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6:雨

「で、それ以来、中村君は来なくなったんだね」
 スミカはリビングのソファに座り、アイスティを飲んでいる。
「昨日研究棟で顔を合わせたんだけど、挨拶だけして去って行った」
 アイスティ私も飲もうかな、と葉子はキッチンへ歩いて行く。
 ポットのお湯をグラスに少し注ぎ、ティーバッグを浸す。
 少し濃いめに色が出たら、氷と少しの水を足して完成。簡易的アイスティだ。
「しっかし何で私なんかに付きまとってたんだろうか」
 小首を傾げながら葉子はスミカの対面に座った。行儀悪く、両足をソファに乗せた。
「葉子は隙だらけだからね」
「隙?」
 氷がカランと鳴って崩れた。
「自覚してないだろうけど、自由そうにふわわんとしてて、男も女も関係なく仲良く出来ちゃう、そういう感じ」
 うーん、と呻きながら葉子はソファに身体を横たえた。
 「隙」という言葉について考えたことはなかった。
「それって悪い事だろうか」
「悪くはないよ、別に。ただ、そういう隙だらけの女を好んで『俺が守ってあげたい』とか言う輩もいるって事だよ。中村君のように」
 葉子は大きな口を開けて一度あくびをし、伸びをした。
「隙を見せてるつもりはないんだけどねー」
 ガチャっと玄関の鍵が開く音がした。ドアから入ってきたのは健人だった。
 今日は午前中少しだけバイト先に顔を出すと言っていた。
 開いたドアからは湿った草木のような、雨の匂いがした。
「お帰り健ちゃん」
「お帰り」
「ただいま。女子会?」
 ソファに集う女子二人に尋ねた。
「健ちゃんも一緒にどう?あ、アイスティ入れてあげるよ」
 葉子が立ち上がろうとすると、「私がやる」とスミカが制してキッチンへ向かった。
 葉子が一人でソファを占有しているので、自動的に健人はスミカの隣に座る事になり、足元に鞄を置いた。
「雨、結構降ってた?」
 健人のポロシャツの肩には、雨に濡れた形跡があった。
「強くなったり弱くなったりって感じかな。兄ちゃんは?」
 スミカがアイスティと一緒にタオルを持って来た。健人は「ありがと」と言って肩を拭いた。
「デートじゃない?朝早くに出かけて行ったし、お昼もいらないって」
「兄ちゃん、彼女いるんだな」
 スミカがいれたアイスティーをコクリと飲んだ。「おいしい」とスミカを見て微笑む。
 兄と葉子のやりとりを見ていて、健人は兄が葉子に惚れているのではないかと考えていた。
 葉子をライブに誘ったり、葉子の部屋に入って行ったり、些細な事で痴話喧嘩したり。
 だがそれは思い違いで、兄には付き合っている人がいるという事を知り、少し、安堵した。
「健ちゃんもさぁ、いい男なんだから、そろそろ彼女を紹介してよ、私らにさ」
 葉子はドヤ顔で健人に言うが、健人はスミカを見て「葉子って彼氏いるんだっけ?」と訊いた。
「いや、いないと思ったけど」
 スミカはニヤニヤしながら葉子を見遣った。
「つーことは、葉子も早く、彼氏紹介してよ、俺らにさ」
 したり顔で言う健人に、葉子はべーっと舌を出した。
「私みたいな平々凡々な顔つきの、平々凡々な性格の女に、そう簡単に彼氏なんてできませんよーだ」
 膨れっ面の葉子を見て、その可愛らしさに健人の胸が高鳴った。
 決して口には出さないが、葉子を自分の物にしたい願望が、徐々に膨れてきている。
「ただいまー」
 鍵が開く音とともに、晴人が帰ってきた。
「あれ、早いじゃん」
 葉子がソファから身を乗り出して声を掛けた。
「うん、ちょっと色々あって」
 速足で洗面所に入った晴人は、「朝は降ってなかったのにな」と言いながら濡れた頭をタオルでごしごしと拭いていた。
「え、傘は?」
 スミカが怪訝な顔をすると「持って行かなかった」と答えたので三人は呆れかえった。
「梅雨を馬鹿にし過ぎだ。三つ指ついて梅雨に謝れ」
 そう言う葉子に「そこ半分どけ」と言って、葉子の隣にドスンと座った。
「お昼、俺の分も作れそう?」
 スミカに訊くと「大丈夫」とキッチンから返事があった。
「スミカ様に謝れ」
「葉子が言うな」
「弁当買ってこい」
「だから葉子が言うな」
 ボカスカとグーで叩き合ったりじゃれ合ったりしている様子を健人は暫く眺め、すくっと立ち上がった。見ていられなかった。
「部屋、戻るから。昼飯出来たら呼んで」
 無表情でその場を立ち去った。その様を葉子と晴人は茫然と見ていた。
「何か、悪い事した?」
「仲間に入りたかったんじゃない?」
 小声でひそひそと身体を寄せ合って話をしているその二つの背中もまた、健人は見るに堪えなかった。
 兄ちゃんが、俺達の平凡な暮らしを変化させつつある。俺のささやかな幸せを、奪いつつある。彼女がいる、兄ちゃんが。


 午後になっても雨は止む気配が無く、珍しく全員が家にいた。
 葉子は自室でギターを爪弾き、晴人も自室で音楽を聴きながら漫画を読んでいた。リビングにいたのはスミカと健人だった。
 スミカはファッション誌を読み、健人はソファに寝転がりながらパソコン情報誌を読んでいた。静かな午後だった。雨音だけが、ダイニングキッチンの天窓に小うるさく叩きつけていた。
「スミカさぁ」
 静かに口を開いたのは健人だった。
「いつもご飯とか作ってくれて、ありがとね」
 雑誌から目を外さず、健人は言った。対照的にスミカは大きな目を更に丸くして健人を見た。
「どうしたの、何、急に」
「何か、当たり前の様に作ってもらってるのも何か、悪いなと思って」
 相変わらず雑誌から目を離さない。照れているのだろうと、スミカは察した。
「じゃぁさ、今度健人がお手伝いしてよ。一緒に作ろうよ」
 スミカは単純に嬉しかった。惹かれつつある健人に、少しでも自分の事を考えてもらえていた事が嬉しかった。
「今日の晩飯は何?」
「コロッケ。冷凍のだけど」
「じゃぁ手伝うから、声かけてよ」
 健人はゴロンとソファの背の方へ寝返りを打った。

 晴人と葉子の遣り取りを見ていて、疎外感を感じたスミカは、親友である葉子を陥れるような行為に至った。
 健人も今、同じように疎外感を感じている。しかも、相手は同じ二人。
 好きな女と、自分の兄だ。
 どうしても侵入できない大きな溝の様な物がある。歯痒かった。
 兄がシェアハウスに来る前は、こんな事は一度も無かった。
 ストーカーの中村とか言う男が家を訪ねて来たって、どうって事は無かった。
 中村が葉子に好意を寄せている事を知っていても、俺が彼女を守ればいい、そう思っていた。
 俺の兄には彼女がいる。それなのに葉子と妙に親しげに接している兄を見ていると、嫉妬と言うよりは怒りに近い感情を覚える。
 思えば、幼い時からそうだった。兄は自由奔放で、学校でも問題児扱いをされ、母はしょっちゅう学校に駆り出されていた。
 母は兄の事ばかりを心配をし、俺の事は二の次。
「健ちゃんはきちんとしているから大丈夫ね」と言った具合だ。
 俺は兄とは違い、勉学に勤しみ、それなりの結果を残してきた。しかし、どんなに頑張ったところで注目はされなかった。
 就職しない俺よりも、就職した兄に対して「晴人は大丈夫かしら」と心配をする。
 母が注目しているのは、兄ばかりだった。
 俺が欲しい物は、兄が掻っ攫っていく。単なる嫉妬でしかない、と冷静な自分は分析するが、心中穏やかではいられなかった。
「スミカなら、分かってくれるかも知れない」
 いつでも話の中心にいたいと思っているスミカが、この家に来て初めて疎外感を感じている。それは兄の存在が大きい。
 スミカなら、俺の気持ちをわかってくれるかも知れない。