5 志保



 大きなガラスでできた窓からは外を歩く人がよく見えた。会話をしながら何気なく目をやったところに、見知った人影があった。桜の大きな樹が植わっている場所だ。
 歩いているのではなく、止まってこちらを見ている。
 思わず息を飲んだ。明良だった。どうしてここに?
 目が合った瞬間、明良は歩き出し、雑踏に紛れて駅の方へ消えて行った。

 偶然あそこにいたんだろうか。鈴宮君と一緒にいる所を見て、また嫉妬に狂うかもしれない。釈明だけでもしよう。
 そう覚悟して、鈴宮君との会話に戻ったが、暫く掌に滲み出た汗が消えなかった。

 カフェを出て、駅まで歩いた。駅横の路地で鈴宮君と別れ、明良の事を考えながら少し、歩いた。
 後ろからぐっと腕をつかまれた。「ひゃっ」と悲鳴に近い甲高い声が出てしまった。
 助けを呼ぼうと叫ぶ準備をして、相手の顔を見た瞬間にその声を引っ込めた。

 腕をつかんだ主は明良だった。
 あぁ、安心した。
「ただいま。これから連絡しようと思−−いったっ――」
 いきなり髪を鷲掴みにされた。
「お前、誰といたんだよ、オイ」
 離してよ、と言っても手に込めた力は緩まない。
「同期の鈴宮君だよ。酔い覚ましにってコーヒー飲みに行っただけ。明良こそ、何であそこにいたの?」
 更に力が強まった。毛根が死ぬかも、と薄ら思った。
「お前とアイツがカフェに入っていく所、見たからだよ」
 だからって店の前でずっと突っ立っていたのか――。
 髪を掴んでいた手から力が無くなったと思うと、今度は左の二の腕をぎゅっと痛い程握り、「帰るぞ」と家のある方へ引っ張られていった。

 孤独が怖いんだ。捨てられるのが怖いんだ。

 彼も私と同じ、物心がついてから施設に入れられた。私が入所した時、明良は小学1年生だった。確か5歳で入所したと聴いている。
 親の顔を知らないで入所する事、知ってから入所する事、どちらがより辛いかなんて考えた事もないが、実の親に「捨てられた」という事実は、幼かった私にも明良にも、酷く重く圧し掛かった。
 同じ境遇からから、自然と仲良くなり、一緒にいる時間が長くなった。
 私が中学1年の時に、永遠の愛を誓った。早いとは思わなかった。彼を守れるのは自分で、自分を守ってくれるのは彼しかいないと思っていたから。
 私は大学を出たけれど、明良は高校を出て就職した。バイトで稼いだお金で今のアパートを借りた。1人暮らしには広い部屋。私が就職したらいつでも同棲できるようにとの、明良の配慮だった。

 明良と私の間には、誰も入り込めない。時々こうやって髪を掴まれたり、乱暴されても、それは明良の生い立ちに端を発する事だとして受け入れてきた。私にしか分からない、彼の孤独感。
 私の胸にも、彼と同じ孤独があるから。

 腕を引かれながらアパートに着いた。


 明良が玄関をガチャリと開け、照明を点ける。オレンジの光りが数足の靴を照らす。
 明良は靴を脱ぎ、無言でずんずんと部屋の中に入って行き、ソファに座った。赤いソファの生地は、彼の身体をすっぽりと覆った。私は玄関のチェーンロックをして部屋に入った。
 廊下にある姿見に映る自分をふと見ると、ショートボブの髪はぐちゃぐちゃだった。手櫛でそれをちゃちゃっと直す。

「明良は、何をしてたの?」
 上着を脱いでハンガーに掛けながら訊いた。私には「帰るメール」を要求する癖に、自分からは「帰るメール」をしないので、いつ仕事を終えたのかも分からない事が多い。
 ソファに座って手と手を組み合わせ俯いていた明良は、少しずつ頭を上げた。鋭い上目使いで私を睨んだ。
「俺が何してようと関係無ぇんだよ。お前があの男といちゃいちゃコーヒーなんて飲んでるのが問題なんだよ」
 ちょっと今日は機嫌が悪過ぎる、と思った矢先、ソファから立ち上がった明良にニットの首を掴まれた。そして次の瞬間、明良の拳が私の鳩尾の辺りにめり込んでいた。

 一瞬にして口の中に胃酸が戻ってくるのが分かった。あれ、さっきコーヒー飲んだのに。冷静な自分が考える。コーヒーが戻って来る訳じゃないんだ。胃酸なんだ。
 そのまま乱暴に蹴り倒され、後頭部を強かに打った。私は体勢を立て直そうと襖に凭れた。そしてまた首を掴まれる。
「てめぇ、次同じ事してみろ、アイツ殺すぞ」
 殺す、という言葉が余りに非現実的で、頭の中に入り込んでも意味を理解するのに時間が掛かる。アイツを殺す。鈴宮君を?何で?殺す?
「待って、鈴宮君はただの――」
 もう1発、鳩尾に食らった。逃げ場の無い背中と明良の拳に挟まれた私の内臓は悲鳴を上げた。
「そいつの名前、出すんじゃねぇ」

 そして、穿いていたパンツもニットも脱がされ、下着姿になった。明良は立ち上がって電気を消した。そしてセックスをした。この場合、『犯された』の表現が適当だろう。

 大丈夫、少し我慢すればすぐ終わるから。

 事を終えた後、薄暗い部屋の中で何気なく見た左腕には、明良の手の痕が暗闇でもくっきりと黒く浮かび上がっていた。

 頭を打ったのが原因か、鳩尾の2発目が原因なのか、私は気を失っていた。目を覚ますと明良の腕の中にいた。
「志保っ、大丈夫かっ?」
 大丈夫かって明良が私に――。
「ごめん、俺、またお前に酷い事しちゃったよ。どうしよう、もうどこも痛くないか?腕赤くなってるけど、痛くないか?」
「ん」
 小さく頷いて見せると、明良は安堵の表情を漂わせ、目には涙が浮かんでいる。
「良かった。お前しかいないんだよ、俺には。お前がどうにかなっちゃったら俺は生きていけないんだよ」
「ん」
 もう一度頷く。明良は私の身体に覆い被さるように倒れ込んで来た。
 言い訳を何度聞いた事か。何度彼の涙を見た事か。

 これを世の中では『ドメスティックバイオレンス』だったり、『共依存』だったりと名前を付ける事は知っている。自分はその枠の中にいる事も理解している。
 それでも私は明良を手放せなかった。
 彼は、私と同じだから。
 彼の悲しみは、私の悲しみだから。



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