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15:おあずけ

 仕方なく、だ。そりゃそうだ、着替えが無いんだから。
 仕方が無く心許ないバスローブに身を包み、洗面所で髪を乾かして部屋に戻った。
 晴人は、見てはいけない物を目の前にしたように、目線を明後日の方向へ向けた。
 好きな女のバスローブ姿?正気の沙汰じゃない。
「本当に床で寝るのか?」
「ん、寝る」
「じゃ、俺が床で寝る」
「私が床で寝るの!」
「勝手にしろ」
「はいはいそーしますー」
 下らない痴話喧嘩だ。いつもの二人のパターンだ。ライブに来ても、ベランダで駄弁っていても、朝ご飯を食べていても、この調子だ。
 なのに何故か、葉子の目からは大粒の涙が溢れ出てきた。
「おい、そんなに床で寝たいのか」
 葉子は頭を振った。そんな事じゃない。もっと、大切な事。嗚咽を殺して、何とか言葉を紡ごうとする。
「こんな風に、言い合いをしたくないの」
 話しながらも壊れた水道みたいに涙が止まる事が無い。
「本当は、本当は、晴人の事が好きなのに、そうじゃないみたいにしちゃうの、私」
 晴人は葉子の顔をじっと見つめた。バスローブの端で一生懸命涙を止めようとしている。
 言うなら俺が先に言いたかった。先手を取られた事が悔しかった。
 今度は突き放されないように、座る葉子ににじり寄って抱きしめた。
「俺もだ。俺も葉子が好きなのに、好きじゃないみたいになっちゃうんだ」
 葉子は一層嗚咽を強めた。今度は混乱から来る涙ではなく、うれし涙であってほしいと、晴人は思った。
 真っ赤にした目を晴人に向けて「本当に?」と顔を傾げた。声が掠れていた。
「本当だよ」晴人は彼女の揺れる二つの瞳をじっと捕らえた。
 その瞳が俄かに細くなり、「良かった」と囁くように葉子は声を出した。
 上を向いた唇に向けて、晴人はキスを落とした。きっと、彼女にとって、初めてのキスだろうと思った。
 葉子は豆砲玉でも食らったような顔をしたので、晴人は破顔してしまった。

 協議の結果、二人ともベッドで寝る事になった。
「触んないでよ」
 そう、釘を刺された。
 晴人はずっと疑問に思っていた事を口にした。
「なぁ、ピアノずっとやってきたのに、何でパンクにのめり込んだの?」
 天井をじっとみつめたまま、葉子は動かない。「笑わない?」
「私ね、中学に入ってすぐの頃、レイプされそうになったの」
 今度は晴人が豆鉄砲を食らう番だった。
「未遂だけどね。未遂で済んだのは、近くを通りかかったお兄さんのお陰で」
 軽はずみに訊いた質問が、こんなにダークな昔話になるとは、思いもしなかった晴人は、「話したくなかったら話さなくてもいいぞ」と言った。
「大丈夫。ここからが本題。その通りかかったお兄さんが、パンクなお兄さんだったの」
 あぁ、と合点がいった。助けてくれたのがパンクスだった、と。
「お兄さんと警察署に行って、その時お兄さんの胸についてた缶バッヂに『セックスピストルズ』なんて印象的な言葉が書いてあったから、ネットで調べたらバンド名だって知ってさ」
 それから芋づる式に関連する音楽を貪るように聴いた。
 同級生にはそういった音楽に精通する人間がおらず、不遇の中学時代を経て、高校生になり、高校時代はパンクスはいても、大抵パンクスな彼女がついていた、と葉子はジェスチャーを交えて説明した。
「だからね、趣味が合う男の人がいると、すぐ好きになっちゃうんだ」
「じゃぁ俺以外に趣味の合う男ができたら、どうする?」
 葉子は暫く沈黙をし、出した答えが「わかんない」だった。
「わかんない、じゃないでしょそこは。そこは『晴人以外にはいかない』とかいう所でしょうが」
 今まで恋愛をしてきていない葉子には、ノウハウがない。雰囲気を読むだとか、空気を読むだとか、そういう小難しい事が出来ないのだ。
「俺じゃないパンクなお兄さんに、ふらふらついてっちゃ、だめだぞ」
「うん」
 ベッドに入って初めて晴人の方を向いた葉子の顔を、彼は両手で押さえて、キスをした。今度は長く長く、息が詰まるほどのキスをした。
 そのままバスローブに手を掛けた。
「ちょーと待った!!」
「なんだよそこでストップかけんのおかしいだろ。逆転裁判かよ」
 痴話喧嘩のスタイルが再発。
「初めてだから」
「そらみんな初めての時ってのはあるだろ」
「そう簡単にさせない」
「なんだよそれ」
 ベッドの端の端の端の方へ葉子は身体を寄せ、布団を被った。
 晴人は自分の爆発しそうな息子さんに向かって「今日は無しだって」と囁いた。

 そのまま朝を迎えた。
 先に目が覚めた晴人は、横にいる葉子の寝顔を見ようと視線を向けると、あらぬ姿で彼女が寝ている事に気づき、思わず布団を掛けてやった。
 殆ど見えてるじゃないか――。
 掛けた布団が邪魔だったのか、いくらか瞬きをしながら葉子が目を開けた。
「朝だよ」
「朝?それおいしいの?」
「朝にセックスすると気持ちがいいんだよ」
 先程の彼女のみだらな姿が忘れられず、葉子に手を伸ばすと、バシっと叩き落された。
「あのねぇ、好きだけど身体はまだ渡さない」
「何だよ、言葉だけかよ」
「言葉だけじゃご不満?」
「あぁ不満だね」
「下半身でしか恋愛できない人間は猿か犬だ」
 葉子はそっぽを向いて、黙ったままはだけたバスローブを布団の中で直した。
 晴人は猿扱いされても仕方がないような状況だった(それは朝だから、というもっともらしい理由があるのだが)ので何も言えなかった。
 沈黙を破ったのは葉子だった。
「折角気持ちが通じ合えたと思ったのにな」
 初めて相手と心が通じあえた。
 良く考えてみればそうだ、晴人自身だって中学の頃、好きだった女の子に告白して受け入れられ、暫くはそれだけでお腹いっぱいではなかったか。
 ただそばにいる、それだけで、と何かの歌詞みたいだと、思いはしなかったか?
 彼女は今、そういう状況なのだ。それを無理やり「セックスしよう」と仕向けるのは酷い話だ。
「じゃぁさ、葉子が『今日なら』って日でいい。俺が煙草吸ってる時にでも、誘ってくれない?絶対乱暴にはしないから」
「今日なら、って日がなかなか来ないかもよ?」
「待ってるから」
「永遠に来ないかもよ?」
「さすがに待てない」