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19 神谷君のターン

 課長と駅で別れ、自宅に戻った。エレベータから降りると、玄関の前に人影があった。
 しゃがみ込んでいるその人は、カーキのミリタリーコートを着て、寒そうに縮こまっていた。

「神谷君――」
 私の声に顔を上げると、ポケットに仕舞っていた右手を上げ「オッス」と言った。
「何してんのー、今カギ開けるから」
 クッキーモチーフのキーホルダーがついた鍵を鞄のポケットから出し、ドアを開けた。
 すぐに玄関とリビングの電気を付け「どうぞ」と言った。
 神谷君は「おじゃましますー」と鼻声で言い、自分でスリッパを出してペタペタと歩いてソファに座った。コートに包まれた肩を上げて縮こまり、しきりに鼻を啜っている。
 私はコーヒーの準備をしながら電気ストーブの電源を入れ、神谷君の傍に置いた。
「何してたの?」
「何って待ってたんだよ」
「はぁ?」
「待ってたの。帰ってくるのを」
 意味が分からない。何で私の帰宅を、私の家の前で、あんな風にして待ってるんだ。締め出された子供かっ。
 急ぎで二人分だけ淹れたのでコーヒーはすぐに出来上がった。
「はいどうぞ」テーブルに置く。マグカップからは湯気が照明に向かって立ち上る。
「はいどうぞ」神谷君が小さな小さなビニール袋をテーブルに置いた。
「何これ」
「開けてみ」
 私は言われるがまま、そのビニールを開けた。中にはギターの形をしたキーホルダーと、何故か黄緑色のギターのピックが入っていた。そのピックを見て笑わずにはいられなかった。
 表には「神谷」裏には「予約済!」と黒いマジックで書かれていた。
 神谷君は素知らぬ顔でコーヒーを飲んでいる。「暖まるー」とひとり呟いている。
 私はギタースタンドからリッケンバッカーを持ってきて、適当にチューニングすると、神谷君がくれたピックで、ビートルズのストロベリーフィールズフォーエバーのコードを弾いた。
 神谷君もこの曲を知っていたらしく、「あ」と言って耳を傾けていた。
 全て弾き終えると「凄い」と言って手をぱちぱち叩いた。
「俺、ビートルズの曲の中でこの曲が一番好きなんだよね」
「へぇ奇遇、私は二番目だけどね」
「一番は何?」
「ノルウェイジャンウッド」
 村上春樹かよ、と突っ込まれた。
「沢城さん、ストロベリーフィールズの日本語訳ってみた事ある?」
「ないよ」
「今度見てごらん、課長が言いそうなセリフだから」
 想像がつかないけれど、「うん」と言っておいた。
「で、今日はこのキーホルダーと、予約票を渡しに来てくれた、という事?」
 部屋はだいぶ暖かくなり、さっきまでしきりに鼻を啜っていた神谷君も、コートを脱いで、大人しくなった。
「竹内さんが言ってたじゃん、好きな人にはプレゼントあげていいって」
 あぁ、私は頭を抱えた。やっぱりそう来たか。
「パパにはネクタイあげたんでちゅか?」
 ソファの隣に腰掛ける神谷君の脚を思いっきり蹴とばした。
「俺にはないの?」
「コーヒー」
「へ?」
「コーヒーで我慢しなさい。ここのコーヒーは神谷君しか飲みに来れないんだから」
 多分「神谷君しか」という部分に反応したのだろう、やたらとニコニコしながらマグカップを両手で握っている。
「予約票は再発行できます。無くなったら必ず申請してください」
「普通予約票ってのは予約した人が持つものじゃないの?」
 減らず口の神谷君がこの時ばかりは黙った。暫く黙ってからドヤ顔で言った。
「いいんです。神谷君ルール発動だからー」
 仕方がない人だな、と思って少し笑った。
 この、肩肘を張らなくていい空間が、何だかとても居心地が良い事に気付き始めた。
 本当はもっと早くに気付いていたのかも知れない。
 神谷君とこうして同じ部屋にいて、同じソファに座って、他愛もない話をしているこの時が、とても心地が良い。
 神谷君は相変らずニコニコしながら、ヘタクソなストロベリーフィールズフォーエバーを歌っている(とりあえずビートルズに謝れ)。
 彼の予約なら本当に――本当に受けてもいいかな。そう思い始めていた。
「課長には何を貰ったの?」
「マフラー」
 手に持ってそれを見せた。
「俺が買ったピックの黄緑の方が、良い色だな。俺様の圧勝。それにギターのキーホルダーもある。数でも圧勝」
 ちょっと貸して、と私の手からマフラーを分捕り、じーっと見ている。何を確認したのかは分からないけれど、すぐに「はい」と返してきた。
 それを受け取ろうとした瞬間、手首を掴まれ身体を引き寄せられた。短くキスをされた。

 頭の中がチカチカした。心臓が喉から出そうに苦しい。何すんだこの男。
「何、何なの急に」
 掴んだ手を離さない。私の目をじっと見つめたまま彼は言った。
「俺は本気で言ってるんだからね。本気で沢城さんの事を予約してるんだからね。その本気を、今の行動で見せてみました」
 そして手を離し、残っていたコーヒーを飲み干し「ごっちそー」と楽しそうに言った。
 あぁコイツ本当に頭が沸いているとしか思えない。何なんだ。頭ん中カオスか。
 とんだサンタクロースが我が家に来たもんだ、と思った。
 でも、心のどこかで、そんなに悪い気はしないな、と思っていたのも事実。
 「好きだ」と言われると好きなってしまう魔法。
 クリスマスにサンタが持って来たのは、この魔法かも知れない、と柄にもなく思ってしまったのであった。