inserted by FC2 system




 それは少し湿った空気が肌にまとわりつく夏の夕方。近所の公園にある、滑り台の前だったと記憶している。
 上から勢い良く滑り降りてきた朱里は、滑降の勢いで吹っ飛んできて、とつと止まり、くるりと俺に振り返る。「あのね」と大声をはりあげた。
「あかりは、きすけのおよめさんになるんだ。おうちはおとなりでしょ? おかあさんとおとうさんどうしも、なかがいいでしょ? けっこんしたらぜったいにしあわせになるとおもうの。どう?」
 まだ幼稚園の年長だった筈だ。俺は照れ隠しの如く小首を傾げて朱里から視線を逸らす。入道雲を抱いている遠くの空を見つめながら態とらしく大人びて「まぁ、べつにいいんじゃない?」なんて返事をした。
 そして俺の返事を、スカートが捲り上がる程に飛び跳ねて喜ぶ朱里の姿も、その日彼女が着ていたタンクトップの色も、写真みたいに鮮やかに、憶えている。

 隣に住んでいるのだ。小学校中学校は当たり前の事。しかし高校までもが一緒になるとは思ってもみなかった。
 中学三年の冬、教室を訪れた朱里に志望校を訊かれた俺は、この辺りでは一校しかない市立の高校の名前を口にした。
「なーんだ、また一緒か」
 朱里は何気なくそう言って、縁石に登って、下りた。。街灯に照らされた黒猫の尻尾のような彼女のポニーテールが、ぴょこんと跳ねる。
「大樹は私立に行くんだって。私んち、そんなお金ないし。あいつとも別れ時かな」
 朱里に惚れに惚れていた大樹は、三年の夏休みにやっと、朱里を自分の物にした。しかし朱里は大して大樹の事なんて見ていない。朱里はいつもそうなのだ。自分が好きになる物にしか目が行かない。人から好かれても、興味関心を向けない。だったら初めから交際を断ればよいのだが、朱里は余程の事がなければ断らない。だから、男は引っ切り無しだ。
「付き合ってるからって理由だけで、同じ高校に行くってのもまぁ、どうかと思うけどね」
「だよね、だよね」
 彼女が俺から引き出したかった言葉は、これなのだと判る。朱里の考えていることの七割位は、感じ取れるようになっている錯覚を起こす。良くない癖だ。

 結局、志望校に合格した俺達は、缶ジュースでお祝いをした。春になるにはまだ遠く、朱里はコーンポタージュの缶で両手を温めていた。
「また一緒になるなんて、何か嬉しいね」
 脳天気な笑顔で残酷な言葉を吐く朱里は、頭のなかが空っぽなのだと思う。敢えて返事をせず、飲み干したコーヒーの空き缶を、屑籠目掛けて投げつけた。




 高校に入学したら、部活動には参加せず、自宅に直帰、ゲーム三昧の日々を夢見ていた俺だが、入学式終了後の昇降口で、夢が潰えた。俺よりも十センチは背が高い、いかつい男子生徒に、肩を掴まれたのだ。
「君さ、バレーボールやってたよね? さっきあの子に訊いたんだけど」
 彼の親指が指す方向に居たのは、艶やかな黒髪を一つに結っている朱里だ。アイツはアイツで、バスケでもやるのだろう、女子生徒の輪の中に入って、名簿に何かを記入しているところだった。
「あ、でも俺、高校では部活入る気ないんでーー」

「俺達の勧誘はしつこいよ、とっても」
 ニヤリと笑ったその顔が、この世のモノとは思えずに、結果的に俺はその日のうちに、クラスと名前を記入して提出する羽目になっていた。
 かくして高校生活は、部活動が中心になっていった事は言うまでもない。
 勉強は二の次、もともと好きでやっていたバレーボール、割合苦にもならず、早々にレギュラー争いへ参加する事になった。
 朱里のせいだ、そう言ってしまえばそうなのだろう。しかしそれでも、最終的に答えを出したのは自分である。心の何処かで「朱里のお陰でまたバレーが出来る」と思いたい自分も顔をだすのだが、残念な事に、俺の心はそれ程広く構築されていない。

 鬱陶しい雨が、窓ガラスを叩く。窓際の席は他と比べて幾分湿気っぽく、不快指数が高い。コンビニのおにぎりを平らげた後、頬杖を付いてぼうと窓の外を眺めていると、睡魔が俺を覆い隠そうとする。手の平から頬が滑り落ちる瞬間、背後から名を呼ばれる。ふと顔を上げると、窓ガラスに一人の人間が写り込んだ。
「ぼーっとしてんの?」
 その声に聞き覚えが有り俺は「見て分かるなら聞くな」と一蹴する。心地よい転寝を妨げられた事に些か腹が立つ。
 前の席に人はおらず、そういえば中庭あたりでだべっていそうな女子生徒の筈だと思い出す。そこに腰掛けた朱里は、黒目がちの瞳で俺に視線を送る。
「ねぇ、部活楽しい?」
「何だいきなり」
 頬から手の平を取り去ると、ぐっと一つ伸びをした。朱里は腕組みをしながら俺の行動を目で追い、終始難しい顔をしている。大抵分かる。こうして何の脈略もなく、俺を訪ねて来る理由。彼女の中で、まず始めに相談すべき人間が、俺なのだ。それは嬉しくもあり、残酷でもある現実。
 いちばん近くで朱里の恋を見てきたんだ。だから知ってる。俺は「良き相談相手」。
「好きな人がいるんだ、バレー部にさ」
「誰」
「センターやってて背が高くって、かっこよくて、頭もいい人」
「あぁ」
 その「あぁ」には、理解の「あぁ」の他に、無念の「あぁ」も、諦観の「あぁ」も含まれている事に、朱里は気づいていない。当たり前だ、コイツは結構鈍い。
 俺のポジションはレフトだ。時々ライトに回る事もあるが、一度だってセンタープレイヤーになった事はない。無論、頭も良くなければ顔だって百人いたら九十番目位かも知れない。即ち、朱里が想いを寄せている奴は、俺ではない。ついでに言うと、センターをやっていて背が高く、見た目も良くて、学年トップクラスの成績を保っている男が、このクラスに在籍している事も理解している。彼は入学式で、新入生代表として宣誓をした男だ。
 そいつは最前列の席で、広い背をこちらへ向け、携帯電話をいじっている。向けた視線を、彼女へと戻す。
「で、俺にどうしろって?」
 腕組みを解いた朱里は、人差し指をぴんと立てると、咳払いをする。そして周囲を少し見回してから、更にもう一度咳払いをした。
「私とその人が仲良くなる場をセッティングしてください。もしくは女子バスケと男子バレーの交流会を開いて下さい」
「はぁ? 何でお前の恋愛だけのために俺がそんな事しなきゃなんねぇんだよ。いい加減にしろや」
 少し語気を強めるも、怯む様子がない朱里は、「そんくらいしてくれたっていいじゃん!」と机を一発、平手で叩く。
 驚いた数人の女子生徒が話を中断し、こちらに視線を寄越したが、すぐに各々のお喋りの世界へと戻って行った。
 朱里の言う事なら、思うとおりにしてやりたいという気持ちはある。だが俺にとって、朱里と俺ではない他の誰かとの恋路を応援する事は、なかなか酷烈である。然れども、是が非でも突っぱねる、という気も起きず、結局はずるずると彼女に協力する事になるパターンが多い。こうした俺の中途半端な優しさが、朱里との関係性を宙ぶらりんにしている事は、よく理解しているのだが。
「そんじゃ経過報告よろしく」
 校則よりも短めに揃えられたスカートを翻し、その場を後にする朱里の背中を、じっと見ていた。幼馴染だから、あんな態度に出るのだろうか。幼馴染じゃなかったら、俺に頼むだろうか。二人の関係はどうなっていたのだろうか。ドアの向こうに消えたのを合図に、視線を窓の外へと戻した。
 降り続く雨は永遠ではない。いつしかその音を止め、陽光により姿形を消失させられる。少なくとも、数日中には雨が止む。
 長く続けばいいという物ではないのだ。何事も。

「随分仲いいんだな」
 今日は来客が多い。そんな事を思いながら目の前に視線を移せば、そこには端正な顔立ちと清潔感に満ち溢れた短髪、学年トップクラスの成績を誇る、我がバレーボール部のセンタープレイヤー、吉野が座っている。先程まで最前列で携帯電話と睨めっこをしていた男だ。
「何が、誰と」
「いや、隣のクラスの増田朱里」
 只の幼馴染だよ、なんて言い飽きた。他に言葉は無いかと思考を巡らせるも、しっくりとくる単語に巡り合わないまま、「あの」と意味なく吐く。
「隣に住んでるだけ。腐れ縁」
「それって幼馴染って言うんじゃねぇの」
 確かにそうだ、俺は「そうそう」と数度頷き、「ただの、ね」と付け加える。
 吉野は短い前髪を二指で引っ張りながら「あの子いいよな」と宙に放る。
「いいよな、とは?」
「部活でも活躍してるみたいだし、可愛いし、俺あーいう活発な子、タイプだわ」
 無造作に置いたシャープペンシルを手にし、意味もなく回してみる。リズムよく回り始めたシャーペンが描く円を見ながら、継ぐ言葉を熟考する。考えた割に飛び出したのは、あまりにもストレートで、捻りのない言葉だった。
「そう。だったら告白でもしたらいい」
「何だそれ、随分直球だな」
 シャープペンシルを机に投げ出すと、俺は両手を頭の後ろにやり、背を反らせて伸びをする。好きなら好き同士、楽しくやったらいい。俺を仲介させないでくれ。互いが勝手に気付いて、勝手に告白して、勝手によろしくやってくれ。
 そう投げ出す勇気が在ったらいい。しかしもし俺がそういう性格の持ち主だったら、朱里と俺の関係性は今、どうなっていただろうか。

 結果的には放置すること無く、君と君の大好きな誰かの利に加担する。

「多分あいつ、お前に気があるぞ」
 目を丸くした吉野は「嘘つけ」言葉を吐きつつも先を促している様子で、俺は仕方なく先程の話をした。話しを進める度に、吉野の頬は上向きに上がり、逆に俺のテンションは急降下した。




 夜七時を回る頃になっても、まだ空は薄ら明るい。自転車で通り抜けていく部員に片手をひらりと上げて挨拶をしながら、歩いていると、後ろから聞き慣れた声が近づいてくる。
「輝助ってば!」
 振り向けば、当たり前のようにそこに朱里がいる。肩を上下させている所を見ると、走ったらしい。
「何、帰り?」
「帰り以外に何があんのさ」
 少し膨れ面を見せ、俺の隣に並ぶと、持っていたフェイスタオルで顔を仰ぐ。
「あっつ」
「好きな人とは、どうなってんの。何かアプローチしたのか?」
 吉野の顔が目に浮かぶ。バスケ部と体育館使用が一緒になると、隣のコートをぼうと見つめている時がある。朱里が吉野に気がある事は、俺が伝えて判っている癖に、吉野は自分から声を掛ける積りはないらしい。俺はそれ以上面倒を見てやる義理もないと判断し、二人の問題として放置している。
 ただ、その先が気になるのは、正直な所。
「まだ何も。まぁ、時々水飲み場で会うと挨拶したりするぐらいかな。あ、余計なことしなくていいからね」
「するつもりはない」
 再びぶうと膨れた顔をみるに、俺の行動に何かを期待をしているのだろう。だが俺は吉野に、朱里の気持ちを話した。それで俺の役目は終わりだ。どちらかが動けば、丸く収まる。
「ねぇ、ジュース飲んでこうよ、公園で」
「もう七時になるぞ。母ちゃん心配すっぞ」
 だが朱里はぺちゃんこの鞄から黄緑色の財布を取り出し「大丈夫、輝助と一緒だから」と笑う。またか、聞こえよがしにならないように、小さく溜息をつくと、俺もポケットから小銭を取り出した。

 流石に街灯は点いている。周回する虫の数々を「きもちわるっ!」と避けるように俺の隣に回りこみ、そのまま座る。プルタブを開けると、二酸化炭素が目に見えずに音だけを立てて、拡散していった。
「大樹の時はさ、別に好きでもないのに付き合っちゃったから、今回はちゃんと、好きになった人と付き合いたいんだ」
「何だいきなり。お前は誰と付き合うとこだって大抵そうだろ。俺、これ以上興味ない」
 そっけない態度は、興味の表れで、しかし鈍感な朱里はそんな事とはつゆ知らず、「酷い!」と目くじらを立てる。
「輝助にしかしないんだよ? こういう相談。輝助だからしてるんだよ?」
 嬉しくもない「あなただけ」のアピールにウンザリし、コーラを半分ぐらい一気に飲み込む。盛大にゲップをすると「うわ」と露骨に嫌な顔をされる。
「小さい頃はさ、何でも話を聞いてくれる輝助の事、好きだったのにな。輝助だって私の事好きだったでしょ?」
 口は半分開いたまま、コイツの頭のなかは一度修理が必要だと、俺の頭の片隅は修理計画を練るのに忙しい。
「お前は、馬鹿か。いつの話だ」
 好きだった、か。
 俺は今更嫌いになれるわけがなかったよ。
 朱里は全く分かっていない。朱里が好きな男と付き合っている時も、好きでもない男と付き合っている時も、俺は朱里の本心を大抵見抜いていた。本人には言わないが、近くにいすぎたのだ。俺は朱里の事が好き過ぎて、見たくない朱里の気持ちまで、トレーシングペーパー越しに薄っすらとでも、セロファン越しにはっきりとでも、見えてしまうのだ。

(続く)


頒布版と一部異なる場合がございます。

宜しければご感想、誤字脱字報告等お寄せください。
web拍手 by FC2