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10:二十五年

 網戸にされた掃出し窓から、煙草の匂いがうっすら運ばれてきて、晴人が煙草を吸っている事に気づいた。
 葉子はロフトのベッドに入っていたが、未だ眠れなかった。
 先日の、健人からの急な告白が、まだ脳裏に焼き付いて離れない。
 彼の好意を無下に押し退けても、ルームシェアという特殊な関係に何らかの変化が訪れる事は予想できたから、あんな中途半端な断り方しかできなかった。
 それに――好きになってしまったのは彼の、兄だ。そこに嘘を吐いて、弟と付き合って行く事など、苦しくて出来ない。

煙草の匂いが消える前に、葉子は作り付けの階段を下り、ベランダへ出た。
 新月の今日、街灯と煙草の火だけが光っている。
「よー」
「何だ、起きてたのか。煙かった?」
「いやいや、何か眠れなくて」
 空き缶で作ったらしい灰皿には、ラモーンズやピストルズのステッカーが貼られている。
 そこに灰を落としながら目を細め、煙草を吸っている。
「暑かったねぇ、今日は凄い日焼けしちゃった。夏にバーベキューやるっていう考えが下手こいてると思うんだな」
「俺も火傷しちゃったよ。心の」
「――はい?」言葉がうまく脳に入って来ず、葉子は混乱した。
「頭の中も火傷しちゃったの?カオス?」
 ハハッと晴人は短く笑い、「心だけだよ」と言った。
「彼女と別れたんだ」
 葉子は息を呑んだ。「何で――」
「新しい男が出来たんだとさー。前から怪しいとは思ってたんだけどね」
 顔ではおどけて見せているけれど、目が、笑えていなかった。
 きっと必死で自身のプライドを支えるために、何ともないような素振りをしているだけで、本当は心に深いを負っているのであろう事は、葉子にも想像がついた。
「葉子にチケットを譲ったあの日はもう、その男と出来てたみたいだな」
 顔を顰めながら煙草を吸う晴人の横顔を見ていた。ベランダの柵に寄りかかり、上を向いて紫煙を吐く。
「辛い?よね」
 分かり切った質問だと分かっていながらも、それ以外に適当な言葉が見当たらなかった。
「まぁな。辛いけど、それを忘れさせてくれそうな人が他にいるから、きっと大丈夫だ」
 え、他にもいるんだ――葉子は落胆した。
 男女の付き合いって、こんなものなのか。
 一つ駄目になる時に備えてもう一つ。備えあれば憂いなし?健人もそうなんだろうか。
「うまく――その人とうまくいくといいね」
「うん、そうだね」
 こんな風に次から次へと手を変え品を変え恋愛をしているような男に、葉子は惚れてしまっていた。
 煙草の火が明るくなったり暗くなったりするのをじっと見つめて考えた。
 こんな人が相手じゃ、自分の思いは届くはずもないや――。
 諦めに似た感情が沸いた。

 ベランダの端に座った。何も言わず、すぐ隣に晴人が座ったので、葉子の顔が火照った。これは日焼けのせいだと自分に言い聞かせた。
「葉子は彼氏とか、いないの?スミカはいるみたいだけど」
 お手製の灰皿に灰を落とす。煙は葉子とは反対側へ流れていく。
「彼氏とかね、いないの。ずっと」
「ずっと?」
「ずっと」
 しばし沈黙が流れた。晴人は短くなった煙草をもみ消し、灰皿をそこに置いたまま、急いで一度部屋に戻り、再び新しい煙草を手に、戻ってきた。
「ずっとって一度も?」
「ないよ。二十五年間」
 晴人は呆気にとられた表情で、葉子を双眸で捉えていた。もう、葉子はそんな表情をされる事にも慣れた。
 彼氏いない歴と年齢がリンクしている事が、こんなにも驚かれる歳になってきたんだな、とは思う。それでもずっと彼氏がいない事が、恥ずかしくは、なくなっていた。
「好きになった人とかは?」
「そういう人には大抵彼女がいた」
 あぁそうか、と晴人はうまく言葉が探せずにいた。
「理想高いの?」
「そんな事無いよ、趣味が合えば大抵好きになっちゃうから」
 言ってから、しまった、と葉子は口を押えた。幸い、晴人がその言葉を気にしている素振りはなかった。
「葉子って、見た目ブスじゃないけど平凡だもんな」
 葉子は拳を握って晴人にパンチをした。ケラケラと笑われた。
「晴人の彼女だった人は、綺麗な人だった?」
 晴人は蒼黒い空を見上げて「うーん」と呻くように言った。煙草を一度吸って、吐いた。
「綺麗っつーか、クールだったな。あんまり笑わないし、アホな事しないし。誰かさんと正反対?」
 もう一発、拳を打ちこんだ。また晴人はケラケラ笑う。
 きっと誰もが羨むクールで美人な彼女だったんだろうと想像した。
 葉子は自分が平凡で、どこにでもいる女であることはきちんと自覚しているので、嫉妬心の一つも沸かない。
「忘れさせてくれそうな人は、どんな人?」
「そいつはアレだ、彼女と、あ、元彼女と真逆のタイプだな」
 返ってそっちの女に嫉妬心が沸いた。自分と同じようなタイプなのだから。
 いや待て、それでも見た目は綺麗なのかもしれない。それでは太刀打ちできないではないか。
 葉子は自分の頭の中で繰り広げられる妄想ワールドからなかなか抜け出せなかった。
 晴人は煙草を大きく吸った。
 どうやら鈍感な葉子は気付いてくれないらしい、そう思った。
 さすがに男と付き合った事が無いという言葉には驚いたが、何かしらこだわりの強そうな葉子だから、何となく分かる気がした。
 何せ目覚ましに「アナーキーインザUK」をかける女なんて、なかなかいない。
 コロコロ表情を変え、ゲラゲラ楽しそうに笑う葉子が、クールだった彼女の存在をかき消してくれればいい、そう晴人は思っていた。
 弟には告白を促しておいて、自分は何もできない。全ては思い通りに運ばないのだと、ここ最近実感するのだった。