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5 秘密のデザート

「沢城さん」
 会議からの戻り道、廊下で後ろから声を掛けられた。澄んだ声の持ち主は課長だった。
「あ、お疲れ様です。課長も会議ですか?」
 課長の手元にはいくつかの資料が握られていた。
「うん、そう。今終わった所なんだ。ところで、食事の事なんだけど」
 私は先日の神谷君とのやり取りを思い出し、足元に視線を落とした。
「あの、その件、お断りしようかと思ってまして――」
 課長はその細い目を目いっぱい広げて丸くした。
「どうして?」
「奥様やお子様に会ったりしたらまずいですよね――」
 私は再び俯き、そのまま顔を上げる事が出来なかった。
「ハハハ、それなら心配ないよ」
「え?」
 課長の朗らかな笑い声に、私は顔を上げ、彼を見た。
「僕ね、単身赴任なんだ」
 目を細めて口元を引き上げる。そんな風に課長は笑う。。
「何しろ君を取って食おうなんて思ってないから心配しないで。今週の金曜日なんてどうかなぁ?」
 何かを喋る度に、真紅の唇から覗く真っ白な歯列の整いが目に入る。綺麗で、色っぽい。
「えぇ、そう言う事なら、じゃぁ金曜日、予定しておきます」
 顔を傾け、にっこりと笑顔を作った。

 居室の前まで来ると課長は「じゃ、そういう事で」とこの会話を不自然に終わりにした。
 室内の人達に当然、知られたくない事なのだろう。


 金曜の朝、デスクの上に小さなメモが置かれていた。
 「カッペリーニというお店、十八時で予約しています。山崎」
 山崎直樹。課長の名前だ。私に「女らしさが足りない」と言った元彼も、漢字違いの「山崎尚樹」だったので、すぐに覚えた。

 昼休み、涼子に今日の約束の話をすると、彼女はニヤニヤとして言った。
「面白そうじゃん、何かあるかもよ」
「何もないよ」
 彼女は持っていた小銭入れを空に投げては取っ手を繰り返した。
「興味ない子を食事に誘わないでしょ。私、誘われてませんけど、何か?」
 そんな事を言うので、吹き出してしまった。
 それにしたって皆、同じような事を言うもんだな。
 課長と食事=何かあるって?それは双方の合意があって初めて成り立つものであって。
 課長の心を読む事は出来ないけれど、少なくとも私は――私は?
 課長が眼鏡の奥にある目を細めて、口を引き上げて笑う顔や、会話中に見える歯列、澄んだ声。何かの香り。気になる部分が沢山ある。気になり出すと、更に気になる。
 考えただけで何故か顔が火照るのが分かった。
 相手は妻子持ちだ。沢城みどり、よく考えなさい。もう、子供じゃないんだから。


 約束通りの十八時にカッペリーニというお店に着くと、課長が奥の席から手を振っていた。
 店内にはパスタが茹で上がる匂いやガーリックの香ばしい香りが広がっていた。イタリア料理だ。
「お疲れ様。どうぞ、座って」
 勧められて席に着いた。
「良くいらっしゃるんですか?このお店」
「いや、実は初めてでね。沢城さん達はどういうお店が好きかなぁって頭を絞った結果がこれなんだ、あまり好みじゃないかな?」
 課長は頭の後ろに手を遣り、首を捻った。
「あの、私イタリア料理大好きですよ。畏まったお店じゃなくて良かったです、本当に」
 これは本当だ。懐石とか、フランス料理とか、そんな所に連れて行かれたら私は一目散に逃げ出していただろう。課長のセレクトはかなりいい所を突いている。
 店長さんにお勧めを訊き、前菜とパスタ、ピザを頼んだ。後から「食後でいいので彼女に何かデザートを」と課長が言うのが耳に入った。聞いていない振りをした。
「課長、単身赴任されてるんですね。知らなかったです」
 前菜のサーモンを突きながら口火を切った。
「うん、青葉寮に丁度空きがあってね。僕、東北支社からの転勤なんだ」
「東北、ですか」
 あの、机の横の写真を思い出す。あれは東北のどこか――なんだろうか。
「課長の机の写真は、ご自宅ですか?」
 あぁあれね、と少し照れたように笑った。
「夢のマイホームと言うのかな、岩手なんだけどね。今造成中の新興住宅地の一角を買ったんだ」
「お子さん、まだ小さいんですね」
 丁度パスタとピザが運ばれてきた。ふんわりと湯気が顔にかかる。魚介とトマトソースのパスタ、アンチョビとバジルのピザだ。
「うん、上が5歳、下が2歳の時の写真かな」
 取り皿にパスタを取り分け、課長の目の前に置くと「ありがとう」と視線を寄越した。私は自分の分も分取し、フォークにパスタを絡めた。
「じゃぁパパがいなくなって寂しがってますね」
 パスタを口に運び、上目使いで課長を見ると、困ったような悲しむような顔で少し笑った。
「僕がいなくても妻が全部やってくれるからね」
 彼はピザに手を伸ばしたので、すかさず取り皿を目の前に置いた。
 こういう気配りも全て、あの男の一言から始まった。女だから、女らしく。周りを見て、先んじて。本来の私ではない。

「神谷君と竹内さんとは、同期入社なのかな?」
 急に身近な話題になったので、狼狽してフォークに巻いたパスタをお皿に落としてしまった。
「あぁ、そうです。三人同期で配属されたんです」
「仲良いよね。時々呑みに行ったりするの?」
 私はとびっきりの笑顔で「はい」と答えた。
「いいな。僕は横浜には知り合いなんていないから、そういう事も無いな」
 少し寂しそうな顔をした。家族からも離れ、知らない人間ばかりの中で仕事をしている課長が少し、気の毒に思えた。
「あの、私を誘ってください。私、甘いお酒なら沢山飲みますし。気軽に誘ってください」
 そう言うと、目を一杯に細めて口角を上げる、あの笑い方で「ありがとう、沢城さん」と囁く様な優しい声で言った。

 食事を終えると、デザートのチーズケーキが運ばれてきた。
「あれ?デザート?」
 知ってるくせに、私。
「僕からのサービス」
 大げさに見えなくもないジェスチャーで喜んだ。
「ありがとうございます、嬉しいです。課長は召し上がらないんですか?」
 僕はちょっと、と手を振った。甘い物が好きじゃないんだろう。
 いただきますと言って食べ始めた私の様子を、モルモットでも観察するようにニコニコしながら眺めている。
「沢城さんって、食べ物をとても美味しそうに食べるね」
「え、そうですか?」
 出されたものを残さないという自覚はあるが、美味しそうに食べるなんて誰にも言われた事が無かったので、少し、いや凄く嬉しい。
「うん、そういう人、僕は好きだな。それでいてガツガツしていない。そして気配り上手だしね」
「はぁ――」
「まだ時間は大丈夫?」
 二件目はお酒にしないか?と誘われた。
 一件目は課長のセレクトだったので、二件目は私が好きな「サンライズ」というバーを推薦した。
「一応これでも課長だからね」と言ってお会計を済ませてくれた。私はお礼を言い、サンライズへ案内した。
 六月下旬の空気は、夏を待てないとばかりに熱気がこもっていた。課長と私が並んで歩くというのは何だか変な気分だった。