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1 本当の私と神谷君

 課長が私と背中合わせの席に異動して来たのが入社三年目、四月の頭だった。


 今年は桜の開花が早く、お花見を兼ねた課長の歓迎会は、八割が葉桜となった桜の木の下で催された。昨日まで強かった風は止み、散る桜の勢いは衰えた。
 課長はどこかの支社からの転勤だと聞いている。色が白く、銀縁の眼鏡を掛けた、三十代半ばの、背の高い男性だった。
 幹事を任されていた私と同僚である神谷君、涼子の三人は、ブルーシートの端で「葉桜だよ?居酒屋にしときゃ良かったな」「葉桜って何か幸先悪いっつーか」「葉桜だって綺麗じゃない?花は散り際が美しいって言うし」と各々の意見を戦わせていた。
 辺りは薄桃色から茶色に変色を始めた花びらが、古ぼけた絨毯の様に広がっていた。


 つい最近、社用のラップトップPCが新機種に更新された。ディスプレイが、アンチグレアからグレアに変わったとかで(詳しい事は神谷くんから教えて貰ったが、よく分からなかった)、蛍光灯や背後にある窓からの太陽光が反射して、画面が見えにくい事がしばしばあった。背中合わせに座る課長が、私の顔の左右を行ったり来たりする事も。
 そんな中で、画面に写り込む、一枚の写真があった。
 課長の席の左端に赤いピンで留めてある、家族写真。
 一見して気が強そうだと分かる綺麗な奥さんと、まだ歩けるか歩けないかというぐらいの小さな男の子、そして課長と手を繋ぐ、恐らく就学前の男の子は眩しさに顔を顰めている。課長は朗らかに微笑み、その後ろには一般的な建売住戸が写っている。
 さすがにここまで細かいところまで、グレア液晶は映してくれない。ただ、何となくいつも映り込むのが気になって、朝一番早く出勤する私は、その写真を毎日一人でじっと眺めてしまうのだった。
「あっ」
 課長の椅子から少しだけ飛び出た鉤状の金具に、私の鞄についているレースの飾りが引っ掛った。鞄をおろしてから見れば良かった。慌てて取り外す。ほつれてはいないようだ。

 私、沢城みどりは、レース、ピンクやパステルカラー、リボン、シフォン素材、可愛い物には目がない、酷くありふれたOLだ。という事で通っている。
 地声よりはオクターブ高い声で話し、何事にも不満を漏らさず、嫌な仕事でも笑顔でこなし、上司からの受けも良い。酒はビールなんて以ての外、カクテルしか飲まない。
 そんな、女の子らしさを絵に描いたような「沢城みどり」を演じている。皆、それが私だと思って疑わない。
 ただ一人を除いて。


 神谷久志。竹内涼子と共にこの経理部に配属された同僚だ。時折、三人でお酒を呑むような仲にある。いつも眠そうな、気だるげな目をしていて、「へらへら笑う」と言う言葉がしっくりくる、そんな笑い方をする。
 仕事はできるし、その風貌がアナーキーさを醸し出しているのか、社内の女性からアプローチをされる事もままあるらしい(本人及び噂談)。「神谷君って結構モテるんだかんねー」と、自分を神谷君呼ばわりして、そうのたまった。

 確か昨年の、そう、ちょうど葉桜の時期だった。新人が配属されなかった我が部署は、何の理由付けもなくただの花見をした。その時も桜の満開期を逸している。
 二次会と称して同期三人で居酒屋に繰り出した。神谷君行きつけの「藤の木」という居酒屋は、駅から細い路地を入った、とても分かりにくい場所にあった。
 昔ながらの居酒屋で、大将と女将さん(と呼ぶ事は神谷君に教えてもらった)が「神谷君、いらっしゃい」と引き戸を開けてすぐ、声を掛けた。
「今日は綺麗どころを二人、連れてきましたー」
 全く心に思っていないのだろう、「抑揚」という言葉をどこかに置き忘れてしまった神谷君がそこにいた。

 甘いお酒はメニューに無く、「うーん、日本酒呑んでみたいな」と自ら申し出て、八海山を注文した。社内の飲み会ではカクテルを呑み、ビールと酎ハイは呑まない設定の沢城みどりなので、この店で何か注文するとなると、日本酒ぐらいしか呑めそうになかった。
 話しに花が咲き、気持ちが良くなった私は八海山升酒を三杯呑み、トイレで盛大に嘔吐した。血の気が失せて真っ青な顔をし、小学生が漕ぐ自転車みたいにフラフラして「吐いた」と呟いた私を見て、二人はさっさと会計を済ませ、私の腕を引っ張り外に出た。
 外がどんな空気だったのか、さっぱり記憶から欠落している。嘔吐した後の事は、神谷君の口から聞くことになる。
 絵に書いた酔っぱらいの様によろめいて歩く私に、神谷君が肩を貸してくれた。
 当時から涼子は、バンドマンの彼氏と同棲をしていた。彼女を気遣ってか、涼子ではなく神谷君が、私を家まで送ってくれた。

 私は駅に着くまでずっと神谷君の肩に凭れ掛かり、くだを巻き、電車に乗り、最寄駅からも腰が抜けた様にヘロヘロ歩き、途中、電信柱に突進して行ったそうだ。
 鞄の中の小さなポケットに入れた部屋の鍵を探すのに十分もかかったらしい。その間、初春の夜風のお陰でうすら寒いマンションの廊下で、神谷君はトイレに行きたくてうずうずしていたと言う。
 やっとビスケットのモチーフが付いた可愛らしい鍵を見つけ、大声で「あったよーん」と叫んだ私の口を押えてた神谷君は、鍵を開けて私の家に入った。私はベッドに寝かされたらしいが、もう記憶の彼方だ。覚えていない。
 靴は履いていなかったし、コートとマフラーはハンガーに掛けてあった。神谷君が脱がせてくれたらしい。それ以上何かされた形跡は無かった。神谷君を褒めてやりたい。いや、私には女性としての魅力が欠如していたのかも知れない。

 朝、目が覚めて、まだ眠い目をグチャグチャにこすると、人差し指の側面にアイメイクがこびりついた。
 メイクをしたまま寝てしまうとは何事だ――。
 なぜ私は居酒屋からここにワープを?どこでもドア!ネコ型ロボット?
 現状把握の為に周りを見渡すと、ベッドの下で、神谷久志が小さく丸まってコートを被り、眠っていた。
 慌ててベッドから降りて彼の傍に膝を付き、肩を揺さぶって起こす。二日酔いの為か、頭に鈍い痛みが走る。
「ちょ、まだあれだから」とか、彼はむにゃむにゃ言っていたが、容赦なく頬をビョーンとつねって起こした。彼は幾度か瞬きをしながら少しずつ目を開けた。左頬を抑えながら顔を顰めて「イテェ」と呟く。
「どの部屋まで行った?」
 問いただす私の声には少しの苛立ちが混じった。
「あっちの部屋まで、全部。誰か、男とかいんのかなーと思って」
 あぁ、やってしまった。ここまで隠し通して来た私の秘密を。
「あと、飲み物探しに冷蔵庫も」
 オイ、ヨネスケか。
 何だか頭がクラクラして来て、両手で側頭を抑えた。何なんなだよ、もう。
「お前、女らしい奴だと思ってたけど、あれって全部、猫被ってんのな」
 よっこいしょ、と口に出して身体を起こした。
 傷口に塩を塗るような事をヘラヘラしながら言ってのける神谷久志が腹立たしくて、でも前日呑みすぎたのは私のせいで、怒りのぶつけようが無かった。
「ビール飲まないって言ってたしさ、何かいつもフワフワした服とか小物持ってるし、もっとファンシーな部屋を想像してたよ」
 私はいつもより1オクターブ低い声で、「悪かったね」と言った。
「目の周り、ゴスロリ」
 さっき擦ったアイメイクの事を指摘され、ドレッサーに置いてあった拭くだけシートでアイメイクだけ拭った。
「いいんじゃないの?シンプルな部屋でさ。俺は女性がこういう部屋に住むの、嫌いじゃないね。ゴテゴテしてるよりよっぽど――」
「社内には漏らさないでよ」
 神谷君の胸ぐらを掴みかかる勢いで、若干凄みのある口調をもって詰め寄った。
「絶対だからね。涼子にも話さないで」
「あ、俺と沢城さん二人の秘密?楽しくなってき――」
「楽しくない!」
 一喝した。
「で、何で朝までいたの。送って来てくれた事には感謝してるけども」
 明らかに私の失態だった訳で、だけど送り届けたらすぐに退散すれば良かったのに。
「いやだって、鍵、閉めて行けないじゃん。俺、沢城さんちの合鍵持ってないしー。そうそう、それを探しに向こうの部屋まで行ったんだよ」
 あ、そうか。鍵閉められないか。オートロックもないこのマンション、一応、私の事を思っての行動だったのか。
「で、冷蔵庫には合鍵は入っていたかい」
「ビールを――一本いただきました」
 バツが悪そうな顔をしつつも目がヘラヘラと笑っている。こいつは――。
「とりあえず――ありがと」
「ユアウェルカム。朝飯ぐらいご馳走してくれんだろ?」
 厚かましい事をコイツは、とは思ったが、ゲロを吐いて醜態を晒した私を家まで送り届けてくれた恩を仇で返す事はできない。

 とりあえずキッチンへ行き、朝食の準備に取り掛かった。二日酔いで、今にも内臓が全部せり上がってきそうになりながら、必死で耐えた。本当はもっと寝ていたい。
「朝ご飯もシンプルなんで。悪いけど」
 ハムチーズトーストに、プレーンヨーグルト、ホットコーヒー。
「部屋も、飯も、沢城さん自身も、実にシンプルなんですなっ」
 茶化す会話は完全に無視して、テーブルにお皿を並べた。いただきます、と手を合わせる。朝ご飯を拒否する胃の中に、何とかパンとヨーグルトをコーヒーで流し込んでいく。
「お前、何で会社で猫かぶってんの?」
 神谷君はパンを半分に折って、齧りついている。
 ゴクリと私はコーヒーをひと口飲む。底の方に挽いた豆のかすが沈殿しているのが見えた。
「私みたいに個性のない人間はね、女らしく静かにしてる方が何かといいんだよ。上司ウケもいいし、縁の下の力持ち的な所に自分の存在意義を見出してるんですー」
 神谷君に話す事ではないと思いつつ、秘密を知っていてくれる人が一人ぐらいいるのも、何かあった時にフォローしてくれるかもしれない、とポジティブシンキングに転じた。まあ、猫を被っている理由は他にもあるのだが――。

 私の部屋は一見、男の部屋の様にシンプルで、飾りがない。色はモノトーンだ。音楽が好きでオーディオ機材に拘り、その横にはギターが二本と、VOXのアンプが置いてある。
 神谷君が合鍵を探すために覗いた冷蔵庫には、大量の缶ビールと、缶チューハイが鎮座ましましている。
 日頃会社で見せる私の姿からは、想像できなかっただろう。
「へえぇ、女って大変なのなー」
 ふんふん頷きながら、ホットコーヒーをズイっと啜った。
「お前ん家のコーヒー、うまいな。豆から挽いてんのな。また飲みに来てもいい?」
「どうぞ、コーヒーぐらいいつでも」
「うしっ、ご馳走様!」と元気な声で挨拶をして、椅子に掛けてあったカーキのコートをサッと羽織ると鞄を手に玄関へと歩いて行った。
「あの、本当どうもありがと」
「気にすんな、また美味いコーヒー頼むよ」
「うん」
 それじゃ、と言ってヒラリと後ろ手にあげてエレベータホールへ向かって歩いて行った。
 ホールの前まで辿り着くと振り返り、叫んだ。
「そのままのお前もいいと思うんだけどなー、俺は」
 ニヤリと笑った。とても腹の立つ、それでいてどこか憎めない笑い顔に、私は無言のまま顔を俯けて手を振った。赤面を悟られない様に。

 その時から神谷君は、私の本当の姿を知る、社内では唯一の男になった。