38 令二



青葉寮にパトカーが数台停まった事で、野次馬が湧き、俄かに騒がしくなった。しかし、何が起きたのか知っている人は少なかった。俺の周囲では、俺の顔の様子を見て、俺が何らかに関与しているのではないかと噂されていたようだ。勿論、俺はベラベラと周囲に話す事はしなかった。
引っ越しを手伝った翌々日には志保ちゃんが出社してきた。いつも通りに朝の挨拶をして、何事も無かったかのように仕事を再開した。
仕事中、志保ちゃんは実験室でぼーっとしている時間が増えた。仕事の考え事をしているのかもしれない。彼の事を考えているのかも知れない。いや、分からない。とにかく、心ここにあらずと言った雰囲気で、話し掛けるのも憚られる。お昼休憩では「私、今日は食堂パスです」と言って居室に残った。飯を食って実験室に行くと、彼女は実験台に突っ伏して寝ていた。眠ってはいないだろうと思い「大丈夫?」と声を掛けると、「ん」と顔をあげずに返事をした。
定時を過ぎ、鈴木さんと俺、実験中の志保ちゃんを残して皆帰って行った。俺は鈴木さんと仕事の打ち合わせをし、鈴木さんは「おれこれから組合だから、志保ちゃんの事と、戸締り宜しく」と言ってニヤリとして部屋を出て行った。
実験を終えた志保ちゃんが居室に戻って自分の席についた。
「しんどそうだね。」
「ん。しんどいね。」
「話、訊こうか。」
「ん。」
志保ちゃんは俺のデスクにあったマグカップをサッと手に取ってシンクに行き、志保ちゃんのマグと並べてコーヒーをドリップし始めた。香ばしい匂いが居室に広がる。俺はもう殆ど仕事を終えたので、ぐーっと伸びをしたり、首を回したりして、沈黙を遣り過ごした。
「どうぞ」とコーヒーを差し出されたので「ありがとう」と受け取った。
「どう、一人で暮らしてみて。ってもまだ二日ぐらいか。」
俺は努めて明るく話しかけたが、彼女は目を伏せたままでぽつりと「寂しい」と言った。
「明良がいない生活が、こんなに寂しいと思わなかった。彼から離れてみようかなって私、言ったけど、毎晩寂しくてなかなか寝付けないんだ。」
好きだと伝えた彼女が、俺の前で他の男に縋っている。これ程辛い事はない。どうにかして、その男に代わる事は出来ないだろうか。
「一緒に暮らす事はまだ出来ないけど、寂しい時に駆けつける事なら出来るよ、俺。寝付くまで俺が背中を擦ってあげる事だってできるよ。何度だって殴られてもいい。殺されかけたって良い。それでも宮川に負けない位に、俺も志保ちゃんを愛せるよ。俺が代わりを務める事は出来ないかなぁ?」
俺は思いのたけを一気に吐き出した。志保ちゃんは眉根を寄せて、少し困ったような顔をして頬杖をついた。
「代わり、かぁ。」
俺はその後に紡がれる言葉を待った。コーヒーを一口啜る。
「段階を追って、彼と別れる事が出来たなら、喜んで鈴宮君の言葉を受け入れる事が出来たと思うんだ。だけど、急にね、昨日までそこにいた人が急にいなくなったんだ。そしたら身体のここんトコに、穴が空いたみたいになったの。」
そう言って左胸を押さえた。そして泣きそうな顔をしながら少し笑った。見ていられなかった。そんな顔はもうごめんだった。
「その穴、俺が塞いでいく事は出来ないかな。時間が掛かってもいいから。ほら、砂時計みたいに、少しずつ、少しずつ、じわじわとその穴を埋めて行くから。」
少し強引かなと思ったが、同情したって仕方がない。俺は思った事をストレートに伝えた。志保ちゃんは少し表情を緩めた。
「ありがとう。ほんと、ありがとう。」
それから暫く無言で、彼女はパソコンのデスクトップを見つめていた。俺はコーヒーを飲みながら、俺の必死さを伝える言葉を探した。彼女の心に空いた穴を埋めたい。俺が温もりを与えたい。縋って貰える存在になりたい。暴力ではない、心でつなぎ留めておきたい。
しかし俺の語彙力ではこれ以上言葉を続ける事が出来なかった。



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