inserted by FC2 system


1

 待機児童の多い市内でも激戦区で、うちの娘が保育園に入る事ができたのは、我が家が母子家庭であるからに他ならない。
 第一希望、父母会もなく小規模な保育園を選び、そこに入園が決まったのは、娘が生後半年を迎える頃だった。私は職場復帰し、フルタイム勤務。十九時の閉園ギリギリに駆け込みでお迎えに行く毎日が、四年、続いている。
 娘は一日の大半を保育園で過ごし、私が教えなくてもトイレを覚え、お箸を覚え、最近は平仮名がブームらしい。

 父母会がないのは気楽で良い。同僚でワーキングマザーをしている人達は皆、土曜に父母会の集まりがあるとかと、ボヤいている。私は年に一度の遠足だけ参加すれば、あとは保育園にお任せでいられる。
 逆にいうと、所謂ママ友という人間関係が築き難いという欠点はある。が、私は職場のワーキングマザー達と話せれば、それで十分だった。

「こんばんは」
 子供が勝手に出入りしないようにわざと重くしてある引き戸を開き、顔から先に差し込む。娘は二カッと笑い、遊んでいた魔女っ子の変身グッズを私に向けた。
「お帰りなさーい」
 先生がエプロン姿で出迎えてくれる。「今日はお弁当が一つ、余ったんですよ。良かったら持って帰ってください」そう言われて手渡されたお弁当は冷蔵庫に入っていたのか少し冷たくて、「ありがとうございます」と言って鞄の横に置いた。こういう事が、時々ある。
「新しく入園した男の子が、入園早々風邪をひいちゃって。一つ余ったんですよ」
 お弁当を注文する時間と欠席を知らせる電話のタイミングがきっと合わなかったのだ。
「有難くいただきます」
 そう笑顔を向けて、帰り支度をする娘に目をやる。何もかも自分で出来るようになった。保育園様様だ。
 靴箱から、娘が靴を出す。ふと目を遣ると、隣の箱に、真新しい名前シールが貼られていた。
「風間秋人」そう書かれている。あきひと、しゅうと、あきと、何て読むんだろう。最近の子供の名前は難しい。
「じゃあ莉子、ご挨拶して」
 莉子は決められた形式で帰りの挨拶をし、私と手を繋いで商店街のアーケードに入った。
「きょうはおべんとうがあるから、ママはゆうはん、らくチンだね」
 そんな事を言うようになった娘に「よく分かってるじゃん」と言い、頭をくしゃくしゃに撫でる。くすぐったそうに甲高い声で笑う。
 自分にはお父さんがいない。その事に気付いている。でも、それを疑問として口に出さないのは、彼女なりの気遣いなのか、それともただ単に、事実を受け入れているだけなのか。あえて問うてみようとは思わない。
「ママはなにをたべるの?」
「昨日の残りの野菜炒めかなー」
 そう言って繋いだ手を大きく振ると「のこりもので、かわいそうだね」なんて言う。
 四歳半って、こんなに語彙が充実してるんだ、と驚く。

 元夫と生活していた2DKの賃貸マンションに到着すると「わたしがでんきつける」と言って、一つ一つの電気を娘がつけて行く。
「洗濯物、出しちゃってからテレビね」
「はーい」
 いつものやり取り。彼女がテレビを観ている間に、私は夕飯の支度をする。今日は楽だ。全て電子レンジで済んでしまう。

「それでは、いただきます」
 手を合わせてご飯を食べるのも、保育園で習った事だから、私も真似して手を合わせる。
 食事中は彼女が保育園で何をしたか、何があったかを話すのが中心で、私の職場で起きた騒動や、イライラした事などをぶつける相手はこの家にはいない。それは当然の事なのだけれど。
 食器を洗浄機に入れて、風呂に入る。そこでも、園であった出来事をひたすら聞く。女の子は本当にお喋りなのだ。私も、そうだったのだろうか。
 眠りに就くのは二十二時ぐらいで、私は零時を回った頃にやっと意識が途切れる。独り身になってから、睡眠薬が欠かせなくなってしまった。

 翌朝は五時に起きて洗濯をし、七時半には子供を保育園に預ける。初めのうちは私から離れるとよく泣いていたものだが、今じゃ私がいてもいなくても同じとばかりに、「せんせー、きょうもステッキつかいたい」と私の存在は完全に無視だ。まぁ、ある意味助かる。

2

 電車に一本乗り遅れた。十九時に間に合うよう、駅から走る。後ろから、同じように走る足音がした。お互い急いでいるのか、そんな風に思いながら、園に到着した。後ろの足音も、ピタリと止まる。
 振り返ったそこにいたのは、私と同年代ぐらいの男性で、スーツを着ていた。園の門の中に入ってきて初めて、保護者なのだと分かった。
「あ、こんばんは」
「どうも、風間です」
 ああ、あの下駄箱の。私は引き戸を開け、いつも通り「こんばんはー」と中に入る。珍しい事に、莉子と男の子が二人で絵本を見ながら遊んでいた。
「パパー!」
 男の子はお父さんの所まで走ってきて、途中でつまづいて派手に転んだけれど、お構い無しにお父さんにしがみついている。
 莉子はそれを横目に支度を始めている。お友達のお父さんがお迎えに来るというのは、父親がいない莉子はどういう心境になるのだろうか。
「莉子ちゃん、一緒に帰ろうよ」
 彼はそう言い、支度を始めた。自分で支度をしている所をみると、同じ年ぐらいなのだろう。私も、風間さんも、二人が支度をする姿を、下駄箱の横で見守った。
 私は風間さんに顔を向けて「しゅうと君、ですか? あきひと君ですか?」と尋ねると、目を細めた笑顔で「あきとです。風間あきとです」と言ってフンワリ笑った。引き込まれる笑顔だった。誰かに似ている。
 下駄箱に書かれた文字を目で追いながら「かざまあきと君、ですか。漢字は簡単なのに、読み方に迷っちゃいました」と言い、風間さんに視線をやる。
 靴が入っている靴箱は二つしかない。ピンク色の靴が入っている箱を見て「守山りこちゃん、でいいんですかね?」と名前を見て言う。
「はい。よろしくお願いします」
 頭をぺこりと下げると「こちらこそ」と笑みを浮かべたまま風間さんは頭を下げた。

 子供と手を繋いで外へ出ると、梅雨前の生ぬるい風が頬を掠めて行った。
「どちらから帰られますか?」
 莉子は、秋人くんと私の二人と手を繋いでいる。
「地下鉄に乗るんです」
 私の家は地下鉄の駅から歩いた所にある。商店街のアーケードから地下鉄の駅まで、一緒に歩いて帰る事になった。
 子供達は二人で手を繋いで、同世代間の会話を楽しんでいる様子だった。
「どちらから通われてるんですか?」
 話す事に詰まって、当たり障りのない話を振った。風間さんは私の方をチラと向き、それから正面に向き直った。
「三駅先の青葉台です。青葉台のあたりの保育園に申し込んだんですけど全滅で、ここまで通ってるんですよ。守山さんは?」
 莉子と秋人君はずっと手を繋いだままだ。幼い頃なんてあんなもんだったか。
「すぐそこ、地下鉄の駅から歩いたとこに住んでるんです」
 感心した様子の風間さんが口を開く。
「へぇ、近くていいなあ。よくこんないいところに入れましたね」
 言うべきか迷った挙句「母子家庭なんで」と言うと、流石に面食らったような顔をして「あぁ、それで」と納得していた。
 地下鉄の入り口に着くと「ほら、莉子ちゃんとママにバイバイしなさい」と風間さんが腰を屈めて秋人君の顔に近づくと、先に莉子が「あきとくんとパパ、バイバイ」と言って手を左右にぎこちなく振った。秋人君も同じ事を言い返す。
「じゃあ」
 大人達は割合そっけない態度でお互いの帰る道に入って行った。

「秋人君とは仲良しになれそう?」
 夕飯を突きながら訊くと、大袈裟な程に頭を縦に振る。
「さいごまでおのこりするの、あきとくんと、りこだけだからね」
 その言葉に少しの後ろめたさを感じながら、「仲間が出来て良かったじゃん」と言うと、莉子は二カッと笑う。血のつながりか。笑うとあの人に少し、似ている気がする。

3

 それから毎日のように、風間さんとは帰りが一緒になり、少しずつ話をするようになった。
 朝の送りは奥さんだけど、帰りは風間さん。転勤族で、急な転勤で移ってきたこの区で認可園に入る事が出来たのは奇跡だ、と言っていた。秋人君と莉子は同じ学年で、莉子は八月に、秋人君は十月に五歳の誕生日を迎える。
「前の保育園は、親同士の繋がりみたいなものが、結構密で、割とやり辛い面が多かったんですけどね。ここの園はいいですね。今の所、俺、守山さんとしか話してないですからね」
 そう言うと私の顔を覗き込むようにしていだずらそうな顔をして笑う。
「私はいつも朝は一番、帰りは閉園ギリギリで、顔を合わせる親御さんなんてほとんどいないから、私も風間さんとしか話してないですよ」
 お返しのように笑い掛けようとしたのだが、何故かそれがうまくいかなくて、妙に顔が強張ってしまった。少し似ているのだ。元夫と。その引き攣った顔を見られまいと、すぐに前をむく。
「知ってます? ここの商店街、七月から八月までの金曜日の夜に、出店が並ぶんです」
 私がそう言うと、風間さんはおもむろに胸ポケットからメモ帳を取り出し「メモしておきます」と細いペンで何かを書き込んでいた。
「もしかして風間さん、すごく真面目な方ですか?」
 何となく口をついて出てしまった言葉に、すぐに後悔する。真面目な事は悪い事ではないのに。
「真面目に見えます? だといいいんですけど」
 いたずらそうに笑うその顔は、真面目という言葉が似合わなかった。きっと仕事はできる、だけど気張らない人なのだろう。どんな人ともうまくやっていけるような、そんな人なのだろうと、勝手に想像してみる。
 母子家庭になり、私は話し相手を一人、失った。家に帰って、話し相手は娘だけなのだ。夫がいた頃は、夫の愚痴を聞き、私の愚痴も聞いてもらう、そんな関係が成立していたから、ストレスもたまりにくかったように思う。しかし夫と別れる間際、愚痴なんて言える状況ではなかった。
「おうちで莉子ちゃんと二人で、どんな話をするんですか?」
 駅が見えてきた。そろそろ話を切り上げなければと思い、なるべく短く文章をまとめようとする。
「保育園であった事を聞くだけです。それ以外にないですね」
 すぐに地下鉄に下りる階段まで辿り着く。それじゃあと口に出そうとした刹那、風間さんが口を開いた。私はふと足を止める。
「なら、守山さんの話を聞いてくれる人は、家にはいないんですね」
 同情の眼差しでもなければ侮蔑の眼差しでもない。ただただ現状を理解し、私に目を向ける。
「そうですね、いないです」
「じゃぁ商店街を通る間にぜひ、俺に話してください。短い時間でも話し相手になりますよ」
 にっこりと歯を見せて笑う風間さんの顔をみて、あろう事か赤面してしまう自分がいた。
「あ、ありがとうございます。それじゃ、あの、また明日」
 私はしどろもどろになりながら莉子の手を引っ張って、家に向かって歩いた。

 こんな感覚はいつ以来だろう。胸の中がやけに騒がしく、沈めようとしても呼吸は浅くなり、胸の鼓動は跳ね上がる。思わずぎゅっと握りしめた娘の手が反応し「いたい」と声が上がる。
「ごめんね」
 それしか言葉が出ない。
 夫に恋をしたのはいつだっただろう。夫と短い期間を過ごしたマンションが見えてくる頃には少し、胸の騒々しさは消えつつあった。
「ねぇママ、あきとくんのパパってかっこいいね」
 心を見透かされているようで、私は眉を下げて笑った。
「そうだね、かっこいいね」
「りこのパパはかっこいい?」
 思わず手に持っていた部屋の鍵を地面に落としてしまった。この子が父親の事を口にしたのは、これが初めてかも知れない。
「かっこよかったよ。とっても。さぁ、早くご飯にしよ」
 格好良かったよ。過去形にして話さざるを得ない事に、莉子はいつか納得しなければいけないのだ。

4

「守山さんの職場は、夏休み、あるんですか?」
 スーツのジャケットを手に持った風間さんは、いつもより少し痩せて見える。
「一応三日間はとれます。風間さんは?」
「僕も同じような感じです。どこか行かれるんですか?」
 莉子と秋人君は今日も飽きずに手をつないだまま、私達の前を歩いている。莉子のゆれる後ろ髪を見ながら「うーん」と考えた。
「実家に帰るぐらいですかね。車がないのであんまり遠出もしたくないですし」
 そうですよね、と返事が返ってくる。きっと風間さん一家は、どこかレジャー施設にでも出かけるのだろう。我が家に気兼ねして、本当の事は言わないかも知れない。
 夫は長男だった。夫の家では莉子が初孫で、それはそれは可愛がってくれた。今でも夫の実家には莉子を連れて顔を出す事がある。この夏休みは、私の実家にも夫の実家にも行かなければ。
 話の切れ端を聞いていたのか、秋人君がくるりと振り向いて「ディズニーランドにつれてってくれるんでしょ?」と訊いた。風間さんは困ったような顔で笑って「だ、そうです」と私に言う。
 私も笑って「そうなの? 楽しみだね」と秋人君に笑いかける。隣に口を尖らせている莉子がいた。
「莉子ちゃんも、夏休みはおじいちゃんおばあちゃんの所に行くんでしょ?」
 気を遣ってくれた風間さんの方に向いた莉子ははち切れそうな笑顔で頷く。
「あのね、おじいちゃんとおばあちゃんがふたりいるから、ふたついくんだよ!」
 風間さんは笑顔のまま顔を少し傾け、私の方を向いた。莉子の祖父母がふたりずついるという事に疑問を感じたのだろう。しかし生物的に考えると、それが普通ではないか。莉子には父と母がいて、またそれぞれに父と母がいる。当たり前の事だ。
 私は風間さんの笑顔を受け流し、「三日間、みっちりです」と腕まくりをしてみせた。

5

 今日は珍しく、お迎えの時間帯に雨が降っていた。今年の梅雨はなぜか、夕方にざっと夕立がくるか、夕方までに雨がやむパターンが多い。雨が降ると子供が喜ぶ。何故なら日頃着る事が出来ないレインコートを着て、傘がさせるからだ。
「あっという間に七月に入りそうですね」
 風間さんはアーケードに入ると、折り畳み傘の雨をパッパと払って畳みながらそう言った。
「そうですね、雨も嫌ですけど、暑いのも嫌ですね」
 手にはジャケットと折り畳み傘を下げ、もう片手には秋人君のカバンを持っている。私も同じような状態だった。園バッグが雨に濡れても大丈夫なバッグだったらいいのにと、いつも思う。雨の日は私がカバンを持ってやる事になるのだ。
「そういえば、変な事訊いてもいいですか?」
 やにわにそんな事を言いだすので、「変な事って何ですか?」と逆に訊き返す。
「この前、実家が二軒あるって言ってたのは、別れた旦那さんのご実家ともまだおつきあいがあるんですか?」
 無理もない。大抵の人がそう思う事なのだ。私は何人の人に説明したかも覚えていないぐらいのフレーズを口にする事になった。
「死別なんです。病死で、この子がお腹にいる時に死んだんです」
 そして多くの人がするように、くちをぼかんと開けて、何も言えないでいる風間さんに「あの、気は遣わないでください」と予め言っておいた。
 夫は急性骨髄性白血病で死んだ。予後が知らせれ、その通りに息を引き取った。娘の出産には届かなかった。せめてその手に抱かせたかった。検診のたびに病室に超音波写真を持って行ったが、妊娠七ヶ月頃から夫はもう、意識がもうろうとしていて、娘の姿はもうその目に映っていなかったかもしれない。
「あの、勝手に離婚だと思い込んでて.....すみません」
「いいんです、十人いたら十人が離婚だと思いますから」
 私は笑ってみせたけれど、風間さんは俯き気味になってしまった。
「辛い、ですね」
 俯いたままぽつり、と言われ、私は溜め息にも似た返事を返す。
「まぁ、いつか終わりが来ると分かっていて結婚しましたし、こうして娘は元気に生まれましたし、父親がいなくて辛いのはきっと莉子だと思いますよ」
 ポニーテールの髪は左右に揺れて、まだ伸びきらないうなじの髪が遅れてついて行く。秋人君とは相変わらず、手を繋いだままだ。
「俺もね、今の嫁さんの前に付き合ってた婚約者を、事故で亡くしてるんです」
 今度は私が唖然とする番だった。自分だけが不幸だと思っていた訳ではないが、それでもどこかに申し訳ないような気持ちが湧いてくる。
「そうなんですね、それもお辛いですよね」
「まあ俺の場合はもう、嫁さんいますしね。乗り越えたって事ですよ」
 少し翳りを見せたままの笑顔が、胸の奥に響く。その顔は、奇妙な程風間さんに似合っていて、暫く見とれてしまった。
「あしたは、りこがさきにパズルやるからね」
「いいよ、じゃぁあきはブロックやるから」
 二人の中で何かの取り決めがなされたようで、私と風間さんは笑いかけ合い、「それじゃ」と挨拶をして別れた。

6

「すごい数ですねぇ」
 出店が並ぶ商店街の入り口に立つと、風間さんはそう言う。
「毎年、金曜日は商店街を通らず帰りたくなりますよ。子供がうるさくて」
 そう言って笑うと「確かにそうですね」と笑い返してくる。
「りこは、あのはねるやつ、はねるボールとるやつ、やりたい」
「スーパーボールでしょ? あきもやりたい!」
 風間さんは手を繋ぐ二人の頭を優しく撫で「よし、じゃぁ今日は特別にりこちゃんとあきの二人にやらせてあげよう!」そう言って歩き出す。
「一回、やらせてあげてもいいですか?」
 私は断る理由もなく、「ありがとうございます」と言うと、「お、あそこだ!」と風間さんはまるで自分が子供になったみたいにはしゃいで、スーパーボールすくいの出店に走って行った。

「ママみて! こんなにとれたよ!」
 透明のビニール袋に四つのカラフルなボールが入っていた。私は改めて風間さんに「ありがとうございます」と言い、「莉子、ありがとしたの?」と問う。
「あきとくんのパパ、ありがと」
 きちんと目を見て言えたので、頭を撫でてやる。莉子は袋を目の前にかざして見入っている。
 私と二人でここを通っても、「こういうのは絶対にやらせないからね」と初めに釘を刺したからか、莉子が出店の物を欲しがる事は殆どなかった。道端で、スーパーボールで遊んでいた子供でも見かけたのだろう。こんなものが欲しかったのか。子供の考えている事はよく分からない。
 それから金魚すくいの水槽を見た。さすがにこれが欲しいとは言わなかったが、赤や黒に彩られた小さくて奇麗な魚に、二人はじーっと見入っていた。
 今日は縁日の初日とあって、人で溢れていた。対面した出店の間を人が行き来するので、自然と風間さんとの距離が近くなる。
 ドン、と身体の大きな高校生ぐらいの男の子が私にぶつかった拍子に、私はバランスを崩して倒れそうになった。寸でのところで風間さんに支えられ、醜態をさらさずに済んだ。
「大丈夫ですか?」
「あの、ありがとうございます。ぶつかっちゃって」
 そう言って無意味に髪を触ると、私を支えるために腕に添えられていた風間さんの手が、私の手の平に触れ、そのまま握りしめられた。
 訳が分からなくて私は真顔で風間さんを見ると、風間さんは微笑んだ。その微笑みの意味も分からないけれど、それよりも私は自分の顔色の変化が恥ずかしくて、俯いていた。
 金魚に見飽きた子供達は立ち上がり、綿飴ができる様子を見学し、そのうち地下鉄の入り口に到着した。
 いっその事、接着剤でとめておきたい風間さんの手を、自分から離した。少しだけ涼しい風が、地下鉄の階段からのぼってくる。
「あの......」
 うまく言葉にできなくて、黙ってしまうと、風間さんがふっと笑うのが聞こえた。
「すみません、何か急にそんな気分になっちゃって。気を悪くされたのなら謝ります」
 私は首をぶんぶん振って「あの、嬉しかったです」と素直に言うと、また頬がさっと上気する。
 また風間さんが溜め息みたいに笑って、「それじゃ」と地下鉄の階段を降りて行った。
「ママ、ねつがあるの? ほっぺたがあかいよ?」
 子供には分からない事、そう思いながら「大丈夫だよ」と言って彼女の手をとった。いつも握っているこの小さな手とは比べ物にならない、風間さんの手は私の手の平を包む大きな手だった。
「恋の病」そんな言葉を娘とやりとりするのは、いつ頃になるのだろう。ふとそんな事を思う。

7

「こんばんは」
 いつも通りドアを開けると、秋人君の泣き声が聞こえたと同時に、莉子の膨れっ面が飛び込んできた。
「ママ、あきとくんがパズル取ったんだよ!」
 私は状況が把握できず保育士さんに目を向けると「おもちゃの取り合いで、莉子ちゃんが秋人君を叩いちゃったんです」と言う。
「莉子、叩くのは無しでしょ!」
 丁度風間さんが私の後ろから入ってきた。
「秋人、どうした?」
 私が一通り説明し、すみませんと謝った。
「子供同士の事ですから。秋人、男なら泣くな」
 それでもずっとぐずったままの秋人君と莉子は、今日は手を繋がずに園を出た。秋人君は風間さんに「抱っこ」とせがみ、風間さんは困った顔をしている。
「あきとくん、あかちゃんみたいだよ、だっことか」
 莉子、と嗜めるように言うけれど、女の子って皆こんな感じなのだろうな、と思う。自分の方がいかに大人か、知らしめたくて仕方がないのだ。中身は同じ子供なのに。
「パパ、抱っこ」
 やれやれ、といった体で「よし、じゃあ一回だけやってやる」と言うと、まるでおもちゃでも持ち上げるみたいに秋人君をひょいと持ち上げ、肩車をした。
 それまで泣き顔だった秋人君の顔は一気に晴れて「みてみて、りこちゃん、こんなにたかいんだよ!」と莉子に言葉を落とした。莉子は勿論それが面白くなくて、また膨れっ面をさらす。
 持ち上げた時と同じように軽々と秋人君を下ろすと、「莉子ちゃん、おいで」と莉子を呼んだ。
 莉子は秋人君と同じようにひょいっと持ち上げられ、風間さんに肩車をしてもらった。
「あぁ、すみません」
 私が謝ると「いいんですよ、女の子を抱っこできるなんてないですからね」と言ってケタケタ笑った。
 秋人君の上にお子さんはいないと言っていた。二人目を考えたりはしないんだろうかと、ぼんやり考える。もし夫が存命していたら、私は二人目がほしいと思っただろうか。秋人君のように、少し甘えん坊の男の子がいても、いいかもしれない、なんて思う。今や叶わない夢のような話になってしまったが。
「あきとくんのパパが、りこのパパだったらいいのになー」
 子供らしい無邪気な言葉が、私にとっては酷く残酷な言葉になる。私は風間さんの方にやっとの思いで目をやると、彼は私に笑いかけ、莉子に「そうだったらいいね」と言ってくれた。
「りこちゃんのママがあきのママだったらいいのになー、だってあきのママ、おこってばっかりなんだもん」
 ほっぺたをいっぱいに膨らませた秋人君の頭を撫で「りこちゃんのママも、おうちでは怖いんだぞー」と言うと、秋人君は甲高い声で笑って逃げた。
「子供は自由でいいですよね」
 やっと手を繋ぎ始めた二人を後ろから眺めながら風間さんが口を開いた。
「そうですね、言いたい事言い放題ですよね」
 顔を見合わせて笑う。やっぱり、夫だったあの人に、笑顔がよく似ている、と思う。全くの別人なのだけれど、笑った時の優しいまなざしと、目尻に出来るしわの形、口角のあがり方がそっくりで、胸が苦しくなる。
「大人っていうのは駄目ですね。とくに結婚しちゃうと、とたんに自由がなくなっちゃいますからね」
 風間さんは私の瞳の中を覗き込むようにして言うので、私は目を逸らす事が出来なかった。
「自由、ですか......」
「誰それのパパだから、誰それの旦那だから、まるで会社の肩書きみたいについてくるんですよ」
 私は黙って頷く。それしか出来なかった。私は莉子の母であるけれど、誰の妻でもない。何の縛りもないのだ。それが幸せな事なのかどうかは、人それぞれ、異なるような気がしてならない。

8

「りこちゃんにこれ、あげる」
 ピンク色の包装紙に包まれ赤いリボンがかけてある。お店で買った物である事は一目瞭然だった。
「風間さん、これは?」
「莉子ちゃんのお誕生日、明日ですよね?」
 出店の行列を避けた道を歩く私達の横を、一台の自転車が通り過ぎた。
「えぇ、わざわざ買ってくださったんですか?」
 お礼も言わずにいきなり包装紙を破り始めた莉子に「莉子!」と言うと、それだけで分かったようで「ありがとう、あきとくん、あきとくんのパパ」とお礼を言う。
 改めて私が風間さんに「ありがとうございます」と礼を言うと「気にしないでください」と笑った。
「あ、ママのぶんもあるよ、ほら!」
 同じ柄のタオルハンカチが大きさ違いで入っていた。
「あの、これは......」
「ママ誕生五年って事で。僕からのプレゼントです」
 人にプレゼントをもらう事から、六年も遠ざかっていた事に気付く。最後にもらったプレゼントがタオルハンカチだった。「病院の売店にはこんなもんしか置いてないから」と言っていた。ぼんやりと思い出し、気付くと涙ぐんでいる。あせって顔を上に向けて誤摩化そうとするが、「何か思い出させちゃいましたか」と気遣わしげな声を掛けられ、さらに込み上げてくる物がある。
「夫に、最後にもらった誕生日プレゼントが、タオルハンカチだったんですよ」
 目尻に残った涙を人差し指でぬぐい、笑いかけた。風間さんは少し翳りのある顔で笑い「そうでしたか」と何度か頷いた。
「ありがとうございます。あの、奥様にもお礼をお伝えください」
 風間さんは少し目を見開いて、それからいたずら気な顔に変わった。
「嫁には内緒で買ってますから、いいんですよ、言わなくて」
 苦笑いにしかならなかったけれど、笑う事は出来た。笑う事しか出来なかった。風間さんが何を考えているのか、私は彼の思考に追いつけないでいた。
 風間さんには家庭がある。奥様がいる。それは分かっている。だから口にはださない。それでも風間さんの中に夫の影を見てしまう私は、風間さんに惹かれているのだ。それゆえに、手を握られたり、プレゼントをもらったり、笑いかけられる事にすら、何か意味を見いだそうとしてしまう。
「莉子、人参買い忘れたから、お店寄ってから帰ろう」
 苦し紛れにそこにあったスーパーに縋った。

9

「守山さんに言わなきゃならない事があるんです」
 園から出るとすぐに、風間さんが口を開いた。
「はい?」
「実は、今月いっぱいで、保育園をやめるんです」
 私は何も言えないで、風間さんの翳る横顔を見つめていた。理由を聞く気にもならなくて、ただただ、商店街の明かりを受ける彼の横顔を見つめていた。
「マレーシアに出向する事が決まったんです」
「マレーシア......」
 その言葉は知っているのに、全く実体を伴わない言葉として頭の中を泳ぐ。
「りこ、マレーシアのこっき、しってるよ!」
 大人同士の会話も案外耳に入っているのだと感心する。りこはそれだけ言うと、秋人君と国旗の話をし始めた。
「急ですね」
「えぇ、ここに来たのも急でしたしね。人材不足みたいなんですよ、会社」
 それは風間さんの優秀さを表しているのだろうと思う。とても優秀なパパ。とても優秀な夫。とても優秀なサラリーマン。どの肩書きをとっても、風間さんには似つかわしいなぁなんてうっとりと思う。
「だから一緒にこうやって帰るのも、あと一ヶ月なんです」
 意味深な顔でこちらを向くので、私は笑い返すのが精一杯で、それから下を向き、無意味にカバンを肩にかけ直した。

「秋人君は何のキャラクターが好きなの?」
 百貨店の子供用品売り場には子供を誘惑する物が沢山あって、莉子はなかなか質問が耳に入って行かない様子で困る。
「聞いてる? 秋人君は何が好きなの?」
「カレーじゃないかな」
 こうなってくると修正がきかない。一度トイレの前まで手を引っ張って来た。
「ちゃんと聞いて。秋人君にプレゼントあげるんだから。何のキャラクターが好きなの?」
「あきとくん?」
 無言で頷くと「ウルトラマン」と答える。このひと言を聞くのにどれだけの時間を要したか。
 売り場に戻り、ウルトラマンの大判のハンカチを買った。おもちゃからの誘惑にまんまと引っかかっている莉子を引きずるようにして紳士服売り場に向かい、そこで男性用のシックなハンカチを買った。奥さんの事を考えると、あまり目立たない物がいいだろうと考えての事だ。

10

「こんばんは」
 保育園のドアを開けると、いつもと同じ、秋人君と莉子が遊んでいた。秋人君は自分のカバンから何かを持って来て「りこちゃんのママ、これみて!」と紙を開いてみせた。
 字が書ける子は字を、絵が描ける子は絵を、線しか掛けない子は線を書いた寄せ書きだった。
「みんなにもらったの」
「そう、よかったねぇ」
 頭を撫でていると、風間さんがドアを開けて入ってきた。こんばんはと挨拶をする。
「先生、どうもお世話になりました」
 そう言って菓子折りか何かを渡している。その間に莉子と秋人君が帰りの支度をするのを私は出口で見ていた。
 また明日から、莉子は一人で遊んで待つ事になるのか。ほんの数ヶ月だったけれど、莉子にとっては楽しいひとときだったに違いない。
「明日からまた一人になっちゃうね」
 保育士の一人が莉子にそう言うと「りこ、ひとりでもだいじょうぶだよ!」と強気に言っている。本当は、お友達と遊ぶ方が楽しいのだ。それは当たり前の事なのに。誰に似たのか強がりで。
 私と子供二人は先に園の外に出て、後から風間さんが門から出てきた。
「いやぁすみません、お待たせしました」
 私は莉子にプレゼントを手渡すと、莉子は「あ、そうだった」と独り言を言ってから「これ、あきとくんにあげる。あと、あきとくんのパパにもね」と言って秋人君にプレゼントを渡した。
「パパ、あけてみていい?」
 振り向いた秋人君に、笑顔で頷いてみせる風間さんの眼差しはやはり、あの人に似ている。
「あ、ウルトラマンだ! パパみて、ウルトラマンがこんなにいっぱいかいてある!」
 大きく広げたハンカチを裏に返し表に返し見ている。喜んでくれているようで、良かった。風間さんは秋人君に手渡されたグレーのチェックのハンカチを見て、「俺までいただいちゃってすみません」と言う。
「いえいえ、短い間でしたけど、お世話になりましたので、せめてものお礼です」
 秋人君はそのハンカチを仕舞うつもりはないようで、空になった袋だけを風間さんに「はい」と渡す。思わず笑ってしまった。
「こういう奴なんですよ。俺はゴミ箱か、っていう」
 そう言いながら空き袋にハンカチを入れて、カバンに仕舞った。
「莉子はいつも最後の一時間、一人で遊んでましたから、秋人君が入園して、楽しかったと思いますよ」
 風間さんの横顔に向かってそう話しかけると、「そうですかね」と少し眩しそうな顔をした。
「守山さんは、どうでした?」
「へ?」
 こちらを向いた風間さんは、笑顔のままで、どう解釈したらいいのか分からない質問をぶつけてきたので、私は素っ頓狂な声をあげてしまった。
「毎日一緒に帰ったじゃないですか、地下鉄まで。俺はすごく楽しかったんですよ。守山さんはどうだったかなって」
 一瞬足を止めそうになったけれど、こらえて歩みを続け、口を開く。
「私も楽しかったです。風間さんと話してるの凄く楽しかったです」
 そう言うと、満足そうに彼は笑った。途端に恥ずかしくなって、私は真っ赤になった顔を俯かせて歩いた。しばらく、沈黙が流れた。
 子供達は、今日を逃したら一生会えないかも知れないと言う事はあまり理解していないようで、いつも通り手を繋いで、お友達の話やお勉強の話に花を咲かせている。その後ろ姿を見ながら、あんな風に男の子と手を繋いで歩いていたのは、いつまでだったかと考え、ふと、七月の縁日で風間さんに手を握られた事を思い出した。
 その時にはもう、地下鉄と我が家の分岐点に辿り着いていた。
 風間さんはこちらへ身体を向け、対面する形になった。子供達はまだ何か喋っている。
「こんな事言うと、凄く混乱させてしまうかも知れないけど、俺、言っておきたいんです」
 二三度瞬きをし「はい」と先を促した。風間さんは私から目を逸らすと一度深呼吸をして、それから私の目をじっと見た。
「もっと違う所で、違うタイミングで守山さんに出会ってたら、俺は守山さんの手をずっと握って離さなかったかも知れない。それだけ、言いたかったんです」
 胸の奥がじんと痛んで、目の前が青く縁取られて行く。そのうち視界がぼやけてきて、あ、私、泣くんだ、と自覚する。その瞬間に視界がクリアになって、それは涙が重力に耐えきれなくなった証拠だと分かる。風間さんは彼のカバンから何かを取り出し、私の頬にあてた。私がプレゼントしたハンカチだった。
「初めて使うのが守山さんの涙を拭くためだなんて、何かちょっと嬉しいし、悲しいな」
 そう言って、少し翳った顔で笑った。涙を流す私を、莉子が不思議な顔をして見ている。
 涙が噴き出したのは一瞬で、それ以上は出て来なかった。
「それじゃぁ、お元気で」
 すっと差し出された風間さんの手に、私も手を差し出した。彼は私の手を両の手で挟み、じっと私の目を見つめた。私は少しひしゃげた笑顔で彼を見た。
 それが最後だった。
「ばいばい」
 秋人君がそういうので私も「バイバイ」と言って、莉子と一緒に手を振った。

「ママ、今日は手が暖かいよ。何で?」
 不思議そうに顔を傾けて訊ねる莉子に、私は言った。
「お父さんの手って、これぐらい暖かいんだよ」
 ふーん、と言って私の手をぎゅっと握った。

 そろそろ父親の写真を見せて、あなたのお父さんは天国にいる、そう話をしなきゃな、と思い始めた。

FIN.(あとがきあり)


宜しければご感想、誤字脱字報告等お寄せください。 web拍手 by FC2