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.1.矢部君枝


 身体から何か大事な器官がすっぽり抜けてしまって私は、息は出来るのにどこかが機能していないような、不思議な感覚に見舞われる。
 彼がいつも座っていた、窓際の席に座り、スキニーデニムを履いた短い脚を、彼がしていたようにお行儀悪く、テーブルに乗せてみる。
 彼が観ていた景色はこれなんだと感じる。
「もう塁の事が恋しくなった?」
 少し皮肉の混じった声で腕組みをしながら声を掛けた智樹君に、私は目を伏せて少し笑う事でしか返事ができなかった。
 ついこの前、そうだ、本当につい最近の出来事だ。太田塁は絵画の勉強をする為に渡仏した。塁の大好きな、智樹君と私を残して渡仏した。
 残された智樹君は、私の事を塁から託され、私の彼氏となった。智樹君の、私に対する気持ちが恋愛感情である事も知っていたし、私も彼に対して同じ感情を抱いているのも伝えてある。
 私と智樹君は相思相愛、恋人同士なのだけれど、この椅子の主が頭から離れない。それは智樹君も同じじゃないかな、と椅子の脚二本で支えながらゆらゆらと揺らし、考える。歪な三角関係。彼が渡仏しても、それは続く。
 塁がフランスへ行った後、「読書同好会」という奇妙なサークルをどのように運営していくか、至君と拓美ちゃんを加えた四人で話し合った。まだ残暑が厳しく、太陽が注ぎ込む窓際は避けて廊下側に椅子を並べて。
 至君と拓美ちゃんは晴れて恋人同士になった。塁がフランスへ行った事で、私と智樹君も一応、恋人同士になった。あえてこの四人が、この部屋に集まる必要性はないのではないかという結論に達した。
 が、万が一にも塁が帰国した時に集まれる場所を確保しておきたいのと、新規でサークルに加入したいという人が出てきた時のために、部室はそのまま残しておくことにした。
 塁が入学式の日、マジックで書いた「読書同好会」という文字。初めは真っ白だった紙も、ほんの一年半という短い月日を経ただけで、何となく黄ばんでいた。

「恋しくなんてなってないよ」
 私はテーブルから短い脚を降ろし、智樹君と向い合せに座った。彼の、少し長い前髪と、高く伸びた鼻が、もう少しでぶつかりそうだと、横顔を見ながら思う。
 塁はフランスに行った。私は智樹君の彼女であって、塁の彼女ではない。勿論、塁が智樹君の事を想っていたという事実があっても、塁と智樹君はそういう関係ではない。
「ねぇ、智樹君」
 ん?と眉尻をぴくんと持ち上げながらこちらに視線を寄越した。
「智樹、って、呼んじゃだめ?」
 渾身の力だった。言いながら体中の全血液が顔に集中し、首から下は貧血状態だった。
 智樹君は私から視線を外し、私は彼の横顔を見ていた。横から見ていても、顔がびーんと横に引っ張られた様に引き攣れて、黒い髪から覗いた耳が、紅色に染まっているのがよく確認できた。
「じゃ、あ、あれだ、俺も君枝って呼ぶけど、いい?」
 これが智樹君、もとい智樹の最上級のデレ顔である事は、この一年半で学んだ。
「うん、いいよ」
 彼から視線を外した。普通こういう遣り取りって、高校生なんかがキャッキャ言いながらやるんだろうなと、何となくイメージする。私は中学も、高校も、男とは一切関わりなく過ごしてきたから、こういう事はドラマでしか目にした事が無い。
 彼を呼び捨てで呼ぶ事に躊躇する自分がいた。だけど呼び捨てで呼んで、一歩彼に踏み込む事で、塁に対する申し訳ないような、未練たらしいような、そんな気持ちが薄まるのではないかと考えるのだった。それはすぐに薄まるとは思っていない。時間をかけて、ゆっくりと。
 何せ塁は、いつ帰ってくるともしれぬ男だ。自由人だ。彼を想っていても仕方がない。彼だって、フランスでいい人を見つけて帰ってくるかもしれないのだ。

 水曜日の午後の授業はとっていない。智樹もそうだ。
 私達はこうして部室に来て、何となく塁の存在を肌で感じて、懐かしむ事にしている。

「そうだ」
 智樹がパチンと手のひらに拳を打ち付けた。
「君枝、は、そうめん好き?」
 呼び捨てに躊躇っている事が丸わかりで、私は笑いを堪えながら「普通」と言う。
「実家からさ、そうめんが沢山送られてきてさ。今日良かったら夕飯、うちでそうめん食わない?」
 塁がいなくなってから、智樹の家に行くのは初めてだ。何となく、一人で行く事に気が引けたが、これから交際していく中で避けては通れない道である事は確実だ、と覚悟を決めた。
「うん、お邪魔しようかな」
 そう言うと彼は、ずっと止めていた息をやっと吐き出すように「良かったぁ」と笑みを零した。
 私は母に、夕飯が不要な旨をメールした。彼女はフルタイムで仕事をしているので、日中電話に出ることができないので、メールでのやり取りが多い。

 メールと言えば、智樹は結構マメなタイプらしく、塁が渡仏したその晩から『おやすみなさい』と『おはよう』のメールは欠かした事が無い。
『おやすみなさい』のメールは、先に寝る方が送る事になり、最近ではもっぱら私が送信している。だけど律儀に『おやすみ』と返信が必ず入ってくる。
 メールをしてもろくに返事も寄こさなかった塁とは大違いだ、と何故か比較してしまう自分が憎い。
 もし万が一、塁ではなく智樹が海外に行く事になったとして、私と塁はこうして穏やかな恋人同士でいられただろうか。智樹の事を思い出してはノスタルジックになっていただろうか。破天荒な塁に振り回されて、智樹の事なんて頭にのぼらないんじゃないかなんて、思ってしまう。それぐらい、智樹との日々は穏やかに始まった。