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19 名刺の名前

 7月に売り込みに行ったソフトウェア10件中、9件の成約が決まった。
 新しくバディになったサイみたいなヤツと一緒に、製品を渡しに周った。
「俺、裏原宿とかよく行くんだよね」
「はぁ」
 一応コイツは先輩なので、こちらは聴き役に徹する。
「限定とかコラボに目が無くてさぁ、この前も限定の革ジャン?朝から並んで買っちゃって」
「はぁ、そいで?」
「10万近くしたんだけど、やっぱり高い物はきちんとしてるよなー。沢田さんは好きなブランドとか、あるの?」
「いや、別に」
 これ以上話を広げたくないという態度をとっても、空気を読まずにファッション持論を展開するサイに辟易した。
 あぁ、いつまでこの人と組むんだろう。
 そもそも、顔が良い人なら何を着たって似合うんだよ。
 中田さんや、リンだってそうだ。別にブランドがどうこうと気にしてる様子はない。
 もし気に入ったブランドがあったとしても、それをひけらかしたりしない。
 ましてや値段までいう事は絶対にないだろう。
 それを全てこのサイに言ってやりたかったが、何か面倒臭くてやめた。

「あれ、高橋君は?」
 ここ数日で回った営業先9件全てで言われた。
「異動したんです。お世話になりましたと申してました」
 何この面倒臭い敬語。合ってるのか間違ってるのか分かんないし。
 そもそも高橋君はそんな事ひと言も言ってない、私の完全創作。この辺は営業職のスキルとして一応。絵に書いた餅生産機。


『こんばんは。先日のおまんじゅう、おいしかったです。実は、従姉妹から洋服を貰ったんだけど、少しカジュアルで私は着ない感じなんだけど、落合さんには似合いそうだなと思ってメールしました。興味があったらメールください』
 添付ファイルには、白地にレインボーカラーの細いボーダーが入っている長袖シャツの写真があった。可愛い、と一目惚れした。
『可愛いシャツだね。興味ありありです。他に譲り先が無ければ是非』

 シャツを譲ってもらうお礼としてちょっとした手土産にシュークリームを買った。
 今日は中田さんに伝えようと思っている事がある。
 彼女は私を「落合美奈」だと思っているけれど、実際今の戸籍上の名前は「沢田美奈」である事を。

「最近ちょいちょいお邪魔しちゃって、申し訳ないねぇ」
 これおやつ、と言ってシュークリームが入った箱を渡した。
「ううん、気にしないで。最近はそんなに来客もなくて、寂しいから」
 スリッパでスタスタと歩く彼女の後ろを歩き、いつも通り、リビングに通される。
「わぁ、シュークリーム?ありがとう。じゃぁ紅茶にしようかな」
 そう言ってキッチンでお茶の準備を始める彼女を見ていた。
 以前、カフェの帰りに安定剤を飲んでいた。もう大丈夫なんだろうか。
 やっぱり忙しい彼の事が気になっていたんだろうか。とは言え今はアメリカにいるらしい彼の事、なおさら気になるだろう。
 あ、でも指輪してたしな。嬉しそうだったしな。もう不安は吹き飛んだかもな。

「そうだ、先に洋服見せちゃおうかな。寝室にあるんだ、ちょっと来て貰える?」
 うん、と頷いて、彼女の後に続いた。
「ちょっと待ってね」と一足先に彼女は部屋に入り、中からパタンパタンと物音がした。
 ドアが開き、「どうぞ」と部屋に通された。
 クロゼットの扉に掛けられたハンガーには、添付写真にあったシャツ。それにもうひとつ、デニムスカートが隣に掛かっている。
「このスカートも貰い物なんだけど、デニムってあんまり穿かないから、もし良かったら。落合さん、背が高いからミニスカートになっちゃうかな?」
 ならないならない、と笑ってそのスカートを腰に当ててみた。
「うん、丈は大丈夫。貰っていいの?」
 彼女は大きな笑みを顔に浮かべて「勿論」と言った。
「従姉妹、結構カジュアルブランドに入れ込んでて、色々買い込んでるみたいでね。サイズが合わないとかそんな理由でこっちに周ってくるんだけど。困っちゃってて」
 眉を下げて、本当に困った顔をして笑った。
「これからは落合さんに助け船を出してもらおっと」
「私で良ければ是非」
 いつか不意に見たテーブルの上の写真立ては、何故か3つとも倒されていた。揺れで倒れたというよりは、故意に倒してあるようだった。綺麗に並んで倒れていた。

 紅茶が用意され、白いお皿にはシュークリームとフォークが乗っている。上品だ。
 私は思い出したように鞄から、会社の名刺を取り出した。
「あのね、私、落合じゃなくて今、沢田美奈、なんだ」
 名刺を手渡すと、中田さんは暫く固まったままその名刺を凝視していた。
「中田さん?」
 顔を覗き込むと、少し動揺した様子で「あぁ何でもないの」と言った。それでも視線を名刺から離さない。
「で、どうして苗字が変わったの?って訊いてもいいのかな?」
 私はカラカラと笑って「気ぃ遣わないでいいよ」と言った。
「私、バツイチなの。仕事始めて1年が過ぎた時に離婚して。苗字を戻すのって結構面倒だから、新しく戸籍を作って、今は元夫の苗字で沢田、なんだ」
 へぇ、と名刺に視線を落としたまま、暫く無言だった。
 私はお皿に乗ったシュークリームを、フォークを使って如何様に食べてやろうかと策を練っていた。シュークリームって、アムッって食いつくのが美味しい食べ方、でしょ。
 「若くして結婚したんだね」
 「うん、若くして離婚したけどね」
 結局シュークリームにかじりつくことを選択した私は、口角についた粉砂糖をティッシュで拭いながら続けた。
 「元夫がね、浮気性の人で。付き合ってる時はそんな事無かったんだけど、結婚したら急に。だからもう、愛想尽きたって感じ」
 もうひと口シュークリームを齧った。全部食べ終わってから粉砂糖を拭った方が効率的だな、と思った。
「浮気かぁ、辛かったね」
 同情の眼差しでこちらを見つめる中田さんは、とても優しい目をしていた。
「全然平気なつもりでいたけど、身体は正直でね。精神安定剤と睡眠薬飲んでたよ、当時は」
 そうなんだぁ、と私の事なのに中田さんがだんだんと沈んでいく様子が見て取れた。
「だ、大丈夫?」
 暗く影を落としたその顔を覗き込むと、「大丈夫大丈夫」と言ったが、彼女の瞳がゆらゆらと揺れているのが見えた。
 今日の中田さんは少し、変だ。