2 ギャップの法則 5月の下旬になった。 高橋さんが珍しい事を言い出した。 「今度の金曜、呑みに行かねぇか?」 この会社に入ってから呑みに誘われた事なんて、歓迎会の1度きりだ。 金曜は外回りが入っておらず、定時であがれそうだった。 「はい、喜んで」 どこかのチェーン居酒屋の店員に似た返事をして、カレンダーの金曜日の所に「呑み」と赤字で書きこんだ。時間とか、そういうの面倒だし、書かない。 蟻みたいに黒い小さな文字で書きこまれた予定ばかりのカレンダーの中で、その赤い字は何だかくっきり浮き上がっていた。 金曜は2人とも定時プラス1時間といったところで業務を終えた。 「行きつけの呑み屋があるんだけど、そこでいいか?」 高橋さんがスーツの上着に腕を通しながら言った。 行きつけが出来る程、高橋さんって呑みに行くんだな。新しい発見。 「酒が飲めればどこでもいいですよ」 私が知っている呑み屋なんて、チェーン店ばかりでたかが知れていた。 会社の最寄駅から少し歩いた。 大きな道から小枝の様に伸びる細い路地は、今までその存在さえ気付かなかった。 その路地を抜けた所に、所謂、昔ながらの居酒屋、という感じの、一軒の呑み屋があった。 「藤の木」と木彫りの看板に書いてあった。 ガラリと引き戸を引くと、中にはカウンター席が幾つかと、小上がりテーブルが2席、テーブル席が2つあった。 「こんばんは」 高橋さんは常連っぽい感じでヒラっと右手を挙げた。 「お、高橋さん」 旦那、と呼ばれるその人は高橋さんを見て歯を見せて笑った。 旦那の後から「女将さん」と呼ばれる女性が出てきて「あ、高橋さん」と、これまた大きな笑顔で笑った。 「あら、今日は女の人を連れてきてるの?珍しい。彼女?」 女将さんは高橋さんを見てニヤニヤと笑った。 「いやいやぁ、仕事のパートナーですよ」 そう言うと高橋さんは無言で私の背中を押したので、自己紹介せざるを得なくなった。 「さ、沢田です。高橋さんの後輩です」 あぁこういうのも面倒臭いんです。何故店員さんに自己紹介を。 カウンター席に腰掛け、ビールと適当なつまみを注文した。 「じゃぁとりあえず乾杯って事で」 2人ジョッキを合わせた。カツンと乾いた音が響いた。 金曜日という事もあり、店内は賑わっていた。 「よく来るんですか?ここ」 店内をぐるりと見回して訊いた。日本酒の瓶が沢山並んでいる。 「あぁ、同期連中で呑みに来たり、1人になりたい時なんかに。そういや、女を連れてきたのは沢田さんが初めてだ」 「あら、そうですか」 高橋さんが1人になりたい時って、どんな時なんだろう。興味がわいた。枝豆をぷちぷちと小皿に打ち付けながら、訊いてみた。 「1人になりたい時って、どういう時なんですか?」 顔をあげて高橋さんを見ると、彼はバツが悪そうに下を向いて答えた。 「彼女と喧嘩した時とか、な」 あぁ、そうですか。高橋さんには喧嘩ができる位に仲が深まった彼女がいるんですね。そして喧嘩をして1人になりたい時にこのカウンターに1人腰掛けて――あぁ、何て絵になるんだっ! きっと彼女は高橋さんに似つかわしく、お美しくて、甲斐甲斐しくて、できる女オーラ出まくりなんだろう。女優で言うと――。 そんな妄想を爆発させていたのが顔に出たのか「沢田さん、顔、ニヤニヤしてっぞ」と高橋さんに突っこまれた。 「あぁ、この顔が沢田デフォルトです」 そう返しておいた。 「沢田さんってさぁ、前の会社2年勤めたって言ったよな?」 「そうですねえ」 高橋さんは何か指折り数えながらモゴモゴ言っている。 「もしかして、同じ年?25歳?」 「え、同じなんですか?」 「タメじゃねぇかぁ」 なぞなぞが解けた子供の様に喜んで笑っている。幼い。 「そんじゃタメ口で頼む。俺、後輩って苦手なんだ」 なんじゃい、その苦手意識は。後輩が苦手って。でも私だって敬語で砕けた会話ができる程器用ではないので、喜ばしい事だ。 「じゃぁタメ口で。私の事は沢田でいいし、高橋君とでも呼ぶかな」 「よし、じゃぁ飲むぞ、沢田!」 俄然やる気になってきたと言わんばかりにガツガツ呑み始めた高橋さんに、ただただ笑うしかなかった。 後輩面していた私に、とても気を遣っていたんだろう。優しい人なんだな。タメだと分かって、良かった。 「高橋君の彼女は、どんな人なの?」 いきなりの質問に、ビールを吹き出しそうになっていた。いや、少し吹いた筈だ。 「な、なんで俺のそんな話題?!いや、普通の子だよ、普通の」 「普通の?それじゃ全然分かんないけど」 むしろ普通じゃない子ってどんなだよ。 「いや、本当に普通としか言いようがないんだよ、没個性?みたいな」 俺の話はいいんだよぉ、とサラサラした黒髪を両手でぐしゃぐしゃにした。 「お前はどうなんだ?彼氏は?」 お前、入りましたー。いきなり「お前」いただきましたー。 高橋君の低い声で「お前」って言われるのは悪くない。 「いないねぇ、そういうのは暫く」 結露したビールジョッキの水を、お絞りで拭う。そう簡単に彼氏なんて出来てたまるか。こちとら泣く子も黙るバツイチだ。 離婚した後、この会社に来るまでの1年間、私にアプローチしてきた男がいなかった訳ではない。 私は「バツイチ」という事実が後ろめたかったし、何しろ恋愛に対して「面倒臭い」って言う言葉しか思い浮かばなかったので、誰1人相手にしなかった。恋愛をするぐらいなら、転職がしたかった。 「お前、没個性の正反対に位置してっから、すぐ男が寄ってきそうだよな」 「え、それ褒めてないよね」 睨みを利かせると、高橋君はちょっとしょっぱい顔をして笑った。 没個性の正反対。中身はただの面倒臭がりのだらしない女だ。外見は、まぁ今や絶滅危惧種ともいえる黒髪ストレートロング。高身長も手伝って、目立つ存在ではある。 「俺ビール2杯しか呑んでないのに、何かすっげぇ気持ちぃわ。お前、俺の呑み友になれ!」 「はぁ?呑み友?聞いた事ないんだけど」 呆れ顔でそう言うと、高橋君はニヤニヤしながらこういった。 「女と呑んでるとな、こう、変な虫が寄ってこなくて助かるんだよ」 確かに、ここで高橋君が1人寂しくお酒を飲んでいたら、誘ってくる女性も少なくないだろう。逆ナンってやつだ。 それぐらい、高橋君は見た目に硬派イケメンで素敵なのであーる。 私もお酒は嫌いではない。呑み友だろうが何だろうが、バッチ来いだ。 それに、普段は言葉少なに仕事をテキパキこなしている高橋君が、別人のようにベラベラ喋り、陽気になっていく姿を見るのもなかなか面白い。 その後日本酒を頼んで、ちびちび呑んだ。 例の「没個性的」な彼女の話を色々と聞かせてくれた。 「それでも彼女にとって俺ははこの世に1人しかいない――」 何だったっけな、忘れた。 とにかく饒舌に話す高橋君を見ていて飽きなかった。 仕事中の硬派な高橋君も素敵だけど、陽気な高橋君も素敵だ。 そんなギャップに、没個性的な彼女は惚れたのかも知れない。 |