1 志保



 薄暗く、1年中埃っぽく、湿り気を帯びている物置部屋。新年会、お花見、子供の日、プール、お月見、ハロウィン、クリスマス。1年のイベントに使う道具の数々が、あちこちに散乱している。

「心臓が左側だけにある理由、知ってる?」
 明良(あきら)が私の目じっと見つめながら言った。
「知らない」
 明良はその細くしなやかな両腕を私へ伸ばし、抱き寄せた。
「こうすると、右と左、両方に鼓動を感じるだろ。足りない分を補うように、神様が片方にしかつけなかったんだよ。」

 カーテンの隙間から見える月は、冬の澄んだ空気のせいで、一際輝いて見えた。
「俺が、志保の右の心臓になる。俺が志保を一生大切にしていくから。絶対に守るから。」
 そう言って、中学1年の冬、私と明良は初めて繋がった。愛し合った。


2 令二



 入社して丁度1年が経った。俺は1年目と同様の部署で、同様のグループで、同様の仕事を引き続きやっていく事になっている。
 3月の終わりまで俺の隣に座っていた、禿散らかした万年部長が退職し、今その席は空いている。2階のグループから、同期の女子社員が課内移動してくる事に決まっている。

 玄田志保。見た目は小さく細く、まぁ美人の部類に入るのだろう。何に対しても動じることなくクールに受け答えする、クールビューティーという印象を俺は持っている。
 彼女は入社後に催された新人歓迎会で、毎年お馴染みなのであろう「彼氏、彼女は?」という質問に「彼氏と同棲しています」と堂々と答えた。それだけで「完成された大人の女性」だと感じ、それ以降志保ちゃん(ちゃん付けなんてして、彼氏に怒られないだろうか)にはおっかなびっくり接している、ケツの穴の小さい俺だ。

 そんな俺は、ちょっと顔が普通よりもイケてる事を良い事に(と、自分で言うのもアレだが、周囲からそう言われるので仕方がない)、今は地元の新潟に1人、そしてここ横浜に2人、女がいる。入社してすぐの同期会で志保ちゃんにこの話をしたら「人としてどーなの」と一蹴されたのを鮮明に覚えている。人として全否定。

「失礼します」
 大きな段ボールをひと箱抱え、その顔は殆ど見えないが、白衣に赤いスニーカーを履いている、いつもの志保ちゃんだった。俺はすぐに傍に行き、段ボールを持ってやった。「さすがモテ男、鈴宮令二、気が利く」などと含みを持った褒め言葉を投げられた。
 グループ全員が仕事の手を止め、志保ちゃんの言葉を待った。

「4月1日付でこちらに移動しました、玄田志保です。また1からの仕事となると不安ですが、昨年までの経験を活かして皆さんに早く追いつけるように、頑張ります」
 ウワァ、と歓声にも似た声が上がった。俺より3歳年下なのに、俺より全然しっかりしている。

 段ボールの中から書類やら文房具やらを取り出し、整理を始めた。周囲では「歓迎会はいつにするかねー」なんて声が聞こえてきた。
「隣になっちゃったな。災難だね」
「ね、お互い」
 冷たく淡々と言い放たれたその返答は、俺の心の臓を抉るように掠めて行く。「そんな事ないよ」という返事を、俺は聞きたかった。

「俺、仕事はきちんとしてるよ」
「そりゃ仕事までちゃらんぽらんじゃ困るでしょ」
「そうですねぇ」
「後で器具の場所とか、教えてくれる?時間が空いたらでいいから」

 そう言って、すっかり机の上は志保ちゃんのデスクになった。黄緑が好きなのか、ペン立もペンも手帳も、黄緑を基調としたものだった。彼女は上司がプリントしておいた、ここでの仕事内容に目を通し始めた。俺も仕事に戻った。

 こんなクールビューティな志保ちゃんだが、呑みに行くと結構気さくで、「人としてどうなの」等と言う苛烈な言葉を浴びせられる事もたまには(いや、結構な頻度で)あるが、それは少なからず俺に心を許してくれているという事だし、シャキシャキした歯切れの良い志保ちゃんの語り口に俺は好感を抱いている。


3 志保



 グループ内で、私の歓迎会をしてくれると言うので、指定された時間にチェーン店の居酒屋へ赴いた。木曜の夜だと言うのに店内は大盛況で、いつもなら目当ての席がすぐに見つけられるのに、今日は店員さんに「鈴木の連れなんですが」と言って席まで通してもらった。

 一通り自己紹介の様な物をさせられた後は、課長さんの音頭で乾杯をした。大して好きでもないビールをとりあえず飲み、先輩たちの他愛のない話に耳を傾けた。このグループで私と鈴宮君が最年少となる(年齢は鈴宮君のが3歳上だ)。自然と聴き役になる。
 対して鈴宮君は、1杯目のビールで顔を真っ赤にして、両隣にいたグループリーダー鈴木さんともう1人の同僚に、マシンガントークを繰り広げていた。

 右のポケットに入れておいた携帯が短く震えた。明良からのメールだった。すぐに確認する。
『何時に帰る?』
 2次会があるんだろうか、この居酒屋は何時まで何だろうか、そんな事を考えて返信できずにいる短い間に、再び携帯が震えた。
『何時に帰る?』

 以前から束縛が強い傾向にある明良だが、最近は特に顕著にそれが表れている。私がどこで誰と、何をいつまでやるのか、それを把握しておかないと気が済まないのだ。それでいて明良は、ふらりと飲みに出かけたりする。それには慣れたが、この「束縛」には少し辟易している。

『まだ分からない。分かったらすぐメールするから。』
 メールの返事が遅いと「何で返信しないんだ」と怒り、通勤電車で電話に出られないだけで「誰と一緒にいたんだ」と問われる。ちょっと出かけると言うと、「誰と?どこに?何時に帰るの?それまでに帰ってこないと怒るよ」だ。怒る、には愛の仮面を被った暴力が含まれていたり――。
 まぁこれも、彼の生い立ち故の事と思い、大目に見ているのだが。

「何してんのっ」
 気付くと隣に、頬が上気した鈴宮君が座っていた。
「彼氏にメール?」
「ん、そんな感じ」
 ニヤーっと笑って「アッチー、冷房もっと強めにしてもらうか」と言いながら顔を扇ぐ仕草をする。どこのオヤジギャグか。

「1杯でそんなに酔えるって、幸せだね」
「志保ちゃんは結構お酒飲めるもんねぇ」
 決して強くはないが、飲み会で潰れるという事は無い。鈴宮君は、新人歓迎会で呑み潰れ、チームリーダーで同じ寮に住む鈴木さんに抱えられるように連れ帰られたという伝説を持っている。
 「どっかでコーヒーでも飲んで帰んないと、俺、路上で寝ちゃいそうだわ」
 「あ、私、2次会行かないし、付き合うよ」
 少なくとも2次会に出席するよりは早く帰れるだろう。
 鈴宮君は「あらそう?」と言って目の前に置かれた誰の物か分からない烏龍茶をゴクリと飲んだ。


4 令二



 俺は酒が苦手だ。それは分かっているが、社会人になってから、乾杯の1杯は飲み干さなければいけない、という事を学び、それを忠実に守っている。俺はその1杯で酔えるのだ。何とも安上がりな男だ。

 社員寮までは自転車で帰る。少なくとも自転車が運転できる程度まで酔いを覚まさないと――新人歓迎会の時の悪夢が蘇る(とは言え俺には記憶が無い。翌日皆の冷たい視線に刺された思い出しかない)。
 こういう時はいつも、元課長(散らかった禿)が「うどん、食ってくか」と誘ってくれたもんだ。その課長無き後(死んではいない)、さてどうした物かと考えていたが、志保ちゃんが一緒にお茶をしてくれるらしい。同じ部署に勤めている事もあり、研修の帰りや同期会の後等に、お茶に付き合ってもらう事は結構ある(勿論俺が支払う)。

 お会計を済ませてぞろぞろと居酒屋の外に出た。
「じゃ、2次会行く人は駅横のカラオケで」
 幹事がそう言うと「おっしゃいくぞー」と誰かが声を上げた。俺と志保ちゃんはその一団とは別方向へ歩き出した。ビルの2階にあるカフェに入った。

「ここは俺が払うから」
 好きな物頼んでよ、と言うと、志保ちゃんは鞄から自分の財布を取り出した。
「いいよ、同期なんだし。自分で払う」
「いや、俺が誘ったんだから俺が払うから」
 ヌメ革の財布を取り出し、レジ前にいた志保ちゃんを肩でズンと押し出した。酔っていて足元が覚束ず、思ったより強く押し出してしまった。
「はい、飲みたいものは?ケーキ食べてもいいよ」
 志保ちゃんは苦笑して「じゃぁカフェモカのトール」と答えた。
 じゃ、席取っておくから、と志保ちゃんは窓際に向かった。

 トレイにコーヒーとカフェモカを乗せて、志保ちゃんの座るテーブルにトレイごと置いた。テーブルの横にある壁(と言うべきか?)は足元から天井までがガラス張りになっていて、外を走る電車や、歩く人が良く見えた。

 俺はずっと志保ちゃんに訊きたかった事を口にした。
「志保ちゃんは、どこかのお嬢だったりするの?」
「あぇ?はぁ?」
 俺はゴホンッと咳払いをひとつして続けた。
「何と言うか、育ちが良さそうに見えたからさ。御両親が凄い人とか、社長とか、そんな風に見えるんだけど」
 何故か分からないけれど、黙ったまま志保ちゃんは俺の目をじっと見つめた。見つめ続けた。いい加減恥ずかしくなって目を背けようとした瞬間に、口を開いた。
「両親代わりの人はね、凄く良く育ててくれた。私ね、施設で育ったの」
 ハッと息を飲んでしまった。飲んだ音が彼女まで届いたかもしれない。ここは動揺せずに聴くべきだったんだろう。あぁ何でこんな事訊いちゃったんだろう。俺のバカ。タイムマシンどこだぁっ。
「あ、気を遣わないでね。気にしてないから。隠す事でもないし、鈴宮君になら話しても大丈夫かな」
 そう言うとカフェモカのカップを両手で覆った。その手を両頬に添えた。「温かい」と言った。その仕草が、いつもの志保ちゃんよりもとても幼く見えた。

「4歳の時に母親にね、施設の前に捨てられたの。4歳だよ、ばっちり記憶してるよ。父はいた記憶が無い。それから施設に入って、義務教育をきちんと終えて、高校・大学と奨学金を貰って。ほら、自治体の奨学金って、就業3年でチャラになったりするじゃない?そういうの使ってさ。だから入社直前まで施設にいたの」
 気を遣わないでと言われても、何不自由なく育った俺には、何と言っていいのか分からなかった。
「彼氏とはいつから付き合ってるの?」
 俺、そんな事しか考えてないと思われちまうよ。まぁ、そんな事しか考えてないけど。「中一の時から付き合ってる」
「え、中一?長ぇっ」
 自分は女をとっかえひっかえしていた時期に、志保ちゃんは1人の男を一途に思っていたという事か。そりゃ人間全否定されても文句は言えない。

 志保ちゃんが、ガラスの下を通り過ぎる人をじっと見つめ、一瞬、空気が張り詰めた。が、すぐに視線をこちらへ戻した。目に、動揺の色が見えた。
「大丈夫?」
「大丈夫、何でもない」
 目が泳いでいた。知り合いでもいたんだろうか。酷く狼狽している様子だ。こんな志保ちゃんを見るのは初めてだった。
「あの、鈴宮君は、まだ3人の彼女とうまくやってるの?」
 急に話を振られて驚いたが、志保ちゃんの施設話を突き詰めて行くよりは幾分マシだ。3人の彼女と?そりゃ上手くやらなければ、3人とは付き合えないのだ。
「そりゃ上手くやってるよ。新潟にいる昔からの彼女には結婚を迫られて、ちぃっとばかし困ってるけどね」

「鈴宮君って、言い寄られたら拒否できないタイプの人間でしょ」
 さっきまで揺れていた様に見えた瞳は、薄い茶色をまっすぐにこちらへ向けている。俺の心理を読まれているようで驚いた。
 「痛いとこ突くねぇ」
 よっぽど嫌いな奴じゃなければ、俺を好きだと言ってくれる人を邪険にできないのだ。俺に愛想を尽かして、相手から別れを切り出してくれるのを待つ。そんな風にこれまで過ごしてきた。
「イケメンは辛いね。イケメンの彼女もまた然り」
 2人のコーヒーカップが空になった。
「そろそろ大丈夫そう?」
「もう大丈夫。チャリンコ乗れるよ」
 そう言って、2人立ち上がった。俺はトレイを持って返却口に返却し、外階段で待っていた志保ちゃんに追いついた。

「自転車はどこに?」
「駅の横に停めてあるんだ」
「じゃぁ同じ方向だ」
 こうして並んで歩いていると、俺より大分、背が小さいんだな、と思う。白衣を着て仕事をしていると、何だか凄く背が高く見える。何でだろう。
「また飲み会の時は、頼むよ。前は禿部長とウドンコースだったんだけどさ、あの禿もいなくなっちゃったし。」
「もうさ、1杯目からお茶にすりゃいいのに。気ぃ遣ってると鈴宮君も禿げるよ?」
「そういう訳にはいかんのだよぉ」
 頑張るねぇと、志保ちゃんは同情の眼差しで笑った。人通りの少ない路地に入り、俺の自転車が見えてきた。

「私こっちだから。」
「あ、今日はサンキュね。また明日」
 右手をひらひらさせて左へ曲がっていった。

 志保ちゃんが曲がっていった路地から、悲鳴にも似た短い声が聞こえた。
 急いで路地を覗くと、志保ちゃんが背の高い男性と話をしている。彼氏だろうか。
 彼氏と思しきその人は、志保ちゃんの腕を引いて闇に消えて行った。
 何か犯罪にでも巻き込まれたのかと思ったが、そういう訳ではなさそうだ。
 そのまま俺は自転車に乗り、寮へ戻った。


5 志保



 大きなガラスでできた窓からは外を歩く人がよく見えた。会話をしながら何気なく目をやったところに、見知った人影があった。桜の大きな樹が植わっている場所だ。
 歩いているのではなく、止まってこちらを見ている。
 思わず息を飲んだ。明良だった。どうしてここに?
 目が合った瞬間、明良は歩き出し、雑踏に紛れて駅の方へ消えて行った。

 偶然あそこにいたんだろうか。鈴宮君と一緒にいる所を見て、また嫉妬に狂うかもしれない。釈明だけでもしよう。
 そう覚悟して、鈴宮君との会話に戻ったが、暫く掌に滲み出た汗が消えなかった。

 カフェを出て、駅まで歩いた。駅横の路地で鈴宮君と別れ、明良の事を考えながら少し、歩いた。
 後ろからぐっと腕をつかまれた。「ひゃっ」と悲鳴に近い甲高い声が出てしまった。
 助けを呼ぼうと叫ぶ準備をして、相手の顔を見た瞬間にその声を引っ込めた。

 腕をつかんだ主は明良だった。
 あぁ、安心した。
「ただいま。これから連絡しようと思−−いったっ――」
 いきなり髪を鷲掴みにされた。
「お前、誰といたんだよ、オイ」
 離してよ、と言っても手に込めた力は緩まない。
「同期の鈴宮君だよ。酔い覚ましにってコーヒー飲みに行っただけ。明良こそ、何であそこにいたの?」
 更に力が強まった。毛根が死ぬかも、と薄ら思った。
「お前とアイツがカフェに入っていく所、見たからだよ」
 だからって店の前でずっと突っ立っていたのか――。
 髪を掴んでいた手から力が無くなったと思うと、今度は左の二の腕をぎゅっと痛い程握り、「帰るぞ」と家のある方へ引っ張られていった。

 孤独が怖いんだ。捨てられるのが怖いんだ。

 彼も私と同じ、物心がついてから施設に入れられた。私が入所した時、明良は小学1年生だった。確か5歳で入所したと聴いている。
 親の顔を知らないで入所する事、知ってから入所する事、どちらがより辛いかなんて考えた事もないが、実の親に「捨てられた」という事実は、幼かった私にも明良にも、酷く重く圧し掛かった。
 同じ境遇からから、自然と仲良くなり、一緒にいる時間が長くなった。
 私が中学1年の時に、永遠の愛を誓った。早いとは思わなかった。彼を守れるのは自分で、自分を守ってくれるのは彼しかいないと思っていたから。
 私は大学を出たけれど、明良は高校を出て就職した。バイトで稼いだお金で今のアパートを借りた。1人暮らしには広い部屋。私が就職したらいつでも同棲できるようにとの、明良の配慮だった。

 明良と私の間には、誰も入り込めない。時々こうやって髪を掴まれたり、乱暴されても、それは明良の生い立ちに端を発する事だとして受け入れてきた。私にしか分からない、彼の孤独感。
 私の胸にも、彼と同じ孤独があるから。

 腕を引かれながらアパートに着いた。


 明良が玄関をガチャリと開け、照明を点ける。オレンジの光りが数足の靴を照らす。
 明良は靴を脱ぎ、無言でずんずんと部屋の中に入って行き、ソファに座った。赤いソファの生地は、彼の身体をすっぽりと覆った。私は玄関のチェーンロックをして部屋に入った。
 廊下にある姿見に映る自分をふと見ると、ショートボブの髪はぐちゃぐちゃだった。手櫛でそれをちゃちゃっと直す。

「明良は、何をしてたの?」
 上着を脱いでハンガーに掛けながら訊いた。私には「帰るメール」を要求する癖に、自分からは「帰るメール」をしないので、いつ仕事を終えたのかも分からない事が多い。
 ソファに座って手と手を組み合わせ俯いていた明良は、少しずつ頭を上げた。鋭い上目使いで私を睨んだ。
「俺が何してようと関係無ぇんだよ。お前があの男といちゃいちゃコーヒーなんて飲んでるのが問題なんだよ」
 ちょっと今日は機嫌が悪過ぎる、と思った矢先、ソファから立ち上がった明良にニットの首を掴まれた。そして次の瞬間、明良の拳が私の鳩尾の辺りにめり込んでいた。

 一瞬にして口の中に胃酸が戻ってくるのが分かった。あれ、さっきコーヒー飲んだのに。冷静な自分が考える。コーヒーが戻って来る訳じゃないんだ。胃酸なんだ。
 そのまま乱暴に蹴り倒され、後頭部を強かに打った。私は体勢を立て直そうと襖に凭れた。そしてまた首を掴まれる。
「てめぇ、次同じ事してみろ、アイツ殺すぞ」
 殺す、という言葉が余りに非現実的で、頭の中に入り込んでも意味を理解するのに時間が掛かる。アイツを殺す。鈴宮君を?何で?殺す?
「待って、鈴宮君はただの――」
 もう1発、鳩尾に食らった。逃げ場の無い背中と明良の拳に挟まれた私の内臓は悲鳴を上げた。
「そいつの名前、出すんじゃねぇ」

 そして、穿いていたパンツもニットも脱がされ、下着姿になった。明良は立ち上がって電気を消した。そしてセックスをした。この場合、『犯された』の表現が適当だろう。

 大丈夫、少し我慢すればすぐ終わるから。

 事を終えた後、薄暗い部屋の中で何気なく見た左腕には、明良の手の痕が暗闇でもくっきりと黒く浮かび上がっていた。

 頭を打ったのが原因か、鳩尾の2発目が原因なのか、私は気を失っていた。目を覚ますと明良の腕の中にいた。
「志保っ、大丈夫かっ?」
 大丈夫かって明良が私に――。
「ごめん、俺、またお前に酷い事しちゃったよ。どうしよう、もうどこも痛くないか?腕赤くなってるけど、痛くないか?」
「ん」
 小さく頷いて見せると、明良は安堵の表情を漂わせ、目には涙が浮かんでいる。
「良かった。お前しかいないんだよ、俺には。お前がどうにかなっちゃったら俺は生きていけないんだよ」
「ん」
 もう一度頷く。明良は私の身体に覆い被さるように倒れ込んで来た。
 言い訳を何度聞いた事か。何度彼の涙を見た事か。

 これを世の中では『ドメスティックバイオレンス』だったり、『共依存』だったりと名前を付ける事は知っている。自分はその枠の中にいる事も理解している。
 それでも私は明良を手放せなかった。
 彼は、私と同じだから。
 彼の悲しみは、私の悲しみだから。


6 令二



「おはようさん、昨日はありがとう」
「あ、ううん。こちらこそご馳走様」
 昨晩、暗がりで目にした、背の高い男性を思い出した。白衣に袖を通す志保ちゃんの顔を、覗き込むようにして訊いた。
「すぐに迎えに来た人、あれって彼氏?」
 茶色がかった瞳が小刻みに左右した。昨日も見た、この表情。いつだったか――カフェで見たんだ。
「あぁ、見てたんだ。あれは彼氏。あの辺で待っててくれたみたい」
 狼狽える時の表情は、まるで少女の様なのに、すぐにいつものクールビューティに戻る。俺は何か、地雷を踏んでいるのか?
「へぇ、優しい彼氏だねぇ」
 俺は訝しげな表情を隠し切れないまま言った。
「ん」
 耳を赤くして照れながら頷く志保ちゃんは、恋する乙女の表情だった。

 中学1年からだ、と志保ちゃんは言っていたっけ。長いな。
 新潟にいる俺の彼女(その1)は付き合って5年。それでも途中で飽きが来て、色んな女の子にちょっかい出したっけ(それは今も同じか)。
 同じ人をそれだけ長く愛し続けられるってのは、何か理由があるんだろうか。

 施設。施設で育ったと、彼女は話してくれた。相手もそうなのかもしれない。寝食を共にする仲間だったら、長い付き合いになる事もあるのかもしれない。実家でグータラに育った俺にとっては、理解の範疇を越えている。

「でも鈴宮君だって、優しい彼氏なんでしょ?」
 急に俺に振られて驚いた。俺が優しい彼氏?そりゃまぁ。
「優しいよぉ、とても優しいよぉ。3人に平等に優しいんだから」
「器用なんだね。鈴宮君は」
 感情という物を全く備えない口ぶりでそう言って、白く長い指でカタカタとパソコンのキーを押す。心にもない言葉を掛けられたようで、複雑だった。
「3人と同時に付き合っていくには色々苦労もあるんですよ」
「じゃぁ1人に絞ればいい」
 カタカタ。目も合わさずバッサリと斬られてしまった。何の反論もできない。


7 朋美



「志保ちゃんっ」
 駅前の柱に凭れ掛かっていた志保ちゃんに、後ろから声を掛けた。ボブの髪がサラっと揺れた。
「わぁ、朋美ちゃん。後ろから来ると思わなかったよ」
「何か考え事してた?近くまで来ても全然気づかないんだもん」
「そりゃ何も考えずにポカーンと突っ立ってる訳じゃないんだよ」
 そっか、あははと笑って歩き出した。

 久しぶりに一緒にお昼ご飯を食べる事になった。
 志保ちゃんは大学の同級生で、履修科目が殆ど同じだったため、講義で顔を合わせる事が多く、自然と友達になった。
 彼女はその時まだ施設から大学に通っていて、「奨学金で通ってるから」と言って人一倍勉強をし、成績優秀だった。そして大手企業に就職した。
 カッコイイ彼氏がいて、勉強も出来て綺麗。そんな志保ちゃんに私は少なからず憧れを抱いている。

 新しくできたタイ料理のお店に行く事にした。麺かご飯のメニューから一品、そしておかずはビュッフェ形式になっている。
 志保ちゃんは細くて小さいのに良く食べる。食べた物はどこに行くんだろうと不思議に思う。ビュッフェ形式なら志保ちゃんも満足だろう、と、お店を選ぶのにも志保ちゃん視点で考えてしまう。
「じゃぁ私はAセットで」
「私はCにします」
 志保ちゃんは麺、私はご飯を選んだ。各々が好きなようにおかずをお皿に盛りつけて、席に戻った。「旨辛ぁ」と志保ちゃんがニコニコしながら言った。良かった、喜んでくれてる。

「最近はどうなの?彼とは順調?」
 この話をすると、決まって顔が一瞬曇るのが気になっていた。ここ1年ぐらいだ。丁度就職した頃から。彼と同棲を始めたころからだ。
 一緒に暮らす事で見えてくる、色々な苦労ってものがあるんだろう。そんな風に思っていた。
 顔が曇るのは一瞬で、すぐにいつもの志保ちゃんに戻る。

「まぁ束縛屋さんだから、色々あるけど、うまくやってるよ。今日は朋美ちゃんと一緒だからって言ったら、ちょっと安心してたよ」
 彼女はにっこり笑い、私もつられて笑った。
「いいなぁ。私なんて入社して『いいな』と思った人には必ず彼女持がいるんだよ。彼氏なんてできる気がしないよ」
 その点、志保ちゃんは中学の頃にプロポーズされた彼氏がいる。私がこんな風にあたふたしている気持ちなんて、分からないんだろうなぁ。嫉妬心あり、羨ましくもあり。
 筍の炒め物を口に運ぶ。あぁ、美味しいけど、辛い。

「彼女がいたって、もう末期かもしれないよ?すぐ別れるかもよ?朋美ちゃんが好きって言ったら振り向いてくれるかもよ?」
 もぐもぐと口を動かしながら、私がアイドルになる可能性よりも低い低い可能性について志保ちゃんは語る。
「世の中そんな風にうまく出来てないのっ」
 もう、と吐き捨てる様に言い、辛いけど病み付きになる筍をもうひとつまみする。

「もうこの年齢になってくると、相手が自分に振り向いてくれるって、ある程度分かってからじゃないと、アタックできないんだよね。失恋するのが怖いんだよね。しかも同じ会社の社員だったりすると余計。ほら、噂って風の速さで伝わるじゃん?」
「そだね。特に恋愛関係はね」
「だから、私の事を『いいな』って言ってくれる人が現れてくれると、私も恋に落ちる事が出来るかもしれないなー」
「んな消極的な――」
「志保ちゃんには分かって貰えないよ、ぐすん」
 と、涙ぐむフリをしてみる。志保ちゃんは口を押えながら笑った。


「お茶しますか」
 タイ料理をたらふく食べた私たちは、志保ちゃんのひと言で次の目的地をカフェ「ディーバ」に定めた。ビルの2階にあり、大きなガラス窓からは、目線と同じ高さに走る電車が見える、2人のお気に入りカフェだ。
 私はマンゴーフラペチーノ、志保ちゃんはカフェモカを頼んだ。まだフラペチーノを飲むには寒い時期だった、と注文をした後に後悔した。

「木曜にもここ、来たんだ」
 窓際にひとつだけ空いていた席につくなり、志保ちゃんは言った。
「え、そうなの?彼と?」
「ううん、同期の男の子と。私の歓迎会の帰りにね。彼の酔い覚ましの為に」
「え、それって彼氏に知れたら烈火の如く嫉妬されるんじゃない?大丈夫?」
 志保ちゃんの彼の嫉妬深さはよく知っている。あまりエスカレートすると――とは考えたくないけれど。女の私が相手でも嫉妬する事が過去にはあった。
「それがね、あそこの木、見える?」
「うん」
 そこには大きな桜の木が植えられていた。既に花は散って葉桜になっている。
「あそこから見られてた」
「えぇぇぇぇっ。何で?大丈夫だったの?」
「大丈夫ではなかったけどね。相手がね、今後も付き合いがある同じグループの同期君だから、困ったなぁと」
 相手が男とあっては、それは嫉妬も膨れ上がるだろう。

 志保ちゃんの「大丈夫ではなかったけど」というひと言に、何かしら違和感を感じた。そこは普通「大丈夫だったよ」というべきだろう。
「まぁ、普通は、仕事の相手だから、って割り切ってもらうんだろうけど、志保ちゃんの彼の場合はちょっと難しいよねぇ」
「ん。次見つけたら同期君を殺すって」
「はぁっ?殺害予告?」
 ため息を吐きながら小さく頷く志保ちゃんの顔をまじまじと見た。
 嫉妬されて嬉しいなんていう気持ちは微塵もなさそうだ。本当に、困っているんだ。

「ちょっとそれは危険だよ。今度は2人きりでお茶なんてしないようにした方が良いよ。何と言うか――こんな事言うのもアレだけど、志保ちゃんの彼ならやってのけてしまいそうな――。ごめん」
 志保ちゃんは静かに笑って首を振った。
「謝らなくていいよ。ホント、やりそうだから困っちゃうよね。次は2人きりは避けるようにする」

 彼の強烈な嫉妬に対して、怒るでもなく笑うでもなく。まるでそれを享受してしまっている志保ちゃんを、本当に心配するようになったのは、この頃からだったと思う。時々しか顔を合わせない私に、こんな話をしてくれるのは、何かのサインだったのかも知れない。


8 令二



 6月に入った。志保ちゃんはこのグループに入って2ヶ月だと言うのに、どんどん実験データを出し、いい結果を出している。俺はと言うと――ハズレくじばかり引いている状況だ。
 外からザーという雨音が聴こえる。室内にいてもこれ程の音がするのは相当な雨だ。また雨か――。自転車で通勤している者にとって、梅雨ほど迷惑な季節は無い。今日俺は、傘を持っていない。あぁ、この雨が通り雨でありますように。
「あちゃー、暫く振りそうだね」
 パソコンの画面でメッシュ状の雨雲レーダーを見ながら志保ちゃんが言った。
「まじでか。俺傘持ってないよ、やべぇ。通り雨って事はないの?」
「ないね、ほら、こっちまでずっと赤色」
 志保ちゃんのパソコンに顔を近づける。志保ちゃんの顔がすぐそこにある。何か、良い匂いがする。おっと、正気に戻れ、俺。
「ほ、ほんとだ。止みそうにないなぁ」
 雷まで鳴りだした。窓がビリビリと振動する。
 
 志保ちゃんが居室から出て行き、戻ってきたときには青い長傘を持っていた。
「これ、貸すよ。私、折り畳み持ってるから」
 そう言って俺のデスクに傘を引っかけた。
「えぇ、いいの?助かるー。ありがとう」
 天気予報ぐらい見てきなよ、と志保ちゃんの冷たい言葉を浴びたが、ちらと見た志保ちゃんの顔は控えめに笑っていた。本気で怒ったら怖そうだけど、本気で笑ったら凄く可愛いんだろうな。
 どういう時に、本気で笑うんだろう。彼氏の前では沢山笑顔を見せるんだろうな。
 俺とした事が、3股も掛けておきながら、志保ちゃんに心惹かれている事に少し、落胆した。どれだけ女を誑し込めば気が済むんだよ、俺。
 
 志保ちゃんはさっさと仕事を終わらせて、定時で帰って行った。俺は文献を読み漁り、気づいたら20時を回っていた。そろそろ帰るかと帰り支度をし始めて気づいた。雨の音が止んでいる。
 裏口から外に出てみると、かぐや姫でも降りて来そうなでっかい月が見えていた。雨上がりの、湿気を帯びた温い匂いがした。
「止んだじゃん」
 誰に言うでもなく呟き、居室に戻ると、青い傘を志保ちゃんのデスクにひっかけた。黄色いポストイットに「ありがとう」と書いて、傘に貼った。


9 志保



 朝の天気予報で、「夕方から雷雨になる恐れがあります」とお天気お姉さんが言っていた。その通りになった。
 長傘は鈴宮君に貸し、私は折り畳み傘をさして帰った。傘に当たる雨の音で、周囲の音がかき消されてしまうような雨。
「バケツをひっくり返したような」という形容がぴったりの雨だった。傘をさしていても、肩や鞄はびしょびしょになってしまった。雷も激しく、鳴る度にビクンと震えた。
 
 雷が嫌いだ。雷が鳴る度に、施設の1階にある物置部屋の隅に隠れて泣いていた。
『雷様がお臍を持って行ってしまう』という今にしてみればどうでもいい迷信を信じ、しかも『自分の大事な物も持って行かれてしまう』という付加的な恐怖まで勝手に想像し、小さく震えていたのだ。
 そんな事が何度かあり、「志保ちゃんは雷の度に何処かへ姿を消す」と言われ、私が逃げ込む場所を1番初めに見つけたのが明良だった。

「大丈夫、少し我慢すればすぐ終わるから」
 そう言って私の背中をさすってくれた。頭を撫でてくれた。今は雷が鳴らなくても思い出す。
「少し我慢すればすぐ終わるから」
 勿論、別の意味で。


 家に着いてからも雨脚は弱まらず(辛うじて雷は収まった)、換気扇の向こう側からバシャシャと雨音が響いていた。
 換気扇を回すとその音が少し遠くなる。夕飯の支度を始めた。もうそろそろ明良が帰ってくるだろう。

 タレに漬けた肉を炒めていると、明良が帰ってきた。ただいま、とひと言あって居間へ入ってきた。
「お帰り、雨凄かったけど大丈夫?」
 振り返ると、私と同じく両肩を雨に濡らした明良が顔を顰めていた。
「凄い降り方だな。いつ止むんだろ」
 私は洗面所にタオルを取りに行き、明良に渡した。彼は着ていたシャツをその場で脱いだので、それを受け取り洗濯機に入れに行った。濡れた鞄をタオルで拭きながら「あれ」と明良が言った。視線は玄関に向いている。
「お前何で折り畳みなの?今日傘持ってったよね?」
「あぁ、貸したの。同期の鈴みっ――やっ――」
 
 明良の顔が一気に曇った。私はその場に立ち尽くした。暫く沈黙が続いた。その沈黙を破ったのは明良だった。
「飯、作ってるんでしょ。腹減った」
 その言葉には表情や抑揚が全く感じられなかった。私は黙ってキッチンへ戻り、肉を炒めた。

 いつもそうだ。1度は許したように見えて、あとからドカンと怒りが襲ってくるのだ。嫉妬の怒りが。
 テーブルに料理を並べ、2人手を合わせていただきますと言った。それから食べ終わるまで、一切会話は無かった。
 食事を終えて食器の洗い物をした。風呂を洗い、お湯を張り始めた。浴室からはジャバジャバとお湯が落ちる音が聞こえる。
 明良はソファに横になって、テレビでナイター中継を観ていた。私はソファの下に座り、一緒にナイターを見始めた。
 グゥッ、と変な声が出てしまった。後ろから腕で首を絞められたからだ。

「何で傘なんて貸すんだよ」
 ほら来た、急に始まるんだから。
「くるし、から、しゃべれ、な――」
 畳に押し倒された。ドン、と音がした。階下の人がびっくりしただろうか。
 両方の二の腕をギュッと掴んで床に押し付けられる。正気とは思えない明良の顔に慄然とした。
「何なんだよ、お前は何で俺の気に障るような事ばっかりやるんだよ」
 こういう時は、何を言っても無駄なんだ。『少し我慢すればすぐ終わるから』そう言う事だ。
「何で黙ってんだよ、オイッ」
 左の頬を1度、2度、3度、掌でビンタされた。3度目で口の中に鉄の味がした。どこか切れたか。
「お前ふざけんなよ」
 私の胸に顔を埋めながら泣きそうに言い、そのまま犯された。そう、これはセックスなんかじゃない。強姦なんだ。

 お風呂から溢れた水が、ザーっと流れ出る音がする。あぁ、水が勿体無い。
 やけに冷静な自分が俯瞰している。


 事が済むと、私は全裸のままさっと立ち上がり、風呂のお湯を止めに行った。戻ってくると、正座をして項垂れる明良がいた。
「また、やっちゃったよ。俺」
 彼の隣に座ると、静かに「ん」と頷く。
「お前が他のヤツに靡くのが怖いんだよ。お前は俺の物なんだよ。俺だってお前の物なんだよ。分かるだろ?俺、1人になるのが怖いんだよ」
 私に凭れ掛かってきた。頭を撫でる。よしよし、もう大丈夫。私はここにいる。あなたを独りになんてしないから。私とあなたでひとつだから。
 あ、これを『共依存』って言うんだっけ。

 ガラステーブルに映る自分の顔を見ると、左の口角が切れている。頬の腫れは明日までに引くだろう(経験上)。口角の傷は、うまく化粧で誤魔化す自信が無い。
 明良が冷凍庫から、保冷剤を持ってきてくれた。明良の誕生日に買ったケーキについていた保冷剤だ。もしもの時(ま、こういう時が多い)の為にとっていたものだった。
「これ、こっちのほっぺたに当てておいて」
 そして明良の部屋着を肩から掛けてくれた。
 嵐が去った後の明良は酷く優しい。まるで別人格だ。
 私が好きになった明良は、いったいどの人格なのだろうか。


10 令二



「おはようさん」
「おはよ、わざわざポストイットまで付けてくれちゃって、ありがとうね」
 昨日は結局、雨に打たれずに寮まで帰った。
「俺が帰る時間にはもう晴れててさ。でっけー月が出てたよ」
 そう言って志保ちゃんを見て驚いた。左の口角が、切れている。化粧で誤魔化そうとしているのか、肌色の粉の中から、血だか何だか分からない液体が染み出ている。
「口、どーした?」
 茶色の瞳はいつかと同じように、揺れ動く。
「あぁ、転んだ」
「は?」
「転んだ」
 転んで口を切るって、どんな転び方をしたんだ?
「目立つ?」
 そう訊かれて今一度よく見てみる。隣で話していると分かる程度だ。
「近づかなければ目立たない。近づくと目立つ」
「じゃ、近寄らないで。」
 手のひらで胸の辺りをぐーっと押された。椅子のキャスターが転がって、隣の隣の席まで飛ばされた。

 本当に転んだんだろうか。まぁ嘘を吐く理由もないか。
 そんな事を思いながら、朝1杯目のコーヒーを淹れるために、ポットのある机へ向かった。ドリップコーヒーが落ちるまでの間、今日の仕事の段取りを考えたり、途中でお湯を継ぎ足したりしながら、ふと志保ちゃんを見た。
 半そでの白衣から覗く二の腕に、赤い痣のような物がついていた。肌が白い彼女の肌では余計に目立って見える。
 俺はびっくりしてドリップコーヒーをそのままに志保ちゃんの隣に座った。
「ねぇ、二の腕、凄い事になってるけど、これも転んだとか、言う?」
 えっ、と志保ちゃんは狼狽えて自分の左右の二の腕を見た。きっと、半袖なら隠れると思っていたに違いない。
 コーヒーの匂いが居室に立ち込める。俺たち以外居室にいなくて、良かったかもしれない。

「何かあった?」
「ない」
「じゃぁ二の腕の赤い痕は?」
 二の腕を擦りながらもぞもぞと答える。
「これは、彼氏と喧嘩して――」
 あぁ、喧嘩したのか。こりゃまた随分とバイオレンスな彼氏だ事。
「彼氏、容赦ないな。張り手とかすんの?」
「まぁ」
「女相手に?」
「そんなに興味ある?この話」
 志保ちゃんが今まで見せた事が無いイラついた顔をした。怒ってるんだろうか。
「ごめん」
 一言謝って俺はコーヒーを取りに戻り、そしてデスクに戻った。

 暫く志保ちゃんとは口をきかなかった。志保ちゃんはデスクの引出しから長袖の白衣を取り出し、それに着替えた。
 ちらりと見たその二の腕には、指の痕までくっきりと残っていた。


11 志保



 しくじったなぁ。口角の傷にばかり目が行って、痛みも何もない二の腕に気が回らなかった。
 赤みが引くまで暫くは、長袖で過ごさないといけない。
今迄は表立って見えない部分に傷を付けられる事はあっても、見える所への攻撃は無かった。まぁ、ビンタは初めてじゃなかったけど。

 鈴宮君とお茶をした1件から、暴力がエスカレートしつつある。
 私と明良、2人の問題で済ませられるならそれでいい。私が我慢すればいい。そう、少し我慢すればいいんだ。

 だけど、見える部分に傷が出てくると、彼を庇うにも限界が出てくる。未だひりつく口角の痛みに顔を顰めながら鏡を見る。化粧を落とすとまだ傷口はぱっくりと開いている。
 二の腕に目を遣る。明良の指の痕がくっきりとついている。怨霊に祟られているとか、そんな理由で逃げようか。憑き物がぁーとか言って。

 鈴宮君の、ただならぬ顔を思い出す。かなり驚いていた。
 口角が切れる程、腕に痕が残るほどの暴力を振るう男と同棲している。確実にそう思われている。
 これから明良の暴力がどうか、目に見えない部分に集中しますように。
 そのために私は、色々と行動に気を付けないといけない。まずは殴られない事。


 7月に、社内のグループでバーベキューをやる事になっている。
 何も考えずに「参加する」と言ってしまったが、明良が何と言うか。
 家族を連れてくる上司もいる事だし、いっその事明良も連れて行くか。口角の傷にオロナインを塗りながら考える。

 ガチャっと玄関のカギが開く音がした。今日は残業で、夕飯を済ませてきた明良が帰宅した。
「お帰り。お疲れ様」
「ただいま。あぁ、口のとこ、酷いね」
 鞄も置かずに私に駆け寄り、両手で頬を包み、親指で口角の傷に触った。
 そのままキスをされた。唾液がしみて、傷が痛かった。
 二の腕の痕について何か言おうと思って、やめた。

「来月、職場でバーベキューをやるんだけど、明良も行かない?一緒に。」
「え、何で俺が?」
 ネクタイを外しながら明良は怪訝な顔をした。
「だって上司だって家族連れてくるし、同棲してる彼氏なら連れてってもいいんじゃないかなって思って。私が1人で参加するよりは、いいでしょ?」
 鏡を見ながら傷口にもう1度オロナインを塗りなおす。さっきのキスで剥がれてしまった。
 傷口を舐めるなんて、不潔極まりない。オロナイン味のキスだったのは、私からの細やかなお仕置きだ。

 暫く明良は何か難しい顔で考えていた。
「んまぁ、良いけど」
「よし、決まり。じゃ、幹事さんに伝えておくから」
 意外とすんなり決まったな。恐らく――鈴宮君への牽制の意味を含めての参加だろう。
 それでもいい。明良が安心してくれるなら、明良と私の歪んだ関係が周囲に露呈しないなら、それでいい。


12 明良



 バーベキューだって?俺は参加する気はなかった。今までの俺なら参加しなかっただろう。
 貴重な休日を、何だって彼女の会社の同僚と、気を遣いながら過ごさないといけないんだ。そう思っただろう。
 しかし志保から話を持ちかけられ、考えた。
 あの、鈴宮とか言ったか?あいつがどういう了見で俺の志保に手出しをしてるのか、確認できる良い機会だ。なので俺は了承した。
 
 俺と志保は一心同体みたいな物だ。どちらかが欠けたら生きていけない。その間には、何人たりとも挟む事は許さない。
 俺と同じ境遇の幼い志保を、初めは「可哀想だ」と思って、頻繁に声を掛けていた。
 茶色い瞳で俺の目をじっと見て、「一緒にいてくれる?」なんて言われたら、小学生のガキだった俺だってたまったもんじゃない。
 小学生以下は同じ部屋で寝ていたから、俺は必ず志保の隣を陣取って、手を繋いで寝た。先生達はそれを見て「実の兄妹みたいだね」と言ったものだ。
 俺はただ、大好きな志保と少しでも離れたくなかったから手を繋いでいたのだった。それに、先生は知らない。

 志保は入所して暫く、狸寝入りで先生を欺き、夜中に母親を求めてしくしくと泣いていたのだ。
 俺だって同じ気分になった事がある。こんな奴を放っておけなかった。
 大学までは施設から通っていたし、女子大だったから、あまり他の男に誑し込まれる事に心配はなかった。
 いつだったか、志保に告白をした男がいた。志保はその場で断ったらしいが、相手は諦めず再度告白をしたらしい。俺はブチ切れて、そいつを殴りに行った。それ以来、奴は志保に近づかなくなった。
 時間の経過と共に、志保が女友達と一緒にいる事ですら好ましく思えなくなっている自分がいた。
 今思えば少し、やり過ぎだったと思う。

 本当は今だって、志保には家にいて欲しい。専業主婦として俺の帰りを待っていて欲しい。
 しかし俺の稼ぎはお世辞にも多くない。
 それに、施設史上ナンバーワンと言われた秀才の志保が、大学まで卒業して仕事に就かない訳がない。そこは俺も譲った。

 だが、職場での行動を俺が監視できる訳も無く、鈴ナンタラという男と一緒にいる所を目撃してしまった。
 きっと志保とは何の関係もない、ただの同僚なんだと理解している。
 だが心配で心配で、志保が俺から離れてしまうのではないかと思うと心配で、気づくと彼女に暴力を振るい、そして泣きながら謝罪し、縋る俺がいる。そして俺を慰めてくれる志保が隣にいる。

 いびつな関係だ。そう思われても仕方がない。それでも俺は、志保を俺に縛り付けておきたいんだ。


13 令二



「今度のバーベキュー、彼氏も連れてくるんだって?」
 俺は昼飯を食っている時に、バーベキュー幹事であり、俺の尊敬するチームリーダーである鈴木さんから、その事を聞いた。
 先日の、志保ちゃんの怪我が頭を過ったのは言うまでもない。その加害者たる彼氏が、会社のバーベキューに顔を出すと言うので、驚いている。
 まさか皆の前で志保ちゃんに手を上げる事など無いだろうが。
 
「うん、みんな家族連れで来るし、どう?って試しに訊いてみたら、来るって。私も意外でびっくりしたんだけど」
 濁度のデータを見ながらブラインドタッチでテンキーを忙しなく叩く志保ちゃんを暫し眺める。
 
「何?」
 俺の視線に気づいたのか、こちらに顔を向ける事無く話す。
「いや、彼氏、と同棲してるんだもんね。家族みたいな物だもんな」
「ん、そうだね」
 そこに俺が入り込む隙なんてない事は分かっている。勿論入り込もうなんて汚い事は考えちゃいない。
 ただ、時折暴力を振るう彼にぞっこんな志保ちゃんを見ていると、そこに割って入りたくなる。
 俺は暴力振るわないよ?どっちがいい?なんてね。俺は志保ちゃんに惹かれている。これは紛れもない事実だ。

 それでも志保ちゃんは今の彼を選ぶんだろう。
 暴力を振るう事をも帳消しにしてしまうような魅力があり、何か埋められない過去の経験を埋めてくれるような、そんな彼氏なんだろう。
 そんな風に考えていると、段々と彼の事が「良い人」の様に思えてきた。
 バーベキューでは話し掛けてみよう。確か歳は俺と同じだったと記憶している。


14 志保



 明良が安心してくれるならいい。そう思ってバーベキューに誘った。
 誘った時点でもう、明良は安心しているだろう。
 私がいくら鈴宮君と仲良く喋ろうが何だろうが、そこに「彼氏」として明良がいれば、明良は満足だろう。

 そんな風に簡単に考えていた。後々この考えは間違えだったと気づかされた。


15 令二



 7月の多摩川河川敷。幹事の鈴木さんは朝早くから高架下の日陰に場所を確保してくれていた。
 今日は抜けるような青空が広がる快晴。そして照りつける太陽は容赦ない。
 こんな日に、日向でバーベキューなんてやったら、俺が肉になっちまう。
 女性陣は日焼け防止に必死で(美白だ何だと皆うるさい)、バーベキューどころではないだろう。鈴木さんの配慮に感謝だ。

「買い出しして来ましたよー」
 スーパーの袋を両手に持ち、火おこしをしている鈴木さんに近づいた。大人10人分以上の肉となると、結構な量になる。
「おぉ、ありがとう。令二は肉担当だっけ?」
「はい、一応牛・豚・鶏とバランス良く買ってきてみたんですけど、牛ばっかりの方がよかったッスかね?」
 ビニールの中身をがさがさと探りながら、鈴木さんを見る。顔を真っ赤にして、炭に風を送り込んでいる。
「女性もいるしな。ライトな肉もあった方がいいだろ、グッジョブだよ令二。さすがモテる男は違うなぁー」
 こういう時の返答に困る。適当にヘラヘラと返事する事にしている。
 俺は結構モテる。無下に否定すると、褒めてくれた相手を傷づけ兼ねない。

 大型のクーラーボックス(これは鈴木さんの私物、勿論でっかい保冷剤も鈴木さんの私物だ)に、スーパーで買った肉を詰め込んでいると、続々と人が集まってきた。
 課長は就学前の女の子を2人連れてきた。「可愛いだろう」と言いたげな顔をしている。
 課長に似ずに奥さん(美人)に似て可愛いと思うが、こんな事は心の中でしか言えない。
 女性の中には、旦那さんを連れて来る方もいた。
 俺はいつになったら、こういった輪に、自慢の彼女・嫁さんを連れてくる事が出来るんだろうかと、ふと考えていたら、クーラーボックスのフタがバタンと勢いよく閉まり、腕を挟んだ。あぁ、赤くなっちまった。

「遅くなりましたぁー」
 最後に到着したのは志保ちゃんと彼氏だった。
 ノースリーブのワンピースにサンダルを履いた志保ちゃんは、とても可愛かった。おっと、彼氏がいるんだった。
 彼氏はデニムにTシャツと言うシンプルな出で立ちで、笑顔が爽やかなイケメンだった(俺とどちらが――なんて話は置いておいて)。
 離れた所にいた俺に気づいた志保ちゃんは、笑顔のまま右手をぐっと伸ばして手を振ってくれた。
 その後ろで彼がニコニコしながらぺこりと会釈した。俺も会釈し返した。

 日陰とは言え、火を起こすと炉の周囲は猛烈に暑い。鈴木さんはずっと顔を赤くしたままビールを左手に持ち、肉、野菜、どんどんと焼き網に乗せて焼いていく。
 その傍で、志保ちゃんやその他女性(とまとめてしまうのは失礼なんだけど)は野菜を刻んでいる。色白の志保ちゃんも真っ赤になっている。

 ふと彼氏を探した。酎ハイを片手に少し遠くから、志保ちゃんが野菜を刻む姿を見ている。俺は彼氏に近づいた。
「手持無沙汰ですか?」
 彼氏は一瞬目を見開いたと思うと、すぐに笑顔になり酎ハイを一口啜った。
「そうですね、こういう時どうしたらいいんですかね」
「いいんですよ、お客さんだから。ゆっくりしててください。ほら、課長の娘さんもお客さんだから、川遊びしてますよ。一緒にやります?なんつって」
 川の方に目をやると、課長の娘2人は女子社員を連れて、川の浅瀬で水の掛け合いをしている。
 水が跳ねる音がすると、何となく涼しく感じるのがいつまでたっても不思議で仕方がない。獅子脅しの様なものか。

「俺ね、志保、あ、玄田さんの彼氏さん、えっと名前は何とおっしゃるんでしたっけ?」
「宮川明良です」
「宮川さんはもっととっつき難い、怖い人かと思っていました」
「え、そうですか?」
 宮川さんは困ったような笑顔を見せ、額の汗をハンドタオルで拭った。
「うん、何となくですけどね。お仕事は何をされてるんですか?」
 女性たちが刻んだ野菜をまな板にのせ、落ちないように鈴木さんの元へ運んでいる。
「営業です。これだけ暑いと、営業の外回りなんて、地獄ですよ」
 控えめに、綺麗に並んだ白い歯を見せて笑った。
「えっと鈴――」
「鈴宮です」
「鈴宮さんは研究を?」
「はい。志保ちゃん、あ、玄田さんには本当に助けてもらってます。彼女、仕事出来ますからね」
 へぇーそうですか、と笑顔を崩さないままで宮川さんは答えた。まるで張り付けたような笑顔だと思ったのは気のせいだろうか。
 俺は、宮川さんが俺の名前を半分でも知っていた事に少し驚いた。会った事も無いのに。
 志保ちゃんが宮川さんに、俺の話をしたんだろうか。

「肉焼けてる物から食ってってー」
 鈴木さんの声が高架下に響いた。
 川の方から子供の甲高い声と、砂利を踏む音が近付いて来た。野菜を切り終えた女性達は、お皿とお箸を配って回る。
「タレはここのテーブルに3本ありますー」
 志保ちゃんが大きな声で言った。
「我々も行きますか」
 張り付いた様な笑顔をそのままに宮川さんは無言で頷いて、肉に群がる集団の中に入った。あれは営業スマイルなんだろうか。
 俺は暑さのせいで笑う事にすら体力が削がれる。表情筋って鍛えられるんだっけ。

 焼きあがった牛肉を食べながら、鈴木さんと話す志保ちゃんに近づいた。
「彼氏さん、優しそうな人だね」
「さっき話してたね、二人で」
 宮川さんは課長につかまり、何やら話し込んでいる。
「もっと怖い人を想像してたんだけど、すっげぇ話しやすい人で安心したよ」
「ま、営業の人間だから、初対面の人とも簡単に話せるスキルはあるんだろうね」
 それは彼を誇りに思う語り口と言うよりは、少し皮肉が混じっている様に思えたのは、俺の勘違いだろうか。

「あれ、それ何の肉?」
 志保ちゃんの皿を覗くと、少し厚みのある白っぽい肉があった。
「鶏ももでしょ。って鈴宮君のお皿にだって同じの、置いてあるじゃん」
「あれ?同じ?ホントだぁ」
 もう酔ってんのー?と言って俺を肩でズンと押した。俺は酎ハイを1本飲んだだけなのに、よろけてその場に尻もちをついてしまった。
 周りの人がどっと笑った。いいんだ、俺はこういうキャラだ。皿の上の肉達は無事らしい。立ち上がろうと腕に力を入れたが、またよろけてしまった。
 「ほらっ」
 白く細い腕が差し出された。俺は遠慮なくその先にある手のひらに掴まり、身体を起こした。情けない。

 一瞬、いつか香った志保ちゃんの香りがした。別の意味でクラクラした。
 そう言えば今日は、志保ちゃんの笑顔が眩しい。普段控えめな笑みしか零さない志保ちゃんが、キラキラと笑っている。
 宮川さんと一緒にいると、やっぱり明るく笑うんだな。


16 明良



 あのカフェで見た、あいつだ。バーベキューコンロの向こう側で何やら作業をしている。
 志保が手を振ると振り返し、俺に会釈をした。俺も会釈をし返した。したくてした訳ではない。

 俺は営業の仕事をしている。初対面の人物と会話する事は苦手ではない。
 相手が話すくだらない内容から会話を広げていき、相手の心を開かせる事は、営業で重要なテクニックだ。
 今日の俺は完全アウェイ状態。それでもうまく立ち回ろう。そしてアイツに、鈴ナンタラに、俺と志保の関係は絶対である事を何とか見せつけて帰ろう。

 俺は特に役割を決められた訳でもなく、志保から手渡された缶チューハイを片手にぼーっと立っていた。するとアイツがやってきた。
「鈴宮」だったか。どうでもいい雑談をした。コイツもきっと、俺との話なんてどうでもいいんだろう。
 志保に好印象でも与えるために俺に近づいたか?知らんが。

 肉が焼けたと言われ、知らない女性から紙皿と箸を渡された。焼き網の隣にある、大きな皿からいくつか肉と野菜を紙皿に移した。
 志保の隣に行こうかと志保を探すと、その隣には鈴宮が立っていた。
 何やら親しげに話していると思ったら、志保が鈴宮の身体に肩を押し付けた。
 俺はぞっとした。全身の毛が逆立つ感覚を覚えた。
 よろめいて尻餅をついたアイツに志保は手を貸し、アイツがその手を握っている。
 目の前の光景が嘘であって欲しいと思った。
 あの白く細い腕に触って良いのは俺だけだ。志保の身体に触れていいのは俺だけだ。
 俺が独裁者ヒトラーだったら、間違いなくアイツを、鈴宮を、1番初めに公開処刑でぶっ殺してやる。

 志保の上司が何やらくだらない話を俺に振っていたが、適当に答えてやった。
 志保はその後、クーラーボックスから新しい缶チューハイを持って俺の横に来た。
「はい、もう呑み終ったでしょ?」
 空いてるチューハイの缶と引き換えに、冷えたチューハイを手渡してきた。この白い手に、アイツが。
「暫く俺の傍を離れるな。」
 耳元に顔を近づけて、小さな声で囁くと、志保は耳まで赤くして頷いた。こんなに可愛い志保を誑し込みやがって。

 その後、再び上司が近づいて来て、結婚はしないのか、子供はいいぞ、と、絵に書いたような上司的な説法を垂れて行った。
 志保の先輩に当たる女性がビールを持って来た。
「彼氏、かっこいい人だね」
「えぇ、自慢の彼です」
 言葉なんて曖昧だ、何とでも言える。俺は嬉しくも何ともなかった。ただ、営業スマイルでニコニコする事だけは忘れなかった。
「美男美女で羨ましいなぁ」
「先輩はお付き合いされてる方、いらっしゃらないんですか?」
「いるけどね、なーんか小汚いと言うか、もう少し落ち着いたらいいのにって感じの奴だから、今日は連れて来なかったんだけど。」
 そうなんですか、と志保は笑っていた。
 志保も俺と同じ。興味が無い話でもうまい事流せる奴なんだ。
 施設にいた時からそうだ。時々視察にやってくる役所の連中と、どーでもいい話を延々していた事があった。
 いい加減長すぎると思い、途中で引きずって部屋に戻らせた事があった。

 俺はその後も営業ニコニコスマイルを顔にべったり貼り付けて、格好良くて優しい彼氏を演じ続けた。
 途中であの鈴宮が再び近づいて来たが、志保を抱き寄せて頭を撫でてやると、奴は途中で引き返して行きやがった。
 志保は「急に何?」と訝しげな顔をして眉を寄せたが、そんな事はどうでもいい。


17 志保



 今日のバーベキューは上出来だった。何がって、明良を会社の方々に紹介できたし。バーベキュー自体も楽しかったし。
 明良はずっと笑っていたし(営業スマイルである事は薄ら気づいていたが)。
 家に着くまで手を繋いでいた。
 明良の腕から明良の幸せエキスが注がれて、私の胸の中一杯に広がる。
 幸せは自分で掴む物とは言うけれど、私は明良から幸せを貰っている。
 そして私の指の先からは私の幸せエキスが明良に向かって流れて行く。

 懸念していた鈴宮君の事も、取り越し苦労だった。鈴宮君と明良は笑顔で会話していた。
 私はずっと明良の横にいた。これで私と鈴宮君が「仕事だけの関係」である事を納得してくれたと思った。思っていた。


 玄関を開け、中に入る。蒸し風呂のような湿気が室内を占拠している。
 まだ夕日が射している居間の掃出し窓を全開にし、扇風機を回す。明良は洗面所に手を洗いに行った。
 キッチンには小窓がある。ここを開けると掃出し窓から入った風が室内を通って小窓から抜けて行く。
 その窓を開けにキッチンへ入ろうとすると、奥の洗面所から出てきた明良に突然、腕を掴まれた。
 さっきまであった笑顔は、皮を1枚剥いだ様に失われている。あぁ、また私、何かやっちゃったのかも――。

 腕を掴まれたまま居間へ引きずられる。裸足の踵が畳を滑り、熱くなる。乱暴にソファに投げ出された。今日はソファで良かった。痛くない。
「鈴宮と、随分楽しそうにしてたな、お前」
 鈴宮君と話をしていたのなんて、ほんの一瞬だ。
 確か、明良の事を褒めてくれたんじゃなかったっけ。そんな一瞬の出来事を――。

「アイツに握られた手はどうなってる。あ?」
 そう言って私の右手首をグイっと掴んだ。
「汚らわしいんだよ。あんな奴に触られてんじゃねぇよ。ここから全部、ちょん切ってやりてぇぐらいだよ」
 私はちょっと笑いそうになった。そんなの洗えば済む問題じゃん。子供みたいにムキになって。
 まさか、思っている事が顔に出ているとは思わなかった。
「笑ってんじゃねぇよ。お前は隙がありすぎなんだよ」
 脇腹を蹴られた。身体が無理な方向に撓る。作用があれば反作用。すぐに真直ぐに戻る私の身体は健康だ。

 明良は私の右手を放し、ガムテープや梱包用具が入った箱から、白いビニール紐と鋏を取り出し戻ってきた。
 夕日が照り付ける居間は、申し訳程度の風が入るだけで、暑い。あぁ、キッチンの小窓を開けたい。
 帰り道でかいた汗は引かず、更に汗が噴き出してくる。

 両手をバンザイの様に高く上げられ、ビニール紐で手首をきつく巻かれた。何重にも、何重にも。
 固結びにされた紐は、私の手首だけではない、腕の動きも封じてしまった。
「お前の手は汚いからな、俺とつながる事は許せない。俺とお前から暫く隔離しておく」
 そう言ってワンピースの中に手を入れ、ショーツを脱がせた。
 ソファに凭れ掛かる私の髪を掴んで、畳の上に乱暴に落とされる。後頭葉から前頭葉にグラデーションが出来る様に一瞬冷たくなる。
 前戯も何もない、挿入だけのセックス。同意のないセックス。強姦。
 明良が抜き差しする度に手首に痛みが走った。こんな事で明良が満足するならお安い御用だ。身体なんて減る物じゃない。いくら犯されたって私は明良の物だ。
 大丈夫、少し我慢すればすぐ終わるから。


 ワンピースの胸の辺りに、明良の精が吐き出された。明良の額から落ちる汗も、私のワンピースが吸収している。
 あぁ、シミになる前に洗わないと。そう思うのだが、身体が動かない。
 腕が縛り上げられているだけで、人間と言うのはなかなか自由に動けない物なのだと悟る。
 明良がシャワーを浴びている音がする。吐精されてから今までの経緯を忘れている事から、どうやら気を失っていたのではないかと気づく。
 あぁ、窓を開けたい。どうにかして身体を起こせないか考える。うつ伏せになってしまったら、畳が汚れる。どうにか腹筋を駆使して――。動こうとすると手首が紐に締め付けられる。

 ガシャっと風呂場から折り畳みドアが開かれる音がした。
「明良、キッチンの窓開けてくれない?」
 あぁ、と言ってガラガラと窓が開く音がした。明良はボクサーパンツだけを身に着け、タオルで頭をゴシゴシ拭きながら居間に入ってきた。そして私見て目を剥いた。
「志保、お前そんな格好でずっといたのか――」
 あぁ始まった、第2の人格。自分がした事の半分は記憶から欠落しているんだろうな。
「汗びっしょりじゃんか、腕、外すよ」
 出しっ放しになっていた鋏を持ってきて、紐を切った。身体を起こすと、白い短い紐が十本転がっていた。
 手首には真っ赤な痕がついている。きっと本物のSMで使うロープは、こんな風に汚らしい痕はつかないんだろうな。
 細かい皺の様に赤い線が走っている手首を見て、そう思った。身体を起こし、ソファに凭れた。

「とりあえずその服、脱がないと」
 ソファに凭れて座る私はまるで人形の様に動かない。動けない。
 腰まで捲れているワンピースを脱がすのはそう難しい事ではなく、明良が脱がした。
 私の傍に膝をついて座り、そして私の頭を抱いた。ボディソープの匂いがする。
「俺はこんな事がしたいんじゃないんだ。お前が俺から離れて行くのが心配でならないんだよ。お前の事を他の奴らが気安く触る事が許せないんだよ。分かってくれるよね、志保?」
「ん」
 静かに頷いた。シャワー、とだけ言って私はフラフラする身体を何とか立ち上がらせ、その場を離れた。


18 朋美



 その日、志保ちゃんは薄手の長袖Tシャツを着てきた。
 数多の蝉が壊れた弦楽器の様な耳障りな音を発している。アスファルトからは陽炎が昇る。
 最高気温は35度を超える酷暑日に、どうしたんだろう。日焼けでも気にしているんだろうか、はたまた過剰な冷房を懸念しているんだろうか。
 それとも何か隠したい物がある、とか――。私は敢えてそれには触れないでおいた。

「新しいワンピースを買おうと思って」
 そう言っていた。私達は駅前にあるショッピングモールに入り、色々な店を見て歩いた。ノースリーブの着易そうな物、と志保ちゃんが言っていたので、それに見合いそうな物を一緒に探した。
「これなんてどう?似合いそうだけど。」
 グレーと紺の斜めボーダーが不規則に入った、ジャージ素材のワンピースは、色が白くて華奢な志保ちゃんに似合いそうだった。
「ノースリーブというかタンクになっちゃうけど」
「うん、これにする」
 ろくに検討もせずに返事をするので驚いた。
「え、試着は?」
 それなりのお値段がするワンピースだった。試着しないで買って大丈夫なんだろうか。
「うん、大丈夫。このサイズなら大丈夫だよ」

 以前私が買ったニットワンピースを志保ちゃんに譲った事があった。
 バーゲンで試着室は大行列しており、待てなかった私はデザインが気に入っただけでそのワンピースを購入した。
 帰宅して着てみると、お世辞にもスタイルが良いとは言えない身体のラインがキッチリ見えてしまって、それはそれはとても残念なワンピースになってしまったからだ。
 その時に志保ちゃんは「試着しないで買うなんてダメだよ」と私を咎めていた。
 華奢な志保ちゃんが私と同じような失敗を犯すとは考えられないが、それでも試着をしないで洋服を買う志保ちゃんの行動が、不可解だった。
 長袖Tシャツ。試着しないで服を買う。一体どうしだんだろう。


 その後、いつものコースでカフェ「ディーバ」へ向かった。
 通りには日焼け防止のアームカバーをしている女性や、それ用のカーディガンを羽織っている人は見かけたが、やはり志保ちゃんの長袖は少し浮いて見えた。

 各々がカウンターで飲み物を頼んだ。今日は窓際の席は空いておらず、先に品物を受け取った志保ちゃんは奥まったソファ席に座って待っていた。
「今日もカフェモカ?」
「うん、さすがにアイスだけどね」
 私は前回の挽回で、マンゴーフラペチーノを頼んだ。ひと口含むと、甘ったるいマンゴーソースが口に広がる。冷たさが一瞬、頭に衝撃を与える。
「昨日職場のバーベキューがあってさ」
「どこで?」
「多摩川で。めちゃ暑かった」
 昨日も酷暑日だった。あんな所で日光を浴びながら焼肉なんてやったら、自分が焦げてしまいそうだ。
「日焼けしなかった?」
「うん、先輩が朝8時から高架下を陣取ってくれてて」
 8時だよ?笑いながら志保ちゃんは言った。私もつられて笑った。
 カフェモカをひと口飲むと、少し、私の方までチョコレートの香りがした。

「そうそう、明良も一緒に行ったんだ」
「え?そうなの?凄い意外。一緒に行きそうもないイメージ。」
「何その勝手なイメージは」
 可愛い睨みを利かせながらニコニコしている。
 あの嫉妬深い彼が、職場のイベントに。
 まぁ、職場の面々を知る事で、要らぬ嫉妬が減って良いのかもしれない。そんな風に思った。

「で、楽しかった?」
 一瞬、志保ちゃんの顔が曇った。こういう陰りを見せる事が時々ある。特に、彼の話をしていると。
「うん、彼は営業職だから、結構色んな人と話を合わせて、うまくやってたよ。疲れちゃったかもね」
 私は志保ちゃんが楽しかったかどうかを訊いたんだけど。何故か彼の話になっている。
 志保ちゃんがカフェモカの入った紙容器を少し揺らすと、こちらの席までチョコレートの匂いがする。
「あぁ、カフェモカが甘すぎて喉が渇く」
 すみませーん、と志保ちゃんが手を挙げて店員さんを呼んだ。
 その瞬間、思わず「あっ」と声を上げてしまった。慌てて両手で口を塞ぐ。
 志保ちゃんの上げた腕の袖口から見えた手首に、真っ赤な筋が幾重にも渡ってついているのが見えた。
 私の手は無意識に震えていた。

「あ、お冷をひとつ、あ、ふたつ下さい」
 かしこまりました、と店員さんがカウンターへ戻っていったのを見計らって、震える手を志保ちゃんの手に伸ばした。
 志保ちゃんは手を引っ込めようとしたが、私がそれを阻んだ。志保ちゃんが息を呑む音が聞こえるような気がした。
「これ、どうしたの?普通の傷じゃないよね」
 両手を付き合わせた。内側だけに痕が無い。
「ちょっと怪我」
「怪我じゃないよ、これ。こうやって、縛られたんじゃないの?」
 痕が無い内側をくっ付けて、志保ちゃんを見た。自然に、鋭い視線になっていたと思う。
「ん、まぁそれはあれだよ、プレイ?そういうプレイだよ。恥ずかしい事言わせないでよ、カフェで」
 そう言って志保ちゃんは私の手を振り解いた。
 そう言われたら、これ以上追及は出来ない。プレイだと言われたらそれまでだ。
 彼にも、志保ちゃんにも、そういう嗜好があるのかも知れない。
 
 それにしても――嫉妬深い彼。このカフェでの目撃事件。バーベキューの事を話す時の、一瞬の陰り。腕の痕。
 私の頭の中には「DV」と言う言葉がちらついた。
 まさか意志の強い志保ちゃんが、そんな事に巻き込まれる筈はない。
 だがしかし、相手の彼は幼い頃から一緒に過ごした結びつきの強い相手だ。
 彼に対する愛情や情が強いあまり、拒否できない可能性も否定できない。
 
 私の勘は結構当たる(他の事で使いたい位なんだけど)。
 これ以上悪い事が起こらないように。そう思わずにはいられなかった。


19 令二



「おはようさん」
「おはよう。土曜はお疲れ様」
 ちらっとこちらを見遣り、またすぐにPC画面に視線を戻す。カチカチをキーを押す指が忙しなく動く。
 志保ちゃん、また長袖の白衣を着ている。それに、内側から覗く長袖シャツの袖口。
 暑くないんだろうか。居室が冷えるんだろうか。
「冷房、キツかったら温度上げようか?」
 操作盤がある出口付近へと足を進めると、志保ちゃんは顔を上げて振り向いた。
「いいからいいから。寒くないから。着こんでるし」
 いや、着こんでるしって――長袖着て会社に来たんだろうか。

 隣のデスクに腰掛けて、鞄を引出しに仕舞う。PCを立ち上げている間にコーヒーを淹れる。ドリッパーから立ち上る湯気を見ていた。
 俺もこのクソ暑い中、ホットコーヒー飲んでるんだもんな。そういう人間も中にはいるんだよな。ドリップされたコーヒーを零さないように慎重にデスクに運ぶ。

 週末に出た生データをPCに打ち込んでいく。隣では同じような作業を行っている志保ちゃんの手元から、カチカチとキーを叩く音がして、時折中断し、またカチカチと音がする。
 中断が定期的だな、と思い、横目でチラっと志保ちゃんを見た。中断した瞬間に、白衣の中の袖口を、ぐっと引き上げていた。
 気付かれないように横目で見ていると、またキーを叩く手を止めて、袖口を引っ張る。何か、見られたくないアクセサリーでもつけてるんだろうか。あの彼から貰ったアクセサリーとか?

「おはよー」
「あ、おはようございまーす」
 鈴木さんが眠たげな目をして居室に入ってきた。「土曜はお疲れ様でした」と言うと「おう、買い出しありがとうな」と通り様に俺の肩を叩いた。
「今日のミーティング、俺会議入っちゃったから、個別に進捗訊くから。」
 俺の尊敬する鈴木さんは、仕事面では勿論、社員の声を集約する場、労働組合でも人々に尊敬される立場にある。あんな風に人望のある人物になりたい。俺はそう思っている。
「志保ちゃん、今大丈夫?」
 脚にキャスターがついている丸椅子を俺と志保ちゃんの間に転がしてきて、鈴木さんが座った。
「はい、あの今データ打ちこんでる途中なんで、生データになっちゃうんですけど――」

 2人がミーティングを始めた。俺は自分のデータ入力を続けていた。今回はなかなかイケそうな雰囲気だ。
 このデータなら、鈴木さんから「いいんじゃないの?」って言ってもらえそうだ。あとはこの辺をグラフ化して――。
「あれ、どうしたの、その手首?」
 鈴木さんが抑え目な声だけど驚きを隠せない様子で言った。志保ちゃんの他には俺にしか聴こえない位だったと思う。
「あぁ、これ、怪我です」
 鈴木さんの身体のせいで様子は見えなかったが、聞こえた声には同様の色が伺えた。
 きっと長袖の袖口でまた隠したのだろう。
「志保ちゃんの綺麗なお肌に痕がついちゃったら大問題だよ。気を付けてね」
「あ、はい。ありがとうございます」

 アクセサリーなんかじゃなかったのか。傷を隠していたのか。
 前にもあった。口元の傷。二の腕に付けられた痕。
「彼氏と喧嘩」って言ってたっけ。彼女に傷を負わす程の暴力を振るう彼氏って、どうなんだろう。
 いや、今日の手首の傷(まだ見ていないが)が彼氏によるものなのかどうかはまだ分からないが。
 一瞬、あの張り付いたような宮川という男の笑顔を思い出す。

 俺は近頃、自分では見て見ぬ振りをしている感情がある。
 どうやら俺は、志保ちゃんに惚れているらしい。

 彼氏がいる事は分かっている。だから表には出さないが、惚れている。
 俺は小学校の頃から女の子に人気があった。自分から言い寄らなくても、気に入った女の子は自分に寄ってくる。
 そのうち、俺の性格は捻じ曲がり、俺に好意を向けてくる女の子を片っ端から好きになるようになった。
 何が言いたいかと言うと、俺から惚れた事が1度も無いのだ。今付き合っている彼女3人だってそうだ。
「付き合って」と言われ、容姿だって中身だって悪くなかったからオーケーしたまでた。惚れた訳ではない。
 断って相手を傷つけるより、受け入れて相手を幸せな気分にさせてあげたい。それが今までの俺のやりかただった。
 そんな俺が今、志保ちゃんに惚れている。
 だからこそ気になるんだ。彼女に付けられる幾つかの傷跡。
 身体に付く傷跡はいずれ消えるかも知れない。
 だけど、身体に付くと同時に心にも傷を負っているのではないか。それは癒えるのだろうか。


「令二、今いいか?」
「は、あ、はい」
 考え事をしていた俺は焦ってコーヒーを倒しそうになった。「おい大丈夫か」と鈴木さんの心配そうな声にヘラヘラと「平気ッス」と答える。
 
「うーん、この感じ、いいんじゃない?」
「マジすか?」
「うん、これさぁ、細かくタイムライン追ってみたいな。お前今日、通し勤務できる?」
「ハイ、できますっ」
 通し勤務とは、要は夜通し働くという事だ。最近の俺は鳴かず飛ばずなデータしか得られていなかったので、通し勤務はかなりご無沙汰だが、今回は鈴木さんの推しもあって、ノリにノッてきた。
 今なら切腹も出来そうなテンション。いや、しないけど。
「じゃ、気を付けてやれよ。俺、終業後すぐ組合行って直帰だから」
「はい、わかりました」
 鈴木さんが丸椅子から立ち上がると志保ちゃんが見えた。また袖口を引っ張っている。
 じろじろ見るのも失礼かと思い、横目でちらりと見ていた(勿論仕事もしている)。傷跡は見えない。

「通しなんて、久々なんじゃない?」
 居室には俺と志保ちゃんの2人が残っていた。
「うん、最近不調だったからね、やっと良さそうなデータが出せそうだよ」
 志保ちゃんがパタンとノートPCを閉じた。
「夏の通し勤務は、ゴキブリが出るから困るよね。私、この前3匹を見ちゃって、殺すに殺せなくて、あれは地獄だった」
 白衣の腕を擦って、「あぁ気持ちわるっ」と身震いした。
「出鼻をくじかないでくれ、俺も虫、苦手なんだよぉ」
「まぁせいぜい頑張って、良いデータ出してください。そいじゃ今日は遅いのでさっさと帰ります。お疲れ」
 右手をひらひらと振って居室を出て行った。俺1人になった。両手を組んで頭の後ろに回す。

 志保ちゃんは彼に、宮川さんに惚れている。宮川さんだってそうだ。
 どうして惚れている同士で喧嘩、いや、喧嘩ぐらいはするだろう。でも暴力は――。
 傷跡の話をする時の志保ちゃんは、一瞬でも冷静さを欠いた、瞳の揺れを見せる。『陰』の様な物をチラつかせる。
 何か、人に言えない悩みがあるなら、俺が話を聞いてあげたい。俺が何とかしてあげたい。
 結果的に志保ちゃんと宮川さんの幸せに貢献する事になっても構わないと思う。志保ちゃんが楽しく幸せに生活できるのなら、俺は身を引く。
 惚れていて、惚れていて、本当は俺の物になって欲しいという我欲に満ちた感情がある。
 だけど惚れたヒトに幸せになって欲しいと願う。矛盾しているが、
 俺の中では相反する感情が渦を巻いて、混沌としている。俺に出来る事は――。

「じゃーん」
 居室の出入り口からいきなり志保ちゃんが顔を出した。
「うわっ、びびったっ」
 俺は椅子から転げ落ちそうになった。
 志保ちゃんの手には紙パックの野菜ジュースが握られている。白衣は脱いで、エスニック調のロングスカートに長袖のシャツを着ている。長袖が季節外れで目につく。
「通し勤務の差し入れに参りました」
 そう言って野菜ジュースを差し出す志保ちゃんの腕を反射的に掴んでしまった。
「なにっっ?」
 腕を引っ込めようとする志保ちゃんの腕を少し強引に引き寄せ、長袖の袖口を引き上げた。
 赤い、線を引いたような痕が幾重にもついている。痛々しい。
 それを見られて観念したのか、もう片方の腕はだらりと落ちた。その腕を掴み、同じように痕を見つけた。
「けん、か?」
 目の前に立つ志保ちゃんの顔を覗き込むようにして言った。そこには、あの翳りが見えた。
「喧嘩、みたいな物」
「随分変わった喧嘩するんだねぇ」
「鈴宮君に関係ある?」
 とても冷たい言い方だった。そこには俺が入り込む余地はないという事か。
 腕を握ったまま、傷口を見つめる。赤紫の、蚯蚓が張り付いた様な痕。

「あの、上手く言えねぇんだけど、その、俺は志保ちゃんの事――」
 あぁこういう時、どうしたら良いんだろう。俺は経験が少なすぎる。
「志保ちゃんの事、心配なんだ。喧嘩だろうが何だろうが、女の子に傷つけるなんてどうかしてると思うんだ。何か、話だけでも聞くから、何かあったら俺に話してよ。」
 暫く沈黙が流れた。外から虫が鳴く声が響いた。そして志保ちゃんは静かに言った。
「ありがとう。でも鈴宮君は1度に3人もの女の事付き合って、彼女たちを傷つけてると思わないの?見える傷と見えない傷、その違いは?どっちが問題?」
「――」
 返す言葉が見つからなかった。本当だ。今はうまくやっている3股も、勘付かれたら彼女達を傷つける事となる。いや、今この瞬間も、彼女たちを傷つけているんだ。
「そんな訳で、私帰るね。通し頑張れー」


20 志保



 ここ数日、体調が優れない。食欲が無い。
 特に食べたい物も無く、仕方がないので飲み物と、ゼリーを食べてお腹を満たす。
 今日も昼休みに「食堂にはいかない?」と先輩に誘われたが断った。
 少し外の空気が吸いたくなって、外に出てみた。植樹だとしても緑は緑。木の下にいると少し気分がいい。

 自分を心配してくれている鈴宮君に、とても酷い事を言ってしまったと後悔している。
 実際は誰かに相談すべき事態だと認識している。
 だが、明良と私の特殊な結びつきを理解してくれる人は殆どいないであろうと諦めているし、私は今のいびつな関係であっても明良と一緒にいる事を望んでいる。
 あの翌日、通し勤務を終えた鈴宮君は、午前中には帰って行ったが、いつもと同じように接してくれた。その後も、だ。
 優しいな、と思った。
 
 今まで明良以外の男の人と関わった事が無い訳ではないが、鈴宮君は私の中に入り込もうとしている事が何となく分かる。
 今までは大抵、「志保ちゃんには宮川君がいるから」と1歩ならず2歩引いて接してくる男性が多かった。
 中学の頃だったか、私には明良と言う彼氏がいる事を知っていて2度も告白をしてくれた男性がいた。
 明良に知られてボコボコにされた。それ以来彼が私に近づく事はなかった。
 それ以外で、私と明良の関係に、私の心の中に入り込もうとするのは鈴宮君だけだ。
 それを今、悪く思わない自分がいる。気に留めてくれている事を嬉しく思う自分がいる。

「志保ちゃーん」
 中庭でバレーボールをやる一団の向こうから、鈴宮君がビニール袋を提げて手を振っている。手を振りかえすと、こちらへ走ってきた。
「はぁ、この前の、通しの時のお礼ね」
 息を切らせながらそう言うと、紙パックのいちご牛乳をビニールから取り出し、私に手渡した。
「ありがとう」
 まだ自動販売機で買って間もないのであろう、心地良く冷えていた。
「志保ちゃんはいつもカフェで甘い物飲んでるから、それを選んでみた」
「いちご牛乳、好きだよ」
「それは何よりで」
 鈴宮君は芝生に座る私の隣に「失礼」とひと言投げてから腰かけ、紙パックのコーヒーにストローを挿して飲み始めたので、私もいちご牛乳にストローを挿して飲んだ。
 甘ったるい苺の匂いが口の中に広がる。

「俺ね、彼女と別れようと思ってるんだ」
 鈴宮君の意外なひと言に、私は目をパチクリした。「そんな顔しなくても」と鈴宮君は苦笑いを見せた。
「前に志保ちゃんに言われた言葉、あれは効いた。俺は彼女達を傷つけてるって」
 あぁ、私は酷い事を言ったと後悔していたが、結果的には良い方向に進むんだろうか。先を促すように「ん」と頷いた。
「人を好きになるって、俺は今まで経験が無いんだ。好かれる事はあっても、自分が好きになる事って無かった。それが今、『好きだな』って思える人が出来て」
 目の前では白いバレーボールがポンポン跳ねている。地面に付くたびに複数の「あぁぁ」という落胆の声が聞こえる。
「良かったじゃん。大事な事に気づく事が出来て。人を好きになるって、結構な覚悟が必要だよね」
 9月の風が木を揺らし、木漏れ日が左右に揺れる。いちご牛乳をもうひと口、飲む。
「志保ちゃんみたいに、1人の人を『好きだっ』って思ってるのは凄いなと思うよ」
「好き、ねぇ」

 好き、という言葉に何か違和感を覚えた。
 私は明良の事が好きで一緒にいる筈だ。だけど明良の事が好きなのかと今一度、良く考えてみると、素直に「好き」と言えない自分がいる。
 一緒にいなければいけない「使命」がある、と自分を雁字搦めにしているのではないか。頭の片隅で、冷静な自分がそんな警鐘を鳴らす。
「明良とはね、中1の頃にはもう、セックスしたの」
 私のカミングアウトに鈴宮君は面食らった様子だった。
「明良も私も、親を知らないんじゃなくて、親に捨てられた、それに捨てられた記憶も残ってる。2人とも同じような境遇で育って、自分の足りない部分をお互いが補い合って生きてきたの。だから、好きとか何だとか、そういう言葉で表すのが難しい関係なんだ」
 重たい話をしてしまって少し後悔した。だけど鈴宮君は「うん、うん」と誠実なしっかりとした目で頷いて聴いてくれた。
「施設の人に迷惑を掛けないように、夜はすぐに寝たふりをして、誰もいなくなってから母を想って泣いてたの。毎晩。その度に明良が抱きしめて背中を擦ってくれてたの。小学生の時ね。そんな頃から、お互いに触れる事に慣れてたし、お互いの思う事が手に取る様に分かるようになってた」
「そこにいて当たり前の存在なんだね」
 鈴宮君の瞳が少し淋しげに揺れた。
「じゃぁ乱暴されるのも、相手の気持ちが分かるから、許しちゃうって事か」
「そうだね、その通り」
 私は潔く頷いた。
 暫く沈黙が流れた。バレーボールは明後日の方向へ飛んでいき、ゲラゲラと笑う声が中庭にこだまする。何がそんなに楽しいのか。

 鈴宮君は両手を頭の後ろにやって芝生に寝転んだ。
「俺にはわかんねーなー。いや、そう簡単に分かる訳もないんだけどさ。それでも大切な女の子に傷を負わせる程、暴力を振るうってのぁ、俺には理解できない」
 業務開始5分前のチャイムが鳴った。
「変な話聞いてくれてありがと。何か鈴宮君って優しいから、何でも話せちゃうな」
「俺は彼女と別れる、とここに誓う」
 よっこらしょ、っと立ち上がり、強くそう言う鈴宮君に、今までに無い強さを見た。
 微笑みながら私も立ち上がると、目の前が青くなり頭がグラリと揺れた。
「ちょ、大丈夫?」
 冷や汗が湧きあがってくるのが分かった。頭の奥がずきずきする。胃がせり上がって口へ近づく様な気持ちの悪さ。
 暫く鈴宮君に寄り掛かっていたが、そのうち目の前が色を取り戻した。
「ごめん、ちょっと最近体調が悪くて」
 鈴宮君に付き添われるような形で居室に戻った。体調が悪くなり始めて2週間は経つ。
 まさかとは思うけれど――。


21 令二



「令二、ちょっと今時間ある?」
「あ、はい」
 鈴木さんに呼ばれ、2階にあるミーティングルームに行った。仕事の話なら居室でするだろう。一体何の話だろう。
 ミーティングルームは煙草臭かった。
「本来、仕事中にする話じゃないんだろうけど、志保ちゃんの事でちょっと」
「はあ」
 何の話なのか、俺には皆目見当もつかなかった。
 鈴木さんは頭をぽりぽり掻きながら、何から言おうかという感じで目をきょろきょろさせている。
 小部屋の窓は手入れが行き届いておらず、曇っている。空が、鈍色に見える。

「あのな、志保ちゃんって時々、身体に傷があったりしない?」
 面食らった。鈴木さん、気づいてたのか。俺だけじゃなかったのか。
 鈴木さんは社員のちょっとした変化に敏感に気づく人だ。志保ちゃんの事も気づいていたのか。
「ありますね。彼と喧嘩すると暴力を振るわれる事があるみたいですよ。あれ、これオフレコで」
 人差し指を口の前に立てた。
「お前、DVって知ってるだろう?」
 ドメスティックバイオレンス。最近は家庭内のみならず、恋人間で行われる「デートDV」なる言葉まで存在する。
「あれじゃないかなって思ってるんだよね。彼女、彼氏と同棲してるだろ」
 張り付いた笑顔を絶やす事無く酎ハイを口にしていたあの宮川という男の顔を思い出す。
「そうすね、でも彼女は暴力を振るってる相手の気持ちも分かるからって言ってました。批難どころか、肯定にすら俺には聞こえましたね」
 同じ境遇で施設に引き取られた2人が、お互いを補い合いながら生きてきた。そう言っていた。
「だから、それがDVなんだって。暴力を受けている側が相手のちょっとした優しさとか、相手の不遇に同情して、関係を修復して、これを繰り返す訳だよ。ま、今は俺の推測に過ぎないんだけどな」
 鈴木さんは腕組みをしてテーブルを見つめる。

「それで、俺はどうすれば?」
「お前が会社で今、1番彼女に近いポジションにいるから、頼まれてくれ。何か彼女に危険が及んでいそうな気配があったら、俺に教えてくれないか?」
「あ、はい。そうします」
 立ち上がりながら鈴木さんは長いため息を吐いた。
「ごめんな、仕事中なのに」
 俺は「いえいえ」と言って、部屋を後にする鈴木さんの背中を見ていた。
 DVか。それなら説明がつく。俺は腕組みをしながら暫くそこを動かなかった。志保ちゃんは「DV」と言ってそれを認めるだろうか。認めたとしても、それを止める術がある訳ではない。俺は、どうしたらいいんだろうか。兎も角、鈴木さんの言う通り、何かあったら鈴木さんに報告しよう。まずはそれが、志保ちゃんを暴力のループから救う方法だ。


22 志保



「青い線が出たら、妊娠の可能性があります、かぁ」
 妊娠検査薬と説明書を手に、自宅のトイレに入った。
 10月に入ろうとしているこの日、まだ暑さは残り、狭いトイレには温い湿気が充満していた。
 細いスティック状になった検査キットの先端にある、白い不織布の様な部分に尿を掛ける。
 数秒もすると、透明の窓に青いラインがはっきりと出てきた。

 胸の辺りがざわざわした。形容しがたい感情に覆われて行く。お腹に、赤ちゃんがいる。

 普通のセックスでは避妊している。しかし暴力を伴うセックス(犯されている時)では、避妊していない筈だ。妊娠するのも時間の問題だった訳だ。
 報告したら、喜んでくれるだろうか。また暴力を振るわれるだろうか。
 孤独だった2人の間に家族が出来る事を、手放しで喜んでくれはしないだろうか。

 不織布の部分にキャップをし、周りをトイレットペーパーで拭った。この青いラインは3日は消えないらしい。
 明良の機嫌を伺って、良さそうな時に見せる事にしよう。洗面所の棚の端に、検査薬をそっと置いた。

 あぁ、お腹に赤ちゃんが。明良と私の血を継いだ赤ちゃんがいるんだ。家族のいない私達に、家族が出来るんだ。
 男の子だったら明良に似るといい。きっとカッコイイ男の子になる。
 女の子でも明良に似ればいい。目鼻立ちのくっきりした綺麗な女の子になる。

 生まれたら施設に報告に行こう。先生たちはきっと喜ぶに違いない。
 小さい頃から行動を共にしてきた施設育ちの私達から、赤ちゃんが生まれるなんて、先生ならきっとお赤飯を炊くな。
 それにしても、いつ妊娠したんだろう。最近のセックスは、暴力を振るわれる事が殆どで、きちんとしたセックスをした事なんて数えるほどだ。
 セックスの時は避妊をしているのだから、やはり暴力を振るわれて犯されて出来た子供という事か。そう思うと、複雑な気分になる。


23 明良



 家に帰ると、はち切れんばかりの笑顔をした志保が、白い棒切れを持って立っていた。
「おかえり」
「ただいま。どしたの」
 その笑顔を更に輝かせて、俺の目の前にその白い棒を突き出した。
「青い線が出てるでしょ?」
 あぁ、妊娠しちまったか。しくじった。その本心は顔に出さずに、志保の両肩を握った。
「良かったなぁ、赤ちゃんかぁ」
「そうだよ、私と明良の赤ちゃんだよ」
 目をうるうるさせて今にも涙が零れんばかりの顔で頬を赤らめている志保が、愛らしくて仕方がない。

 俺は、志保がいればいい。
 子供なんてどうでもいい。

「病院には行ったの?」
「まだなんだけどね。早いとこ産院を予約しないと、お産難民になっちゃうって」
 俺は上着を脱ぎながら、大して興味のない話を促した。
「お産難民って?」
「今はお産が出来る病院が限られてるから、早くに予約しないとダメなんだって。私の場合、もうつわりっぽいのも終わっちゃってるから、急がないとまずいなー」
「ふん、じゃぁ病院、急いで探して行ってきなよ。可愛い赤ちゃんの為に」

 俺の可愛い志保の愛の矛先が、俺ではなく腹の中の餓鬼に移る事を危惧したが、妊娠させてしまったことは俺の失態だ。
 生まれるのなら仕方がない。育てるしかない。
 が、志保はあくまでも俺の物だ。相手が餓鬼とて容赦しない。
 志保の生理日は大体把握していたのに、いつの間にずれてしまっていたのか。
 暴力で頭が混乱すると、俺は避妊をしない。まずいまずいとは思っていても、中で出すか、良くて腹の上だ。
 逆に言えば、これから暫くは中で出し放題か。暴力がてら餓鬼が死んでしまったとしてもそれは事故だ。
 悲しむ志保を慰めて、また俺の元に戻せばいい。俺だけに愛情を注がせればいい。

「ネットで探せるかなぁ」
 完全に浮き足立っている志保を見て、既に彼女の心は、腹の中の異物にあるのだと確信した。
 どこにぶつけたら良いのか分からない苛立ちが、沸々と湧き上がってくる音が聞こえた。


24 朋美



「ごめんね、こんな事に付き合わせちゃって」
 土曜の産婦人科は混みあっている。いかにもお腹が重たそうにふぅふぅ言いながら歩いている妊婦さんもいれば、まだお腹が目立たないけれど、鞄に「お腹に赤ちゃんがいます」というキーホルダーを下げている方もいる。
 志保ちゃんがママになるのか――。

 1人で行くのが心細いと言う志保ちゃんに付き添って、近所の産婦人科に来た。
 朝の9時に受け付けを済ませ、現在11時。やっと中待合室に呼ばれた志保ちゃんは、私に「行ってくるね」と言い、スタスタと歩いて行った。
 少子化なんて都市伝説なんじゃないかと思われる位、産科は混み合っていた。
 隣に座っていた女性は後から来た旦那さんらしき人に「予約してるのに1時間も待ってるんだけど」と不満を漏らしていた。

 10分程して、紙切れを1枚持って戻ってきた志保ちゃんに「どうだった?」と訊いた。
「うん、この丸いのが赤ちゃんだって。今、妊娠3か月。5月頃が出産予定日だって」
 紙切れに写る丸い物を見つめる。これが人になっていくのか。志保ちゃんのお腹と写真を交互に見比べて「へぇ」と1人で感心してしまった。

「朋美ちゃん、もう1ヶ所行っていい?役所」
「うん、いいよ、行こう」
 いざ自分が妊娠した時の為に(現在は相手もいない)、同行した。役所では母子手帳と役所からの資料、「お腹に赤ちゃんがいます」のキーホルダーが貰えた。
「これでアナタも妊婦さんですよっ」
「えへへ、そうだね」
 その顔は、もう既にママの様に包容力のある笑顔になっていた。人間って不思議だなと思った。


 帰りにカフェ「ディーバ」に寄った。
「今日のお礼で私の奢りね。マンゴーフラペチーノでいいよね?」
「え、いいよぉ、自分で払うよ」
「いいのいいの、ここは甘えておいて」
 そう言うので、1杯ご馳走になる事にした。いつもの窓際の席が空いていたので、そこに座ると、程なくして志保ちゃんがフラペチーノを2つ、お盆に乗せて持って来た。
「あれ、カフェモカじゃないの?」
「うん、カフェインを気にして」
 妊婦さん、と言うと、へへっと照れたように笑う笑顔が、とても可愛らしく頬を染めた。

「ちょっと気になってる事があってさ」
 それまでの笑顔が嘘だったかのように、少し俯いて志保ちゃんが話し始めた。
「どうした?」
「明良の事なんだけど」
 ごくり、と息を飲む音が自分の耳にこだました。
「赤ちゃんが出来たって話した時、営業スマイルだったんだ。長く一緒に住んでると、そういうのって丸わかりなんだよね。明良はうまく隠せてると思ってるのかも知れないけど」
 バーベーキューの時もそうだったけど、と付け加える。
「赤ちゃんが出来た事、喜んでないかも知れないって事?」
「うん。多分そうじゃないかな、って思って。自分の子供、可愛くないのかなぁ」

 暫く何も言えなかった。フラペチーノを口に含んだ。氷の粒が消えてなくなる。
 志保ちゃんの赤ちゃんが消えてなくなりませんように。
「思い違い、ではないんだよね」
「うん」
 嫉妬だ。間違いない。彼は自分の子供にさえ嫉妬しているのだ。このままでは志保ちゃんも赤ちゃんも危ないかも知れない。

「あのね、志保ちゃん。正直に答えてほしいの」
 改めて姿勢を正してこう切り出した。志保ちゃんは静かに頷いた。
「ん」
「彼に、暴力振るわれてるよね」
 一瞬志保ちゃんの目がカッと見開いて、そして急速に萎んだ。
「ん」
「彼は、志保ちゃんを独占したいんだよ。赤ちゃんに志保ちゃんを取られるのが怖いんだよ」
「え、だって2人の子供なのに、家族なのに?」
 熱くなって前のめりに身体を伸ばし話す志保ちゃんの声は、自然に大きな物になり、隣の人がちらりとこちらを見た。
「家族だからこそ、志保ちゃんは赤ちゃんに愛を注ぐでしょ。彼はそれが気に入らないのかもしれない」
 志保ちゃんは今にも泣きだしそうに顔を顰めている。でも仕方ない。これは志保ちゃんへの警告でもある。
「もしかしたら今後、暴力で赤ちゃんを流そうとするかもしれない。そんな事にならないように、自分の赤ちゃんは自分で守るんだよ。暴力の事はとやかく言わないから。とにかく赤ちゃんを守って」
 志保ちゃんはまだ膨らむには早い自分のお腹を両手で擦った。
「ん。頑張る。暴力の事、気づいてたんだね」
「そりゃ気づくよ」
 以前見た、手首の赤黒い痕を思い出す。
「彼の嫉妬深さも知ってるし。私は志保ちゃんの味方だから、何かあったら連絡頂戴よ。話聞くから」
 控えめな笑顔で「ん」と頷いた。
「朋美ちゃんと同じような事を言ってくれる人が、会社にいるんだ。話聞くから、って。私の周りは味方ばっかりだね。良かった」
 手を付けていなかった志保ちゃんのフラペチーノは、溶けはじめていた。
「フラペチーノ、溶けちゃうよ」
「あ、ほんとだ」
 目尻に少し、涙が光って見えた。


25 明良



 秋の日曜日、気候も良いこんな日に、志保は妊婦用の雑誌を読み耽っている。
 読んでいるだけなら良い。いちいち俺に話題を振ってくる。
「今は無痛分娩っていうのがあるんだって」
「八か月で死産だって、可愛そう」
「立ち合いしたい?」
「逆子体操だって、へぇ」

 いい加減イライラしてきた俺は、怒りを鎮めるために「ちょっと出てくる」と言って外へ出た。行く当てもなくふらりと駅前まで行った。すると意外な奴に出くわした。
 鈴宮だ。
「あ、どうも」
「ああ、宮川さん、どうも」
 俺は営業スマイルを持ち出して、奴に近づいた。
「買い物かなんかで?」
「えぇ、ちょっと彼女と色々と。宮川さんは?」
「俺は散歩です」
 部屋着にサンダル、見るからに散歩だろう。
「そうだ、最近玄田さん、体調が悪そうでしたけど、大丈夫ですか?」
 俺はそんな事、ひと言も聞いてない。
 体調が悪い?つわりか?何故、鈴宮が知っていて俺が知らない?
「えぇ、部屋でぴんぴんしてますよ」
 そうですか、それじゃ、と言って駅の方へ歩いて行った。俺はすぐに部屋へ戻った。

「あぁ明良、夫婦でする体操なんてのも載ってるよ」
 玄関を開けるなり、これだ。イライラする。
 さっとサンダルを脱ぎ捨て、居間へ急ぐ。サンダルはあらぬ方向へと散らばったが、構いやしない。
「お前、会社で体調が悪かったらしいな」
 志保はそれまでの笑顔を絶やす事なく、安らかに答えた。
「え、何で?誰から聞いたの?」
「今そこで鈴宮に会った」
 名前を出すだけで虫唾が走る。志保は何て事無い顔で「あぁ」と言った。
「丁度つわりだったみたいで。私もつわりだなんて思わなかったし、余計な心配掛けないようにと思って」
 あぁむかつく。そうやって1人で何もかも抱え込もうとする態度に腹が立つ。
 そして抱え込んだものが鈴宮に知れているのもむかつく。
 俺でなく、何故鈴宮なんだ。

 ソファに座った志保の前に立ち、茶色くしなやかな髪をグシャっと掴み、引っ張る。志保の顔が引きつる。
「妊娠しただ?夫婦で体操だって?ふざけんなよ、俺らは夫婦か?」
「いや、そうじゃなくっあっ――」
 握った手に力を込めた。反射的に志保はソファから腰をあげる。
「テメェの赤ん坊の話ばっかり聴いてるのはいい加減ウンザリなんだよ。お前の知らない事を、アイツから知らされるのも癪に障るんだよ」
 膝に蹴りを入れると、雑誌と共に志保が畳の上に転がった。その脇腹や背中、尻、思いつく限りの部分を蹴った。
 自然と腹を中心に蹴っている自分がいた。理性がぶっ飛んでいた。
 志保は必死に自分の腹を庇っている様子だったが、庇い切れていない。
 志保が着ていた部屋着の下に手を入れて下着を剥ぎ取り、犯した。今なら中出ししたって妊娠しない。便利なもんだ。

 俺が殴ったり蹴ったりした後にこうして犯す時、志保は殆ど声を出さない。
 何か、時間が過ぎるのを只々待っている様な、光を失った目をしてただ1点を見つめている。
 そこは気になるが、愛する志保の身体と繋がっている俺は、それで萎えたりしない。
 人形のようになった志保も、可愛いんだ。

 人形の様に横たわる志保を捨て置き、俺はシャワーを浴びた。
 不思議だ。シャワーを浴びる事で俺はもう1人の自分になる気分なのだ。
 それまで仕出かした志保への仕打ちに対して、弁明したり許しを乞うたりする訳だ。ここが俺のリセット地点だ。

 風呂場から出ると、志保は横向きに横たわっていた。腹を押さえていた。
 顔を見ると、涙が床に向かってぽたぽたと垂れていた。
「し、ほ?」
 志保は動かない。
「志保、大丈夫か?」
「ん」
 俺は志保の元に駆け寄り身体を持ち上げ、ソファに横たわらせた。
「お腹、痛いか?」
「大丈夫。もう、大丈夫だから」
 俺は志保のお腹に頭を埋めた。
「俺、志保を誰かの物にしたくないんだ。それだけなんだ。俺の物だけでいて欲しいんだ。俺もお前だけの物でいたいんだ。お前が好きで仕方がないんだよ。」
 言っているうちに視界が曇ってきた。目から涙が滴り落ちるのが分かった。
 俺は泣いている。志保は俺の頭を撫でた。
 覚えている訳もない、自分の母親に頭を撫でて貰っているような感覚だった。
「ん。大丈夫だから。明良の物だから。大丈夫」
 俺はきっと、涙でぐちゃぐちゃの酷い顔だったに違いない。それでも志保にキスをせずにいられなかった。


26 志保



 昨日の蹴りは酷かった。あれは完全に赤ん坊を殺す気だった。
 私は何とか身体を丸めて守ろうとしたけれど、守れたかどうか自信が無い。
 今日この研修中も、時々蹴られたところがじんじん痛んだ。
 今朝着替える時に身体を見たら、見事に痣があちこちに出来ていた。

 幾ら自分を独占したいからと言って、2人の間に出来た子供を憎むなんて――そしてそういう人を愛している自分って――。

 研修は、プレゼンテーション技術を学ぶという物で、要は毎月やっている月例報告会と同じ要領でやればいいだけの事。
 何とも無意味な研修だった。
 久しぶりに本社の同期連中とも顔を合わせたので、ひと通り声を掛けて帰った。

 帰りの電車で鈴宮君と一緒になった。鈴宮君とは研修のグループが違ったが、終了時間は一緒だったので帰りの電車で乗り合わせた訳だ。
「志保ちゃん、これから暇?」
「暇だけど、どした?」
「お茶してかない?」
「うん、いいけど」
 一瞬、明良の事が頭を過った。街でばったり会わないように気を付けないと。それから、席は窓際ではなくて奥。


「それで、どうした?」
 私はソイラテを頼み、鈴宮君はブラックコーヒーを頼んだ。今日も鈴宮君がご馳走してくれた。
「彼女と別れたんだ」
 ブラックコーヒーに行きを吹きかける鈴宮君から、香ばしい匂いが香った。
「何人?」
「3人」
 えっ、と思わず驚きを声に出してしまった。
「一気に3人?」
「うん。惚れた人に想いを告げる前に、全部清算しようと思ってね」
 口を半開きにして、声も無く2回程頷いた。
「あー、良く、頑張ったねぇ」
「おぉ、結構骨が折れる作業だったよ。捨て猫を拾ったのに、またそこに捨てに行くみたいな感じ」
「あ、それは辛い」
 でも、自分から惚れた訳でもない人と付き合い、関係を持つ事だって辛い事だろう。
 今まではそれが「相手の為」だと思っていたらしいが、「自分の為」に自分が幸せになろうとは考えなかったんだろうか。
 やっぱり鈴宮君は優しい。でも優しさを履き違えている部分もあるな、と思う。
 彼の想い人が、彼に振り向いてくれたらいいなと、思う。鈴宮君なら、相手を幸せにできるだろう。

「それをやりに横浜に行く前に、宮川さんに会ったよ、駅で」
 あ、昨日か。そこで私の話になった訳だな。
「何か話した?」
「うん、志保ちゃんは元気ですか?って」
「何それ」
 吹き出してしまった。そんな、久しぶりの人みたいな言い方。
「ほら、何か具合悪そうだったじゃん、先月だっけ?」
 あぁ、とだけ返事をした。職場にはまだ、妊娠している事を報告していない。

 鈴宮君が、急に姿勢を正して咳払いを1回した。と思ったらもう1回。もう1回して改まって言った。
「あのね、志保ちゃん。今日お茶に誘ったのはさ、俺の惚れた人ね、じつ――」
 血の気が引く音が聞こえるような気がした。お腹が――。
「タイムぅ、ちょっと待って、すっごいお腹痛いんだけど――」
 今まで味わった事も無い、下腹部にキリで穴を開け続けられるような痛み。嫌な汗をかいてきた。
「あ、まずいかも、これ、いたっ、イタッ――」
 俯くと、スーツの足元に赤い小さな水溜りが出来ていた。あ、もしかしてこれ――。
「鈴宮君、あの、ごめ、ん、イタッ、救急、救急車呼んでく――イタッ」
 鈴宮君が私の横に来て、身体を支えてくれた。店員さんに「すみません、急病人、救急車呼んでぇっ」と大声で頼んだ。
 鈴宮君に寄り掛かったまま、ぼーっと赤い血溜まりを見つめていた。そこから意識がすぅーっと遠のいた。


27 令二



 駆け付けた救急隊の人に事情を説明し(と言っても痛がっていた、血が出ている、ぐらいの事しか言えない)、志保ちゃんの荷物を持って一緒に救急車に乗り込んだ。
 近くの病院まで搬送される最中に「ご家族の方のご連絡先なんかは分かりますか?」と訊かれ、「親兄弟はいないんです」と答えた。俺は「同僚です」とだけ答えた。
 俺はあの場で、玉砕覚悟で彼女に告白するつもりでいた。そして諦めないと宣言するつもりでいた。それが、こんな形でお預けになるとは。何はともあれ、彼女の容体が心配だ。
 
 病院に到着し、担架が車内から運び出された。俺はそれを見送った。
「ここでお待ちください」
 救急処置室の廊下の長椅子を指さされ、そこに腰掛けた。
 志保ちゃんの携帯には宮川さんの番号が入っている筈。そこに連絡した方が良いんだろうか。
 迷った挙句、やめた。俺が関わる事で何か彼女に危険が及ぶのを恐れたからだ。
 とは言え、この状況じゃ、宮川さんと顔を合わせずに済むとは思えないのだが――。

 30分程で、処置室から医者か看護師か分からない女性が出てきて「ご家族?」と訊いてきた。違うと答えると「彼氏?」と言われ、何となく「は、はい」と言ってしまった。丸で大嘘だ。
 「じゃ、どうぞ」処置室の反対側にある小部屋に案内された。
 壁から冷たい空気が流れ出ているような、真っ白な簡素な小部屋で、レントゲン写真を張り付ける板の様な物と、小さな机、椅子が置いてある。
 「そこに座って」と椅子に座るよう言われた。対面に女医(胸に救急医・斉藤と書いた名札があった)が座った。
 
「結論から言いますと、流産です」
「は?」
「りゅうざん、です。妊娠、知らなかったの?」
 医者は子供に言い聞かせる様に「りゅうざん」という言葉をゆっくり言った。暫く開いた口が塞がらなかった。
「は、はい、知らなかったで、すぅ−−」
 そうか、だからあんなに具合が悪そうにしてたのか。
「で、あなた、彼女に暴力を振るってる?」
 まさか、暴力でこんな事になったのか?というか、俺は彼氏という事になっているが、この状況では正直に話した方が良さそうだな。髪をぺたぺたと撫で付けながら、正直に言った。
「すみません、彼氏ってのは実はう、嘘で、彼女の同僚です。彼氏は、彼女の携帯で電話掛ければ繋がると思うんで、掛けてみましょうか?」
 女医は険悪な顔をして「嘘?んじゃ電話して。今の話は聞かなかった事にして」と言った。

 俺は志保ちゃんの携帯を使って、発信履歴の1番上にあった「明良」宛てに電話を掛けた。
 あぁ何で俺はあそこで嘘を口走ったんだろう。願望?
『志保?』
「あ、鈴宮です、すみません」
『は、何であんたが志保の携帯使ってんの?』
アンタってなぁ、なんだ。イラっと来た。
「あの、志保ち、玄田さん、救急車で運ばれたんです。今、市立病院の救急のとこにいるんで、すぐに来て貰えますか?」
プツッと通話が途切れた。「切れました」と女医に告げると「じゃ、すぐ来るでしょ。彼氏この辺の人?」「知りません」「顔見知り?」「はい」冷たい口調はまるで尋問だ。

「あの子が暴力を受けてたとかは知ってた?」
「あ、まぁ一応そう言うような事は聞いてましたけど、何でですか?」
 ここは只の好奇心だ。また何か「痕」でもあったんだろうか。
「お腹の周り、痣だらけ」
 女医は苦々しい顔をして胸ポケットから何かを出そうとして「あぁ」と呟いて手首をクイッと捻った。喫煙者なんだろう。
「じゃ、また廊下に出て、もし彼が来たらあたし、処置室にいるから、呼んでくれる?斉藤って言えば分かる。彼女は輸血も終わって、もう少ししたら目ぇ覚ますと思うから。」
 そう言って斉藤という女医は個室のドアをドンと開けて部屋を出て行った。俺は開かれたドアから廊下に出て長椅子に座った。宮川が来るのを待った。
 
 妊娠してたのか。宮川の子か。志保ちゃん、楽しみだっただろうな。自分の赤ちゃんを抱くの、楽しみだっただろうな。
 色々な希望に胸を躍らせていたんだろう。お腹に自分の分身がいるってなぁ、どんな気分なんだろう。男には一生理解できない。

 そして、その分身が消失してしまう気分なんて、更に理解が及ばない。

 お腹の周りが痣だらけって酷いな。殴られでもしたんだろうか。何故自分の赤ん坊がお腹にいて、そんな事が出来るんだろうか。
 考えれば考える程、宮川と言う男の頭の中身がさっぱり分からなくなる。
 あの張り付き笑顔の裏に、どんな邪悪な面を持っているんだろう。

 救急外来のドアが乱暴にドンと開き、ドタドタと足音がした。音のする方を見遣ると、宮川が俺に向かって歩いてきたので、俺は立ち上がり会釈をした。
 するといきなり左頬に拳を打ちこまれた。俺は長椅子にドスンと倒れこんだ。壁に強かに頭をぶつけた。
「何やってんのっ」斉藤という女医が偶然通り掛かり、見ていた。
「玄田さんの彼氏だね。ちょっと中に入って。それと君、口のとこ、血が出てるから。一緒に処置してあげるから」
 左の口角から鉄の味がした。本当だ、切れてる。
 俺は自分の荷物と志保ちゃんの荷物を持って立ち上がると、宮川が志保ちゃんの荷物だけを乱暴に取り去った。
 宮川の目にはどす黒い物が渦巻いていた。そう見えた。
 ここまで敵意を露わに出来る人って凄いな。アンタは発情期の雄か。

 先程までいた小部屋に入る。「どうしてこいつが一緒なんですか?」と宮川が抗議したが、「彼は色々知ってるみたいだし、あなたに殴られてるから処置しないと」と言って同室を許可してくれた。
 要は、宮川が嘘を吐けない状況に、斉藤女医はしているんだろう。
「まず、彼氏君、君は彼女が妊娠していたことは知っている?」
「はい。知ってます」
 眉間に皺を寄せている。酷く面倒臭そうな顔をしている。こんな顔もするんだな、と思う。
「さっき運ばれてきた彼女、流産しちゃったの」
 簡易的に俺の処置をしながら、宮川を見ずに言った。
「あぁ、そうですか。残念です」
 随分とあっさりだ。女医もそう思ったのか、俺の処置の手を止め、宮川の方へ目を遣った。
「随分あっさりなんだね。中には泣いちゃう旦那さんもいるんだよ」
「あぁ、自分は別に。結婚もしてないですし」
 女医は「あっそ」、と言い放ち、俺の口角に小さなテープの様な物を貼り付けて「ハイ終わり」と告げた。

「それで、彼女の身体、特にお尻から鳩尾の辺りにかけて、まぁお腹中心に、沢山の痣があったんだけど、心当たりは?」
「さぁ」
 さぁじゃねぇよ、お前がやったんだろぉがっ。言いたい衝動に襲われたが、そんな事を言う権限は俺にない。女医に任せた。
「まぁね、ここは警察じゃないから。それに、その痣と流産の因果関係だって調べられないから、責めるつもりはないけど、彼女と幸せになりたいなら暴力はやめなさい」
 その冷たい目線は、宮川の目をじっと捉えて離さない。宮川も女医の目を敵意剥き出しの目で見ている。
「他人のアンタになにが分かるんだよ」
「分かる訳ないじゃない。他人だもの。他人だから言ってやってんだよ、青二才」
 わ、この女医すげぇ。かっこいい。ちょっと惚れた。
「それと、DV認定されると、今は法律が厳しいからね、接近禁止命令なんて下っちゃうかもよ。出るとこ出れば、お金取られちゃうからね」
 こう言って1度部屋から出て、「こっち」と俺らを呼んだ。


28 志保



 目が覚めると、白い天井に丸い穴が規則的に並んでいるパネルが見える。蛍光灯。白いカーテン。消毒の匂い?
 病院か。そうだ、血溜まり。多分、流産したんだ。
 
 左右を見たけれど誰もいない。「先生、目が覚めました」みたいな感動的な場面はないのか。
「すみませーん、目、覚めたんですけど」
 大声て呼んでみたら、遠くの方から看護師と思しき人が1人「あ、ちょっと待っててくださいね」と手を振って見せた。
 手には点滴が刺さっている。点滴の袋には「止血用」と書いてある。あぁ、血、出てたもんね。
 天井を見つめて待っていると、その看護師がサンダルをパタパタ言わせて近づいて来て「今先生呼んできますのでね、気持ち悪いとか、お腹痛いとか、無い?」と訊くので「大丈夫です」と答えた。

「どう?気分は」
 覗き込んできたのは先生と言われる女性だった。名札に「斉藤」と書いてある。
「どうも何も、最低ですよ。流産でしょ?」
「ご名答。一応聞かせて頂きたいんだけど、お腹の周りも背中も、至る所に痣があったね。あれは誰にやられたの?」
「言わないとダメですか?」
「言ってくれると有難い」
 腕組みをしながら私の瞳をじっと見つめて離さない。
「彼氏」
「オッケー。じゃ、その彼氏と、あなたを助けてくれた恩人をこちらへお呼びしても宜しいかしら?」
 この女医、ふざけてんのかなぁと思うような喋り口調だ。でも悪い感じはしない。
「オッケー」
 彼女の口調を真似て言った。

 ドアの向こうで何やら話し声がして、明良と鈴宮君が入ってきた。
「志保っ――」
 明良がわざとらしくベッドに駆け寄り、椅子に腰かけて私の右手を握った。
 その後をとぼとぼと鈴宮君が歩いてきた。左頬に怪我をしている。十中八九、明良にやられたのだろう。
 女医はその様子を離れた所から腕組みをしたまま見ている。
「鈴宮君」
 私は極力明良の顔を見ずして彼の名前を呼んだ。鈴宮君はビクンとして「は、はい」と何故か固まっていた。
「こっち来て」
「は、はい」
 右手と右足が一緒に出そうな位、固まっている。明良がいるのと反対側に座った。鈴宮君の向こうには斉藤先生がいて、ニコっと笑った。
「あの、ありがとう。赤ちゃん助からなかったけど、私は元気だから。ありがとう」
 左の口角の絆創膏に触れようとして、やめた。明良が後にいるんだった。
「あぁ、んもう俺、どうなっちゃうかと思って、ごめん、混乱してきちんと救急車呼べたかも覚えてなくって。気付いたら救急車乗ってたし、ほら、男だから血とか弱いっつーかアレでさぁ。」
 早口で捲し立てる鈴宮君に笑いかけ、ゆっくりと「ありがとう」ともう1度お礼を言った。鈴宮君の顔が耳まで真っ赤に染まるのが分かった。
 きっと私の右側では耳まで真っ青にしている明良がいるだろうと思いつつ、お礼はきちんとしておきたかったのだ。
「俺、そろそろ帰るわ。明日無理しないで。会社には適当に言っておくから」
 そう言って鈴宮君は部屋を後にした。

 明良の方に向くと「志保」ともう一度呼ばれた。
「赤ちゃん、流れちゃった」
「うん、残念だね」
 目の色一つ変えないで表情だけ悲しそうな顔をする明良の演技には、慣れたものだ。
「本当は良かったと思ってるんでしょ」
 後の方で斉藤先生が大きなため息を吐くのが聞こえる。
「明良の考えてる事は初めから分かってたよ」
「そんな事ないよ、俺たちの子供だよ、残念だよ」
「私が独占できなくなると思ったんでしょ」
 もううんざりだった。この会話はきっと、どこまで行っても平行線だ。地球を1周してここまで戻ってくる。
「先生、いつ帰れます?」
 後にいる先生に聞くと、「もう帰って良いよ、薬渡すから」と言われた。スーツが汚れているから、タクシーで帰った方が良いとも言われた。
「明良、タクシー呼んでおいてくれる?」
「分かった」

 明良は部屋を出て行った。すると斉藤先生がこちらへ向かってきた。点滴を止めると、腕から針を抜き、四角い絆創膏を貼った。「押えて」と言われた。
 斉藤女医は、先程まで明良が座っていた椅子に腰掛け、こちらを向いた。
「一度DVのサイクルにハマってしまうと、抜け出すのは大変だから。彼が変わる事はまずないから。あなたが何とかして、彼への依存と、彼からの依存を食い止めないと、何も変わらないよ。赤ちゃんだって、もしまた妊娠できたとしても、また同じ事の繰り返し。あなたの身体にばかり負担がかかる。もう2度と妊娠出来ないような身体になる事だって考えられる。その辺考えて、彼との付き合い方を変えた方が良いと、私は思うの」
 とても冷静な声でゆっくりと、子供を諭す様に私の目を真直ぐに見て言った。私はそれに答えた。
「彼とは、小学校に上がる前に施設で出会ったんです。児童養護施設。そこからずっと一緒。お互いがいないと成り立たない、みたいな関係になっちゃってるんです」
 斉藤先生は、再度大きなため息を吐いた。
「あのね、人間は1人じゃ生きられないって言うけどね、2人でも生きられないの。色んな人が絡み合って生きて行くの。君たちの施設にも、先生いたでしょ?他にも友達いたでしょ?分かる?自分達だけの夢の世界を作ってそこでオママゴトがしたいなら勝手にすればいい。だけど1人の人間として社会と関わって生きていきたいのなら、2人だけの関係なんて断ち切らないとダメ。今回の様に、全く無関係な人間を巻き込む事だって考えられるんだから。ま、これは私の持論だから、あなたがどう捉えるかは、あなた次第だね」
 彼に言っても理解は得られないかもよ、そう言い残して先生は部屋を出た。看護師さんが身体を起こしてくれて、「コレ、お薬なので」と飲み方を説明してくれた。裏に呼んであったタクシーで帰宅した。


 家に着くと私も明良も殆ど無言で、私はすぐに床に入った。
 暫くあの斉藤とかいう女医の言葉が頭を離れなかった。
 夢の世界でおままごと、してたのかなぁ。
 自分はただただ、明良に尽くしたい、明良の為なら、そればかり考えていたけれど、明良は私の為になにをしてくれた?
 幼い頃は、夜になると泣く私を慰めてくれた。社会に出てからは私が住めるようにと広い部屋を借りてくれた。
 でもそれからは――私を雁字搦めにし、自由に泳げると思うと首に付いたハーネスで引き戻され、俺の物だと所有権を主張され、そして自由にされ、また引き戻される。その繰り返し。

 私はどうしたらいいんだろう。何をしたらこの悪しき輪廻から抜けられるのだろう。
「何でも聞くから」という言葉を思い出した。
 鈴宮君、きっと明良に殴られたんだ。痕になっていなければいい。
 朋美ちゃん、いつだって私の味方でいてくれる。
 彼らなら、私の相談に乗ってくれる。私の行先を照らしてくれるかも知れない。


29 朋美



 母子手帳も、キーホルダーも、燃えるごみの中に捨てたという。
 私には察しがつかない。『辛い』なんて簡単な言葉では言い表せないんだと思う。
 こんな時、同じ気持ちが共有できたらどんなに楽かと思う。志保ちゃんの苦しみを、半分共有させて欲しいと切に願う。

「体はもう、落ち着いたの?」
「うん。止血剤も飲んでるし。痛みもないし大丈夫みたい」
 少しやつれた表情に、無理やりに笑う笑顔が痛々しい。
「彼は――彼は何て?」
「まぁはっきりとは言わないけど、嬉しいんじゃないかな。邪魔者がいなくなって」
 さすがにはっきりとは言わないけどね、と再度付け加えた。
 訊いてもいいのか迷ったが、訊かなければ何の協力も、理解も出来ないと思い、思い切って訊いてみた。
「流産の理由って、分かったの?」
 更に悲しい表情になった。こんな表情、見ていられない。もう、笑っているのか泣いているのか分からない。
「泣きたかったら泣いていいよ」
 私は部屋にあるティッシュを箱ごとテーブルに置いた。「ありがとう」と消え入るような声で志保ちゃんは答える。
「理由は多分、憶測でしか判断は出来ないけど、前日に暴行されたんだ。お腹を中心に蹴られて、痣だらけ。あんな小さな命が死なない訳がないよ。よく、1日も――持ち堪えてくれたと思う――」」
 ポロポロと涙が零れ落ち、志保ちゃんが座る青い座布団を紺色に染めていく。
「そっか。それは辛かったよね。赤ちゃんも頑張ったんだね。痛かっただろうね。苦しかっただろうね。」
 志保ちゃんの横に座り、背中を擦る。嗚咽が止まらない志保ちゃんを何とか鎮めようとするが、うまく行かない。

「彼じゃなきゃ、ダメなのかなぁ」
 思った事をポツリと言ってしまった。
 俯いていた顔を上げ、泣きはらした顔で「分からない」と答える。
「他人で、施設で育った訳じゃない私が言う事だから、気に障ったら遠慮せず言ってね。もう、志保ちゃんの気持ちは愛情じゃなくて情なんじゃない?そりゃ赤ちゃんが出来た時は嬉しかったと思うけど、相手が嬉しい顔をしていないって見抜いていたよね。純粋に愛しているなら、その時点で『どうして?』って問い詰めると思うんだ」
「そうだね、問い詰めるのが普通だね。でも私、今にして思うんだ。赤ちゃんが出来たら、明良に依存してる分が赤ちゃんに半分移るんじゃないかって。同じ様に明良も半分、赤ちゃんに依存するようになるんじゃないかって。そう思って私は嬉しかった。少し、身が軽くなるかなって」
 実際には、彼氏はそれを危惧していた訳だ。志保ちゃんの依存が、愛情が、赤ん坊へ半分移ってしまう事。それが許せなかったんだ。
 テーブルに置いた紅茶をひと口飲んだ。
「私ね、自分が置かれている状況が、完全な共依存で、DVだって事、自分で良く分かってた。私と明良はお互いに依存し過ぎてるって良く分かってたんだ。だから、赤ちゃんが出来て凄く嬉しかったの。2人の世界が3人になるって。だけど、DVが子供に及ぶ危険性があったんだよね。そう思うと、結果的には、良かったのかな」
 私も紅茶をひと口飲んだ。だいぶ冷めてしまった。
 子供を持つ事と、依存が軽くなる事の関係性はもしかしたらあるのかも知れない。
 だけどそれは、双方が同じように依存度を薄める事でうまく行く。
 今回は彼の依存が志保ちゃんだけに集中していた。これは絶対に、絶対に今後も変わらないだろう。
 志保ちゃんは、これから彼の依存から抜け出す方法を考えなければならない。

「もっと早い段階で、きちんと言ってあげられなくて、ごめんね。」
 私が気付いた時点で「それはDVだから、抜け出さなきゃ」って嫌われるのを覚悟で言ってあげたら良かったと後悔している。志保ちゃんはもう出尽くしたであろう涙をまた流しながら、首を大きく横に振った。


30 志保



「鈴宮君、今日遅い?」
 結局私は火曜・水曜と2日間、病欠を貰い、木曜の今日やっと出勤した。
 火曜は仕事が休みだった朋美ちゃんの家で泣きまくり、昨日1日かけて目を冷やした。
 泣きはらした目は1日で元に戻った。人間の回復力って凄い。
「今日は19時ぐらいまでサンプリングがあるんだよなぁ」
「あ、じゃぁ手伝うよ」
 うぉ、助かる、と言って鈴宮君は12時のサンプリングをし始めた。
 今朝1番に顔を合わせた鈴宮君は、何もなかったかのように「おはようさん」といつも通りの挨拶をしてくれた。
 お蔭で、私も通常通り業務が出来ている。
 明良から受けた(と思われる)暴行の痕もなさそうだ。


「いやぁ、助かったよ。20時まではかかると思ってたのに、あっという間に終わった」
「そりゃ良かったです」
 会社から私の最寄駅まで2駅分位を歩いた。途中、鈴宮君は「身体大丈夫?」と心配してくれた。
 駅に着くと、彼はいつもの場所に自転車を停めた。
「カフェにでも行って、サンドイッチ程度にしておく?」
 鈴宮君の提案に「ん」と頷いて、いつものカフェに入った。今日は生憎、と言うか、いつもなら満席の筈の窓際の席だけが1席空いていた。
「今日は私が出すから」と言っても鈴宮君は「こういう時は男が出すって相場が決まってんの」と言って引かなかった。私はサーモンとクリームチーズのベーグルとカフェモカを、鈴宮君はブラックコーヒーとサンドイッチを頼んだ。

「いつも奢って貰っちゃって、ごめんね」
「いいよ、仕事も手伝ってもらっちゃったし」
 ピリピリとサンドイッチの包装を剥ぐ音がする。私はベーグルの上と下をぺりっと剥がして中を見た。すると鈴宮君は怪訝な顔で私を覗き込んだ。
「何してんの?」
「え、いや、具に偏りがあると食べにくいから、確認」
 アハ、変な人、と笑われた。
「んで今日はどうしたの?志保ちゃんから俺を誘うなんて、珍しいから雨降るんじゃないかと思って折り畳み傘持ってきちゃったよ」
 うそばっか、と言うとイヒヒと意地悪く笑う。
「この前のお礼と、あれ、明良に殴られた?でしょ?ごめんね、って」
 鈴宮君は左の口角を触って笑った。
「こんなの怪我に入らないし。翌日には消えてなくなってたよ。あの女医カッコよかったよなー。君の彼氏に『青二才っ』とか言ってたよ」
「へぇ、それは知らなかった」
 初めは気に入らないと思ったあの女医だけど、すぐに印象が変わった。
 言う事は全て的を射ていて、あんな先生、あんな友達が周りにいたら私はどんなに助かっただろうと思う。

「明良との付き合い方も、ちょっと変えて行かないとな、って思ってて」
「あぁ、俺、ちょっと聞いちゃったけど、お腹、沢山殴られてたんだって?妊娠してた事もびっくりだけど、その上で腹を殴られてた事の方がびっくりだよ。女の腹殴るって、ある意味スゲェよ」
 考えたらお腹痛くなってきた、と鈴宮君はお腹を擦って笑った。
 鈴宮君がこうしてちょっとした事を笑いに変えてくれる、場を和ませてくれる事が「好きだな」と思った。
 今までは誰かを「好きだな」と思っても「私には明良がいる」と思って押し殺していた感情だ。
 ずっとだ。ずっとそうして生きてきた。
 今日ここでやっと「好きだな」と思った。
「好きだな」
 やっと、口に出せた。
「へぇ?」
「そうやって、ころころ笑ってる鈴宮君見てるの、好きだな、って」
 鈴宮君は目を少し潤ませながらジワジワと顔を赤くした。それにも笑ってしまった。
「そんなに照れさせる様な事言ってないからね」
「あ、冷たい事言うねぇ」
 顔を見合わせて笑った。好きだ、こうやって笑い合う事も。

「それで、彼とは現状一緒に住んでる訳だけど、どうやって付き合い方を変えて行くの?」
 急にまじめな話に戻ったので、笑った顔からなかなか顔が戻っていかず、四苦八苦した。
「うん、とりあえず会社の寮に入ろうかなって。離れてみて分かる事もあるかも知れないし。一緒にいる事がダメなのか、付き合っている事がダメなのか。今の所それが分からない」
 うんうん、それで?と鈴宮君が促す。
「でもね、多分付き合っている以上、彼からの猛烈な嫉妬ってのは避けられないと思うんだ。そうなるともう、別れるしかないし、別れるにしたって相当労力を使うと思うんだ」
「だね。別れてくれなそうだよね」
 別れたい、なんて言ったら羽交い絞めにされて、縄で縛られて、死ぬ寸前まで殴られて、犯されて、捨て置かれるに決まってる。そしてお決まりの「お前が必要だ」。
 「殺されそうになったら鈴宮君にSOS出すからさ、飛んできてよ。胸にSって書いて」
 「それスーパーマン?」
 「うん」
 アハハッとまた笑った。笑い事じゃないのに笑った。

 2人が笑っていた目線が、ある1点に集中した。私はベーグルをコトリとお皿に置いた。
 ガラスの下、桜の木の下に明良がいた。あの日と同じ目で、私達を見ている。
「ねぇ、行った方がいいんじゃない?」
 鈴宮君は私を心配してそう言ってくれた。
「行かない。今行ったって、行かなくたって、帰ったら殴られるのは分かってる。だから行かない」
 そう、今行ったって、家まで引きずられて、家の中で押し倒されてビンタされて。
 少しでも時間は短い方が良い。そう、少し我慢すればすぐ終わるから。
「あのさ、俺の住んでる寮、知ってる?」
「あぁ青葉寮?」
 独身男性専用の寮で、オートロック式の綺麗なマンションだ。ちなみに女性は「紅葉寮」だ。分かりやすい。
「覚えておいて。505が俺の部屋。506が鈴木さんの部屋。何かあったら走っておいで。駅からなら5分かからないから。走ったら3分ぐらい?」
 ゴーゴー、とゴム、で覚えて、とにっこり笑ったけれど、今度の笑いは少し引き攣っていた。だけどまた「好きだな」と思った。
 人のピンチに笑顔で助けの手を差し伸べる、そういう人、好きだな。
 一緒に悲しんでくれる朋美ちゃんも好きだけど、こうして前向きに笑ってくれる鈴宮君を、私は好きだと思った。

 食べかけのベーグルに手を伸ばし、ひと口食べた。クリームチーズが滑らかでおいしい。ここのベーグルを食べると他の物が食べられなくなる、と朋美ちゃんと良く話す。
「ゴーゴーの鈴宮君は、意中の人に告白するって言ってたけど、結局したの?」
 サンドイッチをモグモグしていたのをコーヒーで飲み下し、「あぁ、あれね」と答えた。
「あれね、言おうとしたんだ。そしたら相手が急に腹痛になっちゃって」
「あら、何、下痢?」
「こら、ここお食事処。違うんだ。お腹痛くて救急車呼んだんだ。血まで出ちゃって」
 目が点になる、とはこの事を言うのか。
 一応確認のため、自分の鼻に人差し指を向けると、鈴宮君は「そう」と言った。
 今度は私が耳まで赤くなる番だった。
 体中の血液が頭に上ってきてしまったような、恥ずかしい顔だろうと思った。見られないように俯いた。
 こういう時は、どう言ったら良いのだろう。今まで明良ばかりと接していたので良く分からない。
 正直な思いを口にしたらいいんだろうか。相手が正面切って言ってくれたんだから、こっちも思っていることを素直に言うべきだ。

 なかなか言葉にするのが難しくても、ひとつとつ並べて、話してみよう。
「あ、あのね、こういうの慣れてないの。分かるよね?」
「うん、彼しかいなかったからね」
 お、分かってる。この人分かってる。酷く冷静に微笑んで聴いている鈴宮君をちらりと見て、また俯く。
「考えた事も無かったの。明良の他に誰かの事を好きだっていう感情を抱いた事も無かったの。思っても押し殺してたの。今までの私だったら『ごめん、明良いるから』で済んでたの」
「うん。それで?」
 鈴宮君はテーブルに頬杖をついて、私を斜めに見ている。何か、余裕だ。告白が終わった人の余裕だ。
「だけど、今回の流産の1件があって、鈴宮君とちょっとだけ近づいたというか――うん、そう思ってて、こうやってお茶して、話して、笑ってたら、この人好きだなあって、何度も思ったの。このシチュエーションが好きなのかな、とも思ったんだけど、そうじゃないみたい。相手が、好き、みたい。笑って、前向きに笑ってくれてる鈴宮君が、好き、みたい。」
 まだ残っていたらしい末端の血液が顔に上る。もうこれで尽きただろう。鈴宮君は、にんまりしている。あぁ、ちょっと憎たらしいかも。
「ただね、まだ明良と一緒に暮らしてるし、上手く別れられるかどうかも分からない。別れようとして迷惑をかけるかも知れない。そう考えると、簡単に『ありがとう、お付き合いしましょ』なんて言えないの」
 頬杖をついたまま鈴村君は表情を変えずに言う。
「別れるまで俺は諦めない。協力もする。迷惑だなんて思わない。俺の腕力じゃ彼に叶わないかも知れないけど、守る。もう志保ちゃんを傷つかせたりしない。それで彼と別れた暁には俺を受け入れてくれる?」
「どうしてそこまで――」
 鈴宮君は顔を綻ばせて言った。
「好きだからに決まってんじゃん。俺はアナタが好きだから、付き合っていた女の子3人と別れました。自分だけ犠牲を払うっていうやり方をやめろと言ってくれた志保ちゃんに従ってね。そして、俺は振られてもいいから、好きな人に告白した。その人が少しでも俺を見てくれるなら、俺はその人を守るし、協力する事を厭わない。」
 ズズズとコーヒーを飲む音がする。鈴宮君って、こんなにスパスパと思っている事を言う人だったんだ。
 それでいて優しい。好きだな。
「分かった。私も頑張ってみる。DVの連鎖から抜け出して、独り立ちして、モテモテの鈴宮君の隣に君臨出来るように頑張ってみるよ」


31 明良



 またアイツとあそこにいたな。俺と目を合わせておきながら、知らない振りをしたな。
 アイツは俺に喧嘩を売ってるのか。どうせなら病院でボコボコにしておくんだった。
 俺の志保に、2度と触れない様に、触れられない様にしておくんだった。

「ただいま」
 いつもより小さな声で志保が部屋に入ってきた。
「お帰り。お茶会は楽しかったかい?」
 一呼吸あって、志保は返事をした。
「うん、まぁ」
 上着を脱いでハンガーに掛けた。俺は志保の後ろに立ち、後ろから抱いた。
「何すんの」
 志保は横目で俺を睨んだ。こんな目は初めて見た。俺は少し動揺した。
「鈴宮に調教でもされたか?あァ?俺の存在は無視して茶ァしばいてたのか?どうなってんだ?」
 抱いていた腕を首まで持ち上げ、その細くて白い首に手を巻き付けた。少しずつ力を込めた。
「あんなへなちょこの何がいいんだ?言ってみろ」
「っがっ、あっ」
「死んで俺の隣で一生暮らすか?時々鈴宮にも見せてやるか?」
「っぐぅっ――」
 暫くして手を離すと、志保はその場にへたり込んだ。
 こちらが油断をした隙に志保はバッグを手に取ると玄関へ走って行った。
 すぐに追いかけ、シャツの首を捻り、居間まで引き摺った。
 志保を仰向けに寝かせ、馬乗りになり髪を掴み、床に頭をゴンゴンと5回打ち付けた。
 志保は暫く俺を睨んでいたが、4回目で目を瞑った。だらしなく涎を垂らしている。
「お前は俺の横が似合ってるんだよ。誰の横でもないんだよ。俺の横なんだよ」
 そう言うと、志保が何度かまばたきをしながら目を開いた。
「私は明良の専有物じゃない。私は明良がいなくても生きていける。明良以外にも必要な人が沢山いるの。私を必要としてくれる人も沢山いるの。だからもうやめて。こういう事するの、やめて」
 珍しい口答えをするもんだと思い、口を口で塞いでやった。そしてもう1度首を絞めた。
 「今まで俺がお前にしてやった事は無意味だって事か?お前は俺に依存してたくせに、今になって必要ないだと?寝言は寝て言え。俺がいない世界なんて想像できないだろ」

 必死に呻き声をあげている志保に欲情してきた俺は手を離し、馬乗りの姿勢のまま下にずれ、スカートの中の下着をずりおろした。
 その瞬間、志保の足が俺の股間を直撃した。
 俺は壁に吹っ飛ばされ(志保の身体にこんな力があった事を知らなかった)得体のしれない物が込み上げてくる気持ちの悪さに卒倒しそうになり、逆に俺が呻き声を上げた。
 その隙に志保は、玄関に散らかっていたバッグを持って外へ出て行った。

 行先は大体見当がついている。とりあえず俺は股間の痛みが止むまで、壁に凭れていた。さて、どうやって俺の志保を取り戻そう。アイツから。


 壁に凭れたままで暫し考えた。
 アイツの、鈴宮の居所を掴めないだろうか。志保は鈴宮を頼って逃げたに違いない。
 何か住所が分かるような、連絡網――。在処が分からない。
 あとは――そうだ、年賀状だ。几帳面な志保は、毎年年賀状を綺麗にファイリングしていた。その中にあるだろう。
 未だ重ったるい股間の痛みに顔を歪めながら立ち上がり、書類が入ったカラーボックスからファイル類を乱暴に床にばら撒いた。
 今年の年号が掛かれた葉書サイズの黄緑のファイルを見つけた。
 表紙を開けると、事もあろうにアイツの年賀状が1番初めに入っていた。
 その事が酷く気に入らず、志保が帰ってきたらコレをネタに詰ってやろうと思った。
 住所の検討は大体つく。あの辺にあるデカいマンションだ。部屋番号505を頭に叩き込み、携帯と財布をデニムの尻ポケットに突っ込み、外に出た。

32 志保



 兎に角必死で走った。
 畳に頭を打ち付けられただけなのに、頭がガンガンするのは何故だろう。首を絞められたことが原因?
 足元もフラフラする。それでも走る。
 明良に下着をはぎ取られてノーパンだったけど、そんな事は気にしていられない。あのままじゃ絞殺されかねなかった。
 走って走って駅を越えて、更に走って辿り着いたマンションのオートロックキーで505を押した。電話の様な呼び出し音が無機質に鳴る。
『はい』
「ハァ、あのっ、あー」
『今開ける』
 ガチャっという金属音がした。開錠されたのだろう。
 横にあるドアを押し開けてエレベータに駆け乗り、5階へ上った。
 玄関の前で鈴宮君が手を挙げていた。
「入って、話はそれから」
 そう言って私の背中を押してくれた。走って温まった身体にも、彼の掌は温かく感じた。

 中に入ると布団が丸めて置いてある、地味な部屋だった。
 後から明良が追ってくる様な感覚を覚え、身体がガタガタ震えた。
「来ると思ってた。首、凄い痕だよ、何された?」
 顔を真横にして鈴宮君は、私の首を覗き込んでいる。
「首、絞められた。殺されるかと思った。そのまま頭打ち付けられて意識が遠のいて、意識が戻ったから言いたい事言ってやったら、犯されそうになって、股間蹴って走ってきた」
 震える肩を両手で押さえてくれた。掌の温かさが肩から染み入る。
 「上着も着れなかったんだ。寒かったでしょ。手もこんなに震えてる」
 今度は手を握りしめてくれた。寒さで震えてるのか、恐怖で震えてるのか、今では分からない。その場にへたり込んだ。
 とりあえず落ち着こうか、お茶でも、と言って鈴宮君は戸棚からグラスを2つ手にして冷蔵庫を覗きこんでいる。
 首をかしげている。何かを探している仕草だった。
「水でもいい?」
「うん、水でいい」
 床に相撲雑誌が置いてある。
「相撲、好きなの?」
「あ、まぁね」
 沈黙。意外な趣味だな、と酷く冷静な自分が思った。

 それより明良だ。あの人は多分、何とかしてここを突き止める筈だ。何とかして住所を――そうだ、年賀状があった。年賀状に書かれた住所でここを突き止めるに違いない。
「ここにいても、すぐに見つかっちゃうと思う。どうしよう、他に逃げた方が――2つ先の駅に友達の家があるんだけど」
「大丈夫、ここにいれば大丈夫だって。オートロックもあるし」
 随分と古臭い事を言ってると思った。オートロックなんて、誰かが開けた隙に入り込むのが常套手段だ。非常口が開いているなんて場合もある。
 鈴宮君は意外と楽天家で相撲好きなのか。
「あとね、私――ノーパンなの」
「それ、今言う事?」
 水を入れたグラスを2つ持って来た鈴宮君が、その足を止めた。
「いや、ちらっと見えた時にそういう趣味だと思われないように。さっき出てくる直前に脱がされたの」
 ぷっと吹き出すのが聞こえた。
 努めて明るく振舞ってくれているのか何なのか、やたらと余裕をかましている鈴宮君が憎たらしい。
「後で俺のボクサーパンツで良ければ貸すから」

 その時、ドン、ドンと何かを叩く音がした。
「何?」と鈴宮君を見ると「お隣さんじゃない?」と答えた。
 ドン、ドン、と何度も音がする。ドン、ドン、「オーイ、いるんだろー」ドン、ドン。
 ヒッと息を吸い込んだ。喉までせり上がった熱いものが、空気の出入りを邪魔して呼吸を困難なものにする。明良の声だ。
「どーなってんの?何で明良が隣のドア叩いてんの?」
 鈴宮君は首を傾げる。
「さぁ、何でだろう、部屋番間違えてるんじゃない?彼って慌てん坊なの?もう少ししたらお隣に訊いてみようか」
 ドアを叩く音が止んだ。明良が誰かと何かを話している声がする。内容までは分からない。
「そろそろかな。ちょっと待ってて」
 鈴宮君は携帯を持ってベランダに出た。誰かに電話をしているらしい。
 私はそわそわ落ち着かず、玄関を見たり、鈴宮君を見たりしていた。

 携帯を持って鈴宮君が戻ってきた。表情に何か余裕の様な物が見て取れる。
「良い事教えてあげるよ。ここ、俺の部屋じゃないんだ」
「えぇ?」
 ドン、ドン、という音が今度はこの部屋のドアからする。
「おーい、志保出せよ。俺の女匿ってんじゃねーよ。出せよ。すーずーみーやー」
 低く唸るような声で話す明良の声に、私は再びガタガタと震え始めてた。
 もう、そこまで来ている。バレている。
 ドンッとそれまでとは違った音がした。ドアを蹴っている。その度にドアポストの扉が揺れる。
「どうしよう、鈴宮君、どうしよう」
「大丈夫だから、もう少し待って、もうちょっとしたらドア開けるから」
「え?開けるの?」
「だって『鈴宮君』って呼んでるから」
 鈴宮君はちらちらとベランダの外を見ている。
 私は布団の横で小さくなって、鈴宮君の一挙手一投足を見ていた。
 鈴宮君の考えてる事が分からない。
 震えが止まらない。全身の血の気が失われて、指先まで真っ青になっているのが自分でも分かる。
 鈴宮君が、布団の上に置いてあった毛布を私の肩にふんわりと掛けてくれた。
 明良の声が恐ろしい。ドアを蹴る音が恐ろしい。
 毛布をギュッと掴んで、その手で耳を塞いだ。

「さて、そろそろ開けますか。志保ちゃんはそこから絶対に動かない事。俺を信じて」
 私の言葉なんて一切聞かず、そう言い残して鈴宮君はドアに近寄って行った。
 ドアの鍵をカチャリと開ける音がすると同時に、勢いよくドアが開いて明良が入ってきた。
 入るなり鈴宮君の胸倉を掴んで思いっきり殴った。
 吹っ飛ばされそうになるのを壁に手をついて必死でこらえて立っている。
 細い廊下は、明良の侵入を防ぐには好都合だろう。
 しかしこのままでは鈴宮君はボコボコにされる。
 その後ろで震えているしかない私は、明良に再び連れて行かれる。
「おい、志保返せよ、おれの物だよ」
「はぁ?いつからお前の持ち物になったんだよ。持ち物には名前書けって、先生に習わなかったのかよ。俺、気に入ったから拾っちまったよ」
 もう1発殴られた。それでも鈴宮君は立っている。
 私の所へ明良を至らせないように、狭い廊下で必死に壁を作っている。
 鈴宮君が何故こんなに挑発するような事を言うのか分からない。自分の首を絞めている様な物だ。
「そこどけよ。もう1発ヤるか?」
「ヤるって何だよ、俺そういう趣味ねぇから」
 骨と骨がぶつかる音がした。白い壁に赤いものが飛んだ。今までの二発より更に強い力で殴られたに違いない。
 それでも鈴宮君はそこをどかない。

 俄かに外が騒がしくなった。


33 令二



「流産までさせられてるとはな」
 俺は志保ちゃんを駅で見送った後、自転車で寮へと急いだ。
 隣の部屋を訪れると、「おぉ、入れよ」と鈴木さんが大きな笑顔で迎えてくれた。
 相撲雑誌を読んでいたらしい。ソファ代わりに置かれた布団の横には、だらりと開いた雑誌が置かれていた。

 鈴木さんは腕を組みながら項垂れている。
「もっと早く気付いてやれればな。」
「いやぁ、なかなか入り込めないですよ。あの2人には」
 鈴木さんには流産までの経緯と、今日カフェで鈴木さんの部屋番号を伝えたと告げた。
 カフェの窓から見えた、宮川の姿。怒りに揺れる瞳すら認識できた。俺を凝視していた。
 今日、今、この瞬間にも、彼女は危険にさらされているかも知れない。俺を理由に詰られ、暴行を受けているに違いない。
「もし志保ちゃんが俺の部屋に逃げ込んで来たら、鈴木さんの部屋、貸してもらえます?」
「へ?いいけど、何で?」
 うまくいくか分かんないスけど、と続けた。

「奴は俺の部屋番号を何らかの手段で調べてくると思うんですよ。連絡網とか。んで、俺の部屋まで辿り着くと何故か俺ではない人間がいる。そしたら何だかんだで時間を稼いでください。あ、顔は知られてると思うから、顔は出さないで下さいね」
 うん、と神妙な面持ちで鈴木さんは先を促す。
「その間に俺は警察を呼びます。鈴木さんにメールするんで、『鈴宮の部屋は隣じゃないか?』って教えてやって下さい。警察のパトランプが見えたタイミングで、俺が玄関に出ますんで。そしたら警官が部屋にたどり着くまで、俺はサンドバッグになります。んで暴行の現行犯で逮捕」
 ほぉーほぉー、と鈴木さんは何度も頷いた。
「おっけーおっけー、じゃあ俺はお前の部屋にいれば良い訳な」
「志保ちゃんがエントランスからインターフォン鳴らしたら、すぐ鈴木さんの部屋に行くんで。鈴木んさんの部屋の床とか壁とか、汚れちゃうかもしれないですけど、まぁ、宮川の暴行示談金で直しましょう」
 こんな事、うまくいくか自信は無かった。
 そもそも俺はサンドバッグになれるんだろうか。


34 志保



 部屋のドアが開いた。そこから部屋に入って来たのは数人の警官だった。
 明良は直ちに取り押さえられた。観念したのか、急速に大人しくなった。
「はい、君、暴行してたね。一緒に警察来て貰うからね。あと、サンドバッグの君」
「へぁあ、俺ッスか」
 鈴宮君は血飛沫が飛んだ壁に凭れる様に座り、警官を見上げている。
「うん、君が電話くれた鈴宮君だよね。パトカーで病院連れて行くから、その後話を聞かせて」
 目の前で起こっている事が飲み込めない。
 鈴宮君がパトカーを呼んだ?いつ?ベランダで余裕こいて電話をしてたのってもしかして――。
「お姉さんは、この婦警さんと一緒にパトカーに乗ろう。そして少しお話を聞かせてくれる?」
「あの、パンツ、パンツ穿きたいんです」
 じわっと耳が赤くなる。仕方がない。だって下着を穿かないまま移動するなんて――死にもの狂いで逃げ回る時は別として、理性的な自分がノーパンを拒んだ。

 婦警さんが他の警官と「近所のコンビニで」とか何とか話をして、婦警さんは一度部屋を出て行った。
 その後すぐに明良が警官に両腕を抱えられて部屋を出た。その間明良は、ずっと私を見つめていた。
 その目には一切の殺気は無く、ただただ私を愛おしく想う、あの目だった。
 私がボロボロになった後、私に縋って謝って、愛してくれるあの目だった。
 次いで1人の警官が鈴宮君に肩を貸し、同じように部屋を出て行った。
 横顔しか見れなかったが、イケメンが台無しな程膨れ上がっているのが、横顔からでも分かる。壁に、床に、血がついている。

 ひょいっと玄関から、鈴木さんが顔を出した。
「よっ」と手を挙げて、警官に何か話をし、部屋に入ってきた。私の傍に座った。
「鈴木さん――」
「あのね、この部屋、俺の部屋なんだ。令二から聞いた?」
 首を横に振った。
「宮川君だっけ?が志保ちゃんを追ってくるだろうって考えた令二が、部屋をチェンジして、警察を呼ぶ時間を稼いで、警察がマンションに到着したら、今度は自分がサンドバッグになるって、そういう計画を俺に話してくれたんだ。まぁ、2発位なら殴られても大丈夫だって、令二は言ってたけど、どうだったんだろう」
 胸に熱いものが込み上げて来た。
 そのままそれは涙に変わり、瞳からボロボロと転がり落ちた。スカートに染みを作った。
「私の――私の為に、あんなに殴られて――」
 鈴宮君の殴られ方は壮絶だった。私だって日頃から殴られ慣れているが、あんな風に、骨と骨がぶつかる鈍い音を聞く事なんてない。
 それでも鈴宮君は、身を挺して私を守ってくれた。

「ま、愛ゆえに志保ちゃんと周囲を傷つける人を選ぶか、愛ゆえに人を守る事に徹する不器用な人間を選ぶか。これから志保ちゃんが選ばないといけないねぇ。」
 ふぅー、と鈴木さんは長いため息を吐いた。
 それは呆れから来るものではなく、安堵から来るため息の様であった。
「答えは出てるんでしょ。あとはそれを行動に移せばいい。その為には俺も令二も、協力するから。とりあえず今日、俺は令二の部屋に泊まるから、志保ちゃんはこの部屋に戻っておいで。警官にもそう伝えておくから」
 嗚咽で声が声にならず、頷く事しか出来なかった。鈴木さんは私の頭をポンポンと優しく叩いてくれた。ジワリと温かかった。

 程無くして先程の婦警さんが下着を買ってきてくれた。
「じゃ、俺はこれで」
 鈴木さんは部屋を出て、外の警官と何かを話している声がした。
 私は婦警さんに渡された下着を穿き、彼女に連れられて階下のパトカーに乗った。


35 令二



 俺はあの後、パトカーに乗せられて、市立病院に行った。
 対応した医師が、あの時の斉藤という女医で、驚いた。彼女も俺の事を覚えていたらしい。
「この傷は、もしや?」
「もしやです」
 先生はふふん、と鼻で笑った。
 悪気は無いのだろうが、この医師は少し人を小馬鹿にした様な態度をとる。
「何が可笑しいんですか?」
「君が頭を突っ込んだんでしょ」
 処置の手を休める事無く喋る。
 俺は無言だったが、この場合の無言は、否応なしに「肯定」と捉えられているだろう。
「現行犯?で彼は拘留ってとこかな?」
「そうなんですか?」
 俺は奴がその後どうなったかなんて知らない。隣にあったパトカーで恐らく警察に向かったのだろう。
「君は彼女にぞっこんなの?」
「え、何すかそれ」
 この女医は何が知りたいんだ。
 俺は処置の痛みに耐えながら会話をしているというのに、ニヤニヤとまぁ良く喋る事。このお喋りババァがっ。
「彼女が彼から抜け出すには、本人の自覚と、本人の努力と、周りの協力が必要。君は協力してあげられるんだよね」
「勿論」
 俺は守ると決めた。こうして身体を張って守った。
 これからだって、奴の拘留が解けて戻ってきても、俺は志保ちゃんを守る。
 まぁ、ちょっと体力作りは必要かもしれない。
「ぞっこんだな」
 ハイ終わり、と俺の頬をピシャっと叩いた。イテッと思わず声を上げた。
 こいつ本当に医者かよ。

 その後警官と一緒に一旦家へ戻り、その場で事情聴取を受けた。
 志保ちゃんがDV被害者だという事を何となく知っていたとか、俺の部屋に逃げるようにと伝えた事、まぁ必要な事は全部話した。
 警官は話を聞き終えると「また何かあったら協力してください」と言い残して帰って行った。

 隣の部屋にいる鈴木さんを訪ねた。インターフォンを押すと、すぐに鈴木さんが顔を出した。
「お前その顔、すげぇなぁ。イケメンが台無しじゃねぇか。まぁ入んなよ」
 首の後ろをぽりぽり掻きながら鈴木さんの部屋に入った。
「何か面倒掛けてすんませんでした」
 壁の血痕をちらりと見た。うわ、俺の血。思ってた以上に飛んでる。
「なーに言ってんだよ、志保ちゃんの為じゃんか」
 水でいいか、と言われて頷いた。ここんちには茶は無いのか。そうか。
 さっき冷蔵庫を覗いた時は、ビールとわずかな食糧しか入っていなかった。
「さっき志保ちゃんには言ったんだけど、今晩はこの部屋を志保ちゃんに貸す事にしたよ。恐らく彼氏は拘留されて家には戻らないとは思うけど、一応」
「はぁ」
「明日朝一で総務に連絡取るから、そしたら紅葉寮の1部屋を確保して、そこに移れるように手配しよう」
 流石、鈴木さんだ。俺はそこまで考えていなかった。とりあえず彼女を守る事で精一杯で。
「お前、明日有休取れるか?」
「あ、はい」
「そしたらさ、会社の軽トラに段ボール積んで、志保ちゃん乗せて彼女の家まで行ってさ、引っ越し手伝ってやってよ」
「あ、はい」
 目の前のテーブルに水が2つ置かれた。さっきは水をいれようとした所で騒ぎが始まったんだっけ。

「今回は急だったから俺もあんまり協力できなかったけど、アレだな、お前ちょっと無理し過ぎだったぞ。」
 俺は腫れ上がった頬を撫でた。ズキズキ痛む傷が、熱い棒を押し付けられるように更に痛んだ。そうですよね、と呟いた。
「まぁ、守ってもらった志保ちゃんからしたら、お前はスーパーマンだよ。惚れたかもな」
「だと良いですけど」
 俺は照れ隠しに口角に貼ってあるテープを剥がしてみたり、湿布の位置を変えてみたりした。あぁ痛い。
「お前、惚れてんだろ」
 思わず鈴木さんの顔を見た。蕩けそうな笑顔で俺を見ている。あわわ、全てバレている。 俯いて「はい」と答えるしかなかった。鈴木さんは全部お見通しか。
「敵は手強そうですけど、俺、諦めないで頑張るんで」
「おう、俺は協力する」
 すっと、鈴木さんの太い腕が差し出され、握手を求められた。
 俺は男にしてはか細い腕をだし、がっちりと握手をした。男同士の誓いを立てた。
「とりあえず今日はお前の部屋に泊めてくれ」
「あぁはい――」


36 志保



 鈴木さんの部屋に1泊させてもらい、翌日には鈴宮君の手を借りて、紅葉寮の六階に引っ越しをした。
 家財道具の殆どは明良が購入した物なので、それらは置いてきた。
 生活に必要な物は、新たに買い足す事にした。
 とは言え、この寮には最低限の家電が置いてある。電子レンジもトースターも、冷蔵庫もある。エアコンだって完備だ。
 となると、細々したもの、そうだな、フライパンとか?タオルとか?そんな物を買い足せばいいかな。

 鈴宮君は、私の引っ越しを手伝うために有休をとってくれたと言う。
 お礼をしてもしきれない。今度コーヒーをご馳走しようと思う。

 衣装ケースの中に畳んである服を、ハンガーに掛けてクロゼットに仕舞っていく。
 ワンピースが多いな、と思う。ワンピースはそれ1枚でコーディネートが決まって、楽なのだ。
 その他の服は、衣装ケースごとクロゼットに入れた。
 書籍や細々とした物は、段ボールに入れたままにした。
 明日もう1日有休をとった。テーブルを買いに行かないと。
 「買う物リスト」に「テーブル」を書き足した。
 荷物は大体片付いた(と言っても、段ボールはまだ数個ある)。
 畳んでおいた布団に寄り掛かると、ズズと身体は水平になっていく。
 白いクロス張りの天井を眺める。真っ白だ。

 明良は今頃警察署に拘留されているんだろうか。
 引っ越しで家に戻った時には、明良の姿は無かった。鴨居にはスーツが掛かったままだったところを見ると、仕事に行った訳でも無さそうだった。
 あの時、私は彼の暴力から逃れようと、必死で逃げた。
 そして鈴宮君は明良にこっぴどく殴られ(翌日の顔は青紫だった)、明良は警察に捕まった。
「大丈夫、少し我慢すればすぐ終わるから」
 そう思って毎回耐えてきた。雷が鳴っても、明良に殴られても、明良に犯されても、いつも思い浮かべるのはこの言葉だった。
 あの日、この言葉を呼び起こしていたら、鈴宮君は殴られず、私は明良の横にいただろう。

 テレビも無い部屋の中、冷蔵庫から低い呻き声の様な音だけ聞こえてくる。1人でいる事をこれ程孤独に感じた事が、あっただろうか。
 親に捨てられたあの日から、人目を忍んでしくしく涙を流す私の背を擦ってくれた手を思い出す。
 人の掌って、こんなに温かいんだと感じた。明良に守られ、明良に頼り、明良に縋り、明良を愛してきた。
 結局依存していたのは、私の方ではないかと気づく。
 心臓の真ん中に小さな穴が出来ている。そこに吹き込む風が、隙間風となって反対側に抜ける音がする。幻聴か。
 寂しい。隣に居る筈の明良がいない。喪失感が心を支配する。
 私を守ってくれた、あの温かい掌を無くした。

 愛ゆえに周囲を傷つける明良。私1人が我慢すれば、少なくとも周囲を傷つける事は無かっただろう。
あの時、咄嗟に逃げようと思った自分の行動を悔いた。


37 朋美



 志保ちゃんから「引っ越した」と聞き、仕事が休みの今日、買い物に付き合う事にした。
 引っ越しをした経緯は、簡単に電話で聞いていた。
 電話での志保ちゃんの声には覇気が無く、まるで別人と喋っている様だった。
 今日顔を合わせた彼女は、表向き平静を装っている様だったが、目には力が無く、彼女が持つ「凛」とした雰囲気はなりを潜めてしまっていた。

「とりあえず、ご飯が作れるぐらいの物は欲しいかな」と言って、100円ショップを訪れ、小振りのフライパンや菜箸、お玉や茶碗等を買った。タオルも何枚か買った。それだけでも持参した大きな紙袋2袋分にもなった。
「本当はテーブルも買おうと思ってたんだけどね」
「テーブルかぁ、配達してもらったら?」
「そうだね。じゃぁ3階の雑貨屋さんに行ってみようかな」
 会話は成立しているのだが、どこか上の空と言った雰囲気だ。
 目線はふらふらとしていて定まらず、返事もふわふわしている。
 テーブルは翌日には配送してくれるそうだ。
 他にいくつか必要な物を買い、会社の寮へ戻った。道中、ぽつり、ぽつりと話す程度だった。


「本当に何もないんだけど、上がって」
 どうぞ、と促され、おじゃまします、と部屋に入った。一般的なワンルームアパートを少し広くしたような間取りだった。
 今日買い物した袋からがさごそとグラスを2つとスポンジ、洗剤を取り出して洗った。
「お水でごめんね」
 そう言って新しいピカピカのグラスにお水を汲み、持ってきてくれた。テーブルが無いので、床に直に置いた。
 志保ちゃんはペタリと対面に腰を下ろした。何から話そう――。

「大変、だったね」
「うん、大変だった」
「彼はどうしてるの?」
「多分、警察に拘留されてるんじゃないかな」
 志保ちゃんは項垂れたまま、水に口を付けた。買い物をしていた時より更に、憔悴した様子が痛々しく伝わる。
「志保ちゃん、今、どんな気分?」
 本当は「悲しい?」「辛い?」「苦しい?」そんな風に推し測ってあげられたらどんなに良いかと思った。
 しかし、私に彼女の気持ちなんて到底分かる訳も無く、こんな質問になってしまった。
 志保ちゃんは暫く無言で考えていた。外を走る車の音が聞こえる。
「ん、寂しい、かな。うまく言い表す言葉が見付けられないんだけど、寂しい。何かが零れ落ちた様な」
「そっか」
 ずっと一緒にいた存在が、その手を離れた。
 相手がいくら暴力を振るう人間だとしても、それまで過ごした10数年分の穴がぽっかりと空いてしまった訳だ。それを埋める事は容易ではないだろう。

 二の句が次げずにいると、志保ちゃんが口を開いた。
「同僚の鈴宮君に、好きだって、守るからって、言われたんだ」
「志保ちゃんは、どう答えたの?」
 俯いた顔をあげる事なく彼女は、ぽつりぽつりと言葉を紡いでいる。
「好きだけど、好きだなと思ってるけど、簡単に付き合うとか、そんな風に今は言えないって、伝えたかな。」
 動揺してよく覚えてないんだ、と少し困った顔を見せた。
 志保ちゃんの事だ、鈴宮君と付き合う事で、彼氏(元彼氏になるのか)からの強力な嫉妬で迷惑を掛けてしまう事を懸念しているのだろう。
 それに――志保ちゃん自身、まだ彼氏の事を愛しているんじゃないか。
「まだ、彼の事、好きなんでしょ」
 彼女は1度私の目を見た。そして目を細めて少し笑った。
 「好きだよ。そりゃ暴力も振るうけど、そうじゃない時の彼は、本当に優しくて、私の事を1番に考えてくれて、一緒にいて幸せだったんだよ。私さえ我慢してればこんな事に――」
「違うよ、それは。」
 話し終わる前に私が言葉で遮った。それは違うよ、志保ちゃん。
「我慢するのはおかしい。我慢した結果どうなった?2人の赤ちゃんは死んじゃったんだよ。我慢した志保ちゃんが悪いって言ってるんじゃない。我慢を強いている彼に責任があるって事だよ。」
 強い調子で話したら、一気に喉が渇いてしまった。ゴクリと喉を鳴らして水をひと口飲み「それに」と続けた。
「エスカレートしたら、志保ちゃんの身体だって危なくなるかもしれないんだよ。志保ちゃんが我慢すれば全て丸く収まる事ではないんだよ。」
 そこまで言うと、志保ちゃんの目が少し潤んだ。瞳が左右に揺れるのが見て取れる。
「それでも、いないと、寂しいんだよ」
 私は鞄からポケットティッシュを取り出し、彼女の膝の前に置いた。「ありがと」と小さく呟き、中から1枚ティッシュを取り出した。

「夜、電気を消してお布団に入ると、寂しくて眠れなくて。明良がいない、って寂しくて。ぼろぼろ涙が零れてくるんだ。こういう時に明良は、私の背中を擦ってくれたのに、今はその手が無いんだと思うと、もっと寂しくなって――」
 決壊したダムの様に一気に涙が落ちた。あぁ、タオル出してあげたら良かった。
 嗚咽を堪えながら「こんなに寂しいとは思ってなかった」とポツリと言った。
 私は彼女の傍に移り、背中を擦ってあげた。更に涙が溢れだした。嗚咽が止まらない。
 彼の掌に替わってあげる事は出来ないけれど、少しでも人の温もりを彼女の背中に浸みこませようと必死だった。
 あなたを大切に思い、守りたいと思い、寂しい思いをさせたくないと思う人間がここにもいるんだよ、と伝えたかった。


38 令二



 青葉寮にパトカーが数台停まった事で、野次馬が湧き、俄かに騒がしくなった。
 しかし、何が起きたのか知っている人は少なかった。
 俺の周囲では、俺の顔の様子を見て、俺が何らかに関与しているのではないかと噂されていたようだ。
 勿論、俺はベラベラと周囲に話す事はしなかった。

 引っ越しを手伝った翌々日には志保ちゃんが出社してきた。いつも通りに朝の挨拶をして、何事も無かったかのように仕事を再開した。
 仕事中、志保ちゃんは実験室でぼーっとしている時間が増えた。
 仕事の考え事をしているのかもしれない。彼の事を考えているのかも知れない。いや、分からない。
 とにかく、心ここにあらずと言った雰囲気で、話し掛けるのも憚られる。
 お昼休憩では「私、今日は食堂パスです」と言って居室に残った。
 飯を食って実験室に行くと、彼女は実験台に突っ伏して寝ていた。
 眠ってはいないだろうと思い「大丈夫?」と声を掛けると、「ん」と顔をあげずに返事をした。

 定時を過ぎ、鈴木さんと俺、実験中の志保ちゃんを残して皆帰って行った。
 俺は鈴木さんと仕事の打ち合わせをし、鈴木さんは「おれこれから組合だから、志保ちゃんの事と、戸締り宜しく」と言ってニヤリとして部屋を出て行った。
 実験を終えた志保ちゃんが居室に戻って自分の席についた。
「しんどそうだね」
「ん。しんどいね」
「話、訊こうか」
「ん」
 志保ちゃんは俺のデスクにあったマグカップをサッと手に取ってシンクに行き、志保ちゃんのマグと並べてコーヒーをドリップし始めた。
 香ばしい匂いが居室に広がる。
 俺はもう殆ど仕事を終えたので、ぐーっと伸びをしたり、首を回したりして、沈黙を遣り過ごした。

「どうぞ」とコーヒーを差し出されたので「ありがとう」と受け取った。
「どう、1人で暮らしてみて。ってもまだ2日ぐらいか。」
 俺は努めて明るく話しかけたが、彼女は目を伏せたままでぽつりと「寂しい」と言った。
「明良がいない生活が、こんなに寂しいと思わなかった。彼から離れてみようかなって私、言ったけど、毎晩寂しくてなかなか寝付けないんだ」
 好きだと伝えた彼女が、俺の前で他の男に縋っている。これ程辛い事はない。
 どうにかして、その男に代わる事は出来ないだろうか。
「一緒に暮らす事はまだ出来ないけど、寂しい時に駆けつける事なら出来るよ、俺。志保ちゃんが寝付くまで俺が背中を擦ってあげる事だってできるよ。何度だって殴られてもいい。殺されかけたって良い。それでも宮川に負けない位に、俺も志保ちゃんを愛せるよ。俺が代わりを務める事は出来ないかなぁ?」
 俺は思いのたけを一気に吐き出した。
 志保ちゃんは眉根を寄せて、少し困ったような顔をして頬杖をついた。
「代わり、かぁ」
 俺はその後に紡がれる言葉を待った。コーヒーを一口啜る。
「段階を追って、彼と別れる事が出来たなら、喜んで鈴宮君の言葉を受け入れる事が出来たと思うんだ。だけど、急にね、昨日までそこにいた人が急にいなくなったんだ。そしたら身体のここんトコに、穴が空いたみたいになったの」
 そう言って左胸を押さえた。そして泣きそうな顔をしながら少し笑った。
 見ていられなかった。そんな顔はもうごめんだった。
 「その穴、俺が塞いでいく事は出来ないかな。時間が掛かってもいいから。ほら、砂時計みたいに、少しずつ、少しずつ、じわじわとその穴を埋めて行くから」
 少し強引かなと思ったが、同情したって仕方がない。
 俺は思った事をストレートに伝えた。志保ちゃんは少し表情を緩めた。
「ありがとう。ほんと、ありがとう」
 それから暫く無言で、彼女はパソコンのデスクトップを見つめていた。
 俺は彼女が淹れてくれたコーヒーを飲みながら、俺の必死さを伝える言葉を探した。
 彼女の心に空いた穴を埋めたい。俺が温もりを与えたい。縋って貰える存在になりたい。
 暴力ではない、心でつなぎ留めておきたい。

 しかし俺の語彙力ではこれ以上言葉を続ける事が出来なかった。


39 志保



「その穴、俺が塞いでいく事は出来ないかな。時間が掛かってもいいから。ほら、砂時計みたいに、少しずつ、少しずつ、じわじわとその穴を埋めて行くから」
 鈴宮君はそう言って私を真直ぐに見つめた。
 ここまで私を想ってくれる人がいるんだ。私の心はまだ、明良にある。
 それでもいい、時間が掛かっても、自分の方に傾いてくれればいい、そんな風に思ってくれている。
 少しずつでいい。時間が掛かってもいい。
「ありがとう。ほんと、ありがとう」

 明良の事はまだ当分忘れられない。しかし、明良とは今まで通りの付き合いを続けていてはいけないと思う。
 幸せな結婚。自分にはなかった「家族」を作る事。
 そんな些細な夢さえ、叶わないかも知れないのだから。
 力で押さえつけられ、情に絆される関係は断ち切らなければならない。
 それにはやはり、物理的な距離を置くという方法を取らざるを得ないのだ。

 寂しい。温もりが欲しい。穴を埋めて欲しい。
 こんな子供の様な我が儘の全てを叶えようとしてくれる鈴宮君の言葉に、私の心は動かされた。
 彼となら、少しずつ現実を受け入れて行ける気がする。
 彼となら、寂しさを紛らわせて行ける気がする。
 彼となら、寂しさの穴埋めをした上に、幸せと言う土をかぶせる事が出来る気がする。
 そこに咲く花は、小振りでも力強く咲くと思う。


40 令二



「鈴宮君、立って」
 彼女は椅子から立ち上がりながら俺に言った。
「え、うん」
 急な事に戸惑いながら、俺は手にしていたマグカップをコースターに置き、立ち上がった。
 志保ちゃんが1歩、2歩と俺に近づき、目の前に立った。
 そして俺の腕と身体の間に彼女の細い腕が入り、背にまわった。
 反射的に俺も、彼女を抱きしめた。ふんわりと彼女の纏う香りがほのかに漂った。

 彼女は俺の肩に顎を乗せ、話し始めた。
「心臓が左側だけにある理由、知ってる?」
 彼女が声を発する度に、俺の肩に振動を感じる。俺の心臓は今にも飛び出しそうなぐらいに跳ねている。
 きっとこの鼓動は志保ちゃんにも伝わってしまっているだろう。
「し、知らないけど、何で?」
 俺を抱きしめる細い腕の、力が強くなる。
「こうして抱き合うと、右と左、両方の胸に鼓動を感じるでしょ。足りない分を補えるように、神様が片方にしか心臓をつけなかったんだよ。2人で1つになるように」
 意識を集中させると、本当だ。両の胸に鼓動を感じる。
「ほんとだ」そう言って俺の頬は緩んだ。彼女も笑ったような気がした。
「鈴宮君が、私の右の心臓になってくれる?」
「うん」
「私が、鈴宮君の右の心臓になるから」
「頼むよ」
 そのまま暫く、俺は彼女の鼓動を感じ、彼女に俺の鼓動を伝えていた。そして短い口づけを交わした。


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