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23:二人のペース

 翌朝、二階の健人の部屋から一階へ降りると、まだ晴人は部屋から出ていなかった。
 朝ご飯の支度をしようとすると、あとから眠い目を擦りながら健人が出てきた。
「俺は何をすればいい?」
「じゃぁヨーグルト分けて」
 置いてあったプレーンヨーグルトを、三つのカップに分配する。
 ギギィと音がして、晴人が部屋から出てきた。
「おはよ」
「おはよう」
 何となく顔を合わせづらい葉子は、ハムエッグを焼くフライパンから目を離さなかった。スミカから上手なハムエッグの作り方を教わった。
「葉子、昨日はどこで寝たの?」
 答えが分かり切っている質問をぶつける晴人は意地が悪いと健人は思った。
「兄ちゃん、その話は後で俺としよう」
 晴人は苦虫をかみつぶしたような表情でダイニングテーブルに座った。

 朝食を終え、全ての片づけが済むと、三人とも示しを合わせたようにソファに座った。
 最近は晴人の隣に葉子が座る事が多かったが、今朝は健人の隣に葉子が座った。
「性的不一致ってとこだな」
 健人が第一声を上げた。
「性的不一致?」
 葉子は下を向いたまま顔を上げない。こんな話を大っぴらにしたくない。
「要は、兄ちゃんががっつき過ぎだったって事だよ。セックスに執着しすぎ」
 晴人の視線を痛い程浴びているのが葉子には感じられ、更に顔を上げづらくなった。
「男なんて大体そんなもんだろう」
「俺は違う。俺は執着しない」
 テーブルに置いたクッキーに手を伸ばし、口に一つを放り込んだ。
「そんな事が理由で、健人になびくのか、葉子は」
 葉子は「そんな事」と言う言葉に酷く反応した。
「そんな事って何?晴人にとってはそんな事かもしれないけど、私にとっては、重要な事なんだから」
「じゃぁパンク好きな人がいいってのは、もう関係ないって事なの?」
 晴人は勝ち目のない戦と分かっていても、反論せずにはいられなかった。
「あれは、パンク好きな人じゃなきゃいやだっていう隠れ蓑で自分を隠して、人との距離を取ってただけって、健ちゃんと話してて分かったの」
 一気にまくしたてた葉子は少し息切れをしている。晴人は項垂れて、何かを消し去ろうとするかのように頭を左右に振っている。
 健人はクッキーを食べる手が止まらない。
「何か、シェアハウスでこういう事があると、やりづらいな」
 頭をポリポリ掻きながら、苦笑する晴人に「俺の気持ちが分かったか」と健人が冷たく一瞥した。
「次は俺のターンだ。兄ちゃんが幸せだった分よりもっと多く、俺は幸せを手に入れる」
 放り投げたクッキーが口の中に吸い込まれる。
「私はこれまで通り、晴人に接してもいいんだよね?」
 二人を順繰りに見る葉子に「勿論」と晴人は頷き、健人もそれに倣った。
「隙あらば取り返す」晴人は強気で言ってみたものの、健人には勝てないような、そんな気がしていた。

「これで良かったのかな――」
 晴人は自室へ戻った。残ったのは横並びに座った健人と葉子だった。
「うーん、良かったかどうかなんて結論は、付き合っていく中でしか出てこないよ」
 そうだよね、と葉子はソファの背に凭れた。
「付き合ってみないと分からない、今回みたいな事も、あるんだもんね」
「そうだね」
 晴人の事は変わらず好きだ。趣味も合うし、楽しい。ただ、恋人として身体の関係を持ってしまうと、彼の性欲についていけない。
 たったそれだけ。たったそれだけなのに。
 健人には欲張った性欲というものがない。
 そんな事だけで、恋人を決めてしまった。
「そんな事」?葉子の中では重要な事だった。性的に繋がりあっているという満足感は時々で良いし、お互いの生活を考えて避妊もすべきだし。パジャマの壁を取っ払って抱き合って寝るだけでも、葉子にとっては最高のひと時だった。
 やっぱり晴人にはついていけない。


「シェアハウス内で、まぁくっついたり離れたり、ドラマみたいだね、全く」
 クリスマスに武との会瀬を愉しんできたスミカは、夕食のエビフライを食べながらそう言ったが、葉子は「スミカだってやってたじゃん」と思わない事も無かった。
「理由も理由だけどさ、性的不一致って」
 健人はちらりと晴人を見遣ったが、ガツガツとエビフライを口に運んでいる。
「まぁ、性に関してはひとそれぞれ考え方はあると思うしね。葉子と俺がこれから順風満帆にいくかどうかも未知数だしさ」
 健人は今度は葉子を見遣ったが、偶然顔を上げた彼女と目が合ってしまい、葉子は頬を赤らめて目を逸らした。
 スミカと健人はどうだったんだろう、と葉子はふと思った。彼らが一時期付き合っていた頃は、健人は性的に淡泊だったんだろうか。
 自分に合わせて淡泊を装っているとしたら――。
 健人に限ってそれはないとは思うが、やはり気になる。
 夕食が終わり、片付けが終わったスミカを捕まえて、葉子は自室に招いた。


 スミカは椅子に、葉子はラグに座った。
「ねぇ、スミカと健ちゃんが付き合ってた時はさぁ――」
 端的に訊いて良い物か、言い淀んでしまった。
「セックスの話?」
 いつでも歯切れの良い物言いをするスミカが羨ましいなと葉子は思う。
「そう。しょっちゅうだった?それとも時々だった?」
 スミカはフフフと笑った。「健人を疑ってる?」
「そういう訳じゃないけど――」
 窓の外を一瞥し、それから葉子に視線を移したスミカは口を開いた。
「二度しかしてない。俺はあんまりしないからって言った。私はてっきり葉子に未練があるからだと思ってたけど、本当に淡泊なのかって今回の事で知ったんだよ」
 葉子の頬が緩んだ。嘘じゃなかったんだ。
「でも世の中、健人みたいな人って少数派だと思うよ。大抵晴人みたいな人が多い」
 経験の多いスミカが言うと妙に説得力があり、「ほほう」と講演会でも聴くかのように納得している葉子がいた。
「私は健人ぐらいのペースが丁度いいと思うって言ってもまだ、その――してもないんだけどね」
「私はクリスマスイブとクリスマスで四回はしたかな」
 葉子は両手で耳を塞いだ。


 一月に入ったある夜、葉子は自室から健人に電話をした。
『どうした?』
「今からそっちに行ってもいい?」
『あぁ、いいよ』
 葉子は健人の部屋に行くと、目の前でドアが開き、健人が出迎えてくれた。
「ベッドに腰掛けていいよ」
 言われた通り、葉子はベッドに座った。横にあった枕を手に取り、抱きしめた。
「あのね、こんな事言って変な奴だと思わないでね」
 断りを入れた。健人は眼鏡の向こうで優しく微笑んで頷いた。
「健ちゃんの身体を、知っておきたいの。そんな風に思ったんだけど、変かなぁ?」
 健人は椅子から降り、葉子の隣に座った。
「葉子とは気が合うなと思うよ。俺もそろそろ、と思ってたんだ」
 長い髪を、大きな手で撫でる。まだ完全に乾ききっていない髪からは、シャンプーの香りが香った。
「淡泊だからって言われるとそれはそれでどれくらいのペースでやったらいいのか分かんないんだけど――」
 そう言う葉子を健人は両腕でギュっと抱きしめた。葉子が抱いていた枕は、床に落ちてガサっと音を発した。
「これから二人のペースを探していけばいいんだよ。そんなに難しく考えなくてもさ」
「うん、そうだね。健ちゃんは優しいなぁ」
 抱きしめていた力を緩め、健人は葉子の唇に短いキスを落とすと、立ち上がって電気を消した。ベッドの宮に眼鏡を外して置くコトンという音がする。
「隣はスミカがいるからね。声が出ない様に優しくするから」
 そう言って健人は葉子のパジャマのボタンに手を掛けた。