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17 理性の限界

 宿の手配は全てリンがしてくれた。
 リンの車は黒いテカテカのワゴンで、「ゴキブリみたい」と言ったら殺気溢れる目で睨まれた。
 緑色のカーディガンにデニムというラフな格好をした彼が、新鮮で素敵だった。
 スーツも素敵だけど、甚平も素敵だったけど、何を着たって似合うんだ、この人は。
 伊香保の温泉街から少し離れた、榛名湖へ向かう林道の手前にある宿にチェックインした。

「石畳とか、行ってみたいか?」
 部屋に置いてあるパンフレットの類をペラペラ捲りながらリンが訊ねた。
「うーん、外に出るの面倒臭いからいいや。露天風呂にずっと入ってたい」
 露天風呂、露天風呂、と言いながら館内マップを見ていると、リンは呆れたような声で言った。
「お前、その『面倒臭い』は口癖なのな」
「え、今更気付いた?」

 車で少し戻ったところに、「竹久夢二記念館」があったので、そこに行った。
 竹久夢二のが描いた「黒船屋」という絵が大好きだった。
 女性が黒猫を抱いている絵なのだが、彼女の顔も手つきもさることながら、絵そのもののタッチや曲線が艶めかしく、素敵なのだ。
 それをリンに言うと、売店でその絵のレプリカを買ってくれた。

 食事前は風呂が混むので、食事を済ませてから入浴する事にした。
 部屋で夕飯をつつきながらリンに訊ねた。
「ねぇ、何で家族風呂がある温泉選ばなかったの?」
 リンは口に入っていた胡麻豆腐を口から吹きそうになった。
「バァーカかテメェは。んなとこ泊まったらふやけるまで温泉に浸かってっぞ」
「え、どういう意味?」
「だってお前の裸、見放題じゃねぇか」
 盆に乗っていた箸置きを、向かいに座るリンに投げつけた。肩に当たってポロっと落ちた。
「お前は何で家族風呂が良かったんだよ?」
 箸置きをこちらへ戻してきた。コトっと音がした。
「だって好きな時に1人でゆっくり温泉に浸かれるでしょーが」
「家でやれ、家でバスクリン日本の名湯でも入れてやれや」

 食事を終えて、露天風呂がある3階へ行った。
「じゃ、終わったらここで待ち合わせな」
「いいよ、先に部屋戻ってなよ」
 恐らく私の方が長風呂になると思い、そう言ったが、リンは譲らなかった。
「いや、ここで待つ」
 ソファがひと組と、喫煙スペースがある待合所を指して言った。
 私はマッサージチェアに乗るために持って来た100円玉をリンに渡した。
「これでミルミルでも飲んで待ってなさい」

 露天風呂は、規模は大きくないものの、他に誰も客が無く、貸し切り状態だった。
 秋の少し冷たい風と、少し熱めの湯温のコンビネーションが丁度良く、首まで浸かったり、腰から下だけ浸かったり、繰り返した。
 空には幾つもの星が瞬いている。横浜の夜空とは比べ物にならない星の数だ。
 いつかリンと観た夏の星空は、主役の座を花火に奪われてしまっていた。月が不在の今日、夜空の主役は星だ。
 今にも降って来そうに、潤んで何かを零しそうにちらちらと瞬く星たちの間を、1機の飛行機が機械的なサイクルで明滅を繰り返し、飛んだ。
 飛行機も星も、ここから見ると同じ大きさで、今にも飛行機は星にぶつかりそうに見える。「ニアミス」と呟いてひとり口元を緩めた。
 ニアミスといえば、先日駅前で見かけたあの人は、中田さんだったんだろうか。
 目が合った気がした。何故立ち止まってくれなかったんだろう。急いでいたんだろうか。

「どんだけ長ぇんだよ、風呂」
 不機嫌そうに顔を歪めながら煙草をふかす、まるでヤクザのようなリンが待っていた。
「いやぁ、気持ち良くてさぁ。見た?星一杯だったでしょ?」
「あぁ、降ってきそうな星空だったな」
 灰皿に煙草を押し付けながらそう言った。リンも、ロマンチックな事を言うんだな、と意外性に驚いた。

 部屋に戻ると、布団が2組、敷かれていた。
「ひゃっほーい!」
 布団に倒れこむ。フカフカの布団に両頬を挟まれ、幸せな気分。
「なーにやってんだよ、ほら、どけ」
 足蹴にされて、仕方なく立ち上がり、窓際の椅子に腰かけた。リンは対面に座った。
「お前、すっぴんでも化粧してもそんなに変わんねぇな」
 顔をまじまじと見つめられ、紅潮した。いや、これはほら、のぼせただけだから。長風呂のせいだから。
「彼女は、彼女はどうだった?」
 彼は一瞬固まり、しょっぱいように顔を顰めて「彼女か――」と言った。
「俺が起きてる間は絶対化粧を落とさなかったな。すっぴんは見た事無ぇ」
 煙草に火をつけて、ひと口吸った。喫煙の部屋を選んだのはリンだ。
「今日の事は、彼女に言ってあるの?」
 避けては通れない話題なのだ。いつの間にか、欲深い自分が顔を出し、早く彼女と別れて欲しい、そんな思いが強くなった。だからこそこんな事ばかり訊いてしまう。
「お前の名前まで出して、『沢田美奈っていう女と温泉に行く』ってきっちり言ったよ。ま、聞いてんだか聞いてねぇんだか、殆ど上の空だったみてぇだ」
「ふーん、我慢強いんだか何だか――。何か、精神的にアレなのかなぁ、病気とか?」
 自分が心療内科に通っていた事がある、と付け加えた。
 自分は結果的には「抑うつ」と「不眠症」だった訳だけれど、その他にも心身的な病気が沢山存在する事を、インターネットで知った。
「んー、確かに、何の薬か分からねぇけど、いくつか薬は飲んでんな。もしかすると、そうなのかもな。今度薬の名前調べてみっか」
 煙を吐き出しながら灰皿に灰を落とした。部屋の中がちょっと、煙草臭いな、と思う。次に旅行に来る時は、禁煙の部屋を選ぼう。ニコチンヤクザを苦しめてやろう。

 ビールを飲みながらくだらない話をしていたら、いつの間にか時計は日付を跨いでいた。
「ふぁぁ、眠くなってきた。私寝る」
「私寝るって何だ、俺だって寝るわっ」
 用意ドン!と言って洗面所まで2人で走った。浴衣なのでうまく走れないのが歯がゆかった。
 歯ブラシの袋をピリピリ破り、小さい歯磨き粉のチューブからホイップクリームみたいな歯磨き粉をブラシに乗せ、歯を磨いた。
 鏡越しに見えるリンに向かって、何となく笑い掛けた。
 彼もつられて、温かい笑顔を返してくれた。

「はい、じゃぁ電気消しまーす。夜中に女子の部屋には行かないよーに。特に高橋!」
「何だよそりゃ」
 苦笑しながらリンがぼやいた。
 真っ暗で、空調もオフにしている部屋は、小さい冷蔵庫の低い稼働音だけが響く。
 暫くそれを聴きながら眠りに入ろうとしていたが、ゴソゴソと、リンが動く音がした。
 私の布団に入り込み、そして抱いた。
「もう、限界だ。俺は我慢できねぇ」
 そして私の唇に自身の唇を重ねた。唇を舌で濡らされ、開いた途端に舌が入り込み、口内を弄られる。
 その瞬間、理性なんてもんはぶっ飛び、私も夢中で貪った。彼の舌に吸い付き、呼吸の隙すら与えなかった。
 着ていた浴衣はその時点でもう着衣の意味をなしていなくて、リンのゴツゴツした手で下着をはぎ取られる。私は彼の背中に腕を回し、帯を解いた。
「俺の美奈でいてくれ」そう言って肩を強く吸われた。
 身体のあちこちを手で、指で弄られ、舌で舐められ、私は身体を痙攣させる様に果てた。
 彼は――こいつ、絶倫?様々な体位で実に3回もイった。自分の実力を知っているのだろう、きちんとコンドームを5個持ってきていた。
 私はヘロヘロで、全裸のままですぐ眠りについてしまって、後始末は覚えていない。

 翌朝目が覚めると、全裸である事に気付いた。強く吸われた左肩には、紫色の楕円形がくっきりと刻み込まれていた。「中二かよ」ぽつりと言った。
 着る物を着ようと周りを見渡すと、とんでもない方向にショーツが飛んで行っていた。
 リンが起きる前にダッシュで取りに行くかと考えていた矢先、彼が「んんぅー」と子供の様な声を出しながら伸びをし、目覚めた。
「おはようございます」
「おはよ、今何時ぃ?」
 掠れた声で言うリンが可愛くて仕方がない。
「7時半。パンツとってきて」
 ショーツが飛んで行った方向を指さすと、よっこらしょと声に出して立ち上がり、くしゃくしゃに丸めて手渡してくれた。彼はちゃっかりボクサーパンツを履いていた。
「浴衣も」と言うと「はいはい仰せの通り」と言いながら回収してきてくれた。