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 インターハイ予選が終わり、運動部は代替わりをした。郁美は女子バレー部の部長になり、泉は副部長になった。強気な郁美と面倒見の良い泉のツートップだ。浩輔と大輔は今後の試合の暫定的スタメンとなった。
「俺なんて鍵係だぜ」
 がっかりした顔で皆に言うのは春樹で、バスケ部の倉庫の鍵係に任命されたらしい。食事をしていた一同はどっと笑った。
「でも信用されてるって事でしょ、それ」
 郁美が庇うと「もう、そうやっていちゃいちゃしないで」と大輔がからかう。
 そんな時でも浩輔はどこか遠い所で笑っているのか、笑っているのに気持ちが離れているのか、不思議な表情をする事に、泉は座りの悪さを感じていた。ただ、他の仲間が何も言わないので、自分の感覚がおかしいのかも知れないと、泉は自分の中で消化した。
「はぁ、男バレも代替わりしちゃって、楽しみが無くなっちゃったな」
 泉は机に突っ伏すと、四角い二段のお弁当箱がじわじわと前に動いて行った。
「小出先輩の事?」
 郁美に訊かれ「そうです」と膨れる。
 バレー部に入って以来、ずっと恋い焦がれてきた小出先輩と、もうつながりが無くなってしまったという事に、空しさが募る。毎日の練習は勿論、夏休み中の合宿だって男女同じ日程で行っていた。だから殆ど毎日、小出先輩を見ていた。バレーをする姿しか見ていない。それだけでも惚れるには十分過ぎた。
「そんなに本気なら、告白して玉砕しちゃえばいいのに」
「あんた、玉砕って言葉の意味、分かってて言ってる?」
 泉は春樹に食って掛かった。しかし確かに、バレーをしているところしか知らないのに、好かれようがないのだ。玉砕覚悟で挑むしかないと泉は考えていた。
「でもねぇ、もう受験勉強も始めるだろうし、告白するなら今しかない、よね」
 誰に言うでもなく一人で納得すると、郁美が「そうだね」と後押しをする。郁美だって、実らぬ恋である事に薄々感づいているのだ。それでも、泉は告白をしないとずっと引きずるだろうと思い、背中を押した。
「という訳で、大ちゃん、協力してよ。小出先輩呼び出してよ」
 大輔はそれまで黙って弁当を突いていたが、手を跳ねあげて、ぶんぶん首を振る。口の中の物を懸命に嚥下しようとしている。
「無理無理、バレー以外の事で、小出先輩になんて絶対話し掛けらんねぇ」
 男子バレー部は上下関係が厳しい事を泉も良く知っている。部活中にバレー以外の事で、私語でもしようものなら先輩からの厳しい罰が下されるし、部活以外でも先輩に気軽に話しかけられるような雰囲気ではない。挨拶と声掛けだけで成り立っているような部活なのだ。
「ケチ。チキン野郎」
 泉は弁当に入っていたミカンの皮を大輔に投げつけた。
「俺、協力しようか?」
 意外な所から声が上がって、その顔には例の、しっくりこない笑顔が凝着していた。
「ほ、んと? 大丈夫?」
 大輔にはあつかましく依頼しておいて、浩輔には遠慮気味な泉の様子を、大輔は面白くなさそうに腕組みをして見ていた。
「付き合いが長いより短い俺の方が、逆にやりやすいでしょ、そういうの」
 焼きそばパンの、一番最後のパンの部分をぽいと口の中に入れて、また落ち着かない笑みをこちらに寄こした。

 部活が休みの水曜日が決行日となった。
 浩輔は3−Aの教室の前まで行くと、ドアの近くにいた人間に、小出先輩を呼び出してもらった。中から、抜きに出て背の高い小出先輩が、ドアをくぐるようにして出てきた。
「今、話、いいですか?」
 浩輔は自分より少し目線の高い小出先輩に目を向けると、彼は低い声で「部活の事?」と訊くので「いや、違います」と答え、話がしたいと言っている女子生徒がいる、と告げた。
 「じゃぁ更衣室裏な。渡部、サンキュ」
 部活で見せる顔とは少し違う、小出先輩の少し優しそうな顔を見て、小出先輩と泉がうまくいくといい、と浩輔は思いつつ、小走りに教室に戻った。大輔はもう既に帰宅していて、教室には泉の鞄しか残されていなかった。
 遠くから雷鳴が聞こえてきた。今日の天気予報は晴れの筈だったが、にわか雨ってやつか。ロッカーを覗き込み、折り畳み傘の存在を確認すると、自席に戻り、座ったまま窓の桟に腕と顎を乗せて、下を通る人を見ていた。
 そのうち、空から降ってきた雫が、ワイシャツの白い袖を濃く丸く染め始めた。と思うと、一気に降り出した雨に驚き、すぐに窓を閉めた。雷は随分近くで鳴っている。更衣室裏は屋根が無い。大丈夫だろうかと、ふと思う。
「かなり降ってるなぁ」
 誰もいない教室で、誰もいない空間に言葉を吐きだしながら、立ち上がって外を見ると、少し曇ったガラス越しに、泉が手ぶらで歩いているのが見えた。窓を開けると風と雨が吹き込んできた。
「泉ちゃん」
 声を掛けると彼女は額に手をかざして上を向き、ひらりと手を振って、昇降口へと歩いて行った。

「ただいま」
 教室に入ってきた泉は雨に打たれて、びしょ濡れのシャツからは下着まで透けていて、浩輔は目のやり場に困った。雨の様子を伺う様に視線を逸らせた。
「あのさ、俺のロッカーに使ってないタオルがあるから、それ使って身体拭きなよ。風邪ひいちゃうよ」
 ガタン、とロッカーを開ける音がして、タオルと制服が擦れる音がする。暫く外を見ながらその音に耳を傾けていた。
「もうベスト着たから大丈夫だよ」
 自分の下着が透けているという自覚はあったのだろう。上からベストを着て、ポニーテールに結った髪をタオルで挟んで乾かしている。
 浩輔は、告白の結果がどうだったか訊かなかった。泉が自分から口にするまで、待った。
「訊かないの?」
「何が」
「告白の事」
 浩輔は長い脚を組み直しながら「訊かないよ」と言った。
「話したかったら話して。話したくなかったらこのまま帰ろう」
 泉は髪を乾かす手を止め、暫く浩輔を見つめた。
「やっぱり、優しいね。こう君って」
 ゆるゆると首を振って浩輔は「誰かの幸せを願いたいだけ」と言う。泉はタオルを持ったまま椅子に座ると、ゆっくりポニーテールを挟みながら、口を開いた。
「あのね、ダメだった。嫌いじゃないけど受け入れられないって」
 ひゅ、っと浩輔が息を急激に吸い込んだ音が、泉に聞こえた。一瞬だけ、教室の空気が氷点に達したように雰囲気を変えた。
「大丈夫?」
「あぁ、ごめん、大丈夫」
 その顔には狼狽が溢れ出ていて、一体何があったのか、泉には皆目見当もつかなかった。
 嫌いじゃないけど受け入れられない。浩輔は過去にこの言葉を掛けられて、酷く傷ついた思い出があった。それを瞬間的に思い出してしまった。人間の記憶とは恐ろしい物だと浩輔は痛感する。たった一言で、その時の情景も、声音も、表情も、匂いも、思い出してしまう。高性能な機械だ。
「ありがとうね、小出先輩、呼び出してくれて」
 うん、と静かな声で返事をした。感謝される事が自分の喜びだ。自分は何も求めてはいけない。自分は与える存在でなければならない。静まり返った教室で、外からの雨と雷だけが断続的に音を立てている。
「泉ちゃん、傘は持ってきてる?」
 泉は顔を顰め「それが持ってきてないんだな。駅まで走って、売店で買おうかなって」と言う。
「俺、折り畳み持ってるから、駅まで一緒に入っていきなよ」
 立ち上がると浩輔はロッカーへ向かい、黒色の折り畳み傘を手にして席に戻った。
「ほんと、何か色々ありがとう。タオルも。洗って返すから」
 申し訳なさそうに整った顔を顰めて礼を言う泉を「いいから、いいから」と浩輔は何度も抑えるのだが、泉は終始礼を言いっ放しだった。
 自宅のある大槻駅まで着くと、泉と浩輔の帰り道は逆方向だった。
「あ、そうだ、明日お弁当作ってくるから、パンは買ってこないで」
 随分前の約束に、浩輔は少し記憶を辿ったが、確か時間割表を作るのを手伝ったお礼だった。あれ以来浩輔と泉は「掲示物係」に任命された。
「それは楽しみ。期待してるよ」
 じゃぁ、と身体を翻した泉に「泉ちゃん」と背後から声を掛ける。
「俺の家、駅からすぐそこなの。今、小振りだし、これ使ってよ」
 彼女の細い腕を掴み、その手に黒い傘を握らせると、浩輔は逃げるように走り去った。 雨に濡れる事には慣れている。ただ、昔を思い出すのが辛いだけ。