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1 後ろめたさからの解放

 「面倒臭い」、が口癖になっている事は自覚している。
 女としてそれはどうなのかと問われると――女とか、男とか、関係ないから、と思う。

 面倒臭いと言いつつも、仕事は全力でこなしてきた。これは、自分にとってプラスになるからだ。
 以前在籍していた会社(業界中堅)に入社してすぐ、営業部に配属さた。それはそれは、馬車馬の如く働いた。
 2年目に入り、1年目の倍は働いたと思う。上司もびっくりだ。
 2年目の年度末、今の会社ハイテクニクス(業界大手)からヘッドハンティングされた。
 上司は物凄く喜んでいた。そりゃそうだ、自分が手塩にかけて(かけられた覚えはないが)育てた社員が、大手から引っこ抜かれるんだから。ま、相手が大手取引先だから、ってのもあるだろう。

 入社1年目が終わる頃、私は夫と離婚した。
 相手は、学生時代に3年間、半同棲生活を送った男で、大学を卒業するとともに入籍をした。
 私が馬車馬の如く働いている間、その男は3回浮気をした。
 いつも、私にバレるような方法で。

 要は、「かまってちゃん」だったんだろう。仕事ばかりに傾注している私を振り向かせようと、嫉妬させようと、わざと私に分かる方法で浮気をした。
 面倒臭い。そういうの、面倒臭い。他でやって。
 離婚届の半分を書いて、私は家を出た。
 初めは離婚に応じようとはしなかったが、私の頑なな態度に根負けしたらしく、残り半分を埋めた離婚届がドアポストに届いていた。

 離婚をした事で周囲の目は変わった。若くして結婚し、すぐに離婚。だらしがない。
 入社2年目、独身に戻ってからの我武者羅な働きは、バツイチ女に対する悪評を払拭する為の物だったかもしれない。元夫に感謝しなきゃ。

 私は、ヘッドハントを受ける事で、バツイチという肩身の狭い環境から、逃れられる事が嬉しかった。
 だから二つ返事で了承した。

 旧姓「落合」に変更する手続きも面倒臭くて、新姓「沢田」で新しい戸籍を作った。
 バツイチである事は今の会社では伝えていない。説明するのも面倒臭い。
 特に女。男より、女に説明するのに時間を要する。以前の会社で経験済みだ。
 沢田美奈25歳、独身。ハイテクニクスという理化学機器メーカーの営業をしている。


 私は運転免許を持っていない。運転免許を持っておらずに外回りをする事は、非常に不便だ。
 どこの取引先も、駅から近い訳ではない。それに、売り込む理化学機器には手のひらサイズの小さなものから、両手では抱えきれない大きな物まで様々ある。
 ハイテクニクスでは、基本的に営業は2人1組で回る。
 私のパートナーとなったのは、高橋という男性だ。勿論、運転免許がある。
 ひと昔前の俳優のような凛々しい顔立ちに、低い声、真面目な勤務態度。上司にも後輩にも慕われ、絵に書いたような優秀な人物。
 常に人を小馬鹿にした様な顔と態度をしていた元夫とは偉い違いだ。


「沢田さん、今日行く取引先、行った事ないよな?」
 高橋さんは私の教育担当のような位置になる。彼の入社年度、実年齢は知らない。
 取引先の名前、主な従業員の名前、仕事内容、地図等が書かれた1枚の紙を渡された。プリンタから排出されたばかりのその紙は、僅かに熱を帯びていた。
「こういうデータって全部デジタル化して持ってるんですか?」
 高橋さんはパソコンに向けていた目をこちらへ寄こし、「もちろん」と真顔でひと言。
「あの、今後の為に、データを全部いただけませんか?」
 厚かましい事とは重々承知している。だが、業務の効率化の為には、この方がいい。面倒臭くない。
 彼がいちいちプリントアウトして私に渡す手間も省ける。紙だって節約できる。
「あぁ、勿論。その方が手間が省けるな。ちょっと待って」
 机から銀色のUSBメモリスティックを取り出し、PCに接続する。「そんなにデータ量は多くないから」そう言って、私にデータ入りのメモリスティックを手渡した。
「ありがとうございます。高橋さんの血と涙の結晶を大事に使わせていただきます」
 なんじゃそりゃ、と高橋さんはその端正な顔を少し崩して笑った。

 常日頃から高橋さんは、真面目な、一見怖いような顔をしている。真面目にデスクに向かっている時の顔は、眉間にしわがより、近寄り難い。
 パートナーは高橋さんだと聞かされ、「うわ、ハズレ引いた」と内心思ったが、喋ってみると意外と気さくで、そして笑うと案外幼い顔をするのだった。


 社用車のメータークラスター(と言う名称である事は、高橋さんから聞いた)にはカードホルダーがある。五月の太陽に照らされて、プラスチック特有の嘘っぽい光を放っている。
 そこに運転手名と社用携帯電話番号が書かれた紙カードを差し込む。
 取引先で、車を移動する必要性が出てきた際に、「ここに電話して下さい」って訳だ。
 今日もそこに「高橋臨(のぞむ)」と高橋さんの名前が書かれたカードを差し込み、取引先へ向かった。
 
「新しくこちらに周らせていただきます、沢田です」
 そう言って相手に名刺を差し出した。
 額が少し後退し始めているのが分かる相手の男性が「ちょっと取ってきます」と居室と思われる部屋に1度戻り、名刺を手に出てきた。
「いやぁ、前の営業さんは男の人だったけど、今回は何だか美男美女で。いいですね」
 あぁ、なんて面倒臭い事言うんだ、この人は。返事に困る事を言う人=面倒臭い人。
 社に帰ったら、高橋さんから渡されたデータのコイツの名前に「面倒臭い」って付け足しておこう。
 とりあえず新しく発売された分析機器を売り込んだ。検討しますとの回答だった。


「高橋さん、ゴールデンウィークは出社してたんですか?」
 車中は禁煙だ。高橋さんは煙草を吸うのを我慢する為に、ミントガムを頻繁に噛んでいる。
「半分はな。取引先が休みに入っちまうから、書類仕事ぐらいしかなかったんだけど」
 食べる?と赤信号を見計らってミントガムを手渡された。「あ、いただきます」と包みを開けて噛んだ。ブラックミントガムだったらしく、舌の痺れに涙が出そうになる。
「沢田さんがいた会社は、ゴールデンウィークは休めたのか?」
「殆ど出社してましたね。書類仕事と、後輩の尻拭いと、上司の尻拭い。トイレットペーパっすよ」
 だな、と笑われた。ホント、そんな感じ。
「沢田さんって、何か飾らない感じで、いいな」
「え、それ褒めてます?」
 高橋さんはカラカラ笑った。ほら、笑った顔は幼い。
 フロントガラスから入り込む夕焼けに、街路樹の緑がやけに映えて眩しかった。

 今年のゴールデンウィークは、がっつりと取らせて貰った。
 まぁ、まだこの会社に入社して日が浅いく、そんなに仕事も無かったから。
 男もい無い、やる事も無い、ただただ部屋に籠って漫画や文庫本を読んでいた。25歳のゴールデンウィークは何ひとつ、金色に光らなかった。