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14 神谷の一大決心

 課長は一週間の休みが明けて、私の後ろの席に戻ってきた。
 彼はいつも通り、私のグレア液晶の端に映り込み、反対側には家族写真が映り込んだ。いつも通りだ。
 なのに私は、いつも通りでいられなかった。
 あの日見た、課長と腕を組む女性。背伸びをしても届かない、私よりも数倍魅力的な女性。嫉妬をしても届かない。課長を掴んで離さないその腕。

 総務部へ書類を届けに行った帰り道、課長に会った。
「何だか久しぶりな気分だね」
 課長はいつも通り、銀縁の眼鏡の奥にある目を細め、口角を上げた。
「そうですね」
 だけど私はうまく笑えなかった。普通でいるための演技ならいくらでもできる筈なのに、この時ばかりは顔が、表情筋が、言う事をきかなかった。まるで見てはいけない物を見てしまった時の様に顔がこわばってしまった。
 私は一礼して居室へ戻った。


 居室にある在席表に「外出」のマグネットを二日分貼り付け、「じゃぁ研修行ってきます」という涼子の後でぺこりと頭を下げて居室を出た。神谷君は慌てて支度をしていた。
 ビジネスマナー研修という、泊りがけの研修がある。
 都内にある社の研修施設には宿泊施設が併設していて、そこで二日間、ビジネスマナーの基礎を学ぶ。
 関東近県の同期社員が一同に会すので、ちょっとした同期会のようで、同期の人間は浮き足立っていた。
 まぁ、自分を隠して生きている私としては、面倒でしかない。

 一日目は上司と部下の役をそれぞれ決めて身近なコミュニケーションの取り方を学んだり、他社からの電話対応などについて学ばされた。しかもそれをビデオ撮影して皆で指摘し合うとかもう――恥だ、恥。
 正直な所、入社三年目でこのような研修をしたところで何の得があるのか、さっぱり分からない。まぁ、それなりに過ごした。仕事をしなくていいと思えば、研修なんて楽な物だ。
 夜は立食形式で「同期会」さながらの会食だった。テーブルに並ぶ沢山のオードブルには殆ど手が伸びず、私は金魚の糞の如く涼子にくっついて周り、時々神谷君にちょっかいを出しに行った。本当に私の人脈は狭く少ない。
 この席でも神谷君は「特許部の子安さんと付き合ってるんだって?」と訊かれていた。その度に苦笑いをして返事をしていた。特許部の子安さんと付き合うだなんて、男性社員の憧れだ。神谷君は沢山の男たちの肘鉄を食らっていた。

 私は課長と奥さんに出くわしたあの日以来、あの情景が頭から離れず、何をするにも上の空という事が多くなってしまった。
 立食パーティの後にはお酒も出て二次会という話だったが、私は涼子に「部屋に戻るね」と告げて早々に宿泊棟へ戻った。
 神谷君が「二次会出ないの?」と訊いてきたが、「うん、戻る」とだけ言った。

 ビジネスホテルの様な作りの部屋に入ると、嫌がおうにも課長との会瀬を思い起こしてしまう。
 課長が横浜にいる間、私は彼の恋人だ。だけどあの一週間は、治外法権なの?課長の隣には列記とした「奥さん」が並んでいた訳で。

 枕元に置いた携帯がけたたましく鳴った。着信は神谷君からだった。
『今、部屋?』
「うん」
『ちょっと、行ってもいい?』
「うん、いいけど。四階の三号室」
 何の用事だろうかと思いつつ、着替えやら何やらで少し散らかった部屋を簡単に片づけた。

「どうぞ」
 さすがにここでは「ぴんぽーん」はやらなかった。ドアをノックして神谷君は部屋に入ってきた。
「コーヒー無いけど」と言うと「買ってきた」と紙パックのコーヒーを二つ、袋から出した。
「俺好みの甘いやつだけど、いい?」
「うん、ありがと」
 受け取ったパック入りのコーヒーは、結露で濡れていた。
 小さな一人掛けのソファに神谷君が座ったので、私は向い合せる様にベッドのへりに座った。意外とスプリングの効いたベッドで、身体が不安定になる事に驚いた。お尻を少しずりずりと動かして、安定出来る場所を探した。
「いただきますね、コーヒー」
 そう言ってストローを取り出し、銀色の丸い部分にストローの突起を押し当てると、プツッという音とともにストローは紙パックに飲み込まれていった。
「で、どうした?」
 私は普段の沢城みどりに戻って言った。
「課長とはどうよ?」
 私の頭の中の九割を占めていた課長の事を訊かれて、少し笑ってしまった。それを怪訝そうな顔で神谷君は見ていた。
「どうもこうも、この前奥さんと一緒にいる所を見ちゃってさ」
「それで?」
「隠れた」
「何それ」
 神谷君はソファに凭れ、脚を組んだ。とっても高圧的な態度だ。
「そんで、別れを決心したの?」
 コーヒーを一口吸うとズズズと音がしたので、神谷君は首を傾げながらストローの位置を直した。
「そう言う訳じゃないよ。ただ、ちょっとショックだったってだけ」
「そう言う訳じゃない、のか」
 少し俯いて、何かを考えている様だった。私には彼の頭の中がさっぱり分からず、ずーっとコーヒーのストローをくわえていた。
「俺、好きな子に振られたっつったよね」
「あぁ、そう言ってたね」
 彼は俯いたまま、顔をあげようとしない。顔を覗き込んだが、この部屋は間接照明で暗いので、彼の表情は窺い知れない。
「その子の家によくコーヒー飲みに行くんだけど、その子に好きな人がいるっていうのが分かって、諦めたんだけどさ」
「神谷君、行きつけのコーヒー屋さん何軒あんの」
 私は意地悪そうな声で笑ったが、彼は一切笑わなかった。
「沢城さんって、鈍いんだね」
「はぁ?喧嘩売ってんの?」
 私は片眉をぐいっと上げて悪い顔つきをした。その瞬間彼はすっと顔をあげた。
「鈍いんだよ。俺の行きつけのコーヒー屋さんは沢城さんちだよ。沢城さんは課長に惚れてるって言ったろ。だから俺は振られたって言ったんだよ」
 神谷君が捲し立てる様に一気に喋ったので、私の思考回路は破滅寸前だった。
「だって――子安さん、付き合ってるでしょ?」
「誰でもよかったんだよ。本当に腹いせで付き合ってんだよ」
 暫く何も言えなかった。子安さんを邪険に扱っていたのは、そういう理由だったのか。ただの腹いせで「つきあってやってる」って事か。神谷君、案外酷い事をするんだな。
 私が神谷君を振った?そんなつもりはない。ただ、私は課長が好きだ、そう言っただけ。
 神谷君の事は、そういう風に見た事が無かったから、好きとか嫌いとか、そういう観点で見た事が無かったから――急にこんな事を言われても困る。
 黙っている私をじっと見ていた神谷君が口を開いた。
「俺は沢城さんが好きだ。猫を被ってる沢城さんも、コーヒーを入れてくれる普通の沢城さんも、楽しそうにギターいじってる沢城さんも、どれも好きだ」
 射抜くような視線でじっと私を見る。私の瞳は左右に揺れている。自分でそれを感じる。それぐらい酷く狼狽した。
「あの、言った通り、終わりの分かってる恋愛でも、課長が好きなんだ」
 うん、と彼は視線を外さずに頷き、先を促す。
「神谷君の事は勿論好きだけど、そういう好きとか嫌いとかで考ええた事が無くて――ごめん。コーヒー飲みに来てくれる、心を許せる大好きなお友達って感覚」
 その言葉が彼の事を傷つける事になっても、私は自分に正直でいなければいけないと思った。神谷君の前だけでは、絶対に正直である必要がある。そう思った。

「予約」
 先程まで私に向けていた視線を天井へ向けている。ぽつりとつぶやいた。
「予約すっから。課長がいなくなったら俺が沢城さんの隣に座る予約」
「何それ――」
「予約だよ。だって課長とは終わりがあるんだろ?それが分かってるなら、俺予約するから」
 何だよそれは、聞いた事がないよ、予約恋愛なんて。繰り上げ当選じゃあるまいし。
「だから、神谷君の事はそういう風には見れないって言ったでしょ」
「課長がいなくなるまでに、そういう風に見てもらえるようにするから。なるから。俺、結構しつこいんだ。だからまた平気な顔してコーヒー飲みに行くから」
 よっこらせっとー、と呟いてソファから立ち上がり、ドアへと気怠そうに歩いて行った。私もベッドを降り、後ろについていった。
 彼はドアの前で振り返り、私の目をじっと見つめた。
「全部本気だから。俺、今日言った事手帳にメモしておくから。沢城さんもしておいた方が良いよ」
 そう言ってドアから出て行った。

 翌日の研修はマナーとは一切関係ないような話だったが、各々の上司からの手紙が配られた。内容は、働き方はどうか、課内でどういう風になってほしいか、等本当に仕事の話ばかりだった。
 私は誰からの手紙が来るのかドキドキしていたが、課長ではなくて少しがっかりした。禿散らかした部長からだった。普段全く関わりのない部長からの、中身のないふわふわした手紙を読み、時間の無駄だと改めて思った。
 一生懸命に手紙を読む周囲を見渡した。神谷君とは別グループで良かった、と思った。