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1:歓迎!

 白く塗られた壁を、紺色の広い屋根が覆い、新緑の香りを運ぶ風がそこを通り抜けて行く。広いルーフバルコニーからは眼下に川の流れが見える。川は、四季折々の変化が楽しめ、人足が絶えない。
 四角いタイルの様な飛石を歩いて辿り着く先には、海外の映画に出てきそうな赤いポストが、細長い支柱に支えられて立っている。
 茶色い木製の重厚な玄関ドアを開けて中に入ると、天窓から光が差し込むダイニングキッチン。奥には、赤いソファセットが目を引く、大きな窓に面したリビング。
 玄関の右手には少し短い廊下があり、水色に塗られたドアが仲良く二つ、並んでいる。
 リビングから木製の階段を上がると、ここにも水色のドアが二つ。
 ここは「バードハウス」と名がつけられた、横浜の丘の上に建つシェアハウスだ。

 一階の、一番広い個室の住人、横山葉子は、幼い頃から大切に手入れして弾きこんできたピアノが置けるようにと、他の部屋より少し高い家賃で、少し広い部屋を借りている。
 ギターも少々嗜むので、騒音(と呼べるレベル)の観点から部屋は広い方が良い。
 葉子は見た目は平凡、少々男勝りな性格で、言葉遣いも荒っぽい。男性遍歴は皆無だ。彼氏いない歴が年齢。

 二階の右手にある部屋には、葉子の同僚である山下スミカが生活する。スミカはバードハウスのオーナーである資産家の孫で、カナダ人の父親と、日本人の母親をもつハーフ。
 人形の様な可愛らしい風貌で周囲の注目を惹き、同僚の彼氏がいながらして他の男性からアプローチされるぐらいだ。常に人の輪の中心にいる。
 一見、母親の様に穏やかに見えて冷静沈着、性に奔放、葉子とは正反対と言えよう。

 二階の左側には、インターネットでシェアを希望してきた、小久保健人が暮らす。
 健人は、葉子ら二人の母校に当たる国立大学の理学部で学ぶ大学院生で、遺伝子研究に勤しむ。
 葉子もスミカも共に微生物の遺伝子研究所に勤務しているため、会話に事欠かないし、健人から見たら先輩に当たる葉子やスミカの話を聞く事は、健人にとって少なからず勉強になる。
 黒縁の眼鏡の奥にある顔はそれなりに整っているが、口数は少なく、家にいる時は自室にこもっていることが多い。時々リビングに下りて来てはクッキーを食べている。

 一階の手前側の一部屋が空室となっている。
 スミカの祖母の持ち家であるこの家で、空き部屋があるからとて祖母が何か口を出したりする訳では無い。
 しかし、空き部屋がある分、家賃負担と掃除の負担が葉子と健人にのし掛かっている事は確実であり、しがない会社員の葉子と、雀の涙程の仕送りやバイトで生活している健人は耐えきれず「シェア募集をしよう」とスミカに持ち掛けた。
 スミカはファッション誌を読みながら「どっちでもいいけど」と言っ放った。彼女は自室の家賃を支払っていないから当然なのだが。

 健人の時と同じようにインターネットで公募をかけようかと、三人で話していた時だった。
「シェアのアテがあるっちゃあるんだけど――」
 健人がボソッと呟いた。
「あるなら初めから言えよー」
 ソファの隣に座る健人の肩を、葉子がポカッと叩いた。
 健人はずり下がった黒縁眼鏡を指で直しながら控えめに笑う。
「後で電話してみるよ」


 その「アテ君」が今日、部屋の内覧に来る事になっている。
「健人とは、どういう関係なの?」
 いそいそとお茶の用意をしながらスミカが尋ねたが、健人は片方の口端を上げながら笑みを作り「知り合い」と答えるだけだった。
 何か特別な関係なのだろうか。恋人だったりして?葉子は邪推した。
 約束の時間迄あと五分という所で、コツコツ、と石畳を硬いもので叩く様な、そんな足音が玄関に近づいた。リンドンと昔ながらの呼び鈴が鳴る。
 葉子は「はいはーい」と走って行って玄関のドアを開けた。五月の爽やかな風が部屋へ流入した。

 そこに立っていたのは、腰からウォレットチェーンを下げ、黒い革のライダースを身につけ、タータンチェックのパンツにエンジニアブーツを履いている、見るからに「パンク」なお兄さんだった。髪型も、色こそ黒いがソフトなモヒカンに近い。
 対峙する形となった葉子は唖然とし、その様子を見に来たスミカは音が聞こえるぐらいの規模で息を呑んだ。
 ただ一人、健人だけは「いらっしゃい」と冷静に声を出した。

「む、麦茶でいいですか?」
 スミカが彼に尋ねると、意外と申し訳なさそうに「恐縮です」と答えたので、葉子は笑いを堪えきれず顔を覆った。
「恐縮です、だってよ」
 キッチンに立つスミカの肩をバシバシ叩きながら耳元でクスクス笑う葉子を、スミカはやんわりたしなめた。
「人は見た目じゃないんだから」
「でもスミカだってビックリしてたじゃん、ヒュッて息飲んだの、聞こえたぞー」
「そうだけど」
 さぁお茶出すよ、とスミカは四人分の麦茶が乗ったお盆をリビングのテーブルに運んだ。対面するソファに合わせて、四人分の麦茶を置く。

 葉子は目の前に座る「アテ君」をチラチラと観察した。
 何月だと思ってるんだ、もう五月だよ?暑くないの?ライダースにブーツってどんだけパンクス!
 内心でそう語る葉子だが、好き好んで聴く音楽はパンクミュージックだったりするので興味は津々だ。
 麦茶を配り終えたスミカがアテ君の隣に座り、「お名前聞いてもいいですか?」と覗き込むようにして会話の口火を切った。
「小久保です。小久保晴人です」
 葉子とスミカは顔を見合わせ、示しを合わせたように二人揃って「小久保?」と首を捻った。
 それに答えたのは健人だった。
「兄なんだ。種違いの兄ちゃん」
 小久保晴人は無言で二度頷きながら、ライダースを脱いでいる。
「ああ、確かにチョット似てる、よね?」
 葉子はスミカに話を振ると、スミカは「うん、何か似てる」と二人を交互に見た。
 パンク色を無くした小久保晴人は、健人に似ているかもしれない。あるいはメガネを外した小久保健人は、晴人に似ているかも知れない。

「先に部屋を見てもらおうか?」
 葉子は立ち上がり、「こっちです」と晴人を案内した。
 葉子の部屋の手前、水色のドアを開けると、ギギィと古い金具の音がする。
「下が四畳半、上はロフト。ベランダは私の部屋と続きになってます」
 はい、はい、と話の途中途中で律儀に返事をするパンクスが可笑しくて堪らない葉子は、腹筋の痙攣を抑えるのに必死だ。地味な筋トレだ。
「隣は私の部屋で、弟さんとスミカ、あの人形みたいな子、二人の部屋は二階。風呂とトイレはリビングの横から行けます」
 足早に説明し、スライディングでもするかの勢いでソファに戻って行く葉子の後ろ姿を、晴人は怪訝な表情で見つめた。
 葉子はソファに身を沈めるなり足の間に顔を埋めて笑いを堪えた。パンクス、礼儀良過ぎ。
 晴人も再びソファに座り、スミカからシェアに関する決まりごとの説明を聞いた。
「ご飯は基本的に私が作ります。勿論お手伝いは大歓迎。私が作れない日は実家の家政婦さんに頼みます。お風呂とトイレ、共有スペースと外の掃除は残りの三人で適当に分担してください。ご飯が不要な時は十八時までに私に連絡を。家賃と食費は月の終わりに精算するので、私に支払ってください。あとは、晴人さんの年齢にもよりますが――あまり離れていなそうなので、敬語は無しで」
 ここでも話の間に何度も真面目な顔で「はい、はい」と返事をする晴人が可笑しくて、葉子は顔を背けたり、クッションを顔に押し付けたり、終始落ち着きがなかった。
「皆さんが嫌じゃなければ是非、シェアさせてください」
 落ち着き払った声で晴人が皆を見た。
 スミカはにっこり笑って頷き、健人は紹介した身であり断る訳もなく明後日の方向を向いていたし、葉子はクッションで顔を覆い「意義なーし」くぐもった声を発した。
 葉子は内心、パンク好き(かどうか見た目しか判断材料はない)が一つ屋根の下で暮らす事を少し喜ばしく感じていた。ある事を切欠に、バンクス全般に好意を寄せているのだ。そのウキウキ感が、落ち着きの無さに表れていたのかも知れない。
 こうしてバードハウスは、新しい住人を迎える事となった。


2:種違い

 三連休の中日を挟んで最終日に、晴人の引越しが行われた。
 引越しと言っても驚く程荷物が少なく、手伝う間も無くあっという間に引越しが終わったので、Tシャツに短パンという姿でスタンバっていた葉子は拍子抜けした。

 晴人はタオルで汗を拭きながら、リビングのソファに座った。
「お茶飲む?」
 スミカの声に「ああ、いただこっかな」と大きく伸びした。
「スミカ、私もー」
 葉子が自室から出てきて、晴人の対面に腰掛けた。
「私は横山葉子。研究員やってる二十五歳。葉子って呼んでね。んでそちらは?」
 晴人は頭の後ろを掻いている。照れているのだろうと感じ、葉子は可笑しかった。照れるパンクス!
「俺は晴人って呼んで。二十六歳。平日はスーツ着て営業マン」
 麦茶を持ったスミカがやって来て葉子の隣に腰掛けた。
「私はここのオーナーの孫で、山下スミカ。葉子と同じ会社に務めてるんだ」
 ふーん、と声に出して頷く。
 葉子は麦茶を一口飲み、晴人の方を向いた。
「ねぇ、健ちゃんって昔っからパソコン好きなの?毎日パソコン抱きかかえてるみたいだけど」
 晴人は「うーん」と中空に視線をやった。過去の思い出を引き摺り出しているらしい。
「高校の時に親に買って貰って、まあ色々やってたみたいだな。プログラミングとか?俺と違ってあいつは出来がいいからな、ココの」
 そう言って自分の頭を人差し指でコンコンと打った。
「晴人は音楽が好きなの?」
 葉子は自分の仲間が増えるんじゃないかと期待に胸を膨らませて訊いた。
 今日は引っ越し作業だったため、晴人は流石にライダースは着ていない。ラモーンズのTシャツに膝丈のダメージデニムだ。
「パンクやハードコアなら洋邦問わずだな。エレクトロも少々。何、葉子も音楽好きなの?」
 葉子は彼に背を向けた。Tシャツの背にはセックスピストルズのプリント。
「同じく」振り返り晴人の顔を見ると、彼はその頬を崩した。
「仲間が出来たなぁ」
 やり取りを見ていたスミカは自分の空いたグラスを手に立ち上がった。音楽の話をされると、居場所がなくなる。
「部屋、戻るね」
「あ、うん」と葉子が返事をした。
 食洗機に空いたグラスを置いたスミカの眉間には、俄かにシワが刻まれていた。葉子も、もちろん晴人も、それには気づいていなかった。
 二階でパソコンに向かっていた健人は、会話と雰囲気で察していた。
 いつでも会話の中心でありたいスミカは、二人の音楽の話にはついていけない。

 葉子と晴人はその後、音楽の話で盛り上がり、引っ越し当日にも関わらず、相当打ち解けた。
「いやぁ、健人がこんな面白い奴とルームシェアしてるなんて思いもしなかったよ」
「私は健ちゃんのお兄ちゃんがパンキッシュだなんて思いもしなかったよ」
 キッチンの冷蔵庫から、作り置きの麦茶を持って来て、二人分のグラスに継ぎ足す。「お、サンキュ」晴人はグラスを取る。
「つーかパンクスが営業マンって凄いなぁ。何の営業?」
 葉子は興味深げに身を乗り出す。
「理化学機器だよ。健人の大学にも出入りしてる」
 笑いを噛み殺せずに吹き出してしまった葉子に「何だよ」と食ってかかった。
「いやー、想像できませんな。晴人がスーツ着て営業なんて。髪型は七三ですか?オールバックですか?」
 過剰におちょくる葉子に、晴人は顔を真っ赤にして反論した。
「フツーの髪型だよ。明日見せてやるよ。俺は平日は実に真面目なサラリーマンなんだからな」
 そう言いつつ、ワックスの塗られた髪を七三に分けて見せる晴人に、葉子は脚を大きく広げて手を叩きながら爆笑した。

 その日の夕飯は、晴人の歓迎会も兼ねて、いつもより少し豪華で、ワインまで開けた。
 酒に滅法弱い健人は「俺はもう寝る」と千鳥足で歯も磨かずシャワーも浴びずに部屋へと戻った。
 スミカは晴人に対して当たり障りのない質問をしたが、当たり障りのない答えが帰って来るのみで気分を害したのか「私もそろそろシャワー浴びるから、後片付けお願いできる?」と葉子の顔を見た。
 少し険しい顔だな、と葉子は感じたが、黙っていた。こういう事は、時々ある。
「勿論、やっとくよー」
 お酒が入って気持ちが良かった葉子は、あまり気に留めず、酷く陽気に答えた。
 着替えを取りに部屋に戻る途中のスミカの眉間には、またしてもシワが刻まれていた。


 葉子は低血圧故に、朝の起床に弱い。携帯のアラームを止めて二度寝、目覚まし時計を止めて三度寝、、最終手段はスピーカーからピストルズの「アナーキーインザUK」を爆音でかける。大体ここまでやって起床する。
 重たい体を垂直に折り曲げてロフトから下に降りるまでに数分かかり、その間にも音楽は鳴り続けている。
 スミカや健人はこの事に不満を漏らした事はない。
 それもその筈、スミカは既にキッチンに立ち、健人の部屋は離れているのだから。
 葉子の部屋のドアを乱暴に叩く、ドン、ドン、という音がした。
 スリッパをつっかけ、水色のドアまでスタスタと歩き、ノブを回す。
「何だよー」
 全身から気だるげなオーラを放ちながら声を発した先には、眠そうに目をしばたかせている晴人が立っていた。
「なんで朝からアナーキーインザUKを爆音でかけてんだよ」
 その瞬間にも音楽は部屋の中から恐るべき音圧で襲って来る。
「何でって、目覚まし?」
 さも当然の如く言う葉子に、晴人は額に手を付け目を瞑った。「あっそーなの」
 バタンと水色の扉が目の前で閉まり、葉子は自分が何か悪い事でもしたのかと頭を捻った。くるりと反転して、気怠げに音楽を消しに行った。

「葉子おはよ」
 キッチンでスミカが朝食の準備をしていた。お皿同士が触れ合う音が響く。
 目をこすりながら「おはよー」視点を合わせるのに精一杯だった。
 取り敢えず顔を洗って、パジャマのままダイニングテーブルについた。健人も同じく部屋着姿で気怠そうに二階から降りて来た。
「おはよ、健ちゃん」
「ん、おはよさん」
 彼も朝は苦手な方なのだろう。いつも焦点の定まらない目で朝ごはんをつつく。
 今日もいつも通り、パンとハムエッグ、ヨーグルトにコーヒーだ。
 最後に部屋を出て来たのは晴人だった。パジャマのまま朝食を食べる三人とは一線を画し、ぴっちりスーツを着ている。
「あれ、みんな着替えしないの?」
「別に急がないし、汚れても嫌だし、パジャマのまま」
 健人の声にうん、うん、と頷く二人。
「あぁ、そう――」唖然とする晴人だったが、空いている席につき、取り敢えず朝食を食べ始めた。
 昨日までパンク色の強かった晴人は、一転して普通のサラリーマンになっていた。
 葉子は「こういうギャプに女は惹かれるって雑誌の特集があったら上位に食い込む」と妄想を膨らませた。
 それとは別として、髪型をまともにすれば、健ちゃんにそっくりだな、とも思った。まだメガネをかけていない健人と見比べる。種違いとは思えない。
「健人は今日、バイトはないの?」
 スミカにそう問われると、いかにも眠そうな甘ったるい声で「無いから夕飯は家で食べる」と、食事当番のスミカに告げた。
 晴人は、母親と健人のやりとりを見ているようで、その光景が微笑ましく映った。

 晴人が幼い頃、両親が離婚し、親権は母が持った。母は別の男、つまり兄弟の現在の父との間にすぐ子供をもうけ、産まれたのが健人だ。
 異父兄弟だが、自分と健人は母親によく似ていたし、年齢も近く、晴人は健人を可愛がった。
 健人がやってる遺伝子のナントカから言えば、半分は同じ遺伝子でできている弟な訳で、可愛くない筈がない。

「ごちそうさま」
 一番に席を立ったのは健人で、食器を洗浄機に突っ込むとすぐに部屋へと戻って行った。
「健人、毎日大学行ってんの?」
 マグカップに入ったコーヒーに息を吹きかけながら晴人は二人に訊いた。
「行ったり行かなかったり?実験が進まない日とか、論文書いてる時は一日中家にいたりするみたいだよ。あとはバイト」
 ね、と葉子に促し、彼女も頷く。
「健ちゃんは頭いいよね。羨ましい」
 葉子はパンの最後の一切れを口にいれ、モグモグしながら言った。
「あれは親父に似たんだな。理学部の教授やってんだよ」
 二人は「凄いねえ」と顔を見合わせた。理学部の教授である父の遺伝子を持つ健人と、持たない晴人。でも見た目は似ている。
「そうやってスーツ着て普通の髪型してると、健ちゃんと晴人ってかなり似てるんだね」
 葉子は口の中身コーヒーで飲み下す。
「半分同じ遺伝子ですから」
 席を立ったスミカは「みんなと同じように食洗機に食器を入れてね」と健人に伝えた。


3:企み

「健ちゃん何だって?」
「もう一眠りするんだって」
 今日は休日で、実験の中日に当たる健人は大学に行く必要がなく、自室のベッドで横になっていた。
 研究の事を考えながら、階下の女性二人の会話に耳を傾けていた。

「健ちゃんと晴人って種違いの兄弟にしては顔がすんごい似てるけど、中身が全然違うんだねー」
 葉子は部屋着のままでソファに寝転がり、テーブルにおいてあったお煎餅を一口齧ると、スミカはクスクス笑った。
「双子だって中身まで全く同じじゃないんだから、当然でしょう」
「そっか。晴人がスーツ着たあの姿は結構ショッキングだったな。健ちゃんが二人いるみたいで」
 スミカは細くて白い脚を組み替えた。スミカはいつだって、身綺麗にしている。
「晴人の部屋って、葉子の部屋みたいに楽器が置いてあったり、ポスターが貼ってあったりするのかなぁ」
 ルームシェアを円滑にするために、個人の部屋はプライベート空間とし、許可なく中に入る事は禁止になっている。
 そのため葉子は健人の部屋の中はドアからしか見た事が無い。引っ越してきたばかりの晴人の部屋は勿論、見た事が無い。
「どんなんだろうね」
 葉子はソファから身を起こし、スミカに視線を遣った。
「葉子の部屋からだったらベランダ越しに見えるんじゃない?」
「でも、何か覗き見みたいで悪いよ」
 スミカはとんでもないとでも言わんばかりにソファにどっさり身を預けて言った。
「外から見るだけでしょー。それに本人も留守だし、覗いちゃいなよ」
「そう?じゃ、ちょっと見てくる」
 小走りに自室へと向かう葉子の背中を見つめるスミカの瞳に、冷たいものが宿っていた事に、葉子は気づくはずも無かった。

「ちょっとだけ見えたけど、私の部屋にあるのと同じポスターが貼ってあったよー」
「シドなんとか?」
「シドヴィシャスね」
 カーテンの隙間から見えたのは、シドヴィシャスのポスターと、写真立てだった。
「何の写真が分からないけどね。彼女だったりして」
 全ての会話を、二階にいる健人は聞いていた。
 ベランダから覗き見る事をスミカがけしかけた事も、全て聞いていた。音楽もかけずベッドに横になっていた健人には、全て筒抜けだった。
 さて、スミカは何を企んでいるのやら。健人はうすら寒い思いがした。


「あ、おはよ。健ちゃんと晴人は?」
 完全に寝坊をして朝食を独りで食べていた葉子の元に、部屋からスミカが降りて来た。
「おはよ。健人は部屋にいるみたい。晴人は朝早くに出かけて行ったよ」
「ふーん、そっか」葉子はコーヒーを一口飲んだ。
「私も今日、武と会う約束してるから、お昼前に出かけるよ」
「えー、じゃぁ私と健ちゃんだけか、居残りは」
 葉子は昼食の事を考えていた。スミカがいないとなると、自分で昼食を作るか、健人とジャンケンをして何かを買ってくるか――。
「お昼、家政婦さん呼ぼうか?」
「あぁ、いいよいいよ。健ちゃんと何とかするから」
 丁度良いタイミングで健人の部屋のドアが開き、彼が降りて来た。
「おう、健ちゃん、お昼どうする?スミカいないんだって」
 健人はもしゃもしゃに寝癖がついた黒髪を手櫛で梳きながら考えている。
「うーん、葉子が弁当でいいなら、俺が買いに行くけど?」
 葉子は、そのもしゃもしゃの寝癖を双眸で凝視した。
「よし、じゃぁ一緒に買いに行こう」
「あぁ」と気のない返事をし、ソファにドサっと座った。
「スミカ、ちょっと実験の事で訊きたい事があるんだけど――」
 何なに、とスミカは少し嬉しそうにソファの対面に座り、健人の研究にアドバイスをしていた。
 葉子はそれを聞くともなしに聞きながら、ゆっくりゆっくり朝ご飯を食べた。


 スミカは部屋で出かける支度をしていた。彼氏である武と一泊旅行にいくらしい。
「健ちゃーん、お弁当買い行こうぜー」
 一階から大きな声で葉子が叫ぶと、ややあって健人が帽子を被って降りて来た。
「あ、帽子だ」
「寝癖治らないから」
 葉子はクスっと笑って高い位置にある彼の頭をポンポンと叩いた。
 葉子には兄がいるが、離れて暮らしている。
 幼い頃は「妹か弟が欲しい」と親にせがみ続けていたので、健人と一つ屋根の下暮らすようになった今、実の弟の様に健人が可愛くて仕方がない。
「健ちゃんは何弁当にする?」
 葉子は斜め上にある彼の顔を覗き込むように見る。
 さっと頬が赤らむのを悟られない様に、健人は被った帽子を少し深くする。
「焼肉弁当、この前食ったら美味しかったんだよなー」
「焼肉弁当かぁ、食べた事無いや。美味しくなかったら健ちゃんのおごりな」
 彼の腕をポンと叩くと、健人は黒縁メガネの向こうで「はいはい」と苦笑した。
 彼女の何気ないボディタッチの度に、健人は心を揺さぶられる。

 白いビニール袋にお弁当を二つ入れ、健人がそれを提げた。バードハウスに向けて丘をの登る。
「上り坂はさぁ、後ろを向いて歩くと疲れない、とか言うよね」
 そう言って葉子は健人の正面を向いて後ろ歩きを始めた。
「葉子、転ぶよ」
 だいじょぶだいじょぶ、と言った傍から、段差に踵を取られ、尻餅をついた。
「やっちまった」
 体勢を立て直そうとする葉子に、健人の大きな手が差し伸べられた。
「ありがと、健ちゃん」
 その大きな手に掴まり、葉子は立ち上がった。デニムのお尻に少し、細かい石がついたので、手で払う。
 健人は、葉子の少し少年ぽいところや、危なっかしさ、裏腹に時々見せる女らしさ、全てに惚れている。
 勿論、本人に思いを伝えようとは思っていないが、「これまで一度も男と付き合った事が無い」という葉子の初めての人間が自分だったらいいのに、と思う事があるのは事実だ。


 二人がバードハウスに帰ると、朝早くに出かけて行った筈の晴人が、ソファに座っていた。
「兄ちゃん帰ってたんだ」
 健人はビニールからお弁当を二つ取り出し、「飯は?」と訊いた。
「俺は済ませてきた」
 何故か晴人の鋭い目線が、葉子を追っている事に健人は気づいた。
「何、どうしたの」
 晴人の目は険しく、眉間にシワを寄せている。
「葉子、俺の部屋、勝手に見に行ったんだってな」
「へ?」突然の事に葉子は目を丸くし、言葉が出なかった。何でそんなこと知ってるんだろう。
 何も言えないでいると、晴人は畳みかけた。
「シェアハウスだから、人の部屋にずかずか入らないのは基本なんだろ。何なんだよ、何の理由があって入ったんだよ」
 葉子は狼狽えた。
「べ、つに、用事があったとかじゃないし、入った訳でもないし――」
「じゃぁ何だよ、スミカが言ってたぞ。葉子が俺の部屋の中について話してたって」
「スミカが?」
 健人が昼食の準備の手を止め、静かに口を開いた。
「兄ちゃん、それはちょっと違う」
「健ちゃん?」
 葉子はその場に立ち尽くしたままで、晴人に痛い程睨みつけられていた。
「スミカがけしかけたんだ。兄ちゃんの部屋の中がどうなってるのか、ベランダから見えるんじゃないかって、けしかけたのはスミカだよ」
「健ちゃん、聞いてたの?」
 うん、と俯いて帽子を脱ぎ、髪をくしゃっとした。
「何だってスミカはそんな事させたんだ?」
 怪訝な顔で晴人は二人に問うた。
「分かんないけど――カーテン越しに中を覗いたのは本当だから、ごめん」
 あぁ、と晴人は葉子の素直な謝罪に少し戸惑いを見せた。
「ただ、部屋の中には入ってないよ。私の部屋にあるシドヴィシャスと同じポスターがあったのと、窓際に写真立てが見えたぐらいであとは見てない」
 晴人は下を向いていた顔をすっと上げ、「スミカは何がしたかったんだ?」と二人に訊いた。再度、純粋に問いたい、そんな感じだ。
 葉子はスミカと親友でありながら、彼女の考えている事がよく分からないと言う事が時々ある。親友と思っているのは実は自分だけなのかも知れない。
 時折、他人に対する彼女の冷徹さを感じる事はあれど、その矛先が自分に向けられる理由など、考えつかなかった。
 冷静に考えていたのは健人だった。
「多分だけど――兄ちゃんが来てから、葉子と兄ちゃんが二人で盛り上がってるのが気に入らなかったって所だろ。スミカ、自分が中心にいないと気が済まないタイプ、でしょ」
 控えめに、それでも要点を突いて話す健人に、二人はただ頷くばかりだった。
「確かに、会社でも常に周りに人が集まってるよなぁ」
 会社でのスミカの行動を思い起こした。彼女のいるところには必ず人が集まっていて、その中心にいるのは他でもない、スミカなのだ。
「今後もシェアを続けていくなら、オーナー代わりのスミカと仲たがいはできない。今回の件は無かったことにした方が良いよ。それと、兄ちゃんと葉子もあんまりスミカを置き去りにしない事。さ、葉子、飯食おう」
 ダイニングテーブルに置いたお弁当のふたを開け、葉子を誘った。
 葉子は俯いたまま「うん」と返事をし、テーブルについた。明らかに葉子は沈んでいた。
 親友だと思っていた人間に嵌められたかもしれないのだ。
 暫く沈黙したままお弁当を食べていたが、ソファに身を沈めていた晴人が口を開いた。
「葉子、あとで葉子の部屋も見せてよ。それでちゃらにしよう」
 葉子はその言葉に許された気がして、頭を激しく縦に振って頷いた。
 健人はそれを見て、晴人が羨ましいと思ったし、悔しくもあった。
 健人は葉子の部屋を見た事も、覗いた事も無い。
「健ちゃん、焼肉弁当うまいよ」
「だろ」
 健人は言葉少なに焼肉弁当を平らげた。


4:尾行

「へぇー、本当に同じポスターだなぁ」
 葉子の部屋に入って来てすぐ、目についたそのポスターを見た。
「女の部屋の匂いがする」
「きもいんですけど」
 掃出し窓を背に、部屋を見渡す。
「俺の部屋よか少し広いんだな」
 晴人の隣に葉子が立ち、手を広げる。
「広いんだけどね、ピアノが場所とるし。そのうちギターの騒音も聞こえてくると思うよ」
 晴人はギターに目を移した。
「パンク好きなのに、テネシーローズか。何か、可笑しいな」
「ギター好きとパンク好きは関係ない。ただ単にギターが好きなの」
「何か弾いてよ」と言われたが、葉子は首を横に振って断った。
 ずっとピアノを習っていた。ある事を切っ掛けにパンクロックにのめり込み、ギターに興味がわいた。
 ちょっとした興味でギターを買いに行き、楽器屋に並ぶギターの中で一目惚れしてしまったのが、グレッチのテネシーローズだった。ローンを組んで買った。
 それからは独学でギターを学んでいるが、改まって人に聞かせられるレベルではないと思っている。
「晴人は楽器やらないの?」
「俺は聴くのと暴れるのが専門だな」
 葉子は掃出し窓から外を見た。レースのカーテン越しに、ある人物が立っているのが見えた。
「まただ――」
 葉子の視線の先にいる、顔の整った青年を、晴人は視認した。
「誰?」
「会社のストーカー君」
 あまりに軽い感覚で葉子の口から出た「ストーカー」と言う言葉に、罪の重さが感じられなかった。
 ストーカー君である中村君と葉子は同期入社で、研究所が違うが時々呑みに行ったりする仲だった。
 ある日彼から「好きだ」と告げられたが、葉子は「友達としてしか見れないから」と断った。
 しかし、葉子には彼氏がいない事を中村君は知っていて、諦めずアタックをし続けている。
 時々こうやって休みの日に家の前まで来て、葉子が一人で外に出てくるのを待っている。
 以前は呼び鈴まで鳴らしてきたが、ここはシェアハウスで自分以外の人間も住んでいるから、こういう事はやめてくれと頼んだのだ。
 根は悪い奴ではない中村君。
 それからは呼び鈴は鳴らさないが、敷地の外で葉子の「出待ち」をするようになった。
「彼、カッコイイじゃん、何がダメなの?」
 カーテン越しに見える彼を見て晴人はそう言ったが、葉子は首を振った。
「だって、アイドルとか、J−POPにしか興味が無いような人と、プライベートで気が合う訳ないじゃん」
 ブッと晴人は吹き出して笑った。
「パンクばっか聴いてる研究員見つける方が至難の業だぞ」
「だって一緒にライブとか行きたいじゃん」
 口を尖らせて言った。その言草がまるで駄々をこねる子供の様で、「お前、かわいいな」と何ともなしに言った。
 その言葉で葉子は顔を真っ赤にして、グーにした手を晴人の腕にガンと打ち付けた。
「バカにしてんだろ、帰れ、自分の部屋に帰れー」
「なぁ、あのストーカー君の家、知ってるのか?」
 俺に良い案がある、と策士の様な顔で晴人がある提案をしてきた。


 中村君の家は、比較的駅に近い、ワンルームマンションだ。
 翌日の日曜日、彼のマンションと車道を挟んだ道で、葉子と晴人は中村君の「出待ち」をしていた。
 彼のマンションは、玄関が道路に面しているので、玄関からの人の出入りが道路側からよく見える。
「奴が玄関を出たら、行動開始だからな」
 葉子は気合を入れるように、うしっ、と言った。
 三十分ぐらい待った。雨雲が頭上を覆おうとしていた。時間が無い。
 と、目的の玄関が開き、顔立ちの整った中村君が出てきた。
「よし、あの辺まで戻って行動開始な、葉子、照れるなよ」
 うしっ、もう一度気合を入れた。

 中村君が階下に降りて来た。五十メートルほど離れたところから歩いて来て中村くんと車道を挟んで通り過ぎたのは、晴人の腕に絡みつきながら歩く葉子の姿だった。
 ベタベタと絡みつきながら、顔を覗き込むようにして晴人に話しかけている。葉子は中村くんの視線を感じた。
 きっと中村君の目にこの光景は焼きついただろう。もう、ストーカー行為もしてこないだろう。
 横山さんには彼氏がいる。しかも、一見怖そうな、パンクな彼氏だ?かなう訳あるまい。

 直線道路から横道に逸れるとすぐ、振り解くように葉子は晴人から手を離した。彼女の顔は耳まで真っ赤だった。
 それを見た晴人は笑いを堪えるのに必死で、痙攣している様だった。
「仕方ないでしょ、男の人とこんなの、した事ないし」
 アハハハと今度は声高に笑い始めたので、葉子は晴人を置いて、プイと家の方向へ歩き出した。
 勿論恥ずかしいという気持ちはあったが、それ以上に、自分の理想とするような男性と腕を組んで道を歩いた事が嬉しくもあり、その気持ちを察知されまいと下を向いて歩いた。
 腕に絡みついたあの瞬間、葉子は自分の跳ねる心臓の鼓動に気づかれていないか心配だった。
 顔は健人と殆ど同じ筈なのに。おそらく健人となら恥ずかしくも無く同じ事ができたのに。
 何故晴人だとドキドキするんだろう。
 何となくその答えを頭のどこかで理解していた。
 ぽつぽつと雨が降り始めた坂道の途中で、後ろから晴人が話し掛けてきた。
「俺の彼女も、同じような事、あったんだよ」
 葉子は急に足を止めたので、後ろを歩いていた晴人は葉子にぶつかった。
「彼女?」
「うん。何、俺、彼女いなそうに見えた?」
 べぇつに、と吐き捨てるように言い、さっきよりも早い歩調で葉子は歩いた。
 いつもそうだ、好きじゃない人には好かれるのに、好きだと思う人には彼女がいるんだから。人生うまくいかないんだから。
 晴人は着ていた薄手のカーディガンを、雨避けの為に葉子の頭にふんわりとかぶせてやった。


「今日は、彼氏には逢いに行かないの?」
 ソファに座る健人が、対面で雑誌をめくるスミカに話しかけた。
「毎日毎日デートなんてしてたら飽きるよ。旅行帰りだし」
「そんなもんかな」
 テーブルに置いてあるクッキーはスミカが彼氏と旅行に行った土産だ。
 健人は包装をビリリと破り、中身を「いただき」と言って口に放る。「うま」
「健人はデートするような彼女、まだできないの?研究ばっかり?」
 健人の顔を見ずに、雑誌をぺらっと捲る。
「いいなぁと思う人が近くにいても、なかなか、ね」
 雑誌から顔を上げると、無心でクッキーを頬張る健人がいた。
 その「いい人」が自分であればいいのに、スミカは人形のような大きく丸い眼から、健人がもう一つのクッキーに手を伸ばすのを見ていた。

 それは欲張りなのかな。そんな風に思う。
 スミカには学生時代から付き合っている武という男がいる。同僚でもある。
 付き合いは長いが、結婚の「け」の字もなく、関係を盛り上げるために一泊旅行に行ってみたが、ただただいつもの様に、セックスをして帰ってきた。
 そろそろこの関係に、限界を感じつつあった。
 以前から、健人の事は好ましく思っていた。弟の様な可愛い存在であった。
 しかし、彼の勤勉さや真面目さ、寡黙さは武にはない魅力であり、スミカは徐々に健人に惹かれつつある事を自ら認識していた。お土産に、健人が好きこのんで食べるクッキーを選んだのはそのせいだ。


5:鎖

「葉子さーん」
 ベランダから掃出し窓を叩く音がしたので、一瞬「中村?!」と思い身構えたが、声の主は晴人だった。
 ガラガラと掃出し窓を開ける。今夜は少しだけ風が冷たいが、もうすぐ梅雨だ。手にしていたテネシーローズをスタンドに置いた。
「どうした?」
 窓を後ろ手に閉めてベランダに出ると、一枚のチケットが目の前にぶら下がった。湿り気を帯びた風に、パタパタとはためいている。
「彼女が行けなくなったんだ。葉子、一緒に行かないか?」
 チケットを見ると、葉子の好きな邦楽パンクバンドのライブチケットだった。
 実は葉子もこのチケットを取ろうとして、抽選落ちしている。喉から手が出るほど欲しいチケットだ。
「え、いいの?」
「うん。金も彼女が払ってるから、いらないし」
 晴人は火のついていない煙草を口に挟み、チケットを葉子に手渡した。100円ライターで煙草に火をつける。
「ありがとう、何か、悪いなぁ。彼女にお金払ってもらってるなんて」
 葉子は半乾きのロングヘアをぐしゃっと掻いた。
「いいんだよ、ドタキャンだもん。ムサい男連中連れて行くより葉子の方がよっぽどいいし」
 晴人の言葉に深い意味はないのだろうが、男に免疫がない葉子にとっては、頬を赤らめるに足る言葉だった。さっと葉子は横を向いた。
「今日は涼しくていいねー」
 何かを紛らわすかのように、チケットを持った手で両頬を挟み、葉子は大げさに空気を吸い込んだ。
「あ、俺、煙草吸うから、夏場なんか窓開けてると部屋に煙が入るかもな」
 シェアハウスは室内禁煙にしている。晴人がバードハウスの住民になってからこれまで、窓を開ける機会もなくて葉子は気づかなかったが、晴人はベランダで煙草を吸っていたらしい。
「風上に逃げるからいいよ」
 そう言いながら葉子は、貰ったチケットを大事そうに両手で広げ、部屋からの灯りを頼りに隅から隅まで読んでいた。サンタから貰った手紙を信じて読む無垢な子供のように、とても嬉しそうで、微笑ましかった。
 晴人は、自分の彼女にはない魅力を、葉子に感じ始めていた。


 翌日、仕事を定時に終えた葉子は一度家に着替えに戻った。丁度同じ頃、晴人も家に戻り、「駅で待ち合わせ」と言っていたのが、一緒にライブハウスまで行く事になった。
 ついさっきまでスーツ姿だった彼が、次の瞬間にはソフトモヒカンのパンキッシュな男に変わっていた。
 葉子もTシャツにスキニーパンツ、お団子ヘアと身軽な格好に着替え、玄関に出た。
 二人並んで駅まで向かう。ライブハウスは駅の近くにある映画館に隣接している。
 天気予報は雨の予報だったが見事に外れ、空にはぽつぽつと星が輝き始めた。
「いやー、チケット取れなかったから諦めてたのに、こんな奇跡があるなんて」
 葉子は大げさにジェスチャーして見せ、晴人は優しく微笑んだ。
「良かったな、ほんっと嬉しそうだな。葉子にあげてよかったよ」
 ヘヘッと少し笑って葉子はピンでとめたお団子頭を少し直した。小さく鳴り響く金属音は、晴人のウォレットチェーンの音だと葉子は気づいた。

 ライブハウスのロビーは煙草の煙が立ち込めていて、まだ開演前とあって混雑していた。
「葉子、前の方行くか?」
「晴人が行くなら行くけど、迷子にならないかなぁ」
 開け放たれたドアからライブハウスの中を覗き込み、葉子が不安げに言う。
「これ」
 ウォレットチェーンの片側を外し、葉子に見せた。
「財布はさっきロッカーに入れたから、これを葉子のベルトループに付けるから。そしたらはぐれない」
 得意げに言う晴人だったが、その場面を想像しただけで赤面必死の葉子だ。
「お前、顔赤くないか?」
 ニヤッとした顔で晴人が煽る。
「ほら、人がこんなにいたら暑いでしょーが」
 パタパタと顔を扇いで見せた。
 本当ははぐれたって迷ったって、一人で勝手に家に帰ればいいのだ。携帯だってある。
 何気なく口にした「迷子にならないかなぁ」という言葉で、晴人の優しさを引き出してしまった。
 これは普段、彼女に向けられている優しさであって、葉子はその代わりでしかないという事に気づき、静かに悶えた。

 前方が混み合う前に会場に入った。「Tシャツ上げて」と言われ、されるがままにベルトループにウォレットチェーンが装着された。
 葉子はその状態から横歩きで徐々に晴人から離れて行き「ほら、ここまで暴れられる」とにっこり笑った。
 葉子はライブには行き慣れているであろう事は容易に想像できるのに、どこか初々しい感じがして、晴人は「守ってやらなければ」と思った。
「あんまり離れると、ベルトループが切れるからな」
「あいあいさー」
 近づいて来て敬礼して見せた葉子の頭をぽんぽんと叩いた。
 葉子はまた赤面したが、そこを詰ると「人が多いから」としか言わないだろうと思い、黙って笑った。

 ライブが終わり、無事二人は離れずにいられた。
「葉子、凄い暴れっぷりだったなぁ。ループよりチェーンが切れるかと思った」
 葉子は首に巻いたタオルで汗を拭いながら息も切れ切れに言った。
「いつもこんなだよ。でも楽しい。やめらんない」
 晴人から見て葉子は、自由奔放、肩肘を張らない可愛いヤツ。
 晴人の彼女は常にクールで、ライブでは殆ど暴れず傍から観ている女だ。
 対極に位置する二人をどうしても比べてしまう。
 そして今は、彼女よりも葉子とこの場にいる事が、晴人にとって楽しいひと時だと感じてしまうのだった。
「葉子が俺の彼女だったら楽しいのにな――」
 あまり深く考えず口をついて出たこの言葉に、葉子はまたしても頬を赤らめた。コイツ、可愛いな。
「な、何言ってんの?頭沸いた?恥ずかしくない?」
 ライブ後の顔の火照りと見分けがつく位、葉子の頬が紅潮していたのが晴人には理解できた。


「この前さ、健ちゃんとお弁当買いに行った時に、坂道は後ろ向きに歩くと疲れないって話をしたんだけど、晴人知ってる?」
 健人と同じぐらいの背丈がある晴人の顔を覗き込む。晴人が歩くたびにウォレットチェーンがシャリンと柔らかい音を放つ。
「あぁ、遠足の時によくやったっけ。もしかして、葉子その場でやったの?」
「やった。そして転んだ」
 くるっと振り向き葉子は、また後ろ向きに歩き出した。街灯を背にした葉子の顔は影に隠れて見え難くなった。
「今度は大丈夫。少し踵を上げ気味に歩くか――」
「葉子危ないっ!」
 真後ろに迫った電信柱に、強かに背中をぶつけた葉子は、その場にへたり込んだ。
「踵に気を取られてた。もう」
「ガキじゃあるまいし」
 背中を擦りながら立ち上がろうとすると、大きな手のひらが差し出された。健人のそれと同じ、大きな手のひらだった。
「あ、ありがと」
 少し躊躇しつつその手を握り、身体を起こすと、葉子は自分の頬が上気するのを感じた。
 健人にしてもらった事と全く同じ事なのに、どうしてこんなに、心臓がバクバク言うんだろう。
 健人と同じような大きな手なのに、どうしてこんなに胸が苦しいんだろう。思わずTシャツの胸の辺りをギュっと押えた。
「健人の事、好きか?」
 突然の晴人の質問に、葉子は思考を遮られ、狼狽えた。
「え、何それ、どういう事?」
「葉子、健ちゃん健ちゃんって、健人の事可愛がってるみたいだからさ」
 晴人は夜空を見つめた。細い弧を描く月が、ひっそりとこちらを見ている。
 無邪気で明るい、子供の様な葉子が、大人しい健人を好ましく思っているなら、葉子を全力で応援してやりたくなった。
「健ちゃんの事、好きだよ。けど弟って感じ。頭が良くて、かっこよくて、自慢の弟」
 つま先を見て歩きながら葉子は、健人を思い浮かべた。
 年下なのにいつも葉子を上から見守っていてくれて、黒縁メガネの向こうで控えめに笑ってくれて、くだらない話にも付き合ってくれて、時々葉子を頼ってくれる、弟のような存在。
 そこには恋愛感情はなく、だから彼が差し出した手のひらには躊躇いなく手を重ねる事が出来たのだと思う。
「じゃぁ葉子は俺の妹になるんだな」
「えー、こんなパンクバカな兄貴じゃ嫌だよ」
「パンクバカの妹に言われたくないね」
 そんなパンクバカな兄貴の手のひらを握る事には少し躊躇った自分がいた。紛れもない真実。
 健人と晴人に対する感情には歴然とした差がある事を、葉子は認めざるを得なかった。


6:雨

「で、それ以来、中村君は来なくなったんだね」
 スミカはリビングのソファに座り、アイスティを飲んでいる。
「昨日研究棟で顔を合わせたんだけど、挨拶だけして去って行った」
 アイスティ私も飲もうかな、と葉子はキッチンへ歩いて行く。
 ポットのお湯をグラスに少し注ぎ、ティーバッグを浸す。
 少し濃いめに色が出たら、氷と少しの水を足して完成。簡易的アイスティだ。
「しっかし何で私なんかに付きまとってたんだろうか」
 小首を傾げながら葉子はスミカの対面に座った。行儀悪く、両足をソファに乗せた。
「葉子は隙だらけだからね」
「隙?」
 氷がカランと鳴って崩れた。
「自覚してないだろうけど、自由そうにふわわんとしてて、男も女も関係なく仲良く出来ちゃう、そういう感じ」
 うーん、と呻きながら葉子はソファに身体を横たえた。
 「隙」という言葉について考えたことはなかった。
「それって悪い事だろうか」
「悪くはないよ、別に。ただ、そういう隙だらけの女を好んで『俺が守ってあげたい』とか言う輩もいるって事だよ。中村君のように」
 葉子は大きな口を開けて一度あくびをし、伸びをした。
「隙を見せてるつもりはないんだけどねー」
 ガチャっと玄関の鍵が開く音がした。ドアから入ってきたのは健人だった。
 今日は午前中少しだけバイト先に顔を出すと言っていた。
 開いたドアからは湿った草木のような、雨の匂いがした。
「お帰り健ちゃん」
「お帰り」
「ただいま。女子会?」
 ソファに集う女子二人に尋ねた。
「健ちゃんも一緒にどう?あ、アイスティ入れてあげるよ」
 葉子が立ち上がろうとすると、「私がやる」とスミカが制してキッチンへ向かった。
 葉子が一人でソファを占有しているので、自動的に健人はスミカの隣に座る事になり、足元に鞄を置いた。
「雨、結構降ってた?」
 健人のポロシャツの肩には、雨に濡れた形跡があった。
「強くなったり弱くなったりって感じかな。兄ちゃんは?」
 スミカがアイスティと一緒にタオルを持って来た。健人は「ありがと」と言って肩を拭いた。
「デートじゃない?朝早くに出かけて行ったし、お昼もいらないって」
「兄ちゃん、彼女いるんだな」
 スミカがいれたアイスティーをコクリと飲んだ。「おいしい」とスミカを見て微笑む。
 兄と葉子のやりとりを見ていて、健人は兄が葉子に惚れているのではないかと考えていた。
 葉子をライブに誘ったり、葉子の部屋に入って行ったり、些細な事で痴話喧嘩したり。
 だがそれは思い違いで、兄には付き合っている人がいるという事を知り、少し、安堵した。
「健ちゃんもさぁ、いい男なんだから、そろそろ彼女を紹介してよ、私らにさ」
 葉子はドヤ顔で健人に言うが、健人はスミカを見て「葉子って彼氏いるんだっけ?」と訊いた。
「いや、いないと思ったけど」
 スミカはニヤニヤしながら葉子を見遣った。
「つーことは、葉子も早く、彼氏紹介してよ、俺らにさ」
 したり顔で言う健人に、葉子はべーっと舌を出した。
「私みたいな平々凡々な顔つきの、平々凡々な性格の女に、そう簡単に彼氏なんてできませんよーだ」
 膨れっ面の葉子を見て、その可愛らしさに健人の胸が高鳴った。
 決して口には出さないが、葉子を自分の物にしたい願望が、徐々に膨れてきている。
「ただいまー」
 鍵が開く音とともに、晴人が帰ってきた。
「あれ、早いじゃん」
 葉子がソファから身を乗り出して声を掛けた。
「うん、ちょっと色々あって」
 速足で洗面所に入った晴人は、「朝は降ってなかったのにな」と言いながら濡れた頭をタオルでごしごしと拭いていた。
「え、傘は?」
 スミカが怪訝な顔をすると「持って行かなかった」と答えたので三人は呆れかえった。
「梅雨を馬鹿にし過ぎだ。三つ指ついて梅雨に謝れ」
 そう言う葉子に「そこ半分どけ」と言って、葉子の隣にドスンと座った。
「お昼、俺の分も作れそう?」
 スミカに訊くと「大丈夫」とキッチンから返事があった。
「スミカ様に謝れ」
「葉子が言うな」
「弁当買ってこい」
「だから葉子が言うな」
 ボカスカとグーで叩き合ったりじゃれ合ったりしている様子を健人は暫く眺め、すくっと立ち上がった。見ていられなかった。
「部屋、戻るから。昼飯出来たら呼んで」
 無表情でその場を立ち去った。その様を葉子と晴人は茫然と見ていた。
「何か、悪い事した?」
「仲間に入りたかったんじゃない?」
 小声でひそひそと身体を寄せ合って話をしているその二つの背中もまた、健人は見るに堪えなかった。
 兄ちゃんが、俺達の平凡な暮らしを変化させつつある。俺のささやかな幸せを、奪いつつある。彼女がいる、兄ちゃんが。


 午後になっても雨は止む気配が無く、珍しく全員が家にいた。
 葉子は自室でギターを爪弾き、晴人も自室で音楽を聴きながら漫画を読んでいた。リビングにいたのはスミカと健人だった。
 スミカはファッション誌を読み、健人はソファに寝転がりながらパソコン情報誌を読んでいた。静かな午後だった。雨音だけが、ダイニングキッチンの天窓に小うるさく叩きつけていた。
「スミカさぁ」
 静かに口を開いたのは健人だった。
「いつもご飯とか作ってくれて、ありがとね」
 雑誌から目を外さず、健人は言った。対照的にスミカは大きな目を更に丸くして健人を見た。
「どうしたの、何、急に」
「何か、当たり前の様に作ってもらってるのも何か、悪いなと思って」
 相変わらず雑誌から目を離さない。照れているのだろうと、スミカは察した。
「じゃぁさ、今度健人がお手伝いしてよ。一緒に作ろうよ」
 スミカは単純に嬉しかった。惹かれつつある健人に、少しでも自分の事を考えてもらえていた事が嬉しかった。
「今日の晩飯は何?」
「コロッケ。冷凍のだけど」
「じゃぁ手伝うから、声かけてよ」
 健人はゴロンとソファの背の方へ寝返りを打った。

 晴人と葉子の遣り取りを見ていて、疎外感を感じたスミカは、親友である葉子を陥れるような行為に至った。
 健人も今、同じように疎外感を感じている。しかも、相手は同じ二人。
 好きな女と、自分の兄だ。
 どうしても侵入できない大きな溝の様な物がある。歯痒かった。
 兄がシェアハウスに来る前は、こんな事は一度も無かった。
 ストーカーの中村とか言う男が家を訪ねて来たって、どうって事は無かった。
 中村が葉子に好意を寄せている事を知っていても、俺が彼女を守ればいい、そう思っていた。
 俺の兄には彼女がいる。それなのに葉子と妙に親しげに接している兄を見ていると、嫉妬と言うよりは怒りに近い感情を覚える。
 思えば、幼い時からそうだった。兄は自由奔放で、学校でも問題児扱いをされ、母はしょっちゅう学校に駆り出されていた。
 母は兄の事ばかりを心配をし、俺の事は二の次。
「健ちゃんはきちんとしているから大丈夫ね」と言った具合だ。
 俺は兄とは違い、勉学に勤しみ、それなりの結果を残してきた。しかし、どんなに頑張ったところで注目はされなかった。
 就職しない俺よりも、就職した兄に対して「晴人は大丈夫かしら」と心配をする。
 母が注目しているのは、兄ばかりだった。
 俺が欲しい物は、兄が掻っ攫っていく。単なる嫉妬でしかない、と冷静な自分は分析するが、心中穏やかではいられなかった。
「スミカなら、分かってくれるかも知れない」
 いつでも話の中心にいたいと思っているスミカが、この家に来て初めて疎外感を感じている。それは兄の存在が大きい。
 スミカなら、俺の気持ちをわかってくれるかも知れない。


7:爆発

 スミカの部屋のドアが二度、ノックされた。
 コツコツという木材の軽い音が響いた。
「どうぞ?」
 ドアから顔を出したのは健人だった。深刻な顔をしているのがスミカには見て取れた。
「今、話いい?」
 机に向かってインターネット検索をしていたスミカは、思いつめたような顔をした健人を見て、ラップトップをパタンと閉めて「どうぞ」と一脚の椅子を差し出した。
 個室に入ってくるなんて、滅多にない事だ。
 背もたれの高い椅子に腰かけたスミカはキャスターをくるりと回して健人の方を向いた。
 健人は俯いたまま、何も話さない。
 二人きりの空間で、話す事と言ったら、階下の二人の事だろう。そう、想像はついた。
 やっとの事で重い口を開いた健人からは意外な言葉が聞こえた。
「俺さ、葉子の事が好きなんだよ」
 スミカはその大きな目をぱちくりして、現実を受け入れるのに必死だった。
 健人が、葉子に惚れている、だって?
 私が惚れている健人が、葉子に惚れている?そんな事があっていいの?
 これまで恋愛で不自由したことが無かった。外見はまるで人形のようだと言われるし、性格だって一見、捻じ曲がっている訳ではない。好きな男は吸いつくように寄ってきた。
 ここにきて、平凡すぎる女、葉子に負ける――。
 スミカの心の中に渦を巻くように急激に成長してきた感情は、嫉妬だった。
 どうにかして彼の心を、葉子から、遠ざけなければ。必死に頭を動かした。
「葉子は――葉子は晴人の事が好きみたいだよ、残念だけど」
 確信はなかった。ただの推測だった。いや、推測にも満たなかった。
 ただ単に、彼らが仲良くしている場面に遭遇して、そう口から出まかせを言ってしまったのだ。
 俯いていた健人は、「やっぱりそうか」とぽつりと言った。
 拳を握りしめ、その手は震えている。
「いつもそうなんだ、俺の欲しい物は全部、兄ちゃんが持って行くんだ」
 そこには、日頃穏やかな健人の姿はなく、スミカは狼狽えた。慰めようと近づいたその時、タイミング悪くスミカの部屋のドアがノックされた。
「おい、健人、こっちにいんのか?帽子貸してくんない?」
 握りしめた拳をそのままに健人は立ち上がり、ドアへと向かった。
「健人!」とスミカが呼ぶ声はきっと、彼には届いていなかったのだろう。
 ドアを開けた瞬間ゴツッという骨と骨がぶつかり合うような音がした。
「何すんだよ、テメェ!」
 ドアの外には頬を押さえた晴人が尻餅をついていた。痛さに顔を歪めている。
「兄ちゃんはいつもいつも、俺の欲しい物ばっかり持って行きやがる」
 行動とは裏腹に、酷く冷静な声でそう言い、自室のドアを仰々しい音を立てて閉めた。誰も近づくな、そう言わんばかりに。
 すぐにスミカはティッシュを持って晴人に近づき、口角を拭くように言った。
 幸い、葉子は外出中で家にはいない。この事はばれないだろう。
「何なんだ、健人は。スミカと何の話してたの?」
 顔を顰めながら晴人はスミカに訊ねた。
 暫く思案していたスミカだが、腹を括ってそのまま話した。
「健人は葉子の事が好きなんだって。でも葉子は晴人の事が好きなんじゃないかって、私が言ったの。そしたら、こんな感じ」
 その場にしゃがみ込んでいた晴人は、眉根を寄せてスミカを見た。
「そうやって推測ばっかりで物事を言うの、やめろよ。何で葉子が俺の事好きなんだよ。本人がそう言ったのかよ?」
 その質問には答えず、スミカは無言で隣の部屋を指差し、「行ってやって」と言った。
 痛みに顔を顰めていた晴人だったが、痛かったのは殴られた頬ではない。殴った後に健人が見せた、悲しいような、辛いような、怒っているような、複雑な表情に胸をかきむしられる痛さだった。


「健人、入ってもいいか?」
 返事はないだろうと思い、暫く経ってからもう一度ノックし、ゆっくりドアを開けた。
 健人はベッドに横たわって中空を見つめていた。
「何だよ」
「話しに来たんだよ」
 近くにあったパソコンデスクの椅子を引き寄せ、晴人はそこに座った。
「葉子の事、好きなのか」
 健人は返事をしなかった。
「葉子は俺の事が好きだなんて、一言も俺に言ってない。それに、俺は付き合ってる彼女がいる。それは葉子も知ってる筈だ」
 健人は晴人の話を聞きながら、背を向けるように寝返りを打った。
「それでも俺は、葉子と兄ちゃんが、後から来た兄ちゃんが、顔を付き合わせて喋ったり、一緒にライブ行ったり、小競り合いしたり、そういうのを見ると、辛いんだ。俺はそこに入り込めないんだ」
 晴人は項垂れて健人の話を聞いた。
 一緒に話をして盛り上がる、一緒にライブに行く。
 自分にとっては当たり前の出来事でも、傍から観ている健人にとっては辛い事だったのかと、今更知り、軽はずみな行動に少し後悔をした。スミカの時と、同じだ。
「葉子に、好きって伝えろよ。このまま燻っててもしょうがないだろ。応援するから」
 枕に突っ伏した健人の声はくぐもって「うん」と答えた。
 晴人は「この帽子、借りるぞ」と言って壁に掛けてあった中折れ帽を手に取り、部屋を出た。


8:静かな告白

 考え事ばかりしていて、実験が一向に進まない。
 進まないどころか、壁にぶち当たってしまった。
 葉子に気持ちを伝えたい。でも伝える勇気も、タイミングもない。
 せめて何か切っ掛けが欲しい――。
 「壁」だ。

 葉子の部屋がノックされた。晴人もスミカも出掛けていて、この日もお昼ご飯を二人で食べる事になる。
「葉子、お昼どうする?」
 ギギィとドアが開き、上目使いの葉子が出てきた。
「健ちゃん、何か食べたい物ある?」
 その目線にドキっとしながら、思考回路を巡らせる。
「たーべたいものは、えっと冷やし中華とか?」
「いいねぇ、私もそれ考えてた。多分材料あるから、私作るよ」
 ドアから見えるギターのアンプの電源を落としに行った後姿に「俺も手伝う」と言った。

「じゃぁ健ちゃんは麺係ね。私はトッピング係ね」
 まな板の上で、野菜が細く切り刻まれていく。いつもスミカが料理をしているから気づかないが、葉子も意外と料理が出来る事に気づく。
「隣のコンロ、卵焼くから使わせて」
 麺をゆでる健人の隣で、葉子は手早く薄焼き卵を作る。
「こうやって並んで料理するのも、新鮮でいいねぇ」
 心からの笑顔を向けられたのに、健人は歪な笑顔でしか対応できなかった。それぐらい、緊張していた。

「今さ、実験で壁にぶち当たっててさ」
「うん、進まないの?」
 冷やし中華を食べながら、健人の実験の話をした。
「後で、資料とか持って行くから、アドバイスしてくんないかな。もし良さそうな本とかあれば借りたいし」
 冷静に、冷静に、という思いとは裏腹に、声に焦りが出る。
「私で役に立つかなー。スミカの方が適任かも知れないけど、一応じゃぁ待ってるよ。部屋に来て」
 健人はほっと胸を撫で下ろした。
 誰かが急に帰ってきた場合を想定すると、どちらかの部屋で話をした方が良いと思っていたのだ。
 結局、葉子の部屋に行く事になった。
 シェアハウスに越して来て、初めてだ。


 水色のドアがノックされ、「どうぞ」と葉子が声を掛けた。
 葉子は部屋の真ん中にある毛足の長いラグに座っていて、「どうぞそこに」と対面を促した。
 無言のまま健人はそこに座った。手には資料も何も持っていなかった。
 部屋を見渡す。ベッドはロフトに置いてあるのだろう。ピアノと一本のギター、アンプとカラーボックスが置かれていた。
 晴人の部屋にあるのと同じらしいシドヴィシャスのポスターも貼ってあった。
「あれ、資料は?」
 目を見開く葉子に「ごめん」と一言、消えいるような声で健人は言った。
「本当はそれが目的じゃないんだ。話があって。どうしても二人で話したくて」
 葉子は崩していた脚を正座に座り直し、双眸で健人を見つめた。
「うん、どうした?何があったかお姉さんに言ってごらん」
 健人の顔を覗き込むようにして葉子が見つめて来るので、健人は我慢堪らず目線を外した。一世一代の大勝負。
「俺さ、葉子の事が、好きでさ。それを伝えたくて」
 葉子は、唖然として口を開いたまま、固まった。
「す、すき?え、何それ?私?」
「うん。葉子」
 言葉にして言ってしまった方が案外リラックスできるんだな、と健人は知った。逆に葉子は固まったまま健人から目線を外し、ぎこちなく頭を掻いた。
「健ちゃんは――健ちゃんの事は好きだけど、そういう好きとはちょっと違って、何と言うか、弟みたいに好き、なんだ。分かるかなぁ、この気持ち」
 これを聞いて恋愛対象から外れている事を自覚しない程、健人は馬鹿でも鈍くもない。
「うん、分かるよ」
「好きなんだよ?凄く好きなんだよ?でもそう言うのとは違うの。私、健ちゃんのお姉ちゃんみたいだから」
 必死になって「好き」を連呼する葉子もまた、可愛いくて残酷だなと健人は思う。
「そういう『好き』でも、俺は嬉しいよ」
 これは真実では無かった。そういう「好き」を求めている訳ではない。だけどもう、自分に勝ち目がないことが分かった今、彼女にしつこくまとわりつくのは男としてのプライドが許さない。
「これからも、今までと同じように、仲良しでいたいの。ほら、こういうのの後ってギクシャクするじゃん?そういうの、嫌なの。健ちゃんの事好きだから」
 毛足の長いラグをバシバシ叩きながら葉子は力説する。
 健人は黒縁メガネの向こうから、穏やかな微笑みを放つ。
「好きだ」と連呼されても、健人の手には入らない、葉子。
 それでも、想いを告げられただけで、自分は進歩したと思った。
 今までは晴人の後姿に嫉妬するばかりだったから。今は、晴人のいない舞台に立っている。
「健ちゃん立って」と促される。共に葉子も立ち上がる。
 目の前に立った葉子の両腕が、健人の身体を柔らかく包み込んだ。葉子の頭が、健人の口元をかする。
「こういうことしても、嫌じゃない位、健ちゃんの事は好きだから。これからも仲良くしてよね」
 健人は苦笑いしながら葉子の腰に手を回した。
 残酷な姉ちゃんを持ったな、そう思いながら柔らかな彼女の身体を優しく抱きしめ、片手で彼女のロングヘアーを撫でた。
 ほのかにシャンプーのような匂いが香った。
「実験の質問は、スミカにするから」
 彼女を抱きしめたままそう言うと、葉子は健人を突き放した。
「健ちゃん、初めからそのつもりだったな?私の知識を信用してないな?」
 ハハッと短く笑って、健人は部屋から去って行った。
 葉子はほっと胸を撫で下ろした。
 健人にはこういう事が出来るのに、何で、何で晴人には――。


9:切欠

「葉子は部署のバーベキューだって」
「へ?このクソ暑いのに?」
 七月に入り、ダイニングキッチンを照らす天窓はカーテンで覆った。
 日差しが容赦なく照り付けるからだ。
 古びた脚立を晴人が支え、健人がそれに乗っかってカーテンを取り付けた。
「麦茶飲む人ー」
 晴人も健人も「はーい」とだる気に手を挙げた。
「俺、一杯飲んだら出かけるわ」
 晴人が誰ともなしに言った。
「このクソ暑い中、どこ行くの、兄ちゃん」
「彼女んとこ。ちょっと危機的状況でね」
 あちこちに散らばせた髪をぎゅっと掴んだ。
 スミカがお茶を三つ運んできて、テーブルに置いた。氷が涼しげで、健人はわざと指で氷を転がしている。カランカランと風鈴の様に音が鳴る。
「ねぇ、葉子とはどうなったの?」
 隣に座る健人に話しかけたのはスミカだった。
「そうだよ、その後どうなった?告ったの?」
 好奇心丸出しで向けるその顔が何だか可笑しくて、健人は笑ってしまった。
 ヒトってのは何でこうも、他人の恋愛に首を突っ込みたくなるんだろうか。
「あぁ、伝えたよ。好きだって」
「で、返事は?」
 スミカは健人の顔の間近まで顔を近づけて、訊いている。
「ちょ、近い。返事はまぁ、弟としてしか見れないって事だった」
 スミカは大げさに落胆する仕草をした。あくまでも仕草だ。
「それは残念だったね」
「いいんじゃないの?弟として好きだって事なんだろ?好きに変わりは無い」
 まぁね、と健人は間抜けな返事しか出来なかった。間抜けなのは兄ちゃんか。
 弟として好きだなんて、そんな返事は欲しくなかったんだ、本当は。
 俺は葉子の彼氏になりたかったのだから。
 葉子の事は俺が守りたかったのだから。
「さて、俺は自分の恋愛を立て直しに行ってくるわー」
 さも面倒臭げに顔を歪ませ、玄関へ歩いて行った。ブーツのジップを上げ、ドアが閉まる音がする。
 リビングは健人とスミカの二人になった。しばしの静寂を破ったのは、スミカだった。
「本当は、弟扱いなんてして欲しくなかったんでしょ」
 スミカの言葉にそれまで俯いていた健人は顔を上げた。
 外国の人形みたいな顔が、こちらを見つめている。こんなに整った顔の人間を、今まで見た事が無い。そんな事を思った。
「そりゃそうだよ。こんなにマイルドな失恋をする事になるとは思ってもみなかった。気を遣わせたのかも知れない」
 その聞きなれない言葉に違和感を覚えたスミカは「マイルドな失恋って?」と訊いた。
「最後に、抱きしめられた。こんなに残酷な事って、あるか?弟に、抱き付いて好きだなんて言う姉ちゃんが、いるか?」
 普段口数の少ない健人が早口で、珍しく自身を晒し出している。
 健人は自分の脚の間に顔を埋めて肩を震わせている。
「まぁ、今までは兄ちゃんに先手を取られてばっかりだったけど、今回は俺が先んじて行動できたし、後押ししてくれたスミカと兄ちゃんには感謝してる」
 少し震えた声を悟られない様に押さえてゆっくり静かに話そうとしているのが、スミカには伝わった。
 彼の痛みを、分かってあげたい。
「健人――」
 その声に健人はゆっくりと顔を上げた。健人の目尻に少しだけ、光る物を捉えたスミカは、思わず顔を近づけた。
 触れるだけの優しいキスをした。
 スミカの長い睫毛が、健人の頬に触れた。
 健人は目を瞬かせ、手品でも見せられたかのようにスミカを不思議な顔で見つめている。
 スミカは潤んだ瞳を伏せて「ごめん」と一言呟いた。
 そのまま自室へと戻った。


 玄関が開く音がしたのは夕方近かった。
 昼過ぎからずっと健人は、ソファに座ったまま呆けていた事になる。
「たっだいまー」
 声の主は葉子で、何も知らない彼女は馬鹿みたいに明るい。
「あれ、健ちゃん一人?」
「上にスミカがいるよ」
 ふーん、と言って健人の対面ではなく隣に腰掛けた。
「ちょっと見てよこれ、時計の痕くっきり日焼けしちゃったよ」
 半袖焼けもほら、と袖をまくって見せた。
 破壊的な鈍さだな、この人は。そんな風に健人は思い、視線を外した。
 エアコンの温度を一度下げた。顔が熱くて仕方が無かったからだ。


10:二十五年

 網戸にされた掃出し窓から、煙草の匂いがうっすら運ばれてきて、晴人が煙草を吸っている事に気づいた。
 葉子はロフトのベッドに入っていたが、未だ眠れなかった。
 先日の、健人からの急な告白が、まだ脳裏に焼き付いて離れない。
 彼の好意を無下に押し退けても、ルームシェアという特殊な関係に何らかの変化が訪れる事は予想できたから、あんな中途半端な断り方しかできなかった。
 それに――好きになってしまったのは彼の、兄だ。そこに嘘を吐いて、弟と付き合って行く事など、苦しくて出来ない。

煙草の匂いが消える前に、葉子は作り付けの階段を下り、ベランダへ出た。
 新月の今日、街灯と煙草の火だけが光っている。
「よー」
「何だ、起きてたのか。煙かった?」
「いやいや、何か眠れなくて」
 空き缶で作ったらしい灰皿には、ラモーンズやピストルズのステッカーが貼られている。
 そこに灰を落としながら目を細め、煙草を吸っている。
「暑かったねぇ、今日は凄い日焼けしちゃった。夏にバーベキューやるっていう考えが下手こいてると思うんだな」
「俺も火傷しちゃったよ。心の」
「――はい?」言葉がうまく脳に入って来ず、葉子は混乱した。
「頭の中も火傷しちゃったの?カオス?」
 ハハッと晴人は短く笑い、「心だけだよ」と言った。
「彼女と別れたんだ」
 葉子は息を呑んだ。「何で――」
「新しい男が出来たんだとさー。前から怪しいとは思ってたんだけどね」
 顔ではおどけて見せているけれど、目が、笑えていなかった。
 きっと必死で自身のプライドを支えるために、何ともないような素振りをしているだけで、本当は心に深いを負っているのであろう事は、葉子にも想像がついた。
「葉子にチケットを譲ったあの日はもう、その男と出来てたみたいだな」
 顔を顰めながら煙草を吸う晴人の横顔を見ていた。ベランダの柵に寄りかかり、上を向いて紫煙を吐く。
「辛い?よね」
 分かり切った質問だと分かっていながらも、それ以外に適当な言葉が見当たらなかった。
「まぁな。辛いけど、それを忘れさせてくれそうな人が他にいるから、きっと大丈夫だ」
 え、他にもいるんだ――葉子は落胆した。
 男女の付き合いって、こんなものなのか。
 一つ駄目になる時に備えてもう一つ。備えあれば憂いなし?健人もそうなんだろうか。
「うまく――その人とうまくいくといいね」
「うん、そうだね」
 こんな風に次から次へと手を変え品を変え恋愛をしているような男に、葉子は惚れてしまっていた。
 煙草の火が明るくなったり暗くなったりするのをじっと見つめて考えた。
 こんな人が相手じゃ、自分の思いは届くはずもないや――。
 諦めに似た感情が沸いた。

 ベランダの端に座った。何も言わず、すぐ隣に晴人が座ったので、葉子の顔が火照った。これは日焼けのせいだと自分に言い聞かせた。
「葉子は彼氏とか、いないの?スミカはいるみたいだけど」
 お手製の灰皿に灰を落とす。煙は葉子とは反対側へ流れていく。
「彼氏とかね、いないの。ずっと」
「ずっと?」
「ずっと」
 しばし沈黙が流れた。晴人は短くなった煙草をもみ消し、灰皿をそこに置いたまま、急いで一度部屋に戻り、再び新しい煙草を手に、戻ってきた。
「ずっとって一度も?」
「ないよ。二十五年間」
 晴人は呆気にとられた表情で、葉子を双眸で捉えていた。もう、葉子はそんな表情をされる事にも慣れた。
 彼氏いない歴と年齢がリンクしている事が、こんなにも驚かれる歳になってきたんだな、とは思う。それでもずっと彼氏がいない事が、恥ずかしくは、なくなっていた。
「好きになった人とかは?」
「そういう人には大抵彼女がいた」
 あぁそうか、と晴人はうまく言葉が探せずにいた。
「理想高いの?」
「そんな事無いよ、趣味が合えば大抵好きになっちゃうから」
 言ってから、しまった、と葉子は口を押えた。幸い、晴人がその言葉を気にしている素振りはなかった。
「葉子って、見た目ブスじゃないけど平凡だもんな」
 葉子は拳を握って晴人にパンチをした。ケラケラと笑われた。
「晴人の彼女だった人は、綺麗な人だった?」
 晴人は蒼黒い空を見上げて「うーん」と呻くように言った。煙草を一度吸って、吐いた。
「綺麗っつーか、クールだったな。あんまり笑わないし、アホな事しないし。誰かさんと正反対?」
 もう一発、拳を打ちこんだ。また晴人はケラケラ笑う。
 きっと誰もが羨むクールで美人な彼女だったんだろうと想像した。
 葉子は自分が平凡で、どこにでもいる女であることはきちんと自覚しているので、嫉妬心の一つも沸かない。
「忘れさせてくれそうな人は、どんな人?」
「そいつはアレだ、彼女と、あ、元彼女と真逆のタイプだな」
 返ってそっちの女に嫉妬心が沸いた。自分と同じようなタイプなのだから。
 いや待て、それでも見た目は綺麗なのかもしれない。それでは太刀打ちできないではないか。
 葉子は自分の頭の中で繰り広げられる妄想ワールドからなかなか抜け出せなかった。
 晴人は煙草を大きく吸った。
 どうやら鈍感な葉子は気付いてくれないらしい、そう思った。
 さすがに男と付き合った事が無いという言葉には驚いたが、何かしらこだわりの強そうな葉子だから、何となく分かる気がした。
 何せ目覚ましに「アナーキーインザUK」をかける女なんて、なかなかいない。
 コロコロ表情を変え、ゲラゲラ楽しそうに笑う葉子が、クールだった彼女の存在をかき消してくれればいい、そう晴人は思っていた。
 弟には告白を促しておいて、自分は何もできない。全ては思い通りに運ばないのだと、ここ最近実感するのだった。


11:譲歩

 晴人も葉子も同じことを考えていた。
 最近、健人とスミカがお互いを避けているように見える。
 四人という狭いコミュニティの中でこういう事が起きると、すぐに分かってしまう。
 気づかれている、とスミカは自覚していた。
 今の状況をどうにか脱しなきゃ。そう、考えて、夜を迎えた。

 階下から物音が聞こえなくなった。もう皆、寝静まったのだろう。
 隣の部屋の電気がついている事は、自室の窓から確認できる。隣の窓は開け放っているのだろう、パソコンのキーボードを叩く音もする。
 まだ、健人は起きている。今がチャンスだ。
 スミカはスリッパを履いて自室を出て、隣のドアをノックした。
「はい?」
「スミカだけど、入っていい?」
 そう声を掛けると、足音が近づいて来て、無言でドアが開けられた。
 初めて入る健人の部屋。飾りは何もなく、ベッドと机と本棚が置かれている、彼らしい清潔感のあるシンプルな部屋だった。
「勉強中だった?」
「いや、論文書いてた」
 本当は論文を書きながら、ずっと考え事をしていたが、そこまで伝える必要はないと判断した。
 そこ座って、とベッドを指差し、健人はパソコンデスクの椅子に腰かけた。
「何かその、ギクシャクしてるじゃない?」
 スミカは下を向いたまま、意味不明なジェスチャーをした。
「してるねぇ。あんな事があったんだから、ねぇ」
 黒縁眼鏡の位置を直し、頷く。
 彼はあれから色々考えていた。
 あのキスが、何かの意味を孕んでいるキスならば、自分は受け入れるべきなのだろうか。
 そもそもあのキスに、同情以外の意味が含まれていたのだろうか。
 海外でいう所の「ハグ」みたいなものなのだろうか。
 いずれにしても、スミカ本人に真意の程を訊かなければ、答えは導き出せない物だった。
 スミカは俯いたまま、布団のカバーをぎゅっと握りしめた。
「あのキスは――私、健人の事が好きになっちゃったみたいで、それで――」
 健人は静かに頷いた。仮説その一が正解。
「同情とかではなかったって事?」
 コクリと頭を垂れたスミカは「同情じゃない」と言った。
 それまで項垂れていた顔を上げ、しっかりとした声で続けた。
「今付き合ってる彼にはない魅力が、健人にはあるの。健人がもし、私を受け入れてくれるなら、私、彼と別れようと思ってる」
 健人は眉根を寄せて、「そんなのはおかしい」と言った。
「何で付き合ってる人がいて、俺に告白するんだよ。おかしいだろ。ズルいよ」
 スミカは黙って再び俯いてしまった。暫く沈黙が続いた。パソコンの稼働音が響く。
 眼鏡を外し、目を擦った健人は、もう出てってくれと言いかけた。その瞬間、スミカが動いた。
 一度部屋を出て、自室から持って来たピンクの携帯電話を耳にあてている。
「あ、スミカだけど、寝てた?」
 相手は彼氏だろうと容易に想像がついた。
「もう、一緒にいるの疲れた。好きな人が出来たから」
「そう言われても、もう、気持ちは固まってるから」
「知らない。でも好きなの。断られてもいいと思ってるから」
「じゃぁ」
 スミカは通話終了のボタンを押し、電話を切った。
「別れた」
 彼女の行動力に唖然とした。「正気かよ――」健人はぽつりと言った。
「もう私はフリーになった。だから健人、好きなの。受け入れてくれるなら隣に座って。無理なら無理ってはっきり断って」
 そう言われて、健人は考え込んだ。椅子のキャスターを動かしながら、行ったり来たりしながら、懸命に頭を働かせた。
 俺がスミカを受け入れれば、スミカはもう、あの二人の邪魔はしないだろう。
 俺と同じ疎外感を感じているスミカを、俺は救ってやれるかもしれない。
 俺は葉子を、忘れられるかもしれない?そこは疑問だが。
 椅子からスクっと立ち上がり、スミカの隣に腰を掛けた。
 すぐ隣に、人形の様に整った、綺麗な顔がある。それが徐々に近づいて来た。
 健人はそれを受け入れ、彼女の背に腕を回した。そのまま重なった。

 スミカの携帯電話が健人のベッドから転がり落ちた。


12:鈍感

 翌朝から変わった事がある。
 スミカと健人の間に会話が生まれた。
 晴人も葉子もほっと胸を撫で下ろした。

「スミカ、俺ジャム塗るからハムとチーズ乗っけないで」
 晴人は冷蔵庫からブルーベリージャムを取り出し、テーブルに置いた。
「朝はハムチーズトーストで決まりでしょうが」
「何でハムエッグとハムチーズトーストなんだよ、ハムが被ってんじゃんか」
 葉子と晴人は朝から騒がしい。
「そもそもハムの縁が噛みきれな、あぁぁぁ!」
 晴人のスーツにブルーベリージャムの紫色が飛び移った。
「あぁ、何やってんのー」
 手早くウエットティッシュとティッシュをとり、葉子は晴人のスーツについた紫色を拭った。
「スーツなんて着てカッコつけて朝飯食ってるからだよ」
「女が『あさめし』とか『食ってる』とか言うな」

 そんな騒がしいやり取りの横で、スミカと健人は静かに朝食を食べていた。
 まるで、老夫婦の様に、時々ぽつりと会話し、見つめ合い、微笑み合っている。

 葉子とスミカ、晴人の三人で駅まで歩く途中に問いただした。
「スミカちゃん、一体あなたと健ちゃんの間に何があったの?」
 晴人も歩きながらにして身を乗り出している。
「実は、健人と付き合う事になったんだ」
 えぇぇぇぇぇ!!と示しを合わせたように叫んだ二人に、スミカはクスっと笑った。
「何?何ゆえにそうなった?」
 答えを急く葉子を、諌めるように「そんながっつかなくても」とスミカは微笑む。
「色々相談を聞いてるうちにね、何となくそういう関係になったんだ」
「でも健人は葉子の事――」
 葉子は息を呑んで晴人を見た。
「何でそれ、知ってんの?!」
 晴人は口を滑らせた事を後悔し、スミカは余裕綽々の笑顔で言った。
「皆知ってるって。お蔭で健人と結ばれたようなもんだから、感謝しないと」
 葉子にはよく意味が分からなかった。
「もー何でみんなそうやって、くっついたり離れたり、簡単にできちゃうのかなぁ」
 少し悔しくもあったし、不可解でもあった。
 葉子は好きだと思った人間以外からのアプローチは絶対に受けないし、惚れた人が何人もいるなんていう状況にもなりえない。
 健人みたいに、好きだと言った傍から別の人間と付き合うなんて、有り得ない。
 ただ健人の事だから、色々と考えあぐねてこういう結論に達したんだろうと思うと、彼を責める気にもならない。
「こうなったら結婚まで貞操を守ってやる」
「何言ってんのこの人」
 晴人とスミカは顔を合わせて笑った。


「葉子ー」
 最近、晴人はドアからではなく、ベランダから部屋を訪問する事が多くなった。
「何でそっちからくんの」
 網戸をガラガラと開けると、「失礼」と言いながら晴人が部屋に入ってきた。
「なぁ、もうこのチケット取った?」
 目の前にぶら下がっているのは、丁度今からネットで買おうと思っていたチケットだった。
「今から買う所だけど」
 パソコンを指差したその画面は、まさに「購入」ボタンをクリックする寸前だった。
「待て、早まるな、俺と一緒に行け。チケット二枚あるから。な」
「誰かと一緒に行くんで二枚買ったんじゃないの?」
 この鈍チンがっ!と叫びたいのをぐっと抑えて「違う」と答える。
「葉子がきっと行きたがるだろうなーと思って、仕事中にささっと二枚取ったんだよ」
「マジでか」
「おう」
 驚いた顔から、花開いた笑顔に変わり、晴人は少し照れくさくなった。
「俺さ、彼女と別れてから、一緒にライブ行く奴もいなくなったし、これからは葉子の事誘っても、いいか?」
 晴人にとっては殆ど告白に近い言葉だったが、勿論鈍い葉子には届いていない。
「うん、いいよ。お金は請求してね」
 あぁ、と苦笑し、自室へ戻った。
 葉子は晴人が部屋から出て行った途端、ブラウザを閉じて、毛足の長いラグに突っ伏した。
 突っ伏したまま、脚をバタバタとさせて悶えた。
 葉子の事、誘ってもいいか?だって。もう、どうにでもしてー!

 四人でテーブルを囲み、夕飯を食べていた。
「スミカのから揚げ、美味いなぁ」
 晴人はパクパクと自分の皿に乗ったから揚げを口に入れていく。
 そこに、葉子は自分のから揚げを一つ、のせた。
「チケットのお礼だお」
「お、って何だよ、気持ち悪い」
 その遣り取りを健人は黒縁眼鏡の奥から静かに見守った。

 邪魔者二人がいなくなった今、葉子と兄は交際に発展しないんだろうか、健人はそんな事を考えていた。
 夜遅くに喉が渇いてキッチンへ降りて来た時、ベランダから二人の話声が聞こえた事があった。
 時々そうやって、ベランダで語らっているんだろうなと思い、その時は嫉妬した。
 今でもそういう風にして、お互いの距離を縮めているんだろうか。
 健人は時折、スミカの部屋とを行き来して、二人の時間を作っている。
 それが何だか、葉子に申し訳ないような気がしてならない。
 葉子の事が好きだ、と言ったその言葉に嘘はないのに、そのすぐ後にスミカと付き合う事によって、それを反故にしているようで、いい気分ではなかった。
 純粋な葉子にとって、俺は悪魔の様な存在でしかない。
 そんな事もあって、彼らがうまく行くといいのに、と思う。


13:本当のところ

 スミカがルーフバルコニーから眼下を流れる川を見てはしゃいだ。
「人がいっぱい来てるよ!」
 今晩は年に一度の、花火大会が行われる。
 バードハウスの二階、リビングの真上に当たる部分にルーフバルコニーがある。
 今日はここから花火を観る事になっている。
 クーラーボックスに缶ビールや缶チューハイを入れて(健人用にソフトドリンクも少々)、食べ物は宅配のオードブルを頼んだ。
「椅子が一個足りない」
 葉子が言うと、健人が「俺、探してくるわ」とバルコニーを出て行った。
「健人は酒無しかぁ。あいつが酒呑み続けるとどうなるんだろうな」
 ニヤニヤしながら兄とは思えない意地の悪い顔をする晴人の頭を、葉子がうちわの縁で叩いた。
「私の可愛い弟をいじめないで」
 スミカはクスクス笑っていた。
 椅子もそろった頃、夜空はもう濃い群青色に染まっていた。
 第一発目の大きな花火が、夜空に広がった。
「カンパーイ!」
 健人の一本目の飲み物は缶ビールだった。これは晴人が「社会人になったらな、一本目はビールって、決まってんだからな、慣れておけ」と言ったからだ。
「アルコールに強い弱いって、遺伝で決まってるとか言うよね」
 葉子がそう言うと、スミカもうんうんと頷いた。
「うちは母ちゃんも親父も呑めないから、俺も呑めないんだと思う」
 健人はそう言ったが、「じゃぁ俺は?」と晴人が疑問の声を上げた。
「そりゃ晴人の実のお父さんが呑める人だったんじゃない?」
 そうか、と深く頷いていた。
「とにかく小久保家で呑めるのは、兄ちゃんだけだな」
「実家帰っても、誰も呑まないからさぁ、退屈だよー、夜なんて」
 はい次はこれねーと、健人に缶チューハイを渡す兄。
「そろそろやばいよ、目ぇ回ってきたし」
 嫌々言いながらも、兄の言う事には抗えず、缶チューハイを開けた。
「酷い兄ちゃんを持ったねぇ、健ちゃん」
「健人、やばいと思ったら呑まなくていいからね」
 女性陣二人は健人を励ましつつ、誰もソフトドリンクを提供しなかったのは、酔いすぎた健人の姿を見てみたかった、という裏のいたずら心がある。

 四本目のチューハイを呑んだところで、健人に異変があった。もう、見た目も声も、ぐでんぐでんだった。
「葉子ぉー、隣座ってよー」
 手すりに寄り掛かって花火を観ていた葉子はびっくりして、椅子を持って健人の隣に座った。反対隣りにはスミカがいる。
「こうやって、葉子とぉ、花火見たかったんです俺はー」
 そう言って葉子に凭れ掛かり、腕に巻きついてきた。
「ほら健ちゃん、寄り掛かるのはこっちじゃなくて、スミカでしょ」
 スミカは笑ってはいるが、どこか引き攣っていた。それは鈍い葉子にだって分かった。
「ちーがーうーの。葉子なの。俺と一緒に花火見るのー」
 そう言って、かなりの強い力で葉子の腕を引き、ヨタヨタしながら手すりの所にたどり着くと、葉子の肩に健人の腕が回った。
 スミカはそれを後ろから見ていたが、さすがに耐え切れなくなり下を向いた。
「深層心理、ってやつ?」
 スミカの隣には、ビールを手にした晴人が座った。スミカはそれを無言で見遣った。
「アイツ、ここんとこ色々あり過ぎだったもんな。葉子に告白して振られて、スミカに告白されて受け入れて。波乱万丈だよ」
 スミカは面白くなかった。自分を受け入れてくれた健人が、酒が入っているにしても「葉子」「葉子」と彼女に縋っていく姿は認めたくなかった。
「まだ、葉子の事、好きなんだろうね」
 スミカがぽつりと言うと、晴人は顔を傾げた。
「それはどうかな。もうさすがに諦めてるだろ。なんつーか、毒出し?デトックス?この場で要らない物全て吐き出させてさ、終わりにしよう」
 スミカの目線の先にいる二人は、キスでもしそうな位の距離に顔と顔を近づけていた。無論、葉子は少し仰け反っていたが。
「だめだ、見てられない」
 スミカは立ち上がって彼らの方へ行き、健人を担ぐようにしてバルコニーを出て行った。
 葉子は大きくため息を吐きながら、椅子に座った。
「なんじゃ、君の弟は――」
「酷い酔っぱらいだったなぁ、面白かったなぁ」
 もうダメとばかりに顔をブンブン振って「面白くない」と言う葉子に、「スミカが気にしてた」と告げた。
「やっぱり。そうだよね。私もされるがままにならなきゃ良かったかな」
「葉子のせいじゃないよ」
 ビールをぐっと喉に押し込んだ。
「まだ好きなんだな、葉子の事」
 スミカには否定してみせたが、やはりこれが本当の所だろうと思い、葉子にはそう告げた。
「スミカと付き合ってるのに?」
「まぁ人間、そう単純には出来てないって事ですよ」
 一際大きな花火があがった。星屑の様に儚く散っていく。
「好きな人が好きな人と一緒になれたらいいのにね」
 酷く単純なその言葉に、晴人は感嘆させられた。
 それが当たり前の事なのに、保身の為に好きでもない人と付き合ってみたり、好きな人に辛く当たってみたり、奪い合ってみたりするのが人間だ。
 葉子の様にシンプルな考え方をする人間が増えたら、世の中はどれほどハッピーになるか、想像がつかなかった。
 そして葉子も晴人も、互いに思いあっている相手が隣に座っているのに、想いを告げられずにいる事が歯痒かった。

「健ちゃん、あのまま寝ちゃった」
 そう言いながらバルコニーにスミカが戻ってきた。
「大丈夫だった?」
 色々な意味を含めて葉子は訊ねた。
「うん、大丈夫。譫言みたいにスミカ、スミカー、ってめんどくさかったけどね」
 本当は違う。葉子、葉子、と健人は言っていた。スミカが隣に居るのに、葉子、葉子、と。
 葉子には嘘を吐いてみたものの、何となく晴人には嘘がばれている気がした。


14:ツイン

 それから幾度か、葉子と晴人は一緒にライブに出掛けた。
 何だかんだ言い争いをしつつ、結局は仲良く帰宅する二人を、スミカと健人は温かく出迎えた。

「今日はどこまで行くんだっけ?」
 夕飯は要らないと言う葉子の言葉を聞き、スミカが尋ねた。
「恵比寿のライブハウス」
 例の如く晴人が葉子の分のチケットを取ってくれたので、今日、金曜の仕事帰りに行く事になっている。
「恵比寿の駅についたら電話すればいい?」
「そうだな、俺もそうするわ」
 朝、そんな風に約束をして、家を出た。

「もしもし、葉子だけど」
『あ、もう着くから、改札のとこにいて』
 程無くして背の高い晴人の姿が見えてきた。
「おーい」
 葉子は大きく手を振り、晴人はひらりと右手を上げた。

「いつもさぁ、ライブ中に携帯落としそうで怖いんだよね」
「俺、ロッカーに入れちゃうけど、いつも」
 え、そうなの!と素っ頓狂な声を出した葉子に晴人は言った。
「ウォレットチェーン外れた事無いし、はぐれる事はないでしょ。葉子もロッカーに入れちゃえば?」
「そうだねぇ、そうしようかな」
 貸しロッカーに、二台の携帯電話が並んだ。
 いつも通り、二人の間はウォレットチェーンで結ばれた。
 葉子はやっぱりどこか恥ずかしく、毎回顔を赤らめてしまう。その顔にも晴人は慣れてしまう程、二人はライブを共にしていた。

 ライブが終わり、ふと横を見ると、ある筈のウォレットチェーンが無い事に葉子は気づいた。Tシャツを捲ってベルトループを見ると、千切れた跡があった。
 焦って見回しても、まだ人ごみの中で、男の人が多い事も手伝ってなかなか晴人の姿を見つけられずにいた。
 そのうち会場内から人が掃けていったので、今度こそ見つかるだろうとその場を動かずにいたが、スタッフの男性が「閉めますので、ロビーに出てください」と退場勧告に来た。
 晴人が、いない。携帯もない。葉子が携帯を持っていたところで、晴人は携帯を持ち歩いていない。
 ロビーは会場から締め出された人間で溢れかえっていた。
 煙草の煙が立ち込め、あちこちで酒を呑む人が座り込んでいる。トイレは行列が外まで続き、とにかく人が多い。
 どうしよう、どうしよう、見つからない。
 ロビーの中をあちこちうろうろしていると、ロビーもだんだんと、人が掃けていった。
 人の波が去った向こうに、ウォレットチェーンの端っこを手に持った晴人が立っていた。
「晴人!」
 葉子は晴人の元へ走り寄り、抱き付きこそしないものの、飛びつきそうな、そんな勢いだった。葉子の目が、潤んでいたのを晴人は双眸で見つめていた。
「見つからなかったらどうしようかと思ったよ」
 声は殆ど、涙声だった。もう少しで目から雫が零れ落ちそうな位、涙ぐんでいる。
 反射的に晴人は自分の胸元に彼女を抱き寄せた。
「葉子がいなくなったらどうしようかと思った。見つけられなくてごめん」
 そのまま頭を撫でた。葉子は彼の胸にうずくまる様にこすりついたが、そのまま彼を見上げたと思ったら、ドンっと身体を突き放した。
「ちょ、何で抱き付くかぁ!」
「そういう雰囲気だったでしょーが!」
 全くもう、とお互いぶつくさ言いながら、晴人が持っていたロッカーのカギを開け、携帯で時刻を見た。
 二人は目を合わせた。
「まずくない?」
「まずいでしょ」
 完全に終電がいってしまっている時間だった。
 否、終電があったとしても、途中駅までだ。横浜方面へ向かう電車はない。
「夜行バス?」
「あるわきゃないだろ」
 ライブハウスから出て、とりあえず駅に向かった。その間に帰宅策を練ったが、「大枚はたいてタクシー」しか意見は出なかった。
「葉子が嫌じゃなければ、だけど――」
 ん?と葉子は晴人の横顔を見た。
「あの辺のビジネスホテルだったら安く泊まれるかなって」
 駅の周りにあるビジネスホテルを指差して言った。


「しょーがないでしょーが、ツインの方がいいって葉子が言ったんだから!」
 葉子はツインの意味を理解しておらず、ベッドが二つあるのがツインだと思っていた。
 が、実際ベッドが二つあるのは「ダブル」の部屋で、葉子はダブルベッドが一つの「ツイン」を選択した。
「だったら私、床で寝るからねー」
「勝手にすればー」
 カードキーで部屋に入ると、部屋にはダブルベッド、机と椅子、クローゼットしかなかった。
「ソファぐらいあるかと思ったのに」
 葉子の希望は失われた。
「とりあえず汗臭いから、俺シャワー浴びるわ」
「は、そういうのって女が先でしょうが、レディファースト!」
「どこにレディーがいるんだよ」
 晴人はスタスタと洗面所へ向かい、バタンと扉を閉めた。
 いなくなったらどうしようと不安になるぐらい、好きなのに、どうしてこうやって言い争いになってしまうんだろう。
 くだらない痴話喧嘩ばかりして、全然前に進めない。私が意地を張っているから?
 何故か健人が自分に告白をしてきた事を思い出した。
 彼はシェアハウスの住人で、これからも一緒に生活をしていくのにも関わらず、自分に告白をしてきた。そして葉子はそれを断った。
 伝えればいいんじゃないか?思いを。ダメならそれでいいじゃないか。
 普通のお隣さんとして接していけばいい、それだけ。
 意地を張っているだけでは、前に進めない。そう健人が教えてくれた気がした。

「おい、シャワー空いたぞ」
 洗面所から出てきた晴人は頭にタオルを被ってトランクス姿だった。
「ズボンぐらい穿いて出てきてよ!」
「仕方ないだろ、バスローブしかないんだから」
 ほらね、また痴話喧嘩。
「バスローブでも、着ててよね。下着姿なんて見たくない」
「そーですかー、すみませんねー」


15:おあずけ

 仕方なく、だ。そりゃそうだ、着替えが無いんだから。
 仕方が無く心許ないバスローブに身を包み、洗面所で髪を乾かして部屋に戻った。
 晴人は、見てはいけない物を目の前にしたように、目線を明後日の方向へ向けた。
 好きな女のバスローブ姿?正気の沙汰じゃない。
「本当に床で寝るのか?」
「ん、寝る」
「じゃ、俺が床で寝る」
「私が床で寝るの!」
「勝手にしろ」
「はいはいそーしますー」
 下らない痴話喧嘩だ。いつもの二人のパターンだ。ライブに来ても、ベランダで駄弁っていても、朝ご飯を食べていても、この調子だ。
 なのに何故か、葉子の目からは大粒の涙が溢れ出てきた。
「おい、そんなに床で寝たいのか」
 葉子は頭を振った。そんな事じゃない。もっと、大切な事。嗚咽を殺して、何とか言葉を紡ごうとする。
「こんな風に、言い合いをしたくないの」
 話しながらも壊れた水道みたいに涙が止まる事が無い。
「本当は、本当は、晴人の事が好きなのに、そうじゃないみたいにしちゃうの、私」
 晴人は葉子の顔をじっと見つめた。バスローブの端で一生懸命涙を止めようとしている。
 言うなら俺が先に言いたかった。先手を取られた事が悔しかった。
 今度は突き放されないように、座る葉子ににじり寄って抱きしめた。
「俺もだ。俺も葉子が好きなのに、好きじゃないみたいになっちゃうんだ」
 葉子は一層嗚咽を強めた。今度は混乱から来る涙ではなく、うれし涙であってほしいと、晴人は思った。
 真っ赤にした目を晴人に向けて「本当に?」と顔を傾げた。声が掠れていた。
「本当だよ」晴人は彼女の揺れる二つの瞳をじっと捕らえた。
 その瞳が俄かに細くなり、「良かった」と囁くように葉子は声を出した。
 上を向いた唇に向けて、晴人はキスを落とした。きっと、彼女にとって、初めてのキスだろうと思った。
 葉子は豆砲玉でも食らったような顔をしたので、晴人は破顔してしまった。

 協議の結果、二人ともベッドで寝る事になった。
「触んないでよ」
 そう、釘を刺された。
 晴人はずっと疑問に思っていた事を口にした。
「なぁ、ピアノずっとやってきたのに、何でパンクにのめり込んだの?」
 天井をじっとみつめたまま、葉子は動かない。「笑わない?」
「私ね、中学に入ってすぐの頃、レイプされそうになったの」
 今度は晴人が豆鉄砲を食らう番だった。
「未遂だけどね。未遂で済んだのは、近くを通りかかったお兄さんのお陰で」
 軽はずみに訊いた質問が、こんなにダークな昔話になるとは、思いもしなかった晴人は、「話したくなかったら話さなくてもいいぞ」と言った。
「大丈夫。ここからが本題。その通りかかったお兄さんが、パンクなお兄さんだったの」
 あぁ、と合点がいった。助けてくれたのがパンクスだった、と。
「お兄さんと警察署に行って、その時お兄さんの胸についてた缶バッヂに『セックスピストルズ』なんて印象的な言葉が書いてあったから、ネットで調べたらバンド名だって知ってさ」
 それから芋づる式に関連する音楽を貪るように聴いた。
 同級生にはそういった音楽に精通する人間がおらず、不遇の中学時代を経て、高校生になり、高校時代はパンクスはいても、大抵パンクスな彼女がついていた、と葉子はジェスチャーを交えて説明した。
「だからね、趣味が合う男の人がいると、すぐ好きになっちゃうんだ」
「じゃぁ俺以外に趣味の合う男ができたら、どうする?」
 葉子は暫く沈黙をし、出した答えが「わかんない」だった。
「わかんない、じゃないでしょそこは。そこは『晴人以外にはいかない』とかいう所でしょうが」
 今まで恋愛をしてきていない葉子には、ノウハウがない。雰囲気を読むだとか、空気を読むだとか、そういう小難しい事が出来ないのだ。
「俺じゃないパンクなお兄さんに、ふらふらついてっちゃ、だめだぞ」
「うん」
 ベッドに入って初めて晴人の方を向いた葉子の顔を、彼は両手で押さえて、キスをした。今度は長く長く、息が詰まるほどのキスをした。
 そのままバスローブに手を掛けた。
「ちょーと待った!!」
「なんだよそこでストップかけんのおかしいだろ。逆転裁判かよ」
 痴話喧嘩のスタイルが再発。
「初めてだから」
「そらみんな初めての時ってのはあるだろ」
「そう簡単にさせない」
「なんだよそれ」
 ベッドの端の端の端の方へ葉子は身体を寄せ、布団を被った。
 晴人は自分の爆発しそうな息子さんに向かって「今日は無しだって」と囁いた。

 そのまま朝を迎えた。
 先に目が覚めた晴人は、横にいる葉子の寝顔を見ようと視線を向けると、あらぬ姿で彼女が寝ている事に気づき、思わず布団を掛けてやった。
 殆ど見えてるじゃないか――。
 掛けた布団が邪魔だったのか、いくらか瞬きをしながら葉子が目を開けた。
「朝だよ」
「朝?それおいしいの?」
「朝にセックスすると気持ちがいいんだよ」
 先程の彼女のみだらな姿が忘れられず、葉子に手を伸ばすと、バシっと叩き落された。
「あのねぇ、好きだけど身体はまだ渡さない」
「何だよ、言葉だけかよ」
「言葉だけじゃご不満?」
「あぁ不満だね」
「下半身でしか恋愛できない人間は猿か犬だ」
 葉子はそっぽを向いて、黙ったままはだけたバスローブを布団の中で直した。
 晴人は猿扱いされても仕方がないような状況だった(それは朝だから、というもっともらしい理由があるのだが)ので何も言えなかった。
 沈黙を破ったのは葉子だった。
「折角気持ちが通じ合えたと思ったのにな」
 初めて相手と心が通じあえた。
 良く考えてみればそうだ、晴人自身だって中学の頃、好きだった女の子に告白して受け入れられ、暫くはそれだけでお腹いっぱいではなかったか。
 ただそばにいる、それだけで、と何かの歌詞みたいだと、思いはしなかったか?
 彼女は今、そういう状況なのだ。それを無理やり「セックスしよう」と仕向けるのは酷い話だ。
「じゃぁさ、葉子が『今日なら』って日でいい。俺が煙草吸ってる時にでも、誘ってくれない?絶対乱暴にはしないから」
「今日なら、って日がなかなか来ないかもよ?」
「待ってるから」
「永遠に来ないかもよ?」
「さすがに待てない」


16:事実

 茶色く重い玄関の扉を開けると、キッチンに立つスミカが目に入った。
「ただいまー」
「ただいまでーす」
 スミカはにっこり笑って「朝帰り?」と現実を突きつけた。
「メールした通り、終電を逃しちゃってそれで――ホテルに――」
「ホテル?!」
 スミカが素っ頓狂な声を上げた。
「いや、ビジネスの方ね。泊まってきたって訳で。健ちゃんは?」
 二階の健人の部屋を見遣る。
「さっき朝ご飯食べて、また部屋に戻ったよ。午後からバイトだって」
「あ、そう。では私はこれで」
 葉子はその場をそそくさと離れ、自分の部屋へと戻った。
 スミカの怪訝な顔を見て、晴人が「なんつーか、付き合う事になったっぽい」と打ち明けた。
「え、そうなの?じゃぁ健ちゃんもこれで葉子の事をきっぱり諦めてくれるだろうなー」
 鼻歌交じりに食洗機の中を掃除していた。おめでたい人だ。
 人の心なんてそう易々と変わる物じゃない。
 晴人と葉子が付き合い始めたって、きっと健人は葉子に気持ちが残ったままだろう。
 だが、可愛い弟だからとて、ここは譲れない。葉子は俺の物だ。
 涙をぽろぽろ流しながら想いを告げてくれた彼女の姿は、俺だけの物だ。

「あ、兄ちゃんお帰り」
 二階から健人がスタスタと降りて来た。
「スミカ、何か食い物ある?」
「クッキーならあるよ」
 クッキーの袋と皿を手にし、ソファに座った。
 晴人は自室に荷物を置いてから、リビングに引き返した。昨晩の事を掻い摘んで健人に説明しようと思ったからだ。
 健人はお皿にクッキーをざっと出し、その茶褐色の丸や四角を次々に口へ放り込んでいる。
「健人は昔っからこういう、水が飲みたくなるような食感のお菓子が好きだよな」
 口をもぐもぐさせながら「そだね」と頷く。
 暫くその様を見ていると「何か言いたげな顔だね、兄ちゃん」と指摘され、「さすが我が弟よ」と晴人は応戦した。
「俺と葉子な、付き合う事になった」
 クッキーに伸びた手が、一瞬止まった。が、また動きだし、「そうなんだ」と健人が吐き出した。動揺はひとつも隠し切れていない。
「お前に葉子の事けしかけといて悪いとは思ったけど、自分の気持ちに正直でいたいからな」
「ふーん、正義漢」興味なさ気にクッキーを口に入れているが、本当は気になって仕方がないという事が、兄の晴人には見透かされている。
「で、セックスの一回や二回、してきたの?」
 キッチンから「健人!」と窘めるスミカの声がした。
「してないよ。キスはした」
 また手元が、一瞬止まる。やはり、葉子の事をまだ気にしているのだと言う事が、ありありと解る。
 自分が葉子の一番初めの男でありたかったという健人の思いは、兄の所為で脆くも崩れ去った。
 まだお皿に残るクッキーを再び袋に戻し、スミカの所へ「ごちそうさま」と持って行くと、その足で健人は葉子の部屋のドアをノックした。もう晴人からこんな話を聴くのは沢山だった。
 その様子をやれやれという顔で、晴人は眺めていた。
 スミカは明らかに不満そうに長いため息を吐いた。


「どうぞー」
 健人は無言で部屋へ入った。葉子はラグに座って音楽雑誌を捲っていた。
「どうしたの?」
 座っている葉子と立っている健人とでは高さが違いすぎて、見上げると言うよりは、首を傾けるような形になった。
「兄ちゃんと、付き合ってんだって?」
 消え入るような声で健人がそう言うので、葉子はばつが悪そうに頷いた。
「座んなよ」と葉子は促した。

「俺がダメで、兄ちゃんならいいって事?」
 そんな風に言われるのではないかと危惧していた。現実になった。
「前にも言った通りだよ。健ちゃんの事は弟として好き。これは変わらない。ずっとね」
 雑誌をパタンと閉じると、ラグの長い毛足が吹かれて倒れた。
「兄ちゃんの事は?」
「趣味が合うってとこだけなんだよ、違いなんて。でもその差が大きいんだ、私には」
 よく分からないといった顔で頭を傾げる健人を見て、葉子はゆっくりと話した。
「晴人にも話したけど、私ね、レイプされそうになった所をパンクなお兄さんに助けてもらったの」
 晴人と全く同じ反応をしているのを見て、やっぱり兄弟だな、と葉子は破顔してしまった。
「それ以来、好きになるのはみんなパンク好きな人ばっかり。単純な話でしょ?」
「じゃぁ俺がもし、パンク好きだったら?」
 うーん、と葉子は声を詰まらせた。
「難しい話だなぁ。難しいから却下」
 もしも、の話なんてしたって仕方がない事ぐらい、健人には分かっている。
 しかし「もしも」でもいい、男として好きになって欲しい、そう願ってやまないのだ。
「本当に単純なの。健ちゃんと晴人を比較して、どっちの方が性格がいいか、優しいか、そんな風に比べてないの。言っちゃえば、健ちゃんの方が晴人より優しいしね」
 優しさと言う名の凶器を振り回すこの女性に、本当の優しさなんて分かってるんだろうか、はなはだ疑問だと、健人は口にこそしないが感じていた。
「何でも兄ちゃんに持って行かれるんだなー」
「スミカがいるじゃん」
 健人の肩をぐいと押すと力なく後に反れた。
「スミカより、葉子が良かったんだ」
 真直ぐに葉子の双眸を見据えて言う。
「それ、スミカの前で絶対言わないでよ」
 珍しく厳しい顔でキッと睨み、健人を諭した。
 付き合っている女性がいながら、こういう事が言えるのは、恋愛経験が豊富な人の特権か。葉子は健人を外に追い出した。

17:初秋の初夜

「スーミーカーちゃん」
 隣の友達を呼ぶ小学生のような声だ、葉子は自分でそう思った。
 夕食の後、スミカの部屋を訪れた。
 水色のドアをノックすると「どうぞ」と中から声がしたので、ノブを回して中へ入った。
 以前とは違う香水の匂いがした。
 この人は男が変わる度に香水の匂いが変わる。この匂いは対健人用か。
「何かあった?」
 いつものようにカーペットに脚を投げ出して座り、スミカはベッドに腰掛け華奢な脚を伸ばした。
「あのさぁ、セックスってどう?」
 いきなりの質問にブワッと笑ってしまったスミカだが、葉子があまりにも真面目な顔をしていたので、咳払いを一つした。
「どうって言われても――何、晴人とするの?」
 ストレートな物言いはお互い様で、葉子はさっと頬を赤らめた。
「するかどうかは分からないけど、どうしたらいいのかなーって。何か、特別に私がしなきゃいけない事ってあるの?」
 顎をこぶしに乗せて「うーん」と唸ったスミカが「何もない」と答えた。
「あんなの、男に任せておけばいい。痛いなら痛い、気持ちがいいなら気持ちがいい、素直にやっときゃどうにでもなるって」
 ほほー、と頷く葉子が生真面目で可笑しい。
「健ちゃんとスミカもそうやってやってるんだね」
「何か生々しいからそういう事言わないでくれる?」
 嫌悪感丸出しの顔でそう言われ「すみません」と葉子は謝った。
 スミカは窓が開いていない事を再度確認した。こんな話、健人には聞かれたくなかった。
「お邪魔しました。今日のハンバーグ、美味しかったよ」
 そう言い残して、葉子はスミカの部屋を後にした。
 葉子はとうとう、操を捨てるんだな。スミカはチョットだけ親のような気持ちになった。

 窓を閉めている葉子の部屋には、煙草の煙は届かない。
 もう秋だ。冷えはじめた秋の夜でも、晴人は外で煙草を吸う。少しだけ可哀想に思う。
 ベランダを見遣ると、いつもの様に蛍みたいな煙草の光りが、強くなったり弱くなったりを繰り返していた。
 葉子はパジャマの上にカーディガンを引っ掛けてベランダに出た。
「おっす」
「おう、寒くない?」
 カーディガンを握って見せた。大丈夫、と。
「冬になってもこうやってベランダで、煙草吸うの?」
 冷たい風に顔を顰めながら晴人は「そうだね」と言う。
「煙草は値上がりするし、喫煙所は減る一方だし、喫煙者には厳しい世の中だよ」
 悲観するような顔付きで灰皿に灰を落とすので「やめたらいいじゃん」と言うと、「そんなに簡単にやめられないの」と返ってくる。
「ねぇ、寒いでしょ。温めてあげるって言ったら、どうする?」
「は?」
「セックス、してもいいよ」
 葉子の顔をまじまじと見ながら、手元を見ずして灰皿に煙草を押し付けると、夜風に灰が少し舞い上がった。
「行くぞ」葉子の腕を掴み、ベランダから晴人の部屋に入り、葉子はベッドに押し倒された。頭上に置かれた灰皿からは、煙草の匂いがした。
 スミカに言われた通り、彼に全てを委ねた。
 ベッドの横に貼ってあるシドヴィシャスに、行為を見られている様で、恥ずかしかった。

 思っていたよりも単純で、簡単なものなんだと知った。
 これを好きこのんでやる世の中の恋人たちの気がしれない、そう葉子は思った。
「こんなもんで繋がりあってる人間は、猿か犬だ」
 ベッドの上でパジャマを着ながらそう呟くと、それを耳にした晴人は「またぁ?」とだるそうに項垂れた。
「仕方ないじゃん、人間てそう言う風に出来てんの。男が凸なら女は凹でさ。組み合わさる様になってるの」
「だからそれが猿や犬だって言ってんの」
 晴人は頭をゴシゴシと掻いた。葉子の頭の中では、セックスとは繁殖行為に過ぎないらしい。
「俺たちは、猿や犬とは違う。子孫を残すためにこんな事をする訳じゃないんだよ。犬も猿も、快楽の為に交尾してるわけじゃないでしょ?繁殖行為でしょ?」
 我ながら良い事を言ったと思ったが、葉子には響かなかった。
「じゃぁ晴人は、快楽の為にセックスしてる訳か」
「はぁ?!」
 もう何も言うまいと思い、黙った。この話題をストップさせた。
 丁度パジャマを着終わった葉子に、落ちていたカーディガンを優しく掛けてやった。
「変態、触らないで」
 一喝された。もう何もするまい。


18:一つ星

「健人、入るよ」
 スミカの囁き声が、ドアの向こうから聞こえてきた。
 健人はキーボードに置いていた手を離し、椅子をぐるりと反転させた。
「どうぞ」
 数日に一度、こうしてスミカは健人の部屋へやってくる。
 休日にデートをした事もあったはが、あまり盛り上がる物ではなかった。
 専ら、こうしてお互いの部屋を行き来し、他愛もない話をし、セックスをして部屋に戻るか、話だけで終わるか、そんな関係だから、健人はスミカと付き合っているという実感は沸いていなかった。
 一方のスミカは、そんな関係であっても健人が自分を見てくれるのならそれでいいと、こんな関係を続けいている。無論、健人が葉子に未練タラタラである事には目を瞑っているのだが。
 スミカが健人のベッドに腰掛けると、大抵健人は椅子から腰を上げ、スミカの隣に座るのだが、今日は違った。
 スミカは自分を見る健人の顔つきが、日に日に引き攣っていくのを感じ取っていた。

「今日はここ、座らないの?」
 スミカは人形のような顔を傾かせてベッドをぽんぽんと叩いた。
「話が、ある」
 黒縁眼鏡を一度指で引き上げ、スミカを見遣った健人は、暫し無言になった。
 室内は水を打ったような静けさが流れた。
 痺れを切らしたスミカは「何?」と沈黙を破ったが、彼女自身、これから健人から語られる話は大筋で理解していた。
「関係を、解消したいんだ」
 やっぱり。思っていた通りの展開に、スミカは肩を落とした。「そう」綺麗に手入れされた指先を見つめた。
「ねぇ、あの平凡な葉子の、どこがいいの?どいつもこいつも葉子葉子って、あの子の何が魅力なの?」
 気づくとスミカの眉間には大きな皺が寄せられていて、健人は「そこだよ」と言った。
「葉子は誰に対しても、汚い嫉妬なんてしない。していたとしても、それを誰かに言う事はない。スミカの事を一度でも悪く言った事はない。いつも自分に正直で、一生懸命で、平凡な中にも何か光る物が、あるんだ」
 それは「嫉妬深い」というスミカの中の闇を指摘する言葉で、それも図星で、スミカは目の前が真っ暗になった。
 その闇から這い出るのに必死だった。
「でも、葉子は晴人のものになったでしょ。健人には届かない存在になったでしょ」
 フッと鼻で笑うような音がしたのは、健人の物であった。
「兄ちゃんは、自分に正直でありたいって俺に言った。俺は兄ちゃんに負けたくない。俺も自分に正直でありたいんだ」
 何度くらいついても、「弟としか」と言われても、それでも自分の心に正直でありたい。葉子に惚れている自分を認めてやりたい。
 スミカは顔を上げた。
「手に入ると思ってるの?葉子が自分の手に入ると思ってる?」
 中空を見つめた健人は「そうだなぁ」と思案顔だ。
「絶対に手に入らないとは言えない。でも絶対に手に入るともいえない。百パーセントも零パーセントも無いと思ってる」
 暖かな水分が双眸から零れ落ちるのを感じたスミカは、ベッドに置いてあったティッシュを一枚取り出した。静かな涙だった。
「恋愛で苦労した事なんてなかったのに。何で葉子なんだろう」
 静かに涙を零すスミカは、凄く綺麗だと、健人は思った。
「葉子より綺麗な女なんて五万といる。だけど葉子にしかない物が、多分あるんだ」
 最後にティッシュで目蓋をギュっと押え、「分かった」とスミカは立ち上がった。
「お兄さんに負けない様に、頑張ってよ」
 スミカは泣き顔に笑顔を重ねたような、妙な顔をして笑った。
 そして踵を返して自室へ帰って行った。


19:気づく

 朝、葉子が「アナーキーインザUK」を止めて自室を出ると、キッチンの前には健人が立ち尽くしていた。
 「おはよ、あれ、スミカは?」
 健人は首を傾げるばかりで、口を開こうとしないので、葉子は階段を上り、スミカの部屋をノックした。
「スミカ朝だよ、起きて」
 声を掛けても返事が無い。何度か繰り返すが、部屋は静まり返っていた。
「スミカ、開けるよ?」
 ドアを開けるギギィという音が家に響いた。
「スミカ――」
 布団にくるまるスミカがいた。目は開いているが、どこを見ているのか分からない、ふわふわした目つきだった。
「出てって」
 一言だけ口にして、頭からすっぽりと布団で覆い隠してしまった。
 仕方がないのでドアを閉め、一階へ降りた。
「具合悪いのかなぁ。とりあえずハムエッグ抜きで朝ご飯作ろ」
 健ちゃん手伝って、と声を掛けて朝食の準備をした。すぐ後に休日出勤の為にスーツを着た晴人が部屋を出てきた。
「あれ、スミカは?」
「分かんない。何か具合悪いのかも知れない」
 小首を傾げながら、パンをトースターに入れ、ダイヤルを回した。
「健ちゃんは今日バイト?」
「いや、午後から大学」
 健人はヨーグルトを器に盛り付けながら言い、晴人はコンロでお湯を沸かした。

 朝食の準備が遅れた事もあって、晴人は転がるようにして家を出て行った。
 スミカは相変らず、部屋に籠ったまま出てこない。
「どうしたんだろ、スミカ」
 散らかったキッチンの掃除をしていると、健人が「話、あるから部屋に行っていい?」と葉子に言った。
 話ならここですればいいじゃん、という言葉は寸での所で飲み込んだ。きっと、二階で動かずにいるスミカの事なんだろう。

 例の如く毛足の長いラグに葉子が座り、健人には椅子を勧めたが、健人は「俺も床の方が良い」と葉子の斜向かいに座り、脚を投げ出した。
「スミカ、どうしちゃったの?」
 眉根を寄せて、乗り出すようにして心配をする葉子に、心が痛んだ。
「昨日の夜、二人の関係を解消したんだ」
 双眸を目いっぱいに広げて葉子は息を呑んだ。
「それって別れたって事?」
「うん、まぁそういう事」
 ラグに投げ出された健人の長い脚は組まれていて、何かの彫刻の様に見えるな、と葉子は別次元で考えていた。その脚を見ながら、葉子は話を続けた。
「それで、落ち込んで、出てこないって事?」
 こめかみに指をぐりぐりと押し付けながら「いや、それは分かんないけど」と健人は言うので、葉子は「無責任」と糾弾した。
「俺は自分に正直でありたいって言っただけなんだ」
「抽象的で分かり難いんだよ、健ちゃん」
 葉子は健人の長い脚をべしっと叩いた。健人は黒縁眼鏡の位置を指で直し、一度深呼吸をして口を開いた。
「やっぱり葉子が好きなんだ。しつこいと思われても、やっぱり自分の物にしたい」
 口を噤んだ葉子は、次に何を話したらいいのか分からず、健人の長い脚を単調に、ぺしっと叩き続けた。
「パンクロックが葉子の中で大事な要素だって事は分かった。だけど俺がパンク好きだったら?っていう質問に、葉子は答えなかった。俺みたいな平凡な奴が、葉子をレイプから救ってたら、葉子は平凡な奴としか付き合わなかったのか?たまたまパンクな人だっただけだろ?」
 言われてみればそうだ。たまたまパンクな人だっただけだ。買い物帰りのオバサンだったかもしれないし、ヤクザのお兄さんだったかも知れない。
 今まで自分では気づかないうちに「自分の好みはパンクロックな人」というレッテルの様な物を自ら築き上げ、自分の殻に閉じこもり、狭い世界で「自分の好みの人は皆、彼女がいる」なんて負け惜しみを言って人を遠ざけていたんだという事に、何となく気づかされた気が、葉子にはしていた。
 彼氏いない歴二十五年?それは出会いや楽しみを自ら遠ざけてきた結果だろう。因果応報というやつに他ならない。葉子はそれを今更ながらに知った。
 単調に叩いていた彼の脚が突然折れて、健人は葉子を抱きしめた。
「好きなんだ。兄ちゃんに負けたくないんだ。俺は姉ちゃんとしてじゃない、女として葉子が好きなんだ」
 胸の鼓動が早鐘を打ち、それが健人に伝わっている様な気がして恥ずかしかった。
「健人に抱きしめられてもドキドキするんだ――」ポロリと葉子は口にした。
「今までは何とも無かったのに、今、ドキドキしてる」
「伝わってる。俺の右側がドクドクいってる」
 ぽつりと「どうしよう」葉子は呟いた。
「覆い隠していただけで、本当は健ちゃんの事、好き、だったのかなぁ」
 抱きしめる腕を強めた健人は、葉子の長い髪を撫でた。
「俺が告白した時に抱き付いたのとは、違う?」
「全然、違う」
 あの時は自分から抱き付き、健人は弟だ、と自分に言い聞かせていたんだろう。それも無意識のうちに。彼にとっては酷い仕打ちだったと、今更ながらに後悔した。
「ごめんね、健ちゃん。私、酷いことしてばっかりだった」
「いいよ。葉子の口から『好き』って言葉が引き出せただけで第一歩だ」
 健人は葉子を再び座らせ、葉子は服装を整えた。
「それでも葉子は、兄ちゃんの事も好きなんだろ」
 全てを見透かしたような笑みを浮かべ、葉子を見るので、葉子は頷く他なかった。
 晴人とは趣味が合う。痴話喧嘩も絶えないけれど、葉子を大事にしてくれているのはよく分かる。
 健人はいつでも優しく葉子を見守ってくれている。落っこちそうな葉子を、寸でのところで引き上げてくれるような存在。
 刺激的なのは前者であり、安心できるのは後者。葉子にはどちらも選び難かったし、捨てがたかった。
「兄ちゃんには全部話すから。葉子はゆっくり考えてよ」
 妙に余裕な態度で組んだ脚を戻して立ち上がろうとする健人に「ちょっと待って」と声を掛けた。
「スミカは?スミカはどうなっちゃうの?」
 今朝から一階に下りてくる気配がない。
「スミカは大丈夫だろ。仕事に行けば色んな人に囲まれて、また復活するって」
 そう言うと、葉子の顔を手に取り、髪を撫でた。キスをされるのではないかと身構えたが、それはなかった。
 健ちゃんは、そう簡単に手出しをするような人間じゃない。葉子はそう言う判断をした。
 それでも近づいた顔に、胸の鼓動が届きそうだった。
 やっぱり、好きなんだ。


20:VS

「兄ちゃん、ちょっといい?」
 隣の部屋のドアがノックされる音が聞こえた。
 葉子は、今日の昼間に健人との間で交わされた会話の内容が、晴人に伝わると思うと、胸が張り裂けそうに痛んだ。
 この日終ぞスミカは部屋を出てこなかった。

「どうした?」
「ちょっと話があって」
 ベッドに寝転がって雑誌を読んでいた晴人は「そこ座って」と椅子を指差した。
 眼鏡の位置を戻しながら椅子に腰かけ、早速口を開いた。
「葉子が好きだ。スミカとは別れた」
 意味が分からないと言った表情で目を見開く晴人に再び同じ事を繰り返し言った。
「いや、だって俺、葉子と付き合ってるし」
「知ってる。それでも兄ちゃんに負けたくないから、また告白した」
 手にしていた雑誌を畳み、晴人はマガジンラックへ放り込んだ。身体を起こす。
「で?葉子は何だって?」
「俺の事も好きなのかも知れないって」
 世界の秘密を聞いてしまった様な顔つきで「まじでか」と晴人は言い、「まじで」と健人は穏やかな笑みを浮かべて答えた。
 予想だにしていなかった事態に、晴人は髪をぐちゃぐちゃにしながら「うー」と唸った。
「でも俺の彼女って事には変わりはないんだよね?」
 何かに縋りつくような目で、健人を見遣る。
「そうだね。あとは彼女がどう動くか、だね」
 酷く落ち着き払っている健人が、恐ろしいぐらいの策士に見えてくる。何故こんな事態になった。俺と葉子は心も体も繋がっているのに?
 健人の事は弟としてしか見れないと言っていた筈の葉子が、何故心変わりをしたんだろう。
「俺も負けたくないし、とりあえず頑張ってみるけど、何すればいいのかも分かんないや」
 そう言う晴人に対し、フフッと健人は軽く笑って「俺も」と言い、椅子から立ち上がる。
「すべては葉子次第って事で」
 そう言うとスリッパの音を立てながら部屋を出て行った。

 すぐに晴人はベランダに煙草を持って出ると、ややあって葉子の部屋の掃出し窓が開いた。
「よっ」
「おう、そのカッコじゃ寒くない?」
 先日引っ掛けていたカーディガンを羽織っていたが、先日に比べて大分風が冷たい。
「大丈夫。寒くなったら部屋に避難するから」
「そうか」
 カーディガンのポケットに手を突っ込んで空を見上げる葉子の横顔を見た。
 何の変哲もない、平凡な、葉子。それに惚れた、俺たち兄弟。
 彼女の魅力は語りつくせない程沢山ある。俺が見つけた魅力と健人が見つけた魅力、どっちが多いんだろうか。
「健人に聞いた。心が揺れてるらしいね」
 顰めつらしい顔で煙草を吸うと、葉子は下を向いて少し笑った。
「その表現が的確だね。揺れてる」
 葉子は両の脚に体重を行ったり来たりさせた。揺れている、を表現したかったのだろう。
「でも今は俺の彼女だよね?」
 晴人は一番不安だった部分を、包み隠さず彼女に問いただした。また彼女は俯き、笑う。
「そうだね。でも正直な所、やっぱり晴人も健ちゃんも、どっちも好き」
 聞いていて苦しくなった晴人は、一つ咳払いをし、煙草に口を付けて思い切り吸い込んだ。
「どっちも好きってのは、小学校を卒業したらもう通用しなくなるんだよ。どちらにも手を付けたら『浮気』になるしね」
 顔を上げた葉子は弁明するかのように狼狽した顔つきをした。
「あ、あの、手なんて付けてないよ、健ちゃんに手なんて付けてない」
「手を付ける」という言葉の本質に、鈍い葉子が理解を示していてくれて良かったと思った。まだ健人とはセックスをする程の仲にまで深まっていないという事だ。
 思えば生きてきてこれまで、可愛がっていた健人に何かを譲ってあげた事なんて無かったかも知れない。
 晴人は、葉子へ好意を持っていたにも関わらず、健人に葉子への告白を勧めた。全てはここから始まっていた。
 こんな大事な物を譲ろうなんて、できっこない。してたまるか。
 灰皿に煙草を押し付けると何かが焦げるような独特の匂いが鼻を突いた。
 晴人は葉子のカーディガンをひっつかみ、自分の方へと抱き寄せた。
「俺の物でいてくれ、葉子」
 しかし葉子は所在なさ気な声で、「うん――」と答えるのだった。
 その日のセックスでは、彼女は悪態の一つもつかず、静かな物だった。
 それを見るにつけ晴人は、元には戻らないのかも知れない、と考えるのだった。
 葉子は、隙あらばセックス、という今の付き合い方に、疑問を抱いていた。
 確かに愛情表現としてのセックスは、恋仲には必要なのかもしれない。
 しかし、晴人が葉子の生理周期まで調べ上げ、コンドームを使わないでセックスをする事はもはや、彼の快楽に付き合っている様な物ではないか。そんな風に思ってしまう。


 土曜も日曜も殆ど部屋に籠りっきりで、誰もいない時間を狙って食料を部屋に運び込んでいたスミカは、月曜の朝も起きてこなかった。
 しかし、葉子らが出かけた後に起きてきたのだろう。出社した葉子はスミカの姿を見掛けた。
 だが、声を掛けようとすると顔を背けられ、これが健人との件と無関係ではない事は容易に想像がついた。

 週中になってやっとスミカが、いつも通りの朝を迎えていた。
「おはよ、スミカ」
 あくび交じりにスミカに言葉を掛けると、スミカは笑顔で「おはよ」と返してきた。
 いつもの、ハムエッグがそこにはあった。安心。
 対面の席についたスミカが、口を開くと同時に、二階から健人が降りてきて、スミカの姿を見て驚いたような表情をした。
「あのね、武とよりを戻したの」
「へ?」
「そういう事」
 変わり身の早さに唖然とした。ついこの前別れたばかりじゃないか。
 スミカもスミカだけど、武君も武君だ。
 それを階段の上で聞いていた健人は「良かったじゃん」と言いながら階段を降りて来た。
 スミカはいつものお人形のようの笑顔で「うん」と健人に笑いかけた。
 あぁ、スミカが、戻ってきた。


21:アナログ盤

 本格的に寒さが厳しくなってきた。
 住宅街にはクリスマスのイルミネーションを付けた家が点在し、年の瀬を嫌がおうにも感じさせる。
「去年は健ちゃんと私しかいなかったから、クリスマスパーティしなかったんだけど、今年はプラス晴人かな」
 葉子は指折り数えて見せた。
「スミカは彼がいるんだもんね」
 ソファに身を委ねて、晴人が応えた。
「この三人でクリスマスパーティするってのも何か、微妙な感じだね」
 クスっと葉子は笑ってクッションに顔を押し付けた。
 クリスマスを来週に控え、何をするか決めかねていた。
「とりあえず宅配のオードブルと、駅前のケーキ屋さんのケーキでしょ」
「酒と、健人用のソフトドリンク」
「あ、チキンだ、あれがないとクリスマスは始まらないよ!」
 葉子は手元にあるメモ帳に書き出した。リストが段々と長くなる。
「そのクラッカーっての、いらなくないか?俺ら、大人だし」
「まじでか」
「クラッカー」を二重線で消す。
「プレゼントは?みんなで交換?」
 ウキウキして顔を覗き込む葉子のおでこをペチンと晴人が叩いた。
「そういうのは恋人同士で交換するの」
「あぁそうかぁ」とヘロヘロの声で答える葉子に「健人には、何かあげるの?」と訊いた。
「分かんない。考えてない」
 急速に笑顔を萎ませる葉子を見るのが辛くて、何とか笑顔を取り戻させようとした。
「俺と健人にはプレゼント無し!こういうのは女の子の特権!だから葉子、俺にプレゼント買わないって約束ね」
 晴人は小指を立ててずいと目の前に寄こしたので、葉子は笑って小指を絡ませた。
「絶対買わないで」
「死んでも買ってやるもんか」


 クリスマスイブは晴人がケーキを買ってくる係りになった。
「中まで苺がびっしり入ってるやつじゃないとダメだからね」という葉子の要望に沿うショートケーキを調達した。
 チキンは健人が、三人で食べられそうな分量を買ってくるという事になった。
 葉子はいち早く家に帰って、宅配待ちだ。
 宅配が来て、リビングのテーブルに配膳していると、健人と晴人が同時に帰ってきた。
「すぐそこでばったり会ってさ」
 晴人は持っていたケーキを冷蔵庫に仕舞おうとして「葉子、いれる場所が無い」と困っていたので葉子は「野菜室に入れておきなさい」と指示した。
 健人が持っていたチキンは、まだそれなりに温かかったので、そのままお皿だけを替えてテーブルに出した。
 各々がお酒(健人はジュース)を持ち、乾杯をした。
「飾りも何にもないクリスマス会って、何かお食事会みたいですな」
 チキンをもぐもぐ言わせながら葉子が言うと、確かに、と二人が頷く。
「葉子がサンタのコスプレでもすりゃよかったんじゃない?ハンズに売ってるじゃん、ミニスカのやつ」
 隣に座る晴人の脚を思いっきり踏んづけると、「ごめんなさい!」と反射的に晴人の声が出た。
「まぁ、普段食べないような物食べて、いいんじゃない、これで」
 至極大人な意見を述べる健人に、残る二人は平伏すばかりだった。
 その後ケーキを切り、苺の位置がずれているだの、ケーキの大きさが違うだのと痴話喧嘩を繰り広げたのは勿論、葉子と晴人で、健人はただただ出されたものを平らげるという感じだった。
 葉子はもう少し健人とも話したいと思ったが、彼は遠慮しているのか、あまり口を開かなかった。
 全ての片づけを終えて、今年のクリスマスパーティは終了した。

「葉子?」
 ベランダから声がした。さすがにこの季節はカーディガンじゃ寒いのでコートを引っ掛けようとすると「部屋に来て」と言われたので、ドアから晴人の部屋に入った。
「さぁさどうぞどうぞ」ベッドに腰掛けるように言われ、煎餅みたいになった布団に腰掛けた。パイプベッドのパイプが恐ろしく硬く、冷たい。
「これが俺からのクリスマスプレゼント」
 渡された四角く平らな袋を開けると、一枚のアナログ盤が出てきた。
「ピストルズ?!」
 素っ頓狂な声をあげた葉子を見て、晴人はご満悦と言った表情だった。
「復刻版だけどね。部屋に飾るにはちょうどいいかなって思って」
 葉子は表も裏も、穴が開くほど見ている。
「これ、どっち向きに飾るか迷うー。毎日ひっくり返そうかな。罪作りなアナログ盤めぇ!」
 以前ライブチケットを譲った時の、あの笑顔だった。晴人が心動かされた、幼子の様な笑顔。
 晴人は部屋の電気をいきなり消し、葉子に飛びついた。
「ちょ、ちょっと待ってよ」
「待てないよ、今日はナマで出来る日なんだし」
 その言葉に葉子の何かが反応し、自分より大きい晴人をぐいと押しのけた。
「セックスセックスって、晴人はそればっかり。愛情表現だって言ったって、顔を合わせる度にそんなんじゃ、嫌だよ」
 葉子は渾身の力を込めて言葉を吐きだした。晴人もそれに応酬する。
「付き合ってる二人がセックスするのは普通だろ?今頃スミカもしてるよ。誰だってそうだよ。好きだからするんだよ。好きだけどしないなんて、蛇の生殺しもいい所だよ」
 葉子は拳を握ったまま暫く黙ってその場に立っていた。
「ごめん」
 蚊の鳴く様な声で呟いた葉子の声は、晴人には伝わらなかった。「へ?」
「ごめん、晴人のペースには付いていけない。恋愛経験が少ない私には、無理」
 そう言うと、アナログ盤を床に置いたまま、部屋を出て行った。
 晴人の部屋のドアが閉まる音しかしなかったところを見ると、そのまま健人の部屋に向かったんだろうと思った。
 晴人はベッドに横になった。暗闇の中、何かが崩れていく音がした。
 健人と――健人と葉子なら、ペースが合うのかもな。自虐的だと思いながらもそう思わずにいられなかった。
 そのうち二階からドアの閉まる音が聞こえてきた。
 晴人は置いてけぼりになったアナログ盤を、ベッドの宮に立て掛けた。
 あの笑顔は、もう、俺の元には戻ってこないかも知れない。


22:二人の距離

「健ちゃん、入っていい?」
 ドアの向こうから、来ないだろうと思っていた人物の声がしたので、慌ててドアまで走った。
「葉子、どうしたの?」
 葉子の顔は、泣き出す一歩寸前まで歪んでいる。それをどうにか堪えている様で、見ていられない。
「とりあえず、中入りなよ」
 健人の部屋の中ほどにあるカーペットにへたり込んだ。
 健人はパソコン用の椅子を前後逆にして跨り、床に座る葉子を見ていた。何か口を開くまで、静かに見ていた。
「健ちゃんは」
 一言目が自分の名前だったことに少し驚きつつも、頷いて先を促す。
「健ちゃんは彼女が出来たら、顔を合わせるたびにセックスするの?」
 あまりの直球に、健人は面食らったが、質問されて答えない訳にはいかない。
「セックスはするよ。だけど顔を合わせるたびって事はないな。俺は結構淡泊だから」
 黒縁眼鏡を人差し指でぐっと押し上げる。葉子はその仕草が好きだったりする。
「もう私は、晴人の性欲には付いていけない。もう無理って言って、部屋を出て来ちゃった」
 健人は無言で頷いた。自分を頼って来てくれるのは嬉しいが、理由がそれでは――何と言っていいのか分からなかった。
 健人は性的に淡泊な部類で、逆に旺盛な彼女と付き合った時には、それが原因で別れたりした事もある。
「ねぇ、葉子さぁ、裸で抱き合うのは、嫌い?」
 床に座ったままぽかーんと健人の顔を見上げている。「セックスじゃないよ」と思考を補助してやる。
「抱き合うのは嫌いじゃない。ただあの、挿入したり、いろんなとこ舐めたり、弄ったり、そういうのは、本当に時々でいいと思う」
 葉子とは相性がいい、と健人は直感した。
「例えば俺が今日、クリスマスプレゼントに、俺を裸で抱いてくれって言ったら、どうする?」
 それを考えるだけで、葉子の心臓が口から出そうになった。一緒に血液が顔に集中するのが分かる。
「抱く、と思う。あれ、女の人は抱かれるって言うのかな」
 それを聞いた健人が乾いた笑いをすると、葉子は硬くなっていた顔を崩し、笑った。椅子から降り、本棚の一角に置いてあった四角い箱を持って葉子の目の前に座った。
「葉子が今日、この部屋に来なかったら捨てようと思ってたんだけどね」
 紺色の箱を、葉子の手のひらに乗せた。
 葉子は呼吸を殺してその箱をそうっと開いた。
 中には、星が連なるピアスが入っていた。
「これ、ヒステリックのやつ!」
「お店で買うの、恥ずかしかったんだから」
 健人の顔を見ると、眼鏡の向こうの双眸が揺れていた。顔が赤い。
「健ちゃんありがとー!」
 そう言って箱を持ったまま健人の胸に飛び込んだ。健人は受け止め、そのまま強く抱きしめる。
「ほら、こうやって抱き合ってると、二人の間にパジャマやら部屋着があるでしょ。これが無い方が、二人の距離が数ミリ、少しだけ縮まるでしょ。俺は、そこまでで大満足な訳。挿入は、時々でいい。困ったら自分で処理できるし」
 葉子は彼の胸に顔を押し付けたまま何度も頷く。
「男はみんな、セックスの事ばっかり考えてるんだと思ってた」
 煙草を吸わない健人は、健人の匂いがする。葉子は更に身体を寄せる。
「男にも色々いるからね。男同士で済ませる人だって、やらなきゃ気が済まない人だって、金払ってまでやる人だって、千差万別ってやつだ」
 葉子は健人に抱かれたまま顔を上げると、上から優しく微笑む健人が見ていた。
「健ちゃんと晴人の差は、パンク好きかどうか、それだけって言ったでしょ」
「言ったね」
 健人はその言葉に、自分がどうしても手に入れる事が出来ない物があるんだと、一瞬あきらめに似た感情が沸いた事を思い出す。
「今はね、二人の差は、セックスに執着するかしないか、そこなの」
「どっちが葉子のお好みなの?」
 再び健人の胸に顔を埋める。
「健ちゃん」
 その言葉を耳にして大きなため息を吐いた健人は、「はぁ良かった」と口にも出した。
「ここまで来て、兄ちゃんの名前言われたらどうしようかと思ったよ」
 葉子の長い髪を撫でる感触が、いつも好きだ。
「兄ちゃんに行ったり、俺に戻ったり、そんな事、しないでね。俺はそれだけが心配」
「しないよ、大丈夫」
 何度か髪を撫でていた。静かな時間が流れる。
「ねぇ健ちゃん、今日はさ、一緒に寝ようよ。健ちゃんのベッドで、裸で」
 きょとんとした健人の顔を見上げ「ダメかなぁ」と顔を傾げる葉子が可愛くて、更に強い力で抱きしめ、「苦しい」と言われた。
「駄目な訳ないでしょ。一緒に寝ようよ」
 傍にあったベッドに入り込んだ葉子は、布団の中でパンティ一枚になった。
「健ちゃんもパンツは履いてていいよ」
 眼鏡の奥で健人は苦笑いした。まだ男と言う生き物を警戒しているのかも知れない、そう感じたからだ。
 部屋の電気を消し、ベッドの宮に眼鏡とプレゼントを置いた。
 健人にとって史上最高のクリスマスプレゼントは、裸になった葉子の温もりと、彼女の匂いだった。


23:二人のペース

 翌朝、二階の健人の部屋から一階へ降りると、まだ晴人は部屋から出ていなかった。
 朝ご飯の支度をしようとすると、あとから眠い目を擦りながら健人が出てきた。
「俺は何をすればいい?」
「じゃぁヨーグルト分けて」
 置いてあったプレーンヨーグルトを、三つのカップに分配する。
 ギギィと音がして、晴人が部屋から出てきた。
「おはよ」
「おはよう」
 何となく顔を合わせづらい葉子は、ハムエッグを焼くフライパンから目を離さなかった。スミカから上手なハムエッグの作り方を教わった。
「葉子、昨日はどこで寝たの?」
 答えが分かり切っている質問をぶつける晴人は意地が悪いと健人は思った。
「兄ちゃん、その話は後で俺としよう」
 晴人は苦虫をかみつぶしたような表情でダイニングテーブルに座った。

 朝食を終え、全ての片づけが済むと、三人とも示しを合わせたようにソファに座った。
 最近は晴人の隣に葉子が座る事が多かったが、今朝は健人の隣に葉子が座った。
「性的不一致ってとこだな」
 健人が第一声を上げた。
「性的不一致?」
 葉子は下を向いたまま顔を上げない。こんな話を大っぴらにしたくない。
「要は、兄ちゃんががっつき過ぎだったって事だよ。セックスに執着しすぎ」
 晴人の視線を痛い程浴びているのが葉子には感じられ、更に顔を上げづらくなった。
「男なんて大体そんなもんだろう」
「俺は違う。俺は執着しない」
 テーブルに置いたクッキーに手を伸ばし、口に一つを放り込んだ。
「そんな事が理由で、健人になびくのか、葉子は」
 葉子は「そんな事」と言う言葉に酷く反応した。
「そんな事って何?晴人にとってはそんな事かもしれないけど、私にとっては、重要な事なんだから」
「じゃぁパンク好きな人がいいってのは、もう関係ないって事なの?」
 晴人は勝ち目のない戦と分かっていても、反論せずにはいられなかった。
「あれは、パンク好きな人じゃなきゃいやだっていう隠れ蓑で自分を隠して、人との距離を取ってただけって、健ちゃんと話してて分かったの」
 一気にまくしたてた葉子は少し息切れをしている。晴人は項垂れて、何かを消し去ろうとするかのように頭を左右に振っている。
 健人はクッキーを食べる手が止まらない。
「何か、シェアハウスでこういう事があると、やりづらいな」
 頭をポリポリ掻きながら、苦笑する晴人に「俺の気持ちが分かったか」と健人が冷たく一瞥した。
「次は俺のターンだ。兄ちゃんが幸せだった分よりもっと多く、俺は幸せを手に入れる」
 放り投げたクッキーが口の中に吸い込まれる。
「私はこれまで通り、晴人に接してもいいんだよね?」
 二人を順繰りに見る葉子に「勿論」と晴人は頷き、健人もそれに倣った。
「隙あらば取り返す」晴人は強気で言ってみたものの、健人には勝てないような、そんな気がしていた。

「これで良かったのかな――」
 晴人は自室へ戻った。残ったのは横並びに座った健人と葉子だった。
「うーん、良かったかどうかなんて結論は、付き合っていく中でしか出てこないよ」
 そうだよね、と葉子はソファの背に凭れた。
「付き合ってみないと分からない、今回みたいな事も、あるんだもんね」
「そうだね」
 晴人の事は変わらず好きだ。趣味も合うし、楽しい。ただ、恋人として身体の関係を持ってしまうと、彼の性欲についていけない。
 たったそれだけ。たったそれだけなのに。
 健人には欲張った性欲というものがない。
 そんな事だけで、恋人を決めてしまった。
「そんな事」?葉子の中では重要な事だった。性的に繋がりあっているという満足感は時々で良いし、お互いの生活を考えて避妊もすべきだし。パジャマの壁を取っ払って抱き合って寝るだけでも、葉子にとっては最高のひと時だった。
 やっぱり晴人にはついていけない。


「シェアハウス内で、まぁくっついたり離れたり、ドラマみたいだね、全く」
 クリスマスに武との会瀬を愉しんできたスミカは、夕食のエビフライを食べながらそう言ったが、葉子は「スミカだってやってたじゃん」と思わない事も無かった。
「理由も理由だけどさ、性的不一致って」
 健人はちらりと晴人を見遣ったが、ガツガツとエビフライを口に運んでいる。
「まぁ、性に関してはひとそれぞれ考え方はあると思うしね。葉子と俺がこれから順風満帆にいくかどうかも未知数だしさ」
 健人は今度は葉子を見遣ったが、偶然顔を上げた彼女と目が合ってしまい、葉子は頬を赤らめて目を逸らした。
 スミカと健人はどうだったんだろう、と葉子はふと思った。彼らが一時期付き合っていた頃は、健人は性的に淡泊だったんだろうか。
 自分に合わせて淡泊を装っているとしたら――。
 健人に限ってそれはないとは思うが、やはり気になる。
 夕食が終わり、片付けが終わったスミカを捕まえて、葉子は自室に招いた。


 スミカは椅子に、葉子はラグに座った。
「ねぇ、スミカと健ちゃんが付き合ってた時はさぁ――」
 端的に訊いて良い物か、言い淀んでしまった。
「セックスの話?」
 いつでも歯切れの良い物言いをするスミカが羨ましいなと葉子は思う。
「そう。しょっちゅうだった?それとも時々だった?」
 スミカはフフフと笑った。「健人を疑ってる?」
「そういう訳じゃないけど――」
 窓の外を一瞥し、それから葉子に視線を移したスミカは口を開いた。
「二度しかしてない。俺はあんまりしないからって言った。私はてっきり葉子に未練があるからだと思ってたけど、本当に淡泊なのかって今回の事で知ったんだよ」
 葉子の頬が緩んだ。嘘じゃなかったんだ。
「でも世の中、健人みたいな人って少数派だと思うよ。大抵晴人みたいな人が多い」
 経験の多いスミカが言うと妙に説得力があり、「ほほう」と講演会でも聴くかのように納得している葉子がいた。
「私は健人ぐらいのペースが丁度いいと思うって言ってもまだ、その――してもないんだけどね」
「私はクリスマスイブとクリスマスで四回はしたかな」
 葉子は両手で耳を塞いだ。


 一月に入ったある夜、葉子は自室から健人に電話をした。
『どうした?』
「今からそっちに行ってもいい?」
『あぁ、いいよ』
 葉子は健人の部屋に行くと、目の前でドアが開き、健人が出迎えてくれた。
「ベッドに腰掛けていいよ」
 言われた通り、葉子はベッドに座った。横にあった枕を手に取り、抱きしめた。
「あのね、こんな事言って変な奴だと思わないでね」
 断りを入れた。健人は眼鏡の向こうで優しく微笑んで頷いた。
「健ちゃんの身体を、知っておきたいの。そんな風に思ったんだけど、変かなぁ?」
 健人は椅子から降り、葉子の隣に座った。
「葉子とは気が合うなと思うよ。俺もそろそろ、と思ってたんだ」
 長い髪を、大きな手で撫でる。まだ完全に乾ききっていない髪からは、シャンプーの香りが香った。
「淡泊だからって言われるとそれはそれでどれくらいのペースでやったらいいのか分かんないんだけど――」
 そう言う葉子を健人は両腕でギュっと抱きしめた。葉子が抱いていた枕は、床に落ちてガサっと音を発した。
「これから二人のペースを探していけばいいんだよ。そんなに難しく考えなくてもさ」
「うん、そうだね。健ちゃんは優しいなぁ」
 抱きしめていた力を緩め、健人は葉子の唇に短いキスを落とすと、立ち上がって電気を消した。ベッドの宮に眼鏡を外して置くコトンという音がする。
「隣はスミカがいるからね。声が出ない様に優しくするから」
 そう言って健人は葉子のパジャマのボタンに手を掛けた。


24:異変

 健人と付き合う前に取ったライブチケットがあり、健人の了承が降りたので晴人と葉子は二人でライブに行った。
 最寄駅のすぐ近くで、以前の様に「終電を逃した」なんて事にはならないからだ。
「ウォレットチェーン、どうする?」
 チェーンの先端を持つ晴人が、葉子を見下ろすように言うので、葉子は見上げる形で首を横に振った。
 一月も下旬に入り、外は痛いほどの寒さで、ライブハウス内は熱気を孕んでいるためか、気温差で葉子は体調が悪かった。
「ねぇ晴人」
 ざわつく場内で少し声を張り上げて晴人を呼んだ。
「なに?」
 葉子の顔の所まで晴人は顔を下してきた。
「ちょっとね、気分悪いんだ。多分気温差のせいだと思うんだけど。私、今日はあのドアの所にいるよ」
 場内の横にある赤いドアを指差した。
「大丈夫?」
 葉子は胃の辺りを擦りながら「悪い物でも食べたかな」とぶつぶつ言い、ドアへ向かった。
 ライブ中、葉子の様子が気になり、時々ドアの方を見遣ったが、葉子はライブどころではないと言った様子で、照明が当たる度にその顰めた顔が映った。

「体調悪そうだなぁ、風邪か?」
 晴人は葉子が気になっていて殆どライブに集中できず、汗もかかなかったので、持っていた乾いたタオルを葉子の肩に掛けてやった。
「風邪かもね。こんなに寒いんじゃ。昨日も遅くまでギターいじってたし」
 顰めた顔はなかなか元に戻らない。
「そこのベンチ座ってて。ロッカーの中身持ってくるからさ」
 晴人は足早にロッカーに向かった。葉子はベンチに腰掛け、壁に身を預けて晴人が来るのを待った。やっぱり体調がおかしい。
 二人分の上着と鞄を持った晴人が戻ってきた。葉子の肩に掛かったタオルを取り、紺色の上着を着せてやった。上からピンクのマフラーをぐるぐると巻く。
「ありがと」
 晴人は葉子の顔を見て心配を隠しきれない顔で頷いた。
 歩けないほどではないのだけれど、胃の辺りのムカムカが酷い。
「大丈夫?歩いて帰れる?タクシー呼ぼうか?」
 葉子は首を横に振った。「歩けるから」
 フラフラしながら歩く葉子を後ろから支えるようにして歩き、帰路についた。

「とりあえず今日はこのまま横になりなよ」
 身体を支えたまま、葉子の部屋に入った。ロフトの階段を上がり、葉子をベッドに寝かせた。
「明日休みだし、ゆっくり寝てなよ。スミカ達には明日の朝伝えておくから」
「うん、ありがとう」
 葉子はそれからしばらく、胃のムカムカが解消せず、ベッドで寝返りを繰り返していたが、やがて睡魔が襲ってきて、眠りについた。


「葉子が?」
「うん、ライブが始まる前から様子がおかしくて、結局ヘロヘロのまま帰ってきたんだけど。風邪かなぁ」
 三人で食卓を囲みながら話していた。葉子の分のハムエッグにはラップが掛けてあり、マグカップとトースト用のお皿は空だ。
「後で体温計持って行ってみるよ」
 どこにあるんだっけ?と訊いた健人は、スミカに「あの箱の中」と教えてもらった。

 体温計を手に、葉子の部屋のドアをノックした。返事はない。
「入るよ」
 一応告げた。もしかしたらまだ寝ているのかも知れない。それならまた後で来よう。そんな風に思っていたら、ロフトの上から「健ちゃん?」と蚊の鳴くような声が聞こえた。
「体温計持って来たよ」
 階段を上り、葉子が寝ているベッドの枕元に腰を掛けると、葉子は身体を起こした。
「風邪かなぁ。胃がムカムカするんだよね。起きたら治ってるかと思ったけど、だめだ」
 脇の下に体温計を差し込み、電子音がするのを待ったが、意外と早く音が鳴った。
「うーん、微熱ってとこだね。三十七度」
「微熱だね」
 体温計をケースに仕舞い、健人は葉子の背中を擦った。
「気持ちが悪い?」
「うん、そんな感じ」
「何も食べられそうにない?」
「普通のご飯は食べたくないな。下から上ってきたハムエッグの匂いにもウッってなった」
 健人は暫く無言で考え事をしていた。悪寒がした。
「変な事訊くけど、兄ちゃんと、ゴムつけないでセックスした事ある?」
「あるけど――うそ、そんな事って――」
 健人は背中を擦る手を止め、彼女を再び横たわらせた。前髪をかき上げるように撫で上げ、「ゼリー飲料みたいなのを買ってくるから、待ってて」と葉子に言った。

 葉子は妊娠しているのかも知れない。しかも、時期からも避妊の面からも俺の子供ではない。兄の子に間違いない。
 ドラッグストアでゼリー飲料と、妊娠検査薬を買って帰ろう。
 もし妊娠していたら――どうする?兄にはどう伝える?遺伝学的な父親は間違いなく兄だ。それを隠しておくか?

 まずは、彼女がどういう道を選択するか、が先決だ。

 ドラッグストアにつくと、カゴの中に数種類のゼリー飲料と、ピンク色の箱に入った妊娠検査薬を入れてレジに並んだ。
 クリスマスプレゼントを買うのは恥ずかしかったのに、妊娠検査薬を買うのは恥ずかしい事じゃないんだな、ふと思った。

「葉子、歩ける?」
「うん」
 検査薬を箱から出して彼女にそれを握らせ、一人でトイレに向かわせた。健人が一緒にトイレまで付いて行くというのも何だか変な感じだったし、リビングには晴人がいたからだ。
「大丈夫か?」
 兄の大きな声が聞こえた。
 それから暫くして、足を引きずるように葉子が部屋に戻ってきた。ラグにへたり込んだ。
「妊娠、してる――」
 悪夢が現実になった。これは風邪なんかじゃない、つわりだったんだ。
 葉子は事態に狼狽えていると言うよりも、茫然自失と言った状態で、何と声を掛けたらいいのか分からなかった。
「葉子は――葉子はどうしたい?」
 葉子はラグに身体を横たえようとしたので、頭を支えて健人の脚を枕にさせた。
「私のお腹に宿った命だから、私に会いにきたんだから、産みたい。けど――」
「父親が、でしょ」
 無言で頷く葉子の目には、涙が浮かんでいた。
「一つ目は、シングルマザーとして出産する。二つ目は本当の父親である兄ちゃんと育てていく。三つ目は――」
 涙が零れる寸前の双眸を健人に向けた葉子は「三つ目は?」と小さな声で訊いた。
「俺が父親になる。葉子さえよければそうしたい」
 葉子の目から涙が線となって流れ出た。
「お腹の子は、俺との血のつながりはないけど、兄ちゃんの血が流れてる。俺は兄ちゃんと半分は血が繋がってる。そう遠くないと思わない?」
 葉子は少し笑った。笑うとまた涙の量が増す。
 晴人とはやっていけない、そう心に決めて、健人と付き合うことを決めたのは、他でもない葉子本人だ。
 お腹の中の子供が晴人の子供であっても、晴人との将来なんて考えられない。
 かと言って、子供を父親なしで育てていく勇気はない。
 健人の気持ちが有難かった。だけどそれでいいんだろうか。健人は、自分と血のつながりが無い子供を愛してくれるのだろうか。不安だった。
「一日、考えさせて。その三つしか選択肢はないと思うから、一つ選ぶよ」
「分かった。皆には体調が悪いみたい、で通しておくから、ベッドで横になってなよ。何かあったら携帯鳴らして」
 葉子の携帯を掴み、葉子を支えるようにしてロフトにあがり、ベッドに横たわらせた。
「葉子の気持ちを尊重するから。おれは三つのどれになってもいいから」
 そう言うと健人は立ち上がろうとしたが、葉子が健人の手を掴んだ。
「健ちゃん、大好き」
 しゃがみ込んで健人は葉子の髪をかき上げ、触れるだけのキスを落とした。


25:拡散

「葉子体調悪いみたいだから、ハムエッグは俺が食べちゃうよ」
 リビングにいたスミカに言うと「食べちゃってー」と返事が返ってきた。
 ダイニングテーブルについて、レンジで温めたハムエッグを突く。
 スミカは手にしていた新聞をローテーブルの下に置き、ダイニングテーブルの対面に座った。
「葉子、どんな感じ?」
「胃がムカムカするんだと」
 むしゃむしゃとハムエッグを口に運ぶ。
「ねぇ、それってつわりじゃない?」
 健人の動きが止まった。思わずスミカの顔を見てしまった。
「図星。嘘がつけないタイプだね、健人は。晴人には内緒にしておくよ」
 健人は肯定も否定もせず、ハムエッグを食べた。
「夕飯も恐らく食べられないだろうから、三人分で良いと思うんだ。
「ごめん、今日私、武とデートだから、夕飯は佐藤さんが来るから」
 という事は、夕飯は兄と二人でとる事になる。
 いずれは言わざるを得ない話。すべきか、しないでおくべきか。


「じゃぁ、私はこれで」
 スミカの実家から来た家政婦の佐藤さんが、夕食にオムライスを作って帰って行った。
「兄ちゃん、夕飯だよ」
 あいよ、と声があって晴人が部屋から出てきた。
「二人で夕飯なんて、何か珍しい光景だね」
「そうだね」
 スープに口をつけ、少し晴人を見遣った。何か思案顔をしているのが分かる。
「なぁ、葉子、まさか妊娠したんじゃないよなぁ?」
 部屋にいる葉子には聞こえない様な小さな声で健人に訊ねる晴人は、健人の返事を聞く前から動揺していた。
「身に覚えがあるんでしょ、兄ちゃん」
 敢えて晴人を見ずにそう言うと、「んー」と返事に窮していた。
「避妊しないでセックスした事は糾弾しないよ。でも、生まれてくる子供の父親は、遺伝的には兄ちゃんでも、兄ちゃんと葉子が別れた今は、葉子が決める事だと思ってる。それでいいよね?」
 オムライスに掛かったケチャップを玉子の薄い膜にペタペタと塗りつけながら、再び「んー」と返事にならない声を出した晴人に、健人は苛立ちを隠せなかった。
「俺は選択肢として、一人を選ぶか、兄ちゃんを選ぶか、俺を選ぶかの三つを提示してきた。他に考え付かない。俺は、血のつながりが全てではないと思ってる。兄ちゃんと俺だって、半分しか繋がってないのにこうして仲良くやってる。俺は血が繋がってなくても、兄ちゃんの遺伝子を持ってる子供ならなおさら、きちんと育ててやる、そう思ってる」
 左手で頭をぽりぽり掻きながら「お前には敵わない」と晴人は言った。
「俺は葉子一人も幸せにしてやれるか分かんないもんな。その三つの選択肢に入れて貰えただけでも光栄だ」
 そう言ってオムライスを一口運んだ。
 結局、バードハウス内には葉子の妊娠を知らない者はいなくなってしまった。
 鈍い連中ではないという事だな、健人はそう思った。


26:責任

「葉子、入るよ」
 水色のドアを開けて、ロフトへ続く階段を上る。
 飲み終ったゼリー飲料のゴミが、ゴミ箱にいくつかあった。
「少しは食べられてるんだね」
「うん」
 葉子は力なく返事をした。
「明日会社だけど、休む?」
「行ってみる。ダメそうなら早退すればいいし。培養してる菌がいるから、出社しない訳にはいかないんだ」
「そうか」
 身体を起こした葉子は、深くため息を吐いた。
「三つの中の一つ、決めたんだ。聞いてくれる?」
 居住まいを正して、葉子の方を向いた。「どうぞ」
「シングルマザーになる。一人で育てる。健ちゃんが就職してもまだ私を好きでいてくれたら、お父さんになってくれないかなぁ?」
 健人は暫く考え込んだ。思い描いていた返事は三番だったのだから。
「どうして就職が関係あるの?」
 静かに訊いた。葉子は頭の中で考えをまとめるのに少し時間が掛かった。
「だってね、健ちゃん、就職する時にもう子供がいます、とか、嫁がいます、なんてちょっと恥ずかしいでしょ?」
 やっぱり、そんな事だと思った。健人は頭を抱えた。
「俺は――俺は葉子がどうしたいかを一番に考えるって言ったんだ。俺の事なんて考えないでいいんだ」
「でも――」
「でもじゃない。それに、その時まで好きだったら、だって?好きに決まってる。だから俺は葉子の子供の父親になる事を望んでる」
 隣の部屋から漏れ聞こえてくる音楽の他には何の音もしない。どちらも声を発しない。
 健人は葉子を抱き寄せた。自分の目に涙が浮かんでくるのを悟られたくなかったからだ。
「俺の事なんて心配しないでいいから。大切なのは葉子の考えだ。俺はどうなったっていい」
 震える声はなかなか制御できず、葉子は健人の背中を擦った。背中はとても暖かく、片手で擦るには広すぎるなぁと、葉子は大きく手を動かした。
「三つ目。健ちゃんがお腹の子のパパになって。そして私をお嫁さんにして」
 今度は声どころではなく、全身が震えた。健人の双眸から葉子のベッドシーツへぽたぽたと涙が零れ落ち、吸収されていった。震える健人の身体を抱き、頭を撫で、初めて健人の弱い姿を葉子は見た。愛おしいと思った。
「健ちゃんが博士号をとって大学を出たら、バードハウスから出よう。三人で小さな部屋を借りて、一緒に暮らそう」
 健人は声なく頷いた。そして身体を離し眼鏡を外し、近くにあったティッシュで目蓋を押えた。
「恥ずかしいなぁ、こんな姿を見せて」
 葉子はその姿を目に焼き付けておこうと思った。
「私の為に泣いてくれた男の人、第一号」
「第二号は?」
「子供が男の子だったら子供だね」


「葉子、妊娠してるみたいじゃん」
 スミカはソファに腰掛けて、対面に座る晴人の言葉を待った。
「そうだな、しかも俺の種だな」
 フンと鼻で笑ったスミカは「男は進化しないね」と言った。
「学習能力が無いんだよ。種を撒くだけ撒いて、それが芽吹く事を学習しない。ほんっと、バカな生き物だと思うよ」
「そして俺は芽吹いた新芽を、弟に持って行かれる」
 晴人は首の後ろをぽりぽりと掻いた。「参ったな」
「俺の子供が、俺の甥か姪になるって事だな。何か複雑だな」
 スミカは冷たい目で晴人を見据えた。
「原因を作ったのは晴人でしょ。まだ健人が子供の父親になるって決まった訳じゃない。最悪の場合、葉子はシングルマザーになるかもしれないんだよ?養育費払える?もう少し責任感を持った方が良いよ」
 クッションを顔に押し付けて「シングルマザーかよー」と悔しそうに口にした。
「シングルになるぐらいなら俺を父親として迎えてくれないかなぁ」
 ついにスミカは晴人から視線を外した。
「無理でしょ、確実に」


 その日の夜、葉子が一日ぶりにリビングに姿を見せた。顔面蒼白で、健人に支えられながらよたよたと歩いた。
「葉子!」
 スミカが目を見開いて彼女を見ると、葉子は力なく頬を緩めた。
「話があって出てきたの」
 健人は葉子に肩を貸し、ソファに座らせた。スミカと晴人は向かいに座った。
「まだ産婦人科に行った訳じゃないけど、妊娠してるみたい」
 周知の事実だったので、スミカも晴人も静かに頷いた。
「もし生まれる事になったら、父親は健人になってもらうつもり」
 晴人は予想通りと思い俯き、スミカは驚いていて口を出した。
「だって晴人の――」
「そう、晴人の子。だけど晴人と夫婦にはなれない。でも一人で育てていく強さを私は持ってない。健ちゃんに、パパになってもらうの」
 健人は頷きもせず、ソファに身を沈めたまま中空を見つめている。
「健人はそれでいいの?晴人の子を自分の子としていいの?」
 視線をスミカにやった健人は、片側の口角を少し上げて笑いながら言った。
「よくさぁ、両親を事故で亡くした子供が、おじさんやおばさんに育てられるっていうの、あるでしょ。あれと殆ど同じだと思うし、俺は本当に自分の子供として育てていく自信がある」
 スミカは黙った。そこまで決意が固いのなら仕方がないと思った。
 晴人は俯いていた顔を上げて葉子に視線を遣った。
「葉子、なんつーか、ごめん」
 本当に悪いと思った。それ故に視線を外せなかった。それ以外に言う言葉が見付らなかった。葉子の双眸を見つめると、葉子の顔が優しく崩れた。
「いいの。一生ママになんてなれないと思ってたし、健ちゃんと一緒になる口実も出来たし、パンクな遺伝子も載ってるかもしれないし」
 予想外の砕けた語り口調に、皆笑った。母は強し?ってやつか?晴人は許されない過ちを犯しているにも関わらず、どこか許されたような気がして不思議だった。

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27:永遠に白く

 翌年十月に、葉子と健人の子供、真人が生まれた。
 葉子の為に泣いてくれた男、二番目となった。
 この頃既に、健人は就職が決まり、博士号の取得も終了していた。
 バードハウスは俄かに賑やかになり、「伯父」となった晴人は、真人の夜泣きに毎晩付き合わされる事になった。


「そっかぁ、もう物件決めたのかぁ」
 ソファに身を沈めているスミカは悩ましげな顔でそう言った。次のシェア相手を探さねばならないからだ。
「駅からすぐの所のマンションだから、遊びに来てよ」
 真人を抱く葉子はすっかり母親の顔だ。スミカは人間って不思議だと思った。
 見れば見る程健人に似ている赤ん坊。遺伝的には晴人に似るだろうに。何故かどこか健人に似ているのだった。
「結婚式は?」
「健ちゃんが仕事を始めて、真人が歩けるようになったらやろうかなって話をしてるんだ」
 二階から健人が降りて来た。二人はある意味別居婚状態だ。
「あ、パパが来たよー」
 普段サバサバしているスミカも、真人に話しかける時は可愛らしい声を出す。
「抱っこする?」
「うん」
 健人に抱かれた真人は四か月を迎えていて、もう人の顔を認識するようになっている。
「あばぁ、だぁ」
「何言ってんだろうね」
 健人は不思議そうな顔で真人を見つめ、真人はまた意味不明な声を出した。
「パパ、臭いとか」
 そう言う葉子を健人は肘でつつき、真人は手足をばたばたさせた。少し広い健人の膝の上では、葉子といるよりものびのびと手足が動かせる。
「もう少しここにいたらいいのに」
 ばたばたと動く真人を見ながらスミカは言うが、葉子は首を振った。
「だって、もう別居婚はうんざりだよ。これでも一応夫婦ですから」
 そう言って自分より高い位置にある健人の肩に手を回した。
「お、真人だ、伯父さんだよー!」
 人一倍大きな声を張り上げて自室から出てきた晴人は、健人から真人を奪った。
 真人は健人の顔を見るなり顔を拉げて「うぅー」と目に涙を溜めはじめた。
「兄ちゃんと俺の顔ぐらい見分けがつくんだよ、真人は出来る子だからね」
 健人は晴人から真人を奪って「ねぇ」と声を掛けた。真人はまたバタバタと手足を動かし始めた。
 正直な所、晴人は複雑な心境だった。自分の遺伝子を半分持つ赤ん坊が、自分の弟の子供。弟と赤ん坊は血が繋がっていない。
 この赤ん坊は大きくなるにつれて、自分に似てくるだろうか?そんな事を晴人は思った。
 もう晴人には新しく恋人がいる。せめて彼女に、同じような辛い思いをさせない様に、同じことを繰り返さない様にしようと、心に誓っている。

 真人の、あの小さな体を形作っているのは、自分と葉子の遺伝子。
 真人を見て笑っていてくれるのは、葉子と健人。真人に「親」と認められるのは葉子と健人だけ。
 もう許されてもいいだろう。二人が笑ってくれるのなら、俺は許されてもいいだろう。

 バードハウスの外には、白く柔らかな雪が積もっていた。
 ダイニングの天窓も白ベールで被われている。
 この雪みたいに白いウェディングドレスに身を包んだ葉子の姿を目に焼き付けたら、俺は許される事にしよう。


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