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1 本当の私と神谷君

 課長が私と背中合わせの席に異動して来たのが入社三年目、四月の頭だった。


 今年は桜の開花が早く、お花見を兼ねた課長の歓迎会は、八割が葉桜となった桜の木の下で催された。昨日まで強かった風は止み、散る桜の勢いは衰えた。
 課長はどこかの支社からの転勤だと聞いている。色が白く、銀縁の眼鏡を掛けた、三十代半ばの、背の高い男性だった。
 幹事を任されていた私と同僚である神谷君、涼子の三人は、ブルーシートの端で「葉桜だよ?居酒屋にしときゃ良かったな」「葉桜って何か幸先悪いっつーか」「葉桜だって綺麗じゃない?花は散り際が美しいって言うし」と各々の意見を戦わせていた。
 辺りは薄桃色から茶色に変色を始めた花びらが、古ぼけた絨毯の様に広がっていた。


 つい最近、社用のラップトップPCが新機種に更新された。ディスプレイが、アンチグレアからグレアに変わったとかで(詳しい事は神谷くんから教えて貰ったが、よく分からなかった)、蛍光灯や背後にある窓からの太陽光が反射して、画面が見えにくい事がしばしばあった。背中合わせに座る課長が、私の顔の左右を行ったり来たりする事も。
 そんな中で、画面に写り込む、一枚の写真があった。
 課長の席の左端に赤いピンで留めてある、家族写真。
 一見して気が強そうだと分かる綺麗な奥さんと、まだ歩けるか歩けないかというぐらいの小さな男の子、そして課長と手を繋ぐ、恐らく就学前の男の子は眩しさに顔を顰めている。課長は朗らかに微笑み、その後ろには一般的な建売住戸が写っている。
 さすがにここまで細かいところまで、グレア液晶は映してくれない。ただ、何となくいつも映り込むのが気になって、朝一番早く出勤する私は、その写真を毎日一人でじっと眺めてしまうのだった。
「あっ」
 課長の椅子から少しだけ飛び出た鉤状の金具に、私の鞄についているレースの飾りが引っ掛った。鞄をおろしてから見れば良かった。慌てて取り外す。ほつれてはいないようだ。

 私、沢城みどりは、レース、ピンクやパステルカラー、リボン、シフォン素材、可愛い物には目がない、酷くありふれたOLだ。という事で通っている。
 地声よりはオクターブ高い声で話し、何事にも不満を漏らさず、嫌な仕事でも笑顔でこなし、上司からの受けも良い。酒はビールなんて以ての外、カクテルしか飲まない。
 そんな、女の子らしさを絵に描いたような「沢城みどり」を演じている。皆、それが私だと思って疑わない。
 ただ一人を除いて。


 神谷久志。竹内涼子と共にこの経理部に配属された同僚だ。時折、三人でお酒を呑むような仲にある。いつも眠そうな、気だるげな目をしていて、「へらへら笑う」と言う言葉がしっくりくる、そんな笑い方をする。
 仕事はできるし、その風貌がアナーキーさを醸し出しているのか、社内の女性からアプローチをされる事もままあるらしい(本人及び噂談)。「神谷君って結構モテるんだかんねー」と、自分を神谷君呼ばわりして、そうのたまった。

 確か昨年の、そう、ちょうど葉桜の時期だった。新人が配属されなかった我が部署は、何の理由付けもなくただの花見をした。その時も桜の満開期を逸している。
 二次会と称して同期三人で居酒屋に繰り出した。神谷君行きつけの「藤の木」という居酒屋は、駅から細い路地を入った、とても分かりにくい場所にあった。
 昔ながらの居酒屋で、大将と女将さん(と呼ぶ事は神谷君に教えてもらった)が「神谷君、いらっしゃい」と引き戸を開けてすぐ、声を掛けた。
「今日は綺麗どころを二人、連れてきましたー」
 全く心に思っていないのだろう、「抑揚」という言葉をどこかに置き忘れてしまった神谷君がそこにいた。

 甘いお酒はメニューに無く、「うーん、日本酒呑んでみたいな」と自ら申し出て、八海山を注文した。社内の飲み会ではカクテルを呑み、ビールと酎ハイは呑まない設定の沢城みどりなので、この店で何か注文するとなると、日本酒ぐらいしか呑めそうになかった。
 話しに花が咲き、気持ちが良くなった私は八海山升酒を三杯呑み、トイレで盛大に嘔吐した。血の気が失せて真っ青な顔をし、小学生が漕ぐ自転車みたいにフラフラして「吐いた」と呟いた私を見て、二人はさっさと会計を済ませ、私の腕を引っ張り外に出た。
 外がどんな空気だったのか、さっぱり記憶から欠落している。嘔吐した後の事は、神谷君の口から聞くことになる。
 絵に書いた酔っぱらいの様によろめいて歩く私に、神谷君が肩を貸してくれた。
 当時から涼子は、バンドマンの彼氏と同棲をしていた。彼女を気遣ってか、涼子ではなく神谷君が、私を家まで送ってくれた。

 私は駅に着くまでずっと神谷君の肩に凭れ掛かり、くだを巻き、電車に乗り、最寄駅からも腰が抜けた様にヘロヘロ歩き、途中、電信柱に突進して行ったそうだ。
 鞄の中の小さなポケットに入れた部屋の鍵を探すのに十分もかかったらしい。その間、初春の夜風のお陰でうすら寒いマンションの廊下で、神谷君はトイレに行きたくてうずうずしていたと言う。
 やっとビスケットのモチーフが付いた可愛らしい鍵を見つけ、大声で「あったよーん」と叫んだ私の口を押えてた神谷君は、鍵を開けて私の家に入った。私はベッドに寝かされたらしいが、もう記憶の彼方だ。覚えていない。
 靴は履いていなかったし、コートとマフラーはハンガーに掛けてあった。神谷君が脱がせてくれたらしい。それ以上何かされた形跡は無かった。神谷君を褒めてやりたい。いや、私には女性としての魅力が欠如していたのかも知れない。

 朝、目が覚めて、まだ眠い目をグチャグチャにこすると、人差し指の側面にアイメイクがこびりついた。
 メイクをしたまま寝てしまうとは何事だ――。
 なぜ私は居酒屋からここにワープを?どこでもドア!ネコ型ロボット?
 現状把握の為に周りを見渡すと、ベッドの下で、神谷久志が小さく丸まってコートを被り、眠っていた。
 慌ててベッドから降りて彼の傍に膝を付き、肩を揺さぶって起こす。二日酔いの為か、頭に鈍い痛みが走る。
「ちょ、まだあれだから」とか、彼はむにゃむにゃ言っていたが、容赦なく頬をビョーンとつねって起こした。彼は幾度か瞬きをしながら少しずつ目を開けた。左頬を抑えながら顔を顰めて「イテェ」と呟く。
「どの部屋まで行った?」
 問いただす私の声には少しの苛立ちが混じった。
「あっちの部屋まで、全部。誰か、男とかいんのかなーと思って」
 あぁ、やってしまった。ここまで隠し通して来た私の秘密を。
「あと、飲み物探しに冷蔵庫も」
 オイ、ヨネスケか。
 何だか頭がクラクラして来て、両手で側頭を抑えた。何なんなだよ、もう。
「お前、女らしい奴だと思ってたけど、あれって全部、猫被ってんのな」
 よっこいしょ、と口に出して身体を起こした。
 傷口に塩を塗るような事をヘラヘラしながら言ってのける神谷久志が腹立たしくて、でも前日呑みすぎたのは私のせいで、怒りのぶつけようが無かった。
「ビール飲まないって言ってたしさ、何かいつもフワフワした服とか小物持ってるし、もっとファンシーな部屋を想像してたよ」
 私はいつもより1オクターブ低い声で、「悪かったね」と言った。
「目の周り、ゴスロリ」
 さっき擦ったアイメイクの事を指摘され、ドレッサーに置いてあった拭くだけシートでアイメイクだけ拭った。
「いいんじゃないの?シンプルな部屋でさ。俺は女性がこういう部屋に住むの、嫌いじゃないね。ゴテゴテしてるよりよっぽど――」
「社内には漏らさないでよ」
 神谷君の胸ぐらを掴みかかる勢いで、若干凄みのある口調をもって詰め寄った。
「絶対だからね。涼子にも話さないで」
「あ、俺と沢城さん二人の秘密?楽しくなってき――」
「楽しくない!」
 一喝した。
「で、何で朝までいたの。送って来てくれた事には感謝してるけども」
 明らかに私の失態だった訳で、だけど送り届けたらすぐに退散すれば良かったのに。
「いやだって、鍵、閉めて行けないじゃん。俺、沢城さんちの合鍵持ってないしー。そうそう、それを探しに向こうの部屋まで行ったんだよ」
 あ、そうか。鍵閉められないか。オートロックもないこのマンション、一応、私の事を思っての行動だったのか。
「で、冷蔵庫には合鍵は入っていたかい」
「ビールを――一本いただきました」
 バツが悪そうな顔をしつつも目がヘラヘラと笑っている。こいつは――。
「とりあえず――ありがと」
「ユアウェルカム。朝飯ぐらいご馳走してくれんだろ?」
 厚かましい事をコイツは、とは思ったが、ゲロを吐いて醜態を晒した私を家まで送り届けてくれた恩を仇で返す事はできない。

 とりあえずキッチンへ行き、朝食の準備に取り掛かった。二日酔いで、今にも内臓が全部せり上がってきそうになりながら、必死で耐えた。本当はもっと寝ていたい。
「朝ご飯もシンプルなんで。悪いけど」
 ハムチーズトーストに、プレーンヨーグルト、ホットコーヒー。
「部屋も、飯も、沢城さん自身も、実にシンプルなんですなっ」
 茶化す会話は完全に無視して、テーブルにお皿を並べた。いただきます、と手を合わせる。朝ご飯を拒否する胃の中に、何とかパンとヨーグルトをコーヒーで流し込んでいく。
「お前、何で会社で猫かぶってんの?」
 神谷君はパンを半分に折って、齧りついている。
 ゴクリと私はコーヒーをひと口飲む。底の方に挽いた豆のかすが沈殿しているのが見えた。
「私みたいに個性のない人間はね、女らしく静かにしてる方が何かといいんだよ。上司ウケもいいし、縁の下の力持ち的な所に自分の存在意義を見出してるんですー」
 神谷君に話す事ではないと思いつつ、秘密を知っていてくれる人が一人ぐらいいるのも、何かあった時にフォローしてくれるかもしれない、とポジティブシンキングに転じた。まあ、猫を被っている理由は他にもあるのだが――。

 私の部屋は一見、男の部屋の様にシンプルで、飾りがない。色はモノトーンだ。音楽が好きでオーディオ機材に拘り、その横にはギターが二本と、VOXのアンプが置いてある。
 神谷君が合鍵を探すために覗いた冷蔵庫には、大量の缶ビールと、缶チューハイが鎮座ましましている。
 日頃会社で見せる私の姿からは、想像できなかっただろう。
「へえぇ、女って大変なのなー」
 ふんふん頷きながら、ホットコーヒーをズイっと啜った。
「お前ん家のコーヒー、うまいな。豆から挽いてんのな。また飲みに来てもいい?」
「どうぞ、コーヒーぐらいいつでも」
「うしっ、ご馳走様!」と元気な声で挨拶をして、椅子に掛けてあったカーキのコートをサッと羽織ると鞄を手に玄関へと歩いて行った。
「あの、本当どうもありがと」
「気にすんな、また美味いコーヒー頼むよ」
「うん」
 それじゃ、と言ってヒラリと後ろ手にあげてエレベータホールへ向かって歩いて行った。
 ホールの前まで辿り着くと振り返り、叫んだ。
「そのままのお前もいいと思うんだけどなー、俺は」
 ニヤリと笑った。とても腹の立つ、それでいてどこか憎めない笑い顔に、私は無言のまま顔を俯けて手を振った。赤面を悟られない様に。

 その時から神谷君は、私の本当の姿を知る、社内では唯一の男になった。


2 課長のお手伝い

「金曜はお疲れ様」
 出勤して来た涼子に手を上げた。
 涼子は爽やかな笑みをこちらに向け、鞄を机に置いた。
「二次会行けなくてごめんねー。ヒモがさぁ、家の鍵を忘れたとかでさぁ」
 涼子は女性にしては上背が高く、華奢で、美人な部類に入る。何をしても目立つ存在で、飾らない態度も非常に魅力的だ。そんな彼女は恋人を「ヒモ」と呼ぶ。ストレートだ。
「そういえばヒモ君、仕事見つかったの?」
 私も遠慮せずヒモ君呼ばわりだ。
「うん、楽器屋でバイト始めたみたい。空いてる時間にスタジオに入ってるらしいよ。働いてる時間と遊んでる時間、どっちが長いんだか」
 生活費の殆どは涼子が賄っていると言う。それでも彼を手放さない。惹かれる何かがあるのだろう。羨ましい。

 私は――大学時代は素のままの沢城みどりで学業もそれなりにこなし、バンドもやって、恋もした。
「お前には女らしさを感じない」卒業を前に、ある男にそう言われ、失恋をした。
 今の私がネコっ被りなのは、このせいでもあるのだ。
 目立たなくて良い、兎に角、女の子らしくしよう。入社と共にそう心に誓ったのだ。ある意味社会人デビューだ。演劇部にでも入れば良かった。なかなかの演技力なんだから。


「沢城さん」
 真後ろから声を掛けられた。
「何でしょう?」
私はキャスター付きの椅子をぐるりと回し、課長に向き合った。
「今度ね、本社の面々とちょっと面倒な会議があってね。その資料を作らなくちゃいけないんだ」
 ええ、と微笑む。
「隣のコピー室でひたすらレジメを作らないといけないんだけど、明日のそうだなあ、昼過ぎ三時ぐらいから、時間取れないかなあ?」
 課長はとっても控えめな言葉使いで私に依頼をした。異動してきて、まともに会話したことがなかったので、「こんな優しい声、話し方をするんだ」と好意を持った。
「ええ、その時間開けておきますね」
 少し首を斜めに傾け、頬を緩める。勿論、演技だ。
「助かるな。神谷君に頼もうとしたら『そういう仕事はマメな沢城さんが向いてます』って教えてくれてね」
 神谷君の席を見ると、会話を聞いていたのかPCのモニタから顔をあげ、私に向かって手を振る。神谷の野郎――。
「ええ、そういう単純作業、って言ったら変ですけど、そう言うの好きなので」
「ありがとう、良かった」
 そう言った後に、細いフレームのメガネの中から暫く見つめられたのでドキドキした。
 誰でも「この人に惚れそうだ」という直感というものがある。この瞬間、私はそれを感じた。瞳の揺れを悟られまいと、椅子を反転させPCモニタに向かい、研究推進部の請求書の処理に当たった。

「だから困るんですよ、そういうの。そっちは品物が届けばそれで良いのかも知れないけどね、先方にお金を払うこっちの身になって考えてもらわないと困るんですっ!」
 涼子の怒りの鉄槌だ。一日平均一回は確実にある。本心むき出しの涼子はサバンナのハイエナの如く、強く美しい。
 だからって何でヒモ君を引き取っているのか、不明。


「神谷君、特許部の子安さんに告白されて、断ったんだって?」
 定食を乗せたお盆をおおざっぱにテーブルに置いたので、涼子のお味噌汁は器から少し零れた。
 社内の恋愛情報は光の速度で伝わるものだ。涼子が仕入れてきた情報に、神谷君はカレーにガッつきながらモゴモゴ何か言っている。
「は?」
「断った」
 何もなかったかの様にカレーを口一杯に詰め込んで、麦茶で流し込む。
「何でよ、あのような美人を」
 特許部の子安さんと言えば、研究部門で三本の指に入る美女だ。彼女をみすみす逃すとは。
「何で断ったの?」
 私はワントーン高い声で訊いた。
「人は見た目じゃないからねぇ」
 チラリとこちらを見遣った神谷に麦茶を浴びせてやろうかと思ったが、やめた。ここは会社だ。

 約束の三時になったので、会計ソフトをスリープさせて印刷室へ向かった。課長は既に一部目の印刷に取り掛かろうとしていた。
「あ、課長、これは元原稿を上下逆ににセットして、こうして一気に印刷すると、レジメ作業がラクになりますよ」
 チラリと課長を見ると、ホホォと関心の表情を浮かべていた。
「印刷が終わったら、十二枚をワンセットにしてホッチキスで留めて完成ですよ」
「沢城さんに頼めば、僕がやるより早く終わりそうだな」
 私はにっこり笑って見せた。
 プリンタからモノクロ印刷の紙が排出されていく。沈黙した中に、コピー機のリズミカルな音が響く。
「沢城さんの喋り方、いいよね」
 急に言われたので恥ずかしいというよりは驚いて、課長の顔を見上げた。
「いや、今の女性って強いからね。竹内さんもそうだけどさ、うちのカミさんもそうなんだ。強いんだ。だから君の喋り方を聴いてると安心する」
「そ、そうですか?何か嬉しいです」
 これは偽物の声です。偽物のキャラです。だけど嬉しかった。こんな風に、自分の仕草や声を褒めてくれたのは課長が初めてだった。それが偽物の私であったとしても。

 コピー機に目を落とす課長を見遣る。
 課長クラスにしては若い。優秀なのだろう。フレームの細いメガネに短髪で、清潔感がある。歳の頃は35歳と言ったところだろうか。眼鏡の奥の細い目を、更に細くして笑う顔は、何だか安らぐ。
 あっと言う間にコピー用紙の束が山の様に出来上がった。
 四つの山に分け、頭から十二枚を数えてホッチキスで留める。ここからは単純作業だ。
 バチンというホッチキスの音が、狭いコピー室に響く。
 空調は効いているが、部屋の狭さゆえに少し汗ばむ。課長の額には光るものがあった。私はポケットからピンクのタオルハンカチを出し、課長に手渡した。
「汗、結構かくほうですか?」
 いいの?といいながらそれを受け取り、課長は額を拭った。
「そうだとね、どちらかというと、汗っかきかな」
 タオルハンカチを傍に置き、またホッチキス留めを再開した。
「これ、なかなか大変な作業だね。定時で終わるかなあ」
 時計をチラリと見ながら難しい顔をした。
「いいですよ、私なら。何も用事ありませんし」
 作業の手を止めずに言った。
「悪いなあ、でも沢城さん、イイ人が待ってたりしない?」
 こちらを見る目は、ふざけてなんていなくて、本当に心配をしている風だった。
「いないですよ。大丈夫です。もう半分ぐらいまで終わったかな。頑張りましょう」
 課長はメガネの奥にある細い目を更に細めて笑った。
「沢城さんって、お日様みたいな人だね」
「言われた事無いですけど嬉しいです。あ、指先がこんな――」
 インクで薄汚れた指先を見せてフフフと笑った。
「ああ、申し訳ないなあ。綺麗な指を。あ、今度一緒に飲みに行こうよ。お礼にって事で。確か甘いお酒が好きなんだよね?」
 自分のパーソナルな事を知っていてくれた事が嬉しくもあり、驚きでもあった。
「はい、是非連れて行ってください」
 歳の差は十歳弱といったところだけれど、何の問題もない。
 穏やかな課長と、いろいろな話をしたいなと思った。
「タオル、洗って返すから」
 課長はスラックスのポケッに突っ込んだ。
「いや、いいですよ。私、洗いますから」
「いや、僕の汗なんて汚いからさ」
 と苦笑しながら、針切れになったホチキスを交換していた。


3 神谷君の推測

 朝出社して、一番にする事は、PCを立ち上げる事。
 立ち上がる間にする事は、課長の席にある、家族写真を見る事。
 毎日見ているのに、毎日何かしら気になる事が出てくるので不思議だ。
 例えば、この戸建ての周りには、殆ど家が建っていない事。
 上の子供が顔を顰めている事。
 青空が、澄み渡って雲一つない事。
 奥さんが、自信に満ち溢れた顔をしている事。
 些細な事なのだけれど、「へぇ」とか「ふーん」とか。毎日思う所がある。

「おはよ、また見てるの?」
 出勤してきた涼子に言われたので、咄嗟に目を外した。
「見飽きないねぇ。課長の事好きなの?」
「んな訳ないでしょ、妻子持ちなんだから」
 写真の中で目を細めて笑う課長を見る。この家庭の安泰さを表している様で、それこそ「お日様の様な笑顔」と言う言葉が脳裏をかすめた。
 続々と出社してくる人に気付かれないよう、自分の席に着き、仕事の準備に取り掛かった。

「おはよう」
 澄んだ初夏の空の様な声で課長が部屋に入ってきた。ちょうどあの、写真の空のようだだ。
「おはようございます」
 皆ばらばらに挨拶の声を発する。
「沢城さん?」
「はい」
 くるっと後ろを向く。スーツの上着を脱ぎながら言葉を続ける。
「この前作ってもらった資料使って昨日、本社でプレゼンしてきたよ。結果は上々。君には感謝しているよ」
ありがとう、と腰から折れる綺麗なお辞儀をされたので戸惑った。
「いや、あの、ホチキス留めしただけですからそんな――」
「うん、でも貴重なアフターファイブを無駄にしてしまったからね」
 脱いだジャケットをハンガーに掛け、クロークスペースに向かった背中を目で追った。
 白いシャツは綺麗にアイロン掛けされていて、気の強そうな奥さんの顔が一瞬目に浮かんだ。
「あ、そうそう、タオル」
 課長がこちらへ戻って来ると鞄から私のタオルハンカチを取り出した。
「僕が洗ったから、上手く洗えてるか分からないけど。ありがとう」
「わざわざ洗っていただいて、すみませんでした」
 そんなやり取りをした。
 視界に入った神谷君が、何故か私を見てニンマリとほくそ笑んでいたので、誰にも気づかれないよう一瞬、舌をベーッと出してやった。

 昼食を終え、いつも通り涼子と二人、中庭のベンチに腰掛け五月の青空を見ながら取り留めもない話をしていた。
 話の途中で涼子の携帯が鳴った。
「ヒモからだ」
 そう言って彼女はベンチから立ち上がり、中庭の隅に走って行った。
 次の瞬間、隣には神谷君が座っていて驚いた。顔を見ると午前中と同じくほくそ笑んでいるのだった。
「何?」
「課長って、いいよな」
「神谷君、ホモ?」
「ちがーう」
 訳が分からなかった。「何なの?」ともう一度訊ねた。
「沢城さんって、鈍感なのか?課長、沢城さんの事かなり気に入ってると思うよ、神谷君はそう思う」
 自分の事を「神谷君」呼ばわりするこの癖は、何なんだろう。子供返りか?
「何を根拠に?」
 課長が自分を気に入っているなんて、どう考えるとそういう結論に至るんだろう。
「分かるんだよ、男だから。話し方、接し方、目線。俺結構モテるからね、そういうの鋭いの」
 サラッと自分の自慢を織り交ぜながら独自の論を展開した。
 確かに神谷君はモテる。モテるのに過去に女性と付き合っていると聞いた事はない。そんな訳のわからない奴の持論を信じる程、私は馬鹿ではない。
「あぁそう。課長が私を気に入ってるから何?課長は妻子持ちだからね」
「何も無いといいな」
 はぁ?!と少し顔に怒りの色を込めて睨みつけると、向こうから涼子が走って戻ってきた。
「そこ私の席だよ、どきな」
 涼子の一声に神谷君は「おー女は怖い怖い」と言いながら退散していった。
「ヒモ君何だって?」
「うん、急遽ヘルプで今日のライブに出る事になったから、遅くなるって。そんだけ。メールでいいよって感じ」
 吐き捨てる様に涼子は言った。
「涼子の声、聞きたかったんじゃない?」
 彼女の顔を覗き込むと、涼子は照れるでもなく、真顔でこう言ってのけた。
「気持ち悪っ」

 翌朝もまた、写真を見た。
 これだけの広い土地に家が建っているって事は、どこか新興住宅地に家を建てたのかな。周りに家、数件だもんな。しかも一件一件が離れている。
 歓迎会の時、もしかしたら課長の身の上話が話題としてあがったのかも知れない。幹事業務で精一杯だった私は、殆ど課長の、いや、他の社員の話も、聞いていなかった。
 今日は涼子が出勤してくる前に、自分のデスクに戻った。

 午後、医薬研究所の請求書を取りまとめ、再計算をしようと電卓に手を伸ばした所で、誤って肘でエンターキーを押してしまった。しかも二連打。
 これは何を意味するかと言うと、万が一再計算をして数値が合わなかった場合は計算ミスした数値が上位部署に周ってしまうという事だ。
「しまった――」
 誰にも聞こえない位の小さな声で呟いた。手に汗が滲む。
 とにかくまずは再計算をと電卓を叩いた。エクセル計算と手計算、エクセル表の確認の三点チェックをしてから送信する事にしているのだ。
 案の定、電卓計算の数値とエクセル計算の数値が合致しなかった。
 課長がこれらの数値をオンライン決済してから上位部署に送信する筈だ。
「か、課長」
 椅子を反転させ、冷や汗をかいた手を握りしめた。事の顛末を話した。
「あぁ、これね、医薬研の。大丈夫、今決済するところだったから。早く気付いてくれてどうもありがとう」
 いや、すみませんでした、と掌にかいた冷や汗をスカートで拭った。
 私のちょっとしたミスが、課長のミスに繋がる。あぁ、怖い。
 それにしても、私がミスして謝ったのに、ありがとうなんて言われた。
 何だか変な構図だった。
 ありがとうと言った時の課長の目が、酷く優しく、吸い込まれるようで、心臓が一度だけ高く鳴った。
 何かこう――調子が狂う。


4 神谷論

 六月に入り、昼休みのベンチは雨に濡れる事が多くなった。
 今日は午前中まで強い雨が降っており、ベンチは濡れていたので、食堂から直接、涼子と居室へ戻る事になった。
 私は途中でお手洗いに寄り、自席へ戻る途中で課長と顔を合わせた。
「あ、沢城さん。ちょっといいかな?」
「何でしょう?」
 課長に手招きされ、彼に近づいた。
 近づくと、香水とも違う、初夏の風の様な爽やかな香りがした。制汗剤か何か――つけてるんだろうか。もしくはシェービングクリームの香りかも知れない。
「前に言ってた、レジメのお礼がしたくて。近々どうかな?」
 眼鏡の奥の細い目からは、黒目が殆ど見えない。彼は笑顔になると視界がゼロに近くなるのだろうか。そんな事を思った。
「いや、あの、この前の決済間違えで私もご迷惑お掛けしましたし、良いですよ、お礼なんて」
 私は手を左右にブンブン振って、やんわりお断りをした。
「じゃぁ、その件はチャラでいいとしよう。それとは別で、沢城さんを食事に誘ったら、迷惑かな?」
 課長を見上げたまま数回瞬きをした。こんな風に大人の男性に、ストレートなアプローチを受けた事は無かったので、酷く動揺し、答えがすぐに浮かばなかった。動揺の色は隠しきれず「あ、嫌ならいいんだ」と課長は顔を硬くして微笑んだ。
「あ、あの、行きます。私で良ければご一緒させて下さい」
 私はペコリと頭を下げて、そして顔をあげた。私より頭一つ分高いところにある顔。インテリジェンス溢れる銀縁眼鏡から注がれる優しい視線。
 素敵だ、と思った。
 まて、妻子持ちだ。


「なぁ、コーヒー飲みに行ってもいい?土曜」
 こうやってぶっきら棒に誘ってくる大馬鹿者もいる。少しは課長を見習って欲しいものだ。
「うちは喫茶店じゃないっつーの」
 あの日介抱されてから、月に一回ぐらいのペースでコーヒーを飲みに来るようになった。
 特におかしな関係になる訳でもなく、部屋でコーヒーを飲みながら音楽の話をしたり、仕事の話をしたりして、彼は帰って行く。
 男女間の友情があるとするならば、これなのかな、と思う。


「ぴんぽーん」
 玄関の前でデカい声で叫ぶので、慌てふためいて玄関ドアを開ける。
「毎回毎回やめてよ、バカ!」
 へへへっと笑いながら靴を脱ぎ、横にあるスリッパに履き替える神谷君の頭を一発、空いているスリッパでスパっと叩いてやった。
 既にコーヒーはドリップされていて、マグカップに飛び込む瞬間を魔法瓶の中で待っている。
「砂糖多めのミルク多めでお願いします」
「はいはい」
 砂糖と牛乳を入れたマグカップをレンジで温めてから、コーヒーを注ぐ。「コーヒーがうまい」とか言うご大層な人間が飲むコーヒーにしては、コーヒーの要素が薄い。
 私は自分の分のコーヒーをマグカップに注ぎ、彼が座るリビングのソファの隣に腰掛ける。
「いいなぁ、川も見えるし、何度も言うけどこの家はいいよな」
「そんなに言うなら引っ越して来れば?空き部屋あるんじゃない?」
 この部屋からは土間川という大きな川が見え、河川敷には桜の木が植えられている。春は桜、夏は花火が見える。秋は月見で冬は――何もない。
「そういやさぁ」
 急に思い出したかのように私の方に向いたので、顔を引いてしまった。「何」
「この前沢城さん、女子トイレのわきで課長と何か話してたよな?何話してたの?」
 餌を欲しがって涎を垂らしている犬みたいにだらしのない顔をしている。
「神谷君、ストーカー?」
 褒めてないのにドヤ顔をする神谷君を、逆に褒めてやりたいとさえ思った。
「食事に誘われたんだよ」
 コーヒーカップを手の平で包み込みながら、その温かさを身体に伝える。
「ほらな、神谷君の言ってる事は十中八九正しいのだよ。課長は沢城さんに惚れているのだよ」
「んなバカな」
 私は立ち上がって、オーディオラックの横にあるギタースタンドからテレキャスターを持って来た。何となく耳でチューニングする。
「だって相手は妻子持ちだよ。暇潰しに誘ってくれたんじゃないの?」
「沢城さんが旦那持ちで、暇だからって俺を食事に誘うか?」
「誘わん」
「ほれ見た事か」
 そう言われると言い返す言葉が見当たらない。
「もし奥さんや子供と街でばったりーなんて事になったら、沢城さん、大ピーンチ!だよ?」
 大げさなジェスチャーで神谷君は私の危機について語った。片手に持つマグカップの中のコーヒーが、ラグに向かって落下するのではないかとひやひやした。
「だよね――断ろうかな。食事するだけでも『不倫だわ、キィィィ!』って思う奥さんだっているだろうしね」
 もし私の旦那が、女性社員と二人きりで食事をして帰ってきたら――と考えるとやはり、断るべきなのかと思った。
 が、頭の片隅では「ばれなきゃいいんじゃないの?」というもう一人の自分がいる事に、実は気づいている。

「ねぇ、神谷君は特許部のあの子、どうして振っちゃったの?」
 話題を変えるために、先日の昼休みに話題に上った話を口に出した。
「だからぁ、人は顔じゃないんだってば」
 口を尖らせながらそう言うが、全く要領を得ない答えである事を彼は分かっていない。
「訳が分かりません。日本語でお願いします」
「俺は喋った事も無い奴といきなりお付き合い出来る程器用じゃないの。こうやって気心知れた奴の家でマッタリとコーヒー飲んでる方がよーっぽどいいの。彼女なんていらないの」
 そう言うと、実に美味しそうにコーヒー(コーヒー牛乳)をひと口飲み、にっこり笑った。
 笑いかけられても困るよなぁ――。
 私はそのままテレキャスターのチューニングを続け、彼はニコニコしながら窓から見える川の様子を眺めていた。
 よくある、休日の光景だ。


5 秘密のデザート

「沢城さん」
 会議からの戻り道、廊下で後ろから声を掛けられた。澄んだ声の持ち主は課長だった。
「あ、お疲れ様です。課長も会議ですか?」
 課長の手元にはいくつかの資料が握られていた。
「うん、そう。今終わった所なんだ。ところで、食事の事なんだけど」
 私は先日の神谷君とのやり取りを思い出し、足元に視線を落とした。
「あの、その件、お断りしようかと思ってまして――」
 課長はその細い目を目いっぱい広げて丸くした。
「どうして?」
「奥様やお子様に会ったりしたらまずいですよね――」
 私は再び俯き、そのまま顔を上げる事が出来なかった。
「ハハハ、それなら心配ないよ」
「え?」
 課長の朗らかな笑い声に、私は顔を上げ、彼を見た。
「僕ね、単身赴任なんだ」
 目を細めて口元を引き上げる。そんな風に課長は笑う。。
「何しろ君を取って食おうなんて思ってないから心配しないで。今週の金曜日なんてどうかなぁ?」
 何かを喋る度に、真紅の唇から覗く真っ白な歯列の整いが目に入る。綺麗で、色っぽい。
「えぇ、そう言う事なら、じゃぁ金曜日、予定しておきます」
 顔を傾け、にっこりと笑顔を作った。

 居室の前まで来ると課長は「じゃ、そういう事で」とこの会話を不自然に終わりにした。
 室内の人達に当然、知られたくない事なのだろう。


 金曜の朝、デスクの上に小さなメモが置かれていた。
 「カッペリーニというお店、十八時で予約しています。山崎」
 山崎直樹。課長の名前だ。私に「女らしさが足りない」と言った元彼も、漢字違いの「山崎尚樹」だったので、すぐに覚えた。

 昼休み、涼子に今日の約束の話をすると、彼女はニヤニヤとして言った。
「面白そうじゃん、何かあるかもよ」
「何もないよ」
 彼女は持っていた小銭入れを空に投げては取っ手を繰り返した。
「興味ない子を食事に誘わないでしょ。私、誘われてませんけど、何か?」
 そんな事を言うので、吹き出してしまった。
 それにしたって皆、同じような事を言うもんだな。
 課長と食事=何かあるって?それは双方の合意があって初めて成り立つものであって。
 課長の心を読む事は出来ないけれど、少なくとも私は――私は?
 課長が眼鏡の奥にある目を細めて、口を引き上げて笑う顔や、会話中に見える歯列、澄んだ声。何かの香り。気になる部分が沢山ある。気になり出すと、更に気になる。
 考えただけで何故か顔が火照るのが分かった。
 相手は妻子持ちだ。沢城みどり、よく考えなさい。もう、子供じゃないんだから。


 約束通りの十八時にカッペリーニというお店に着くと、課長が奥の席から手を振っていた。
 店内にはパスタが茹で上がる匂いやガーリックの香ばしい香りが広がっていた。イタリア料理だ。
「お疲れ様。どうぞ、座って」
 勧められて席に着いた。
「良くいらっしゃるんですか?このお店」
「いや、実は初めてでね。沢城さん達はどういうお店が好きかなぁって頭を絞った結果がこれなんだ、あまり好みじゃないかな?」
 課長は頭の後ろに手を遣り、首を捻った。
「あの、私イタリア料理大好きですよ。畏まったお店じゃなくて良かったです、本当に」
 これは本当だ。懐石とか、フランス料理とか、そんな所に連れて行かれたら私は一目散に逃げ出していただろう。課長のセレクトはかなりいい所を突いている。
 店長さんにお勧めを訊き、前菜とパスタ、ピザを頼んだ。後から「食後でいいので彼女に何かデザートを」と課長が言うのが耳に入った。聞いていない振りをした。
「課長、単身赴任されてるんですね。知らなかったです」
 前菜のサーモンを突きながら口火を切った。
「うん、青葉寮に丁度空きがあってね。僕、東北支社からの転勤なんだ」
「東北、ですか」
 あの、机の横の写真を思い出す。あれは東北のどこか――なんだろうか。
「課長の机の写真は、ご自宅ですか?」
 あぁあれね、と少し照れたように笑った。
「夢のマイホームと言うのかな、岩手なんだけどね。今造成中の新興住宅地の一角を買ったんだ」
「お子さん、まだ小さいんですね」
 丁度パスタとピザが運ばれてきた。ふんわりと湯気が顔にかかる。魚介とトマトソースのパスタ、アンチョビとバジルのピザだ。
「うん、上が5歳、下が2歳の時の写真かな」
 取り皿にパスタを取り分け、課長の目の前に置くと「ありがとう」と視線を寄越した。私は自分の分も分取し、フォークにパスタを絡めた。
「じゃぁパパがいなくなって寂しがってますね」
 パスタを口に運び、上目使いで課長を見ると、困ったような悲しむような顔で少し笑った。
「僕がいなくても妻が全部やってくれるからね」
 彼はピザに手を伸ばしたので、すかさず取り皿を目の前に置いた。
 こういう気配りも全て、あの男の一言から始まった。女だから、女らしく。周りを見て、先んじて。本来の私ではない。

「神谷君と竹内さんとは、同期入社なのかな?」
 急に身近な話題になったので、狼狽してフォークに巻いたパスタをお皿に落としてしまった。
「あぁ、そうです。三人同期で配属されたんです」
「仲良いよね。時々呑みに行ったりするの?」
 私はとびっきりの笑顔で「はい」と答えた。
「いいな。僕は横浜には知り合いなんていないから、そういう事も無いな」
 少し寂しそうな顔をした。家族からも離れ、知らない人間ばかりの中で仕事をしている課長が少し、気の毒に思えた。
「あの、私を誘ってください。私、甘いお酒なら沢山飲みますし。気軽に誘ってください」
 そう言うと、目を一杯に細めて口角を上げる、あの笑い方で「ありがとう、沢城さん」と囁く様な優しい声で言った。

 食事を終えると、デザートのチーズケーキが運ばれてきた。
「あれ?デザート?」
 知ってるくせに、私。
「僕からのサービス」
 大げさに見えなくもないジェスチャーで喜んだ。
「ありがとうございます、嬉しいです。課長は召し上がらないんですか?」
 僕はちょっと、と手を振った。甘い物が好きじゃないんだろう。
 いただきますと言って食べ始めた私の様子を、モルモットでも観察するようにニコニコしながら眺めている。
「沢城さんって、食べ物をとても美味しそうに食べるね」
「え、そうですか?」
 出されたものを残さないという自覚はあるが、美味しそうに食べるなんて誰にも言われた事が無かったので、少し、いや凄く嬉しい。
「うん、そういう人、僕は好きだな。それでいてガツガツしていない。そして気配り上手だしね」
「はぁ――」
「まだ時間は大丈夫?」
 二件目はお酒にしないか?と誘われた。
 一件目は課長のセレクトだったので、二件目は私が好きな「サンライズ」というバーを推薦した。
「一応これでも課長だからね」と言ってお会計を済ませてくれた。私はお礼を言い、サンライズへ案内した。
 六月下旬の空気は、夏を待てないとばかりに熱気がこもっていた。課長と私が並んで歩くというのは何だか変な気分だった。


6 課長の恋人

 金曜日という事もあって、サンライズのそう広くない店内は、八割方埋まっていた。
 窓の外に向かっているカウンターに席を取り、座った。
「僕は黒ビール、ジョッキで」
「私はカシスオレンジを」
 オーダーをした後、暫く窓の外を無言で見ていた。ビルの二階にあるこの窓から見えるのは、ただの都会の喧噪だ。定期的に変わる信号と、それに伴って動く人や車の動きが見えるだけ。
 口を開いたのは課長だった。
「実はね、僕、異動する前に一度、君に会ってるんだ」
 目を見開いた。さっきよりも距離が縮まった分、課長の端正な顔がよく見える。
「いつですか?」
「二年前の全国合同会議の時、受付をしていたよね、沢城さん」
 あぁ、あの時。全国の支社と本社の経理幹部が集まって経理システムの会議が行われた。私はその際に受付として駆り出されたうちの一人だった。それにしても、受け付けは五人ぐらいはいた筈。
「たまたま沢城さんに受付してもらったってのもあるんだけど、君の纏う、何て言うのかな、柔らかい雰囲気と、手入れされた指先と、綺麗な声が暫く頭から離れなくてね。年甲斐も無く、一目惚れみたいな物だね」
 ククッとくぐもったような笑い方をした。私は心臓の高鳴りを覚えた。
「私みたいな何の個性も無い人間を覚えていて下さったなんて、嬉しいです、私」
 近い距離でにっこり笑うのはとてもわざとらしいと思い、薄く微笑んだ。
 飲み物が届き、グラスを合わせた。
「個性が丸出しの人なんて稀だと思うよ。皆、誰かの個性やら特徴、好きな所を見つけて、見つけた者同士が結婚したり、付き合ったり、するんじゃないかな」
 彼は窓の外に目を遣り、何かを考えている風だった。
「私、課長が笑う時の顔が好きなんです。あと、歯並び。それと青空みたいな声」
 彼は窓から目を外し、私の目を見た。私の目は潤んでいたかもしれないが、それを止める事は出来なかった。
「歯並びなんて言われた事無いな。可笑しいけど凄く嬉しい。青空みたいな声って言うのも何だかくすぐったいけど、嬉しいね」
 私は彼の柔らかな視線に耐えられなくなって、微笑みながら俯いた。好きになってしまったような気がする。どうしよう、好きになっちゃった。
「こうやって、お互いの好きな所を言い合うと、余計その人が好きになるんだ。不思議だね」
 課長は私から目を離し、外に目を遣ったのを雰囲気で感じ取り、私は顔をあげた。外を見る彼の横顔は、口角を上げ、微笑んでいた。
「正直に言うよ。僕は君に惚れている」
 嬉しかった。こんなに嬉しい事はない。その嬉しさを、出来れば全身で表現したかった。だけど相手は妻子持ちだ。そして私は――私の纏う柔らかい雰囲気は、全くの虚像だ。
「でも課長、あの、奥さんとか――」
「いいんだ、それは。とにかく僕は好きなんだ。沢城さんが」
 まっすぐな視線を向けられ、私は困ったような顔になった。うまく笑えなかった。こういう時、どういう顔をすればいいの、どうしたら顔を作れるの。
「何かしたいとか、贅沢を言うつもりはない。ただこうして時々、一緒にお酒を呑んだり、時に触れ合える仲になれたら僕は嬉しいなと思ってる」
 私は返事すらできず、困ったような顔は張り付いてしまった。
「沢城さんが、胸に決めた人がいるなら正直に迷惑だって言って欲しい。僕は結構しつこいから、嫌なら嫌と言ってくれていいんだよ」
 思っている事を口にする事が、これ程難しかった事が過去にあっただろうか。私の虚像に惚れている課長。課長に惚れている本当の私。
 まるで磁石だ。ある程度の距離まで近づくと、勝手にカチリと音を鳴らして繋がり合う。好きになってはいけない人だとは分かっているが、少し距離を縮め過ぎた。
 課長はいずれ東北支社に戻るだろう。それまでの間、虚像でも課長といられるのなら、愛されるのなら、愛せるのなら、それでもいいのではないか。

 私は言葉を発するよりも先に、テーブルに置かれた白く透き通る様な彼の手に触れた。手に手を重ね、そして握った。
「嬉しいです」
 桜色のネイルの先が、照明に反射してキラリと光った。
「へ?」
 少し上ずった声を出し、彼は目を見張った。この返事は想像していなかったのだろう。私は課長を見つめた。
「私も課長が好きなんです。今迄も素敵だなと思ってました。だけど今日一日だけでも、凄く好きになりました」
 まるで作文の様な語り口でしか、彼に想いを伝えられないのが歯痒い。伝わればいいなと思った。この気持。
 課長は私の手を両手で包み込んだ。
「僕は既婚者だけど、君を『愛人』なんて名前で呼びたくない。横浜にいる間だけでいい、恋人だと思っても、いいかい?」
 それは、終わりのある恋である事を宣告されている様な、残酷な申し出だったが、私はそれでも良いと思った。今この瞬間、この人を愛おしく思っている。その事に嘘はなかった。
「はい。恋人でいさせてください」
 その言葉を聞くと、彼は一度俯き、何かを決意した様に顔を上げた。そして私の頬を寄せ、軽いキスをした。誓いのキスみたいだった。嬉しかった。
「でも課長、こういう所でキスしてる所、誰かに見られたら事ですからね、気を付けましょう」
 耳打ちするように呟くと、「あぁ、そうだね」と照れ笑いをした。細い目は一層細くなり、視界はほぼゼロだろうと思った。


7 夏色のピアス

 恋人になったからと言って、これといって大きな変化はない。
 朝は「おはようございます」と挨拶をし、廊下で会えば「お疲れ様です」と言う。帰りは「お疲れ様」だったり、「お先に失礼します」だったり。
 少し変わった事は、その変わらない日常の中で、視線を合わせる回数が増えたという事だろうか。
 勿論周囲に露見してはいけない関係なのだから、何も変わらない事が当然なのだ。
 課長との連絡は自分の携帯電話でする事にした。
 社内にネット環境は整備されているが、万が一を考えると自分の持ち物を使った方が良いだろうという結論に達した訳だ。

 7月に入った。
 昼間は高い位置から一直線に射す陽に射られ、痛みすら感じる。まだ蝉は鳴いていないが、時間の問題だろう。学生の頃は気にしていなかった日焼けも、社会人になってからは意識するようになった。
 仕事帰りに寄ったドラッグストアで、日焼け止めを三本買った。日焼け止めってどうしてこう、容量が少ないんだろう。毎年そう思う。が、小分けになっている事で、自宅用、持ち歩き用、職場用、と分けられるというメリットもある。
 ドラッグストアを出て、並びにある廉価なアクセサリーが売っている店で足を止めた。
 夏らしい、綺麗な水色や黄色のアクリルが連なっているピアスが陳列されていた。
「可愛い――」思わずそう呟いてしまった。
「買ってあげたいな」
 その声に驚いて振り向く。私の緩くカールした髪が、放射状に広がった。
 声の主は課長だった。
「課長、どうしたんですか?こんな所で」
「沢城さんをつけてきたって言ったら、どうする?」
 ニコニコと笑っている。
「ストーカーって言って頬っぺた叩きますよ」
 叩く真似をすると、ひょいっと顔をずらして避けた。
「うそうそ、台所用の洗剤が切れてしまったんだ。それを買いにドラッグストアにね」
 私が手にしていたビニール袋と同じものを、課長も手に提げていた。
「このピアス、綺麗だね」
「はい、そう思って見てたんです」
 課長は私の横をすり抜け、店の自動ドアをくぐって行った。中にいた店員に何か話し掛け、店員は店の奥に一度入り、そして出てきた。課長は支払いをし、店を出てきた。
「どうぞ、僕からの初めてのプレゼント」
 あっという間の出来事に茫然としながら手渡された小さな紙袋を見つめていがた、そのうち頬が上気してくるのを感じ、自然と顔が緩んだ。
「ありがとうございます」
 出来得る限りの飛び切りの笑顔でそう言うと、彼は私の頭を二度、撫でた。頭から頬へと移動するその手は少し冷たく、最後のひと指が離れる瞬間を憎らしく思った。

「沢城さんの家は、駅から近いの?」
 会社は大きなターミナル駅の傍にある。私の家はそこから二駅行った閑静な住宅街にあるマンションだ。
「電車に乗るんです、これから」
 神谷君の「男の部屋みたいだな」という言葉が頭をよぎる。
「寄ってもいいか」なんて、絶対言ってくれるなよ、課長。
「遊びに行ったら、迷惑かなぁ?」
 あぁどうしよう、こういう時にどうしたらいいんだろう。
「あの、姉が、姉がいるんです。一緒に住んでるんです。すみません」
 二つ上の姉がいる事は事実だった。時折顔を見せる。ただ、一緒には住んでいない。
 一過性の要件で断っては今後も誘われかねない。姉の存在を使う事にした。
「そうか、無理を言ってしまって済まないね」
 そう言って俯いて、細い銀縁の眼鏡を少し持ち上げた。
「もし」顔をあげて課長が口を開いた。
「もし一晩一緒にいたいと思ったら、僕はどうしたらいいだろうか」
 それは即ち、身体の関係を持つ事を前提に話しているのであろう。私はそれを不愉快には思わないし、むしろ望んでもいたと思う。
「寮に行く訳にもいきませんし、やっぱりホテルとか――」
 私が口籠ると、課長はまた私の頭を撫でたので、彼の顔を見上げた。頭を撫でたその少し冷たい指先は、先ほどと同じ様に頬へと降りて来た。
「ラブホテルじゃ沢城さんには相応しくない。そうだな、駅の近くのビジネスホテルがいい。金曜日、都合は悪いかなぁ?」
 手に持ったままの小さな紙袋を見つめながら返事をした。
「金曜日、大丈夫です。空けておきます」
「その袋、貸してみて」
 私の手にあった紙袋を少し強い力で引き抜き、テープを剥がすと中から夏らしい色が連なるピアスが覗いた。
「今つけているピアス、外せる?」
 私は両手で耳を挟み、リボンをモチーフにしているスミレ色のピアスの両方を外した。
 課長は紙袋から取り出したピアスを、私の耳につけた。その優しい手つきがくすぐったくて、身体の芯が揺れる感覚があった。耳だって性感帯なんだ。
「痛くない?」
「はい」
 私の前に回り込み、正面から見て「うん」と頷いた。
「凄く似合うよ。帰ったら鏡を見てみて」
 それじゃ、と言い残し、彼は寮の方角へと歩いて行った。
 通りの真ん中でこんな事をされた事は恥ずかしかったけれど、課長の顔が間近に迫っていた事が私の頬を染める一番の原因だった。
 爽やかな香料が香った。その香りを、覚えた。

 橙に染まっていた筈の空は濃い群青へと変わり、星が出ていた。
 さぁ、帰ろう。「本当の自分」の住処へ。


8 神谷君の忠告

 玄関を開けるとそこは――私の部屋。男みたいな私の部屋。落ち着く。
 リビングに入り、女らしいシルエットのカバンから携帯だけを取り出し、あとはモノトーンのボックスに仕舞う。携帯のストラップだけは、女らしい物で我慢をする。
 着替える前に、課長に買ってもらったピアスを鏡で確認する。うん、素敵。女の子らしい。
 高校時代使っていたジャージとTシャツに着替える。
 ビールのプルタブを引き、それを呑みながら野菜炒めとサラダ、味噌汁を作る。ご飯は冷凍してあるものを温める。片付けがすぐに終わるような、簡単なメニューで夕飯を作り、最小限の食器を使い、盛り付ける。ビールを呑みながら夕飯を食べる。
 こんな日常だ。きっと会社の人間の誰もが予想だにしない光景だろう(除:神谷君)。
「落ち着くなぁ」誰もいない部屋で一人ぽつりと呟く。

 落ち着く。だけど少し淋しくもある。
 姉と神谷君以外、殆ど家にあげた事が無い。涼子だってここには来た事が無い。
 平日は一人でビールや酎ハイを呑みながら読書をしたり、ギターを爪弾いたりしているし、休日は時々神谷君がコーヒーを飲みに来る。そんな生活だった。
 これからは課長がこのサイクルに入り込む事になる。
 どうなっていくんだろう、私の人生。
 終わりのある恋愛。虚像の私。人生の一ページに刻まれる彼の香り。
 胸が高鳴る様な、心苦しいような、複雑な思いが交錯した。


 酎ハイを呑みながらベッドに腰掛け、文庫本を読んでいると、サイドテーブルに置いた携帯が長く震えた。ディスプレイを見ると、神谷君からだった。またコーヒーか――。表面が結露している缶酎ハイをサイドテーブルにあるコースターの上に戻し、代わりに携帯を手に取った。
『もしもし』
「どうした?」
 私は通常営業ワントーン低い声の沢城みどりで話した。
『沢城さんに訊きたい事があんだよ』
「何、知ってる事なら何でも」
『今日駅んとこで課長と何やってたの?』
 血の気が引いた。文庫本を手から落としそうになり、必死に指先で堪えた。
「何って別に――」
『キス、してた?』
「し、してないよっ」
『顔が随分と近かったじゃないかーい』
 神谷君のニヤニヤとしたあの顔が頭に浮かんだ。グーで殴ってやりたい。
「ちょっと話してたら、髪の毛がピアスに絡まっちゃって、取って貰ってたの」
『ふーん、そうなんだ、ふーん」
 何か言いたげな「ふーん」に少しイライラした。
「何が言いたいのさ」
『壁に耳あり障子に目あり、だかんねー。気を付けるんだよーと神谷君からの忠告」
「ご忠告ありがとう。それでは」
 一方的に「通話終了」キーを押した。
 神谷君は我が家に踏み込んだあの一件からこちら、私の生活に土足で踏み込むような事が多い。まぁ、本当の私の姿を知っている唯一の人間だからある程度仕方がないとは思う。
 心配なのは、彼が結構、動物的勘というか、嗅覚と言うか、そういう物が優れている事。そして都合の悪い場所に居合わせる確率が高い事。
 先日も、会社で課長から食事のお誘いを頂いた時、たまたま近くにいた。今回も、何故か見ていた。ストーカー?いや、彼に限ってそれはない。
 兎に角、会社の誰かに課長との仲が露呈するとしたら、それはまず神谷君だろう。私はそう思っている。彼の嗅覚は犬並みだ。

 再び文庫本を手に取り読みだしたのだが、何だか集中できず、本棚に仕舞った。


 金曜日を迎えるまで、グレア液晶に時々映り込む課長の後姿に胸をときめかせながら時間を過ごした(仕事はしている)。
 相変わらず一日に一度は涼子の取り立てヤクザの様な声が部屋に響き、神谷君は目が合うとヘラヘラと笑っていた。


9 ピッチャー、課長

 金曜の昼休み、中庭のベンチで涼子と「ひも君の仕事」について話していると、ポケットに入れてあった私の携帯が短く震えた。
 取り出してディスプレイを見ると、「山崎直樹」と表示されていた。
『お疲れ様。今日、駅から少し離れたDMGホテルというビジネスホテルをとりました。受付で僕の名前を言ってください。何時になっても構いません。待っています』
 さっと頬が赤くなるのを自分で感じた。
「どした?顔赤いよ?」
 涼子が訝しげでな表情で私の顔を覗き込んだが、目を逸らした。
「暑くない?今日」
 私は火照った頬を両手で挟んだ。怪しいなぁとは言われたが、それ以上詮索してこなかった。涼子はこういう部分がさっぱりしていて付き合いやすい。課長と食事をしたその後も、その事に付いて触れてこようとはしない。だが油断は禁物だ、彼女は社内の情報屋。


 十八時に業務を終えた。既に課長は席におらず、在席を示すマグネットは「出張」「直帰」となっていた。
 私は指定されたDMGホテルへ赴いた。駅からは少し離れ、銀行や市役所などが立ち並ぶ一角にそのホテルはあった。
 一般的なビジネスホテルで、勿論いかがわしい雰囲気は微塵もない。
 自動ドアをくぐろうとしたその瞬間、左肩を叩かれた。
「お疲れ様、沢城さん」
 課長だった。少し急いできたのか、汗をかいている。
「あ、課長、お疲れ様です。今日出張されてたんですね」
 役職柄、会議等で席を外すことが多いため、改めて在席表を見なければ気づかないのだ。
「とりあえず、入ろうか」
 指差す課長の後ろについて自動ドアをくぐり、受付を済ませた。エレベータ内は蒸し暑く、私は鞄からタオルハンカチを取り出し「汗、拭いてください」と課長に手渡した。
「あぁ、ありがとう」
 課長は押さえる様にして額の汗を拭った。
 六階に到着し、絨毯敷きの廊下を歩く。靴音はサッサっと箒で掃く様な音になる。
「僕、汗かきなのについタオルを持って来るのを忘れるんだよね。いつも嫁に任せてたから」
 何気ないその「嫁」という響きが私の中で居心地が悪そうにくすぶった。この人は私の前で平気で「嫁」の話をするんだろうか。それでは完全に私は「愛人」ではないか。
 それでも私は、その「嫁」に関して知りたい事もあったし、避けて通れない存在である事は明らかなので、黙っている事にした。
 課長は六階の一番奥の部屋のドアに鍵を差し込み、ドアを開けた。
「さぁ、どうぞ」
 促されるまま中に入ると、セミダブルサイズのベッドと小振りのテーブル、椅子が置かれた部屋だった。
 課長は部屋に入るとすぐ、ワイシャツのカフスボタンを外し、腕まくりをした。暑かったのだろう。
 身の置き場に困って突っ立っていると、課長は「そこ、座ってて」と言った。
「何か美味しい物を食べてから来てもいいかと思ったんだけど、今日はお弁当を買ってきたんだ。それでも良かったかな?」
 しゃがんでがさごそとビニールの中を探る課長の後姿に「はい」と返事をした。
 テーブルに出された二種類のお弁当を指さし「どっちがいい?」と訊かれ、「じゃぁこっち」とハンバーグが入っているお弁当を選んだ。
 課長は先程額を拭いていたタオルハンカチを「後で洗濯機で洗うから」と言って手元に置き、「じゃぁ食べよう」と向かい側に腰掛けた。

「おいしいです」
 そう言って課長の顔を見ると、課長は目を細めて静かに笑った。
「本当に沢城さんは、ご飯を美味しそうに食べるね。そういう所、素敵だよ」
 私はモグモグとポテトフライを噛みながら少し下を向いて、赤くなった顔を悟られないようにした。
 普通のお弁当屋さんに売っている、普通のお弁当なのに、課長と顔を合わせて食べていると少し美味しい感じがするのが不思議だった。
「課長と食べると、何でも美味しいんですよ。本当に」
 課長を見遣ると、眼鏡の位置を直しながら照れ笑いを浮かべていた。それを「素敵」だとか「カッコイイ」だとか思わず、「可愛い」と思った。

 食事を済ませると、冷蔵庫から缶ビールを取り出した。もう一本はカクテル飲料だった。
「こういうのなら、沢城さんでの呑めるかなと思って」
「あぁ、ありがとうございます」
 課長からカシスオレンジを受け取る瞬間に見た課長の指は、白くて長く、細いと思った。節くれだっている以外は、女性の手の様に綺麗だった。そう言えば、課長の肌はとても色が白い。だからこそ唇の真紅が引き立ち、それをセクシーだと思ったのだ。あの唇を早く自分の物にしたい、そう感じた。

 プルタブを引くと、真空が破られるような音がする。「乾杯」と缶を合わせた。
「沢城さんは、本当に不思議な人だな、一緒にいると安らげる」
 ビールを片手に長い脚を組み、そんな事を言う彼の横顔を見ていた。繊細な鼻梁を見つめる。
「奥様は、どんな雰囲気の方なんですか?」
 課長は少し眉根を寄せ、「嫁かぁ」と呟いた。少し俯いて、そして顔を上げた。
「沢城さんとは真逆だね。彼女を見ていて安らげるという事はない。雰囲気が、強いんだ」
 雰囲気が強い、というあまり耳にしない言葉に、想像するのが難しかった。百聞は一見にしかず、なのかもしれない。イマジネーションだけを膨らませるのはやめた方が良い。
「こちらへはいらっしゃらないんですか?」
 本当はこんな話、したい訳ではない。でも心のどこかで、知りたい自分がいる。
「お盆に一度遊びに来るとは言っていたし、僕は正月に一度帰る事になりそうだよ」
「そうなんですか」ぼそっと言い、カシスオレンジを一口呑んだ。
 こういう話をしてしまうと「不倫をしている」という実感が酷く増す。どうしても奥さんの影がちらつく。奥さんだけではない。子供だっているんだ。そんな男性と――。
「休みの日は沢城さん、何をしてるの?」
「私は――本を読んだりしてます。あと、音楽を聴いたり」
 ギターをいじっているとは言わないでおいた。イメージは大切。
「課長は何をなさってるんですか?」
 会話と会話との間に、冷蔵庫のジーという低音が聞こえてくる。穏やかな、会話。
「僕も本を読んだりしてるかな。向こうにいた時は野球をやってたね」
「野球ですか?ポジションは?」
「ピッチャーだよ、意外かい?」
 言われてみれば、痩せてはいるけれど袖をまくった腕にはしなやかな筋肉がついていて、体躯だって(まだ見てないけれど)たるんでいる様子はない。それでも控えめなイメージの課長が、一番目立つであろうマウンドのど真ん中でピッチャーをやっている姿は想像できなかった。
「意外です。素敵です。見てみたいです」
「アハハ、意外か。僕は見て欲しくないなぁ」
 私から目線を外し窓の外を見遣り、ごくりと喉を鳴らしてビールを旨そうに呑んだ。

 呑み終えた缶を水道ですすいでいると、それまで外の景色を見ていた課長が口を開いた。
「良かったら先にシャワーを浴びてきて」
「あ、あの私、髪を乾かしたりとかで時間が掛かっちゃうから、課長が先に浴びてください。汗もかいてらっしゃるみたいですし」
 そう言うと「本当に沢城さんは気遣いが出来る人だ」と言って自分の鞄から着替えを出し、浴室へ向かった。


10 艶めかしい唇

 シャワーを終え、この日の為に買ったワンピース型の部屋着(勿論色はパステルカラーだ)に着替え、部屋に戻った。
「すっぴんは恥ずかしいんですけど」
 そう言いながら鞄に化粧ポーチを仕舞った。何かと何かがぶつかり合うカチという安っぽい音がポーチから聞こえる。
 課長はベッドのへりに腰を掛けて夕刊を読んでいたが、それを綺麗に折り畳んでサイドテーブルに置いた。
「ここにおいで」
 彼の隣の布団を優しく二度叩いた。布団はふわふわと上下した。
 私は促されるまま課長の隣に座ると、彼は私の腰に手を回した。手はとても温かく、腰からその熱が体に伝わるのが心地よかった。いつか頬に触れた冷たい指先は、作り物であったのではないかと錯覚するほど、温かい。
「僕はね、君とセックスがしたいから恋人になった訳じゃないんだ。それは分かってくれるかな?」
「はい」
 あまりにストレートな表現だったので少し戸惑ってしまった。緊張を紛らわす為に、スリッパに覆われた足先を上下させた。
「僕が本気で君に惚れていて、僕は本気で君の恋人になりたい。それを分かってほしいんだ」
 妻子ある人間が、いくら本気と言ったところで、いずれは妻子の元へと戻っていくのだ。本気である筈がないのだ。それは分かっている。残酷な現実だ。
 それでも「本気で君の恋人になりたい」という言葉が酷く優しく、嬉しく、視界が曇った。
「私はこうやって、課長と二人の時間が過ごせれば、何もいりません」
 そう告げると、課長は掛けていた銀縁の眼鏡をサイドテーブルに置き、私の顎を引き寄せ短くキスをした。間をおかずもう一度。
 三度目にはお互いを貪るような、呼吸する暇も与えられないような長いキスをし、穏やかなセックスをした。
 眼鏡を外した課長の顔はやはり色が白く、赤い唇だけが浮き上がっていて艶めかしかった。鍛えられた彼の体躯を見て「野球かぁ」納得した。
 汗だくになって動く課長の顎から、私の胸に汗がしたたり落ちる。私の汗と一緒になって拡散する様を想像すると、何故だか酷く興奮するのだった。自分の中の変態性を見た。
 セックスの最中に課長を「課長」と呼ぶのは何かおかしいと、俯瞰している自分が笑った。喘ぎながら「課長!」なんて叫ぶのは何だかアダルトビデオみたいだ。とは言え「直樹さん」では過去の男を呼んでいる様で、気が向かない。
 課長は「沢城さん、好きだ」と何度も耳元で囁いてくれた。言い返せない自分が歯痒かった。次は「みどり」と呼んで貰おう。

 ベッドの背に寄り掛かりながら話をした。
「もう僕は、三年ぐらいセックスレスなんだ」
 何と返答したらいいのか迷った。迷った挙句、珍妙な質問をしてしまった。
「どちらからセックスレスになったんですか?」
 なんだそれは、と自分に自分で突っ込みを入れたい。
「そうだなぁ、二人目が出来てから、僕が一度誘ったけど拒否されて、それからしてないから、嫁からって答えでいいのかな?」
 ほら、答えに困っているではないか。バカミドリ!
「女性は出産すると、ホルモンバランスが変わって色々と大変らしい」
「久々のセックスは、どうでした?」
 スポーツかっ!本当にどうかしてる。課長と繋がった事で何か脳に悪影響が。
「うん、沢城さんはやっぱり穏やかで良かったよ。雰囲気も良かったし気持ちも良かった」
 課長は頭の後ろをぽりぽりと掻いた。照れている時こうする傾向がある。横並びでいるとお互いの顔色がうかがい知れないが、もしかしたら今、彼は赤面しているかも知れない。
 少なくとも私が頬を赤らめている、というのは事実だ。
 布団の上に出されている課長のしなやかな白い腕の先にある手のひらに、私の手のひらを重ねた。熱が、伝わる。
「課長の事、もっと好きになりました。どうしよう」
 課長を見遣ると、やはり赤くなっていた。あぁ、可愛い。
「僕も負けてないからね。こう見えて負けず嫌いなんだ」
 そう言って顔を見合わせて笑った。


11 常識人の神谷君

 出勤してきた神谷君が「おはよう」も言わず、私の頭をポンと叩いた。
「何?」
 極めてにこやかに殺気を送ると、神谷君は眠たげな目をへの字に曲げた間抜けな面で言った。
「壁に耳あり障子に目あり、って言ったよね、俺」
 何の事かはすぐに理解した。また勘付かれたか?見られたか?いつ?
 既に出勤している人が幾人もいる中でこの話を追及される訳にはいかないので、私の元から去ろうとする神谷君の鞄をグイと掴み「コーヒー飲みにおいで」と小声で睨みつけた。

 週末、いつも通りに神谷君はやって来た。
「ぴんぽんぴんぽーん」
 玄関に飛んで行く。
「ねぇ、もうそろそろそのネタやめて」
「分かりやすくで良いじゃん」
 靴を脱ぎながら人を小馬鹿にした様な目を向ける。スリッパを出してあげると「ありがと」と言って半分脱げたようにつっかけ、パタパタと大げさな音をさせながらリビングに入ってきた。
 まるで自宅に帰って来たかのようにソファにでんと座り、スリッパを脱ぎ、足をソファに乗せる。
「アイスコーヒー、砂糖多めミルク多めでお願いしまーす」
 ドリップして作り置きしてあるアイスコーヒーに、ガムシロップを二つと牛乳を入れ、コースターと一緒にテーブルに置く。氷がカランと甲高い音を立てた。
「はい、ご所望の品。で、何?障子からメアリーが覗いてたんだって?」
 うへへ、と薄気味悪い笑い方をし、「覗いていたんですぅ」と答えた。
「金曜日、俺さぁ、銀行に家賃を振り込みに行ったんだわ。目の前にDMGホテルってのがあるんだけどね、知ってる?」
 死んだ魚の様な目をして、嘲笑っている。あぁ、やっぱり――。どうしてこの人は、私の行動を先読みするように、そこに居合わせるんだろう。本当にストーカーなんだろうか。
「不倫はどうかと思うよ、俺は。常識人だからね」
「非常識人で悪かったなぁ」
 私は自分のアイスコーヒーとコースターを手にしてソファに座った。
 神谷君はコースターがあるのにも関わらず、コースターのない所にグラスを置いたので、すかさずコースターの上に置き直した。「常識人がこういうことしないのっ」と言ってやった。
 彼はソファの角に背中を凭せかけ、こちらを見ている。何だか居心地が悪い。三人掛けのソファを買って良かったと思った。少しでも距離があった方がいい。
「不倫だよ?所詮遊びだよ?いいの?そんなんで」
「不倫でも本気だよ、私は」
 仕方がないなぁとでも言いたげに、神谷君は眉根を寄せ、大きくため息を吐いた。
「『不倫で本気』っていう言葉がもう、破綻してんだよ。分かる?」
「何さ」
「不倫相手は戻る場所があるでしょが。沢城さんが幾ら本気でも、相手は本気になれないの。それとも何、奥さんと離婚するから結婚を前提に付き合ってくれとでも言われた?」
 そんな事は言われていない訳で、横浜にいる間だけでも恋人でいたいと言われた訳で。どうやって神谷久志を黙らせるか、頭を巡らせた。頭を冷やすために、アイスコーヒーを一口飲んだ。飲んだけれど、口から出る言葉は言い飽きた文言だった。
「言われてないよ。言われてないけど、こっちにいる間だけでも本気で付き合いたいって言われたの」
 暫くじろじろ見つめられた。神谷君の強い視線からなかなか逃れられない。
「沢城さん、それでいいの?終わりがある恋だよ?それでいいの?」
「いいの」
 即答すると、神谷君は唖然とした顔をした。その顔のまま、アイスコーヒーに口を運んだ。
「それでも、短い間でも、ちゃんと好きでいてくれるなら、それでいいの。私は課長の恋人でいたいの」
 唖然としていた顔を少し顰める様にして下を向き、首をかしげている。
「わっかんないなー。俺には分からん」
 そう言って手にしていたコーヒーをコースターの横に置いた。すかさず直した。
「別れる時を想像してごらんよ、辛いよ、きっと。相手は当然の如く奥さんの元に戻るけど、沢城さんは戻る所がないんだよ」
「何なの、何が言いたい訳?」
 私はいい加減イライラしてきた。いちいち的を射た「常識人」的な弁舌を並べ立ててくる神谷久志の意図が読めず、嫌気がさした。
「全て承知の上でこんな危ない橋渡ってんの。神谷君に何だかんだ言われる筋合いはない」
 少し言い過ぎたかなと思いつつ、言い放ってコーヒーを口にした。
 分が悪いせいで、彼の顔を直視できないのが悔しい。
「それに、今のうちから別れる時の事なんて想像しないよ。神谷君の言う通りかもしれないけど、恋愛を始める前から終わりの事なんて考えたら、恋なんて出来ない」
 私は神谷君とは正反対を向いて話をした。
「神谷式一般論だとね、『この人と別れる事なんて想像つかない』って人と付き合うのが普通だと思う。『別れる事が分かってる』なんて論外」
 いつまで経ってもこの会話は平行線を辿るだろうという事は容易に想像できた。
「もう一杯、用意しようか?」
「いや、もういいや。ありがとう」
 そう言って最後の一口をグイっと飲み干した。融けきらなかった氷がまたカランと音を立てた。
「それだけ課長に惚れてるっていう事だね。よく分かった」
 ぴんぽーんと元気よく部屋に入ってくる神谷久志はなりを潜め、今までに見た事が無いような陰のある顔で俯いたので、私は少し動揺した。いつものやる気のないあの目が、焦点を得ている。
 彼は何かを決意したかの様にすくっと立ち上がり「ごちそうさん」と言い、大きく伸びをした。
「俺はこれからもコーヒーを飲みに来てもいいのかね?」
「あ、うん。それは別にいいよ」
 それでも「姉がいる」と言った家に男を連れ込んでいる事は、課長には知られたくない。
「課長の前では言わないでね、コーヒー飲みに来てる事」
「沢城さんって、秘密ばっかり抱えて生きてるんだな」
 大変だね、そう言われ、返す言葉も無かった。
「ねぇ、今度来た時さぁ、ギター弾かせてよ」
「うん、いいよ」
 おし、帰ろ、とショルダーバッグを手に玄関へ向かった。
 私は見送りに後をついて行った。
「あの、何か、心配っつーか、何だろ、ごめんね。面倒な所見せちゃって」
「沢城さんがわざと見せつけた訳じゃないんだから仕方ないじゃん。ま、とにかく神谷君は常識人なので不倫には反対。以上。ではねー」
 そう言って玄関を出て行った。いつも通りエレベータに乗り込むまで見送ったが、いつもなら一言二言あるのに、この日は無言で背を向けたまま、エレベータホールから消えた。


12 神谷君ご乱心

 朝、二番目に出社して来た涼子が、挨拶もそこそこに「ちょっと新情報」と言って私の肩を叩いた。
「神谷君、結局特許部の子安さんと付き合う事になったらしいよ」
「え?」
 私は目を見開いた。
 食堂でカレーを食べながら、私の家でコーヒーを飲みながら、「人は顔じゃないから」と二度同じ事を言っていた神谷君が――。涼子は情報屋の威力を発揮した。
「どうやら子安さんが諦め切れなかったみたいで、ごり押ししたらしいよ」
「それどこ情報?」
「特許部に同期が居たじゃん、ダメガネの小太り」
 あぁ、とすぐに顔が浮かんだ。彼ね。
 涼子の人脈は広い。私は素の自分を出さない様に、最低限の人間関係に留めているので、自分の同期ですら顔が浮かばない事が間々あるが、流石に特許部の彼の顔はすぐに浮かんだ。名前は――知らない。
 おはようございます、と次々に居室へと人が入って来る中で、いつも通り眠そうな目をした神谷君も「おはよーございまーす」と挨拶し、「ぺた」と声に出して出席のマグネットを貼り、いつも通り席に着いた。ダルさの化身だ。私は涼子の顔を見たが、涼子は「昼休み」とだけ言って、自分のデスクに向かった。

 昼休み、食堂に行くと、早々と席を取っている神谷君を発見した。今日はラーメンとライスらしい。私は日本蕎麦を頼んだ。
 神谷君の席の対面に「失礼」と言って座った。神谷君は無言のまま少し顔を上げた。
「ねぇ、特許部の子安さんと付き合う事になったんだって?」
 蕎麦を少し箸ですくい、麺つゆに半分ほど漬ける。麺つゆを吸い上げた蕎麦は一本一本がキュっとくっ付いた。
「ん、あふっ。付き合う事になったみたいだね」
 まるで他人事だ。また「あふっ」と言いながらラーメンを啜った。パスタの乗ったトレイを持った涼子が私の隣に座った。
「ねぇ、子安さんと付き合ってるってホント?」
 私と同じ質問をされて、さぞうんざりだろうと思った。案の定、うんざりと言った顔でご飯を口に押し込んだ。
「あぁそうですよ、付き合う事になりましたよ」
 目線を一切こちらへ向けず、ぶっきらぼうに言うのだった。そこに「幸せ」という雰囲気は一切存在しなかった。
「へぇ、どんな心境の変化?」
 涼子はパスタを豪快に頬張りながら質問を続けた。
「そうだな、好きな人に振られたから、腹いせ」
 私と涼子は顔を見合わせて、プッと吹き出した。
「子安さんに失礼でしょう」
「つーか神谷君、好きな人に振られたの?それも災難だなぁ」
 人の不幸を蜜として吸い取るかのように、涼子は嘲笑った。
 彼は私達の方を見向きもせず、ラーメンを啜り、ライスを口に運ぶ。
「女はこういう話題が好きなのな。うんざり」
 そこへ課長が定食のトレイを持ってやってきた。
「僕も混ざって良いかなぁ?」
 私を挟む形で涼子と課長が座った。私は自分の頬が少し上気するのを感じた。それを神谷君は見ていた。少し軽蔑が混ざった眼差しで私をじろりと見たので、私は何とも表現し切れない、複雑な心境になった。
「ごちそうさま、お喋り共」
 そう言って乱暴にトレイを持ち、返却口へと歩いて行った。
「何なの、何が気に入らないの、アイツは」
「さぁ」
 涼子は怒り心頭という感じではあったが、私はただの照れから来るものなのかなと、単純に考えていた。
「何の話だったの?」
 急に爽やかな風が舞い込んで来たような課長の声に、場の雰囲気は一掃された。
「神谷君に彼女が出来たとかで」
「へぇ、そうなんだ。彼、いい男だもんね。女の子も放って置かないよね」
 唐揚げにタルタルソースをつけて一口噛んだ。横並びに座っているとよく見えないが、きっと深紅の唇に、少しついたタルタルソースをぺろりと舐める仕草は、私を興奮させるだろうと思った。あぁ、変態。

 食後にいつものベンチに座ると、少し離れた場所にあるベンチに、神谷君と子安さんが並んで座っていた。
 子安さんは隣に座る神谷君の顔を覗き込む様にして、しきりに話し掛けている様子で、その茶色く長い髪が左右に揺れていた。
 一方で神谷君は、彼女に視線を遣る事も無く、言葉少なにそこに座っている様に見えた。
「神谷君、仕方無く子安さんと付き合ってるって感じしない?」
 涼子は彼らのやり取りを遠くから眺め、私に言葉を求めた。
「うーん、少なくとも幸せなオーラは感じないね。何しろ、好きな人に振られた腹いせ、とか言ってたよね、彼」
「酷いね」
 私達の視線に気づいたのか、こちらを一瞬見遣り、彼女に何か言って立ち上がり、その場を去って行った。残された子安さんは目で彼を追っていた。少し気の毒だった。
「私達のせいかなぁ?」
「神谷君は結構女の子に対して無礼なんだな。私ならグーで殴る」
 涼子ならやりかねない。そう思った。


13 嫁、襲来

 この会社にお盆休みという概念は無い。各々が好きな時に有給休暇を使って連休をとる。居室の在籍ボードを見ると、丁度お盆の一週間、課長だけが「有休」のマグネットを付けていた。そういえば、奥さんがこちらに来るとか言っていたような。
 水曜日の晩、サンライズで飲まないかと課長に誘われ、呑みに行く事にした。無意識ストーカー神谷君の目にとまらなければいいなと思った。

 駅からサンライズに向かう途中、意外な人物に遭遇した。神谷君と子安さんだ。
 子安さんは神谷君の腕に絡み付き、頭一つ分背の高い彼に上目遣いで何やら話し掛けていたが、神谷君は先日の昼休みと同様に、苦虫をかみつぶしたような顔で相づちを打っているという印象だった。
 神谷君は本当に子安さんを好いているのだろうか。本当に、好きな人に振られた腹いせというだけで付き合っているんだろうか。
 だとしたら、誠意がなさ過ぎる。そんな神谷君を軽蔑する気持ちがあった。しかし人に打ち明けられないような恋愛をしている私が、何を言っても説得力が無いのは、火を見るより明らかだった。

 サンライズに到着すると、まだ課長は来店していなかった。携帯メールで「あと3分ってところかな」とメールが着た。
 同時に、窓越しに彼の姿が確認でき、カウンターから手を振った。彼も気づいて手を振り返した。
 私はカルーアミルク、課長には黒ビールを先んじて注文した。ドリンクがサーブされると同時に課長が到着した。
 スーツの上着を手に持ち、シャツの腕をまくり上げていた。
 今まで気づかなかったが、肘に、長く伸びる縫合痕があった。肌の色が白いので、あまり目立たないが、長く、途中でクロスしている。野球をしていたと言っていた。きっと故障して治療でもしたのだろう。そう思った。
「あぁ、飲み物頼んでくれていたんだね。ありがとう」
 ニコリとして頷く。
「もう僕は汗びっしょり。臭ったらごめん、すぐに言ってね。寮まで行って着替えて来るから」
「そんな、課長が臭いなんて事ないですよ。それも引っ括めて大好きな課長ですから」
 そう言うと、課長は視界ゼロの細い目で微笑み、私の頭を撫でた。少し距離が縮まった彼の身体からは、シェービングフォームのような香りがした。
 課長は椅子に腰掛け、グラスを合せた。カルーアの、痺れる様な甘さが喉を通過する。あぁ、生ビールが呑みたい。課長の黒生を見てそう思った。夏はやっぱりビールに限る。少なくとも炭酸が入っているお酒。次はカシスソーダにするか。
「お盆は、お休みされるんですね」
 私はカルーアのグラスに入った氷が溶けて、動く様を見つめた。
「うん、言っていた通り、嫁がこっちに来るんだ」
「お子さんは?」
「子供は来ないよ」
 私から視線を逸らした。何だか少し悲しげな顔になったように感じた。
 実家にでも預けるんだろうか。まぁ子供を連れて横浜に来ても、連日「どこかに連れてってー」で課長も休息ができないのだろう。
「お二人でゆっくりなさって下さい」
 思ってもいない事が実にすんなりと言える物だ、どの口がそんな事を言うのか。でも嘘が言えない人間なんてごく少数だ。
「ありがとう。沢城さんは本当に優しくて、暖かいね」
「夏だし、もう少し冷たい方が良いですか?」
 そう言うと、眼鏡の奥の目が細くなり、口角があがった。「沢城さんは、そのままでいい」

 初めて身体を繋いだあの日を含めて三回、セックスをした。
 こんなに身体も心も自分の近くにいる課長が、他の女の夫である事実を、受け入れなければいけないと思いつつ、頭ではそれを強く拒否した。

「そういえばさっき駅前で、神谷君と彼女を見かけたよ」
 ジョッキに入った黒生を煽った後、課長は口を開いた。
「腕を組んで歩いてた。僕は沢城さんとそういう事は出来ないから、ちょっと羨ましいね」
 私の顔を見て微笑むので、私は頬を赤らめた。「そうですね」
「でも神谷君、全然幸せそうじゃないんです。好きな人に振られたから腹いせに付き合ってるとか言ってたし。誠実さの欠片も無いと言うか」
 課長は黙ってジョッキから垂れる結露のしずくを見ていた。私はそのジョッキを持つ左手の甲の白さに見入っていた。日焼けしないのだろうか。
「見せつけようとしてるのかな」
「へ?」
「振られた相手に、見せつけたいんだよ。雄なんてそんな物だよ。プライドが高い生き物だからね」
 課長の「雄」という表現が何だか可笑しくて、声を出して笑ってしまった。
「雄、ですか。良い表現です。私なら誰かに振られたら、きっと落ち込んで、三日ぐらい有休取って、家で寝込みます」
「女の子と雄の違いはそこにあるんじゃないかな。男が不貞寝なんてしてたら、格好悪いでしょ?」
「確かにそうですね」
 カルーアのグラスを少し振ってみると、氷の音がしなくなった。
 私はそれを呑み干し、「課長は何かお呑みになりますか?」と振った。


 翌週から課長は夏休みに入った。
 私たちは通常業務で、私自身、いつ夏休みを取るか、決めかねていた。
 涼子は「どうせ家にいてもヒモと顔合わせてるだけだし、休み取るのやめようかな」と言っていた。
 私もこれといって行きたいところもないし、一緒にどこかに行く仲間がいる訳でもないし、そう思うと有休など取らずに働いていれば良いか、と思う。
 まぁ二、三日、休みを取ってちょっと家でゆっくりしようかな。


 涼子に誘われて、駅ビルに新しく出来た沖縄料理のお店に行く事になった。
 定時に仕事を終えて外に出ると、田舎のおばあちゃんの家で蝉採りをしていた時の様な、少し優しい風が吹いていた。太陽に照らされている桜の葉が、その暑さゆえに何か、緑の香りがする物質を放っているのか、そんな匂いがする。
 まだ八月。気温は高く、冷房対策の為に肩から掛けていた薄い水色のカーディガンをすぐに鞄に仕舞った。
 「お待たせー」お化粧直しを済ませた涼子が走って外へ出てきた。
 二人きりでご飯を食べに行くなんて凄く久しぶりの事だ。
 以前はよく二人でサンライズに呑みに行ったものだが、ここ最近は課長との約束を優先するために、誘われる前に素早く帰宅の準備をする。
 「久々だねー、ご飯なんて」
 「そうだねぇ。最後は五月?神谷君と三人でサンライズ行ったもんね」
 「だねー。神谷君は彼女が出来たようだし、最近みどりは帰りが早いし、私はさみしいよ、うん」
 よしよし、と私よりも背が高い彼女の頭に手を伸ばし、撫でた。
「そう言えば、この前駅前で神谷カップルを見かけたけど、相変わらず神谷君は冷たい態度を取ってたよ」
「神谷君、ドSなのかなぁ」
 アハハと二人で顔を合わせて笑ってしまった。あれはプレイの一環なのか。

 駅ビルに入ると、過剰に冷房が効いていて、肌にまとわりついていた湿気が一気に冷えていくのが感じられた。鞄から、さっきしまったばかりのカーディガンを取り出して、肩に掛けた。
「あ」
 涼子が声を上げたので、彼女の視線の先を見た。

 課長だった。背が高く整った顔立ちでとても目立つ。その横に立つのは涼子ぐらいの背丈がありそうな、スラリとした気の強そうな美しい女性だった。
 写真で見るよりずっと綺麗、そう思った。
 二人は腕を組んで、何やら楽しそうに話をしていた。夫婦と言うより、恋人同士だ。
 私は涼子の腕を掴んでエスカレータの陰に隠れた。
「何、どうした?」
「いや、奥さんと腕組んでる所を部下に見られるのも気まずいだろうと思ってね」
 彼らが通り過ぎるのを待った。あの写真で見たより髪が長く、存在感がある、女の私から見ても「素敵だ」と思える人だった。
 私の気持ちを占めているのは完全に「嫉妬」だった。背伸びをしても届かない、悲しい女の嫉妬。
 課長が言っていた「腕を組んで歩いてた。僕は沢城さんとそういう事は出来ないから、ちょっと羨ましいね」という言葉が頭に浮かんだ。
 そうだよね、奥さんとなら出来るよね。人に見られたら困る関係じゃないもんね。私は二番目。分かってる。分かってるんだそんな事は。分かっていて付き合っているんだ。
 頭では分かってるんだって――いつの間に、涙で視界が曇っていた。すぐに鞄からタオルハンカチを取り出して、汗を拭くふりをして涙を拭った。

 涼子が見つけてくれた沖縄料理屋さんは、紅イモのコロッケがとても美味しくて、他にも美味しいチャンプルーがあったし、もずくだって美味しかった。なのに頭はからっぽで、せっかくの美味しい料理を「美味しいねぇー」と愛でながら食べる事が出来なかった。
 涼子は「どうした?何かあった?」と心配してくれたが、さすがに課長の話は出来なかった。
「何でもないよ」
 そう言ってサンピン茶を飲んだ。


14 神谷の一大決心

 課長は一週間の休みが明けて、私の後ろの席に戻ってきた。
 彼はいつも通り、私のグレア液晶の端に映り込み、反対側には家族写真が映り込んだ。いつも通りだ。
 なのに私は、いつも通りでいられなかった。
 あの日見た、課長と腕を組む女性。背伸びをしても届かない、私よりも数倍魅力的な女性。嫉妬をしても届かない。課長を掴んで離さないその腕。

 総務部へ書類を届けに行った帰り道、課長に会った。
「何だか久しぶりな気分だね」
 課長はいつも通り、銀縁の眼鏡の奥にある目を細め、口角を上げた。
「そうですね」
 だけど私はうまく笑えなかった。普通でいるための演技ならいくらでもできる筈なのに、この時ばかりは顔が、表情筋が、言う事をきかなかった。まるで見てはいけない物を見てしまった時の様に顔がこわばってしまった。
 私は一礼して居室へ戻った。


 居室にある在席表に「外出」のマグネットを二日分貼り付け、「じゃぁ研修行ってきます」という涼子の後でぺこりと頭を下げて居室を出た。神谷君は慌てて支度をしていた。
 ビジネスマナー研修という、泊りがけの研修がある。
 都内にある社の研修施設には宿泊施設が併設していて、そこで二日間、ビジネスマナーの基礎を学ぶ。
 関東近県の同期社員が一同に会すので、ちょっとした同期会のようで、同期の人間は浮き足立っていた。
 まぁ、自分を隠して生きている私としては、面倒でしかない。

 一日目は上司と部下の役をそれぞれ決めて身近なコミュニケーションの取り方を学んだり、他社からの電話対応などについて学ばされた。しかもそれをビデオ撮影して皆で指摘し合うとかもう――恥だ、恥。
 正直な所、入社三年目でこのような研修をしたところで何の得があるのか、さっぱり分からない。まぁ、それなりに過ごした。仕事をしなくていいと思えば、研修なんて楽な物だ。
 夜は立食形式で「同期会」さながらの会食だった。テーブルに並ぶ沢山のオードブルには殆ど手が伸びず、私は金魚の糞の如く涼子にくっついて周り、時々神谷君にちょっかいを出しに行った。本当に私の人脈は狭く少ない。
 この席でも神谷君は「特許部の子安さんと付き合ってるんだって?」と訊かれていた。その度に苦笑いをして返事をしていた。特許部の子安さんと付き合うだなんて、男性社員の憧れだ。神谷君は沢山の男たちの肘鉄を食らっていた。

 私は課長と奥さんに出くわしたあの日以来、あの情景が頭から離れず、何をするにも上の空という事が多くなってしまった。
 立食パーティの後にはお酒も出て二次会という話だったが、私は涼子に「部屋に戻るね」と告げて早々に宿泊棟へ戻った。
 神谷君が「二次会出ないの?」と訊いてきたが、「うん、戻る」とだけ言った。

 ビジネスホテルの様な作りの部屋に入ると、嫌がおうにも課長との会瀬を思い起こしてしまう。
 課長が横浜にいる間、私は彼の恋人だ。だけどあの一週間は、治外法権なの?課長の隣には列記とした「奥さん」が並んでいた訳で。

 枕元に置いた携帯がけたたましく鳴った。着信は神谷君からだった。
『今、部屋?』
「うん」
『ちょっと、行ってもいい?』
「うん、いいけど。四階の三号室」
 何の用事だろうかと思いつつ、着替えやら何やらで少し散らかった部屋を簡単に片づけた。

「どうぞ」
 さすがにここでは「ぴんぽーん」はやらなかった。ドアをノックして神谷君は部屋に入ってきた。
「コーヒー無いけど」と言うと「買ってきた」と紙パックのコーヒーを二つ、袋から出した。
「俺好みの甘いやつだけど、いい?」
「うん、ありがと」
 受け取ったパック入りのコーヒーは、結露で濡れていた。
 小さな一人掛けのソファに神谷君が座ったので、私は向い合せる様にベッドのへりに座った。意外とスプリングの効いたベッドで、身体が不安定になる事に驚いた。お尻を少しずりずりと動かして、安定出来る場所を探した。
「いただきますね、コーヒー」
 そう言ってストローを取り出し、銀色の丸い部分にストローの突起を押し当てると、プツッという音とともにストローは紙パックに飲み込まれていった。
「で、どうした?」
 私は普段の沢城みどりに戻って言った。
「課長とはどうよ?」
 私の頭の中の九割を占めていた課長の事を訊かれて、少し笑ってしまった。それを怪訝そうな顔で神谷君は見ていた。
「どうもこうも、この前奥さんと一緒にいる所を見ちゃってさ」
「それで?」
「隠れた」
「何それ」
 神谷君はソファに凭れ、脚を組んだ。とっても高圧的な態度だ。
「そんで、別れを決心したの?」
 コーヒーを一口吸うとズズズと音がしたので、神谷君は首を傾げながらストローの位置を直した。
「そう言う訳じゃないよ。ただ、ちょっとショックだったってだけ」
「そう言う訳じゃない、のか」
 少し俯いて、何かを考えている様だった。私には彼の頭の中がさっぱり分からず、ずーっとコーヒーのストローをくわえていた。
「俺、好きな子に振られたっつったよね」
「あぁ、そう言ってたね」
 彼は俯いたまま、顔をあげようとしない。顔を覗き込んだが、この部屋は間接照明で暗いので、彼の表情は窺い知れない。
「その子の家によくコーヒー飲みに行くんだけど、その子に好きな人がいるっていうのが分かって、諦めたんだけどさ」
「神谷君、行きつけのコーヒー屋さん何軒あんの」
 私は意地悪そうな声で笑ったが、彼は一切笑わなかった。
「沢城さんって、鈍いんだね」
「はぁ?喧嘩売ってんの?」
 私は片眉をぐいっと上げて悪い顔つきをした。その瞬間彼はすっと顔をあげた。
「鈍いんだよ。俺の行きつけのコーヒー屋さんは沢城さんちだよ。沢城さんは課長に惚れてるって言ったろ。だから俺は振られたって言ったんだよ」
 神谷君が捲し立てる様に一気に喋ったので、私の思考回路は破滅寸前だった。
「だって――子安さん、付き合ってるでしょ?」
「誰でもよかったんだよ。本当に腹いせで付き合ってんだよ」
 暫く何も言えなかった。子安さんを邪険に扱っていたのは、そういう理由だったのか。ただの腹いせで「つきあってやってる」って事か。神谷君、案外酷い事をするんだな。
 私が神谷君を振った?そんなつもりはない。ただ、私は課長が好きだ、そう言っただけ。
 神谷君の事は、そういう風に見た事が無かったから、好きとか嫌いとか、そういう観点で見た事が無かったから――急にこんな事を言われても困る。
 黙っている私をじっと見ていた神谷君が口を開いた。
「俺は沢城さんが好きだ。猫を被ってる沢城さんも、コーヒーを入れてくれる普通の沢城さんも、楽しそうにギターいじってる沢城さんも、どれも好きだ」
 射抜くような視線でじっと私を見る。私の瞳は左右に揺れている。自分でそれを感じる。それぐらい酷く狼狽した。
「あの、言った通り、終わりの分かってる恋愛でも、課長が好きなんだ」
 うん、と彼は視線を外さずに頷き、先を促す。
「神谷君の事は勿論好きだけど、そういう好きとか嫌いとかで考ええた事が無くて――ごめん。コーヒー飲みに来てくれる、心を許せる大好きなお友達って感覚」
 その言葉が彼の事を傷つける事になっても、私は自分に正直でいなければいけないと思った。神谷君の前だけでは、絶対に正直である必要がある。そう思った。

「予約」
 先程まで私に向けていた視線を天井へ向けている。ぽつりとつぶやいた。
「予約すっから。課長がいなくなったら俺が沢城さんの隣に座る予約」
「何それ――」
「予約だよ。だって課長とは終わりがあるんだろ?それが分かってるなら、俺予約するから」
 何だよそれは、聞いた事がないよ、予約恋愛なんて。繰り上げ当選じゃあるまいし。
「だから、神谷君の事はそういう風には見れないって言ったでしょ」
「課長がいなくなるまでに、そういう風に見てもらえるようにするから。なるから。俺、結構しつこいんだ。だからまた平気な顔してコーヒー飲みに行くから」
 よっこらせっとー、と呟いてソファから立ち上がり、ドアへと気怠そうに歩いて行った。私もベッドを降り、後ろについていった。
 彼はドアの前で振り返り、私の目をじっと見つめた。
「全部本気だから。俺、今日言った事手帳にメモしておくから。沢城さんもしておいた方が良いよ」
 そう言ってドアから出て行った。

 翌日の研修はマナーとは一切関係ないような話だったが、各々の上司からの手紙が配られた。内容は、働き方はどうか、課内でどういう風になってほしいか、等本当に仕事の話ばかりだった。
 私は誰からの手紙が来るのかドキドキしていたが、課長ではなくて少しがっかりした。禿散らかした部長からだった。普段全く関わりのない部長からの、中身のないふわふわした手紙を読み、時間の無駄だと改めて思った。
 一生懸命に手紙を読む周囲を見渡した。神谷君とは別グループで良かった、と思った。


15 神谷君別れる

「そのピアス、似合ってるね」
 涼子は課長に買ってもらったピアスを指さして言った。
「そう?ありがとう」
 ピアスを揺らしてみせた。
「もう九月になっちゃったけど、夏っぽくて爽やかでいいじゃん」
 もう九月か――。まだ蝉が鳴いている。まだ暑い。それでも世界は回っていく。時間は刻々と過ぎていく。終わりが――課長との終わりが刻々と近づくのは分かっている。
 アナログな時限爆弾みたいに、端っこにある火種がロープを伝って反対にある爆弾に近づいていく。アナログだから、止められない。ロープを伸ばす事も出来ない。出来るとしたら、その火に酸素を送り込み大きく燃やすか、もしくは水を掛けて消火するか――。後者は考えいない。課長が好きだ。だったら私は大きく燃えて、時限爆弾にたどり着くまでだ。

 九月に入り、あの研修が終わり、それから神谷君はいつも通り、少し気怠そうに挨拶をし、私の頭をポンと叩いてみたり、目が合うと手を振ってきたり、カレーをがっついたりしている。彼が彼ではないと思う時は、子安さんの隣にいる時だけだった。私は見て見ぬフリをするが、涼子が隣で「また神谷君が――」と話すので、見ない訳にはいかない。

 自宅で雑誌を読んでいると、課長からお泊りのお誘いをいただいたが、私は生理日だった。
 別の日にしましょうとメールで返すと、課長からの返信はこうだった。
『僕はセックスがしたいから君と会うわけじゃないんだ。一緒にいたいからなんだよ』
 私は火がついたように顔を真っ赤にして、部屋の中をぐるぐる回りながら「ありがとうございます」の十文字を打つのに何分掛った事か。

 そんな中、また情報屋涼子が情報を持って来た。
「神谷君、別れたらしいよ」
 そのうち別れるだろうと予想はしていたから驚かなかった。
「そうなんだ」
「あら、意外とあっさりだね」
「うん、あの雰囲気じゃ、ね」
 私は涼子からPCに目を戻した。
「みどりは最近何もないの?」
 涼子が話し掛けるので、私はくるりと椅子を回し涼子の方を向いた。
「何もないです」
「そうなの?みどりは女らしくて可愛らしいのになぁ。世の中の男は何をやっているか」

 私と涼子が定食を食べていると、神谷君が私の向かいにクリーム色のトレイに乗ったカレーをドンと置いた。麦茶が跳ねた。
「どうせ『子安さんと別れたのー?』って訊くんだろ」
 私と涼子の顔を交互に見る神谷君の顔には呆れが見て取れる。目が据わっている。
「子安さんと別れたのー?」
 わざとらしく涼子が訊くので、思わずぷっと吹き出してしまった。
「別れたよ、訳も必要?」
 神谷君はドンと椅子に座り、スプーンを持った。カレールーとご飯を混ぜると、そこから白い湯気が立ち上り、さっと消える。
「そうだね、飯のおかずに。どうぞ」
 涼子もふざけ過ぎだなぁと思いつつ、私も話を聞いた。
「付き合いなんてさ、好きな人とじゃないと、意味ないじゃん。俺、子安さんの事好きでも何でもないし、触りたいとも思わないし」
 超ド級のストレート発言だ。そばに子安さんがいない事を祈るばかりだ。
 彼の言う「好きな人」が今の所自分を指している事は明白で、彼の視線がそれを説明していて、私は赤面した。涼子と対面に座らなくて良かったと思った。
 が、この赤面を神谷君が間違えた捉え方をするんじゃないかと思い、私は顔色を見せないように少し俯いた。
「食堂のカレーはうまいんだよなー」
 そう言いながらカレーをかきこんでいる。まるで子供の様だ。


 昼休みのベンチに、子安さんの影は無かった。
 私は涼子と二人、ベンチに腰掛け、売店で買ったグミを食べながら、中庭でバドミントンをする人らを見るともなしに見ていた。
「暑いのに凄いね」
「暑いのにバカみたい」
 同じ物事を見ても、感想が違う。まぁ、本来の私なら、涼子と同じ「バカみたい」と言ってしまうかもしれない。
「でもここんとこ、大分風が出てきたよね。少し過ごしやすくなってきたというか」
「確かにね。うち、エアコンないけど、寝苦しくなくなってきたな」
 涼子の携帯がピロピロと着信を告げ、涼子は「ヒモだ」と言って電話を持ってベンチを離れた。
 暫く彼女の後姿を見ていたが、突然「勝手にしろ、バーカ」と涼子が叫んだ。
 バドミントンをやっている人が手を止めて、彼女を見ていた。
 涼子は怒りのオーラを纏ってこちらに戻ってきた。
「何、どうしたの?」
「仕事辞めるって言いだした」
 吐き捨てる様に言い、ベンチにドスンと腰掛けた。
「え、まだ働き出して数ヶ月だよね――」
「三か月。店長とそりが合わないってずっと言ってたけど、もう限界だとか言って」
「だからって今、電話してきたの?」
 彼女は項垂れて頭を抱えるようにして言った。
「仕事辞めたら家、出てってもらうって約束してたから。家出て行くって」
 泣いているように見える。肩が震えているように見える。彼女はその格好で震えたまま姿勢を変えない。
「そうかぁ」
 言葉が出ず、私は彼女の背中に手を置き、さすった。やはり泣いている。
 彼と付き合ってもう長いらしい事は知っている。彼は仕事に就いては辞め、就いては辞めを繰り返していたが、やっと自分の好きな音楽と関われる仕事――楽器屋で働ける事になったのに。
 彼女はやっと顔をあげた。目元を手で拭ったので、タオルを貸した。
「ありがとう」と言ってそれを受け取り、もう一度、目元を拭った。
「仕方ないよ、私がそういう約束を決めたから。そうじゃないと、彼自身の為にならないと思ったから」
「うん、でも、ヒモ君の事好きなんでしょ?」
 少し間があった。暫くバドミントンのラケットにシャトルが当たる音が響いた。
「もう、いて当たり前の存在だから、好きとかそういうのは分かんないけどさ。家に帰っても彼が帰ってこなかったら、辛い、かな」
 またタオルで目頭を押えた。業務開始五分前のチャイムが鳴ったので二人立ち上がった。
「少し様子を見てみたらどうかな。彼だって行くところないでしょ」
「友達の所を転々とするんじゃないかな。もしかしたらまた誰かのヒモにでもなるつもりかも」
 涼子とヒモ君の関係は絶対だと思っていた。こんな風にして簡単に崩れてしまうんだ。そう思った。


16 涼子とヒモ君

 金曜日、涼子と終業が同じ時間だったので、駅まで一緒に帰る事になった。今日は課長は終日出張で、お泊りのお招きも無かったから。
 私は鞄に携帯を入れ、涼子はお尻のポケットに携帯を入れた。
「お先です」
「お先に失礼します」
 在席表のマグネットを「帰宅」にし、居室を後にした。
「あれからヒモ君からの連絡はあったの?」
「ううん。全然。何処で何やってんだか。まぁもう別れたも同然だから、考える必要もないのかなって」
 そう言葉では強がっていたが、横顔は曇っていた。彼女らしくなかった。
「それでいいの?」
 彼女の顔を覗き込みながら訊いた。
 彼女は私から視線をそらすようにして顔をそむけた。
「良いも何も、どうする事も出来ないでしょ、この状況」

 会社のエントランスを抜けると、目の前に川がある。その柵に寄り掛かる一人の男性がいた。横にはフェンダーのベースケースが置いてある。
「大輔――」
「へ?何、ヒモ君?」
 彼には聞こえない様に「ヒモ」という言葉を吐いた。
 彼はベースを背負ってこちらへ歩いてきた。予想していた「ヒモ君」より全然しっかりしていそうに見えた。
 涼子の前に立つと、口を開いた。
「行く場所が、ねぇんだ」
「だから何」
 涼子は酷く冷たい声で言った。彼は涼子の顔をじっと見た。
「帰る場所はお前の所しかねぇんだ」
 涼子は黙っている。何か言いたいのに口に出来ないでいる様子で口元を震わせている。
「店長とは、ちゃんと話して、もう一度雇ってもらうから。ちゃんと働くから。だからお前の横にいさせてくれ。帰りたいんだ」
 涼子はこちらへ向くと、私に「ごめん、先帰って」と言った。その目には何か揺れる物が煌めいていて、もうすぐ零れるんだろうなと予想が出来た。
「じゃぁ、お先に」
 そう言って私は歩き出した。

 彼は「帰る場所」と言った。帰る場所がある恋愛。とても幸せな事だ。
 そこに帰れば好きな人の笑顔が待っている。誰かが自分を待っている。それは恋愛ではなくても、結婚にしたって同じことが言える訳だ。
 私は――帰っても誰もいない。恋をしている相手には、「家庭」という名の帰る場所がある。課長がいくら「ここにいる間は」と言っても、時が去れば必ず、彼はそこに帰る事になるのだ。
 不毛な恋愛、分かっていながらそんな風に思った。


『明日、コーヒー飲みに行ってもいいかー?』
 十月に入った金曜の夜だった。いつもの調子で神谷君から電話が掛かってきた。
「いいよ、いつでも」
 彼は研修の時に私に告白をしてストレートに振られておきながら、全く動じることなくこうしてコーヒーを飲みに来る事が出来るのだ。とても強い。

「どん、どん」
 新しいやり方だなぁと思いつつカギを開ける。
「ぴんぽーんとやってる事変わらないから。ご近所に迷惑だから」
「あらそう?」
 どうせすぐ脱いでしまうスリッパをつっかけてスタスタとリビングへ行き、いつも通りソファに腰掛ける。
「俺ねぇ、ホットとアイス、両方飲みたいなー。先にアイス」
「はぁ?アイスしか用意してないのに。もう」
 とりあえずアイスコーヒーをミルク多め、ガムシロ多めで手早く作り、コースターと一緒にテーブルに置いた。「コースターを使う事」そう言って。
 キッチンにとってかえり、ミルでコーヒー豆を挽いた。コーヒーそのものとは違った、独特の香ばしい匂いが部屋に広がる。この瞬間が好きだ。
 粉をコーヒーメーカーにセットし、タンクに水を入れ、ボタンを押す。
 リビングからは「うまいなあ、みどりさん」と立ち上がって窓の外を見ながら言う声が聞こえる。
 私は自分の分のコーヒーを手に、ソファに座った。
「そういや」神谷君が口を開いた。
「竹内さんは暫くご乱心だった様子だけど、大丈夫なの?」
「うん、彼が会社まで来て、『帰る場所はお前しかいない』的な事を言って涼子を掻っ攫って行った」
 へへぇーと数回頷きながらソファに寄り掛かった。
「帰る場所ねぇ。沢城さんは帰る場所、あるの?」
「ないでしょ、どう見てもここしか」
「俺のとこ、どう?」
 自分の胸を指さして言った。コイツは――どうしてこういう事を、私を目の前にして平気で言えるんだろうか。おちょくってるんだろうか。
 グラスを左右に揺らしながら、氷を動かす。良く冷える様に。
「暫くは課長がいますからー。結構です」
「じゃ、予約ぅー」
 全く効かない。彼には何を言っても効果が無い。暖簾に腕押しというのは、こういう時に使うことわざなのか。馬の耳に念仏?
「あ、ギター弾かしてよ」
 思い出したようにそう言うので、私はギタースタンドからテレキャスターを持ってきて彼に手渡した。
「もう一本のあの穴が開いた奴は?」
「あれは大事なリッケンバッカー」
 おもちゃじゃないんです、と言った。
 彼はチューニングもされてないギターを適当に爪弾いた。音が鳴る度に「おぉ」と反応した。そのうち適当な指でコードを押さえる真似をしてジャカジャカと右手を動かしたが、何のコードにもなっていないそれは、不協和音しか生み出さなかった。
「神谷君ってギター弾いた事、あんの?」
「ないよ」
「じゃ、何でギター弾かせてって言った?」
「沢城さんがいつも大事そうに弾いてたから、俺も触りたかった」
 痴漢かっ!触りたかったって何だ。まぁでも、大事にしている事が伝わって何よりだ。
「神谷君には音楽の才能、ないのだよ」
「何の才能ならあったの?」
 うーん、天井を見ながら暫く考え込んでいた。やっと出てきたのが「野球?」だった。訊かれても――。
「野球やってたの?」
「うん、小学校から大学までずっと」
 有名選手にならずとも、それだけ続けてきたのは凄い事だと思ったので正直にそう言った。
「でしょ、惚れ直した?」
 言わなきゃ良かったと酷く後悔した。彼を、神谷久志を褒めてはいけない。
「野球と言えば、課長も野球やってるらしいよ。未だに」
 神谷君はまるで拗ねる子供の様に膨れっ面をし、「課長の話、すんなよぉ」と言った。
 結構可愛い所があるんだな、と感じたが、それも口に出すとつけあがるので言わない。
「沢城さん、次はホットコーヒーが欲しいです。ミルク多めの砂糖多めで」
 ミルクっつっても牛乳だからね、と断りを入れておいた。空いたグラスを回収しようとテーブルを見ると、今日はきちんとグラスがコースターの上に置かれていた。
 やればできるじゃないか、神谷君!とは言わない。


17 涼子ご立腹

 十一月になり、風が急に冷たくなった。会社の前を流れる川には、茶色や黄色の落ち葉が蓮の花の様にそこら中に散らばって、その存在をアピールしている。この川は私の家の横を流れる土間川の下流に位置している。家の横ではそれなりの流れがあるこの川も、ここまでくると殆ど淀んだ水の溜まり場だ。

 久しぶりにDMGホテルに呼ばれた。冷たい風に晒されない様、首にストールを巻いた。冷えは美容の天敵、らしい。それよりも、それがある事により少し女性らしく見えるので、ストールを持ち歩いている。
 駅前まで着いたところで、課長が前を歩いているのを見つけた。私は走り寄り「お疲れ様です」と言った。
 課長は細い目を目いっぱい細め、「お疲れ様」と言った。
 いつもは誰かにばれないようにと待ち合わせをせずにホテルへ向かう。神谷君にホテルに入るところを見られたあの日、入口でばったり鉢合わせをしたが、それ以来一度も鉢合わせしたことが無かった。
「珍しくタイミングが合ったね」
「そうですね、久々ですね」
 こうして並んで歩いている時に、腕に絡みついたり、手を繋いだり、出来ない関係が歯がゆかった。自分が選んだ道だ、我慢しなきゃ。


「そういえば、八月に奥さんがいらしてた時、駅ビルでお見かけしました」
 ベッドの布団に胸まで入り、そんな話を切り出した。言おうと思っていてなかなか口に出来なかった話題だった。課長は枕を背中に当てて腰掛けていた。
「はは、そうか。見られちゃったか」
 苦々しく笑った。
「素敵な奥様でした。お綺麗で、スタイルもよくて、背が高くて、課長の隣がぴったりでした」
 思った通りを口にしたが、口にした途端に嫉妬心がドロドロと吹き出してくる。
「僕の隣は、今は沢城さんだよ。僕に奥さんなんていない」
 横になっている私の額にかかった前髪を、サラリと撫でた。
「そう言う風に自分を誤魔化そうとしても、やっぱり見てしまうとダメですね。奥様のお顔が頭を離れないんです。嫉妬しちゃいます」
 カッコ悪いな、と思いつつも、心情を吐露した。
「嫉妬なんてする必要はないよ。だって今僕の横にいるのは沢城さんで、それ以外いない。僕は今、沢城さんを一番に思ってるんだから」
 そう言って少し照れたように笑うのだった。眼鏡を外してどの程度見えているのか分からない。自分の将来についてはどうだろう。どの位見えているんだろう。
 私とはいつまでこうしているつもりだろう。どんな高性能な眼鏡を掛けたって、易々と見えるものではないし、会社の鶴の一声で、二人の関係は終わる。
 一番だったものが二番になるんじゃない。一番には就くべく人間が就き、二番以降は消えてなくなる。


 翌朝のチェックアウトも念のため、二人バラバラの時間にしている。
 今朝は私が先にチェックアウトした。朝の九時を回った頃だった。
 駅前まで歩くと、見知った顔に出会った。涼子だった。
 涼子はあれ以来、ヒモ君とよりを戻し、ヒモ君は例の楽器屋で再度働き始めたそうだ。めでたしめでたしだ。私は自分のギターをメンテナンスに出す時は、彼が働いているお店に出そうか、なんて考えていた。
 涼子、何してるんだろう。偶然そこにいる、と言うよりは、そこで待っていた、という風だ。
「涼子?」
「おはよ、ちょっと時間ある?」
 やっぱり。私を待ってたんだ。
「うん」
「ディーバ、もうやってるかな、あそこにしよう」
 昼間に会うといつも行く、カフェ「ディーバ」へ赴いた。
 彼女も私もホットコーヒーを頼み、窓側の席についた。足元から天井までの開けた窓からは、電車が行き交う様子が見える。
「あのさ、単刀直入に訊くけど」
 涼子が落ち着き払った声で言った。私は身を固くした。何だろう。
「うん」
「課長とどういう関係?」
 思わずハッと息を飲んでしまった。何で、何で知ってる?
 私が二の句を継げないでいると、彼女は続けて話した。
「前にサンライズで課長とみどりがお酒飲んでるのを見た事があるんだ。会社じゃそんなに深い関係に見えなかったから、偶然居合わせて飲んでるのかと思ったんだ」
 私は頷く事さえできなかった。
「そしたら昨日、仲良さそうに二人が歩いてるのを見て、ちょっとみどりには悪いけど、後をつけたんだ」
 私は頭を抱えた。後は言われなくても分かる。
「ホテルに入って行ったよね。ラブホではないけど。さっき、帰りでしょ?」
 声に出さず、頷いた。そこまで見られていたら嘘なんて吐けない。私はゆっくりと口を開いた。
「六月頃かな。不倫だってちゃんと分かってて付き合いだしたんだ」
 涼子はコーヒーを一口飲んだ。「それで?不倫だから私には言えなかったの?」
「そうだね。やっちゃいけない事だからね」
 私は俯いたまま顔をあげられなかった。コーヒーにすら手が伸びなかった。
「あのさ、私はみどりが不倫している事を糾弾したいんじゃないの」
 彼女がコーヒーカップを置く、コトっという音がした。
「何で私に一言、教えてくれなかったの。親友だと思ってたのに」
 私は顔をあげた。彼女は怒っている様な、泣きたいような、複雑な顔をしていた。
「不倫だって浮気だっていいじゃん、好きなんだったら。私だってヒモ男を好きになったよ。普通なら恥ずかしくて言えないよ。でもみどりだから、信頼できるから彼の話をしてた」
「うん」
「みどりは私の事を信頼できない?口が軽い情報屋だと思ってる?」
 私は頭を振った。
「そんな事無い。信頼してるし、大事な親友。だけど、私がしてる事って、浮気とかそんな軽い物じゃないから。社会的に悪とされてる事だから言えなかったんだよ」
 涼子は腕を組んで暫く目を閉じていた。私はコーヒーを一口飲み、ため息を吐いた。口を開いたのは涼子だった。
「相手が誰だろうと、好きって事には変わりないんだから。せめて親友と思ってくれてるんなら、私には言ってほしかった。課長が好きだ、付き合ってるって」
 瞑っていた目を開け、私を見た。私は彼女の目を見ながら「ごめん」と謝った。
「知ってれば、いざという時にフォローもできるしさ。頼ってよ、私を」
 彼女はにっこり笑った。笑うといつもの刺々しさが一気に削げ落ち、可愛らしくなる。彼女のそんな表情が好きだったりする。
「ありがとう、頼りにしてます」
 私も、同じようににっこりと笑って見せた。
「それにしたって、終わりが分かってるような恋愛によく手を出したね」
「それ神谷君にも言われた」
「何で神谷が知ってて私が知らないの!」
 彼女は怒ったような口調で、でも顔は笑ったままだった。
 好きだったらいいじゃないか、そんな風に言ってくれるとは思っていなかった。素敵な親友を持ったな、コーヒーの香りに包まれながらそう思った。


18 クリスマス

 駅前はジングルベルの音楽や鐘の音、緑や赤、金や銀の装飾で溢れ、会社の掲示板にも「組合主催 クリスマス会」なんて物が張り出されたりしている。

「クリスマスなんてこの世からなくなってしまえばいい」
 お昼ご飯を食べていると神谷君が急にそんな事を言い出したので、私も涼子も目を合わせて首をかしげた。
「神谷君、どうしたんだ?」
 涼子がそう訊ねると、神谷君はごくごくと喉を鳴らして麦茶を飲んだ。
「俺は今年、一緒に過ごす人がいない。一緒に過ごしたい人は好きな人と過ごすんだ。だからこんな行事、無くなってしまえばいい」
「神谷君、今年のクリスマスは平日だし、クリスマスって別に恋人と過ごすための日じゃないから」
 そう言うと、何故か軽く睨まれるのだった。おぉ、怖い。
「涼子は彼に何かあげるの?」
「うーん、ベースのストラップが欲しいとか言ってたし、そんなにお金掛けられないし、そんなもんかな。みどりは?」
 最近ずっとそれで頭を悩ませていたのだった。
「考えてはいるんだけど、奥さんにばれちゃうような物もアレだし、課長が自分で買いそうな物をあげないとねぇ。ネクタイとか?」
「父の日ちゃうでー」
 神谷君の鋭い突っ込みが入った。
 涼子は、蚊帳の外になりつつある神谷君を会話に引っ張り込んだ。
「神谷君は好きな子に何かあげて、再告白とかしちゃわないの?」
「え、恋人じゃなくてもプレゼントってあげていいの?」
「いいんじゃない?それを切っ掛けにお付き合いが出来るかも知れないよ、チャンスだよ」
 もう何も言ってくれるな涼子さんよ。相手はここにいるんだから。それが言えないのが歯がゆい。今は私が蚊帳の外だ。
「で、その好きな人ってのは誰なの?」
 興味津々の顔で定食のコロッケにソースを掛けながら訊いている。
「それは言えないよ。ね、沢城さーん」
 箸が止まってしまった。何故私に振るんだ、コイツ。
「何、みどりは知ってるの?」
 私は両手をブンブン振って全力で否定した。箸を片方落としてしまった。
「知らない知らない。神谷君、意味不明だよ、大丈夫?」
 普段の私なら「ふざけんなコノヤロー」ぐらい言えるんだけど、会社では出来ない。
 箸立から新しい箸を一本出し、昼食を続けた。
 この微妙な友人三角関係みたいな図式から、早く脱したい。とりあえず、課長との間を涼子が知ってくれたことで、会話がしやすくなったのは事実。


 クリスマス当日は仕事だったので、帰りに課長とサンライズで待ち合わせをした。
「今日は僕が先だったね」
「すみません、お待たせして」
 いつもの様にカウンターに座り、コートとマフラーを脱いだ。店員さんがハンガーを持ってきてくれたのでそこに服を掛け、あとは店員さんにお任せした。
 課長は先にビールを呑んでいたので、私はドリンクをオーダーした。

 カウンターにバイオレッドフィズが運ばれてきたので、課長の飲みかけのビールとグラスを合わせた。「メリークリスマス」眼鏡の奥の目はすぼめられ、口角がキュっと上がった。
「僕ね、女の子にクリスマスプレゼントあげるなんて久々過ぎて、選ぶのに何時間掛かったか」
 そう言いながら長方形の平らな箱を取り出した。
「わぁ、開けていいですか?」
「どうぞ、お気に召すかどうか」
 後ろのテープを丁寧にはがし、包装を解くと、中には綺麗なエメラルドグリーンのマフラーが折りたたまれていた。カシミアと書いてある。
「わぁ、綺麗な色――」
 思わず見惚れた。本当に綺麗な色だった。宝石のエメラルドをそのまま写したような、深いエメラルドグリーンだ。
「ありがとうございます。嬉しいです。実は私もプレゼント、買ったんです」
 細長い箱の形ですぐにばれてしまうと思いつつも、それを手渡した。
「ん?この形はもしかして?」
 包装を解き「あ、正解。でもこんな素敵なネクタイは持っていないよ」
 箱ごと持ち、自分の首元に持って行き「似合うかな?」と細い目を更に細めて笑って見せた。
「凄くお似合いです。良かったです、この柄にして」
 私はマフラーを箱から出し、首に巻いて見せた。「どうですか?」
「凄く似合うよ。今日着てきたベージュのコートにも凄く映えると思うよ」
 そう言われ、「じゃぁ着けて帰ろうかな」とそれを簡単に畳んで紙袋に入れた。
「僕はさすがに着けて帰れないけど、年始一発目はこのネクタイにしようかな」
 ニコニコしながら箱を袋の中に仕舞った。
「クリスマスって不思議だよね」
「何でですか?」
 私は首を大げさに傾げて見せた。
「大人になるとサンタなんて来ないのに、こんなに嬉しいんだから」
「そうですね」
「僕はプレゼントがなくても、沢城さんと一緒にこうやっていられるだけで嬉しい」
「それじゃクリスマスが関係なくなっちゃいますよ」
 顔を見合わせて笑った。

 店から出る時に、着けてきたマフラーを鞄に仕舞い、課長から貰ったマフラーを首に巻いた。
「凄く似合う」
 そう言われ、私は全身の血液が顔に集中するのが分かった。改めて言われると凄く恥ずかしい。
 店を出て、駅まで歩いた。
「課長が夏に奥様と腕を組んで歩いてるのを見て、凄く羨ましかったんです」
「うん」
 課長は穏やかに頷いた。
「でもこうやって、クリスマスを一緒に過ごせて、プレゼントまでもらえて、これ以上望んじゃいけないなって今は思ってます」
 課長は私の横顔を見て「優しいね」と言った。
「こんな不憫な恋愛をさせてしまっているのに、君は文句一つ言わない。本当に優しいね」
 本当は文句の一つや二つ、言いたい。腕を組んで歩きたい。手を握って歩きたい。夏には奥さんに会わないで欲しかった。居室の――あの写真は剥がして欲しい。
 でもそんな事は言えない。私は永遠に、本当の一番にはなれないのだから。
 だったら不満を漏らさず、笑って時を過ごしたい。
 同じ阿呆なら踊らにゃ損、損。そんな場違いな言葉が頭をよぎり、思わず一人でこっそり笑ってしまった。


19 神谷君のターン

 課長と駅で別れ、自宅に戻った。エレベータから降りると、玄関の前に人影があった。
 しゃがみ込んでいるその人は、カーキのミリタリーコートを着て、寒そうに縮こまっていた。

「神谷君――」
 私の声に顔を上げると、ポケットに仕舞っていた右手を上げ「オッス」と言った。
「何してんのー、今カギ開けるから」
 クッキーモチーフのキーホルダーがついた鍵を鞄のポケットから出し、ドアを開けた。
 すぐに玄関とリビングの電気を付け「どうぞ」と言った。
 神谷君は「おじゃましますー」と鼻声で言い、自分でスリッパを出してペタペタと歩いてソファに座った。コートに包まれた肩を上げて縮こまり、しきりに鼻を啜っている。
 私はコーヒーの準備をしながら電気ストーブの電源を入れ、神谷君の傍に置いた。
「何してたの?」
「何って待ってたんだよ」
「はぁ?」
「待ってたの。帰ってくるのを」
 意味が分からない。何で私の帰宅を、私の家の前で、あんな風にして待ってるんだ。締め出された子供かっ。
 急ぎで二人分だけ淹れたのでコーヒーはすぐに出来上がった。
「はいどうぞ」テーブルに置く。マグカップからは湯気が照明に向かって立ち上る。
「はいどうぞ」神谷君が小さな小さなビニール袋をテーブルに置いた。
「何これ」
「開けてみ」
 私は言われるがまま、そのビニールを開けた。中にはギターの形をしたキーホルダーと、何故か黄緑色のギターのピックが入っていた。そのピックを見て笑わずにはいられなかった。
 表には「神谷」裏には「予約済!」と黒いマジックで書かれていた。
 神谷君は素知らぬ顔でコーヒーを飲んでいる。「暖まるー」とひとり呟いている。
 私はギタースタンドからリッケンバッカーを持ってきて、適当にチューニングすると、神谷君がくれたピックで、ビートルズのストロベリーフィールズフォーエバーのコードを弾いた。
 神谷君もこの曲を知っていたらしく、「あ」と言って耳を傾けていた。
 全て弾き終えると「凄い」と言って手をぱちぱち叩いた。
「俺、ビートルズの曲の中でこの曲が一番好きなんだよね」
「へぇ奇遇、私は二番目だけどね」
「一番は何?」
「ノルウェイジャンウッド」
 村上春樹かよ、と突っ込まれた。
「沢城さん、ストロベリーフィールズの日本語訳ってみた事ある?」
「ないよ」
「今度見てごらん、課長が言いそうなセリフだから」
 想像がつかないけれど、「うん」と言っておいた。
「で、今日はこのキーホルダーと、予約票を渡しに来てくれた、という事?」
 部屋はだいぶ暖かくなり、さっきまでしきりに鼻を啜っていた神谷君も、コートを脱いで、大人しくなった。
「竹内さんが言ってたじゃん、好きな人にはプレゼントあげていいって」
 あぁ、私は頭を抱えた。やっぱりそう来たか。
「パパにはネクタイあげたんでちゅか?」
 ソファの隣に腰掛ける神谷君の脚を思いっきり蹴とばした。
「俺にはないの?」
「コーヒー」
「へ?」
「コーヒーで我慢しなさい。ここのコーヒーは神谷君しか飲みに来れないんだから」
 多分「神谷君しか」という部分に反応したのだろう、やたらとニコニコしながらマグカップを両手で握っている。
「予約票は再発行できます。無くなったら必ず申請してください」
「普通予約票ってのは予約した人が持つものじゃないの?」
 減らず口の神谷君がこの時ばかりは黙った。暫く黙ってからドヤ顔で言った。
「いいんです。神谷君ルール発動だからー」
 仕方がない人だな、と思って少し笑った。
 この、肩肘を張らなくていい空間が、何だかとても居心地が良い事に気付き始めた。
 本当はもっと早くに気付いていたのかも知れない。
 神谷君とこうして同じ部屋にいて、同じソファに座って、他愛もない話をしているこの時が、とても心地が良い。
 神谷君は相変らずニコニコしながら、ヘタクソなストロベリーフィールズフォーエバーを歌っている(とりあえずビートルズに謝れ)。
 彼の予約なら本当に――本当に受けてもいいかな。そう思い始めていた。
「課長には何を貰ったの?」
「マフラー」
 手に持ってそれを見せた。
「俺が買ったピックの黄緑の方が、良い色だな。俺様の圧勝。それにギターのキーホルダーもある。数でも圧勝」
 ちょっと貸して、と私の手からマフラーを分捕り、じーっと見ている。何を確認したのかは分からないけれど、すぐに「はい」と返してきた。
 それを受け取ろうとした瞬間、手首を掴まれ身体を引き寄せられた。短くキスをされた。

 頭の中がチカチカした。心臓が喉から出そうに苦しい。何すんだこの男。
「何、何なの急に」
 掴んだ手を離さない。私の目をじっと見つめたまま彼は言った。
「俺は本気で言ってるんだからね。本気で沢城さんの事を予約してるんだからね。その本気を、今の行動で見せてみました」
 そして手を離し、残っていたコーヒーを飲み干し「ごっちそー」と楽しそうに言った。
 あぁコイツ本当に頭が沸いているとしか思えない。何なんだ。頭ん中カオスか。
 とんだサンタクロースが我が家に来たもんだ、と思った。
 でも、心のどこかで、そんなに悪い気はしないな、と思っていたのも事実。
 「好きだ」と言われると好きなってしまう魔法。
 クリスマスにサンタが持って来たのは、この魔法かも知れない、と柄にもなく思ってしまったのであった。


20 忘年会と年末年始

 涼子が「忘年会でもやるか」と言い出したので、急遽金曜の夕方、藤の木に集まった。
 「藤の木にしよう」と言い出したのは神谷君で、私が飲めるような酒が殆ど無い事を知った上での意地悪である事は火を見るよりも明らかだ。
 涼子も神谷君も「生中で」とオーダーしたが、私は「オレンジジュース」と尻すぼみな声で呟いた。
「何オレンジジュースって、頭沸いたか?」
 涼子が笑いをこらえきれないと言った表情でこちらを見ている。むむぅ、神谷の野郎。
 日本酒でしくじった悪しき思い出が払拭されていない今日、また日本酒を頼むようなヘマはしない。とりあえず、女はソフトドリンク。
 ドリンクと一緒にお通しのタコワサを、女将さんが運んできた。
「神谷君、綺麗どころに囲まれて幸せね」と女将が神谷君とからかうように笑った。お酒を頼まなかった私にもお通しを出してくれた。
 とりあえず乾杯をし、タコワサを突きながら話を進める。
「何かぱっとしない一年だったよなー」
「私に言うなよ」
「私に言わないでよ」
 神谷、総スカンを食らう。
「少なくとも私は特にこれと言って浮き沈みも無く――まぁヒモが途中でドロップアウトしそうになったぐらいで、あとは何もないな」
 神谷君は?と話を振った。彼はタコワサを既に食べ終え、ジョッキのビールも底を尽きそうだ。
「俺はぁ、俺は好きでもない奴と付き合って、好きな人には振られて、ほんっとにパッとしなかった一年だった」
 言葉とは裏腹に、やたらニコニコしている神谷君を、妖怪でも見るような目つきで涼子は眺めていた。
「私は、課長と付き合い始めて、幸せな一年だったな」
「そうだよね、みどりは確かに幸せだった。うん。でも課長、いつまでこっちにいるんだろう」
 私も最近その事を考えていた。
 特に期限が決まっている訳ではない、と言っていた。神奈川支社での人員不足で呼ばれ、人員が充足すれば元の東北支社へ戻るのだろう、と。
「そろそろあの人、山本さんが昇格するだろうから、そしたら課長は戻るのかなぁ」
 涼子がそんな事を言い出したので、「やめてよ」と思わず口にしてしまった。
 終わりがある事は分かっている。そんな事は初めから分かって付き合っている。それでも、その終わりが来なければいいと、ずっと考えている。このまま課長が、神奈川支社で昇格して、ずっと私の上司で、ずっと横浜にいればいいと。そう思っている。
 勿論、そんな事はあり得ないって事も、認識している。
「いいの、いつか終わるって分かってるから。それまでは恋人って事で。ところで忘年会ってさぁ、何を話す場なんだろう?」
 場に沈黙が流れた。涼子はビールを啜り、神谷君はそれまでのニコニコ顔を返上し、難しい顔をしながら「大将、ビール追加で」と言った。
「確かに、何を話せばいいんだかね。来年の決意とか?」
「それ、新年会で言わねぇか?」
 うむ、と涼子はまたビールを呑んだ。喉から手が出そうになる。ビールが飲みたい。
「ねぇ、年末年始はみんな実家に戻るの?」
 私は話題を変えようと、少し大げさに笑って言った。
「帰んないよ、ヒモいるし」
「俺も帰んない」
 終了ー。私も帰らない。
「あ、課長は?」
 神谷君が思い出したかのように口を開いた。
「課長と年末年始を過ごすの?」
「ううん、課長は岩手に戻るんだって。当たり前だよね、お子さんもいるんだし」
 だよねーと一同は頷き、さっき女将が持って来た、枝豆やらから揚げやらを思い思いのペースで突き始めた。
「ここのから揚げって何でこう、カラっとしててジューシーなんだろ」
「なにそのCMのキャッチコピーみたいな評し方は」
 涼子と神谷君が掛け合っている。から揚げなんてずっと作ってないな。やり方も忘れた。
 仕事を始めてから「身体が資本」なんつって手料理に凝った事もあった。だけど性に合わないという事を認めざるを得なかった。
 料理自体は苦手ではない。簡単なものは時々作るし、自信はある。が、後片付けが嫌いだし、買い物が嫌いだ。エプロンも嫌い。油が跳ねようものならもう――料理やめる。
「ねぇ、沢城さんって料理するの?」
 言うと思ってたんだ。神谷君はこの答えを知っていてわざと質問をした。本当は「しない」のに、キャラ作りのために「する」と私が答えるのを、期待している。
「ん、する、するよ。時々ね。簡単な物なら時々ね」
 私は神谷君の方には向かず、わざと涼子の方へ「ね」と微笑んで見せた。
「みどりはエプロンが似合いそうだよね、レ―スがついたエプロン。でもあーいうのって汚れたらどうすんだろう、洗うの?どうすんの?」
 私がレースのエプロンをつけている想定で話が進んでいる様だ。
「あ、あのね、レースのついたエプロンはしないよ。フツーの、シンプルな物しかつけないから」
 アハハ、と軽く笑ってその場をしのいだ。神谷――。
 この日は「忘年会ってなんだろうね」というよく分からないお題に終始し、あまり帰宅が遅くならずに済んだ。
 あぁ、明日から暫くは自宅でごろごろできる。
 誰にも自分を装う必要も無く、一日中部屋着で、好きな本を読んだり、ギターをいじったりできるのだ。
 あ、年賀状――書いてなかった。重要な仕事だ。はぁ。


 年始は四日から仕事だった。
 課長は宣言通り、私がクリスマスに贈った紺色に緑の刺繍が入ったネクタイを締めて出社した。私と目が合うと、「おはよう」と言って目を細め、ネクタイに触れた。
「おはようございます」
 私は嬉しくて、ネクタイと課長を交互に見て、今すぐにでも飛びつきたいという気持ちを抑えるのに必死だった。
 そのやりとりを見ていた涼子が昼休みに携帯をいじりながら口を開いた。
「課長のネクタイ」
「うん」
「クリスマスにあげたの?」
「うん」
 涼子は私の顔を見てニンマリした。
「課長、嬉しそうに触ってたねー、ネクタイ。見せつけてくれるねー」
 私は耳まで真っ赤になった。「顔あかいっすよ」涼子に指摘される前から気づいていた。


 それから間もなく、課長からお泊りのお誘いがあった。
 俗っぽく言うと、秘め初めってやつだな。

 セックスの最中課長はいつになく激しく私を突いた。少し乱暴な、何かを忘れようとしている様な。何かあったのかな、と思った。
 帰省中に何か――奥さんと喧嘩したとか――。異動?あまり考えたくなかった。
 事を終えた後に訊いた。
「課長、今年中に異動するなんて、ないですよね?来年もまだ、横浜にいますよね?」
 課長はサイドテーブルに置いてあった眼鏡をかけ、私の方を向いた。
「僕もまだはっきりとした事は言えないけれど、今の時点で異動の話は無いよ、大丈夫」
「良かった」
 私は課長の手を握った。彼も強く握り返してくれた。その手は温かく、大きかった。この温もりが、すぐに消えてしまうなんて想像できなかった。ずっとここにあって欲しいし、あるべきだと思った。
 この幸せを、誰が奪うと言うんだ。そんな事をした奴には天罰が下ればいい。
 自分は人に言えない恋愛をしておきながら、そんな風に残酷な考えをする自分こそ、天罰が下るんじゃないか。今あるこの幸せが、酷く恐ろしかった。


21 昇格試験の結果

 今日は花吹雪の様な雪が降っている。このままいくと結構積もるんじゃないか。窓の外を見ると、土間川沿いの桜の木には、小枝に雪が寄り添うように、降り積もっている。道路脇にある常緑樹の葉にも薄っすら雪が積もり、少しの重みで葉がお辞儀をしているようだ。
 二月に入った。昇格資格者は一月から昇格試験対策の勉強をし、二月の昇格試験を受けた。
 課長の後任とされる山本さんは、正直な所、あまり仕事が出来る人ではない。それでも昇格試験を受ける資格が与えられたので、それなりの評価が下ったという事だろう。
 山本さんには悪いが、できればこの試験、不合格であって欲しいかった。
 そりゃそうだ、彼が昇格すれば、課長が東北支社に戻る確率が格段にアップするのだから。

 居室で各々がカタカタとキーボードを叩き、PCに目を凝らしていた。
 社内便を届ける総務の人がドアを開けたので、率先して私が受け取りに行った。
 課長宛ての物が数件と、山本さん宛ての「親展」封書が人事部から届いていた。
 課長は会議で不在だったので、封筒の束をデスクに置き、山本さん宛ての封書は直接「届いてましたよ」と山本さんに渡した。
「あぁ、わざわざすみません」
 封書に目を落とした山本さんは明らかに動揺していた。気付いたのだろう。それが昇格試験の合否通知である事を。
 私は素知らぬ顔で席に戻ったが、視界の隅に入る山本さんの動きを見ていた。
 封筒をトントンと机に叩きつけて封筒の中身を下に寄せ、上側に鋏を入れている。ショキ、ショキと音がする。中から一枚の紙を取り出した。その手は小刻みに震えている。
 次の瞬間、彼はがくりと肩を落とし、頭を抱えた。顔を上げてもう一度その紙に目を通し、そしてまた頭を抱えた。現実を受け入れがたかったのだろう。
 後から噂で流れ着いた。「山本さん、落ちたみたい」と。
 こういう噂は誰が発信元で、どういう風に仕入れてくるんだろうと不思議に思う。

 私は心の中でガッツポーズをした。
 これで課長は来年も、神奈川支社の経理課課長として業務を執り行うだろう。
 帰り道はマシュマロの様な雪が降っていたが、まだ積もっていなかった。傘もささずに跳ねる様に歩いて帰った。雪にはしゃぐ幼稚園児の様に。
 家に帰ってからは「よっしゃー!」と声を出した。山本さん、ごめんなさい。


 その喜びは束の間の物であったことを知らされたのは、それから一週間が経った、凍てつくような寒さの日だった。
「みどり、大変」
 昼休みが終わり、業務開始五分前のチャイムが鳴ったので、私たちは居室へ戻ったが、途中で涼子はお手洗いに向かった。
「トイレで人事の向井さんに会ったんだけど、課長、東北に戻るらしいよ」

 目の前の視界が急激にしぼみ、真っ暗になった。何も言えなくなった。
 再び視力を取り戻した目で、どこを見たらいいのか分からなかった。
 何で、だって山本さんが昇格できないんだから、人手不足は解消されてないのに――。
「そう、なの」
 口をついて出てきたのはその言葉だけだった。
 くるりと椅子を戻してPCに向かった。目は開いているのに、何の情報も入ってこない。仕事が手につかない。
 神谷君も知っているのだろう、私の後ろを通った彼が「大丈夫か?」と耳元で訊いたけれど、蚊の鳴くような声で「だめ」としか言えなかった。

 課長がお昼から戻ってきて、私の後ろの席についた。
 グレア液晶に反射する、彼の後姿。家族写真。
 彼は、課長は、岩手に、愛する家族の元へ帰っていく。
 私が課長の恋人でいられる期間はあと一か月と少し。
 後ろを向いている課長が今どんな心境なのか、私には分からなかった。


 それから寒い日が続き、私は気持ちが滅入るばかりだった。
 課長は各所の引き継ぎやらなにやらで忙しいのか、なかなか外で会う事が出来なかった。
 ある日の木曜日、やっと『明日DMGホテルで会えるかい?』とメールを貰う事が出来た。
 それでも私は、重たい現実を受け入れなければならない事に、足が竦むばかりだった。


 ホテルにチェックインすると、既に部屋には課長がいた。
 まだ来たばかりなのか、コートをハンガーに掛けているところだった。
「お疲れ様」
 そう言って彼はネクタイを少し緩めた。
「お疲れ様です」
 私もベージュのコートを脱いでハンガーに掛け、エメラルドグリーンのマフラーを肩の部分に引っ掛けた。それを課長のコートの隣に並べた。
「沢城さんに、話さないといけない事があってね」
 そこ、座って、と促され、小さな椅子に腰かけた。窓からの冷気が身体を冷やす。
「課長、岩手に戻られると聴きました」
 私はなるべく穏便に、冷静に、言った。少し声が震えているのが課長に悟られなければいいなと思った。
「そうなんだ。だから君と恋人でいられるのはもう、あと一ヶ月しかない」
 課長はテーブルに置いてあったボールペンを器用にクルクルと回している。長い脚を組み、横を向いたまま私の顔を見ない。少し沈黙が流れた。静寂の中に冷蔵庫の稼働音だけが続く。
 口を開いたのは課長だった。絞り出すように言った。
「僕は妻と二人なんだ。子供はいない」
 言っている意味が分からなかった。グレア液晶に映りこむ家族写真。小さな男の子が二人、そこには写っていたではないか。
「だって写真――」
 言いかけて口を噤んだ。課長が何かを堪えるような顔をして、言葉を紡ごうとしているのが分かった。
「死んだんだ、事故で」
 全身の血の気が引く音がした。知らなかった、そんな事。
「あの、全然知らなくて――」
「いいんだ。こっちの人間で知ってる人なんて殆どいない。事故だったんだ。僕も妻も、一緒に事故に遭ったんだ」
 そう言ってペンを置きワイシャツのカフスボタンをあけ、まくり上げた。
「見たかもしれない。この傷は、その時の物だ」
 白い腕に、更に一段白く走る、長い十字の傷。確かに私は見た。そこにそんなに重たい過去が隠されているとは知らずに。
「妻と僕だけが怪我で助かった。家を買って、すぐだった。居室に貼ってある写真あるだろう?あれを撮ってすぐに、子供は死んだんだ」
 課長は再びペンを手にし、回すのをやめない。俯いたまま、言葉を紡いでいる。今更彼の睫毛の長さを知った。睫毛に隠れた彼の目の色は、窺い知れない。
「前にも言った通り、子供が出来てからセックスレスだった。それがここに来て、また子供が欲しいって妻が、言いだしたんだ」
 悪寒に身が竦む。それでも私は真実を聞かなければならない。無言で先を促した。
「妊娠したんだ、妻が」
 私は目を瞑った。分かっていた。もう話しの流れから察しがついた。それでも実際に課長から、それを口にされてしまうと辛かった。
「いつ、いつ知ったんですか?」
 私の声は震えを通り越して、嗚咽に近くなっている。
「年末だよ。もう、つわりがおさまったと言っていた」
「じゃぁ、八月に――」
 課長と腕を組む、長身の美女が歩く姿がありありと思い出される。あの一週間で、彼らは愛し合い、彼女は身籠った。
 そんな事とはつゆ知らず、私は課長の恋人であり続けた。あり続けたいと思っていた。課長は年末にそれを知ったにも関わらず、私を誘い、セックスをした。奥さんの妊娠を知りながら――。
「そうだね、あの一週間だ。そんなに都合よく子供が出来るなんて思っていなかった」
「都合よくって――こっちにいる間は私だけが課長の横にいる、課長の恋人だって、課長はそうおっしゃったじゃないですか。私は課長から誘われるのを待って、いつもそれを楽しみにして――バカみたいです」
 堰を切ったように言葉がほとばしり、辛うじて下まぶたに支えられていた涙が、頬を伝った。
 課長はその涙を冷たい親指でそっと拭いた。私は耐えきれなくなってその手を払いのけた。
「僕もどうかしてたと思う。どうして妻の誘いを断らなかったのか」
「愛しているからに決まってるじゃありませんか」
 私は冷たく吐き捨てた。
「愛してるから、彼女との間に子を設けてもいいと思っていたから、セックスをしたんでしょう」
「そうだね」
 課長が回していたボールペンが、床にポトリと落ちた。
「妻の出産準備があるから、僕は東北支社に戻る事になったんだ」
 私は涙が止まらず、こんな人の為に涙を流すなんて無駄だと思えば思う程、悔しくてまた涙が溢れた。
「申し訳ない、と。そう思ってるんだ。それが伝えたくて――」
 課長の声が震えた。泣きたいのかも知れない。そんな事は知った事ではない。
 私は立ちあがり、ベージュのコートを着た。棚に置いた鞄を持ち、部屋を出た。
 エメラルドグリーンのマフラーだけが、ハンガーに残された。

 私はコートの襟を立てて寒さに耐えながら駅へと歩いた。
 二月の冷え切った風が容赦なく吹き付ける。その首にマフラーが無い事をわざわざ知らしめるように、首だけがどんどん冷えるのだった。
 商店街に付けられた時計を見ると、まだ七時半だった。
 食欲も無いので、何も買わずに駅へ向かった。
 見知った後姿があった。
「神谷君――」
 後ろを振り向いたその顔はにやけていたが、私の顔を見て彼はそのにやけ顔を捨てた。


22 曖昧な言葉の真実

「さぁ、何があったのか、神谷君に話してみなさい」
 結局まっすぐ家には帰らず、神谷君に拾われてサンライズに来た。
 カシスオレンジを一口含み、「どこから話そうか――」と考えた。
「課長、赤ちゃんが生まれるんだって」
 さすがの神谷君もこの言葉の破壊力には唖然としていた。
「はぁ?何それ、ネタなの?」
「ネタじゃない。事実」
 そして私は、課長のお子さんの話や、夏の一週間に起きた事を順番に話した。
 いつもふざけた顔をした神谷君だけれど、この時ばかりは真剣だった。
「あのさぁ、沢城さん」
 一度椅子に座り直し、いつになく真面目な声で神谷君が話し始める。
「所詮、不倫なんだ。課長は帰る所に帰る。そういう事だよ」
「そんなのは分かってる。でも、恋人でいるって約束してくれてる間に、奥さんとセックスして、子供が出来て。妊娠を知っても私とセックスしたんだよ」
 私は神谷君の顔をじっと見つめた。彼はその視線を避けるように、ビールを手にして一口飲んだ。そしてコースターを手に取り、パタパタと手に叩きつけている。
「だから、所詮不倫なんだって。沢城さんが課長を責めた所で、何も変わらない。課長は手に入らない。そうだろ?だって相手は既婚者なんだから」
 それは全うな言葉だ。そう、相手は既婚者なんだから。帰る場所があるのだから。言葉では「君は僕の恋人だ」と言ったところで、私は奥さんの足元にも及ばない、ただの不倫相手。
 「こっちにいる間は僕の恋人」この言葉だってそうだ。横浜にいたって、奥さんが横浜に来れば、たちまち課長の横には奥さんが並ぶ。当たり前の事なのだ。
 奥さんの妊娠が分かったのにセックスをした。これだって仕方のない事。妊娠が分かってセックスするのと、子供がいるのを知っていていセックスするのと、何が違うのかって話。結局私は、ただの不倫相手で、課長とは「恋人ごっこ」をしていただけ。
「神谷君にしておけば、痛い目見なかったのになあ」
 少しいつもの神谷君を覗かせて、イタズラそうな顔してそう言った。
「そうだね」
 私を元気づけようとしてわざわざふざけてくれている彼に、歩調を合わせる事が出来なかった。彼の優しさを痛いほど感じて少し涙が浮かび、紛らわすために私はカシスオレンジを飲んだ。
「所詮言葉なんて曖昧なもんなんだよ。やっぱりさ、俺みたいにきちんと予約票を発行したりね、形にしなきゃ」
 それでもふざけるのを止めない神谷君を見て、少し頬が緩んだ。
「ありがと、神谷君」
 それが精一杯の言葉だった。


23 strawberry fields

 桜が咲いた。土間川沿いは桜並木になっている。枝の先が少し赤みを帯びたと思ったら、急に薄桃色の花びらが噴き出すように咲き始め、樹を覆う。
 咲いた傍から風に吹かれ、花弁は散る。秋は枯葉が浮かんでいた土間川に、今は桜の花びらが浮かんでいる。何かのモザイク画の様に見えなくもない。
 私は桜の花よりも、二月に咲く梅の花が好きだ。
 あまり注目もされず、愛でられもしないけれど、がっしりとした枝に少しだけ花をつけ、寒さに耐えているあの姿は素敵だと思う。梅の花の散り際なんて見た事が無い。梅の花はどうやって姿を消すんだろう。

 今日をもって課長は、神奈川支社を出て、東北支社へと戻る。
 代わりに本社から課長クラスの人間がこちらに来るという話だ。
 今日は課長の送別会で、チェーン店の居酒屋で飲んで騒いでいる。
「山崎課長は、今日をもってうちの支社を出て、東北支社に戻られます。何と、奥さんが妊娠してます!」
 幹事の甲高い声が耳に障る。拍手もだ。
 涼子は苦々しい顔を隠さないし、神谷君は乾杯もしてないのに鶏軟骨をつまみ食いしている。
 私は――私もさすがに笑顔ではいられなかった。課長の首元を彩るネクタイが、紺地に緑の刺繍が入った、あのネクタイである事も一つの理由だ。
 乾杯をしても、いまいち食欲が出ず、隣に座る涼子とぽつり、ぽつりと話をする程度だった。
 涼子は気を遣って、あまり「その」件には触れないでいてくれた。やはり噂はしっかりと、とある経路を回って、涼子の耳にも届いていたそうだ。

「二次会行く人は駅前のカラオケ屋さんに集合してください。課長はどうします?」
 幹事は酒が入って更に甲高い声をだしている。
「僕は明日早いから、遠慮しておきます」
 そう言うと、殆どの人が二次会へと移って行った。主賓がいなくても成り立つ二次会だ。
 涼子は「私、帰るわ」と言ってさっさと駅の方へ向かった。
 私はお手洗いに行き、それから店の外に出た。冷たい春風が一瞬、顔をかすめ、あの、シェービングクリームの香りが漂った。

 課長が、そこに立っていた。エメラルドグリーンのマフラーを首に巻いていた。
「ちょっと話をしないかい?」

 駅の近くにある公園まで歩いた。
 冬の間は噴水が止められ、池の水は濁ったまま、公園の灯りを反射していた。白く見えるのは、桜の花びらだろう。
 前を歩くのは、眩輝(グレア)に時折映り込んだ、課長の後姿。
 中ほどで立ち止まり、課長は私の方へ向いた。手にしていた記念の花束と鞄を地面に置いた。暫く俯いていたが、ようやっと口を開いた。
「君の事を好きだった。愛してたんだ。これは本当なんだ。偽りが無い真実なんだ」
 私は何も言わなかった。言えなかった。すべては過去の話だ。
「僕が君を愛していて、君に似合うと思って買ったマフラーだから、やっぱり君に返す」
 そう言って、課長は自分の首に巻いていたマフラーを外し、私の首にふんわりと巻いた。
 シェービングクリームみたいな、爽やかな課長の匂い、温もり、白い肌――。もう戻らない。視界が曇った。
「課長には、課長を愛してくれる人がいます。なのに、何故もっと欲しがったんですか。私は何も持っていない。課長しかいなかった」
 課長は俯いたまま静かに「うん」と頷いた。
「私はこれから、たくさんの人に愛されて、課長を見返してやる。そんな風に怒りが抑えきれないぐらい、課長を愛してたんですーー」
 曇っていた視界が半分開け、決壊した事を知らせた。春の冷たい夜風に涙が冷え、頬が凍える。
 課長の手が、私の肩に掛かったけれど、私はそれを払いのけた。

 後ろから、砂利を踏む音がした。誰かが近づいて来た。
 そいつは私の後ろから急に飛び出し、課長の頬を一発殴った。
 課長はよろめき、顔を顰めて頬をさすった。それでも顔は笑っていたのは、近づいてくる人物が誰だか分かっていたからだろう。

「神谷君、何で――」
「課長は愛する物がもうひとつ増えるのか。いいよな。幻想みたいな愛に付き合わされてた沢城さんには、なーんにも残らないんだ。課長がいなくなる分、減るんだぜ。フェアじゃないよな」
 課長は苦々しく笑いながら神谷君を見た。
「神谷君はスポーツやってたのかな。腕っぷしがいいね」
 神谷君から私に視線を移した。眼鏡の奥の瞳は細くなり、口角が上がった。この笑顔を、私だけに向けて欲しかった。
「沢城さん、僕以外にも、君を愛してくれる人がここに、いるようだね。安心したよ」
 課長は再び神谷君に視線を向けた。神谷君は鋭い目で課長を睨みつけたまま黙っている。
「僕は本当に沢城さんを愛していたが、少々欲張りすぎた。神谷くん、僕に負けないよう、彼女を、沢城さんを愛してやってくれ」
 地面に置いた、記念の花束を拾い上げ、課長は寮のある方に向けて歩き出した。

「だってさ。手前勝手な話なこった」
 彼は足元の砂を蹴った。蹴った後には土しか残っていない。
「さようなら、って抱き合って終わりたかったな。こんな風に壊れて行くのは想像してなかった」
 私も同じように、パンプスで砂を蹴った。ヒールの所に黒い線が出来た。
「でもね、少女のようで可憐でふんわりしていて優しい沢城みどりっていう幻想を課長に抱かせてたのは私。おあいこだよね」
 俯いて少し笑うと、神谷君は私の肩を叩いた。
「まあな。最後までバレなかったもんな。大したホラ吹きだよ」
 そう言って笑うので、私は手で涙を拭いて、笑い返した。
「ストロベリーフィールズの日本語訳、見た?」
 突然そんな事を言い出したので「忘れてた」と答えた。
 そう言えば「課長が言いそうだ」なんて言ったっけ。
「君を忘れない、でももういかなきゃ。すべては夢で本物はなにもない。ってさ」
 私は俯いて、最後の一粒の涙を見せまいとした。今度全部歌詞を訳してみないと。

「俺は沢城さんの本当の姿も、会社で見せる偽物の姿も、どっちも愛せる。課長より上だな」
 そうだね、と頷く。彼の横顔を見る。とても前向きな顔をしている。まっすぐな目をしている。「でもね」と私は口を開く。
「私は神谷くんを好きだけど、愛せるかどうか、まだ分からない。いや、好きだよ。でも課長と同じようにはまだ――」
 まだ分からない。好きである事は確かだ。クリスマスの夜、「好きだ」と言われて好きになってしまう魔法は、まだ効力を持っている。だけど――。
「流石に昨日の今日で『愛してます!』なんて言葉は期待しちゃいないよ。神谷君はしつこいけど、我慢強いの。いいんだよ、ゆっくりで」
 彼の横顔を見つめていると、靄が晴れたような、視界が開けたような、幻想から目覚めたような、そんな気分になる。
「愛なんてのはね、幻じゃいけないんですよ。目ぇかっぽじって目の前に見える現実じゃなきゃ、意味がないのだよ」
 そう、今まで課長を思ってきたのは幻。課長を愛した自分も、私を愛した課長も、幻。だけどそこにいる、前を向いてしゃきっと立っている神谷君は、現実。
「好きが、愛してるに変わったら、あのピックの予約を受け付けるから」
 そう言うと、神谷君は「やっほーい」と言って、あの淀んだ、少し桜の花びらが浮かんだ、暗い池に走って行って、飛び込んだ。大きな飛沫が上がった。
 まだオーケーした訳じゃないのに。私は苦笑しながら、鞄に入っているタオルハンカチを取り出し、彼の元へと走って行った。


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24 forever

「そろそろアイスコーヒーの時期だよねー」
 玄関を入るなり、これだ。
「そう思ってコーヒー冷やしておきましたぁ」
 さすが、といいながらスリッパをつっかけ、リビングへ歩いて行く。
 今年のゴールデンウィークはお天気に恵まれる予報で、各地の高速道路は渋滞が酷いらしい。
 私はこうして、実家にも帰らずに、自宅に客を招いている。
「沢城さんは連休中どこも行かないの?」
 グラスに入った牛乳とガムシロップにアイスコーヒーを注ぐ。
「行かないよ。神谷君は?」
「奇遇だな、俺も行かないのだよ」
 アイスコーヒーとコースターをテーブルに置いた。カラン、と氷が動いた。
 いつも通り、私は自分の分を後から持ってくる。
「いいなぁ、川の新緑が目に染みるよね。ね?」
 私の同意を求めて来るので仕方なく「うん」と頷く。

 三月の終わりに、課長との関係は解消した。
 落ち込みこそしたが、仕事を休んだり、寝込んだり、そこまでではなかった。
 それはこいつ、神谷久志のお陰だったんだと思う。
 励ましてくれるでもなく、放置するわけでもなく、凄く良い位置を保っていてくれた。
「予約票」の事なんて一言も触れなかった。

 私はオーディオラックにそっと置いてある黄緑色のピックと、リッケンバッカーを手に、ソファに座った。立ち上がって外を眺めていた神谷君はそれを見て「お」と言い、ソファの端に腰掛けた。
 ストロベリーフィールズフォーエバーを弾いた。神谷君は下手糞なりにもそこに歌をつけた。私はギターを弾きながら笑いを堪えるのに必死だった。

「何で笑ってんだよぉ」
 少年の様に口を尖らせて顔をそむけた。
「はい、予約票」
 予約の「予」の字が少し、削れてしまったそのピックを、彼に手渡した。
「どーゆー事?」
 神谷君が呆けたような顔で訊く。
「こっちこそ、これをどうしたら行使できるのって訊きたい」
 神谷君は難しい顔をしてピックを眺めていた。そして、はっと私の方を向いた。
「ほんとに?」
「ほんとに」
「何で?」
「私には神谷君が必要だと思ったから」
 今までに見た事が無いぐらい動揺する神谷久志は、リビングの中をぐるぐる回り始めた。
 ついに、ついに頭がおかしくなってしまったか。残念だ。
「ねぇ、拭くだけでメイクが落ちるあの紙、貸して」
 何に使うのか、私は怪訝な顔で寝室に入り、拭くだけシートを一枚持ってリビングに戻った。
 彼はそれを使ってピックを擦った。神谷君が描いた黒い字がみるみる消えていく。
「はい、じゃぁこのピックを使ってギターを弾くのは神谷君の前だけね。他の人の前ではこのピックを使っちゃぁいけませんよ」
 私に黄緑色のピックを寄越した。
 私はピックとギターを元の場所に戻し、コーヒーを飲むためにソファに座った。
 神谷君は三人掛けソファの端っこから、真ん中に席を移していた。
「神谷君の粘り勝ちですかね?」
「そうだね」
 私は苦笑した。彼は相変らず眠たげな、光の灯らない目をしながらこちらを見た。
「俺は終わりなんて考えないから。そういう悲しい思いはさせないから」
 こういう時ぐらい、真剣な目をしてくれたらいいのに、そんな風にぼやきたいのに、何故か私の目からは透明な液体が流れ落ちて来るので、身体と心は連動しないんだな、なんて思った。
「女の涙はここぞという時に残しておきなさい」
「うん」
 彼の温かい手が、私の頬を拭ってくれた。
 そのまま短くキスをした。あの時の、サンライズで課長とした短いキスを思い起こさせるキスで、辛かった。拭った筈の頬に再び流れ出す涙。
「まだ――まだ完全に忘れられた訳じゃないんだ。こうやって時々思い出しちゃうんだ」
 嗚咽交じりに話す私の声に、隣に座る神谷君は耳を傾けている。
「それでも神谷君の優しさが私に必要だって思ったの。それでもいい?」
 神谷君は私を身体ごと抱き寄せた。強く、苦しいぐらいに、抱いた。
「こうやって、課長の事なんて、雑巾の水みたいに絞り出しちゃえばいいんだ。思い出しちゃったら俺に言うんだよ。絞ってあげるから」
「うん」
 私の嗚咽がとまるまで、私の中の課長が出て行くまで、神谷君は私を強く強く抱きしめていてくれた。



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