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.10.矢部君枝


 水曜日の午後の部室に、珍しく至君が顔を出した。
 教授が急病で、休講になったとかで、拓美ちゃんが来るのを部室で待つんだそうだ。
「ところでさ、来月ふたご座流星群ってのが観れるんだけど、久しぶりに合宿なんてどうよ?」
 どの日?と三人で手帳を付き合わせて都合を合わせ、拓美ちゃんにはもう話がついているという事なので、至君がお勧めする観測スポットの近くに宿をとる事にした。
「前回の失敗があるから一応言っておくけど、部屋は一部屋、大部屋を取るからね、君枝ちゃん」
 私に向かって言った。そうだ、夏の合宿では一部屋の大部屋だった事に不満を漏らしたのは私だったっけ。あの時はまだ、彼らにそんなに慣れていた訳じゃなかったから、同じ部屋に泊まる事が、恐怖で仕方が無かったんだった。
「寒いけど夜が一番良く見えるから、終わるまで酒は我慢って事で」
 宿の手配やレンタカーの手配はまた全て至君がやってくれるらしく、名目上この同好会の会長は至君だな、と思う。
「いつもありがとうね」
 何かできる事があれば手伝うよ、と言うのだけれど、至君は「いいっていいって」と全て一人で背負いこんでしまう。

「ところで智樹、星野さんとは最近どうなんだよ」
 私は一瞬身を固くした。あまり耳にしたくない名前だった。
「どうも何も、何もないけど。実験は一緒にしてるけど」
 智樹は何も気にしていない様子でさらりと言うが、私は気になって仕方が無かった。本当に何もないんだろうかと。
「お前はなくても、向こうは色々仕掛けて来てるんだろ、どうせ」
 何を持ってそうそういう風に予想しているのか私には分からなかったけれど、至君の言う事は何か確信があるような言い回しだった。
「まぁ、食事に行こうとか、家に行ってもいいかとか、誘われたりってのは何回かあったけど、断ってるよ、全部」
 何もないとしても、星野さんがそうやって智樹に近づこうとしている事に対してはいい気分ではない。智樹がそれに反応しないとしても、気にせず何度もアタックしてくる星野さんの強さが、羨ましくもあり、気に障るものでもあり、複雑だ。
「それならいいんだけどさ。君枝ちゃんを泣かせたら塁に殺されるからな、お前」
「何だその脅しは」
 智樹は笑っていた。確かに、塁なら半殺しぐらいならやりかねない。
 それでも、今は自分に自信がなかった。星野さんに勝てる自信が無かった。見た目はどう贔屓目に見たって星野さんの方が勝っている。中身は知らない。
 気になるのは、智樹の性欲だ。彼は男だ。それに、私が彼を抱きしめた時、彼は反応していた。どうしたって欲が出て来るものだ。ゆっくりいこうや、そう言ってくれているけれど、目の前にデキる女とデキない女がいたら、当然デキる女に揺れ動くのではないか、そんな気がしてならない。勿論私はデキない、抱けない女な訳で。
 智樹の事は信じているのだけれど、智樹は優しいから、星野さんに言い寄られたら、負けてしまうんじゃないか。悪い想像ばかりが膨らんで、良い想像はそれに押し潰されてしまう。

 一度、試してみたらいいんじゃないかな。もしかしたら、出来るかも知れない。相手はあの男じゃない。智樹なんだから。やってみないと分からない。
「智樹、今日家に寄ってもいい?」
 矢庭にそんな事を言ったので、居合わせた至君は「おいおい俺の前でそんなお約束始めないでくれるー?まだ拓美ちゃん来てないんだから俺、寂しくなっちゃうじゃんか」と泣き真似をして見せた。
 至君の言葉に思わず吹き出し、智樹は「もちろんいいけど」と言ったので、今日の夕飯を何にするか、塁の椅子に座りながらゆらゆら考えた。

「何か、急にどうしたの」
 門を出た所で手を繋ぐと、智樹が顔を覗き込んできた。
「うん、ちょっと。思う所があって」
 そこまでしか言えなかった。まだできるかどうかも分からないんだから、全て話す事はできない。
「今日の夕飯は、パスタしか思いつかなかったんだけど、冷蔵庫の中、何がある?」
 久野家の冷蔵庫事情を聞きながら、そろそろ塁と智樹にもらった手袋を出す時期が近づいて来たなと、全く関係ない事が頭に浮かんだ。

 食後の緑茶を飲みながら「あのね、今日泊まっていってもいい?」と智樹の顔を見ずに訊いた。顔が、赤くなるのを直前で待機している。
 智樹は返答に詰まっていたけれど「えぁ?全然いいけど、どうしたの」と不信に思っている様子で、こういう事はどういうタイミングでどう言えばいいのか、私にはさっぱり分からなくて困った。
 テーブルに置いてある智樹の携帯が短く振動した。
「メールだ」
 そう言うと携帯をパカリと開き「まただ」と呟いた。
「何が?」と訊ねると「星野さん」と聞きたくない名前が飛び込んできて、参った。
「時々メールが来るんだ。何してる?とか、電話してもいい?とか。まぁ全部断るんだけどね、電話」
 そうなんだ、と俯いたまま言うと「断ってるんだよ? そこ笑っていい所だよ?」と大げさに私の顔を覗き込もうとする彼の行動が可笑しくて、ついに笑いが零れてしまった。
「でもさ、星野さん、智樹の事が大好きなんだね」
 智樹は髪をくしゃっとさせて「知らん」と不貞腐れたようになった。
「俺が好きなのは君枝だから、俺の事が好きだとか言われても困るし、好きだって言われた事はないし。星野さんの考えてる事が俺にはよく分からない」
 確かに、星野さんが実際に智樹に「好きだ」と行ったわけではなく、彼女の行動を見ていて、きっと好きなんだろうと言う推測で物を言っているにすぎないわけだ。ただ単に友達が少なくて、智樹しか頼る事ができないっていう、それだけなのかもしれない。
 それに、さりげなく言われたから流しそうになったけれど、智樹は私の事が好きだと言ってくれている。これ以上何を信じろと言うのだ。それでいいではないか。

 色気も何もない、ぶかぶかの部屋着を着て、コンビニで買った歯ブラシで歯磨きをした。歯ブラシは、この家に置いて行っていいと智樹が言ってくれた。下着もコンビニで調達した。コンビニに行けば何でも揃うんだなと思う。さすがに使用済みの下着は持って帰る。
 智樹は髪を乾かさないで寝るらしく、確かに先日泊まった時も、髪が濡れていた事を思い出した。少しずつ束になった黒い髪が、時々智樹の目の前を行ったり来たりするのを布団の上でぼーっと見ていた。
「何見てるの?」
 明日の支度をしている彼は足を止めて私を見た。
「ん、前髪」
 そう言うと、怪訝な顔をして「前髪?」と首を傾げた。

 電気を消して智樹が「おやすみ」と言う。私も同じ言葉を言おうとしたのだけれど、唇が張り付いてしまったようで声が出ない。
「どうした?」
 黙り込んでいる私を心配して、彼は半身を起こしてこちらを見ている。私は口を開けないまま、隣の布団に滑り込んだ。
「どうした?」
 さっきよりさらに語気を強めた智樹の声が頭に響く。ギリギリのところで酸素を獲た魚みたいに口を開いてヒュッと息を吸い込んで、長く吐き出した。
「してみようと、思うんだけど、協力してくれる?」
 その言い方は色気の欠片も無くて、とても誘い文句には聞こえない物だったかも知れないけれど、私にはこれが精いっぱいだった。
「大丈夫なの?」
 智樹は布団の中で一定の距離を保ったまま、私を見下ろしている。
「大丈夫かどうかは分からないけど、このままじゃ、ダメだと思って」
 それは、色々な意味でダメだと思ったからなのだ。女としてダメだと思うし、対・星野さんとしてもダメだと思ったし。色々ダメだと思ったのだ。それがうまく伝えられる言葉がなくて、もどかしかった。
 智樹は起こしていた半身を倒すと、私を抱き寄せた。そのまま長く長くキスをした。
「俺はこれだけでもいいんだよ?」
 私の太腿に、彼のモノが当たっている事に気づいていて「嘘は言わない事」と言って彼の口を塞いだ。
 彼に服を脱がせてもらい、彼は自分で服を脱ぎ、再度布団に入る。
 肌と肌とが触れ合うと、こんなにも温かい物なのかと、何か深いとろりとした液体の中に引きずり込まれるような感覚に陥る。もう、戻れないかも知れない。
 それから身体を弄られ、それは上半身から下半身へと移動するのだけれど、その時一瞬脳を貫く様な光を見たような気がした。一気に背中から頭の先へと冷たい物が駆け上った。
 大きな手、太い指。

「早く挿れさせろよ、濡らせよ」
 そう言って乱暴に入れられた、太い指。
「お父さんの、欲しいだろ」
 性器の先で私の性器をいじり、そして滑り込ませる。

 そんな光景がほんの一瞬で蘇り、吐き気がする。
「ごめん、ちょっと待って!」
 智樹を突き放すと私は急いでトイレへ行き、夕飯に食べたパスタを盛大に嘔吐した。
 下着だけ着けた智樹が「大丈夫か?」と追ってきた。下着を着けて来てくれて良かった。あんな物、やっぱり見たくなかった。一度嘔吐すると、もう吐き気はおさまった。「大丈夫」
 私は全裸のまま智樹に支えられるようにして布団に寝転がった。
「部屋着、寒いから着ちゃいな」
 その辺に散らかった部屋着と下着を渡してくれた。
 その優しさが今は酷く痛くて、自分が不甲斐ないという気持ちと一緒に、両目から涙となって溢れ出て来てしまった。暗くて見えないだろうと思っていたけれど、雰囲気で察した智樹は「もう、いいから。気にしないでいいから」と言って私に手を伸ばし、髪を撫でてくれた。
 私はしゃくり上げながら部屋着を身に着け、座っている智樹に抱き付いた。
「ごめん、ね」
「いいから、ゆっくりいこうやって言ったろ」
 何度も何度も頭を撫でてくれるその大きな手が凶器に思えてしまう私の記憶を、どうしたら書き換える事が出来るのだろうか。そんな事が可能なのだろうか。私はいつになったら智樹を満足させることができるんだろう。愛し合う事が出来るんだろう。
 それが酷く遠い遠い事の様に思えて、手を伸ばしても全然届かない遠い事に思えて、情けなくてまた涙を流す。
「できなくたって、好きだから。君枝の事ちゃんと好きだから」
 しばらくそうして抱かれていた。私の精一杯は、彼にきちんと届いているだろうか。