事も無かったから。
 男もい無い、やる事も無い、ただただ部屋に籠って漫画や文庫本を読んでいた。25歳のゴールデンウィークは何ひとつ、金色に光らなかった。


2 ギャップの法則

 5月の下旬になった。
 高橋さんが珍しい事を言い出した。
「今度の金曜、呑みに行かねぇか?」
 この会社に入ってから呑みに誘われた事なんて、歓迎会の1度きりだ。
 金曜は外回りが入っておらず、定時であがれそうだった。
「はい、喜んで」
 どこかのチェーン居酒屋の店員に似た返事をして、カレンダーの金曜日の所に「呑み」と赤字で書きこんだ。時間とか、そういうの面倒だし、書かない。
 蟻みたいに黒い小さな文字で書きこまれた予定ばかりのカレンダーの中で、その赤い字は何だかくっきり浮き上がっていた。


 金曜は2人とも定時プラス1時間といったところで業務を終えた。
「行きつけの呑み屋があるんだけど、そこでいいか?」
 高橋さんがスーツの上着に腕を通しながら言った。
 行きつけが出来る程、高橋さんって呑みに行くんだな。新しい発見。
「酒が飲めればどこでもいいですよ」
 私が知っている呑み屋なんて、チェーン店ばかりでたかが知れていた。

 会社の最寄駅から少し歩いた。
 大きな道から小枝の様に伸びる細い路地は、今までその存在さえ気付かなかった。
 その路地を抜けた所に、所謂、昔ながらの居酒屋、という感じの、一軒の呑み屋があった。
「藤の木」と木彫りの看板に書いてあった。
 ガラリと引き戸を引くと、中にはカウンター席が幾つかと、小上がりテーブルが2席、テーブル席が2つあった。
「こんばんは」
 高橋さんは常連っぽい感じでヒラっと右手を挙げた。
「お、高橋さん」
 旦那、と呼ばれるその人は高橋さんを見て歯を見せて笑った。
 旦那の後から「女将さん」と呼ばれる女性が出てきて「あ、高橋さん」と、これまた大きな笑顔で笑った。
「あら、今日は女の人を連れてきてるの?珍しい。彼女?」
 女将さんは高橋さんを見てニヤニヤと笑った。
「いやいやぁ、仕事のパートナーですよ」
 そう言うと高橋さんは無言で私の背中を押したので、自己紹介せざるを得なくなった。
「さ、沢田です。高橋さんの後輩です」
 あぁこういうのも面倒臭いんです。何故店員さんに自己紹介を。


 カウンター席に腰掛け、ビールと適当なつまみを注文した。
「じゃぁとりあえず乾杯って事で」
 2人ジョッキを合わせた。カツンと乾いた音が響いた。
 金曜日という事もあり、店内は賑わっていた。
「よく来るんですか?ここ」
 店内をぐるりと見回して訊いた。日本酒の瓶が沢山並んでいる。
「あぁ、同期連中で呑みに来たり、1人になりたい時なんかに。そういや、女を連れてきたのは沢田さんが初めてだ」
「あら、そうですか」
 高橋さんが1人になりたい時って、どんな時なんだろう。興味がわいた。枝豆をぷちぷちと小皿に打ち付けながら、訊いてみた。
「1人になりたい時って、どういう時なんですか?」
 顔をあげて高橋さんを見ると、彼はバツが悪そうに下を向いて答えた。
「彼女と喧嘩した時とか、な」
 あぁ、そうですか。高橋さんには喧嘩ができる位に仲が深まった彼女がいるんですね。そして喧嘩をして1人になりたい時にこのカウンターに1人腰掛けて――あぁ、何て絵になるんだっ!
 きっと彼女は高橋さんに似つかわしく、お美しくて、甲斐甲斐しくて、できる女オーラ出まくりなんだろう。女優で言うと――。
 そんな妄想を爆発させていたのが顔に出たのか「沢田さん、顔、ニヤニヤしてっぞ」と高橋さんに突っこまれた。
「あぁ、この顔が沢田デフォルトです」
 そう返しておいた。

「沢田さんってさぁ、前の会社2年勤めたって言ったよな?」
「そうですねえ」
 高橋さんは何か指折り数えながらモゴモゴ言っている。
「もしかして、同じ年?25歳?」
「え、同じなんですか?」
「タメじゃねぇかぁ」
 なぞなぞが解けた子供の様に喜んで笑っている。幼い。
「そんじゃタメ口で頼む。俺、後輩って苦手なんだ」
 なんじゃい、その苦手意識は。後輩が苦手って。でも私だって敬語で砕けた会話ができる程器用ではないので、喜ばしい事だ。
「じゃぁタメ口で。私の事は沢田でいいし、高橋君とでも呼ぶかな」
「よし、じゃぁ飲むぞ、沢田!」
 俄然やる気になってきたと言わんばかりにガツガツ呑み始めた高橋さんに、ただただ笑うしかなかった。
 後輩面していた私に、とても気を遣っていたんだろう。優しい人なんだな。タメだと分かって、良かった。

「高橋君の彼女は、どんな人なの?」
 いきなりの質問に、ビールを吹き出しそうになっていた。いや、少し吹いた筈だ。
「な、なんで俺のそんな話題?!いや、普通の子だよ、普通の」
「普通の?それじゃ全然分かんないけど」
 むしろ普通じゃない子ってどんなだよ。
「いや、本当に普通としか言いようがないんだよ、没個性?みたいな」
 俺の話はいいんだよぉ、とサラサラした黒髪を両手でぐしゃぐしゃにした。
「お前はどうなんだ?彼氏は?」
 お前、入りましたー。いきなり「お前」いただきましたー。
 高橋君の低い声で「お前」って言われるのは悪くない。
「いないねぇ、そういうのは暫く」
 結露したビールジョッキの水を、お絞りで拭う。そう簡単に彼氏なんて出来てたまるか。こちとら泣く子も黙るバツイチだ。

 離婚した後、この会社に来るまでの1年間、私にアプローチしてきた男がいなかった訳ではない。
 私は「バツイチ」という事実が後ろめたかったし、何しろ恋愛に対して「面倒臭い」って言う言葉しか思い浮かばなかったので、誰1人相手にしなかった。恋愛をするぐらいなら、転職がしたかった。

「お前、没個性の正反対に位置してっから、すぐ男が寄ってきそうだよな」
「え、それ褒めてないよね」
 睨みを利かせると、高橋君はちょっとしょっぱい顔をして笑った。
 没個性の正反対。中身はただの面倒臭がりのだらしない女だ。外見は、まぁ今や絶滅危惧種ともいえる黒髪ストレートロング。高身長も手伝って、目立つ存在ではある。

「俺ビール2杯しか呑んでないのに、何かすっげぇ気持ちぃわ。お前、俺の呑み友になれ!」
「はぁ?呑み友?聞いた事ないんだけど」
 呆れ顔でそう言うと、高橋君はニヤニヤしながらこういった。
「女と呑んでるとな、こう、変な虫が寄ってこなくて助かるんだよ」
 確かに、ここで高橋君が1人寂しくお酒を飲んでいたら、誘ってくる女性も少なくないだろう。逆ナンってやつだ。
 それぐらい、高橋君は見た目に硬派イケメンで素敵なのであーる。

 私もお酒は嫌いではない。呑み友だろうが何だろうが、バッチ来いだ。
 それに、普段は言葉少なに仕事をテキパキこなしている高橋君が、別人のようにベラベラ喋り、陽気になっていく姿を見るのもなかなか面白い。

 その後日本酒を頼んで、ちびちび呑んだ。
 例の「没個性的」な彼女の話を色々と聞かせてくれた。
「それでも彼女にとって俺ははこの世に1人しかいない――」
 何だったっけな、忘れた。
 とにかく饒舌に話す高橋君を見ていて飽きなかった。
 仕事中の硬派な高橋君も素敵だけど、陽気な高橋君も素敵だ。
 そんなギャップに、没個性的な彼女は惚れたのかも知れない。


3 梅雨の蝸牛

 空梅雨と言われる今年の梅雨。
 雨は降らない癖に梅雨特有のジメジメ感は否めず、近所のスーパーに買い物に行くだけで、薄ら汗ばむ。
 スーパーに行く途中、アジサイの花の葉にカタツムリを見つけた。
 殻ぁ背負って移動してるなんて、面倒だろうな。別宅でも作ればいいのに。ずりずり前に進むカタツムリに同情した。

 営業の仕事をしていると、外回りの日は帰宅時間が読めず、自炊が出来ない事が多かった。
 新しい会社に入って、皆テキパキと仕事をするので、終業時間が早まったのは嬉しい事だ。嫌いじゃない料理も、週に数回、土日は必ず自炊する。
 週に1度、このスーパーに買い貯めに来る。

 カゴにポイポイと食材を放り込んでいく。
 今日は生姜焼き、明日は牛肉の炒め物でも作るか。
 先週買った、牛肉の残りが冷凍してあった筈だから、今日は豚肉だけ買い足せばいい。
 精肉売り場に足を運ぶと、生姜焼き用の肉に「特売!」のシールが貼られていた。残り2パックだった。
「セーフ」1人呟いて、乱暴にカゴに入れる。
 途中、お菓子売り場に寄り道し、チョコレートを買い、最後に朝食用の食パンを大量にカゴへと放り込み、レジに並んだ。

 前に並んでいた女性のカゴをちらりと見た。
 残り1パックだった筈の生姜焼き用のお肉がカゴに入っていた。
 ラスト1パック、この人がゲットしたんだろうか。私より先にゲットしてたんだろうか。
 ゲットって何か古臭いな。
 カゴから目を離し、そのまま視線を上げて女性を見た。
 栗色の髪を緩く巻いている、綺麗な女性だった。
 左耳に下がるクリスタル(なのかな)のピアスが店内の照明を反射し、煌めいている。その光が更に彼女の美しさを引き立てている。
 見惚れていると、後ろのおばさんに「前、前っ!」と押された。


 高橋君とタメ口で話せるようになった事で、仕事がスムーズになった。
 先月売り込みに行った機材の導入が決まり、メーカーとの連携で俄かに忙しくなった。
「今週、来週は呑みに行けそうもないな」
 高橋君はそんな事を言っていた。確かに、この忙しさでは無理だ。
「忙しいけど、お前と組んでから仕事がやりやすくなったのは確かだな」
 そんな事を言われたので、少し面倒臭いと思いつつ「営業冥利に尽きます」と真面目くさった言い方で返しておいた。


 空梅雨に油断をしていたら、今日は雨だ。
 傘をさして、いつものスーパーに行った。
 あのアジサイに、今日はカタツムリはいなかった。面倒でも餌場を求めて移動しているんだろう。
 畳んだ傘を持ちながらの買い物はとても面倒臭い。傘が邪魔臭い。
 だから私は折り畳み傘をさして行き、お店では畳んで鞄にしまう事にしている。
 面倒臭さ故だ。

 いつも社用車でミントガムを貰っているお礼に、ガムでも買うか、とお菓子売り場に寄った。
 そう言えば、前に「藤の木」に呑みに行った時、高橋君は煙草を吸って無かったな。
 煙草を吸わない私に気を遣っていたんだろうか。今度呑みに行く時は「どうぞ」って言おう。
 そんな事を思いながらレジに並んだ。

 あ、この前の人だ――。
 今日も栗色の髪をふんわり巻いている。ピアスは薄いピンクのドロップ型をしている。
 何をしても似合うんだなぁ。綺麗だなぁ。

 会計を終え、商品をエコバッグに入れる作業をしていると、隣から「あの」と声を掛けられた。
 声の主は、あの綺麗な人だった。私の顔を覗き込むようにして言った。
「あの、人違いだったらすみません。落合さんじゃないですか?」
 落合は私の旧姓だ。何故知ってるんだろう。彼女のピアスが前後に揺れている。
「はい、そうですけど、どこかで――」
 記憶を手繰ったが、思い出せない。こんな綺麗な知り合いがいたら、すぐに思い出せる筈なのに。
「高校のバレー部にいた歩ちゃんのクラスメイトの、中田です」
 頭の中で何かが繋がるガシャンという音がした。
「あぁ、中田理沙さん?!」
 返事の代わりに中田さんはにっこりと笑ってみせた。

 あぁ、そう言われれば面影がある。へぇ、あの中田さんが、こんな風に、へぇ。女って化けるもんだ(失礼)。
 中田さんは私が所属していたバレーボール部の仲間「歩(あゆみ)」と、クラスで仲が良かったお友達という訳だ。
 直接話した事はなかったが、歩が時々「理沙がー」と話していたのを思い出す。
 少し地味な印象だったが、こんなに綺麗になっているとは。
「落合さん、この辺りに住んでるの?」
「うん、ここから5分ぐらいかな。中田さんは?」
「車で10分ってとこかな。こんな所で見知った顔に出会えるとは思わなかったから、何か嬉しいな」
 緩く巻いた髪を弾ませて、キラースマイルを放った。うぉ、眩しい。
 私の実家は地方にある。地元の高校で一緒に学んだ2人が、このコンクリートジャングル横浜でばったり出会うなんて、思ってもみなかった。

「あの、私ね、会社以外で友達がいないの。良かったら、アドレス交換しない?」
 いつもなら「うわ、面倒臭い」って思う所だけれど、私も、ちょっとした奇跡的出会いに心動かされている部分があって「あぁ、うん」と言って携帯を取り出した。
 取り出した携帯のストラップに折り畳み傘が引っ掛かって、床に落ちた。
 すぐに拾ってくれた中田さんの身体から、ふんわりと薔薇の香水が香った。

「あ、良かったら車、乗っていかない?」
「え、いいの?」
 奇跡的出会い(しつこい)がよっぽど嬉しいのか、私は浮き足立って、車で送って貰う事になった。
 中田さんの車は赤い軽自動車だった。社内は中田さんの香水の匂いがして、ドアポケットにクールミントガムが入っていた。
 運転者の眠気防止にはやっぱり、クールミントガムか。ミントならなんでもいいんだろう。この前のブラックミントはキツかったなぁ。
 マンションの真ん前まで車をつけてくれた。
「じゃぁまた。メールするね」
「うん、どうもありがとう」
 赤い車が見えなくなるまで見送って、部屋へ帰った。
 部屋に戻ると折り畳み傘を玄関に広げておき「そのうち乾く」と呪詛のように呟いた。
 窓から外を見ると、しとしとと降り続く雨の向こうに、土間川という大きな川が見える。
「おぉ、増水」一見して分かるぐらいに水かさが増していた。
 顔のすぐ横にある洗濯物から、生乾きの匂いがしないかどうか確認した。
 生乾きの匂いが1度つくと、なかなか取れない、それを取るのは面倒くさい、と学習したので、部屋干し用の洗剤を使っている。
 生乾きの匂いはしなかった。代わりに柔軟剤の心地よい香りが香った。


4 男の気遣い

 久々に私も高橋君も内勤の水曜日。
「おはよう」という高橋君の声に、マウスを持たない左手をヒラリと挙げて応えた。
「忙しそうじゃん、この前の案件?」
「ん、そう。分析の誤差が酷いみたいで、メールでクレーム来てた」
 カタカタ、とキーボードを打つ。
「代理店は板挟みになって辛いねぇ」
 そう言うと、高橋君は鞄から煙草を取り出し、「俺に出来る事があったら言えよ」と言い残して、喫煙所に向かった。

 戻ってきた高橋君から、微かに煙草の匂いがした。
 元夫もヘビースモーカーだった。
 何となく、重ね合わせてしまう自分が憎らしかった。

「あの、この前さ、藤の木で煙草、我慢してた?」
 気にしていた事を切り出した。高橋君はPCのモニタから目を外し、言った。
「ああ、一応な。食事の場だし。沢田、煙草吸わないだろ。それが何?」
 やはり、気を遣っていたのか。
「そう言うの、イイから。気を遣わないで。私は煙草吸わないけど、煙草を吸う男の人って、色気があって、そのぉセクシーだから見てて飽きない」
「どこに目ぇ付けてんだよ」呆れたような顔でこちらを見ていた。
 私は、私にしては随分とストレートな発言をしてしまい、頬を赤らめた。悟られないように、PCの画面だけを見て、仕事に集中した。

 クレームが一段落した6月下旬、また高橋君に呑みに誘われた。この日も金曜日だった。
 金曜は取引先である研究機関や大学の研究室が仕事を収束させるために、私達は外勤が減り、内勤が増える。
 カレンダーに赤字で「呑み」と赤字で書き込んだ。浮き上がったその字を見て、少しワクワクした。
 この気持ちはどこからくるものなのか、この時点では定かではなかった。


 木曜日、中田さんからメールが来た。

『こんにちは。先日は急に話しかけてごめんね。よかったら今度の土曜あたり、お茶しない?私の家の近くにオシャレなカフェがあるんだ。甘いものが苦手じゃなければ、是非。
あ、お仕事なんかで忙しくなければね。では返信待ってます』

 お茶だって。お茶。女友達と最後にお茶をしたのはいつだ。
 お茶するような友達がいるか?
 そんな事を考えながら、『私で良ければ』と返した。
 今週の土曜、ランチを食べに行く事に決まった。
 オシャレなカフェってどんなだろう。お店を前持って調べる事はしなかった。理由?そりゃ、面倒だから。
 ベッドに寝そべって、読みかけの本と、家事の合間に開けた飲みかけのビールで夜を過ごした。
 開け放った窓から入りこむ、雨が降る前のような青臭い匂いがする風が好きだ。
 肺一杯に、その風を送り込む。

 金曜日、書類仕事に手間取ったわたしに高橋君は助け舟を出してくれ、7時には業務を終えた。2人並んで藤の木へ向かった。
「暑いなぁ」歩きながらそう呟き、長い黒髪をひとつに束ね、結わいた。
「そのヘアスタイルも、いいな。うなじが堪んねぇ」
 どこのオヤジだよ、と一喝し、藤の木の暖簾をくぐった。
 大将は先日と同じように、歯を見せてニカーッと笑い、女将さんはカウンタ席の隅を勧めてくれた。

「じゃ、お言葉に甘えて、煙草、吸うから」
 そう言って胸ポケットからライターを取り出した。
 無骨なライターには似つかわしくない、女性もののストラップが、そこにはぶら下がっていた。
 それを手にとって聞いた
「このストラップは彼女から?」
 明らかに耳まで赤く染めた高橋君は、私からライターを分捕ると「勝手に付けられた」とちょっと不機嫌な顔をした。
「勝手にィ?またまた、携帯だけでは飽き足らず、俺の持ち物全てに彼女の痕跡を、ってかぁ?」
 ニンマリと笑うと、高橋君の顔は不機嫌そうな顔からしょっぱい笑顔に変わった。
「そんなんじゃねぇよ。俺は携帯にストラップなんてつけない主義だから」
 ほれ、と黒いスマートフォンを目の前に出した。本当だ、ストラップがない。
 そう言えば、社用に使うグレーの携帯しか見た事が無かった。私用の携帯はスマートフォンなのか。番号も、メールアドレスも、知らないや。ま、面倒臭いし、いいか。
「お前のはどんなんだよ」
「私もスマホだよ」
 ストラップには、毎年行っている野外ロックフェスのリストバンドが付けてある。
「ストラップ代わりのリストバンドだよ」
「え、お前フェスとか行くんだ。何聞くの?」
 私の趣味といえるのが読書と音楽。音楽はパンク、ロック、エレクトロ、洋楽邦楽、あらゆる方面を聴く。元夫とも、この趣味が高じて付き合いだした訳だ。
 大体最近聴いてるのは――なんて話をしたら、高橋君が目を輝かせた。
「俺もスゲェ聴くよ、そういうの。何だ、結構共通点あんのな」
 え、音楽以外にあったっけ――思い出すのも面倒で、適当にヘラヘラ笑った。
 それから暫くは、音楽の話に花が咲いた。

 お酒もいいペースで進んだ。
 高橋君は、酔って陽気にはなるけれど、酔いつぶれたりする事はなさそうだ。
 私も同じような物だ。
 そして煙草もよく吸う。話が替わると吸っていた煙草をガラスの灰皿に押し付け、新しい1本に火を点ける。とても旨そうに、目を細めて吸う。
 空気の揺れで、煙草の煙が私に向かいそうになると、逆の手に持ち替えて煙をこちらへ寄こさないように配慮してくれる。とてもできた人だ。

 話が途切れた所で、また新しい煙草に火をつけた。
 ストラップがついた無骨なライターがテーブルに置かれる。
 女性ものの、綺麗なビーズをあしらったストラップ。
 考えてみれば、彼女からのプレゼントだとしたら、男物の無骨な物をプレゼントするだろう。こんな、どこからどう見ても「女物です、キリ!」なんて物をプレゼントして、付けてくれる男の方が少ない。
 となると、高橋君の言う通り、彼女が勝手につけた、というのは強ち嘘ではないのかも知れない。
 私の視線に気づいたのか、高橋君はライターをポケットにしまった。別にいいのに、出しておいても。

「ところでさ」
 急にいつもの、真面目な、固い顔に戻った。こちらまで姿勢を正してしまう。
「何?」
「お前、まだ彼氏出来てねぇ?」
 恐ろしい位の鋭い視線が突き刺さる。あぁ、この人怖い。顔も語り口も堅気じゃない。
「で、出来る訳ないでしょ、この1ヶ月でなんて」
 その鋭い視線から逃げるようにして、お皿に残った鶏なんこつをひとつ、素手でつまみ、口へ放り込んだ。緊張して、口の中で軟骨が逃げる。
「出来たら、言えよ、俺に」
「ハァ?」
「いいから、言え」
 憮然とした顔でそう言った。「あ、はぁ」と答えるのが精いっぱいで、その意味まで深く考えなかった。

 お会計を済ませ、外に出る。もう7月を目前にしている夜の空気は、ちょっとした刺激で雨に変わるんじゃないかという位、湿度が高い。
 居酒屋の中は冷房が効いていて涼しかったから余計に、この湿気が鬱陶しい。

 高橋さんの家は駅から徒歩で帰る事が出来ると言う。
 私は駅から2駅、電車に乗る。
 駅前で「じゃぁ、また来週」と言い、手を振って歩き出した。
「おい」
 不意に呼び止められた。
 振り返るとすぐそこまで高橋君が迫ってきていた。

 短くキスをされた。

 訳が分からなくて、恥ずかしくて、体中の血液が顔に集まってきたみたいにホカホカしてきて、「何なの」ぽつりと言った。それしか言えなかった。
「俺も良く分かんねぇんだ。でも、こうしたくなった」
 高橋君の頬も上気していた。
「好き、なんだと、思う」
 そう言い残し、踵を返して駅の向こうへ走って行った。
 私は暫く茫然とその場に立ち尽くしていた。

 好き、だって?彼女がいて、それでも私を好きだって?冗談じゃない、そんな面倒臭い事に巻き込まれて堪るか。
 そう思う自分がいる反面、ここ最近、高橋君の色々な面を目にして、実は少しずつ惹かれている自分がいる。
 後者は決して表に出してはいけない自分だ、と思っている。
 だけど相手に「好きだ」と口に出して言われると、何故だか自分も好きになったかのような錯覚に陥る。
 錯覚であって欲しい。改札口に向かって歩き出した。足取りは重かった。

 自宅に帰ると、携帯に中田さんからメールが着ていた事に気づいた。
 明日はお茶するんだった。
 時間と場所を確認し、シャワーを浴びてベッドに入る。
 なかなか寝付けなかった。


5 ヨーグルトの物理

 浅い眠りから目が覚めた。
 熟睡感が殆どなく、なかなか身体を起こせない。目蓋が、重くのし掛かる。

 昨日のアレは、何だったんだ。
 私に何を期待しているんだ。
 ああ、面倒臭い。彼女がいるならそれでいいじゃないか。
 何で私なんかに――。

 鉛のように重い身体を、トリモチから引き剥がすように起こし、キッチンへ向かう。
 コーヒー豆を電動ミルで挽き、コーヒーメーカーにセットし、コーヒーを淹れる。
 コーヒー好きにとってこの作業は面倒ではない。
 朝1杯のホットコーヒーを飲んだ残りは、冷蔵庫で冷やしてアイスコーヒーにするのだ。
 コーヒーを淹れる間に食パンを1枚焼く。
 そしてその間に蜂蜜をかけたヨーグルトを用意する。
 めんどくさがりでも、朝ご飯はキチンとしている。

 朝ご飯を食べている最中も、高橋君の言葉が耳を離れない。耳なし芳一の如く、耳だけ切り取ってしまいたい。
 浮気を3度もした、元夫を思い出す。
 性格は違えど、やっている事はアイツと同じではないか。
 そんな風に高橋さんを詰ってやる事が出来たらどんなにラクか。
 ただ、それができなかった。
 あのキスを、避ける事は出来た筈。
 キスをされて不快なら、ビンタの1発でもお見舞いしてやる事だって出来た筈だ。
 なのに身体は動かなかった。

 私は彼に、惚れている?

 スプーンからヨーグルトがボタリとパジャマに落ちた。慌ててティッシュで拭うが、水分がパジャマの綿に吸い取られ、柔らかだったヨーグルトは徐々にその身を固くしていく。


 当面の問題。
「仕事がやりにくい」
 
 
 お昼前、会社の最寄駅で中田さんと待ち合わせをした。
 今日は小振りのコバルトブルーの石がついたピアスに、茶色い巻き髪、鶯色のスカートに白いシャツを着ていた。何を着ても絵になる。
 私はデニムに――以下省略。
 叶う筈もない美しさに、少しの羨望と、少しの嫉妬が綯い交ぜになって、ぎこちない笑顔で挨拶をした。

 彼女の自宅の最寄駅と、私の勤める会社の最寄駅は同じだった。
 訊いてみると「会社も駅の近くなの」だそうだ。便利で良いな。
 昨日、高橋君に突然キスをされた、あの場所に目が行く。
 一瞬足が止まってしまった。

 案内されたカフェは「ディーバ」というカフェで、床から天井に伸びた大きなガラスから、外が一望出来る。
「アボカドのサラダ丼がイチオシらしいよ」
 レジで並んでいると中田さんが教えてくれた。
 あれやこれや選ぶのも面倒で、言われた通りのアボカドサラダ丼と、カフェラテを頼んだ。

「急にゴメンね。何か友達が出来たら居ても立ってもいられなくなっちゃって」
 正直に思った事をスラスラと吐露し、実行する中田さんが羨ましかった。私も本音だけを吐いて生きていけたら。
「落合さんは、予定大丈夫だったの?彼氏とか、居るんでしょ?」
 何故それが前提なのか、私には理解できない。
「いないから、そういう人。中田さんはいるんでしょ?」
 中田さんは目を伏せながら、細くスラリと伸びた指と指を絡ませていた。
「いるけどね。最近は会う回数も減って来ちゃったかな。私ね、逆プロポーズしたの」
 ひゃぁぁー!可愛い顔して積極的なのね。驚いて目を丸くした。
「で、彼は何て?」
 俯いたまま顔を上げようとしない彼女を見て一瞬、地雷踏んだかと思った。
「いずれはそういう関係になるとは思うけど、今は仕事に打ち込みたいからって。軽く断られちゃったかな」
 ちょっと悲しげな顔で微笑んだ。何とかこの状況を脱しようと、頭を捻った。首が1回転するかと思った。
「でもさ、仕事がひと段落したら、って事でしょ。明るい前途がまっているじゃないのさ!」
 割り箸でテーブルをバシッと叩いた。
 先程とは違う、少し照れの入った微笑みで、「そうかな」と呟いた。

 アボカドのサラダ丼が思いの外美味しくて、次回来た時のために他のメニューも見ておくことにした。
「次に来たらこれがいいな」
「こっちもいいんじゃない?」
 暫く彼女との会食場所は、このカフェになりそうだ。
 その後は高校時代の思い出を語りながら、ゆっくりカフェラテを飲んだ。


6 付箋の効力

 仕事がやりにくいなんて思っていたのは私だけだった。
 休み明けの月曜日、外回りの準備のために私はいち早く出社し、資料をまとめた。
 私の次に出社してきたのは、高橋君だった。

「おはよ」
「おはようございまふ」
 まずい、噛んだ。焦りが丸見えではないか。
「今日の営業先、予定表で渡してあったよな?」
 ちょっと神経質そうに眉間にシワを寄せ、真面目で固そうに、低い声で言う、通常通りの高橋臨。
「あぁ、はい、うん。資料はここに」
 私は全然冷静になれない。冷静になんてなれるものですか。この男、高橋臨は、彼女がいながら私にキスをし、好きだと言ったんですよー。
 私は何も言い返せなかったんだから。いきなりだったんだから。テロみたいなもんだ。

 それでも仕事は待ってくれない。書類を一纏めにクリアファイルに突っ込み、鞄にしまう。そして高橋君の後ろを追い、彼の運転する社用車に乗り込み、営業先へ向かう。
 車中での会話もこれまでとは変わらず、他愛もない話に終始した。彼は何事もなかったかのように私に話し掛け、私はその度に体を固くした。

 何故普通でいられるのかが、不思議だ。もしかして、あの出来事は私の妄想だったんじゃないか。そんな風に思えて来る。
 ま、妄想な訳が無いんだけど。それは唇が覚えているから。

 高橋君は、いい男だと思う。勤務態度は真面目だし、硬派っぽいし、凄いカッコイイし、それでいて時々見せる幼い笑顔が素敵で、正直なところ惚れ始めていた。
 好きと言われて、その感情が少しずつ少しずつ空気を送り込む浮き輪みたいに、徐々に膨らみつつある。

 でも、これは彼にとっては浮気だ。だって彼女がいるのだもの。
 元旦那がしていた事と同じではないか。嫁がいながらにして、嫁以外の女と関係を持つ。
 高橋君も案外、彼女に嫉妬して欲しいだけだったりして。
 真面目で一本気だと思っていた高橋君に、少し落胆したという気持ちも、無くはない。

 2人で話し合える場を持たないと。
 そんな風に思った。


 金曜の朝、私より早く出社していた高橋君は、PCのモニタと睨めっこをしながら「おはよ」と声だけで挨拶をした。私も「おはよ」と応える。
 隣にある私のデスクに目を遣ると、新しい機材の営業資料と共に、薄黄色のポストイットが貼ってある。

 『今日、藤の木で待ってる。高橋』

 光の早さでそのポストイットを剥がし、ポケットに入れた。顔は真っ赤だ。
「よし、じゃ、行こうか」
 私が営業資料を手に持ったのを確認し、高橋君はスタスタとドアに向かって歩き始めた。
 まだ資料読んでないのに。ま、車中で読むか。

 午前中は外回りだ。社用車で営業先へ向かう。
 車中で営業資料を読んで時間を潰したが、読み終えた後は会話も無く、どうにも我慢たまらん雰囲気になった時、「そういえば」と思い出した。
「あ、ガム、買ってきたんだ」
 鞄をゴソゴソと漁り、底の方からミントガムを取り出した。
「お口に合うかわかりませんが」
 そう言って板ガムを1枚取り出し、包装を解き、高橋君に手渡した。
「あぁ、気ィ遣わせちまって悪ィな」
 高橋君は職人の様に骨ばった長い指で、それを受け取っり、口に放り込んだ。

 午後は社に戻り、報告書の作成に勤しんだ。
 来週からの営業予定も提出しなければならない。
 今日は定時に上がれそうもないな。
 そう思いながらPCの画面にカタカタと文字を打ち込んで行く。

 定時のチャイムが鳴り、今日内勤だった人の殆どは「おつかれー」と帰って行った。
 報告書を書き終えたと思われる高橋君も、荷物をまとめて部屋を出ようとするのが視界に入った。
 一瞬、足を止めてこちらを見たのが分かった。
 私は、それに気付かぬふりをして、難しい顔を浮かべながらPCに向かった。

 営業予定の作成に、思いの外手間取って、気付いたら20時近かった。
 高橋君はまだ、藤の木で待っているだろうか。
 ここからの作業は30分あれば終わるだろう。いや、20分。
 私は、藤の木に行ってはいけない気がした。彼との関係に何らかの動きが生じる事は明らかだ。だっていつもなら、ポストイットになんて要件を貼らない。直接言葉で伝えてくるはずだから。
 彼自身が、何らかの動きを生じさせようとしているに違いない。
 PCを打つ動作が自然に遅くなる。

 このまま、残業を続けよう。彼が諦めて藤の木から去るのを待とう。
 彼には悪いが、そう思った。
 2人で話し合える場を持たなければ、とは思っていたが、いざとなると竦んでしまうのだった。


7 女の一馬力

 あぁ面倒臭い。何でこんなにチンタラ仕事をしなきゃならないんだ。
 私の1馬力だったら20分で帰れるって言うのに。
 全てはあの男、高橋のせいだ。
 彼が藤の木から諦めて帰るぐらいまで、ここで仕事をしなければ。
 てゆうか、もう家に帰っちゃえばいいんじゃない?そんな風に思い始めたところだった。

 私以外誰もいない部屋。PCの稼働音とプリンタが紙を排出する不定期な音だけが響く。
 不意に、ドアの外から、リノリウムの床を歩く、小動物の声の様な音が聞こえてきた。
 何気なく目を遣ると、ガチャリと銀色のドアノブが回り、ドアが開いた。そこにいたのは、高橋君だった。
 走ってきたのだろう、呼吸が乱れ、スーツの上着を脱いで手で持ち、シャツは腕まくりをしていた。サラサラの黒髪は汗で束になっている。
 暫く何も喋れないほどに肩で息をしていた。私はそれを、ただ呆然と見ていた。

「何で――何で来ないんだよ」
 息切れする喉から発せられた言葉は、これだった。
「だって仕事が――」
「お前ならもっと早く終わんだろうが」
 鞄とスーツを両手に持ったまま、汗を拭おうともしない。
 ただただ肩を上下させて、怒っている。
 
「ごめん、あの、こないだの――」
「俺が好きだって言った事だろ、あれは本気だ」
「あのさ、そういうの困る」
 高橋君の顔から視線を外したが、そのやり場に困った。
「俺の事、嫌いか」
「そう言う訳じゃ――」
「じゃあ何だよ?」
 言葉に熱がこもり過ぎて、彼の声は途中裏返った。

 どう答えたらいいのか、言葉に迷った。
 惹かれている。これは事実。高橋君に彼女がいなかったら、喜んで受け入れていたかもしれない。

「嫌いじゃないの、嫌なの」
 彼女がいる。浮気の片棒を担ぐなんて――ごめんだ。
「彼女がいるんでしょ。そんな人の気持ちは受け入れられないよ」
「俺の事、嫌いかって訊いたんだよ」
 高橋君の目は、殺気立っていて、恐怖すら感じる。
 ああ、何かこういうの、面倒臭くなってきた。えーい、全部言っちゃえ!

「高橋君の事は好きだよ。キスされて、もっと好きになった。だけど彼女がいる高橋君は、私を受け入れると浮気する事になるんだよ。そんなの責任取れないし、そんな面倒な恋愛は嫌いだから」
 あなたが好きです、彼女を捨てて付き合ってください。って言えたらどんなに楽か。私は天性の面倒臭がりなんですよ。

「俺の事は好きなんだよな?好きっつったよな?」
 ギロリ、と血走った目で私を見据える顔は、堅気の人間とは思えなかった。恐ろしい。
「す、好きでひゅ」
 あ、噛んだし。
「仕事、手伝うから早く終わらせろ」
 高橋君はそう言って自分のPCを立ち上げた。
 え、諦めないの?!


8 芸の滑り

 結局、それから15分と経たずして仕事は終わった。
 高橋君は指摘しなかったが、私がわざと仕事をノンビリやっていた事は、恐らく丸わかりだったろう。

「ありがと、手伝ってくれて」
 ぼそっと言うと、「あぁ」とだけ答えた。身支度をして、壁にかけてある職場の鍵を手に取る。チャリン、という金属音が手の中に収まり鈍い音に変わる。
「煙草、吸ってくる」
 そう言って彼はひと足先に部屋を出て、喫煙所へ向かった。
 私は居室に鍵をかけ、そのまま社の出入り口にある守衛室まで持って行こうと思ったけれど、何と無く気が咎めて、喫煙所の前で彼が出てくるのを待った。

 喫煙所から出た高橋君は、「行こう」とひと言いい、その言葉の意味も聞かないまま私はその後ろを歩いた。守衛室に鍵を返却し、外に出た。

 外は小雨がぱらついていた。
「行こうってどこに――」
 いきなり右腕を掴まれ、脇の下が吊れる痛みが走った。乱暴。
「いいから。ついて来い」
 私は痴漢を犯して駅員に連れていかれるサラリーマンのように、高橋君の後を引き摺られるように歩いた。私が何したと――。

 ひと言も話さず駅前に着いた。「じゃ、ここで」と言ったら、腕を握る力が一層強まり、今度こそ脇の下らか腕が千切れるんじゃないかと思い、仕方なくついて行った。

 連れて行かれたのは駅の裏にある、ラブホテルの前だった。
 へぇ?この人何考えてんの?私の話、聴いてたぁ?1から100まで説明しないと分かんないの?

「な、なんでこんなとこ」
「俺の事、好きなんだろ」
 この目だ。この、ちょっと瞳孔開いちゃってるような目が、怖い。でも少し――そそる。
「好きだからってラブホ――」

 その時だった。視線の先にいた人間に反応し、私は高橋君を引っ張る形で咄嗟にホテルのドアをくぐった。
 視線の先に、中田さんが見えたから。街灯に照らされた彼女の巻き髪までくっきり見えた。彼女は私に気づいただろうか――。
 見られて困る事はない。だけど何と無く、男と2人でラブホテルの前で、手を繋いでいる(本当は腕を引っ張られている)場面なんて、見られたくない、と思ってしまった。

 動揺している間に、高橋君はフロントから部屋の鍵を受け取り、また私の腕をグイと引っ張ってエレベータに乗せた。フロントさん、通報してくれー!

 待て、待て、話せば分かって貰える筈だ。先ずは部屋に入って、落ち着いて話をしようじゃないか。3階の1室に入った。

「先シャワー、どうぞ」
 なんて言われたら張り倒してやろうと思ったけれど、高橋君は部屋の殆どを占めるベッドには乗らず、勿論シャワーも浴びず、ベッドの横に申し訳なさそうに置いてある堅そうなソファに座った。
 私はどうしたら良いのか分からずその場に立ちつくしていた。
「話したいから、そこ座れよ」
 高橋君が座る対面のベッドを指さして言った。
 私は言われるがまま、高橋君と対面する形でベッドに腰掛けた。フカフカの布団が自重で沈んでいく。

「で、何故こんな所に?」
 私は視線を合わせる事は出来ず、人差し指と親指の爪をカチカチと擦り合わせながら手元をじっと見ていた。高橋君は暫く黙っていたが、やっと重い口を開いた。
「話したかったんだ。ゆっくり2人きりで話せる時間が欲しかった」
 彼の視線を、痛いほど感じた。なかなか顔が上げられない。
「はい、それでは張り切って参りましょー」
 重い空気を押しのけようと、ふざけてみる物の、完全に滑っている。
「俺には彼女がいる。それは確かだ」
「うん、知ってる。だから私と付き合う事は浮気になる」
 やっと、視線を高橋君に送る事が出来た。目が合ったのですぐに引き下がる。
「彼女、ちょっとおかしいんだ」
 完全に顔をあげて高橋君を見ると、少し困ったような、苦しいような、何とも形容のし難い顔で手元を見ていた。
「おかしいって、どういう事?」
 私は爪をカチカチするのをやめ、自分の後ろに体重を支える様に腕を置いた。
「別れようって何度も言ってる。だけど別れてくれねぇんだ。その言葉だけ聞こえてねぇみたいに、話を続けるんだ。合鍵も返してくれない。ライターのストラップを外すと烈火の如く怒る。結婚してくれないと死ぬ、とか言ったりな」
 いいか?と煙草を吸う仕草をしたので頷くと、ワイシャツのポケットから煙草とライターを取り出した。ライターにはストラップはついていなかった。
「ストラップ、無いじゃん」
 ジッと炎が立ち上がり、1本の煙草の先端が赤く染まる。大きく息を吸い込み、吐き出す。煙草の匂いがこちらへ届いた。
「普段は外してる。たまたま藤の木に行った日は、前日に彼女に会っててな。付けたまま忘れてた」
 ストラップは彼女が勝手につけた。そう言っていた。それは本当だったのか。
「私は過去に、同じ人間に3度も浮気された事があるんだ。だから男を警戒してるの。何となくの火遊びなら、勘弁して。同じ会社だし、顔合わせづら――」
「本気だって言ったんだろうが!」
 急に声を荒らげた彼の顔には、怒りの様な物が垣間見られた。
 彼は本気だ。だけど相手の彼女だって本気だ。やっぱりきちんと別れてからしか、受け入れられない。
「高橋君には悪いけど、それでも君には彼女がいる。この状況は変わらない」
「俺はお前が好きだ。彼女にも、好きな人ができたって言った。それでも別れてくれねぇんだ。どうしょもねぇだろうが――」
 そう言って彼は頭を抱えてしまった。サラサラの黒い髪が、その手に被さる。
 灰皿に置かれた煙草は、煙をあげながら少しずつ、短くなっていく。

 私だって、彼の事は好きだ。とても惹かれている。きちんとお付き合いをして、デートをしたり、お互いの家を行き来したり、セックスしたりしたい。
 だけど、彼女からしてみれば、私は小汚い女狐でしかない。
 自分の男を誑し込む女狐だ。そんな風に思われるのも嫌だし、そんな自分も嫌だ。
「高橋君の気持ちは分かった。私も君の事が好きだよ。だけど今は、深い関係にはなれない」
 うん、と高橋君は先を促すように相槌をうつ。
「身体の関係は、彼女との清算が済んでからにしよう。一緒にお酒呑みに行ったり、どこか出かけたりっていうのは構わない。だけど一線を越える事は、お預けって事で、どう?」
 灰皿に置かれた、だいぶ短くなってしまった煙草をひと口吸い込み、吐き出す。その事で頭がクリアになったかのように、彼の眉間から皺が消えた。
「分かった。そうしよう。俺は彼女と何とか別れられるようにするから、それまで待っててくれ」
「ラジャ」

 急に右手を差し出されたので、驚いて彼の顔を見ると「握手ぐらい、いいだろうが」と言った。
 誓いの握手。ごつごつしている彼の掌は、私よりも全然大きく、温かかった。

「ここ、宿泊で取ってあるから、お前泊まってけよ。俺は帰るから」
 そう言って鞄とスーツを手に立ち上がった。
「え、私、帰るよ、高橋君が泊まってけばいいじゃん」
 ドアに向かってスタスタ歩きながら「今日も彼女と格闘」と言った。
 その背中に「ありがと」と小さな声で言い、彼はひらりと右手を上げてドアを出て行った。
 キングサイズのベッドを独り占めできるなんて、そうそう無い事だ。
 とりあえずお風呂にお湯を張り、旅行気分で過ごした。


9 早朝の刑事

 翌朝、ラブホテルから1人で出て行くのはなかなか勇気が要った。
 周囲に人目が無い事を確認しようとドアの両サイドに目をやると、私の視線は固まった。
 右側に、高橋君が煙草を吸いながら立っていた。
 目が合うと、「よっ」と手をあげた。
「何してんの――」
「いや、1人じゃ出づれぇだろうと思ってな」
 どこまで気が回るんだよ、この出木杉君は。
 吸っていた煙草を携帯灰皿に押し付ける。見ると、その携帯灰皿はパンパンに膨れ上がっていた。
「いつからいたの?」
「5時」
 軽く眩暈がした。朝の5時からラブホテルの前で張ってるって――アンタは刑事かっ。
「俺ん家、来るか?」
「ん、家で朝ご飯食べたいから、いいや」
「そっか」
 また煙草を取り出し、火を点けた。肺がん一直線。
「駅まで送るよ」
 駅、すぐそこだから。と思いつつも、好意は受け取っておこうと、彼の横に立って駅まで歩いた。

「よく眠れたか?」
「そりゃあんな巨大なベッドだもん、最高だったよ。寝返りしてもしても、ベッドの上だからね」
「俺はあそこで、お前と眠れない夜を過ごしたかったのにな」
 アホですかこの子はアホですか。そんな事を真顔で言うなんてアホですかっ。
 私はリンゴ飴みたいに真っ赤になった頬を、手のひらでパタパタと仰いだ。タイミング良く駅の改札まで辿り着いた。
「じゃぁね、私はこれで。ホテル代、ありがとね」
 険しい顔をしながらも少し頬が上気している高橋君の潤んだ様な目が、私の目を捉えて離さない。
「なぁ、キスも、駄目か?」
 惚れてる奴に、こんな視線を向けられて、キスしないで帰る方が不自然だろうに。
 彼の唇に、触れるだけの優しいキスをした。
 彼の頬がが少し、緩んだ。かわいい人。
「気を付けてな」
「ん、ありがと」
 手を振って別れた。

 あぁ、こんなんじゃ身体を許してしまうのも時間の問題ではないか。
 あんな目して見つめられたら絶対――我慢できそうにない。
 それじゃなくてもずーっとご無沙汰なのにぃ!!


10 物件の決め手

 家に着くと、9時を過ぎた所だった。
 遅めの朝食を作る。
 昨日淹れたコーヒーは冷蔵庫の中で冷えているので、あとは食パンを焼いて、ヨーグルトを用意するだけ。
 パンにはマヨネーズとチーズを乗せて焼く。
 コーヒーは甘目、牛乳も少し入れる。
 高橋君は朝ご飯、食べたのかなぁ。ぼんやりとそんな事を思う。
 そういえば、昨晩も彼女と格闘、とか言ってたっけ。
 裸で格闘?そっちじゃないよな、まさかな。

 別れたいのに別れてくれない、か。
 自分だったら好きな人に「別れたい」と言われたら、理由こそ聞くけれど、それを聞いたところで相手の心は自分にないと判断し、別れるだろう。
 結婚の様に、重たい関係じゃないなら殊更に。
 高橋君と別れたくない理由って、何なんだろう。高橋君じゃなきゃダメな理由。
 そんな事は本人にしか分からないよな――。
 彼女がとてもプライドが高いとか?んー、ベタか。
 高橋君とのアレが、凄くいい、とか。私が欲求不満なだけか。
 いくら考えても辿り着かない答えを探し回るのを諦め、コーヒーで食パンを飲み下した。

 食器を洗いながら、窓の外を眺めた。
 今日は快晴、部屋からは、河原でキャッチボールをする人や、サイクリングする人が見えた。
 この部屋を借りると決めたのは、土間川が見える事、土間川の花火大会が見える事だった。
 去年はベランダにアウトドア用の椅子を出して、ビール片手に花火を観た。
 狭いベランダから観る花火は、殊更でっかくて、花火が降ってくるみたいだった。
 硝煙が風に乗って舞い込んでくるのも、オツだった。
 今年は椅子をもう1個、買い足しておこうかな。そんな事を思った。

 これと言ってやる事も無く、携帯と文庫本を持って外に出た。
 マンションの裏に回り、幹線道路を渡り、河原へ着く。
 さっきまでキャッチボールをしていた2人組は、もういなかった。
 代わりにゴルフの素振りをする、禿散らかしたオヤジが1人いた。
 芝生の適当な場所に寝転がり、文庫本を読んだ。
 読みながら、高橋君のメールアドレスも、携帯番号もまだ知らない事を思い出した。
 まぁいいか。会社で会うし。わざわざ聞き出して「お、こいつこの交際にノリノリだな」なんて調子付かれたら面倒臭いし。そもそも交際してないし。

 ノリノリになっている、という事実は認める。


11 お招きの極意

 日曜日、中田さんからメールが着た。
『こんにちは、突然ごめんね。昨日、家でパンを作ったんだけど、ちょっと量が多すぎちゃって。もし落合さんがパン好きだったら、貰ってくれないかな?車で届けに行きます』
 パン好きにとっては嬉しい話だ。
 パン屋さんのパンが大好きで、時々ご褒美としてパン屋さんに買いに行く事がある。
 普段はスーパーに売っている、6枚切りの食パンで腹を満たしているので、焼き立てパンが味わえるのは嬉しい。
 しかし、家まで届けに来て貰って「あがってって」なんて気の利いた事言えないし、言えたとしてもうちはお客さんを呼ぶような感じの部屋じゃないし、困った。

『パン、大好きだから嬉しいです。もし迷惑じゃなければ、中田さんの家まで取りに行ってもいいかな?今日、1日暇だから』
 昨日も暇でした。河原で本読んでました。なんて事は書かない。

 すぐに返信メールが着た。
『うちで良ければ是非来てください。美味しい紅茶を用意しておくね。住所は――』


 日曜日に会社の最寄駅まで来るのは何となく変な感じがする。私服で、携帯と財布とエコバッグをむりやりジーパンのポケットに詰め込んで来た。
 携帯で住所検索をして、だいたいの場所は分かっている。あぁ、あの白いマンションだ。
 エレベータで5階に上り、「中田」と書かれたプレートがある玄関のインターフォンを鳴らす。
 ピヨピヨ、と小鳥が鳴くような音で、そのインターフォンは鳴った。
「はーい、どうぞあがって」
 玄関が開くと同時に、香ばしいパンの匂いがした。その後に、中田さんの上品な薔薇の香水の匂いもした。
「おじゃましまーす」
 部屋は私の家と同じような間取りで、寝室と広めのLDKだった。
 リビングにあるソファを勧められ、そこに腰掛ける。
 部屋を見渡すと、あちらこちらにセンスの良い、女性らしい装飾が散りばめられていた。
 チェストの上にはレースが敷かれていて、その上にアクセサリーが幾つもあった。
 いつか見たピアス達もそこにあった。
 ガラス張りのケースには、シャンパングラスらしき物が飾ってあったりして、「あぁ、うちに招かなくて正解」と思った。格が違いすぎる。

 中田さんは、少し大きめのトレイに、パンを山盛りに積んで持って来た。
「これなんだけどね、パン教室で作ったのを思い出しながら作ったら一杯になっちゃって。果物が乗ったデニッシュと、クリームチーズが入ったフランスパン。好きなだけ持って帰って」
 真ん中にアプリコットやブルーベリーが乗ったデニッシュは、お店で見るものと見紛う出来栄えだし、フランスパンはドーム型で、美味しそうに焦げ目がついている。
「ビニール、これ使ってね」
「あ、ありがとう。じゃ、遠慮なく」
 本当に遠慮なく、好きなだけ貰った。エコバッグに入る分だけ貰って行こう。そんな感じ。
 ニヤついてパンを袋詰めする私を見て「パン、好きなんだね」とにっこり微笑まれ、少し顔が火照った。

「いつもはね、彼氏がうちに泊まって、朝ご飯にパンを出すんだけど、昨日は仕事があって来れなくて。こんなに大量に余っちゃったんだ」
 デニッシュを袋に入れる手を止めて、彼女に訊いた。
「彼、土日休みじゃないの?」
「休みの筈なんだけどね。時々出勤する事もあるみたい」
「忙しいんだねぇ」
 またいそいそと袋詰めを開始した。
 仕事が一段落するまで結婚は待ってくれって、言われたって彼女は言ってたっけ。
 彼は中田さんとの結婚の為に、今頑張って仕事をしているんだろう。
「よし、これだけ貰えれば十分です。ありがとう」
 そう言うと、彼女は頷いてキッチンに入って行き、戻ってくるその手にはカップと紅茶が入ったポットがあった。
「もし嫌じゃなければ、紅茶と一緒にパンもつまんでね」
 ポットからカップに褐色の液体が注がれると、ふんわりと良い香りがした。

「おもてなしが上手だね、中田さん」
「そんな事ないよ。人を家に招く事なんてあんまりないし。彼氏ぐらいだもん」
 再度、部屋を見渡した。
「ご自慢の彼氏さんの写真なんかは、飾ってないの?」
 彼女はクスッと笑って言った。
「人をお招きするお部屋には置いてないんだ。恥ずかしいから寝室に置いてある」
「あ、今『人をお招きする』って言ったよね、やっぱりおもてなし上手だー」
 お日様の様に微笑んだ彼女は「ばれちゃった」と言って口元を押さえて見せた。
「会社の子と女子会したり、パン教室で一緒になった子とパン作ったり、何かと人が出入りするんだ」
 彼女はフランスパンを手で千切り、口に運んだ。その細くて白い指は、手入れの行き届いたつやつやの爪に、控えめなベージュのネイルが施されていた。女の私でもうっとりした。
「そうだ、落合さんも今度、女子会に参加しない?同じぐらいの年齢の子ばかりだから」
 目を爛々と輝かせてこう誘ってくれたが、私は乗り気ではなかったので断った。
「そういう女の子の集まり、どっちかっつーと苦手でさ、面倒っつーか、あ、ごめんね。別に否定してるんじゃなくて、私は苦手なんだ」
 少し眉を下げて、残念そうに「そうかぁ」と彼女は言った。

「ごめん、お手洗い借りてもいいかなぁ?」
 席を立ち、「2番目のドアね」と言われたとおり、そのドアに向かって歩いた。
 ドアと反対側にある寝室らしき部屋のドアが、半分開いていて、何となしに目を遣った。
 その隙間から見える小さな机の上には、写真立てが3つ、置いてあった。
 誰が写っているかまでは逆光で見えなかったが、きっと彼氏と写っているんだろう。

 元夫だった人間と一緒に写っている写真は、まだ家に残っている。
 でも、夫婦になってからの写真は全て燃えるごみに放り込んだ。仕事ばかりだった私と一緒に元夫が写っている写真があったこと自体驚きだ。浮気しながらよくもまぁこんな笑顔ができたもんだ、と元夫の表情にも驚きだった。


12 朝ご飯のニコチン

「高橋君って、朝ご飯は何食べるの?」
 社用車を運転する彼の横顔をちらりと見て、訊いた。
「煙草とコーヒー」
「何を『食べるの』って訊いてるんですけど」
「煙草とコーヒー」
 ニコチンとカフェインか。不健康要素の強力タッグだな。
「彼女の、あ、彼女じゃねぇか、なんつーか――」
「彼女でいいじゃん」
 彼の横顔が、少し赤みを差したように見えた。
「彼女の家ではパンを食べた。パン教室に通ってるとかで」
 あぁ、中田さんと同じだ。パン教室。
「それ、世の中的に流行ってるの?パン教室って奴」
 昨日友達も言ってた、と付け加えた。
「彼女ん家の周りだけでも3件あるとかって言ってたな。ほら、女ってカルチャースクールとか?好きだろ。沢田は趣味は?音楽以外に」
「読書」
「ベタだな」
「ベタで悪いな」

 営業先の大学に着いた。
「この前渡したパンフレット、10部はあるよな?」
「1、2、3――うん、15はありそうかな」
 8月に新しくバージョンアップする、研究用ソフトウエアのパンフレットだった。
 ソフトを使っている全ての営業先を回り、新機能を紹介し、上位バージョンのソフトを買わせるのが狙いだ。
 大学の校舎内はまったく空調が効いておらず、早々とスーツの上着を手に持った。暑い。
 目的の研究室はさすがにエアコンが稼働していたので助かった。
 研究員の1人にパンフレットを手渡し、私が説明をした。
 相手は拳を顎の下に置いて、はい、はいと頷きながら話を聞いていた。
 その間高橋君は、顔見知りの研究員と雑談をしていた。
 高橋君の営業スマイルはなかなか素敵だな、と思った。でもやっぱり、心から笑った時の、あの少し幼いような笑顔が、1番好きだ。
「うーん、予算が取れるかなぁ。できればバージョンアップしたいんだけどね。予算が取れるようならハイテクさんに連絡入れますよ」
 なかなかの好感触。私は自分の名刺を渡して高橋君の所へ行き、終わった旨を告げた。
 社用車に戻ると、車の中は蒸し風呂状態。暫くドアを開けて中を換気した。

「土間川の花火大会、行った事あるか?」
 帰りの車で眩しそうな眼をしながら高橋君が言った。
「行った事はないけど、うちのベランダから見えるんだ。だからベランダで椅子に座って見てる」
 へぇ、いいなぁとひと言投げて続けた。
「浴衣着て見に行ったりはしねぇのか?」
「しないよ、面倒臭い、1人だしぃ」
 口を尖らせてそう答えた。高橋君は、ポツリと言った。
「一緒に行こう」
「やだ、面倒臭い」
「何でそーいう事言うんだよぉ、俺立場ねぇじゃねぇか」
 少し声を荒らげているのが滑稽で、可愛らしい。仕方がない、譲歩案を出すか。
「ねぇ、うちで観ようよ。私は浴衣で。高橋君はその代り甚平ね」
「俺甚平なんて持ってねぇよ」
 ちょっと掠れた声で、拗ねる様に言ったので「買って来い」と言ってやった。

 報告書だ何だで残業をして帰り、お弁当屋さんで生姜焼き弁当を買って家に帰った。
 リビングのローソファーに座ってビールを飲みながらPCを立ち上げ、通販サイトで私が持っているアウトドアチェアの色違いをひとつ、注文した。


13 オートロックの出だし

 浴衣なんて、いつ以来だろう。
 大学4年の時、花火大会で着てから、袖を通していない筈だ。
 着方が分からず、インターネットで調べて何とか仕上がった。
 裾に大きな牡丹の花があしらわれている、紺色の浴衣に、暗い桃色の帯。
 長い黒髪を下していると日本人形の様で怖いので、お団子に結い上げた。
 まだ16時だ、時間はある。

 携帯電話が鳴った。誰からだろうとディスプレイを見ると、中田さんからだった。
『もしもし、落合さん?』
「うん、中田さん、こんにちは」
『あのね、突然なんだけど、今日一緒に花火、行かない?』
 女の人に花火に誘われるなんて、それこそいつ以来だ。
「え、彼氏は?」
『今日は用事が出来たとかで、一緒に行けないんだ』
 何だか常に忙しい彼氏だな。まさか中田さんを避けてる訳ではあるまいな。
「ごめんね、今日友達と一緒に観る事になっててさ」
『そっか、分かった。ごめんね、急な誘いで』
「いえいえ、こちらこそご期待に沿えずにごめんね」
 そう言って電話を切った。

 高橋君とは相変らず、プライベートの携帯番号やアドレスのやりとりをしていない。
 今日は私の家の住所だけを告げ、「16時以降ならいつでもいい」と言っておいた。
 丁度17時を過ぎた頃、オートロックのインターフォンが鳴った。「高橋です」とあの低い声で言うので、私は何も言わず「開錠」ボタンを押した。
 玄関のインターフォンが押され、戸を開けた。
「お前、何か言えよ、インターフォン」
 第一声がそれだったので、思わず吹き出した。
「だって私が何も言わないうちから『高橋です』とか言うんだもん」
 彼の低い声を真似て言うと、げんこつのポーズをされた。
「どうぞ、何もない部屋ですが」
 招き入れると、「ほんと、何もないな」と言われてむっとした。
 高橋君は濃いグレーの甚平を着ていた。何を着ても様になるな、イイ男は。
「何か、セクシーじゃん、甚平着ると」
 そう言うと、彼は顔を真っ赤にした。
「そういう事は、男が、浴衣を着てる女に言うの!」
 いたずらっぽい顔をして「言ってみよ」と促すと、更に顔を赤らめてぽつりぽつりと言葉を吐いた。
「お前こそ、セ、セクシーじゃん。うなじとか、スゲェあれ――」
 こいつ、前も「うなじが」って言ってたな。うなじフェチか。
 あ、と会話を一新するように声を高くして彼は、手に持っているビニールを差し出した。
「つまみになりそうな物、買ってきたからさ。あとビールも入ってるから、冷蔵庫に入れとけ」
 袋を受け取った。ずっしりと重たい。ローソファを指さして「そこ座ってて」と言うと、肩をぐわんぐわん回しながらソファに座った。

「お前の部屋、男の部屋みたいだな」
「帰ってくれ」
「褒めてんだよ、ごちゃごちゃしてなくていいって事だよ」
 褒めてるようには聞こえないその言葉に、再びムっとした。
「彼女の部屋はやっぱり女の子らしい、綺麗な部屋なの?」
「まぁ綺麗は綺麗だな。落ち着かねぇけど」
 確かに私の部屋には物が少ない。人より少し多いとしたら書籍の類で、それは寝室の大きな二重本棚にしまってある。
 ドレッサーも寝室だし、勿論洋服も寝室。中田さんの様に飾る写真もない。数少ないアクセサリーも寝室。これじゃ寝室で生活してるみたいじゃないか。

「向こうの部屋、見てきてもいいか?」
 お宅訪問かよ、と突っ込みつつ、どうぞと返事をした。
 見られたくない場所が無くも無いので、一緒について行った。
 「うわ、スゲェごつい本棚。これもしかして、あ、奥にも本が詰まってんの?」
 本棚のスライド扉を左右に動かして嬉しそうにしている。
 「さすがにこの部屋は女の部屋だな」
 「そりゃ女ですから」
 「でも布団カバーのセンスが男だな。あとこのギターも。リッケンバッカー」
 はいはい出てってーと高橋君の背中を押して部屋から追い出した。
 お前は姑かっ!


14 彼女の匂い

 何だかんだ話をしながらお酒を呑んでいると、遠くから地面を振るわせるような音が響いてきた。
「始まりましたな」
「そうみてぇだな」
 ベランダに出て、青い椅子を勧める。私は赤い椅子に座った。
 真正面に、大きな丸い花火が次々にあがる。
 川辺には人が集まっていて、天に広がる円形を見て「ワァ」と歓声が沸き上がる。
「ここ、特等席だな」
「でしょ、去年も1人でここから観てたんだ」
「俺、ここに引っ越してこようかな」
「冗談を」
 2人、顔を見合わせて笑うと、一際大きな花火が上がった。お腹に響く音がする。
 火薬の匂いに何か懐かしさを感じつつ、ビールを飲んだ。
 花火が上がり始めた頃はまだ、薄暗かった空が、今は星が瞬いている。
 そんな星達も、大輪の花の前には非力で、夏の夜空の主役は、完全に花火に奪われている。

 2人を隔てていた、テーブル代わりの小さな箱を追いやり、高橋君は私の隣に座った。
 そしてその大きな掌で、私の頭を撫で、肩を抱いた。
「プライベートでは、下の名前で呼んでいいか?」
「うん、どうぞ」
 私は彼の肩に寄り掛かった。花火がすぐそこまで降ってきそうに見える。こうして肩に寄り掛かっても、丸い花火は丸いまま見えるんだ。
「美奈、好きだ」
 赤い花火に反射して、今の私の顔色は悟られないだろう。そう思った。
「私も高橋君が好きだよ」
「何でお前だけ苗字なんだよ」
 彼が笑うと身体が揺れ、その揺れが私も伝わり、私も笑った。
「学生の時のあだ名は、何?」
「リン、だった。のぞむ、の別読みで」
 可愛い名前じゃないか、と突っ込むと、肩に乗せた頭に、頭が降って来た。痛い。
「リンの事、好きだよ、でいい?」
「お前、仕事は出来んのに、こういう時に空気読めねぇのな」
 ヘヘッと笑った。
 空気を読めないんじゃない、あえて読まないんだ。甘い雰囲気は面倒臭いから。
「お前、香水付けてる?」
 私の首の辺りに彼の顔が近づいて、胸の高鳴りを感じた。
「そ、そういう洒落た事はしてないよ」
 ふーん、と低い声で言った。
「じゃぁそれはお前の匂いだな。いい匂いだな」

 大きな花火が連続して上がった。太鼓を叩く様な音が立て続けにお腹に響く。
「これにて終了、かな」
 身体を預けていた彼の肩から頭を離し、立ち上がろうとした途端、手を引かれ、キスをされた。
 今までにない、長い、長いキスだった。お互いを貪った。
 最後の赤い大輪がひとつ、咲いた瞬間だった。


 部屋に戻り、ローソファに並んで腰掛け、リンが買ってきたつまみ兼夕飯を食べながら、彼女の事を訊ねた。
「この前彼女と会った時の進捗は?」
 彼は苦々しい顔をして眉間に皺を寄せた。
「芳しくないねぇな。好きな人がいるからって言っても全然効かねぇからな」
「今日の花火は?一緒に行こうとか言われなかったの?」
 私は人ごみが嫌いだから、誘われない限り花火大会なんて御免被るが、一般的なカップルは、花火大会に行くのだろう。
「好きな人と一緒に行くからってはっきり言った」
 私はフォークでから揚げを刺し、口に運んだ。冷めてしまってちょっと油っこい。
「もう会わないから、って言って放置すればいいんじゃないの?」
 ビールでその油を流し込む。トースターでちょっと温めてこようか。
「彼女な、両親がいねぇんだ」
「へ?」
「大学の時っつったかな、事故で両親を亡くしてんだ。だから、独りになりたくないねぇんだろうな。結婚も急いでるみてぇだし。だからこそ邪険にできねぇっつーか――きちんとけじめを付けてから別れてやりてぇんだ」
 リンは項垂れたまま、ビールの缶を見つめている。
「君は優しいと言うか不器用と言うか――大変だね」
 よいしょ、と言って立ち上がり、から揚げが入ったトレーを持ってキッチンへ行った。トースターの網にから揚げを乗せて、摘みをひねる。古い蛍光灯みたいな音でタイマーが回る。
 キッチンから彼の顔は窺えない。
「私は、ちゃんと待ってるから。ちゃんとけじめがつくまで、待ってるから」
 少し声を張って、そう言った。
「俺の身体は待てそうもないけどな」
 リンも声を張ってそう言ったので「変態、暫く触らないで」と吠えてやった。

 私に出来る事は何もない。
 ただ、彼らが正式に、別れるのを待つだけだ。
 自分の幸せの為に、人の別れを待たなければいけないというのは複雑な心境だ。
 それでも私は、出来た人間ではないから、彼らが別れた暁には、両腕上げて喜んで、リンの胸に飛び込んで行くんだろう。

 あぁ、恋愛ってつくづく、面倒臭い。
 トースターの「チン」という小気味良い音が部屋に響いた。
「ちょっと煙草」
 携帯灰皿を手に、彼はベランダへと出て行った。


15 夕立の気配

「この前は急に電話しちゃってごめんねぇ」
 美しい顔を申し訳なさそうに歪めて、謝られた。
「とんでもない、こっちもご一緒出来なくてごめんね。結局、花火は誰かと見に行ったの?」
「ううん、家で静かに雑誌読んでたよ」

 花火の日から1週間が経った。残暑は連日、人類を絶滅させるかの如く、強烈な紫外線を注ぎ、今日もせっせと遺伝子変異を強要させられる。
 今日もカフェ「ディーバ」に誘われて、ランチではなくお茶をしている。
 窓際の席は日差しが強すぎるので、反対側の席に座った。
 冷房から排出される冷気と共に、紅茶と中田さんの香水の匂いが香る。
 強すぎず、かと言って弱すぎず、彼女を印象付けるこの香りが、心地よい。
「で、誰と観たの?」
 興味津々といった顔で私を覗き込む。女はこれだから面倒臭い。しかしこれは序の口。ここから先が面倒の山場を迎える。
「うん、好きな人ができてね、その人と観たんだ」
 一転、とびっきりの笑顔で「そうなの?」と両手の平を合わせ、叫ばんばかりに彼女は声を張り上げた。
「友達って言ってたから、てっきりそうなんだと思ってた。彼氏だったのかぁ」
「いや、彼氏、ではないんだけどね。微妙なあの――」
「微妙な?」
「彼氏、みたいな人」
 そうとしか言えなかった。「別れたいのに別れられない彼女がいるらしい」なんて込み入った話をしたら、更に面倒臭い事になりそうだから、やめた。

「彼は、どんな人なの?」
 まだ食いつくか、と少々呆れたが、顔には出さないように笑った。
「会社の同僚。一緒に営業周りしてるんだ。中田さんの彼氏は?」
「ベタだけど、合コンで知り合ったの」
 そう言って照れくさそうに笑う。紅茶をひと口飲んだ。
 中田さんは合コンに行ったら、さぞかしおモテになるのであろう事は易々と想像がつく。
 合コンから結婚話に発展する仲になるんだな、合コンも捨てたもんじゃない。
「仕事人間だけど、優しくて、一途で、格好良くて、私には勿体無いぐらい」
「美男美女で、お似合いじゃないですかっ」
 ちょっとオバサンくさい仕草でおどけてみせた。藤の木の女将さんが言いそうな台詞だ。
 彼女はクスリと笑い、紅茶をもうひと口飲んだ。私も目の前にあるのに完全に存在を忘れていたカフェラテを啜った。
「飲み物を啜りながら飲むの、変だよ」と、元夫に言われたのを思い出した。


 カフェから外に出て、階段をおりた。夕立でも来そうな、少し灰色がかった雲が、太陽に近付いていた。
 心なしか蝉の鳴き声が小さくなっている。
「雨、降りそうだね」
「ほんとだ、傘もってない――」
 いきなり視界から中田さんが消えた。と思った次の瞬間には、私の足下に凭れ掛かっていた。
「中田さん?!」
 しゃがみ込み、彼女の腕を握って身体を支えた。項垂れた顔からは、血の気が引いている。
「ごめん、貧血、だと思う」
 そう言うと、鞄から銀色のシートを取り出した。そこから2粒を口に放り込み、嚥下した。裏には「デパス」と書かれている。
 デパス。覚えがあった。確か、安定剤だった筈。
 元夫と結婚して2度目の浮気が発覚してから、私は不眠症になった。
 日中は胸のざわつきが消えず、落ち着かず、このままでは業務に支障を来すと思い、心療内科を受診した。処方されたのがデパスと、ロヒプノールという睡眠導入剤だった。
 彼女も何か、抱えている大きな不安や悩みが、あるんだろう。
 不安で急に倒れたりするんだろうか。パニック症候群か何かだろうか。

「家まで送るから」
 遠慮する彼女を説き伏せて、1度訪れた事のある白いマンションまで送った。
 エントランスまで来ると「もう大丈夫だから」そう言って礼を言い、エレベータに乗り込んだ。
 私は「無理しないでね」と言い残し、駅へと急いだ。夕立が、すぐそこまで来ている。


16 しゃぶしゃぶの代わり

「俺がですか?」
 居室内に高橋君(業務中はこの名前だ)の声が響いた。
「うん、高橋君にはもう少し込み入った仕事もして貰いたいからね。受けてくれるか?」
「はい、頑張ります」
 仕事中の彼にしては珍しく、弾んだ声で課長に言い、私の隣のデスクに戻って来た。
「何の話?」
 小声で訊ねた。
「営業企画部に異動する事になるかも知れねぇ」
 営業企画部とは、営業部を取りまとめるボス的な部署だ。高橋君の真面目な勤務態度や営業成績が評価されたのだろう。営業企画部には比較的生え際が後退したオッサンが多い。
 高橋君はかなり早い段階での異動なのだと思う。
「凄いじゃん、給料あがるじゃん。しゃぶしゃぶ奢って」
「まだ異動すらしてねぇ。まだ給料あがってねぇ。あがったらな。てか何でしゃぶしゃぶ?」
 社内メールで『しゃぶしゃぶ食べたい』と隣のデスクの高橋君に送信したら、『バカか。仕事しろ』と返信がきた。

 それからたった1週間で辞令がおり、10月から高橋君は営業企画部へ移動となった。
 私の営業パートナーは、別の地区を担当していたサイに似ている男性社員に替わり、「夏場はちょっと暑苦しい」と思ったが、それは口に出さないようにした。
「沢田さんと一緒に周れるなんて嬉しいなぁ」とサイの様な面を歪めて笑ったので、私は苦笑で返した。面倒臭い。
 デスクまわりの片づけをしていた高橋君に「お前、誑し込まれるなよ」と耳元で警告された。あんな男に誑し込まれて堪るか。
 片付けを終えた高橋君は、居室でひと言挨拶をして、部屋を出て行った。
 異動と言っても隣の居室だ。しょっちゅう顔を合わせる事にはなる。
 異動早々社内メールで「しゃぶしゃぶ!しゃぶしゃぶ!」とメールを送ると「温泉でも行くか」と返信が来たので驚いた。


 定時ギリギリに外回りから戻り、報告書をまとめていたので少し残業をした。
 やっと帰り支度をし始めた時、居室のドアが開き、高橋君が右手を上げながらこちらへ向かってきた。
「今日、藤の木、どう?」
「あぁ、いいよ」
 手早く荷物を鞄に仕舞い、席を立った。まだ仕事をしている人間が数人いた。
「お先です」と言ってネームプレートをひっくり返し、部屋を出た。
「煙草は?」
「もう済ませた」
 外に出ると、外回りをしていた昼間と比べると随分風が冷たくなっている事に気づいた。
「ちっと寒いなぁ」
 手を揉む仕草をすると、スっと手を差し出された。
「手、繋ぐぞ」
「はぁ、はい」
 目の前にある筋張った硬い手に、自分の手を重ねると、ギュッと握られた。
 恥ずかしくて、自分の黒いエナメルの靴を見ながら歩いた。
 彼の手はまるでホットコーヒーの缶みたいに熱くて、喫煙者って冷え症の人が多いんじゃなかったっけ、なんて事を考えた。
「お前の手、何でこんなに冷てぇの?」
「冷え症」
 そろそろコートを引っ張り出さないとな。
 リンの横顔を見ると、初秋の風にサラサラの黒髪が流れていて、美しかった。

 駅に向かって歩いていると、先を歩く栗毛の女性に目が行った。
 あれ、中田さん?。
 中田さんと思しき人は、2つ先の角を曲がり、そのせつな、目が合った気がした。


 藤の木の暖簾をくぐり、いつも通り大将と女将さんに迎えられ、カウンターの隅に座った。
「お2人でお見えになるの、久々じゃないですか?」
 そう女将さんが言うと、高橋君は朗らかな笑顔で「そうスね」と答え、席に着いた。
「で、温泉って何なに?」
 ビールをひと口飲んでから訊ねた。
「車で行ける範囲でさ、そうだな、伊香保あたりに行かねぇか?俺の奢りでな」
「伊香保って、随分渋いチョイスだねぇ」
 そう言うと、彼は口を尖らせて拗ねた子供のようにボソっと言った。
「ならいいもん、行かねぇもん」
 私はその言草に笑いを誘われてしまった。本当に可愛い人だな、と思った。
「そういう意味じゃなくて。うん、行こうよ、伊香保」


17 理性の限界

 宿の手配は全てリンがしてくれた。
 リンの車は黒いテカテカのワゴンで、「ゴキブリみたい」と言ったら殺気溢れる目で睨まれた。
 緑色のカーディガンにデニムというラフな格好をした彼が、新鮮で素敵だった。
 スーツも素敵だけど、甚平も素敵だったけど、何を着たって似合うんだ、この人は。
 伊香保の温泉街から少し離れた、榛名湖へ向かう林道の手前にある宿にチェックインした。

「石畳とか、行ってみたいか?」
 部屋に置いてあるパンフレットの類をペラペラ捲りながらリンが訊ねた。
「うーん、外に出るの面倒臭いからいいや。露天風呂にずっと入ってたい」
 露天風呂、露天風呂、と言いながら館内マップを見ていると、リンは呆れたような声で言った。
「お前、その『面倒臭い』は口癖なのな」
「え、今更気付いた?」

 車で少し戻ったところに、「竹久夢二記念館」があったので、そこに行った。
 竹久夢二のが描いた「黒船屋」という絵が大好きだった。
 女性が黒猫を抱いている絵なのだが、彼女の顔も手つきもさることながら、絵そのもののタッチや曲線が艶めかしく、素敵なのだ。
 それをリンに言うと、売店でその絵のレプリカを買ってくれた。

 食事前は風呂が混むので、食事を済ませてから入浴する事にした。
 部屋で夕飯をつつきながらリンに訊ねた。
「ねぇ、何で家族風呂がある温泉選ばなかったの?」
 リンは口に入っていた胡麻豆腐を口から吹きそうになった。
「バァーカかテメェは。んなとこ泊まったらふやけるまで温泉に浸かってっぞ」
「え、どういう意味?」
「だってお前の裸、見放題じゃねぇか」
 盆に乗っていた箸置きを、向かいに座るリンに投げつけた。肩に当たってポロっと落ちた。
「お前は何で家族風呂が良かったんだよ?」
 箸置きをこちらへ戻してきた。コトっと音がした。
「だって好きな時に1人でゆっくり温泉に浸かれるでしょーが」
「家でやれ、家でバスクリン日本の名湯でも入れてやれや」

 食事を終えて、露天風呂がある3階へ行った。
「じゃ、終わったらここで待ち合わせな」
「いいよ、先に部屋戻ってなよ」
 恐らく私の方が長風呂になると思い、そう言ったが、リンは譲らなかった。
「いや、ここで待つ」
 ソファがひと組と、喫煙スペースがある待合所を指して言った。
 私はマッサージチェアに乗るために持って来た100円玉をリンに渡した。
「これでミルミルでも飲んで待ってなさい」

 露天風呂は、規模は大きくないものの、他に誰も客が無く、貸し切り状態だった。
 秋の少し冷たい風と、少し熱めの湯温のコンビネーションが丁度良く、首まで浸かったり、腰から下だけ浸かったり、繰り返した。
 空には幾つもの星が瞬いている。横浜の夜空とは比べ物にならない星の数だ。
 いつかリンと観た夏の星空は、主役の座を花火に奪われてしまっていた。月が不在の今日、夜空の主役は星だ。
 今にも降って来そうに、潤んで何かを零しそうにちらちらと瞬く星たちの間を、1機の飛行機が機械的なサイクルで明滅を繰り返し、飛んだ。
 飛行機も星も、ここから見ると同じ大きさで、今にも飛行機は星にぶつかりそうに見える。「ニアミス」と呟いてひとり口元を緩めた。
 ニアミスといえば、先日駅前で見かけたあの人は、中田さんだったんだろうか。
 目が合った気がした。何故立ち止まってくれなかったんだろう。急いでいたんだろうか。

「どんだけ長ぇんだよ、風呂」
 不機嫌そうに顔を歪めながら煙草をふかす、まるでヤクザのようなリンが待っていた。
「いやぁ、気持ち良くてさぁ。見た?星一杯だったでしょ?」
「あぁ、降ってきそうな星空だったな」
 灰皿に煙草を押し付けながらそう言った。リンも、ロマンチックな事を言うんだな、と意外性に驚いた。

 部屋に戻ると、布団が2組、敷かれていた。
「ひゃっほーい!」
 布団に倒れこむ。フカフカの布団に両頬を挟まれ、幸せな気分。
「なーにやってんだよ、ほら、どけ」
 足蹴にされて、仕方なく立ち上がり、窓際の椅子に腰かけた。リンは対面に座った。
「お前、すっぴんでも化粧してもそんなに変わんねぇな」
 顔をまじまじと見つめられ、紅潮した。いや、これはほら、のぼせただけだから。長風呂のせいだから。
「彼女は、彼女はどうだった?」
 彼は一瞬固まり、しょっぱいように顔を顰めて「彼女か――」と言った。
「俺が起きてる間は絶対化粧を落とさなかったな。すっぴんは見た事無ぇ」
 煙草に火をつけて、ひと口吸った。喫煙の部屋を選んだのはリンだ。
「今日の事は、彼女に言ってあるの?」
 避けては通れない話題なのだ。いつの間にか、欲深い自分が顔を出し、早く彼女と別れて欲しい、そんな思いが強くなった。だからこそこんな事ばかり訊いてしまう。
「お前の名前まで出して、『沢田美奈っていう女と温泉に行く』ってきっちり言ったよ。ま、聞いてんだか聞いてねぇんだか、殆ど上の空だったみてぇだ」
「ふーん、我慢強いんだか何だか――。何か、精神的にアレなのかなぁ、病気とか?」
 自分が心療内科に通っていた事がある、と付け加えた。
 自分は結果的には「抑うつ」と「不眠症」だった訳だけれど、その他にも心身的な病気が沢山存在する事を、インターネットで知った。
「んー、確かに、何の薬か分からねぇけど、いくつか薬は飲んでんな。もしかすると、そうなのかもな。今度薬の名前調べてみっか」
 煙を吐き出しながら灰皿に灰を落とした。部屋の中がちょっと、煙草臭いな、と思う。次に旅行に来る時は、禁煙の部屋を選ぼう。ニコチンヤクザを苦しめてやろう。

 ビールを飲みながらくだらない話をしていたら、いつの間にか時計は日付を跨いでいた。
「ふぁぁ、眠くなってきた。私寝る」
「私寝るって何だ、俺だって寝るわっ」
 用意ドン!と言って洗面所まで2人で走った。浴衣なのでうまく走れないのが歯がゆかった。
 歯ブラシの袋をピリピリ破り、小さい歯磨き粉のチューブからホイップクリームみたいな歯磨き粉をブラシに乗せ、歯を磨いた。
 鏡越しに見えるリンに向かって、何となく笑い掛けた。
 彼もつられて、温かい笑顔を返してくれた。

「はい、じゃぁ電気消しまーす。夜中に女子の部屋には行かないよーに。特に高橋!」
「何だよそりゃ」
 苦笑しながらリンがぼやいた。
 真っ暗で、空調もオフにしている部屋は、小さい冷蔵庫の低い稼働音だけが響く。
 暫くそれを聴きながら眠りに入ろうとしていたが、ゴソゴソと、リンが動く音がした。
 私の布団に入り込み、そして抱いた。
「もう、限界だ。俺は我慢できねぇ」
 そして私の唇に自身の唇を重ねた。唇を舌で濡らされ、開いた途端に舌が入り込み、口内を弄られる。
 その瞬間、理性なんてもんはぶっ飛び、私も夢中で貪った。彼の舌に吸い付き、呼吸の隙すら与えなかった。
 着ていた浴衣はその時点でもう着衣の意味をなしていなくて、リンのゴツゴツした手で下着をはぎ取られる。私は彼の背中に腕を回し、帯を解いた。
「俺の美奈でいてくれ」そう言って肩を強く吸われた。
 身体のあちこちを手で、指で弄られ、舌で舐められ、私は身体を痙攣させる様に果てた。
 彼は――こいつ、絶倫?様々な体位で実に3回もイった。自分の実力を知っているのだろう、きちんとコンドームを5個持ってきていた。
 私はヘロヘロで、全裸のままですぐ眠りについてしまって、後始末は覚えていない。

 翌朝目が覚めると、全裸である事に気付いた。強く吸われた左肩には、紫色の楕円形がくっきりと刻み込まれていた。「中二かよ」ぽつりと言った。
 着る物を着ようと周りを見渡すと、とんでもない方向にショーツが飛んで行っていた。
 リンが起きる前にダッシュで取りに行くかと考えていた矢先、彼が「んんぅー」と子供の様な声を出しながら伸びをし、目覚めた。
「おはようございます」
「おはよ、今何時ぃ?」
 掠れた声で言うリンが可愛くて仕方がない。
「7時半。パンツとってきて」
 ショーツが飛んで行った方向を指さすと、よっこらしょと声に出して立ち上がり、くしゃくしゃに丸めて手渡してくれた。彼はちゃっかりボクサーパンツを履いていた。
「浴衣も」と言うと「はいはい仰せの通り」と言いながら回収してきてくれた。


18 お土産の包装紙

 温泉街のお土産屋さんに寄った。
 私は職場の同僚にお土産を買おうかと思ったが、リンとの関係がバレるのがいやだったのでやめた。
 思いつくのは中田さんぐらいだった。私、友達少ないなぁ。
 甘い物は好きそうだったので、4つ入りの温泉まんじゅうを買った。
 3連休で明日も休みなので、明日渡せるだろう。
 リンもいくつかお土産を買ったらしく、ビニール袋を手に提げていた。

 帰りの車の中で、煙草を吸いながら運転するニコチンヤクザが口を開いた。
「なぁ、俺ら、お互いの携帯番号も知らねぇよな」
 そうだった。前は仕事中ずっと一緒に行動してたから特に不自由もなかったけれど、これからはそうもいかないかも知れない。
「そうだったね。今、紙に書いて渡そうか?」
「アナログかよっ。後でサービスエリアで休憩する時にでも教えろよ」
 そう言うと、吹きこんでくる風に目を細めながら車を走らせた。
 煙草を吸いながら車を運転する姿って素敵だ。煙草の匂いは嫌いだけど、少し顔を顰めながら運転するリンに見惚れた。折れた左腕が少し窓から出ている感じ、あの感じが凄く、いい。
 視線に気づいたリンに「何だよ」と凄みのある顔をされて「や、やくざ」と怯えて見せた。
 身体まで繋がった今、当たり前にそこに存在するような「幸せ」が少し怖く感じた。


 自宅前までリンに送ってもらった。丁度夕日が眩しい時間だった。
 部屋に入り、鞄の中身を全て片づけ、洗濯機を回した。楽しかった旅行はこれでおしまい。
 中田さんにメールを送った。
『こんばんは。昨日今日で旅行に行って、お土産を買ってきたんだけど、明日届けに行っても良いかなぁ?賞味期限が短い物なので。もし不在だったらポストにでも入れておいていい?』
 すぐに返信メールが戻ってきた。
『気を遣ってくれてありがとう。明日は1日家にいるから、良かったら寄って行ってください』

 翌日、お昼過ぎに彼女の家を訪問した。
「これ、お土産。温泉まんじゅうなんだけど、嫌いじゃない?」
 袋から取り出して手渡した。オレンジ色の包装紙が掛けられている。一瞬、彼女の動きが止まり、真顔になった。が、すぐに顔を緩めた。
「おまんじゅう大好きだよ、ありがとう。開けてもいい?」
 プレゼントを開けるようにワクワクした顔をされたので「そんなアレでもないんだけど」と苦笑した。
「あ、4つ入りなんだね、良かった。おまんじゅうって10個入りとかが多いじゃない?食べきれなくってさー。いつも駄目にしちゃう」
「そう思って少な目にしておいたよ」
 ありがとう、と言って彼女はキッチンのカウンターに箱を置いた。その少し奥に、同じようなオレンジ色の包装紙が見えた。伊香保?
「一緒に食べようよ、今緑茶淹れるから。そこ座ってて」
 キッチンに入った彼女は、緑茶を持ってリビングに戻ってきた。

「あのさ」
 少し改まった感じで彼女が話し掛けたので「何でしょう?」と返事をした。
「落合さんの下の名前って、美奈さんだっけ?」
「うん、そうだけど、何で?」
 右手を忙しなく左右に動かし「なんでもないの」と言った。
「あれ、携帯にね、『落合さん』って登録してあるから、下の名前も入れたいなと思って。」
 彼女は箱からおまんじゅうを取り出し、ひと口ほおばった。「おいしい」と言って頬を緩めた。
 窓から入る控えめな秋の太陽が、彼女のアクセサリーに反射し、彼女自身が発光しているみたいに輝いた。
 左の薬指に、光る物を見つけた。
「それ、指輪、もしかして?」
「ううん、違うの。彼ね、アメリカに出張する事になって、逢えないからって言ってこれをくれたの」
 彼女の細く白い指に付けられた指輪には、小さな3色の光る石がお団子の様に並んで埋め込まれていた。
「可愛い指輪だねぇ」
「でしょ」
 誇らしげに太陽光にかざしてみせた。本当に綺麗で、麗しの中田さんを更に引き立てていた。


19 名刺の名前

 7月に売り込みに行ったソフトウェア10件中、9件の成約が決まった。
 新しくバディになったサイみたいなヤツと一緒に、製品を渡しに周った。
「俺、裏原宿とかよく行くんだよね」
「はぁ」
 一応コイツは先輩なので、こちらは聴き役に徹する。
「限定とかコラボに目が無くてさぁ、この前も限定の革ジャン?朝から並んで買っちゃって」
「はぁ、そいで?」
「10万近くしたんだけど、やっぱり高い物はきちんとしてるよなー。沢田さんは好きなブランドとか、あるの?」
「いや、別に」
 これ以上話を広げたくないという態度をとっても、空気を読まずにファッション持論を展開するサイに辟易した。
 あぁ、いつまでこの人と組むんだろう。
 そもそも、顔が良い人なら何を着たって似合うんだよ。
 中田さんや、リンだってそうだ。別にブランドがどうこうと気にしてる様子はない。
 もし気に入ったブランドがあったとしても、それをひけらかしたりしない。
 ましてや値段までいう事は絶対にないだろう。
 それを全てこのサイに言ってやりたかったが、何か面倒臭くてやめた。

「あれ、高橋君は?」
 ここ数日で回った営業先9件全てで言われた。
「異動したんです。お世話になりましたと申してました」
 何この面倒臭い敬語。合ってるのか間違ってるのか分かんないし。
 そもそも高橋君はそんな事ひと言も言ってない、私の完全創作。この辺は営業職のスキルとして一応。絵に書いた餅生産機。


『こんばんは。先日のおまんじゅう、おいしかったです。実は、従姉妹から洋服を貰ったんだけど、少しカジュアルで私は着ない感じなんだけど、落合さんには似合いそうだなと思ってメールしました。興味があったらメールください』
 添付ファイルには、白地にレインボーカラーの細いボーダーが入っている長袖シャツの写真があった。可愛い、と一目惚れした。
『可愛いシャツだね。興味ありありです。他に譲り先が無ければ是非』

 シャツを譲ってもらうお礼としてちょっとした手土産にシュークリームを買った。
 今日は中田さんに伝えようと思っている事がある。
 彼女は私を「落合美奈」だと思っているけれど、実際今の戸籍上の名前は「沢田美奈」である事を。

「最近ちょいちょいお邪魔しちゃって、申し訳ないねぇ」
 これおやつ、と言ってシュークリームが入った箱を渡した。
「ううん、気にしないで。最近はそんなに来客もなくて、寂しいから」
 スリッパでスタスタと歩く彼女の後ろを歩き、いつも通り、リビングに通される。
「わぁ、シュークリーム?ありがとう。じゃぁ紅茶にしようかな」
 そう言ってキッチンでお茶の準備を始める彼女を見ていた。
 以前、カフェの帰りに安定剤を飲んでいた。もう大丈夫なんだろうか。
 やっぱり忙しい彼の事が気になっていたんだろうか。とは言え今はアメリカにいるらしい彼の事、なおさら気になるだろう。
 あ、でも指輪してたしな。嬉しそうだったしな。もう不安は吹き飛んだかもな。

「そうだ、先に洋服見せちゃおうかな。寝室にあるんだ、ちょっと来て貰える?」
 うん、と頷いて、彼女の後に続いた。
「ちょっと待ってね」と一足先に彼女は部屋に入り、中からパタンパタンと物音がした。
 ドアが開き、「どうぞ」と部屋に通された。
 クロゼットの扉に掛けられたハンガーには、添付写真にあったシャツ。それにもうひとつ、デニムスカートが隣に掛かっている。
「このスカートも貰い物なんだけど、デニムってあんまり穿かないから、もし良かったら。落合さん、背が高いからミニスカートになっちゃうかな?」
 ならないならない、と笑ってそのスカートを腰に当ててみた。
「うん、丈は大丈夫。貰っていいの?」
 彼女は大きな笑みを顔に浮かべて「勿論」と言った。
「従姉妹、結構カジュアルブランドに入れ込んでて、色々買い込んでるみたいでね。サイズが合わないとかそんな理由でこっちに周ってくるんだけど。困っちゃってて」
 眉を下げて、本当に困った顔をして笑った。
「これからは落合さんに助け船を出してもらおっと」
「私で良ければ是非」
 いつか不意に見たテーブルの上の写真立ては、何故か3つとも倒されていた。揺れで倒れたというよりは、故意に倒してあるようだった。綺麗に並んで倒れていた。

 紅茶が用意され、白いお皿にはシュークリームとフォークが乗っている。上品だ。
 私は思い出したように鞄から、会社の名刺を取り出した。
「あのね、私、落合じゃなくて今、沢田美奈、なんだ」
 名刺を手渡すと、中田さんは暫く固まったままその名刺を凝視していた。
「中田さん?」
 顔を覗き込むと、少し動揺した様子で「あぁ何でもないの」と言った。それでも視線を名刺から離さない。
「で、どうして苗字が変わったの?って訊いてもいいのかな?」
 私はカラカラと笑って「気ぃ遣わないでいいよ」と言った。
「私、バツイチなの。仕事始めて1年が過ぎた時に離婚して。苗字を戻すのって結構面倒だから、新しく戸籍を作って、今は元夫の苗字で沢田、なんだ」
 へぇ、と名刺に視線を落としたまま、暫く無言だった。
 私はお皿に乗ったシュークリームを、フォークを使って如何様に食べてやろうかと策を練っていた。シュークリームって、アムッって食いつくのが美味しい食べ方、でしょ。
 「若くして結婚したんだね」
 「うん、若くして離婚したけどね」
 結局シュークリームにかじりつくことを選択した私は、口角についた粉砂糖をティッシュで拭いながら続けた。
 「元夫がね、浮気性の人で。付き合ってる時はそんな事無かったんだけど、結婚したら急に。だからもう、愛想尽きたって感じ」
 もうひと口シュークリームを齧った。全部食べ終わってから粉砂糖を拭った方が効率的だな、と思った。
「浮気かぁ、辛かったね」
 同情の眼差しでこちらを見つめる中田さんは、とても優しい目をしていた。
「全然平気なつもりでいたけど、身体は正直でね。精神安定剤と睡眠薬飲んでたよ、当時は」
 そうなんだぁ、と私の事なのに中田さんがだんだんと沈んでいく様子が見て取れた。
「だ、大丈夫?」
 暗く影を落としたその顔を覗き込むと、「大丈夫大丈夫」と言ったが、彼女の瞳がゆらゆらと揺れているのが見えた。
 今日の中田さんは少し、変だ。


20 クリスマスの電話

 新製品の展示会の為、東京まで行った。
 丸1日サイと一緒にいて、疲労困憊だった。
 何度「口チャック!」と言いそうになったか。
 クタクタのまま玄関のドアを開け、ローソファに倒れこんだ。

 携帯が短く震える音がした。
 身体を起こして鞄から携帯を取り出し、またソファに寝そべってディスプレイを見ると、リンからだった。
『24日の夜と25日、予定入れるなよ』
 彼がメールを送ってよこす事は殆ど無い。用事があれば社内のメールを使うか、直接会ってやりとりをする。勿論、私も殆ど連絡しない。
 だからこそこのメールが嬉しくて、こそばゆかった。
 そのまま重い身体を起こし、シャワーを浴びた。お湯を張って入浴するほど力が残っていなかった。
 シャワーを浴びて髪を半分だけ乾かしてリビングに戻ると、またメールが着ていた。
『何か返信してこいよ!』
 何か可愛い人だな、と思って薄ら笑ってしまった。
『はいはい、空けときますよー』

「クリスマスは、何か予定あるんですか?」
 外回りの車の中で、珍しく私から会話を振った。酷く後悔した。
「え、何もないけど。もしかして誘ってくれて――」
「違います」
 ほんっと、不本意だ。ちくしょう。サイの言葉に被せて否定してやった。
 明日はクリスマスイヴだ。リンが家に来る。今日、仕事終わりに何かプレゼントでも買って帰ろう。


 クリスマスイヴ。明日は祝日とあって、どこの取引先も面倒な仕事を押し付けてこなかったので、定時であがる事が出来た。
 1時間ぐらい残業になるというリンを待つ間、駅前のショッピングセンターの地下で、クリスマスっぽいお惣菜を買いこんだ。お酒はもう、冷蔵庫に冷やしてある。今日はワインもある。
 仕事を終えたリンと合流し、電車に乗って我が家へ帰った。
 寒くて寒くて、マフラーに顔を埋めていると、リンが自分のミントグリーンのマフラーを取って、私のマフラーの上から巻きつけてくれた。煙草とは違う、リンの匂いがして、少しくすぐったかった。
 上目づかいで笑ってみせると、頭をぽんぽんと叩かれた。


「時間が時間だし、出来合いの物ばっかり買ってきちゃった」
 ビニールから色々な惣菜を取り出し、温める物とそうでない物を仕分けする。
「何だっていいよ。酒とつまみがありゃ何とかなる」
「まぁそう言わずに、色々買って来たから」
 トースターにチキンを入れ、レンジでパプリカの炒め物を温めた。
 サラダの類はお皿に乗せ替え、見栄えを良くした。うん、上出来。
 温めた物を皿に乗せる時「冷蔵庫からワイン出してくれない?」とリンにお願いした。
 カウンターに置いてあった携帯から着信音がした。誰だろうとディスプレイを見ると、中田さんだった。
『もしもし、落合さん改め沢田さん?』
「なにそれ、沢田でいいよ。どうしたの?」
『うん、どうしてるかなと思って。クリスマスだし』
「今食事の支度してた所」
 肩と耳で携帯を挟みながら話した。
「ワイングラスってどこにあんだ?」
 リンが言うので「食器棚の左奥にある」と答えた。
「ごめんね。こんな感じ。そっちは何してる?」
『うん、こっちは――彼が一時帰国してて、これから食事するところだよ』
「え、帰国してるの?それは楽しいクリスマスになるね」
『うん、ありがとう。ごめんね、忙しい時に電話しちゃって。じゃ、切るね』
「はいはーい、メリークリスマスー」

 すっかり盛り付けが済んだ物を、2人掛けのダイニングテーブルに載せた。テーブルが狭すぎて、「ソファで食べるか」という結論に至った。
 赤ワインで乾杯し、食事を始めた。
「さっきの電話は?」
「友達。彼氏がアメリカに出張してるんだけど、一時帰国でこっちにいるんだって」
 あふっとこんがり焼けたチキンの熱さに驚く。
「でも何で電話なんて掛けてきたんだろう。彼とよろしくやってる時に」
 リンはパプリカをシャキシャキと噛みながら「確かにな」と言った。
「自慢したかったんじゃねぇの、クリスマスだから彼が駆けつけてくれたのよー、みてぇな」
 パプリカうめぇなぁと言ってもうひと口食べた。
「そうかもね、羨ましいなぁ」
 中空に視線を漂われてると「何だよそれ、俺がいんだろぉが」と突っ込まれた。
 その顔がまた拗ねた子供の様で、愛らしかった。

 食事を終え、とりあえず空いた食器だけを洗っていると、リンが近づいて来た。
「一応、キッチンが似合うな」
 むっとした。一応とは何だ。
「ちゃんと出来る日は自炊してるんですぅー」
 洗い物の手を止めずそう言うと、リンが後から抱き付いてきた。
「ちょ、邪魔なんだけど、邪魔な事山の如しなんだけど」
「早く洗い物終わらせろよ」
 抱き付いて、私の耳にリンの鼻が触れる。「良い匂い」と耳元で囁く。
「早く終わらせるから邪魔しないの。あっちいってなさーい」
 リンはニヤついた顔でリビングへ戻って行った。何だアイツ。

「ふぅ」
 リビングに戻る時に、もう1本のワインと、2人分のワイングラスを手にした。
「ここからはお酒至上主義の時間です」
 私がそう告げると、リンはワインのコルク栓を開け、ワイングラスにワインを注いだ。
 ブドウの果肉の色をした透明の液体が入ったグラスを、チンと合わせた。
 私はリンの為に買ってきたクリスマスプレゼントを鞄から取り出した。
「はいこれ、プレゼント」
 緑色の包装紙に赤いリボンが掛けてある箱を受け取ると、嬉しそうに目を細めた。
「プレゼントは私よ、じゃねぇのか」
「返せ、今すぐそれ返せ」
 冗談だよ、と言って包装を開ける。中身は、ボールペンだ。
「うわ、パーカーのボールペンじゃん、えー、マジでか、嬉しい。美奈ありがとう」
 目を輝かせて喜んでいるリンを見て、安心した。
「リンはいつも貧乏くさい100円ボールペン使ってるからさぁ。異動もした事だし、ちょっと良い物使いなさい」
 彼はボールペンを片手に持ち、上にあげ、色んな角度から見ている。「勿体なくて使えねぇよ」と呟いた。
「俺もあるんだ」
 がさごそと鞄から出したのは小さな箱だった。同じように赤いリボンが掛けてある。
「見ても宜しいでしょうか?」
「どうぞ」
 ドキドキした。頬が上気しているのが自分で分かる。包装紙を破かないように、慎重にテープを剥がし、少しずつ、少しずつ、中身に近づく。
 ベロアのような手触りの、紺色をした箱の中には、クロス型にジルコニアが配置されたネックレスが入れられていた。
「お前、普段あんまりアクセサリつけねぇから、仕事中でもつけられっかなと思ってシンプルなのにしたんだ」
 箱から取り出し、掌に引っ掛けてみる。ジルコニアに光が反射してキラキラしている。
「ありがとう。これってシルバー?」
「ば、ばか、それプラチナだよ。温泉に入っても変色しねぇからな。だからずっとつけとけよ」
 自然に零れた笑みが、少しずつ大きくなり、「へへぇ」とリンに笑顔を見せた。
 リンも子供の様な笑顔で笑った。
 すぐに首につけた。何があっても、外すことが無いように。
 嬉しすぎて、目じりに少し涙が浮かんだことは、リンには気づかれていない筈だ。


21 夜の部活動

「俺、泊まってって良いんだよなぁ?」
 そんな当たり前の事を訊くので「ソファで寝て」と悪戯っぽい笑みを浮かべながら答えると、また膨れっ面になった。
「夜這いしてやっからな」
 そう言うので「うそだよ」と肩を叩いてやった。
「ベッド、シングルだから狭いよ?それでもいい?」
「その方が良い」
 彼は煙草を手に、ベランダに出て行った。ひゅっと冷たい風が部屋に入り込んだ。
 今日はコンドームを幾つ持ってきてるんだろう。

 別れられない彼女への懺悔の念と、リンが欲しくてたまらない我欲がせめぎ合っていて、どちらが本物の自分なのか分からない。
 今頃彼女は、寂しいクリスマスを過ごしているんだろうか。笑いあえる友達と過ごしているだろうか。顔も見た事が無いその彼女を少し、不憫に思った。
 少しの罪悪感と、少しの優越感、そんな感じだ。

 煙草を吸い終えたリンの手を引き、寝室へと招き入れた。
 ベッドに腰掛けるとリンも隣に腰掛け、私の頬に手を当ててキスをした。
 煙草の苦い味がして「苦い」と言ったら「ごめん」と謝るくせにキスを止めなかった。
 既に部屋着に着替えていた私の服を脱がすのは難しい事ではなく、あっという間に全裸だった。
 リンはキスしながら器用にワイシャツのボタンを手早く外し、パンツのファスナを下すとそれを脱いだ。2人ベッドに傾れこんだ。
 もう私はキスしている時点で濡れているのが自分で分かっていた。
 わざわざ音を立ててそこを弄ぶリンは、意地悪だなぁと思ったけれど、そんなリンにしがみ付いて喘いでいる自分に、リンを責め立てる資格はない。
「今日は何ラウンドですか?」
 挿入されている最中に喘ぎ喘ぎ訊いてみると、リンも切羽詰った声で答えた。
「3ラウンドは堅いな。あぁもう出そう」
 突き上げる速度を上げ、中で果てた。
 コンドームを外し、処理をし終わると、また私に重なり、キスを求めた。
 次の瞬間には彼の股間はびよよーんと起立して、私のお腹の辺りを濡らしているので手におえない。
 結局の所、5セットだ。なんだこの数字は。部活か?筋トレか?スクワットか?
 私も途中で復活してしまい、2回もイかされた。

 くったくただ。何が聖夜だ。性夜の間違いだろう。きっと中田さんや世の中のカップルは、クリスマスにかこつけてあんな事やこんな事して過ごしているに違いない。腰に鈴でも付けて踊ってろ。
 疲れ果てて、リンの股間の再起能に呆れて、それでもリンが愛おしくて、抱きしめて眠った。
 朝の訪れを憎らしく思った。

 ニコチンヤクザだけど、彼女がいるけれど、それでも愛している。
 言葉だけでは満たされない。身体が繋がる事で愛を確信できる。


22 川の流れ

 年末は実家に帰り、実家で元旦を迎えた。
 元旦に届いた年賀状を回収し、すぐに新幹線で自宅に戻った。
 ポストには10数枚の年賀状が届いていた。

 昨晩、リンから『明日暇か?』とメールが着た。
 暇だと返すと『初詣、行くぞ』との事だった。
『寒いし面倒臭い』と返信すると『罰当たり。我慢しろ』と言われてしまった。
 私の「面倒くさい」発言により、私の家のそばにある神社に行く事になった。

 神社の前で、ダウンジャケットにマフラーを巻いて、亀の様に首も顔も埋めて立っていると、向こうからリンが歩いて来た。身体が上下する度に、黒いしなやかな髪がふんわりと揺れる。
「明けましておめでとう」
「明けましておめでとさん」
 寒いからちゃっちゃと終わらせよう、と言うとまた「罰当たり」と言われた。
 お参りを済ませ(2人とも何を願掛けしたかは内緒にした)、裏門から道に出た。
 そこから見える土間川は、盆も正月も無いよと言った感じで通常通り、ただ流れている。「ちょっと今日、流れるのやめてみようかな」とか思わないのかな。

「今年こそ彼女ときっちり、別れるつもりだ、俺」
 急にそんな事を言い出すので、ダウンに突っ込んでいた片手をリンのおでこにピタと付けて「どうした?」と顔を覗き込んだ。熱がある訳ではなさそうだ。
「もう1年は経つんだ、別れ話を始めてから。いい加減しんどくなってきた。お前との関係も深まったしな」
 うん、と先を促した。暫く無言のまま歩いていたが、再び彼は口を開いた。
「暫く、お前の名前を出して旅行だのクリスマスだので避けてきたんだけどな、今月久しぶりに会うんだ」
「そうなんだ――」
 複雑な心境だった。会って欲しくない。そのまま放っておけばいいじゃないか。そんな風に思う。
 しかし責任感の強いリンが、「死にたくなる」というような事を口にする、親もいない孤独な彼女を放っておくはずも無く。
 「私だけを見て」という我が儘が通用しないのに、リンには「俺の美奈でいてくれ」と言われた。こんなのフェアじゃない。
 少しの優越感に浸っていた筈の私が、リンに捨てられるんじゃないかと言う大きな不安を抱いている。
 優越感の後に出る不安。元夫に浮気をされた事を思い出す。かまってちゃんは放っておけばいいと思う自分の中に、強い不安感が生まれ、結果的には精神を病んだ。

 私はそんなに強い人間じゃない。口ばっかり達者だけど、打たれ弱いんだ。それでも、思っても無い事が口をついて出てしまう。
「ま、彼女が納得できるまで、時間掛かってもいいよ、私は」
 自分で自分を殴ってやりたい。


 今年もサイとのコンビは解消されず、年始から営業の日々。
 年明けはきっと福袋の話で来るだろうと思っていたが、案の定。
「原宿駆けずり回って10店舗分の福袋買いあさってきたよ」
 あぁそうですかそうですか。面倒臭いやつだ。


23 飛散の点

 社内メールで高橋君からメッセージが届いた。
『今日上がり遅いか?もし良ければ藤の木』
『定時プラス1H。終わったら企画部に顔出して、居なければ直接藤の木向かう』

 結局彼の方が業務終了が早く、私は後から藤の木の暖簾をくぐった。
 いつになく浮かない顔で、ビールを呑むリンが目に飛び込んできた。
 纏う空気が普段と余りに違い過ぎて、大将と女将さんへの挨拶もそっちのけでリンの隣に座った。
 大将が気遣いげな笑顔で「ビールでいいかい?」と訊くので、コクリと頷いた。
「どうした、何かあった?」
 彼の背中に手を当てた。リンは俯いたまま顔を上げず、ポツリと「躁鬱病だと思う」と言った。
「彼女?」
「あぁ。処方された薬がキッチンのカウンターにあったから、こっそり名称をスマホにメモしてきたんだ。そしたらリーマスっつー躁鬱病に効く薬と安定剤数種、あとは睡眠薬」
 ゴトっと重い音がした。ビアジョッキを持つ手に力が入らない様子だ。
「彼女は、どんな様子だった?変わった様子は?」
 精神を病んでいたかつての自分と彼女が重なり、なんとも言えない悲しい、同情的な気持ちになった。
「別れ話は相変わらずスルーだ。バレンタインにはチョコ作るからって張り切ってた」
 そうなんだ、と私はジョッキの底から立ち昇る気泡を目で追った。その気泡は次々に弾け、次々に生産される。
「やたら明るくてさ。結婚したら家を買おうとか、専業主婦も悪くねぇとか。自分で買った指輪を『婚約指輪』って言ったりな。あれを躁状態って言うのか」
「そうかもね」
 きっとリンが帰ってから彼女は、一気に鬱状態へ降下して行ったに違いない。
「リン、こんな事言いたくないけど、過度の優しさって、時には凶器だよ」
「そうだな。優しくし過ぎてんのかもな、俺」
 項垂れていた顔をあげ、肘をついて髪をグシャっとやった。
 長い溜息を吐き、ビールをあおった。
「泡、ついてる」お絞りで口の横を拭ってあげた。
 疲れ果てた表情で何とか頬を緩め、「ありがとう」と掠れた低い声で言った。

 躁鬱病を抱えている彼女を、放って置けるほどリンは無責任な男ではない。
 病の原因は自分にある、と思っているからこそ、こんなに落ち込んでいるんだろう。
「これ、サービス。色男が沈んだ顔してると勿体無いよ、高橋さん」
 女将さんがもろきゅうを2皿、カウンターに置いた。
「ありがとうございます」私は出来るだけ笑顔で言ったが、彼は頭を下げただけだった。

 ふと、中田さんの事かが頭に浮かんだ。
 なかなか会えない彼氏。パン教室で焼いたパンを彼氏に食べさせている事。真面目で一途でかっこ良い彼氏。安定剤の服用。道端で視線が合ったのに逸らされた件。伊香保温泉で買ったお土産と同じ包装がされた箱。私の名刺を見た彼女の顔。クリスマスの電話。
 もし万が一、中田さんがリンの彼女で、彼氏すなわちリンとうまく行っていない事を隠しているとすると――。
 まさかね。そんな偶然があるものか。出来過ぎだ。
 思った事は胸に秘め、まずはリンを元気付ける事に傾注した。


 バレンタインに甘い物は要らないから、と先んじて言われていたので、デパ地下でちょっと高価なお煎餅を買ってきた。
 休日ということも手伝って、バレンタインデーのチョコ売り場は行列だったが、お煎餅売り場は閑古鳥が鳴いてたので並ぶ面倒が省けた。

 午後からリンが家を訪ねてきた。お煎餅を買ったから、と私が呼んだのだ。
 ここんところのリンは、仕事中に顔を合わせても、上の空で私に気づかないことすらある(腹立たしい)。
 オートロックの呼び鈴に「解錠」で対応し、玄関を開けた。
 藤の木で見たより幾分元気を取り戻したかの様に見え、安心した。
「そこ座ってて」ローソファに促し、私はお茶の支度した。トレイには、プレゼントのお煎餅を乗せた。
 「甘い物苦手って言ってたからお煎餅にしたの。食べられる?」
 お煎餅を載せたお皿をじっと見ると、「うん、旨そう。食べて良い?」と訊いた。
 そこには普段見せる笑顔があり、胸を撫で下ろした。
 「どうぞ、残しちゃいけませんよ」
 そう言って2人でボリボリとお煎餅をたべた。

「お前、甘い物は好きだよな?」
 うん、と頷くと、リンは鞄から平たい箱を取り出した。
「実は午前中、彼女がうちに来てさ、これを置いて行ったんだ。匂いからしてチョコなんだ。俺、苦手だから良かったら食べてくんねぇかなぁ?」
 ええ、よろこんで食べますわよ、と言って箱を開けて思わず息を飲んだ。心臓が、活きの良い魚の様に跳ねた。
 チョコの上には「Rin&Risa」と丁寧な筆記体で描かれたメッセージが乗せてあった。

 Risa。中田理沙。
 またひとつ繋がる。繋がる度に、罪悪感と不安感がひとつづつ積み重なって、押し潰されそうになる。
「あ、後で食べるね。冷やしておこ」
 そそくさと冷蔵庫に向かい、動揺を隠しきれない顔を隠した。一息ついたところでソファに戻る。
「彼女、リサさんって言うんだね」
「ああ。どこにでもある名前だ」
 確かにそうだ。リサなんてありふれた名前だ。外国人研究員でリサさんって人がいたっけ。ワールドワイドだ。
 だけど、その他の要素を含め、ひとつひとつの点が、線で結びつき始めている事は明らかだ。それをリンに伝えよか迷い、やめた。
 こんな偶然、あってたまるか。
 リンはけじめをつけようとしている。それでいいではないか。

 私の憶測が本当だとして、不可解なのは中田さんが私に何も言ってこない事だ。


24 涙の合流地点

 企画部との合同会議に、私と課長が駆り出された。
 企画部のオッサン面々とは明らかに一線を画す若いリンは、浮いていた。
 それでもプレゼンではオッサン連中に引けを取らない素晴らしい訴求力を発揮していた。
 こんなに凄い人と付き合っているんだ、と思うと何だかニヤニヤが止まらなくなる。
 が、実はまだ正式に付き合っている訳ではない事を思い出し、ニヤニヤ顔が急速に窄まる。
「おい、聞いてるか?」
 課長に肘で突かれ、はっと我に返った。
 卓を向い合せ、斜め前に座っているリンと目がった。
 クチパクで「バカ」と言われた。


 寝室のベッドで布団にくるまり、最近気に入っている文庫本の3回目を読み始めた。
 この部屋には暖房の類が無く(リビングから移動してくればいいんだけど面倒臭い)、身体は布団にくるまっていても、指先が凍える。
 2月ってのは何でこんなに寒いんだろう。サイドテーブルに置いたココアからはひっきりなしに白い湯気が立ち上り、その温度を手放し跡形も無く消え去る。
 外は、すぐにも雪に変わりそうな冷たい雨が降っている。

 文庫本を半分ぐらいまで読み進めた所で、携帯に着信があった。リンからだ。
「もしもし」
『今ちょっといいか』
 落ち着き払った声だった。急用という訳ではなさそうだ。
「うん、いいよ。本読んでた所だから」
 そうか、悪いなと彼は謝った。身体を起こし、少しぬるくなったココアに口を付けた。
「どうした?」
『お前のその、どうした?って声、優しいな』
 そんな事を言われたので全身の血液が顔に集中した。「何だよいきなり」
『本題はそれじゃなくてな、お前に頼みてぇ事があるんだ」
 うん、と先を促した。
『ホワイトデーに彼女の家にお返しを持って行くんだけど、一緒に来てくんねぇか?』
「えっ!」
 思っていたよりも数倍デカい声で叫んでしまい「耳イテェ」と言われた。
『嫌か?』
「まぁ、出来れば行きたくない」
 布団の端の縫い目を、爪でなぞりながら、駄々をこねるような子供の様に言った。
『俺の隣に、リサじゃない、美奈が立ってる現実を見せれば、分かって貰えんじゃねぇかと思ったんだ。それでも駄目か?」
 私は暫く考え込んだ。

 そのリサさんが、中田理沙さんではないと分かっていれば、承諾しただろう。「私が彼の新しい女です」とドヤ顔までしちゃうかもしれない。あ、でも精神的に病んでいるとしたら、そんな荒っぽい真似は出来ないけれど。
 でもそのリサさんが、中田理沙さんだったら――。街で見かけた時に目を逸らされた。あの時点で彼女は、リンの隣にいるのが私である事に気づいた筈だ。何せリンは背も高く、顔も良いので目を引く。それに、名刺だって見せた。本名は知っている筈だ。それでも普段通りに接してくれている中田さんに、合わせる顔なんて無い。

 推測でしかない。リサさんが中田さんであるという事は推測だ。リンに、リサさんの本名を訊けば済む話だ。でもそれが出来ない。
 もし彼の口から「中田理沙」という名前を聞いたら、私はリンを諦める?それとも奪う?どちらを選ぶ?
 いずれにせよ、藤の木で見た、暗い影を落とすリンの姿を、もう2度と見たくない。
 彼には少し幼く見えるあの顔で、笑っていてほしい。
 どちらのリサさんであっても、私は彼に笑っていてほしい。それだけだ。いつもなら「面倒臭いからパス」と言ってのける所だけど――。
『美奈?大丈夫か?』
 布団の端を片手でギュっと握った。
「行くよ。一緒に」
 まだリサさんが中田さんではないという可能性が、無い訳ではないのだから。可能性は2分の1。
『良かった。じゃぁ3月14日、空けといてくれよ』

 最近めっきり連絡を寄越さなくなった中田さんの事を考える。
 私に出来る事は、リサさんに、もしくは中田さんに、現実を突きつける事だけ。
 願いは、リンの笑顔を取り戻す事だけ。
 ベッドに横になった。胎児の様に丸まった。文庫本を読むことをやめた。
 前向きな事を考えている筈なのに、右目から零れた涙が左目に入り、大きなしずくが頬を伝う。
 もう引き返せない。誰かを傷つける事になる。その事実は消せない。


25 彼女の正装

 3月14日。会社の最寄駅でリンと待ち合わせをした。
 駅に着くと、改札を出た所に彼が立っていたので、ダウンのポケットから片手を出して手を振った。彼も同じように、ミリタリーコートから手を出しヒラリと手をあげた。
「彼女、この辺に住んでるの?」
「あぁ。会社もこの辺だからな。お前にもお返し買ってあるから、後でな」

 口数少なく歩く道のりは、何度か通った事がある道だった。悪夢が、現実になろうとしている。このコンビニの角をまがる。そしてあのゴミ集積所を左に折れて――。
 目の前にあったのは、あの白いマンションだ。
「あの、さ、もしかして5階?」
 エントランスの前で足を止めて、訊いた。
「は、何で分かった?」
 彼も足を止め、不思議そうに私を見ている。
 やっぱりそうだったのか――。
「中田理沙、さん?」
「何なんだよ、お前、いつから知ってたんだよ?」
 眩暈がして、その場にしゃがみ込んだ。
 そうかもしれないけれど、そうじゃなければいい、そう思っていた。
 受け入れがたい現実を突きつけられて、「人って酷く動揺すると涙が出るんだ」と思った。視界が歪み、溢れた涙が下睫毛をしならせて、そして地面に落ちる。顔が、醜くこわばる。
 私の隣にリンがしゃがみ込み、温かい掌を私の背中に置いた。
「どうした?ゆっくり説明してくれよ」
 私は彼に腕を引かれ、エントランスにある来客用のソファに腰掛けた。ある程度涙は引いた。

「私の、高校の同級生なの」
 うん、と静かにリンは頷く。
「こっちで偶然再開して、一緒にお茶したりするようになって、仲良くなって」
「俺の事は何も言ってなかったのか?」
 どう説明すれば良いのか、言葉を探った。
「クリスマスに電話が来たでしょ。彼女からだったんだ。彼氏はアメリカに出張だとか、忙しいからとか、仕事が一段落したら結婚するとか、幸せそうな話しか聞いてなかった」
 自然に顔が足元を向く。あぁ、うんざりだ。
「お前はいつから気づいてたんだ?」
「まぁ、最近だけどね。でも兆候はあった。伊香保のお土産屋さんの包装紙と同じ物がタイミングよく彼女の家にあったり、彼女も安定剤飲んでたし。パン教室に通っていたり。点だったものが、バレンタインのメッセージカードの名前を見て、線になった」
 リンは俯いて頭を抱えたまま言った。
「あいつは、理沙は気づいてるのか?」
「分からない。でもいつだったかリンと歩いてる所を見られた、と思う。他にも、私がヒントになる言葉を喋ってたかもしれない。あ、名刺――」
 彼は顔をすっとあげた。「名刺?」
「私、バツイチなんだ。今は新姓を名乗ってるんだけど」
 鉄砲玉を食らったような顔をしたリンがいた。口をあんぐり開けていた。
「彼女は私を旧姓の『落合』で呼んでてさ。新姓の名刺を渡したら、明らかに動揺してたんだ。リン、彼女に私の名前、教えたんだよね?」
「あぁ」と短く言ってまた俯いた。両手を組んで、難しい顔をしているのが分かる。
「知ってたとしたら、どうしてあんなに私に優しくしてくれてたんだろう――」
 すっと立ち上がった。私はリンを見上げた。
「アイツ、昨日電話した時、すげぇ鬱っぽかったんだ。やばいかもしれねぇ。急ごう」
 躁鬱病についてインターネットで調べた時に読んだ。鬱状態から躁状態に移行する際に、自殺が多い――。まさかそんな事は。


 インターフォンを鳴らした。小鳥のさえずりが部屋から聞こえるが、中で人の動く気配はない。
 玄関に面した格子窓は、少しだけ開いていて、カーテンが揺れるのが見える。3月の少し柔らかな日差しが射していた。中は窺い知れない。
「合鍵」そう言ってリンはポケットからキーケースを取り出し、玄関のドアを開けた。
 彼は急いで靴を脱捨てぎ、リビングへ走った。「いない」と言った。
 私は玄関を入ってすぐの寝室のドアが半分開いている事に気づいた。
 そこから中を見た。
 膝が崩れ落ちた。
 言葉が出なかった。喉が押し潰されたようだった。口をぱくぱくさせた。
 その様子を見たリンがすぐ駆けて来て、寝室のドアを開けた。

 柔らかな日差しに照らされた、彼女の後姿があった。いつもの様に上品な、薄いピンクのニットに、グレーのプリーツスカート。控えめな薔薇の香り。
 異常だったのは、つま先立ちである事と、足元にある水溜りと、首から伸びるベージュのロープ。
 足の先には、ご両親と思しき人と撮った写真、リンと中田さんが写った写真、そしてリンがはにかんだ笑顔で写る写真の3つの写真立てが、彼女の顔を優しく見上げていた。
 写真立ての前には一枚の紙に整った文字でひと言書いてあった。
『リンへ。沢田さんとの幸せを願っています。理沙より』
「理沙!」
 掠れた声で叫び、中田さんの正面に周ったリンは、その顔を見るなり「お前こっち来るな」と手で制止した。
 私はその場を動こうにも動けず、何も言えず、人形の様な目で彼女の後姿を見ていた。
 彼女のスカートが少し、風に揺れている。
 何を着ても様になるんだから。だからってそのロープは違うでしょ――。

 その後の事はあまり覚えていない。
 空白の時間があり、救急隊と警察が来た。
 私は無意識のうちにリンにリビングに連れて行かれていたようで、ソファに座っていた。
 発見時の状況等、リンは警察に色々と話していたが、そのほとんどの会話が、耳の穴を通り抜けて行った。

 私はひと言も発せないまま、リンに家まで送り届けられた。
「ばいばい」そのひと言だけ、辛うじて口から零れ出た。

 部屋に入るとすぐ寝室のベッドに横になった。
 どうしてもっと早く、気づけなかったんだろう。自分自身への怒りがあった。
 どうしてもっと早く、私に言ってくれなかったんだろう。彼女への怒りもあった。
 リンと花火を観に行ったのは私だ、クリスマスを一緒に過ごしたのは私だ、温泉に行ったのも全部私だ。
 全部私だと分かった時の中田さんの心情は、想像を絶する。
 リンとの関係はもう元には戻らないと知った中田さんは、独りになる事なくご両親の元へと旅立ったのだろうか。
 彼女の心境は彼女にしか分からない、全て憶測でしかない。
 それでも彼女が全てを知っていたという事実、私が全てに気づいたという事実。この2つはどうしたって覆らずに私に重く圧し掛かる。
「幸せになって」だって?なれるものか。誰かの犠牲の上に成り立つ幸せって物も世の中にはあるのかも知れないけれど、誰かの死の上に成り立つ幸せなんて――。
 考える事は山ほどあって、全てそれが涙に変わって、止まらない。涙が湧き出る様に次から次へと止まらないなんて、初めての経験だ。
 そのうち思考回路は悲鳴を上げて、私は眠りに落ちていた。


26 決断の行く先

『沢田さんの携帯で宜しいですか?』
 昼休みに携帯が鳴った。知らない電話番号だった。はい、と訝しげに答えた。
『私、中田理沙の伯母にあたる、中田京子と申します』
「あ、あの、ご愁傷様です」
 マグカップを持つ手を離し、口元にあてながら廊下に出た。
『明日、理沙の葬儀があるんですが、私、夫を亡くしてましてね、彼女も身寄りがないもんで、私が喪主をするんです。で、理沙の携帯に名前があった人に連絡してる所なんです』
「あ、そうなんですか。あの、お通夜は無理かもしれないんですが、ご葬儀には参列させてください」
 そう言って、誰もいない空間に一礼した。
『あの、こんな事訊いては失礼かもしれないけれど、遺書にあった沢田さんって、あなたの事かしら?』
 目を瞑った。また眩暈に襲われそうで、冷や汗が湧き出た。
「そうだと思います。すみません」
『いえいえ、謝らないで。彼女は素直な良い子だから、あなたの幸せを本当に願ってたんだと思うの。だから罪悪感なんて感じないでね。明日、直接お会いできれば嬉しいわ』
 自分の母親の様な、日向の猫の様な、穏やかな声に涙が溢れてしまった。嗚咽を押さえるのに一苦労だった。
「はい、よろしくお願いします」
 そう言って、電話を切った。涙が引くまで廊下に突っ立っていたら、リンが通りかかった。
 彼の眼は、腫れぼったかった。
「おい、どうした?」
「葬儀の連絡を貰って」
「あぁ、お前はどうする?」
「明日行く」
 それだけ言って、手のひらで涙を拭いて、居室に戻った。
 明日は有休をとる事にした。


 葬儀場につくと、高校時代に見た事のある人がちらほらいた。
 その中に歩がいた。
「美奈!」
「歩!」
 久しぶり、と握手をした。
「どうしたの?美奈って理沙と交流あったっけ?」
 不思議そうな顔をする歩に説明した。
「こっちのスーパーで偶然会ってね、仲良くなって」
 そう、この偶然さえなければ、こんな事にならなかったかも知れないのだ。
「そうなんだ、凄い偶然もあるもんだね。それにしても――残念だね。じゃ、また後で」
 彼女は過去のクラスメイトの一団の中に戻って行った。


 葬儀が済んだ後、リンが1人の女性と話していた。年齢から推察するに、あれが中田京子さんだろう。
「あ、美奈」
 こちらに気づいたリンが手招きをした。私は一礼しながら近づいた。
「沢田さんね。昨日電話で話した中田です」
「昨日はご連絡ありがとうございました」
 また深々と頭を下げた。
「今、高橋さんにも話したんだけれども、彼女、躁鬱病を患っててね。私の娘にそれを打ち明けてたんだけど。それが原因でこんな事になったんだろうって私達家族は思ってるの」
 無言で頷く。リンは胸ポケットから煙草を取り出し、喫煙スペースへと歩いて行った。
「電話でも言ったけれど、あの遺書の事は、素直に受け止めてやって欲しいの。決してご自分を責めないでね」
 整った字で書かれたあの遺書を思い出す。その向こうには、写真。
「あの子、優しいからあんまり胸の内を外に出したがらないのよね。辛い事も辛いって言わないって、あの子の両親もよく漏らしてたし。でもそういう、彼女の個性も、尊重してやって欲しいの」
 身体の中の水分が目に集まってくる感覚があった。堪えた。
「あの、お墓参り、時々行ってもいいですか?」
「勿論。喜ぶわ、あの子も」
 墓地の場所を携帯にメモした。

 リンがこちらに戻って来た。
「じゃ、また何かあったら連絡するわね」
「はい、ありがとうございます」
 深々と頭を下げて、中田さんに背を向け歩き出した。隣にはリンがいた。
「お前これから時間あるか?」
「うん」
「ちょっと話しよう」

 葬儀場からそう遠くない所に、リンが住むマンションがあった。駅を挟んで丁度会社の真反対に位置する。
 煙草の匂いが染み付いた簡素な部屋の真ん中に、小さなテーブルが置いてあった。
「テーブルんとこ、座ってて」
 そう言うとミニキッチンについてる冷蔵庫からペットボトルを取り出し、コップにお茶を入れて持ってきてくれた。
 「ありがと」と言い、ひと口啜った。
リンは疲れた顔をしていた。私もきっとそうだろう。
「何か、色々巻き込んじまって済まねぇと思ってる」
 火のついた煙草を灰皿にトントンと叩きつけ、灰を落とす。
「俺はともかくとして、お前は今回の件に責任を感じねぇでいいから。俺がお前を理沙の家に連れて行かなきゃ、お前は辛い思いをしなくて済んだんだよ」
 私は、何も言えないでいた。暫く部屋の中に沈黙が流れた。電気ストーブの熱線が熱を放つ音が聞こえてきた。
「でも、でも、遺書には私の名前があったんだから。同じ結果になったよ」
 リンはサラサラの髪に指を通してポリポリと掻いた。
「お前と出会う前から俺は別れ話を持ちかけてたんだ。お前がいなくても、理沙は精神的に病んで、こういう結果になってたかもしれねぇ」
 また沈黙した。死者を前にすると、推測でしか話が出来ないので、結論が出ないのだ。

「リン、ちょっと距離を置こう」
「え?何で?」
「心の整理がつくまでそうしたい」
 リンの返事は耳に入らなかった。
 まだお茶が残っているコップを持ち「ごちそうさま」と顔を見ずに言った。シンクの中にコップを置いた。
 外に出た。
 何も考えず、家まで帰った。


27 煙の行く先

 4月に入った。土間川沿いの桜の木は満開を迎え、私はベランダからその桜を見た。
 木の下では、お酒が入っているのであろう、どんちゃん騒ぎをしている連中がいる。
 年中無休で流れ続ける土間川は、長い歴史の中で、色々な人間を見ているのだろう。
 その歴史の中で、私なんて小さい小さい、カスみたいな時間でしかない。

 営業職という仕事柄、私情は仕事に持ち込まないようにしている。
 年度が替わり、営業先の研究員も変わったりするため、何かと忙しい時期だという事も手伝って、気を張っていられた。
 それでも外回りから帰って自分のデスクにつくと、急に脱力感に襲われる。
 中田さんの事を考えなかった日はない。あの後姿。写真立て。日差し。薔薇の香り。
 受信トレイに暫くの間、高橋君からのメールはない。
 自分から「距離をおきたい」と言った癖に、少し淋しく思う自分がずるい。
 社内ですれ違っても挨拶をする程度にしている。何度か話し掛けられそうになったが、私は横をすり抜けた。今はそれがいい。


 中田さんが亡くなってから丁度1ヶ月経った。
 終業後、近くのコンビニでお線香とお花を買い、中田さんのお墓を訪れた。
 もうとっくに日が暮れていて、墓地の四隅に置かれた灯りを頼りに、中田さんのお墓を探すと、奥の方に、背の高い男性が立っているのが見えた。
 リンだった。
 ゆっくり石段を下り、近づいた。
「おう、お前もか」
「うん」
 場所を譲ってくれたリンに代わってお花を手向け、お線香に火をつけた。
 立ち上る煙は、葉桜になった桜の木に向かって流れて行く。
「理沙の伯母さんから、電話があったんだ」
「うん」
「お前とお墓参りに行ってやってくれって」
 リンの顔を見た。墓地の角にある街頭のせいで逆光になり、その表情までは窺い知れなかった。
「なかなか話し掛けられなかったけど、図らずともそうなったな」
「うん」
 リンから視線を外し、墓石を見た。そこには中田さんに似合う、可憐な漢字が並ぶ戒名。
「アイツの遺書、嘘は書いてないと思うんだ。伯母さんも言ってた」
「うん」
「俺はお前と一緒になりたいって、理沙に言い続けてた。美奈が好きだって言い続けてた。それをやっと、認めてくれたんだ」
「うん」
 それしか言葉が出なかった。認めてくれた?死をもってして認めた?
「だから、理沙の想いを無駄にしないためにも、俺がお前を好きだって気持ちに正直であるためにも、もう一度きちんと、やり直さねぇか?」
 人の死の上に成り立つ恋愛なんて。
「帰る」
 それだけ言って、その場を立ち去った。
 一瞬、後を追われる気配があったが、すぐに止んだ。


 ゴールデンウィークはカレンダー通りに出勤した。
 家にいる時間は読書に費やした。
 何度かリンから『会えないか?』とメールが着たが、全て『ごめん』と返した。
 それでも、リンときちんと向き合わないとな、と思った。
 お墓参りの時に邪険に扱ってしまってから、そのタイミングを逸してしまっている。


28 2人の行く先

 また14日が訪れた。
 この日も仕事を終えてから、お花だけを買い、先月買ったお線香の残りを持って、墓地を訪れた。
 人影は無く、墓地の隅にある彼女の墓石の前に立った。
 この1ヶ月の間に誰かが来たのか、花はなくなっていた。
 花とお線香を手向け、手を合わせ目を瞑る。
 左の方から砂利を踏む音が聞こえた。ふと目を遣ると、リンだった。
「いると思った」
 そう言ってリンは持っていたお線香にジッポで火をつけ、手向けて合掌した。
「お前と話せるのって、ここしかねぇんだよな」
 そう言われた。
「この前は」と私は口を開いた。
「この前はろくに話もしないで帰ってごめん」
「あぁ、気にすんな」
 煙草を1本取り出して、火をつけた。先月はついていた灯りは、蛍光灯が切れてしまったのか、暗いままだ。
 暗がりに、蛍のようにポツリと煙草の火が灯る。
「無意識のうちに彼女を傷つけてたんだなって思うと、何か、自分を責めずにはいられないんだよね」
「でもそれは無意識だったんだ。彼女にわざと刃を向けてた訳じゃねぇよな」
 ふーっと長く煙を吐いた。煙は線香の煙と同じ方へ流れて行った。
「気づいた時に、すぐ言えばよかったって後悔してる」
「あぁ」
「気づいて、ちょっと様子を見てたら、階段を転げ落ちるみたいにあっという間にこんな事になって」
 墓石を見た。彼女はここに眠っている。
「今後もリンと仲良くやっていくにしても、どうしても彼女の事が足枷になる」
「こうやって一緒に、毎月墓参りに来よう。季節の花持ってさ」
 月明かりに照らされる事で、リンの顔が頬を緩めている事が分かる。
「中田さんね、リンの真面目で、一途で、優しいところが好きだって言ってた。こうやって今月もお墓参りに来るリンの姿を見て、その言葉を思い出したんだ」
「アイツそんな事言ってたのか」
 ハハッと照れくさそうに笑いながら下を向いた。髪がさらりと動いた。
「私も同じ。真面目で、一途で、優しくて、笑った顔が案外幼くて、そんな所が好き。今も変わんない」
 顔をあげたリンは、笑いながら「ホォー」と言った。
「リンは知らないと思うけど、彼女ね、私に洋服をくれたんだよ。パンもくれた。花火に誘ってくれたし、私がバツイチだって知って『辛かったね』って同情してくれた。凄く、優しい友達だった」
 リンは携帯灰皿に少し灰を落とした。
「アイツは、俺の事は勿論、お前の事も好きだったんだよ。好きなもの同士が一緒になる事に、何の不満も無かったんだよ、きっと」
 私はその言葉に、少し安堵した。
「彼女の遺志を信じようと思うんだ。彼女が考えてた事を憶測で並べた所で何も解決しない。彼女が残してくれたあの一枚の手紙を私は、信じようと思う」」
「あぁ」
 少し黙った。頭の中を整理した。ひとつの光りの様な物が頭の中に灯った。

「毎月こうやってお墓参りに来て、2人で彼女に笑顔を向ける事が出来るのなら、それが何よりのはなむけになるのかなって」
 上手く言えないけど、と付け加えた。
 リンは携帯灰皿に煙草を押し付けた。最後の煙が桜の木に向かって流れ、散って行った。
「お前は花な。俺は線香。14日は必ずここに持って来よう」
「うん」
「笑顔でな」
 私を見て、泣きそうな顔をして笑うので、私も同じような顔をして笑った。
「2人でね」

 現世から消えてしまった彼女の本当の心は分からない。
 残された物、それを信じるしかない。
 それは彼女の遺書だ。
 私とリンの幸せを願う遺書。
 見上げると、横浜の夜空にも申し訳程度の星が瞬いている。
 この星のどこかで、彼女はご両親と再会しているのだろう。
 そこから私たちの幸せを願ってくれているに違いない。
 私達に出来る事は、別れる事ではない。
 彼女の遺志を信じ、リンと幸せな道を生きて行く事だ。

「手」
 リンが腕を伸ばしてきたので、私はその手に自分の手を重ねた。
「藤の木寄ってくか?」
「そうしようか」
 手を握りしめて墓地を抜け、新緑の匂いが拡がる公園に入った。
 短くキスをした。少し煙草が匂った。
 そうだ、次のお墓参りには彼女の好きだった薔薇の香水を持って来よう。
 手が届かないところへ行ってしまった、私の大好きな友達の為に。
 そう思った。


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