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2 課長のお手伝い

「金曜はお疲れ様」
 出勤して来た涼子に手を上げた。
 涼子は爽やかな笑みをこちらに向け、鞄を机に置いた。
「二次会行けなくてごめんねー。ヒモがさぁ、家の鍵を忘れたとかでさぁ」
 涼子は女性にしては上背が高く、華奢で、美人な部類に入る。何をしても目立つ存在で、飾らない態度も非常に魅力的だ。そんな彼女は恋人を「ヒモ」と呼ぶ。ストレートだ。
「そういえばヒモ君、仕事見つかったの?」
 私も遠慮せずヒモ君呼ばわりだ。
「うん、楽器屋でバイト始めたみたい。空いてる時間にスタジオに入ってるらしいよ。働いてる時間と遊んでる時間、どっちが長いんだか」
 生活費の殆どは涼子が賄っていると言う。それでも彼を手放さない。惹かれる何かがあるのだろう。羨ましい。

 私は――大学時代は素のままの沢城みどりで学業もそれなりにこなし、バンドもやって、恋もした。
「お前には女らしさを感じない」卒業を前に、ある男にそう言われ、失恋をした。
 今の私がネコっ被りなのは、このせいでもあるのだ。
 目立たなくて良い、兎に角、女の子らしくしよう。入社と共にそう心に誓ったのだ。ある意味社会人デビューだ。演劇部にでも入れば良かった。なかなかの演技力なんだから。


「沢城さん」
 真後ろから声を掛けられた。
「何でしょう?」
私はキャスター付きの椅子をぐるりと回し、課長に向き合った。
「今度ね、本社の面々とちょっと面倒な会議があってね。その資料を作らなくちゃいけないんだ」
 ええ、と微笑む。
「隣のコピー室でひたすらレジメを作らないといけないんだけど、明日のそうだなあ、昼過ぎ三時ぐらいから、時間取れないかなあ?」
 課長はとっても控えめな言葉使いで私に依頼をした。異動してきて、まともに会話したことがなかったので、「こんな優しい声、話し方をするんだ」と好意を持った。
「ええ、その時間開けておきますね」
 少し首を斜めに傾け、頬を緩める。勿論、演技だ。
「助かるな。神谷君に頼もうとしたら『そういう仕事はマメな沢城さんが向いてます』って教えてくれてね」
 神谷君の席を見ると、会話を聞いていたのかPCのモニタから顔をあげ、私に向かって手を振る。神谷の野郎――。
「ええ、そういう単純作業、って言ったら変ですけど、そう言うの好きなので」
「ありがとう、良かった」
 そう言った後に、細いフレームのメガネの中から暫く見つめられたのでドキドキした。
 誰でも「この人に惚れそうだ」という直感というものがある。この瞬間、私はそれを感じた。瞳の揺れを悟られまいと、椅子を反転させPCモニタに向かい、研究推進部の請求書の処理に当たった。

「だから困るんですよ、そういうの。そっちは品物が届けばそれで良いのかも知れないけどね、先方にお金を払うこっちの身になって考えてもらわないと困るんですっ!」
 涼子の怒りの鉄槌だ。一日平均一回は確実にある。本心むき出しの涼子はサバンナのハイエナの如く、強く美しい。
 だからって何でヒモ君を引き取っているのか、不明。


「神谷君、特許部の子安さんに告白されて、断ったんだって?」
 定食を乗せたお盆をおおざっぱにテーブルに置いたので、涼子のお味噌汁は器から少し零れた。
 社内の恋愛情報は光の速度で伝わるものだ。涼子が仕入れてきた情報に、神谷君はカレーにガッつきながらモゴモゴ何か言っている。
「は?」
「断った」
 何もなかったかの様にカレーを口一杯に詰め込んで、麦茶で流し込む。
「何でよ、あのような美人を」
 特許部の子安さんと言えば、研究部門で三本の指に入る美女だ。彼女をみすみす逃すとは。
「何で断ったの?」
 私はワントーン高い声で訊いた。
「人は見た目じゃないからねぇ」
 チラリとこちらを見遣った神谷に麦茶を浴びせてやろうかと思ったが、やめた。ここは会社だ。

 約束の三時になったので、会計ソフトをスリープさせて印刷室へ向かった。課長は既に一部目の印刷に取り掛かろうとしていた。
「あ、課長、これは元原稿を上下逆ににセットして、こうして一気に印刷すると、レジメ作業がラクになりますよ」
 チラリと課長を見ると、ホホォと関心の表情を浮かべていた。
「印刷が終わったら、十二枚をワンセットにしてホッチキスで留めて完成ですよ」
「沢城さんに頼めば、僕がやるより早く終わりそうだな」
 私はにっこり笑って見せた。
 プリンタからモノクロ印刷の紙が排出されていく。沈黙した中に、コピー機のリズミカルな音が響く。
「沢城さんの喋り方、いいよね」
 急に言われたので恥ずかしいというよりは驚いて、課長の顔を見上げた。
「いや、今の女性って強いからね。竹内さんもそうだけどさ、うちのカミさんもそうなんだ。強いんだ。だから君の喋り方を聴いてると安心する」
「そ、そうですか?何か嬉しいです」
 これは偽物の声です。偽物のキャラです。だけど嬉しかった。こんな風に、自分の仕草や声を褒めてくれたのは課長が初めてだった。それが偽物の私であったとしても。

 コピー機に目を落とす課長を見遣る。
 課長クラスにしては若い。優秀なのだろう。フレームの細いメガネに短髪で、清潔感がある。歳の頃は35歳と言ったところだろうか。眼鏡の奥の細い目を、更に細くして笑う顔は、何だか安らぐ。
 あっと言う間にコピー用紙の束が山の様に出来上がった。
 四つの山に分け、頭から十二枚を数えてホッチキスで留める。ここからは単純作業だ。
 バチンというホッチキスの音が、狭いコピー室に響く。
 空調は効いているが、部屋の狭さゆえに少し汗ばむ。課長の額には光るものがあった。私はポケットからピンクのタオルハンカチを出し、課長に手渡した。
「汗、結構かくほうですか?」
 いいの?といいながらそれを受け取り、課長は額を拭った。
「そうだとね、どちらかというと、汗っかきかな」
 タオルハンカチを傍に置き、またホッチキス留めを再開した。
「これ、なかなか大変な作業だね。定時で終わるかなあ」
 時計をチラリと見ながら難しい顔をした。
「いいですよ、私なら。何も用事ありませんし」
 作業の手を止めずに言った。
「悪いなあ、でも沢城さん、イイ人が待ってたりしない?」
 こちらを見る目は、ふざけてなんていなくて、本当に心配をしている風だった。
「いないですよ。大丈夫です。もう半分ぐらいまで終わったかな。頑張りましょう」
 課長はメガネの奥にある細い目を更に細めて笑った。
「沢城さんって、お日様みたいな人だね」
「言われた事無いですけど嬉しいです。あ、指先がこんな――」
 インクで薄汚れた指先を見せてフフフと笑った。
「ああ、申し訳ないなあ。綺麗な指を。あ、今度一緒に飲みに行こうよ。お礼にって事で。確か甘いお酒が好きなんだよね?」
 自分のパーソナルな事を知っていてくれた事が嬉しくもあり、驚きでもあった。
「はい、是非連れて行ってください」
 歳の差は十歳弱といったところだけれど、何の問題もない。
 穏やかな課長と、いろいろな話をしたいなと思った。
「タオル、洗って返すから」
 課長はスラックスのポケッに突っ込んだ。
「いや、いいですよ。私、洗いますから」
「いや、僕の汗なんて汚いからさ」
 と苦笑しながら、針切れになったホチキスを交換していた。