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11 お招きの極意

 日曜日、中田さんからメールが着た。
『こんにちは、突然ごめんね。昨日、家でパンを作ったんだけど、ちょっと量が多すぎちゃって。もし落合さんがパン好きだったら、貰ってくれないかな?車で届けに行きます』
 パン好きにとっては嬉しい話だ。
 パン屋さんのパンが大好きで、時々ご褒美としてパン屋さんに買いに行く事がある。
 普段はスーパーに売っている、6枚切りの食パンで腹を満たしているので、焼き立てパンが味わえるのは嬉しい。
 しかし、家まで届けに来て貰って「あがってって」なんて気の利いた事言えないし、言えたとしてもうちはお客さんを呼ぶような感じの部屋じゃないし、困った。

『パン、大好きだから嬉しいです。もし迷惑じゃなければ、中田さんの家まで取りに行ってもいいかな?今日、1日暇だから』
 昨日も暇でした。河原で本読んでました。なんて事は書かない。

 すぐに返信メールが着た。
『うちで良ければ是非来てください。美味しい紅茶を用意しておくね。住所は――』


 日曜日に会社の最寄駅まで来るのは何となく変な感じがする。私服で、携帯と財布とエコバッグをむりやりジーパンのポケットに詰め込んで来た。
 携帯で住所検索をして、だいたいの場所は分かっている。あぁ、あの白いマンションだ。
 エレベータで5階に上り、「中田」と書かれたプレートがある玄関のインターフォンを鳴らす。
 ピヨピヨ、と小鳥が鳴くような音で、そのインターフォンは鳴った。
「はーい、どうぞあがって」
 玄関が開くと同時に、香ばしいパンの匂いがした。その後に、中田さんの上品な薔薇の香水の匂いもした。
「おじゃましまーす」
 部屋は私の家と同じような間取りで、寝室と広めのLDKだった。
 リビングにあるソファを勧められ、そこに腰掛ける。
 部屋を見渡すと、あちらこちらにセンスの良い、女性らしい装飾が散りばめられていた。
 チェストの上にはレースが敷かれていて、その上にアクセサリーが幾つもあった。
 いつか見たピアス達もそこにあった。
 ガラス張りのケースには、シャンパングラスらしき物が飾ってあったりして、「あぁ、うちに招かなくて正解」と思った。格が違いすぎる。

 中田さんは、少し大きめのトレイに、パンを山盛りに積んで持って来た。
「これなんだけどね、パン教室で作ったのを思い出しながら作ったら一杯になっちゃって。果物が乗ったデニッシュと、クリームチーズが入ったフランスパン。好きなだけ持って帰って」
 真ん中にアプリコットやブルーベリーが乗ったデニッシュは、お店で見るものと見紛う出来栄えだし、フランスパンはドーム型で、美味しそうに焦げ目がついている。
「ビニール、これ使ってね」
「あ、ありがとう。じゃ、遠慮なく」
 本当に遠慮なく、好きなだけ貰った。エコバッグに入る分だけ貰って行こう。そんな感じ。
 ニヤついてパンを袋詰めする私を見て「パン、好きなんだね」とにっこり微笑まれ、少し顔が火照った。

「いつもはね、彼氏がうちに泊まって、朝ご飯にパンを出すんだけど、昨日は仕事があって来れなくて。こんなに大量に余っちゃったんだ」
 デニッシュを袋に入れる手を止めて、彼女に訊いた。
「彼、土日休みじゃないの?」
「休みの筈なんだけどね。時々出勤する事もあるみたい」
「忙しいんだねぇ」
 またいそいそと袋詰めを開始した。
 仕事が一段落するまで結婚は待ってくれって、言われたって彼女は言ってたっけ。
 彼は中田さんとの結婚の為に、今頑張って仕事をしているんだろう。
「よし、これだけ貰えれば十分です。ありがとう」
 そう言うと、彼女は頷いてキッチンに入って行き、戻ってくるその手にはカップと紅茶が入ったポットがあった。
「もし嫌じゃなければ、紅茶と一緒にパンもつまんでね」
 ポットからカップに褐色の液体が注がれると、ふんわりと良い香りがした。

「おもてなしが上手だね、中田さん」
「そんな事ないよ。人を家に招く事なんてあんまりないし。彼氏ぐらいだもん」
 再度、部屋を見渡した。
「ご自慢の彼氏さんの写真なんかは、飾ってないの?」
 彼女はクスッと笑って言った。
「人をお招きするお部屋には置いてないんだ。恥ずかしいから寝室に置いてある」
「あ、今『人をお招きする』って言ったよね、やっぱりおもてなし上手だー」
 お日様の様に微笑んだ彼女は「ばれちゃった」と言って口元を押さえて見せた。
「会社の子と女子会したり、パン教室で一緒になった子とパン作ったり、何かと人が出入りするんだ」
 彼女はフランスパンを手で千切り、口に運んだ。その細くて白い指は、手入れの行き届いたつやつやの爪に、控えめなベージュのネイルが施されていた。女の私でもうっとりした。
「そうだ、落合さんも今度、女子会に参加しない?同じぐらいの年齢の子ばかりだから」
 目を爛々と輝かせてこう誘ってくれたが、私は乗り気ではなかったので断った。
「そういう女の子の集まり、どっちかっつーと苦手でさ、面倒っつーか、あ、ごめんね。別に否定してるんじゃなくて、私は苦手なんだ」
 少し眉を下げて、残念そうに「そうかぁ」と彼女は言った。

「ごめん、お手洗い借りてもいいかなぁ?」
 席を立ち、「2番目のドアね」と言われたとおり、そのドアに向かって歩いた。
 ドアと反対側にある寝室らしき部屋のドアが、半分開いていて、何となしに目を遣った。
 その隙間から見える小さな机の上には、写真立てが3つ、置いてあった。
 誰が写っているかまでは逆光で見えなかったが、きっと彼氏と写っているんだろう。

 元夫だった人間と一緒に写っている写真は、まだ家に残っている。
 でも、夫婦になってからの写真は全て燃えるごみに放り込んだ。仕事ばかりだった私と一緒に元夫が写っている写真があったこと自体驚きだ。浮気しながらよくもまぁこんな笑顔ができたもんだ、と元夫の表情にも驚きだった。