inserted by FC2 system




25 彼女の正装

 3月14日。会社の最寄駅でリンと待ち合わせをした。
 駅に着くと、改札を出た所に彼が立っていたので、ダウンのポケットから片手を出して手を振った。彼も同じように、ミリタリーコートから手を出しヒラリと手をあげた。
「彼女、この辺に住んでるの?」
「あぁ。会社もこの辺だからな。お前にもお返し買ってあるから、後でな」

 口数少なく歩く道のりは、何度か通った事がある道だった。悪夢が、現実になろうとしている。このコンビニの角をまがる。そしてあのゴミ集積所を左に折れて――。
 目の前にあったのは、あの白いマンションだ。
「あの、さ、もしかして5階?」
 エントランスの前で足を止めて、訊いた。
「は、何で分かった?」
 彼も足を止め、不思議そうに私を見ている。
 やっぱりそうだったのか――。
「中田理沙、さん?」
「何なんだよ、お前、いつから知ってたんだよ?」
 眩暈がして、その場にしゃがみ込んだ。
 そうかもしれないけれど、そうじゃなければいい、そう思っていた。
 受け入れがたい現実を突きつけられて、「人って酷く動揺すると涙が出るんだ」と思った。視界が歪み、溢れた涙が下睫毛をしならせて、そして地面に落ちる。顔が、醜くこわばる。
 私の隣にリンがしゃがみ込み、温かい掌を私の背中に置いた。
「どうした?ゆっくり説明してくれよ」
 私は彼に腕を引かれ、エントランスにある来客用のソファに腰掛けた。ある程度涙は引いた。

「私の、高校の同級生なの」
 うん、と静かにリンは頷く。
「こっちで偶然再開して、一緒にお茶したりするようになって、仲良くなって」
「俺の事は何も言ってなかったのか?」
 どう説明すれば良いのか、言葉を探った。
「クリスマスに電話が来たでしょ。彼女からだったんだ。彼氏はアメリカに出張だとか、忙しいからとか、仕事が一段落したら結婚するとか、幸せそうな話しか聞いてなかった」
 自然に顔が足元を向く。あぁ、うんざりだ。
「お前はいつから気づいてたんだ?」
「まぁ、最近だけどね。でも兆候はあった。伊香保のお土産屋さんの包装紙と同じ物がタイミングよく彼女の家にあったり、彼女も安定剤飲んでたし。パン教室に通っていたり。点だったものが、バレンタインのメッセージカードの名前を見て、線になった」
 リンは俯いて頭を抱えたまま言った。
「あいつは、理沙は気づいてるのか?」
「分からない。でもいつだったかリンと歩いてる所を見られた、と思う。他にも、私がヒントになる言葉を喋ってたかもしれない。あ、名刺――」
 彼は顔をすっとあげた。「名刺?」
「私、バツイチなんだ。今は新姓を名乗ってるんだけど」
 鉄砲玉を食らったような顔をしたリンがいた。口をあんぐり開けていた。
「彼女は私を旧姓の『落合』で呼んでてさ。新姓の名刺を渡したら、明らかに動揺してたんだ。リン、彼女に私の名前、教えたんだよね?」
「あぁ」と短く言ってまた俯いた。両手を組んで、難しい顔をしているのが分かる。
「知ってたとしたら、どうしてあんなに私に優しくしてくれてたんだろう――」
 すっと立ち上がった。私はリンを見上げた。
「アイツ、昨日電話した時、すげぇ鬱っぽかったんだ。やばいかもしれねぇ。急ごう」
 躁鬱病についてインターネットで調べた時に読んだ。鬱状態から躁状態に移行する際に、自殺が多い――。まさかそんな事は。


 インターフォンを鳴らした。小鳥のさえずりが部屋から聞こえるが、中で人の動く気配はない。
 玄関に面した格子窓は、少しだけ開いていて、カーテンが揺れるのが見える。3月の少し柔らかな日差しが射していた。中は窺い知れない。
「合鍵」そう言ってリンはポケットからキーケースを取り出し、玄関のドアを開けた。
 彼は急いで靴を脱捨てぎ、リビングへ走った。「いない」と言った。
 私は玄関を入ってすぐの寝室のドアが半分開いている事に気づいた。
 そこから中を見た。
 膝が崩れ落ちた。
 言葉が出なかった。喉が押し潰されたようだった。口をぱくぱくさせた。
 その様子を見たリンがすぐ駆けて来て、寝室のドアを開けた。

 柔らかな日差しに照らされた、彼女の後姿があった。いつもの様に上品な、薄いピンクのニットに、グレーのプリーツスカート。控えめな薔薇の香り。
 異常だったのは、つま先立ちである事と、足元にある水溜りと、首から伸びるベージュのロープ。
 足の先には、ご両親と思しき人と撮った写真、リンと中田さんが写った写真、そしてリンがはにかんだ笑顔で写る写真の3つの写真立てが、彼女の顔を優しく見上げていた。
 写真立ての前には一枚の紙に整った文字でひと言書いてあった。
『リンへ。沢田さんとの幸せを願っています。理沙より』
「理沙!」
 掠れた声で叫び、中田さんの正面に周ったリンは、その顔を見るなり「お前こっち来るな」と手で制止した。
 私はその場を動こうにも動けず、何も言えず、人形の様な目で彼女の後姿を見ていた。
 彼女のスカートが少し、風に揺れている。
 何を着ても様になるんだから。だからってそのロープは違うでしょ――。

 その後の事はあまり覚えていない。
 空白の時間があり、救急隊と警察が来た。
 私は無意識のうちにリンにリビングに連れて行かれていたようで、ソファに座っていた。
 発見時の状況等、リンは警察に色々と話していたが、そのほとんどの会話が、耳の穴を通り抜けて行った。

 私はひと言も発せないまま、リンに家まで送り届けられた。
「ばいばい」そのひと言だけ、辛うじて口から零れ出た。

 部屋に入るとすぐ寝室のベッドに横になった。
 どうしてもっと早く、気づけなかったんだろう。自分自身への怒りがあった。
 どうしてもっと早く、私に言ってくれなかったんだろう。彼女への怒りもあった。
 リンと花火を観に行ったのは私だ、クリスマスを一緒に過ごしたのは私だ、温泉に行ったのも全部私だ。
 全部私だと分かった時の中田さんの心情は、想像を絶する。
 リンとの関係はもう元には戻らないと知った中田さんは、独りになる事なくご両親の元へと旅立ったのだろうか。
 彼女の心境は彼女にしか分からない、全て憶測でしかない。
 それでも彼女が全てを知っていたという事実、私が全てに気づいたという事実。この2つはどうしたって覆らずに私に重く圧し掛かる。
「幸せになって」だって?なれるものか。誰かの犠牲の上に成り立つ幸せって物も世の中にはあるのかも知れないけれど、誰かの死の上に成り立つ幸せなんて――。
 考える事は山ほどあって、全てそれが涙に変わって、止まらない。涙が湧き出る様に次から次へと止まらないなんて、初めての経験だ。
 そのうち思考回路は悲鳴を上げて、私は眠りに落ちていた。