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10 艶めかしい唇

 シャワーを終え、この日の為に買ったワンピース型の部屋着(勿論色はパステルカラーだ)に着替え、部屋に戻った。
「すっぴんは恥ずかしいんですけど」
 そう言いながら鞄に化粧ポーチを仕舞った。何かと何かがぶつかり合うカチという安っぽい音がポーチから聞こえる。
 課長はベッドのへりに腰を掛けて夕刊を読んでいたが、それを綺麗に折り畳んでサイドテーブルに置いた。
「ここにおいで」
 彼の隣の布団を優しく二度叩いた。布団はふわふわと上下した。
 私は促されるまま課長の隣に座ると、彼は私の腰に手を回した。手はとても温かく、腰からその熱が体に伝わるのが心地よかった。いつか頬に触れた冷たい指先は、作り物であったのではないかと錯覚するほど、温かい。
「僕はね、君とセックスがしたいから恋人になった訳じゃないんだ。それは分かってくれるかな?」
「はい」
 あまりにストレートな表現だったので少し戸惑ってしまった。緊張を紛らわす為に、スリッパに覆われた足先を上下させた。
「僕が本気で君に惚れていて、僕は本気で君の恋人になりたい。それを分かってほしいんだ」
 妻子ある人間が、いくら本気と言ったところで、いずれは妻子の元へと戻っていくのだ。本気である筈がないのだ。それは分かっている。残酷な現実だ。
 それでも「本気で君の恋人になりたい」という言葉が酷く優しく、嬉しく、視界が曇った。
「私はこうやって、課長と二人の時間が過ごせれば、何もいりません」
 そう告げると、課長は掛けていた銀縁の眼鏡をサイドテーブルに置き、私の顎を引き寄せ短くキスをした。間をおかずもう一度。
 三度目にはお互いを貪るような、呼吸する暇も与えられないような長いキスをし、穏やかなセックスをした。
 眼鏡を外した課長の顔はやはり色が白く、赤い唇だけが浮き上がっていて艶めかしかった。鍛えられた彼の体躯を見て「野球かぁ」納得した。
 汗だくになって動く課長の顎から、私の胸に汗がしたたり落ちる。私の汗と一緒になって拡散する様を想像すると、何故だか酷く興奮するのだった。自分の中の変態性を見た。
 セックスの最中に課長を「課長」と呼ぶのは何かおかしいと、俯瞰している自分が笑った。喘ぎながら「課長!」なんて叫ぶのは何だかアダルトビデオみたいだ。とは言え「直樹さん」では過去の男を呼んでいる様で、気が向かない。
 課長は「沢城さん、好きだ」と何度も耳元で囁いてくれた。言い返せない自分が歯痒かった。次は「みどり」と呼んで貰おう。

 ベッドの背に寄り掛かりながら話をした。
「もう僕は、三年ぐらいセックスレスなんだ」
 何と返答したらいいのか迷った。迷った挙句、珍妙な質問をしてしまった。
「どちらからセックスレスになったんですか?」
 なんだそれは、と自分に自分で突っ込みを入れたい。
「そうだなぁ、二人目が出来てから、僕が一度誘ったけど拒否されて、それからしてないから、嫁からって答えでいいのかな?」
 ほら、答えに困っているではないか。バカミドリ!
「女性は出産すると、ホルモンバランスが変わって色々と大変らしい」
「久々のセックスは、どうでした?」
 スポーツかっ!本当にどうかしてる。課長と繋がった事で何か脳に悪影響が。
「うん、沢城さんはやっぱり穏やかで良かったよ。雰囲気も良かったし気持ちも良かった」
 課長は頭の後ろをぽりぽりと掻いた。照れている時こうする傾向がある。横並びでいるとお互いの顔色がうかがい知れないが、もしかしたら今、彼は赤面しているかも知れない。
 少なくとも私が頬を赤らめている、というのは事実だ。
 布団の上に出されている課長のしなやかな白い腕の先にある手のひらに、私の手のひらを重ねた。熱が、伝わる。
「課長の事、もっと好きになりました。どうしよう」
 課長を見遣ると、やはり赤くなっていた。あぁ、可愛い。
「僕も負けてないからね。こう見えて負けず嫌いなんだ」
 そう言って顔を見合わせて笑った。