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.5.久野智樹


 鍋は簡単でいい。野菜を切って、肉と一緒に入れて、鍋のを素を突っ込んで、火にかければいい。
 少し小振りな土鍋をコンロに置き、火をつける。
 ケーキは君枝が希望したチョコレートケーキだ。ちょっと甘そうで「普通のショートケーキにしない?」と言ったのだが「ここのケーキ屋さんはあんまり甘くないの」と強く主張するので、俺が折れた。

 君枝が炊き上がった土鍋をコンロから引き揚げ、いらない雑誌の上に乗せる。
 俺はその間に、先日買ったワイングラスを棚から取り出し、汚れがついていないか光にかざして確認した後、テーブルに置いた。
 スパークリングワインは、栓を抜くのに意外と苦戦し、コルクが抜ける瞬間をまだかまだかと耳を塞いで身体を縮こませている彼女が何だか小動物みたいで可愛らしかった。

「乾杯」
 新しいワイングラスは、それなりに綺麗な高い音を鳴らして、宴の始まりを告げた。
 鍋の蓋を開けると、蒸気が一気に天井にむけて立ち上る。あつあつだ。
「おいひいね」
 ろくに冷ましもせず口に入れたんだろう。はふはふ言っている。
 何となく視線が合うと、彼女はにっこりと微笑む。俺にどうしろと! 笑い返す事も出来ず、困ったようなおかしな顔で首を傾げながら鍋をつついた。
 強い女の、上から目線の笑顔なら慣れているが、こうして柔らかく微笑まれる事には慣れていない。
「スパークリングワイン、結構うまいな、これ」
 俺は何もワインについて詳しくない癖にラベルを見たりして、フランス産だったらかち割ってやろうかと思ったその瓶には「日本産」と書いてあったので、良かったような、期待外れだったような、妙な気持になった。
「二十歳になっちゃいましたねぇ」
 ワインのせいか、少し頬を赤くした君枝がそう言うので「俺、明日だけど」と付け加えた。
「二十歳になったら、何がしたい?」
 だしぬけにそんな事を訊くので、俺は戸惑った。
「別に、これと言ってないけど、君枝は?」
 彼女は何だか不安定に体を揺らしながら「そうだなぁ」と言うので、手元にある皿から具がこぼれるんじゃないかと心配になった。
「二十歳になったら、智樹ともっと仲良くなるんだー」
 これは酔っている。この女はもう既に酔っている。そう思わずにいられない、破壊力のある言葉だ。俺は粉砕した。
「俺だってそうだよ。君枝が言った事、忘れないからな。酔っぱらってて覚えてませんとか、ナシね」
 俺は本棚から小さなメモ帳とペンを取り出し、そこに「二十歳になったら智樹ともっと仲良くなる。君枝」と書き、彼女の目の前にかざした。
 少しメモが近すぎたのか、身体を引き「あぁうん。いいね、このメモ残しておいて。別に酔っぱらってないから」
 話す声は意外としっかりしていて、やっぱり思ったほど酔っぱらっていないのにあのような言葉を吐いたのだと分かると、途端に俺の心臓の音が耳の近くで聞こえてしまった。

 鍋の洗い物をしている俺の横で、君枝は小さなケーキをお皿に並べ「飲み物は?」と少し紅潮した頬で覗き込んできた。
「あ、俺はビールでいいや。君枝は?紅茶でも淹れる?」
 彼女は頭を振り「酎ハイでいい」と言い、ケーキをテーブルに持って行った。

「本当だ、あんまり甘くないな、このケーキ」
 チョコクリームだから、ある程度の甘さは覚悟していたが、それ程でもなかった。
「でしょ、前に一度母親と一緒に食べた事があったんだ。彼女も甘いのが苦手なんだけど、ここのケーキなら食べられるって」
 君枝は上に乗っている苺を大事そうに横に除けて、ケーキ部分を先に食べ始めた。小学生のようで放っておけなくて、俺は自分のケーキの上に乗っていた苺をフォークにさすと、彼女の皿に置いた。
「へ?」
「あげる。誕生日プレゼント」
 茶色いクリームがついたその苺をじっと見つめ、それから俺に視線を寄越し「ありがと」と目じりを下げた。

 ケーキを食べながら、そしてケーキを食べ終えてから、いろんな話をした。
 今まで生きてきた二十年間、君枝が何をしてきたのか、初めて聞く話も多かった。
 ピアノが特技だったとか、小学生の中学年までは眼鏡を掛けていなかったとか、気付いたら最初の父親はいなかったとか、二番目の父親は俳優の誰それに似ていたとか、彼女にとっては傷口ともなるであろう「二人目の父親」の話まで出てきたので、彼女の傷口はそれなりに浅くなってきているんだなぁと実感した。
 少し酔っぱらってきたのか、彼女は「横になってもいい?」と言うので「どうぞ」というと、座布団を枕にして横になり、話を続けた。
 俺は俺で、小学校から野球をやっていた事、中等部から塁達と一緒になった事、野球一筋だった事、結局野球以外に話題が無い事などを話した。半分酔っぱらって聞いている彼女は「野球バカっていうんだよね、そういうの」とケタケタ笑っている。確かにそうだ、野球バカだった。俺は。今は違うけれど。
「君枝?」
 少し静かになったと思ったら、そのまま話が途絶えた。テーブル越しに彼女の顔を見ると、目を瞑っている。もう一度「君枝?」と呼びかけたが返事はなく、代わりに静かな寝息が聞こえた。
 またこのパターンか。いつかもあったな。プレゼントを渡しそびれて眠ってしまった事。結局は、彼女が途中で目を覚まして、それからプレゼントを渡したんだっけ。