30 志保



「鈴宮君、今日遅い?」
結局私は火曜・水曜と二日病欠を貰い、木曜の今日やっと出勤した。火曜は仕事が休みだった朋美ちゃんの家で泣きまくり、昨日一日かけて目を冷やした。泣きはらした目は一日で元に戻った。人間の回復力って凄い。
「今日は十九時ぐらいまでサンプリングがあるんだよなぁ。」
「あ、じゃぁ手伝うよ。」
うぉ、助かる、と言って鈴宮君は十二時のサンプリングをし始めた。
今朝一番に顔を合わせた鈴宮君は、何もなかったかのように「おはようさん」といつも通りの挨拶をしてくれたお蔭で、私も通常通り業務が出来ている。明良から受けた(と思われる)暴行の痕もなさそうだ。

「いやぁ、助かったよ。二十時まではかかると思ってたのに、あっという間に終わった。」
「そりゃ良かった。」
会社から私の利用駅まで二駅分位を歩いた。途中、鈴宮君は「身体大丈夫?」と心配してくれた。
駅に着くと、いつもの場所に自転車を停めた。
「カフェにでも行って、サンドイッチ程度にしておく?」
鈴宮君の提案に「ん」と頷いて、いつものカフェに入った。今日は生憎、と言うか、いつもなら満席の筈の窓際の席だけが一席空いていた。「今日は私が出すから」と言っても鈴宮君は「こういう時は男が出すって相場が決まってんの」と言って引かなかった。私はサーモンとクリームチーズのベーグルとカフェモカを、鈴宮君はブラックコーヒーとサンドイッチを頼んだ。
「いつも奢って貰っちゃって、ごめんね。」
「いいよ、仕事も手伝ってもらっちゃったし。」
ピリピリとサンドイッチの包装を剥ぐ音がする。私はベーグルの上と下をぺりっと剥がして中を見た。
「何してんの?」
「え、いや、具に偏りがあると食べにくいから、確認。」
アハ、変な人、と笑われた。
「んで今日はどうしたの?志保ちゃんから俺を誘うなんて、珍しいから雨降るんじゃないかと思って折り畳み傘持ってきちゃったよ。」
うそばっか、と言うとイヒヒと意地悪く笑う。
「この前のお礼と、あれ、明良に殴られた?でしょ?ごめんね、って。」
鈴宮君は左の口角を触って笑った。
「こんなの怪我に入らないし。翌日には消えてなくなってたよ。あの女医カッコよかったよなー。君の彼氏に『青二才っ』とか言ってたよ。」
「へぇ、それは知らなかった。」
初めは気に入らないと思ったあの女医だけど、すぐに印象が変わった。言う事は全て的を射ていて、あんな先生、あんな友達が周りにいたら私はどんなに助かっただろうと思う。
「明良との付き合い方も、ちょっと変えて行かないとな、って思ってて。」
「あぁ、俺、ちょっと聞いちゃったけど、お腹、沢山殴られてたんだって?妊娠してた事もびっくりだけど、その上で腹を殴られてた事の方がびっくりだよ。女の腹殴るって、ある意味スゲェよ。」
考えたらお腹痛くなってきた、と鈴宮君はお腹を擦って笑った。鈴宮君がこうしてちょっとした事を笑いに変えてくれる、場を和ませてくれる事が「好きだな」と思った。今までは誰かを「好きだな」と思っても「私には明良がいる」と思って押し殺していた感情だ。ずっとだ。ずっとそうして生きてきた。今日ここでやっと「好きだな」と思った。
「好きだな。」
やっと、口に出せた。
「へぇ?」
「そうやって、ころころ笑ってる鈴宮君見てるの、好きだな、って。」
鈴宮君は目をキョロキョロさせてジワジワと顔を赤くした。それにも笑ってしまった。
「そんなに照れさせる様な事言ってないから。」
「あ、冷たい事言うねぇ。」
顔を見合わせて笑った。好きだ、こうやって笑い合う事も。
「それで、彼とは現状一緒に住んでる訳だけど、どうやって付き合い方を変えて行くの?」
急にまじめな話に戻ったので、笑った顔からなかなか顔が戻っていかず、四苦八苦した。
「うん、とりあえず会社の寮に入ろうかなって。離れてみて分かる事もあるかも知れないし。一緒にいる事がダメなのか、付き合っている事がダメなのか。今の所それが分からない。」
うんうん、それで?と鈴宮君が促す。
「でもね、多分付き合っている以上、彼からの猛烈な嫉妬ってのは避けられないと思うんだ。そうなるともう、別れるしかないし、別れるにしたって相当労力を使うよね。」
「だね。別れてくれなそうだよね。」
別れたい、なんて言ったら羽交い絞めにされて、縄で縛られて、死ぬ寸前まで殴られて、犯されて、捨て置かれるに決まってる。そしてお決まりの「お前が必要だ」。
「殺されそうになったら鈴宮君にSOS出すからさ、飛んできてよ。胸にSって書いて。」
「それスーパーマン?」
「うん。」
アハハッとまた笑った。笑い事じゃないのに笑った。
二人の笑っていた目線が一点に集中した。私はベーグルをお皿に置いた。ガラスの下、桜の木の下に明良がいた。あの日と同じだ。私達を見ている。
「ねぇ、行った方がいいんじゃない?」
鈴宮君は私を心配してそう言ってくれた。
「行かない。今行ったって、行かなくたって、帰ったら殴られるのは分かってる。だから行かない。」
そう、今行ったって、家まで引きずられて、家の中で押し倒されてビンタされて。少しでも時間は短い方が良い。そう、少し我慢すればすぐ終わるから。
「あのさ、俺の住んでる寮、知ってる?」
「あぁ青葉寮?」
独身男性専用の寮で、オートロック式の綺麗なマンションだ。ちなみに女性は「紅葉寮」だ。分かりやすい。
「覚えておいて。五〇五が俺の部屋。五〇六が鈴木さんの部屋。何かあったら走っておいで。駅からなら五分かからないから。走ったら三分ぐらい?」
ゴーゴー、とゴム、で覚えて、とにっこり笑ったけれど、今度の笑いは少し引き攣っていた。だけどまた「好きだな」と思った。人のピンチに笑顔で助けの手を差し伸べる、そういう人、好きだな。一緒に悲しんでくれる朋美ちゃんも好きだけど、こうして前向きに笑ってくれる鈴宮君を、私は好きだと思った。
食べかけのベーグルに手を伸ばし、一口食べた。クリームチーズが滑らかでおいしい。ここのベーグルを食べると他の物が食べられなくなる、と朋美ちゃんと良く話す。
「ゴーゴーの鈴宮君は、意中の人に告白するって言ってたけど、結局したの?」
サンドイッチをモグモグしていたのをコーヒーで飲み下し、「あぁあれね」と言った。
「あれね、言おうとしたんだ。そしたら相手が急に腹痛になっちゃって。」
「あら、何、下痢?」
「こら、ここお食事処。違うんだ。お腹痛くて救急車呼んだんだ。血まで出ちゃって。」
目が点になる、とはこの事を言うのか。一応確認のため、自分の鼻に人差し指を向けると、鈴宮君は「そう」と言った。
今度は私が耳まで赤くなる番だった。体中の血液が頭に上ってきてしまったような、恥ずかしい顔だろうと思った。見られないように俯いた。こういう時は、どう言ったら良いのだろう。今まで明良ばかりと接していたので良く分からない。正直な思いを口にしたらいいんだろうか。相手が正面切って言ってくれたんだから、こっちも思っていることを素直に言うべきだ。なかなか言葉にするのが難しくても。一つ一つ並べて、話してみよう。
「あ、あのね、こういうの慣れてないの。分かるよね?」
「うん、彼しかいなかったからね。」
お、分かってる。この人分かってる。酷く冷静に微笑んで聴いている鈴宮君をちらりと見て、また俯く。
「考えた事も無かったの。誰かの事を好きだっていう感情を抱いた事も無かったの。思っても押し殺してたの。今までの私だったら『ごめん、明良いるから』で済んでたの。」
「うん。それで?」
鈴宮君はテーブルに頬杖をついて、私を斜めに見ている。何か、余裕だ。告白が終わった人の余裕だ。
「だけど、今回の流産の一件があって、鈴宮君とちょっとだけ近づいたというか――うん、そう思ってて、こうやってお茶して、話して、笑ってたら、この人好きだなあって、何度も思ったの。このシチュエーションが好きなのかな、とも思ったんだけど、そうじゃないみたい。相手が、好き、みたい。笑って、前向きに笑ってくれてる鈴宮君が、好き、みたい。」
まだ残っていたらしい末端の血液が顔に上る。もうこれで尽きただろう。鈴宮君は、にんまりしている。あぁ、ちょっと憎たらしいかも。
「ただね、まだ明良と一緒に暮らしてるし、上手く別れられるかどうかも分からない。別れようとして迷惑をかけるかも知れない。そう考えると、簡単に『ありがとう、お付き合いしましょ』なんて言えないの。」
頬杖をついたまま鈴村君は表情を変えずに言う。
「別れるまで俺は諦めない。協力もする。迷惑だなんて思わない。俺の腕力じゃ叶わないかも知れないけど、守る。もう志保ちゃんを傷つかせたりしない。それで彼と別れた暁には俺を受け入れてくれる?」
「どうしてそこまで――」
「好きだからに決まってんじゃん。俺はアナタが好きだから、付き合っていた女の子三人と別れました。自分だけ犠牲を払うっていうやり方をやめろと言った志保ちゃんに従ってね。そして、俺は振られてもいいから、好きな人に告白した。その人が少しでも俺を見てくれるなら、俺はその人を守るし、協力する事を厭わない。」
ズズズとコーヒーを飲む音がする。鈴宮君って、こんなにスパスパと思っている事を言う人だったんだ。それでいて優しい。好きだな。
「分かった。私も頑張ってみる。DVの連鎖から抜け出して、独り立ちして、モテモテの鈴宮君の隣に君臨出来るように頑張ってみるよ。」



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