15 神谷君別れる 「そのピアス、似合ってるね」 涼子は課長に買ってもらったピアスを指さして言った。 「そう?ありがとう」 ピアスを揺らしてみせた。 「もう九月になっちゃったけど、夏っぽくて爽やかでいいじゃん」 もう九月か――。まだ蝉が鳴いている。まだ暑い。それでも世界は回っていく。時間は刻々と過ぎていく。終わりが――課長との終わりが刻々と近づくのは分かっている。 アナログな時限爆弾みたいに、端っこにある火種がロープを伝って反対にある爆弾に近づいていく。アナログだから、止められない。ロープを伸ばす事も出来ない。出来るとしたら、その火に酸素を送り込み大きく燃やすか、もしくは水を掛けて消火するか――。後者は考えいない。課長が好きだ。だったら私は大きく燃えて、時限爆弾にたどり着くまでだ。 九月に入り、あの研修が終わり、それから神谷君はいつも通り、少し気怠そうに挨拶をし、私の頭をポンと叩いてみたり、目が合うと手を振ってきたり、カレーをがっついたりしている。彼が彼ではないと思う時は、子安さんの隣にいる時だけだった。私は見て見ぬフリをするが、涼子が隣で「また神谷君が――」と話すので、見ない訳にはいかない。 自宅で雑誌を読んでいると、課長からお泊りのお誘いをいただいたが、私は生理日だった。 別の日にしましょうとメールで返すと、課長からの返信はこうだった。 『僕はセックスがしたいから君と会うわけじゃないんだ。一緒にいたいからなんだよ』 私は火がついたように顔を真っ赤にして、部屋の中をぐるぐる回りながら「ありがとうございます」の十文字を打つのに何分掛った事か。 そんな中、また情報屋涼子が情報を持って来た。 「神谷君、別れたらしいよ」 そのうち別れるだろうと予想はしていたから驚かなかった。 「そうなんだ」 「あら、意外とあっさりだね」 「うん、あの雰囲気じゃ、ね」 私は涼子からPCに目を戻した。 「みどりは最近何もないの?」 涼子が話し掛けるので、私はくるりと椅子を回し涼子の方を向いた。 「何もないです」 「そうなの?みどりは女らしくて可愛らしいのになぁ。世の中の男は何をやっているか」 私と涼子が定食を食べていると、神谷君が私の向かいにクリーム色のトレイに乗ったカレーをドンと置いた。麦茶が跳ねた。 「どうせ『子安さんと別れたのー?』って訊くんだろ」 私と涼子の顔を交互に見る神谷君の顔には呆れが見て取れる。目が据わっている。 「子安さんと別れたのー?」 わざとらしく涼子が訊くので、思わずぷっと吹き出してしまった。 「別れたよ、訳も必要?」 神谷君はドンと椅子に座り、スプーンを持った。カレールーとご飯を混ぜると、そこから白い湯気が立ち上り、さっと消える。 「そうだね、飯のおかずに。どうぞ」 涼子もふざけ過ぎだなぁと思いつつ、私も話を聞いた。 「付き合いなんてさ、好きな人とじゃないと、意味ないじゃん。俺、子安さんの事好きでも何でもないし、触りたいとも思わないし」 超ド級のストレート発言だ。そばに子安さんがいない事を祈るばかりだ。 彼の言う「好きな人」が今の所自分を指している事は明白で、彼の視線がそれを説明していて、私は赤面した。涼子と対面に座らなくて良かったと思った。 が、この赤面を神谷君が間違えた捉え方をするんじゃないかと思い、私は顔色を見せないように少し俯いた。 「食堂のカレーはうまいんだよなー」 そう言いながらカレーをかきこんでいる。まるで子供の様だ。 昼休みのベンチに、子安さんの影は無かった。 私は涼子と二人、ベンチに腰掛け、売店で買ったグミを食べながら、中庭でバドミントンをする人らを見るともなしに見ていた。 「暑いのに凄いね」 「暑いのにバカみたい」 同じ物事を見ても、感想が違う。まぁ、本来の私なら、涼子と同じ「バカみたい」と言ってしまうかもしれない。 「でもここんとこ、大分風が出てきたよね。少し過ごしやすくなってきたというか」 「確かにね。うち、エアコンないけど、寝苦しくなくなってきたな」 涼子の携帯がピロピロと着信を告げ、涼子は「ヒモだ」と言って電話を持ってベンチを離れた。 暫く彼女の後姿を見ていたが、突然「勝手にしろ、バーカ」と涼子が叫んだ。 バドミントンをやっている人が手を止めて、彼女を見ていた。 涼子は怒りのオーラを纏ってこちらに戻ってきた。 「何、どうしたの?」 「仕事辞めるって言いだした」 吐き捨てる様に言い、ベンチにドスンと腰掛けた。 「え、まだ働き出して数ヶ月だよね――」 「三か月。店長とそりが合わないってずっと言ってたけど、もう限界だとか言って」 「だからって今、電話してきたの?」 彼女は項垂れて頭を抱えるようにして言った。 「仕事辞めたら家、出てってもらうって約束してたから。家出て行くって」 泣いているように見える。肩が震えているように見える。彼女はその格好で震えたまま姿勢を変えない。 「そうかぁ」 言葉が出ず、私は彼女の背中に手を置き、さすった。やはり泣いている。 彼と付き合ってもう長いらしい事は知っている。彼は仕事に就いては辞め、就いては辞めを繰り返していたが、やっと自分の好きな音楽と関われる仕事――楽器屋で働ける事になったのに。 彼女はやっと顔をあげた。目元を手で拭ったので、タオルを貸した。 「ありがとう」と言ってそれを受け取り、もう一度、目元を拭った。 「仕方ないよ、私がそういう約束を決めたから。そうじゃないと、彼自身の為にならないと思ったから」 「うん、でも、ヒモ君の事好きなんでしょ?」 少し間があった。暫くバドミントンのラケットにシャトルが当たる音が響いた。 「もう、いて当たり前の存在だから、好きとかそういうのは分かんないけどさ。家に帰っても彼が帰ってこなかったら、辛い、かな」 またタオルで目頭を押えた。業務開始五分前のチャイムが鳴ったので二人立ち上がった。 「少し様子を見てみたらどうかな。彼だって行くところないでしょ」 「友達の所を転々とするんじゃないかな。もしかしたらまた誰かのヒモにでもなるつもりかも」 涼子とヒモ君の関係は絶対だと思っていた。こんな風にして簡単に崩れてしまうんだ。そう思った。 |