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17 涼子ご立腹

 十一月になり、風が急に冷たくなった。会社の前を流れる川には、茶色や黄色の落ち葉が蓮の花の様にそこら中に散らばって、その存在をアピールしている。この川は私の家の横を流れる土間川の下流に位置している。家の横ではそれなりの流れがあるこの川も、ここまでくると殆ど淀んだ水の溜まり場だ。

 久しぶりにDMGホテルに呼ばれた。冷たい風に晒されない様、首にストールを巻いた。冷えは美容の天敵、らしい。それよりも、それがある事により少し女性らしく見えるので、ストールを持ち歩いている。
 駅前まで着いたところで、課長が前を歩いているのを見つけた。私は走り寄り「お疲れ様です」と言った。
 課長は細い目を目いっぱい細め、「お疲れ様」と言った。
 いつもは誰かにばれないようにと待ち合わせをせずにホテルへ向かう。神谷君にホテルに入るところを見られたあの日、入口でばったり鉢合わせをしたが、それ以来一度も鉢合わせしたことが無かった。
「珍しくタイミングが合ったね」
「そうですね、久々ですね」
 こうして並んで歩いている時に、腕に絡みついたり、手を繋いだり、出来ない関係が歯がゆかった。自分が選んだ道だ、我慢しなきゃ。


「そういえば、八月に奥さんがいらしてた時、駅ビルでお見かけしました」
 ベッドの布団に胸まで入り、そんな話を切り出した。言おうと思っていてなかなか口に出来なかった話題だった。課長は枕を背中に当てて腰掛けていた。
「はは、そうか。見られちゃったか」
 苦々しく笑った。
「素敵な奥様でした。お綺麗で、スタイルもよくて、背が高くて、課長の隣がぴったりでした」
 思った通りを口にしたが、口にした途端に嫉妬心がドロドロと吹き出してくる。
「僕の隣は、今は沢城さんだよ。僕に奥さんなんていない」
 横になっている私の額にかかった前髪を、サラリと撫でた。
「そう言う風に自分を誤魔化そうとしても、やっぱり見てしまうとダメですね。奥様のお顔が頭を離れないんです。嫉妬しちゃいます」
 カッコ悪いな、と思いつつも、心情を吐露した。
「嫉妬なんてする必要はないよ。だって今僕の横にいるのは沢城さんで、それ以外いない。僕は今、沢城さんを一番に思ってるんだから」
 そう言って少し照れたように笑うのだった。眼鏡を外してどの程度見えているのか分からない。自分の将来についてはどうだろう。どの位見えているんだろう。
 私とはいつまでこうしているつもりだろう。どんな高性能な眼鏡を掛けたって、易々と見えるものではないし、会社の鶴の一声で、二人の関係は終わる。
 一番だったものが二番になるんじゃない。一番には就くべく人間が就き、二番以降は消えてなくなる。


 翌朝のチェックアウトも念のため、二人バラバラの時間にしている。
 今朝は私が先にチェックアウトした。朝の九時を回った頃だった。
 駅前まで歩くと、見知った顔に出会った。涼子だった。
 涼子はあれ以来、ヒモ君とよりを戻し、ヒモ君は例の楽器屋で再度働き始めたそうだ。めでたしめでたしだ。私は自分のギターをメンテナンスに出す時は、彼が働いているお店に出そうか、なんて考えていた。
 涼子、何してるんだろう。偶然そこにいる、と言うよりは、そこで待っていた、という風だ。
「涼子?」
「おはよ、ちょっと時間ある?」
 やっぱり。私を待ってたんだ。
「うん」
「ディーバ、もうやってるかな、あそこにしよう」
 昼間に会うといつも行く、カフェ「ディーバ」へ赴いた。
 彼女も私もホットコーヒーを頼み、窓側の席についた。足元から天井までの開けた窓からは、電車が行き交う様子が見える。
「あのさ、単刀直入に訊くけど」
 涼子が落ち着き払った声で言った。私は身を固くした。何だろう。
「うん」
「課長とどういう関係?」
 思わずハッと息を飲んでしまった。何で、何で知ってる?
 私が二の句を継げないでいると、彼女は続けて話した。
「前にサンライズで課長とみどりがお酒飲んでるのを見た事があるんだ。会社じゃそんなに深い関係に見えなかったから、偶然居合わせて飲んでるのかと思ったんだ」
 私は頷く事さえできなかった。
「そしたら昨日、仲良さそうに二人が歩いてるのを見て、ちょっとみどりには悪いけど、後をつけたんだ」
 私は頭を抱えた。後は言われなくても分かる。
「ホテルに入って行ったよね。ラブホではないけど。さっき、帰りでしょ?」
 声に出さず、頷いた。そこまで見られていたら嘘なんて吐けない。私はゆっくりと口を開いた。
「六月頃かな。不倫だってちゃんと分かってて付き合いだしたんだ」
 涼子はコーヒーを一口飲んだ。「それで?不倫だから私には言えなかったの?」
「そうだね。やっちゃいけない事だからね」
 私は俯いたまま顔をあげられなかった。コーヒーにすら手が伸びなかった。
「あのさ、私はみどりが不倫している事を糾弾したいんじゃないの」
 彼女がコーヒーカップを置く、コトっという音がした。
「何で私に一言、教えてくれなかったの。親友だと思ってたのに」
 私は顔をあげた。彼女は怒っている様な、泣きたいような、複雑な顔をしていた。
「不倫だって浮気だっていいじゃん、好きなんだったら。私だってヒモ男を好きになったよ。普通なら恥ずかしくて言えないよ。でもみどりだから、信頼できるから彼の話をしてた」
「うん」
「みどりは私の事を信頼できない?口が軽い情報屋だと思ってる?」
 私は頭を振った。
「そんな事無い。信頼してるし、大事な親友。だけど、私がしてる事って、浮気とかそんな軽い物じゃないから。社会的に悪とされてる事だから言えなかったんだよ」
 涼子は腕を組んで暫く目を閉じていた。私はコーヒーを一口飲み、ため息を吐いた。口を開いたのは涼子だった。
「相手が誰だろうと、好きって事には変わりないんだから。せめて親友と思ってくれてるんなら、私には言ってほしかった。課長が好きだ、付き合ってるって」
 瞑っていた目を開け、私を見た。私は彼女の目を見ながら「ごめん」と謝った。
「知ってれば、いざという時にフォローもできるしさ。頼ってよ、私を」
 彼女はにっこり笑った。笑うといつもの刺々しさが一気に削げ落ち、可愛らしくなる。彼女のそんな表情が好きだったりする。
「ありがとう、頼りにしてます」
 私も、同じようににっこりと笑って見せた。
「それにしたって、終わりが分かってるような恋愛によく手を出したね」
「それ神谷君にも言われた」
「何で神谷が知ってて私が知らないの!」
 彼女は怒ったような口調で、でも顔は笑ったままだった。
 好きだったらいいじゃないか、そんな風に言ってくれるとは思っていなかった。素敵な親友を持ったな、コーヒーの香りに包まれながらそう思った。