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 東京駅の新幹線改札は、年末ということもあって帰省客でごった返している。乗車券と電光掲示板を照らしあわせた瑠璃は、やや急ぎ足で改札を潜ると、ホームへ続く階段を駆け登る。
 指定席をとる程の金銭的な余裕はなかった。
 アルバイトに行かなくなってから1ヶ月。真面目に働いていた頃の蓄えを少しずつ崩しながら生活して言える瑠璃にとって、指定券の数千円も無駄にできない。
 幸い、上越新幹線の普通席の列は、然程長く伸びておらず、最後尾に着くと、ボストンをホームに降ろした。実家に帰省する間にも、同級生と顔を合わせたりする事を考えて、毎日違う服を着ることができるよう、服は多めに詰めてきた。膨れ上がったボストンバッグは、見事に形を変形させている。
 色素が薄い瑠璃の長い髪が、到着した新幹線の風圧で一瞬、舞った。速度を落とした新幹線は、呼吸するような音を出し、扉が開かれる。
 室内清掃を終えた車内に入ると、自由席はさすがに短時間で席が埋まる。瑠璃は通路側に席を確保すると、網棚の上にボストンバッグを詰め込みコートを脱ぐと膝に掛け、クッション性の高い座席に着席した。次から次へと乗客が流入してくる。この分では指定席も満席であろう。そう考えながら、スマートフォンに巻きつけたイヤフォンを解き、耳に装着した。
 ややあって、通路に男性らしき人影が立った。僅かに色あせたデニムと、ツートンカラーのダウンジャケットが視界の端に動いている。
「あ」
 男は声を発し、瑠璃の頭上で何か重い袋でも落ちるような音がする。すっと視線をあげると、男は荷物を棚に上げようとし、落としそうになったらしい事が分かる。
 隣に座る男は、腕組みをして既に目を瞑っている。仕方なしに瑠璃は立ち上がると、男が持つ荷物を下から押し上げる形で補助する。
「助かりました、ありがとう」
 それまで一瞥もくれなかった男に視線を移すと、目鼻立ちが恐ろしく整った、世に言う美青年だった。すっと長く伸びた切れ長の目に、高い鼻梁、肌には余分なものが一つもなく、陶器の様相を呈している。まるで作りこまれた彫刻のように、美しいその顔に、無意識のうちに釘付けられる。
「えっと、何か?」
 男は俄に困惑の顔を見せ、眉根を寄せている。
「すみません、何でもありません」
 瑠璃も負けじと美しい顔をやや傾けて彼に言うと、再びイヤフォンを耳にした。

 実家がある駅までは1時間弱。音楽を聴きながら目を瞑る。
「俺と一緒になろうよ」
 叶人はそう言った。結婚すれば楽かもしれない。叶人の稼ぎは悪くない。彼の収入だけで行きていける。私はイラストの仕事を細々とやっていく事ができれば、それでいい。
 クリスマス、プラチナの指輪とともに渡されたその言葉に、瑠璃は首を縦には振らなかった。振る事が出来なかった。
 愛していないのだ。叶人とは成り行きで付き合ったまでで、好きでも何でもない。人よりも多少優しいし、人よりも多少見た目が良い、自分によってくる男は数多だが、その中でまともな人間を選んだ末が、叶人だった。
 付き合い始めた当初こそ、仲睦まじい恋人を装っていたが、二年経過した今、少なくとも瑠璃は、熱が冷め切ってしまっている。結婚をする気など毛頭ない。
 そろそろ別れるべきだろうか。替えならいくらでもいる。

 ふと重い瞼を持ち上げると、見覚えのある景色が白銀に覆われていた。心なしか、新幹線が速度を落とし始めている。
 弾かれたように立ち上がり、ボストンバッグを棚から下ろすと、ロイヤルブルーのコートを羽織る。完全に停止しつつある車両とは対照的に、瑠璃は加速を付けて乗降口に向かった。途中、幾人かの乗客に肩が当たったが、気にしていられなかった。降りそびれてしまう。
 乗降口に到着した時、タイミング良くドアが開いた。顔全体を刺すように、凍て付く程の空気が向かってくる。意味もなく息を止めてしまう。今呼吸をしたら、気管支まで凍りつく、そう深層心理が判断したのかもしれない。
 階段に向かい歩き出す。大きなボストンバッグにバランスを崩すと、一度カバンを持ち直し、雪国には見合わないパンプスの音が響く静かな駅を歩く。
 後ろから、人の足音が着いて来る。然程気にしていなかったにも関わらず、その足音は速度を早め、確実に瑠璃に向かって近づいてくるのが分かる。つと足を止めた瑠璃は、振り向いた。
「あの、これ」
 先ほどまで隣に立っていた男が手にしているのは、瑠璃のスマートフォンだ。無意識にデニムのポケットを探るが、そこにある筈のスマートフォンが無くなっていた。
「俺とぶつかった時に落ちたんです」
 男はそう言い、ずいとスマートフォンを差し出す。
「あ、ありがとうございます」
 おずおずと手を伸ばし、寒さで薄っすら赤くなった指先にスマートフォンが触れると、更に冷たくなったそれを掴んだ。
 顔を上げると、男は笑顔という名に相応しい笑みを浮かべ、「よかった」と安堵を漏らす。その顔が、徐々に笑みを消し、代わりに困惑気に変化した。
「何?」
 言われてふと気づく。男に見とれている自分に気づく。こんな事は初めての経験だ。自分よりも美しいかもしれない男に出会った事。男に見とれたこと事。
「あの、地元はこの駅なんですか?」
 狼狽えながらもその場を取り繕うような笑顔を咲かせ、訊ねると、男は以外な返答をした。
「俺は新潟。終点まで行くんだ」
 即座に謝罪の言葉が口をつく。男はこの駅で降りるべきではなかったのだ。それに、持っていたはずの大きなリュックが見当たらない。
「棚に上げたリュックはもしかして……」
「うん、まぁ後で新潟駅に連絡して、取り置いてもらうからいいよ。それより電話がないと、何かと困るでしょ」
「助かりました、ありがとうございます」
 瑠璃の言葉に、満足気に頷いた男は、そういえば、と切り出す。
「東京駅から乗ってたよね? 東京の人なの?」
 男は尻のポケットから、使い込んだ革製の財布を取り出すと、中を覗いた。ややあって瑠璃は首肯し、続ける。
「高円寺なんです。中央線の」
 あぁ、と感嘆に近い声を上げた男は、「俺、阿佐ヶ谷」と手を差し伸べる。近い、それだけで握手を求めてくる男に対し、嫌悪の感情は沸かない。それどころか、この男に触れる事ができる。感じた事のない高揚感を得ていることに気づく。触れた手は、氷のように冷たく、白い。女性のようだ、頭の片隅が囁き出す。
「綺麗な、手ですね」
 場違いな言葉は不随意に口から漏れだし、思わず手の平で口を覆う。
「へぇ、そんな事言われたこと無いけど嬉しいよ、ありがとう」
 手を擦った男は、嬉しそうに頬を掻く。
「ここで会ったのも何かの縁かも知れない。これ、俺の名刺だから、今度食事にでも行こう」
 江口駿、と明朝体で書かれた名刺の肩書は、「代表取締役社長」。瑠璃は目を丸くした。
「社長さんなんですか?」
「まぁ、ベンチャーだけどね。今日のお礼に、食事に付き合って、って事にしておこうかな」
 財布を再びポケットに仕舞うと、瑠璃に真っ直ぐな視線を向けた。瑠璃にはそれが強すぎて、不意に下を向く。
 男なんて皆同じだと思っていた。自分に向けられる視線は、羨望の眼差しと、媚び諂う汚らわしい視線。でも駿は違う。自信に満ち溢れ、それでいて傲慢ではなく、卑下する訳でもない。これが一目惚れなのか。瑠璃は俯いた顔をやや持ち上げ、「是非」とまるで呟くように言ったけれど、通過する新幹線の風音で、その声は掻き消された。

「まーだ就職しない訳?」
 二十年近く聞いていた筈の母の声が耳障りに聞こえ始めたのは、何年前からだろうか。自分に後ろ暗い部分があるからこそ、母親の声が鋭く突き刺さる。瑠璃はポーションミルクをコーヒーに落としながら、「そうだねぇ」と曖昧な返答をする。
「そうだねぇ、じゃないでしょ。折角大学出てるのに、イラストレータになるとか何とか。小学生の夢じゃないんだから。現実を見ろ、現実を!」
 ポーションミルクは、弧を描いて中央に消えていく。いずれ母の小言は疲れ果て消え失せ、父親の愚痴にでも変わるだろう。そう思うと瑠璃は、不要な争いを避けるためにも、曖昧な返答を続けた。
「バイトだってどうせやめたんでしょ。お金はどうしてるの」
「バイトでためたお金でやりくりしてるよ。なくなったらバイトするから」
「何で一つのことをずっと続けられないの!」
「そうだねぇ」
 痺れを切らしたとばかりに額に手の平を当てると、キッチンへと入っていった母は、四年制の大学を出ていれば、何処にでも就職ができると思っていたらしい。瑠璃は端から就職をする気など無く、バイトをしながらイラストの仕事を探すつもりで、単位だけ取得したようなものだ。
 二度三度、モデルの仕事をしないかとスカウトが来た。息が長いと思えないモデルの仕事を引き受ける気はさらさらなかった。しかし、息が長いも何も、就職すら出来ない今の状況を鑑みるに、美貌を活かせるモデルの仕事に就く事も悪くなかったかもしれないと、今更ながらに思う。
 容姿には自信がある。純血の日本人にもかかわらず、色素の薄い瞳と子供のそれのように靭やかな栗色の髪、肌には余分な色が一切ない。色は白く、手足が長い。顔も小さく世に言うモデル体型。
 そんな容姿に惹かれる男共が掃いて捨てるほどいる。瑠璃の周りにはひっきりなしに男が群がった。その中で、中学からの旧知の仲である叶人を選んだ瑠璃は、「よく知っているから」という理由で選んだ事を、叶人には伝えていない。

 昼間貰った名刺を取り出し、記載されてるメールアドレス宛てにメッセージを作成する。簡単なお礼のメールに止めようとするも、送信するのを躊躇い、「送信」をタップ出来ない。踏み込んだ関係になるにはどうしたらよいか。瑠璃は十一桁の携帯番号を添え、僅かに震える指先で、「電話待ってます」とフリックし、送信をした。
 かつて男にメールを送るのに、これほど緊張したことがあっただろうか。必要最低限の言葉しか入力しない瑠璃が、メールらしいメールを作成、送信したのは何故だろうかと考える。
「一目惚れじゃないの?」
 誰とも無しに、暗く空虚な部屋に言葉を投げる。
 どこからか、土嚢を落とすような低音が聞こえてきた。何処かの屋根の雪が、重力に負けて落ちたのであろう。
「瑠璃の実家の雪が見たい」叶人はこう言った。自分を騙し続けながら生きるのはもう限界だ。東京に帰ったら全て清算しよう。手にしていたスマートフォンを充電ケーブルにつなぐと、枕の位置を修正し、横向きに寝返った。
 まるで雷が光るように、スマートフォンのLEDライトが着信を告げる。振動する毎に光るLEDが、部屋の壁に反射すると、一瞬、昼間のような明るさになる。
 表示されたのは、登録されていない番号。それで大凡、相手がわかる。大きく深呼吸をした瑠璃は、軽く咳払いをすると通話釦をタップする。
 予想は的中し、電話の向こうから、まるで声優のそれのように響く声が届く。
 電話の内容は仕事の休みはいつ取れるか、どこで食事をするかという内容だった。無職でいる瑠璃は、自宅で仕事をしているからと嘘をいい、いつでもいいと伝えた。
「俺は夜なら時間作れるから、じゃぁ水曜の夜にしよっか」
 耳元で囁かれるような声に、思わず目を瞑る。それだけで、敏感な部分が湿り気を帯びている事に気づき、横たわる脚を組み替える。
 通話を切った後、暫くは耳を擽られるような奇妙な感覚に捕われる。湿り濡れる下着に指を這わせ、声を思い起こす。そのまま快楽に溺れるように、果てた。

 その夜、奇妙な夢を見た。
 学生服を着た瑠璃と叶人の前に、女子とも男子とも分からない、同じ制服を着た人間が一人、ぼうと立っている。瑠璃は叶人の手を握り、目の前の人間に一瞥を遣り、その場を立ち去ろうとする。
 その人は、瑠璃の背に向け言葉を投げる。
「みんなのお人形さん」
 その声は、声変わりをしていない男の子の声か、落ち着いた女の子の声か、判別がつかない。しかし振り向かないまま瑠璃は、その場を後にする。叶人の手を引き歩き出すと、直ぐ目の前に広がる大きな崖に、足を踏み込んでしまう。
 底なしに見えた崖の下には、先ほどの人間が立っている。落ちてきた瑠璃を腕に入れ、「僕のお人形さん」という。
 そこで初めて、その人間が男の子なのだということが分かる。

 実家に三泊し、東京へ戻った。
 新潟では寒いぐらいだったロイヤルブルーのコートも、東京の冬には調度良い。
 叶人には、帰る日を知らせてあった。叶人は、東京駅の新幹線改札でダウンジャケットのポケットに手を挿し入れて待っていた。
「お帰り」
 頼んでもいない出迎えを何処か不快に思いつつ、おざなりな態度で歩き出す。日頃からの瑠璃の態度からすれば珍しくもない。叶人は鼻歌を口ずさみながら瑠璃の後を歩いた。
「皆に会ったの?」
「まぁね、近場の子には会った。叶人によろしくって」
 ふうん、前に前にと差し出すつま先を見ながら、叶人は相槌を打つ。
「なぁ、正月は何する? 今年こそは初詣行こうよ」
「遠慮しとく」
 あっさり断る瑠璃の顔を覗き込み、「何で」と叶人は食いつく。
「毎年何だかんだ理由つけて、初詣行かないよな」
「だって寒いし」
 例年はそうだった。寒さを理由に初詣を断っていた。わざわざ寒い中外に出て、長蛇の列に並んで小銭を撒いてくる。そこに意味を見出せなかった。
 しかし今年は違う。行くのなら別の人間と、初詣に行きたいのだ。花見に行きたいのだ。誕生日を祝いたい。クリスマスを祝いたい。
「ねぇ、うち寄ってって」
 翳っていた叶人の顔が一瞬にして晴れる。家に寄らせる理由が申し訳なくて、瑠璃は叶人の顔を見ずに、前を前を向いて自宅に向かった。

「なぁ、今日の夕飯、鍋にしない?」
 すっかり座り慣れた緑色の座布団に胡座をかき、瑠璃がコートを仕舞うのを目で追っている。返事をしない瑠璃は、「あのさぁ」返事の代わりに別の話を切り出した。ドレッサー代わりに使っている棚の引き出しを開け、ベロア調の四角い箱を取り出す。ほとんど手を付けていない紺色の箱は、乱れのない毛並みに白熱灯の光を宿し、無意味に輝いている。瑠璃はそれが気に食わず、目を逸らした。
「悪いんだけど、これ、返す」
 突き出した四角い箱に見覚えがある叶人は、短く息を吸い込み、そこに立つ瑠璃を見上げる。
「それって、結婚できないって事?」
「結婚できないっていうか、する気ないし」
 口を開け閉めしつつ、叶人は顔を強張らせ、次に紡ぐ言葉を探す。
「えっと、じゃぁ暫く様子を見ようって、そういう事?」
 何かに縋るような視線が、瑠璃には不愉快で、不意に視線を逸らす。
「あのさぁ、好きな人ができたんだ。別れたいの」
 真顔で二三度瞬きをし、叶人はやっとの思いで口を開く。
「……誰」
 口で説明しても信用しないかもしれないと考えた瑠璃は、駿がしていたのと同じように財布に入れた名刺を取り出し、小さな炬燵テーブルにそっと置いた。
「最近知り合った人。悪いけど、気が変わることはないから」
 汚いものでも触るように、指先でその名刺を摘み、叶人は「へぇ」と漏らす。瑠璃が名刺を取り返そうとすると、すっとその手から離れるように、叶人は横を向いた。
「あのさ、この名前、見覚えがあるんだけど」
「は? 訳分かんない事言わないでくれる? 返して」
 手を差し出すも、叶人は名刺から目を離さない。じっとその面を見つめ、「どっかで見たよな」と呟いている。
「でさ、叶人が見たことがある名前でも、私は知らないから。好きである事にも変わりがないから」
 一歩踏み出して、叶人の指先から名刺を抜き取ると、元あった財布の中に挿し入れる。
「だから、帰って。指輪が返したかっただけだから。帰って」
 見上げた叶人の視線は、恨みがましいという言葉が相応しい程に女々しくて、瑠璃は吐き気を催す。
「帰って下さい」
 再度、形式張って言う言葉に、諦観の態で片手をついて立ち上がった叶人は、「気が変わったら連絡して」と捨て置くと、玄関に向かった。
 これで終わりだ。新しい恋が始まる。前向きな恋。本当に好きだと思える人間に、自分の思いをぶつけることが出来る恋。普通の恋愛。
 玄関から外に出る叶人の背中を見ながら、瑠璃はほくそ笑んだ。

(続く)


頒布版と一部異なる場合がございます。

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