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 久野夫妻が住んでいる家がある駅は、所謂ターミナル駅だ。俺が通っていた中学、高校、大学はこの傍にある。大きな百貨店やショッピングモールがいくつか、駅に隣接して建っている。その中にある家具屋に行き、天板が硝子で出来ているテーブルと、マーブル模様のカラフルなラグを買った。年末年始のセールが開催されていて、送料が無料だった事も手伝って、食器をしまうちょっとした棚も買った。料理はせずとも、必要最低限の食器はフランスにいた頃から所持していて、今はミニキッチンの狭い調理台に置きっぱなしになっている。そういや智樹の家の食器はいつも片付いてるよなあと、あいつの家を思い浮かべる。俺の足は自然と久野家に向いていた。
 俺はフリーランスの仕事だ。定休がないから曜日の感覚が無い。今日がド平日である事はすっかり頭から抜け落ちていた。気付いたのは、俺らしからず、インターフォンをきちんと鳴らし(いつもは、ともきくーんと叫んでいた)、三回鳴らした所で腕時計に目をやり、木曜日という表示を見たからだ。まあ、少し待てば矢部君が帰って来るだろうと思い、俺は寒空の下、アパートの外廊下にしゃがみ込み、携帯でテトリスをしながら矢部君の帰りを待った。「来い、長四角!」などと呟いているうちにあっという間に三十分も経ち、階段を上る足音が聞こえてきた。
「塁?」
 俺は携帯から顔を上げると、ひょいっと片手を上げてみせた。
「遊びにきた。俺の分も晩飯ある?」
 矢部君は手に持っているビニール袋をヒョイと覗いて「大丈夫だと思うよ」と笑みを投げかけ、鞄から鍵を出した。

 考えてみれば、この部屋を訪れたのは、矢部君と智樹が同棲を始める日が最後。あれを組み立てて俺は帰宅したんだっけな、とストライプのベッドカバーに包まれたベッドを見る。あの日から、かなり長い間が空いている。俺は、どこか居心地の変わった智樹の家のテーブルにつくと、所在無げに視線を動かした。
「何、何か珍しい物でもあった?」
 冷蔵庫に食材をしまいながら矢部君は、俺の顔を覗き見る。
「いやあ、何かすんごく久し振りだから、落ち着かないし、矢部君のベッドがそこにあると、君達の愛欲にまみれた夜を想像してしまって俺は正気を失う」
 ばか、と一蹴した矢部君は、沸きたてのお湯で緑茶をいれて持ってきた。
「ねえねえ矢部君、緑茶って熱湯でいれない方が旨いって知ってた?」
 目の前にある、黄緑色の液体が入った茶碗をくるくると回しながら冷ましていると「じゃあ飲まなくて宜しい」とまた一喝される。
 あちちと言いながら俺は緑茶に口を付け、智樹の帰り時間を聞いた。今日は仕事納めの日だから、早く帰って来るらしい。
「その後、曽根山さんとは順調なの?」
 俺はその質問に歯を大きく見せて笑い、大きく頷いた。
「まぁまだデートらしいデートもしてないし、勿論セックスもしてないし、何しろ曽根ちゃんは今迄十五人の男と関係を持って」
「じゅうごにん?!」
 矢部君の素っ頓狂な声は恐らく隣の部屋まで響き渡っただろう。
「そう。俺は十六人目。でもきちんと交際という形になるのは、俺が始めてだって、照れながら言ってたぞ。それはそれはかわい」
「十五人は交際してないの?」
 俺の言葉を踏み潰すように畳み掛ける矢部君は、何だか必死の形相だった。
「まあ、あれだ、セックスフレンドって奴らしい」
 矢部君は頭を抱えるようにして俯くと「塁、大丈夫なのー?」と悲痛な声をあげた。
「大丈夫。俺は曽根ちゃんを好きだし、存外曽根ちゃんも俺を好いてくれてて驚いたよ」
 それでも心配そうに眉根を寄せている矢部君は、何だか変わらないなあと思い、深く安堵する。何かあったら久野夫妻を頼ればいい。そんな風に思える。
 鍵を開ける音が聞こえ、続いて「ただいまー」と低く響く声が聞こえて来た。
「お邪魔」
「おう、いたのか。何か塁がうちに来るのって久々だな」
 智樹はコートを脱ぎフックに掛けると、深緑のネクタイを片手でキュッと緩め、そのまま滑らせるように首から外した。鮮やか過ぎるその動きに俺は目を奪われた。俺らしいといえば俺らしい。
「発泡酒だけど、塁も呑むか?」
 勧められるがままに缶を手にし、智樹と缶を合わせた。
「どうだ、一緒に暮らし始めて」
「怖い位に何もかも順調だ」
 立てた膝下は恐ろしく長く、膝の上に小さな顔がちょこんと乗っている。俺はさっきまでブーツの中に突っ込んでいたカーゴパンツの裾のシワを直しながら「それは何よりだ」と心から言ったら、思っている以上に優しい声が出た事に驚いた。俺にも曽根ちゃんという恋人が出来て、心のどこかに余裕が生まれたんだろうと思う。
「ピアノの子とはどうなんだよ、順調か?」
 寒い中、なかなか進まない発泡酒に口を付け「順調だ」と頷いて見せた。が、炒め物を作る騒がしい音の中から、矢部君が「十五人のセフレ」の話を掻い摘んですると、智樹もさっきの矢部君と同じように眉根を寄せて「変なのに引っ掛かったな」と言うのだ。
「俺が今まで惚れたのは、智樹の嫁と、曽根ちゃんだけだぜ? 曽根ちゃんを否定すると、矢部君を否定する事にもなりかねないからな?」
 智樹は「なんだよそれ」と納得がいかない様子で小首をかしげ、訝しげな表情を見せた。それでも目の前に矢部君の手料理が並んだ瞬間、智樹は一気に目の色を変えた。俺は自分の話から注目が逸れて、一安心だった。
「毎日こんなに体に良さそうなもん食ってんだな。智樹、幸せだな」
 腹が立つ程のニヤケ顏を見せつけられる。ふと、曽根ちゃんは料理をするのだろうかと疑問がわいた。一人暮らし暦は浅いような事を言っていたけれど、あまり突っ込んで聞かなかった。ケーキを食べるための食器は少なくともあった。きっと「それなり」なのだろう。俺と同じで「生きていられる程度」であればいい、みたいな考えなのだと思う。あの怠そうな見た目が「料理がうまい」という言葉に、どうやっても結びつかない。
 矢部君の手料理は、日頃からコンビニ三昧の俺の胃には優しく暖かく、智樹と矢部君は同じ物を食べて胃袋の中まで同じなのだと思うと妬けてくる。誰にかと言えば......両人に。
「そういや、この前百貨店でおばさんに会ったぞ」
「まじでか。全然顔出してないや」
 おばさんとは、俺の育ての親みたいなものだ。小学校六年の時に両親を事故で亡くし、俺は父ちゃんの弟に引き取られた。それからはおじさん、おばさん、その娘二人とともに暮らしていた。三年前にフランスに渡ってからはそのまま一人暮らしを始めてしまって、何の連絡もしていない事に今更ながら気付いた。
「顔ぐらい出してやれよ。塁が長居に住んでるって言ったらびっくりしてたぞ」
 みそ汁をすすりながら「へいへい」と軽く返事をする。
「年内中に一度顔出しておくかな。ところでここんちは年末、何かやんの? どっか行くとか」
 智樹に目をやり、矢部君に目をやる。忙しいったらない。二人は目を合わせて首をひねり、そのタイミングが狂おしい程ばっちり合っていて、笑わずにはいられなかった。
「何笑ってんだよ。年末は何もないな。年始に北海道の実家に顔出すのと、君枝んちに挨拶に行くぐらいだな」
 そういえばこいつらは新婚旅行に行くとか言う話はないんだろうか。今のところ話題には上らない。行くならフランスでも推してみようと思ったのだが。
 みそ汁の椀に残ったねぎを箸でつまみ上げる。くたくたに煮てあるネギは、箸を支点として左右に折れ、くっついた。
「ねぇ、鍋パーティでもやろうよ! 曽根山さんも呼んで四人で」
 突如大声をあげた矢部君に驚き、俺のネギは一回転をした。
「あぁ、いいな、それ。この前の結婚式のお礼もきちんとしたいし。塁はどうよ?」
 俺は箸に残ったネギを口に突っ込み「曽根ちゃんに聞いてみないとわかんないもん」と口を尖らせる。「今すぐ電話しろ」と言われてしまい、俺はみそ汁を飲み干すと、曽根ちゃんの番号を呼び出し、電話をかけた。
『もしもし塁?』
「あ、曽根ちゃん。今電話大丈夫?」
 この時点で智樹が腹を抱えて笑いをこらえているのが目に入り、気に入らない。俺が好きな女に電話をかけているという光景が、きっと物珍しくてネタになっているのだろう。
『うん、私も今かけようと思ってたところ』
「何、どうしたの?」
『充が、この前いた奴、あいつが今からうちに来るって言うからその.....助け』
「今から行くから。鍵、開けちゃ駄目だよ」
 俺はそれだけ言うと電話を一方的に切り、夫妻に「ちょっと用事」と言って食後の緑茶を一気に飲み干して上着を引っ掴み、走って玄関を出た。曽根ちゃんの家までは電車で三十分はかかる。俺は一本でも早い電車に乗るために走った。
 こんなには走ったのは高校の野球部の引退試合、9回一死で一塁走者だった俺がワイルドピッチを見て二塁に走ったとき以来だ。さすがに息が切れて、矢部君が作った生姜焼きが喉のそこまでこんにちわしていたが、何とか飲み下し、電車に飛び乗った。
 電車がいちいち駅に停車するのが苛立たしく、俺は座っていられなかった。上谷戸駅に着くと俺はまた走った。こんな走りじゃボールを拾ったキャッチャーが二塁に投げて二死間違いなしだ。それぐらい、俺は疲れていた。アパートに到着した時は二十一時近かった。俺は階段をトントンと駆け上がり、上り切る寸前で曽根ちゃんが住む角部屋のドアに目をやった。
 走りすぎて幻覚が見えているのだと思った。思わずにはいられなかった。
 玄関の外に出た曽根ちゃんは、師走の空の下、薄い部屋着のままで玄関の前にいる。立たされているようにも見えた。腕をだらんと身体の横にぶら下げて、足なんて殆どつま先立ちだ。サンダルが斜めに浮いている。その身体を受け止めているのは富樫とかいう、スケボーの兄ちゃんだった。要は、富樫が曽根ちゃんを強く抱きしめていた、と言う事だ。
「あのー、曽根ちゃんに呼ばれて来たんですけど」
 俺の声にハッとして顔を寄越したのは曽根ちゃんで、つま先立ちの足をばたつかせると、サンダルが乾いた音を立てて転がる。富樫は腕の力を緩めて彼女を解放した。彼女が埋もれていた部分のダウンがくしゃっとつぶれていて、それがゆっくりと空気を含みながら戻って行った。
「何をしてんですか、人の彼女に」
 俺は階段を二段下がったところから言ったから、背の高い富樫を見上げるようだった。富樫はニットキャップを被った頭を少し傾げて「俺の女に手出ししてんじゃねぇよ糞ガキ」と言う。全く俺の目を見ようとしないが、俺は逆に富樫の目をじっと見た。彼の瞳には後ろめたさが露骨に見えて、目は口程に物を言うとはよく言った物だなぁと感心せざるを得ない。
 富樫は俺の横を、わざと肩をぶつけるようにしてすり抜けて行き、俺は寸でのところで手すりに掴まり、身体を支えた。身体もでかいけど力も強いようだ。俺なんてへし折られてしまいかねない。
「遅くなっちゃって悪いな」
 苦笑しながら階段をのぼりきり彼女を見ると、俯いたまま動けないでいる。俺はなんと声をかけたら良いのか分からなくて、とりあえず彼女が声を発するまで待った。何も起こらないまま五分は経過しようとしていた。彼女の薄着が気になって、俺は着ていたダウンを脱いで肩から掛けてやると、それを切欠に彼女は動いた。俺に凭れた。俺の胸の中で口を開いた。
「玄関、開けちゃった。ごめん」
 俺は自分の手の平を、目の前でぎこちなく開いたり閉じたりした後、彼女の頭をゆっくりと撫でた。さっきまで富樫に抱きしめられていた名残なのか、髪が乱れているのを手櫛で直してやる。
「理由は中で聞く。入ってもいい?」
 泣いているのか、寒いからなのか、一度鼻をすすると「うん」と言って俯いたまま玄関を開けた。部屋の中は暑いぐらいにエアコンがかかっていて、彼女が薄着だった理由が分かる。
「これ、ありがとう」
 ダウンをハンガーに掛けながらそう言う彼女はやはり顔を伏せたままで、目を合わせようとしない。俺はとりあえずラグに座って彼女の言葉を待つ事にした。
 彼女はやかんで湯を沸かし、大きさがちぐはぐなマグカップに紅茶を入れてくれた。大きい方を俺に、小さい方は曽根ちゃんに。
「どうしても会いたいって言われて。でも部屋には入れたくなかったから玄関の外に出て。そしたらあんな感じになって」
 淡々と起きた事を順番に話す彼女の目には何も映っていなかった。まるで異空間を見つめているようで、俺は口を挟むタイミングを計れなかった。
「放っておけなかったんだ。寒いし、寂しいって言うし」
「寂しい?」
 その言葉に何か引っかかる物があり、俺はやっと口を開く事が出来た。
「寂しいって何? 寂しいからって俺の彼女を抱きしめるって、そりゃちょっとおかしいよなぁ」
 俺は首を捻る。大きく息を吸った曽根ちゃんが握りこぶしを作るのが視界に入った。
「そうじゃないんだ、ただの寂しさじゃないんだよ」
 逆に富樫をかばうような言い方をする曽根ちゃんに驚き、「え?」と訊き返してしまった。
「普通の人には想像つかないんだよ。富樫、親がいないんだ」
 急速に目の前が狭くなって行く気がして、俺は一度目を強く瞑り、首を振った。再度目を開いた時には、何も映らない彼女の瞳が、こちらを向いていた。俺は、頭に浮かんだ言葉をパラパラと蒔いた。
「曽根ちゃんのお母さんに、知らない子が、さみしいよぉって抱きついてたら、曽根ちゃん、どう思う?」
「嫌だ」
「そう言う事だ」
 俺は大きなマグカップを手に持ち、紅茶を一口飲んだ。少し砂糖を入れたいと思ったが、我慢した。そのままマグカップを手にして、手の平を暖めた。それから隣に座っている曽根ちゃんの両手を持った。思った通り、手の平全体が氷のように冷たくなっていた。俺の手の平で挟み込み、何とか暖める。彼女の体温と俺の体温が均一化されるまで、俺はずっとそうしているつもりだった。
「あの男が孤児だろうがなんだろうが、今のところ俺は、曽根ちゃんをあいつに渡してやるつもりはないんだ。曽根ちゃんも、あいつのところに行くつもりがないんだったら、もう会うのやめなよ。あいつの事が気になるなら、俺の事なんて置いて行きなよ。欲張ると、いい事ないよ」
 挟んでいた手がだいぶ暖まったから、俺はそっと手を離す。
 すっと伸びて来た、離したはずの彼女の手は、俺の二の腕を掴んで、俺は彼女に引き寄せられる。彼女は俺の耳元で、もうすぐにでも泣いてしまいそうなか細い声で、呻くように言う。
「塁の事が好きなの。だから置いて行かない」
 俺のどこに魅力があるのか分からないが、とにもかくにも彼女は俺の事が好きらしいという事が再確認できた。俺は彼女を抱く腕の力を強めるが、そこから先、何をしたらいいのか分からない。背中に置いた手の平で、ゆっくりと、彼女の背中を撫でる。と、ビクンと跳ねるように動いたと同時に「いっ!」と声が上がった。
「どうした?」
 曽根ちゃんは跳ねるように俺から身体を離し、項垂れたまま指をこねくり回している。突如、くるりと俺に背中を向けた。何が行われるのか俺にはさっぱり分からず、身構える事もできないまま彼女の背中に視線をやっていると突然、着ていたTシャツをまくり上げ、彼女の白い背中が露わになった。
 白いのはブラジャーと元の肌だけで、そこにはコブシ大の赤黒い痣がいくつも出来ている。
「曽根ちゃん......」
 俺は大筋で理解した。テレビでしか見た事がなかったけれど、これがDVという物なのかと理解した。曽根ちゃんは、富樫に、暴力と懐柔で縛り付けられている。富樫は曽根ちゃんを、暴力と懐柔で縛り付けている。
 Tシャツを元に戻した曽根ちゃんは「分かった?」と悲しげな笑みを俺に向けた。そんな顔は初めて見たので、俺は自分の目がまん丸になるのが分かったぐらいだ。
「何人かいたセフレも、この痣見て、みんな離れて行った。まぁ、セフレなんて必要ない存在だけどね。富樫は会えばセックス、拒否れば暴力。彼氏が出来たって言った時は、殺されるかもって思うぐらい強く蹴られたし。でもさっきみたいに、優しく抱きしめてくれる事もあるんだ」
 口調は変わらないのに、ぼたぼたと垂れてくる涙に曽根ちゃん自身が驚いている様子だった。俺は目に入った箱ティッシュから数枚抜いて、彼女に手渡した。
「富樫って、何歳なの」
「十九」
 年下かよ! 俺は心の中で突っ込んだ。どう見ても俺より年上だろ。
「あのさ、年末に久野夫妻が、鍋やらないかって言うんだけど。四人で。どう?」
 場違いな誘いだとは分かっていた。今はシリアスパートだと言う事は理解している。だけどここから抜け出す術が俺にはないのだ。あの身体を見てすぐに、彼女を抱いてやろう、そんな風にも思えない。俺はとても無責任だと自責の念に駆られる。
 だけどそれも彼女の笑顔で吹き飛んだ。
「いいよ、行くよ」
 それは酷く歪に作られた笑顔ではあったけれど、彼女自身がその空気から逃れようと必死で作った笑顔なのだと思うと、甚だかわいくて仕方がないのだ。
「そうと決まれば、電話だ!」
 智樹の携帯を呼び出し、大晦日に鍋をやる事に決まった。それまでの二日間、富樫が来ても絶対に玄関を開けないという約束をした。が、その約束が守られる自信がなかった。彼女は完全に、富樫の術中に嵌まっている気がしてならないのだ。